金 正 日

社会主義に対する誹謗は許されない
朝鮮労働党中央委員会機関誌『勤労者』に発表した談話
-1993年3月1日-


 社会主義に反対する帝国主義者と反動派の策動がかつてなく悪らつになっているなかで、社会主義を誹謗する詭弁が数多く流布している。社会主義の敵は、社会主義を「全体主義」「兵営式」「行政命令式」だと誹謗し、まさにそのために社会主義が挫折したかのように事態をねじまげている。

 「全体主義」「兵営式」「行政命令式」という非難は、地球上に社会主義が出現した当初から帝国主義者によって悪らつに繰り返されてきた反社会主義的悪宣伝と本質上なんら異なるところがない。

 帝国主義者は、社会主義が自由も民主主義もない非人間的な社会であるかのようにいってきた。社会主義に反対する帝国主義者の悪宣伝を表現だけ変えて繰り返しているのが、ほかならぬ「全体主義」「兵営式」「行政命令式」という非難である。

 つとに封建専制主義に反対し、自由と平等、人権を主張した民主主義の理念は、資本家階級によって資本の搾取と従属を強要し弁護するブルジョア民主主義に変形された。帝国主義者は、ブルジョア民主主義に「自由民主主義」という衣を着せ、それを粉飾するためあらゆる策動を弄したが、その欺瞞性と反動性を覆いかくすことができなかったばかりか、人民大衆の心のなかから真の自由と民主主義を保障する社会主義への志向と憧憬をかき消すことができなかった。

 ところが近年、社会主義に対する帝国主義者の悪宣伝の反復である「全体主義」「兵営式」「行政命令式」といった詭弁が社会主義諸国の人民のあいだに思想的混乱を引き起こした。階級の敵はこうした思想的混乱をあおり立て、民心を惑わせて社会主義を崩壊にまで導いた。多くの国で社会主義が崩壊したのは、帝国主義者と反革命勢力の共謀結託の産物であり、帝国主義の思想的・文化的浸透と右翼日和見主義思想の腐食作用の結果である。ここで決定的な作用を及ぼしたのは、内部に生じた社会主義の裏切者の反革命的策動である。帝国主義者は社会主義を圧殺するため、早くから侵略と圧力、封鎖と懐柔などあらゆる破壊策動を直接行う一方、共産主義運動および労働運動の上層部にあらわれた革命の堕落分子、裏切者を手先に利用してきた。国際共産主義運動の歴史が示しているように、共産主義運動に起こった思想的混乱と紆余曲折はいずれも、その上層部に革命の裏切者があらわれたことと関係している。社会主義が強大な物質的力量に変わった歴史的状況のもとで、帝国主義者は内部瓦解戦略により大きな意義を付与し、それを実現するため悪らつに策動した。帝国主義者のこのような戦略によって社会主義に対する誹謗がかつてなく甚だしくなっているなかで、社会主義が「全体主義」「兵営式」「行政命令式」という非難もあらわれてきた。

 「全体主義」「兵営式」「行政命令式」という非難が帝国主義者の反社会主義戦略の産物であることは、それを口実に社会主義を崩壊させる犯罪行為が例外なく帝国主義者の支持と差し金のもとに強行されているという事実によって証明されている。今日、社会主義を誹謗する裏切者の策動はいっそう悪らつになっている。これはかれらの背信行為を正当化し、社会主義の再生をふせごうとするあがきである。多くの国で社会主義が崩壊し資本主義が復活した今日にいたっても、社会主義を「全体主義」「兵営式」「行政命令式」と非難し誹謗しているのは、社会主義の裏切者が帝国主義の手先としての醜悪な正体をみずからいっそう明白にさらけだしていることになる。

