『音楽芸術論』−3 演  奏
 
2 演奏では民族的情緒と現代的美感を正しく具現すべきである


 演奏での重要な問題は、音楽を朝鮮人民の民族的情緒と好みに合わせて形象化することである。

 音楽を朝鮮人民の民族的情緒と好みに合わせてすばらしく形象化するためには、演奏を朝鮮式にしなければならない。外国のやり方で演奏しては、朝鮮音楽の持ち味を出すことはできない。演奏を朝鮮式にしてこそ、民族音楽の持ち味を十分に生かし、朝鮮音楽を上手に演奏することができる。

 我々は外国の革命ではなく、朝鮮で朝鮮の革命を進めているのだから、音楽を一曲演奏するにしても、朝鮮人民の民族的感情に合い、朝鮮の実生活を反映した朝鮮音楽を立派に演奏すべきである。我々は演奏を朝鮮式にして、朝鮮音楽特有の味と独特な香りをそのまま生かし、朝鮮人民の感情に合わせて立派に形象化すべきである。

 外国の音楽を演奏する場合も朝鮮式にすべきである。現代音楽の発展趨勢と外国の音楽を知り、人類共有の財産である古典音楽の遺産を研究するためには、外国の音楽も演奏する必要がある。外国の音楽を演奏することは、音楽芸術分野における国と民族間の交流を拡大発展させるうえでも意義がある。

 外国音楽の演奏で守るべき重要な原則は、革命的で健全な音楽を朝鮮人民の好みに合わせて演奏することである。もちろん、外国の音楽を朝鮮式に演奏するからといって、その音楽作品に特有な情緒まで朝鮮の情緒に変えてはならない。外国音楽本来の情緒はそのまま生かしながら、朝鮮人民の音楽の好みがよく反映されるように朝鮮式に演奏してこそ、外国の音楽も朝鮮人民の好評を得ることができるのである。

 声楽を主体的に発展させるためには、発声法と唱法で朝鮮式の要求を具現しなければならない。

 発声での基礎的な問題は、声と息である。声と息を解決しなくては、歌をうまくうたうことはできない。歌手は、声がきれいで息に余裕があってこそ、音楽的感情を自由自在に表現して、音楽を立派に形象化することができる。

 声楽の声と息は、発声によって解決される。声の質と息は声楽家の天性ともいえるが、いくらすばらしい声色と豊かな音量、肺活量をそなえた声楽家であっても、科学的な発声法を習得することなしには歌を上手にうたいこなすことはできない。

 発声にも民族的特性が反映される。かつて一部の人は、発声は世界共通のものであるから、それには民族的特性は作用しないとし、外国の発声法をうのみにしようとした。これは、発声を単なる生理的現象とみなす非科学的な見解である。

 発声は、単純な技術実務的問題ではない。発声は、人体生理的条件にかかわる技術実務的な問題である前に、音楽にたいする民族的情緒にかかわる美学的な問題である。音楽を感じとって受け入れる人の具体的な好みはそのまま発声にあらわれ、発声の仕方によって音楽の情緒と思想・感情が違ったものに感じられる。

 人体生理学的条件からしても、朝鮮人の生理的条件は西洋人と同じでありえないため、それにもとづいている朝鮮語の発音と声音構造もそのもの固有の特性をもっている。こうした特性は、そのまま発声に作用する。

 自国の歌を上手にうたうイタリア人が、朝鮮の歌をうたうのをむずかしがるのはまさにこのためである。イタリアの発声法は、世界的に広く知られている。しかし、その発声法をそのまま適用しては、朝鮮の音楽を朝鮮人の感情に合わせて形象化することはできない。外国の発声法をもってしては、民声(民族声楽)が多様で繊細なわが国の唱法的技巧を解決することができず、朝鮮民謡独特の味を生かすこともできない。発声の科学的な原理においては共通性があっても、具体的な発声法においては個々の民族の特性があるため、その特性を明確に生かす必要がある。

 我々は、あくまで朝鮮人民の感情に合わせて、澄んで鮮明にして、やさしくきれいで、しっかりしていて、すっきりした声を優雅に出す発声法をとるべきである。荒々しくにぶい声、暗くてうっとうしい声、消え入るような声、ほえるような声などは、朝鮮人民の情緒に合わない。自国人民の情緒に合わない声で歌をうたっては誰にも好まれない。

