金 正 日

抗日の女性英雄金正淑同志は朝鮮人民の心のなかに
永遠に生きておられる
咸鏡北道会寧市の革命事績事業を現地で指導した際の活動家への談話 
−2009年2月24日− 

 会寧市は、抗日の女性英雄金正淑同志が誕生して幼年時代を送った由緒ある革命の聖地です。

 やっと時間を割いたのですから、今日は私の母の銅像と生家、事績館を見て回るつもりです。

 会寧市に来て母の銅像を見ると、母がいっそう懐かしくなります。母は、あまりにも早く他界しました。母の一生は短かったですが、実に誇り高い生でした。私の母は、一家庭の母である前に、金日成同志の真の戦士、最も近しい同志であり、祖国の娘、人民の娘でした。幼い時に革命の道を踏み出した母は、生の最後の瞬間まで金日成同志のために、祖国と人民のために自分のすべてをささげました。母のように自分の領袖、自分の祖国、自分の人民のために一生をそっくりささげた母親はこの世にいないでしょう。母の一生は、金日成同志に対する忠誠の一生、革命のための闘争の一生、人民の幸福のための献身の一生でした。実に、母の一生は、偉大な革命家、偉大な母の一生であり、自分の領袖に限りなく忠実な親衛戦士の輝かしい一生でした。母の生が、かくも輝かしく誇り高いものであるがゆえに、今日も人民は母のことが忘れられず切々と追憶し、懐かしんでいるのです。祖国と人民、時代と歴史の前に不滅の業績を積み上げた母は、朝鮮人民の心のなかに永遠に生きておられます。

 会寧市にある母の銅像は最初は朝鮮のチマ・チョゴリ姿にしたのですが、軍服姿にしてこそ金正淑同志の革命的生涯にふさわしいという金日成同志の指摘があって軍服姿にしたのです。

 母の銅像はいま見ても遜色がありません。銅像を建てる時、私が心血を注ぎました。会寧市の銅像は、全国各地にある母の銅像のなかで一番よくできているようです。金正淑海軍大学にある銅像より良く出来ています。

 会寧市にある母の銅像は、位置もよく、すべてのものがほどよいと言えます。会寧市では、母の銅像を丁重に管理しています。

 母の銅像の前で私一人で撮った写真を残してもらいたいとのことですが、そうしましょう。そして、みんな一緒に写真を撮りましょう。みなさんが喜ぶのを見ると、今日、母の銅像の前で写真を撮らせようと私が会寧市に来るのを待ち望んでいたようです。

 金正淑同志革命事績館の館長が、故郷は平安南道殷山郡で、呉仲洽清津第一師範大学を卒業したのち、金亨稷師範大学の博士院を出たというのは結構なことです。私の母の故郷である会寧市に住む誇りと張り合いを持っていっそう仕事に励むと言いましたが、そうするものと信じています。

 寒い日に会寧市を訪ねて市の活動全般を指導してくれてありがたく思っていると言いましたが、今後、会寧市の幹部は、いっそう仕事に励んで党の信頼にこたえるべきです。

 会寧市では、真心を尽くして母の銅像を管理し、それを通じた教育活動を活発におこなうべきです。

 母の生家を訪ねてみると感に堪えません。私は母が懐かしくなるたびに会寧に来てみたかったのですが、仕事が山積していて時間を割くことができませんでした。1970年代に王在山革命史跡地の建設を指導した際、列車で会寧の地を何度か通り過ぎましたが、その時も時間を割くことができず、ここに立ち寄ることができませんでした。2001年と2002年にロシア連邦とロシア連邦の極東地方を訪問する時と帰国する時に列車で豆満江を渡りましたが、スケジュールに追われていたので、すぐ近くの母の生家に立ち寄ることができませんでした。

 母も故郷である会寧を訪ねることができませんでした。母は祖国に凱旋した後、戦友たちが何度も会寧に行ってくるようにと勧めましたが、そのたびに、いまは金日成将軍を補佐してなすべきことが多いのでふるさとの家を訪ねるわけにはいかない、のちに時間があるときに行ってみると言って先に延ばし、ついに訪ねることができませんでした。

 会寧の生家は、母への深い追憶を呼び起こす由緒ある家です。

 母は、貧しい家庭に生まれて幼年時代を送りました。母の一家は、あまりに貧しくて自分の家もなく、このように他人の家の一間を借りて暮らしました。いまの人たちは、このような家で偉大な革命家が誕生したと聞いても信じられないでしょう。

 母の家庭は、民族受難の時期に国と人民のために日本の侵略者に抗して戦った愛国的で革命的な家庭でした。このような家庭で生まれ育ったので、母は早くから朝鮮人民にあらゆる不幸と苦しみをもたらす敵日本帝国主義に対する憎悪の念が強く、金日成同志が導く抗日革命闘争の道に決然と身を投じ、パルチザンの女将軍として世に広く知られるようになりました。