 社会主義を「全体主義」だの「兵営式」だの「行政命令式」だのと非難するのは、途方もない詭弁である。

 元々、全体主義はファッショ独裁者の政治理念として奉仕した。まさに、悪名高いドイツのヒトラーとイタリアのムッソリーニが、全体主義をかれらのファッショ独裁を正当化する思想的道具として利用した。ファッショ独裁者らは欺瞞的な「国家社会主義」のスローガンをかかげ、民族全体または国家全体のためにはいかなる労働運動も階級闘争も容認してはならないとして、勤労人民大衆の初歩的な民主的自由と権利まで抹殺し、前代未聞の野獣じみた暴圧政治を実施した。全体主義の反動的本質は、個人は全体に服従すべきだという美名のもとに、反動的支配階級の貪欲な利益のために勤労人民大衆の利益を犠牲にさせることにある。全体主義のいう全体というのは人民犬衆全体を意味するのでなく、独占資本家、大地主、反動官僚、軍閥などごく少数の特権階層を意味する。人民大衆があらゆるものの主人となっている社会主義を「全体主義」だと非難するのは、つまるところ人民大衆の要求を反映した最も進歩的な理念をファッショ支配層の反動的な理念と同一視する途方もない詭弁である。

 社会主義を「兵営式」だと非難するのも、笑止千万な詭弁である。社会生活の方式は思想によって決まり、社会制度によって異なる。社会主義は人間本来の要求を反映した最も進歩的な思想であり、社会主義制度は人民大衆が自主的で創造的な生活を思う存分享受できるようにする最も先進的な制度である。人民大衆の自主性、創造性を抑制するのは社会主義制度ではなく資本主義制度である。勤労人民が資本の奴隷となっている資本主義社会では、人民大衆に自主的で創造的な誇らしい生活は保障されえない。社会主義を「兵営式」だと中傷するのは、白を黒という悪宣伝である。

 社会主義が「行政命令式」だという非難も理屈に合わない詭弁である。概して、行政命令式の管理方法は、搾取社会で特権階級の要求を強権をもって押しつける古い支配方法である。経済生活が市場経済法則によって自然発生的に成り立つ資本主義社会では、国家と社会の管理が徹頭徹尾行政命令式に行われ、人民大衆はたんなる管理の対象として行政命令に服従する義務しかない。これとは反対に社会主義社会では、国家と社会の主人となった人民大衆が管理においても主人の地位を占め、主人としての役割を果たすのである。人民大衆によって遂行される国家と社会管理の根本的特長は、すべての活動において政治活動を優先させ、上部が下部を助け、同志的に協力し合うところにある。これは、すべてを行政命令によって押しつける古い社会の官僚主義的管理方法とは根本的に異なる。これまで社会主義実践においてあらわれた行政命令式管理方法は社会主義社会の本質から生じたものではなく、搾取社会から受け継がされた古い遺物である。社会主義の裏切者は、「行政命令式」に反対するという口実で民主主義中央集権制の原則に反対することにほこ先を向けた。民主主義中央集権制は社会主義国家活動の重要な原則である。社会主義国家活動では民主主義と中央集権制が有機的に結びついており、ここに社会主義国家活動の重要な特長の一つがある。「民主主義」のスローガンをかかげて中央集権制を骨抜きにし、無政府状態をつくりだした連中が社会主義を破壊しては露骨なブルジョア独裁の道に進んでいる。

 社会主義に対する誹謗が途方もない詭弁であるにもかかわらず、人々のあいだに思想的混乱を引き起こす結果をまねいたのは、人民大衆が社会主義思想で武装していないところに基本的原因がある。もちろん、社会主義に対する誹謗は社会主義の仮面をつけて巧妙に行われたので、その反動的本質を最初から見抜くのは容易なことでなかった。しかし、社会主義理論を発展、完成させて明確な尺度をもち、人民大衆を社会主義思想で武装させていたなら、人々がかくもでたらめな詭弁にたやすく動揺しはしなかったであろう。

 社会主義偉業を固守し最後まで完成させるためには、社会主義思想をたえず発展、完成させ、それをもって人民大衆を武装させ、かれらが社会主義を確固たる信念とするようにしなければならない。社会主義に対する信念は、社会主義偉業の正当性を確信するときに生まれるものである。

