『音楽芸術論』−3 演  奏
 
4 演奏は情熱をこめておこなうべきである


 演奏は人々の心をとらえるものでなければならず、音楽を聞き終えてからも深い印象が残るようなものでなければならない。

 演奏は、情熱をこめておこなうべきである。音楽は、情熱をこめて演奏してこそ、人々の心を打つものである。

 人間は、感情と情緒によって音楽を感じとり、音楽の世界を把握する。音楽の世界は、作品に反映された人間の思想と感情の世界であり、情緒の世界である。

 音楽は、感情が強烈で情緒豊かなものであってこそ、形象化に深みがあって人々の心を強くゆさぶることができる。感情も情緒も乏しい音楽は、音楽とはいえず、人々の感興をそそることができない。

 音楽の感情と情緒は、演奏を情熱的におこなってこそ、豊かで強烈なものになる。

 情熱は、高まった情緒によって表現される感情の具体的な発現である。情熱的な演奏は、音楽にもられている思想・感情を情緒的にさらに高め、深化させ、人々は知らぬ間に音楽の世界に引き込まれる。情熱に欠け、安穏で無気力な演奏は、感情と情緒を生かすことができないばかりか、感動的な音楽的形象を創造することも、人々の心をとらえることもできない。

 革命が進められている我々の時代の息吹がみなぎるようにするためにも、演奏を情熱的にすべきである。

 音楽は、時代の精神が脈打つものでなければならない。勤労人民大衆の自主的で創造的な生活が開花している現実は、革命的な気迫とロマン、燃えるような情熱にみちている。朝鮮の音楽は、現実にみちあふれる生活の情緒をリアルにもりこみ、明白に表現しなければならない。そうしてこそ、音楽に時代の息吹が感じられ、音楽作品に反映された意義深い思想・感情を人々に情緒的に共感させることができる。音楽的形象に迫力と生気を与える燃えるような情熱がなくては、我々の生活にみなぎる革命的な気迫とロマンも感銘深く描き出すことはできない。

 演奏者の情熱的な演奏は、真実味のある感情によって表現されなければならない。

 音楽的形象は、つねにリアルなものでなければならない。リアリスティックな音楽的形象のみが人々の心を打ち、かれらをかぎりない激情の世界へといざなうことができる。

 音楽をリアルに形象化するためには、演奏で感情に走ってはならない。音楽を情熱的に演奏するということは、感情に走るということではない。感情に走ることと音楽を情熱的に演奏することは別問題である。

 感情に走ると形象のリアリティーが失われる。演奏で感情に走ると速度を正しく保つことができず、音程が不安定になり、形象化が満足になされない。そうすると、情緒的で魅力のある歌も印象が悪くなり、感興が湧かない。

 感情に走ると演奏で主観主義と新派が生じる。音楽は、聞く人がリアルな演奏に自然に引き込まれて共感し、興奮を覚えるものでなくてはならず、演奏者が主観的な感情におぼれ、独りで気分を出すからといって聴衆を興奮させられるものではない。聞く人は共感してもいないのに、独りで興奮して気分を出し、感情に走るのは、音楽的形象における一種の新派である。音楽的形象においては、主観主義と新派が許されてはならない。

 演奏における感情は、生活になじんだ感情表現の自然な流れに合わなければならない。

 感情は、心の底から湧きあがるものでなければならない。心の底から湧きあがらない感情は真の感情とはいえず、人々を興奮させることができない。

 感情は、人間の心理的作用によって起こるが、単なる心理的現象にとどまるものではない。人間の感情は、つねに外的表現を生み、感情が内的に蓄積され強まるにつれて外的表現もそれだけ明白になってくる。人間の感情は表情と行動に直接的に、繊細にあらわれる。一つの表情、一つの行動からも、その人の心理が読みとれ、精神世界をかいま見ることができるのは、まさに人間の感情がそのまま表情と行動に移されるからである。

 音楽的形象で発揮される演奏者の情熱は、生活になじんだ感情表現の自然な流れに合わせてリアルに表現されなければならない。

 演奏のさい、その響きは声帯や指先ではなく、心の底から湧きでなければならない。

 音楽の感情は、音楽的響きにはっきりとあらわれる。音楽の響きに情緒が乏しく、情熱が感じられないようでは、演奏者の情熱について論ずることはできない。情緒的に安穏で空虚な響きからは、演奏者の情熱が感じられず、音楽的形象が感銘深く伝わってこない。