 革命事績標識碑に、母が1917年12月24日この家に生まれ、国を失った民族の悲しみと血と涙の生活のなかで愛国の大志を育んだと書かれています。

 もとより母の一家はパルウル川のほとりに建てた掘っ立て小屋に住んでいたのですが、母が生まれる2年前にこの家に移り住み、間借りした部屋にもう一部屋建て増ししました。母の一家は、村の人たちとも仲がよかったそうです。母は5歳の時に両親とともにこの家を出て北間島へ行きましたが、多分、その時独立運動に身を投じた父親が日本警察からひどい迫害を受けた上に、わずかな小作地まで全部取り上げられ、仕方なく豆満江を渡ったのだと思います。

 生家の教育の場の周辺に植わっている木はモミのようです。

 母の生家の前で私一人で写真を撮って残してもらいたいとのことですが、そうしましょう。

 母の生家は、母の偉大な足跡が記されている歴史的な家です。会寧市では、母の生家をよく保存、管理し、それを通じた教育活動を活発におこなうべきです。

 講師が寒いので私が風邪を引くのではないかと心配しています。大丈夫です。

 金正淑同志革命事績館を母の生誕65周年に際して1982年8月25日に開館したのはよいことです。

 事績館1号館にある大型朝鮮画『解放の春』が結構です。「抗日の女性英雄金正淑同志の革命活動主要路程図」をナイロン織物でつくり、母の革命的生涯を13段階に分けて標示していますが、結構です。母が白頭山密営と平壌市、清津市で活動した路程図は別になっています。国家科学院地理学研究所の研究士たちが、母の生誕90周年に際して「抗日の女性英雄金正淑同志の革命活動主要路程図」をつくって送ってきたのはよいことです。

 2号館には、母が会寧に生まれて幼年時代を送ったという内容と、北間島で暮らしていた時に革命闘争の道を踏み出したことに関する資料が展示されていますが、母の幼年時代については、いましがた生家で聞きました。ここには、母が符岩洞に住んでいた時に地主の家で使用していたひきうすもあります。

 4号室には、母が遊撃区を守るための闘争の先頭に立ったという内容と、三道湾遊撃区で初めて金日成同志に会った資料が展示されています。母は1935年3月に三道湾能芝営で初めて金日成同志に会って喜びを禁じえず、金日成同志だけをあくまで信じて戦う決意をかためました。

 5号室には、母が10代の年少の身で朝鮮人民革命軍に入隊し、銃を取って親衛戦士として活動した資料が展示されていますが、母が朝鮮人民革命軍に入隊したことは母の革命的生涯において一つの歴史的転機となりました。母が金日成同志が直接組織し指導した朝鮮人民革命軍に入隊したことによって、祖国解放の聖戦に参加したいという母の願いがかなえられ、金日成同志の思想と路線を身近でたいすることができるようになりました。

 6号室には、母が白頭山根拠地創設の時期に立てた偉勲に関する資料が展示されています。母は、撫松県城進攻戦闘の際、山ひだで金日成同志を命を賭して守りました。金日成同志はその時のことを回顧して、あの日指導部のメンバーは英雄的に戦って山ひだを守り抜いた金正淑同志をはじめとする女子隊員によって救われたと述べています。

 スローガン入り樹木の保存・教育室の保存箱にあるスローガンの色があせているようです。会寧市で発見された112点のスローガンのうち18点は抗日革命闘士たちが書いたもので、94点は革命組織メンバーが書いたものだとのことですが、多くのスローガンが発見されたものです。

 9号室には、母が金日成同志の高い志をたいして、延社、茂山地区で活動した資料が展示されています。ここに張哲九同志の写真もあります。

 10号室には母が小部隊活動の時期に金日成同志の健康と安寧を守るためにたたかった資料が展示されています。母が1941年3月1日に他郷で春を迎えて金日成同志と一緒に撮った写真は本当に意義深い写真です。

 13号室には、母の建軍偉業における業績に関する資料が展示されていますが、私が両親とともに第1中央軍官学校の第2回卒業式に参加した写真もあります。母は、わが国の革命武力の強化発展に深い関心を払い、金日成同志の軍建設路線を貫徹するために心血を注ぎました。母が建軍史に残した功績は実に大きなものです。

 14号室には、母が経済と文化、教育、保健医療部門の活動を指導した資料が展示されていますが、1947年9月に私が両親とともに鏡城へ行った時に撮った写真もあります。

 16号室には、母の細心の配慮のもとにつくられ、万景台革命学院の院児たちに贈った最初の制服が展示されています。母は、しばしば万景台革命学院を訪ねて院児たちとともにひとときを過ごし、実の親のように彼らの学習と生活に深い関心を払い、革命家の遺児たちを金日成同志に限りなく忠実な真の革命家、朝鮮革命の血筋をしっかり受け継いでいく中核に育てるために真心を尽くしました。