 偉大な領袖金日成同志はチュチェ思想を創始し、それに基づいて社会主義思想を新たに発展、完成させた。チュチェの社会主義思想は、社会主義は人民大衆があらゆるものの主人となり、すべてが人民大衆に奉仕し、人民大衆の団結した力によってたえず発展する最も先進的な社会であることを明らかにした。人民大衆が国家と社会の主人として自主的で創造的な生活を思う存分享受できるようにするところに、社会主義偉業の正当性がある。朝鮮人民は、チュチェの社会主義偉業の正当性を自己の確固たる信念としているがゆえに、いかなる反社会主義の狂風のなかでも揺らぐことなく、社会主義の道を力強く前進しているのである。

 どの国であれ、時代と革命発展の要求に即応して社会主義思想を発展、完成させ、それをもって人民大衆を武装させ、かれらに社会主義を確固たる信念として植えつけていたなら、資本主義社会の反動性、腐朽性を識別できず、それに幻想をいだいて思想的動揺を起こし、社会主義を崩壊させる悲劇的な事態は発生しなかったであろう。経験が示しているように、社会主義偉業を固守し輝かせていくためには、社会主義思想を完成させ、それをもって人民大衆を武装させ、社会主義を信念化するようにしなければならない。

 社会主義偉業を固守したえず輝かせていくためには、人々に社会主義を信念として体得させるだけでなく、社会主義を守ることを道徳的義務とみなすようにしなければならない。搾取社会では支配階級の政治と勤労人民大衆の道徳が相反するものであるが、人民大衆が国家と社会の主人となっている社会主義社会では、政治と道徳が一致する。社会主義道徳が全面的に確立されてこそ、人民大衆の強固な政治的・道徳的統一を保障することができる。革命的同志愛と道義に基づく社会主義道徳が確立され、それが生活慣習となるとき、社会主義は実生活のなかに深く根をおろすようになる。こうなってこそ、人民大衆が社会主義社会の主人としての責任と役割を果たし、社会主義を立派に建設することができ、いかなる試練に直面しても社会主義偉業をゆるぎなく固守し、成功裏に遂行していくことができる。社会主義建設の途上で革命の裏切者があらわれるのも、社会主義が信念化されていないだけでなく、それが道徳化されていないためである。社会主義偉業は人民の偉業であり、社会主義偉業に対する背信は人民に対する背信である。人民に対する背信は道徳的低劣さの集中的表現である。党員と人民に信頼されて党と国家の指導的地位につきながらも、自分を推してくれた党員と人民の信頼を裏切るのは最も不道徳な行為である。もし、能力がなくて地位を譲るなり、なにか理由があって自分ひとり離党するというのなら多少なりとも良心があるといえるであろう。

 かつて、社会主義偉業に対する忠実性を口ぐせのように唱えていた人たちが、一朝にして社会主義の裏切者に転落したのは、つまるところ社会主義を信念化、道徳化できなかったためである。これは、社会の全構成員のあいだで社会主義を信念化、道徳化する思想改造が、社会主義偉業を固守し最後まで完成させるうえで第一義的に解決すべき最も重要な活動であることを示している。

 思想改造は、社会主義建設の実践闘争と密接に結びつけて進めなければならない。人民大衆を社会主義思想で武装させる重要な目的は、革命的に目覚めた人民大衆の力に依拠して人民大衆により自主的で創造的な生活をもたらす社会主義を成功裏に建設するところにある。社会主義建設の実践をぬきにしては、人民大衆を社会主義思想で武装させる活動もスムーズに進めることができない。社会主義建設を立派に進めて、人々が社会主義の優位性を実生活を通じて感じるとき、それを自己の死活的な要求として受けとめるようになるのである。

 労働者階級の党と国家は、社会主義建設を立派に進めてその優位性を強く発揮させるのに力を集中しなければならない。

 社会主義の本質的優位性は、人民大衆があらゆるものの主人であるということにある。

 人民大衆があらゆるものの主人になるためには、まず政治の主人とならなければならない。人民大衆は政治の主人となってこそ、すべての社会生活に主人らしく参加することができる。社会主義の政治は、人民大衆が主人となって実施する人民の政治である。搾取社会における政治は、本質において搾取階級の階級的支配を保障するためのものであり、勤労人民大衆は政治の対象となるのみである。資本主義社会での人々の生活は、自己の生存を保つための各自の活動を通じて自然発生的になされる。しかし、社会主義社会では、人民大衆自身が政治の主人となってすべての社会生活を統一的に組織し行う。