 情熱がほとばしる音楽的響きによって感動的な形象を創造するためには、生活の美しさと作品に反映された意義深い思想的・情緒的内容を心から受けとめなければならない。心の底から湧きあがる感情を音楽的響きによって自然に表現するなら、歌手が声をふりしぼらなくても音楽に情熱がほとばしるようにすることができる。

 演奏者は、表情や動作によっても音楽的感情を表現できなければならない。表情や動作によっても感情を表現してこそ、音楽の思想的・情緒的内容と形象上の意図をより正確に伝達することができる。無表情でぎこちなく演奏される音楽は、無味乾燥で、形象のリアリティーも感じられない。

 音楽と聴衆の息を合わせるためにも、演奏者は表情と動作によって音楽的感情を自由に表現しなければならない。舞台で音楽が演奏されるとき、聴衆は耳で聞くだけでなく、目で演奏者の表情や動作も見るのである。したがって演奏では、形象の焦点が聴衆の目と耳に同時におかれるようにすべきである。

 表情と動作によって感情を表現するからといって、大げさな表情をしたり、体を必要以上にゆり動かすのは避けるべきである。表情や動作で外的なものを強調すると、音楽的形象がわざとらしいものになってしまう。人為的につくられた感情は、不自然でぎこちないうえに、形象の気品を落とす。舞台で演奏者が動いていないのに動いているように見え、動いているのに動いていないような感じを与えてこそ、音楽的感情が芸術的にリアルに表現されたといえる。

 音楽的感情を芸術的にリアルに表現するには、表情と動作の一つひとつが、人間心理の自然な外的表現になるようにしなければならない。心の底から湧きおこる内的感情が表情や動作にそのままあらわれ、演奏者の抑えがたい情熱が全身に感じられるとき、音楽的形象はリアルで感動的なものになる。

 演奏では、感情を巧みにコントロールする必要がある。

 音楽には、変化と屈曲がなければならない。音楽は、素朴な感情を表現するからといって、ただ美しく演奏してはならず、情熱的に演奏するからといって、はじめから終わりまでりきみつづけてもならない。短い歌謡形式の歌であっても、それぞれの箇所に応じて美しくうたったり、力強くうたったり、のびやかにうたったりすべきである。音楽は、変化と屈曲があってこそ味わいがあり、人々の心を自在に操って深い感動を与えることができる。

 もちろん、感情の変化をつくるからといって、音楽の情緒的トーンを色とりどりのものにしてはならない。音楽で感情の基本的な流れは、一貫したものでなければならず、変化する感情の種々のニュアンスは、主導的な感情から派生したものでなければならない。そうしてこそ、感情の基本的なニュアンスをはっきりさせながらも、多様に変化する情緒的明暗のなかに感動的な音楽的形象が浮かんでくる。

 音楽に変化と屈曲をもたせるには、演奏で感情を巧みにコントロールしなければならない。

 感情が豊かでありながら、高ぶった感情を抑えたり静めることのできる人が真の芸術家である。感情を思いどおりに表現できない演奏者は、すぐれた音楽的形象を創造することはできない。

 演奏者は、生活の論理に従って感情をコントロールできるようでなければならない。

 生活は感情を呼びおこす下地であるため、生活の論理を離れては感情の流れが自然なものになりえない。緊張があれば弛緩があり、蓄積があれば爆発があるというのが、生活の論理にかなった感情の流れである。演奏者は、生活に密着した感情の流れに従って音楽的感情をスムーズに、しかも、屈曲をもたせてコントロールしていくべきである。

 演奏では、出だしが大切である。

 演奏者は、出だしから豊かな感情をもって音楽を演奏すべきである。出だしが感情豊かなものであってこそ、最初から人々の心をとらえることができる。最初から印象が悪く、感情が定まらなければ、立派な音楽的形象への期待が失われ、人々は音楽の世界に引き込まれない。

 出だしを感情豊かなものにするからといって、のっけから甲高い音を出してはならない。最初から甲高い音を出す表現方法は朝鮮式ではない。一般に音楽における感情の流れは、はじめは静かに流れだして次第に高まっていくのが自然である。