 17号室には、母が生涯の最後の瞬間まで金日成同志に忠実に仕えた資料が展示されています。私が、母の生誕80周年を迎えて送った写真もあります。母は、つとに革命の道を踏み出した時から生涯の最後の瞬間まで金日成同志のために、祖国の解放と革命の勝利、人民の幸福のために一生をささげました。

 金正淑同志革命事績館の参観者の数が、年に20万人なら多いと言えます。

 今日、金正淑同志革命事績館を見て回ったところ、母の革命活動の資料と事績遺物がたくさん展示されています。金正淑同志革命事績館の写真集は前に見ました。

 事績館の内容は結構ですが、建物はほめたものではありません。建物が大きすぎるし、階の高さも高すぎます。この建物は事績館のような感じがせず、文化会館のような感じがします。事績館のホールが高いので、天井を見上げていると首が痛くなりそうです。

 事績館の各室の窓も多すぎます。建物の階の高さが高く、各室に窓が多いと室温を保つことができません。会寧市のように寒い地方ではなおさらです。この事績館では15台のエアコンで温度を調節しているとのことでしたが、そうしても窓が多いので温度を保つのは難しいでしょう。最初に事績館を建てる時に暖房の問題を考慮にいれなかったようです。

 この事績館は設計がまずいです。会寧市のような小さい都市に比べて大きすぎるし、整備が行き届いていません。バランスもとれていません。外国のものを真似て事績館の設計をおこなったようです。設計家が見ても、この事績館の設計がまずいということがわかるでしょう。もともと、母の銅像のそばに会寧革命事績館を小さく建てましたが、母の残した業績が大きく、人民が切に望んでいたので大きく建て直したということですが、当時は革命事績館は当然大きく建てるべきだと考えていました。この事績館をもう少し小さく建設していたら、学校をもう一つ建設することができたでしょう。

 今後、革命事績館を建設する際には、設計に力を入れ、計画を綿密に立てたうえで建設すべきです。事績館には、窓をたくさんつくる必要がありません。国際親善展覧館には、窓がありません。窓が多いと室温を保つのも難しく、日が射して事績資料や事績遺物がだめになるおそれがあります。

 事績館を建設する際には、外国から高い資材を買い入れたり、むやみに大きく建設することも警戒する必要があります。いま、てんでに事績館や革命事績教育室を建てるのだと言って、外国から資材を買い入れて競って建設をおこなう傾向が見られますが、そういった傾向があらわれないようにしなければなりません。

 いたずらに事績館を大きく建てると多くの資材を浪費することになります。この事績館の建設にも多くの資材と資金が費やされたはずです。

 事績館に資料を展示し、事績遺物を配列するといった学術的な問題は、党中央委員会党歴史研究所の規定に従って処理すればいいでしょう。

 今日、私がこの事績館を大きく建て、窓をたくさんつくったことについて指摘したからといって改築する必要はなく、そのままにしておくべきです。今後、事績館を建設する際に参考にすべきです。

 事績館の教育課長がチマ・チョゴリを着ていますが、寒そうです。参観者は防寒着を着ているので大丈夫ですが、あなたはチマ・チョゴリを着て一日中講義すれば寒いはずです。館長はコートを着ているので少しはましかもしれませんが、それでもこの地方ではコートよりも厚い防寒着を着るべきであって、そのようなコートを着ていてはいけません。何年か前に両江道革命戦跡地の講師たちに防寒着をはじめ毛皮のブーツまでひとそろえ送りましたが、彼女らはみな喜びました。みなさんにも厚い防寒着を送りましょう。

 会寧市では、金正淑同志革命事績館をさらに整備し、それを通じた教育活動を活発におこなうべきです。多くの人が事績館を訪れるのですから、彼らにわが党の革命伝統と抗日革命闘士たちの崇高な領袖決死擁護の精神と百折不撓の革命精神についてわかりやすく解説すべきです。

 歳月が流れて世代はかわりましたが、白頭で始まった我々の革命偉業は終わっていません。我々はいま、帝国主義者との激烈な対決の中で、先軍の旗印を高く掲げて社会主義強盛大国を建設するために奮闘しています。情勢が複雑をきわめ、我々に提起されている革命課題が膨大であるほど革命伝統教育はいっそう重要な問題として提起されます。各級党組織と勤労者団体組織は、党員と勤労者、青少年に対する革命伝統教育をいつにもまして強化すべきです。

 みなさんは金正淑同志のように領袖に忠誠を尽くすと言いますが、そうするものと信じています。みな仕事に励んでください。

出典:朝鮮民主主義人民共和国サイト「朝鮮の出版物」


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