 政治は一定の政治組織を通じて実現される。社会主義社会で人民大衆が国家と社会の主人としての権利を行使し責任をまっとうするためには、自己の意思と利益を代表する政治組織をもたなければならない。社会主義社会において人民大衆の意思と利益の代表者は、労働者階級の党と政権である。社会主義社会における労働者階級の党は最高政治組織であり、政権は最も包括的な政治組織である。社会主義社会において国家と社会の主人としての人民大衆の地位と役割は、労働者階級の党と政権によって保障される。

 社会主義社会の政治組織は、人民大衆の意思と利益の代表者として自己の本性に合う政治方式で活動しなければならない。社会主義社会の本性に合う政治方式をつくりだすのは、人民の政治を実現するための根本条件である。労働者階級の党と社会主義政権があっても新しい社会主義政治方式を確立しなければ、人民大衆は政治の真の主人としての権利を行使し、責任をまっとうすることができない。

 社会主義は前人未到の道であり、社会主義に固有な政治方式を新しくつくりだすことは、極めて困難で複雑な活動である。しかし、これまで少なからぬ人々は、政治が経済体制によって決まるという既成理論にとらわれ、社会主義制度が確立さえすれば、国家と社会の管理問題は容易に解決されるものと考えた。そのため、社会主義社会の本性に合う政治方式を新しくつくりだす問題が正しく解決されず、旧社会の政治方式の残りかすが少なからず復活するようになった。社会主義社会で旧社会の政治方式の残りかすを克服することができなかったのは、旧社会の政治組織と区別される社会主義政治組織の本質を正しく認識できなかったこととも関係している。以前は党を主にある階級の利益を擁護する階級の組織された部隊、階級闘争の武器とみなし、政権も支配階級が社会に対する政治的支配を実現する権力機関と理解した。そのため、党と政権の建設と活動で階級闘争の武器、権力行使者としての機能と役割の強化に主な関心が向けられた。労働者階級の党と社会主義政権の本質は、何よりも人民の奉仕者であるというところにある。労働者階級の党と社会主義政権が人民の奉仕者であるという立場にしっかり立ってこそ、階級闘争も政治的権力の行使も人民大衆の自主的要求に即応して正しく進めることができる。人民の奉仕者であるというところに、搾取階級の党や政権と根本的に異なる労働者階級の党と政権の本質と優位性がある。人民の奉仕者としての労働者階級の党と社会主義政権機関の活動にはいささかの特権的要素も許されない。社会主義はその本性からしてあらゆる特権を排除する。これまで社会主義実践において権力の乱用や官僚主義があらわれたのは、党と政権の建設を人民の奉仕者としての使命に即して正しく進めなかったためである。

 権力の乱用や官僚主義は反社会主義的思想の産物であり、反社会主義的方法のあらわれである。社会主義社会では、労働者階級の党の正しい指導のもとに大衆路線を貫いて人民大衆が国家と社会の主人としての地位を占め、主人としての役割を果たせるようにすれば、権力の乱用や官僚主義を一掃することができる。社会主義社会で権力の乱用や官僚主義を一掃するためには、すべての幹部が人民に忠実に奉仕する精神をもたなければならない。我が党の「人民に奉仕する!」というスローガンには、幹部がどのような姿勢と立場で人民に接し、人民のためにいかに働くべきかということが明白に反映されている。我々の経験は、幹部のあいだで活動方法と作風を改善する思想教育と思想闘争を強力に展開すれば、旧社会の遺物である権力の乱用や官僚主義は十分克服できることを示している。