 作品の性格によって、出だしの感情は、情緒的にさまざまに表現されうる。落ち着いた気分で静かにはじまる音楽もあれば、高まった情緒で力強くはじまる音楽もある。しかし、高まった情緒ではじめる場合は、甲高い音で感情を表現しようとしてはならない。

 高まった情緒は、甲高い音を出すことによって得られるのではない。演奏をスムーズに自然におこないながらも、豊かな情緒によって高まった情緒を表現することは十分可能である。小さな響きのなかに豊かな感情が感じられ、深い情緒があふれれば、それだけ音楽的形象ははじめから印象深いものになる。

 演奏者は、音楽の流れにつれて、ゆとりをもって感情を蓄積し、情緒的にさらに深め、豊かにすべきである。

 時間が流れても感情が高まらず、一つの情緒にとどまっていては、音楽的形象に深みがなく、まだるっこいものになってしまう。だからといって、蓄積もなしに急変したり、頻繁に変わる感情は真実味がなく粗雑な感じを与え、すでに定まった感情までこわれてしまう。演奏においては、感情の持続と変化をうまく結合することが大切である。

 演奏者は、大きな芸術的効果が得られる箇所を正しく選定し、蓄積された感情を効果的に噴出させるべきである。

 音楽の形象化ではどの部分も軽視してはならないが、だからといって、すべての部分をひとしく生かすことはできない。あれもこれも重要だとして、すべての部分をひとしく生かそうとしては、どの部分も立派に生かされなくなる。

 音楽的形象では、芸術的効果をねらうところがなければならない。演奏者は、自分がねらう1、2箇所のためにみずからの感情をコントロールすべきである。はやる心を抑え、蓄積してきた感情が芸術的効果をねらう部分で一気に爆発してこそ、鮮やかな情緒的対照のなかで音楽的形象が感動的なものになる。

 音楽の演奏で感情の変化は、速度や音色、音量の変化に大きく依存する。

 音楽的形象では拍子に忠実でありながらも、音楽の情緒に合わせて速度を速めるべきところでは速め、緩めるべきところでは緩めるべきである。形象の幅は、速度を緩め、十分なゆとりをもって音楽の具体的な形象上の意図を情緒的に強調するとき、非常に広くなる。しかし、演奏で音楽の幅を広げるからといって、速度をひきつづき緩めることはできない。速度が遅すぎると音楽的な息がなくなり、感情が緩んでしまう。音楽的形象の過程でいったん幅を与えたら、ただちにみずからの速度を維持しなければならない。

 音楽的形象では、音色と音量の変化も多様なものでなければならない。

 速度は感情の変化をあらわす重要な要素であるが、速度だけでは感情を多様かつこまやかに変化させることはできない。一般に音楽では、速度を緩めると形象の幅が広がり、速度を速めると形象の幅が狭まるといわれるが、音色と音量に変化がなければ、それと反対の結果をもたらすこともある。

 演奏者は、速度の変化、音色と音量の変化を有機的に結合することによってのみ、感情の変化を自由に、スムーズに表現し、演奏の効果を最大限に高めることができる。

 演奏における音楽的感情は、洗練された技巧によって芸術的に表現されるべきである。

 情熱は感情のあらわれであるが、感情があるからといっておのずと音楽に情熱があふれるわけではない。感情が強烈であっても芸術的技巧に裏打ちされていなければ、音楽的形象は情熱的なものになりえない。

 演奏者は、音楽的形象で洗練された技巧を見せるべきである。

 芸術的技巧は、表現手段と手法を機敏かつ巧みに駆使する腕前である。感情は、芸術的技巧によって形象的に表現されてこそ真実味のあるものになり、人々を感動させる燃えあがるような情熱に自然に昇華する。感情だけでは形象にとってかわることはできず、技巧がなく直線的で生硬な感情からは芸術家の胸に燃える情熱を感じとることができない。