 権力の乱用や官僚主義を克服する思想教育と思想闘争を展開しなければ、それは一掃されないばかりか、かえって助長される。社会主義社会で権力の乱用や官僚主義が助長されれば、人民大衆を党と国家から離脱させ、社会主義の敵がそれを利用するようになる。社会主義が崩壊した国々の事態がこれを如実に示している。どの国においても人民が求めたのは権力の乱用や官僚主義のない社会主義であって、決して資本主義ではなかった。ところが、一部の国で権力の乱用や官僚主義のため、党と政府に対する人民の信頼が薄れたのを奇貨に、社会主義が「全体主義」だという途方もない誹謗と「人道的で民主的な社会主義」をもたらすという甘言によって民心を惑わし、人々を社会主義政権党と社会主義政権に反対するようそそのかす背信行為が強行された。社会主義が崩壊した結果、人民にもたらされたのは「人道的で民主的な社会主義」ではなく、搾取と抑圧、社会的不平等が支配し、各種の犯罪と社会悪がはびこる資本主義である。社会主義が崩壊し資本主義が復活した国々では権力の乱用や官僚主義が一掃されたのではなく、それが制度化、合法化され、社会の支配的な傾向となった。

 社会主義の本質的優位性は、あらゆるものが人民大衆に奉仕するというところにある。

 あらゆるものが人民大衆に奉仕するということは、社会主義社会において党と国家のすべての活動が人民大衆に真の自由と権利、豊かで文化的な生活を保障するのに服従するということである。社会主義の敵は、党と国家が責任をもって人民大衆に自主的で創造的な生活を保障するのを「兵営式」だと悪らつに中傷している。

 社会主義は、人民大衆に豊かで文化的な生活を保障する。なんの心配ごともなく暮らしたいという人民大衆の世紀的な願いは、党と国家が人民の生活を責任をもって保障する社会主義社会でのみ実現される。資本主義社会では、勤労人民がなんの心配ごともない暮らしをするというのは考えることすらできない。並みのレベルで生活している人であっても、いつ破産と失業と貧困のどん底に落ちるか知れず、いっときも安心できないのが資本主義社会である。他人はどうなろうと、自分一人無為徒食し、ぜいたくをする生活が真の人間の生活だとはいえない。人間本来の要求に合う誇らしく幸せな生活は、世界を改造する活動をしながら営む創造的な生活であり、だれもがひとしく豊かに暮らす健全で平等な生活である。こうした生活を通じてのみ、人間は世界の主人としての誇りと社会の平等な構成員としての生きがいを感じることができるのである。人間本来の要求に合う創造的で健全かつ平等な生活は、党と国家が人民の生活を責任をもって保障する社会主義社会でのみ立派に実現される。

 人間の生活で最も重要なのは、社会的集団の愛情と信頼のもとで団結し協力し合って生きようとする政治的生命の要求を実現していくことである。勤労人民の尊厳と人格が資本の特権と専横によって無惨に踏みにじられる資本主義社会では、人々が自己の政治的生命を輝かし、人間らしく生きることはできない。党と国家の指導と配慮のもとで、人間に対するあらゆる特権的支配が一掃され、真の自由と権利が保障される社会主義社会でのみ、人々は自己の政治的生命の要求を実現して人間らしく暮らすことができる。

 社会主義は、人々に整然とした社会秩序のなかで安定した生活を営みうるすべての条件をもたらす。社会主義的生活秩序は、党と国家の保護のもとに人民大衆があらゆる侵害から脱し、安心して自由に暮らせるようにする革命的秩序であり、人民大衆の自覚によって守られる集団主義的秩序である。社会主義的生活秩序を破壊するのは、人民大衆をあらゆる犯罪と社会悪の餌食にする犯罪行為である。社会主義的生活秩序が破壊された国々では無政府状態が生じ、各種の犯罪と社会悪がはびこり、あらゆる詐欺師と犯罪者が我が世の春とばかりのさばるようになった。

 社会主義の裏切者が、既にその欺瞞性を余すところなくさらけだした「兵営式」だのなんだのという使いふるした曲を吹きつづけるのは、勤労人民を失業と貧困、犯罪と社会悪の餌食にしたかれらの背信行為を覆いかくそうとする愚かな策動である。

 社会主義の本質的優位性は、社会が人民大衆の団結した力によってたえまなく発展するところにある。

 社会が発展するということは、世界における人間の地位と役割が高まるということを意味し、世界における人間の地位と役割が高まるということは、人間の本質的属性である自主性、創造性、意識性が高まるということを意味する。いいかえれば、自主的な思想・意識と創造的能力の向上にふさわしく人間の役割が強まり、人間の役割が強まるにつれて社会的財貨がふえ、社会関係が改善されていくということである。したがって、どの社会が発展能力をそなえた社会であるかは、つまるところどの社会が人間の自主性、創造性、意識性をさらに強く発揮させる社会であるかということに帰着する。人間の自主性と創造性は意識性によって裏打ちされるのであり、したがって人間の活動では意識が決定的な役割を果たすといえる。人間の活動で意識が決定的な役割を果たすということは、思想・意識が決定的な役割を果たすということを意味する。思想・意識は人間の要求と利害関係を反映した意識であり、人間の活動目的と方向、意志と闘争力を規定する。したがって、社会の発展を促す基本的要因は、あくまでも思想・意識に求めるべきである。社会の発展を力強く促す思想・意識は自主的な思想・意識であり、人民大衆の自主意識発展の最も高い段階の思想・意識は社会主義的思想・意識である。社会主義思想で武装した人民大衆の強い革命的自覚と創造的積極性によって発展する社会主義が最高の発展能力をそなえた社会であることは論ずるまでもない。

 社会主義制度が樹立されれば、社会の全構成員が一つの思想に基づいて団結し、協力できる社会的・経済的条件はそなわるが、人々相互間の団結と協力がおのずと実現するものではない。全社会の統一と団結を強化するためには、人々のあいだで社会主義思想教育を強めなければならない。ところが、これまで社会主義社会発展の基本的推進力が人民大衆の高い思想・意識に基づく団結と協力にあることを正しく認識できなかったため、社会主義実践において人間の思想・意識を改造する活動をおろそかにする傾向があらわれた。特に、社会主義経済発展の推進力を生産力の性格への生産関係の適応という経済的要因に求め、物質的刺激のような経済的テコのみを利用して人々の生産意欲を高めようとする偏向があらわれた。もちろん、社会主義社会は過渡的社会であるので、物質的刺激というテコを利用することができる。しかし、物質的刺激というテコは、社会主義思想教育を先行させる基礎のうえで利用しなければならない。つまり、政治的・道徳的刺激を基本にしながら、それに物質的刺激を正しく結合させる原則を堅持しなければならない。そのようにせず、物質的関心の一面だけを強調するならば、結局において人々を個人の利益のみを追い求める利己主義者に転落させ、社会を停滞に導き、社会主義の土台を切り崩すようになる。社会主義思想教育を放棄し、利己主義を助長した国々では、社会主義経済建設で沈滞現象が起こり、これを口実に行政命令式に反対するという名目で社会主義経済に対する労働者階級の党と国家の指導を骨抜きにし、資本主義市場経済を導入する事態が生じた。

 社会主義社会において経済に対する政治的指導と中央集権的な計画的指導は、労働者階級の党と国家の基本的任務の一つである。それは、労働者階級の党と国家が人民大衆の生活を見守る責任を負っているからである。労働者階級の党と国家が経済に対する指導機能を放棄することは、人民大衆の生活を見守るべき自己の責任を回避することになる。社会主義社会において党と国家が経済に対する指導をどのように実現するかは、具体的実情と革命発展の要求によって国ごとに異なるであろうが、いかなる場合にも経済に対する指導を放棄してはならない。労働者階級の党と国家の指導のない経済は社会主義経済ではなく、社会主義経済に基礎をおかない社会は社会主義社会とはいえない。社会主義経済の優位性をいかに発揮させるかは、党と国家が経済に対する指導をどのように行うかにかかっている。我々の経験は、経済管理において党委員会の集団指導を保障し、大衆路線を貫き、すべての活動に政治活動を先行させ、幹部のあいだで革命的活動方法と人民的活動作風をうち立てるならば、経済を社会主義社会の本性に即して立派に管理運営できることを示している。