 演奏者の技巧は、音楽的に洗練されたものでなければならない。

 のどから出る技巧、指先から出る技巧は真の芸術的技巧ではない。演奏者の技巧は、技巧を凝らしていることが人々に気づかれないように、音楽的形象という統一された概念のなかに溶け込み、音楽の自然な情緒的流れと一つにならなければならない。音楽的に洗練された技巧であってこそ、生活におけるような真実味のある感情が湧きあがり、演奏者の熱い息吹が感じられる。

 音楽を芸術的に形象化するからといって、いたずらに格好をつけたり、小手先の細工を弄してはならない。

 かつて一部の声楽家は、歌に芸術性をもたせるようにといわれると、速度を緩め、調性を高める方法をよく使ったものである。これには、音楽を真実味のある感情によって感動的に形象化しようというよりも、自分の小才をひけらかし、技量を誇示しようという意図がからんでいる。歌を長々と引き伸ばすことに感情を見いだし、声をはりあげることに技巧を見いだすのは古い方法である。演奏者の技巧は、決して技巧のための技巧となってはならない。

 音楽演奏は、聞きやすく自然なものでなければならない。

 聞きやすく自然でありながらも、感情が伝わり、技巧が感じられる演奏であってこそ名演といえる。元来、音楽をらくに演奏するということ自体が技術である。演奏者はらくに自然に演奏するが、聴衆は大いなる激情と興奮のうちに音楽の深奥な形象の世界にひたり、繊細かつ洗練された技巧に魅了させられるのが真の技巧である。

 演奏を情熱的におこなうためには、音楽の世界に深く入らなければならない。

 演奏者が心底から生活をうたいたいという衝動にかられたときに、創造的情熱が湧きおこるものである。生活をうたわずにはいられない感情は、生活への共感から生まれる。共感なくしては心を動かすことができず、心が動かなければ情熱は生まれない。演奏者が生活にたいする共感によって胸を熱くし、情熱を燃えあがらせるためには、音楽の世界に深く入らなければならない。音楽の世界に深く入り、そこにあふれる豊かな情緒にひたってこそ、演奏者は作品にもりこまれた生活を自分のものとして受け入れ、情熱にあふれて音楽を感銘深く演奏することができる。

 演奏者には、芸術的ファンタジーがなければならない。

 芸術的ファンタジーは、作品に形象の翼を与え、創造的情熱を湧きおこさせる源である。演奏者には芸術的ファンタジーがあってこそ、作品に反映された人間の生活と感情の世界を生き生きと思い描き、音楽的形象の深化に情熱を傾けることができる。芸術的ファンタジーと想像力がなければ、情緒的に表現される音楽の生活になじんだ内容を深くあらわすことができず、感情と息吹のない響きによって形象に替えることになる。

 演奏者の芸術的ファンタジーは、作品に反映された音楽的感情に従いながらも、感情の幅を情緒的にさらに広げ、音楽を形象的により新しく補充し、豊かにする方向で深められなければならない。

 ファンタジーを新しく思い切ったものにするからといって、形象を抽象化したり、主観的な趣味に走ってはならない。作品に反映された生活を離れたファンタジーは、無意味であり、形象創造にとって何の助けにもならない。演奏者のファンタジーは、生活にもとづいた真実かつ典型的なものでなければならず、音楽作品の思想的・情緒的内容をいっそう感動深く見せるためのものでなければならない。

 演奏者は、楽譜をマスターしなければならない。

 楽譜をマスターしてこそ演奏を思いどおりにし、情熱を傾けて立派な音楽的形象を創造することができる。

 楽譜をマスターするということは、単に楽譜を暗記するだけでなく、楽譜に反映された思想的・情緒的内容と感情の流れを作曲家の意図どおり完全に自分のものにすることを意味する。

 楽譜をマスターすれば、小さなミスもなしに音楽を立派に演奏することができるという自信が生まれ、ひたすら音楽的感情を生かして、すばらしい演奏をするのに情熱を傾けることができる。また、楽譜をマスターすれば、思いどおりに演奏できるので音の響きがよくなり、演奏の文化性も高まる。しかし、楽譜をマスターしていないと、楽譜を見ようとして気が散って感情を十分に表現できず、演奏に情熱を注ぐことができない。

 演奏者は、情熱がなければ感動的な音楽的形象を創造することができないことを肝に銘じ、一つの生活にも情熱をもってのぞみ、一つの音楽を演奏するにしても情熱的に演奏すべきである。





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