 社会主義の裏切者は、「行政命令式体系」が国家所有の絶対的支配に基づいているとして、社会主義的所有を私的所有に変えている。国家的・全人民的所有と協同的所有からなる社会主義的所有は、人民大衆が国家と社会の主人の地位を占め、主人としての役割を果たせるようにする社会的・経済的土台である。社会主義的所有を解体して私的所有に変えるならば、私有化の方法がどのようなものであろうと、私有化した生産手段が遅かれ早かれ特権者、投機業者など少数の搾取者の手に集中するであろうことは明白である。社会主義が崩壊した国々で私有化の策動がはじまって間もないというのに、早くも百万長者が生まれている一方、絶対多数の勤労者は失業と貧困にあえいでいる。歴史の事実が示しているように、経済に対する労働者階級の党と国家の指導を拒み、社会主義的所有を廃止することは、それがどのような名目のもとで行われるにしろ、資本主義搾取制度を復活させる道以外のなにものでもない。

 社会主義を「全体主義」「兵営式」「行政命令式」だと誹謗するあらゆる反社会主義的悪宣伝は、結局、社会主義的集団主義を中傷し、ブルジョア個人主義を賛美するものである。これは社会主義者と社会主義の裏切者とのたたかいが、集団主義に基づく社会主義と、個人主義に基づく資本主義とのたたかいであることを示している。

 社会主義の裏切者のあらゆる誹謗を粉砕し、社会主義偉業を固守するためには、社会生活の各分野で集団主義的原則を立派に具現しなければならない。

 社会主義の本質は集団主義にあり、その優位性と生命力の源も集団主義にある。集団主義とは、一口にいって個人の利益よりも集団の利益を重んじる思想である。働くすべての人が社会主義的勤労者となった社会主義社会では、全社会が一つの利害関係によって結合された大家庭をなしている。社会主義社会における集団主義は、国家と社会の利益を重んじることに集中的に表現される。社会主義的集団主義は、国家および社会の利益と個人の利益を対立させるのでなく、一致させる。社会主義社会で国家と社会のために尽くすということは、結局、国家と社会の主人である人民大衆のために尽くすということである。人民大衆は、働く人々からなる社会的集団であり、人民大衆の利益を守ることは、その構成員である各勤労者の利益を守ることになる。社会主義的集団主義の基本的要求は、国家と社会の利益を上位におき、国家と社会の利益のなかで個人の利益を実現していくことである。社会主義的集団主義が反対するのは個人の利益そのものでなく、国家と社会の利益を侵してまで個人の利益を追求することである。個人の利益を侵すのは、社会主義的集団主義ではなく、ブルジョア個人主義である。少数搾取者の利益のために、働くすべての人の利益を侵すところに、ブルジョア個人主義の反動的本質がある。ブルジョア個人主義がまさしく資本主義社会のあらゆる矛盾と社会悪を生むのである。

 社会主義思想としての集団主義思想はたえず発展してきた。マルクス主義の発生は、集団主義思想の発展において画期的な意義をもつ。マルクス主義は、個人では人間の解放を実現することができず、集団的に団結した労働者階級の力によってのみ、人間による人間の搾取と抑圧を一掃し、人間の真の自由と平等を実現できることを明らかにした。

 偉大な領袖金日成同志がチュチェ思想を創始し、それに基づいて社会主義思想を新たに発展、完成させることによって、集団主義思想は新たな高い段階へと発展するようになった。チュチェ思想は、人間の運命を切り開く歴史の主体は個人ではなく人民大衆であることを明らかにし、人民大衆が自己の運命を自主的に、創造的に切り開いていくためには、一つの社会的政治的生命体に結合されなければならないという独創的な思想を示した。

 孤立した個人は、社会的・歴史的運動の主体とはなりえず、自主性、創造性、意識性をもった社会的存在としての社会的政治的生命をもつことができない。人間の社会的政治的生命の母体は社会的集団である。個人は、社会的集団の一員として集団と運命をともにすることによってのみ、肉体的生命と区別される社会的政治的生命をもち、自己の運命の主人として自主的に、創造的に生き、発展することができるのである。

 歴史の主体である人民大衆が一つの社会的政治的生命体に結合された社会的集団のなかでは、個人同士の関係や集団と個人との関係で生死をともにし、互いに助け、献身的に奉仕する同志愛と革命的道義の原理が支配するようになる。生死をともにする集団と個人との同志愛と革命的道義の関係を表現するのがほかならぬ「一人はみんなのために、みんなは一人のために」という原則を具現している社会主義的集団主義である。チュチェ思想に基づく我が国の社会主義は、社会主義的集団主義が最も立派に具現されている社会である。

 我が党の集団主義思想は、偉大な領袖金日成同志によって組織され指導された抗日革命闘争にその源を発している。形容しがたい厳しい環境のなかで、朝鮮の共産主義闘士たちは革命の領袖を中心に一つの社会的政治的生命体にかたく結合され、集団主義に基づく革命隊伍と人民大衆の血縁的つながりの模範をつくりあげた。我が国では、2つの段階の社会革命を通じて、人民大衆の集団主義的統一団結を阻む社会的根源が一掃され、社会主義建設と集団主義教育が深化するにつれて、全人民が党と領袖のまわりに一つにかたく結集した社会的政治的生命体、革命の自主的主体となり、社会生活の各分野で、同志愛と革命的道義に基づく集団主義的生活気風が高度に発揮されるようになった。

 今日、朝鮮人民は政治、経済、文化など社会生活の各分野で国家と社会の主人の地位を占め、主人としての責任と役割を果たしており、党と領袖のまわりに一心団結し、生死、苦楽をともにしながら、チュチェの革命偉業の完成のために力強く前進している。人々の生活は、たんに物質生活のみによって評価してはならず、国家と社会の真の主人として享受する社会・政治生活を基本にして評価しなければならない。朝鮮人民が享受している自主的で創造的な生活こそは、社会主義的集団主義が具現されている人民大衆中心の朝鮮式社会主義の本質的優位性を明白に示す真の生活である。

 社会主義社会においては、人民大衆が国家政権と物質的・文化的財貨の主人であるため、だれもが自主的で創造的な生活を享受する権利をもち、それを共同の努力によってたえず強化発展させる責任を負っている。我が国には一人の失業者もおらず、学ぶ道を閉ざされた人や治療の受けられない人、浮浪者がいない。我が国では、すべての人が素質と能力にふさわしい職場でその創造的才能をいかんなく発揮し、生活に対するなんの心配もなく、みなひとしくよい暮らしをしており、すべての人が一定の社会・政治組織に加わって国家と社会の主人として自主的な政治生活を行っている。

 我が国では、チュチェの革命的党である我が党が社会の政治的導き手として人民大衆の運命を責任をもって導き、かれらの生活全般を隅々まで見守っており、党委員会が当該単位の最高指導機関として集団指導を通じて勤労人民の自主的権利を確固と保障し、その創造的活動を正しく組織している。上下が心を合わせ、みなが同志的に協力するのは、我が国において一つの社会的風潮となり、慣習となっている。党は人民大衆に奉仕し、人民大衆は党の指導に従い、みなが生死、苦楽をともにするところに、朝鮮人民の限りない誇りと不敗の力の源がある。どのような波風のなかでも我が国の社会主義が微動だにしないのは、領袖、党、大衆の一心団結が確固となし遂げられ、人民大衆が党と領袖の指導のもとに各自の自主的要求に従って新しい生活を創造しているからである。

 既に、歴史によって葬られた古い概念を復活させて、社会主義の新生活を誹謗するのは、全く愚かなことである。新しいものの価値は新しい物差しでしか計れないものである。現実は、古いものに逆戻りすることを説く人たちの思考方式が、決して新しい思考方式になりえないことを改めてはっきりと証明している。集団主義と全体主義さえ識別できずに、なんらかの新しい思考方式を云々するのは笑止千万なことであり、古い思考方式と物差しで社会主義の現実をゆがめ、資本主義を復活させるのは猿芝居にほかならない。

 我々は、一部の国で社会主義が挫折したことからしかるべき教訓を酌み取り、社会主義に対する有象無象のあらゆる誹謗を断固排撃し、災いを転じて福となす知恵と勇敢さを発揮し、人類の明るい未来に向かってさらに力強く前進しなければならない。

出典:朝鮮・平壌 外国文出版社 1993

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