 昔、唱(チャン=調子を合わせて高い声でうたわれた歌)の俳優は、男なのか女なのかわからないような、しゃがれ声を出したものである。ところが、かつて、民族声楽が専門の一部の人は、しゃがれた感じの濁声が伝統的な発声であるとし、それをそのまま復活させようとした。美しくなめらかな音楽を好む朝鮮人民の民族的情緒と矛盾し、我々の時代の人民の好みにも合わないものを伝統的なものだとして復活させるのは、復古主義のあらわれである。発声において主体性を確立することは、復古主義とは何のゆかりもない。

 美しい声を出すのは、音楽的形象で民族的情緒を具現するための要求であるのみか、人民の美感をリアルに反映するための要求でもある。

 歌も人民の美学的な理想に合わせてうたうべきである。美しい音楽を楽しもうというのは、人民の一致した美学的な理想である。人民は、美しい声で歌をうたわなくては喜ばない。いま一部の国の歌手は、現代音楽と称してかすれ声や金切り声、はては息たえだえの声まで出して奇怪な歌をうたっている。これは、人民の美学的な好みを愚弄することであり、人間の健全な思考を麻痺させ、官能的な音楽を憧憬するブルジョア美学観のあらわれである。我々の音楽では、人民の要求と志向に反するささいな表現も許されず、発声法を選ぶにしても人民の美感に即して美しい声を出す発声法をとらなければならない。

 美しい声を出すためには、科学的な発声原理と方法を体得しなければならない。

 声は、自然なものであってこそ美しく感じられる。歌手が声を自然に出す問題を解決しなくては、美しい声を出すことはできない。

 自然な声を出すには、科学的な発声原理にもとづかなければならない。発声器官がなにものにも妨げられることなく自然で能率的な活動をするときに出される声は、つねに充実した自然なものである。発声器官に人為的な障害を作ってその活動を抑えては美しい声が出るわけがない。

 美しく自然な声は、正しい発声法にもとづいてこそ得られるのである。よく共鳴し、息づきが正確でゆとりがあり、高低の声が統一され、発音が正確であってこそ、自然な声が美しく響きでるのである。共鳴法と呼吸法、換声法、発音法は、歌手が必ず解決しなければならない発声の基本方法である。

 鼻声を多く用いるのは、科学的な共鳴法ではない。鼻声が多いと歌が低俗なものになる。歌は、腹から響きでる声で自然にすっきりとうたうべきである。

 換声の技巧を解決できない歌手は、高低の声を同一の音量と音色で統一させることができず、自然な音楽的連結をもたらすことができない。一部の歌手が、歌をうたうときに高音を楽に出せず、叫ぶような声を出して音声が狂うのは、換声法を正しく解決していないからである。

 正しい呼吸法を体得することは、声を楽に出しながら音楽的感情を自然に表現するための先決条件の一つである。歌手が正しい呼吸法を体得していないと、歌をうたうときに息が足りなくて、音楽を自然に形象化することができない。

 発音を正確にするのも発声での重要な問題である。発音が正確でなければ歌詞が正確に伝達されず、歌の思想と感情がぼけてしまう。歌詞は歌の思想を具体的に表現するものであるから、聞く人に正確に伝達されなければならない。歌詞を伝達できない歌手は、リアリスティックな音楽を創造することができない。歌手は、声をきれいに出すとともに、発音を正確にし、朝鮮語の語感と情緒的ニュアンスを繊細に生かす発音法を習得すべきである。

 歌は、唱法によってその情緒的トーンと味が違ってくる。朝鮮人民の情緒と思想・感情に合わせて歌をうたうには、唱法においても朝鮮式の要求を具現しなければならない。いくらよい声が出ても、朝鮮式の唱法を生かすことができなければ立派な歌手になれない。

 かつて少なからぬ人が、朝鮮式の唱法は、民声に限られ、洋声とは無関係だと思い込んでいた。これは、朝鮮式の唱法の本質を知らず、民声と洋声についての認識がはっきりしていなかったことに起因する。

 朝鮮式の唱法は、民声か洋声かによって規定されるのではない。もちろん、民声と洋声とでは唱法が異なる。しかし、唱法で民声と洋声が区別されるということと、朝鮮式の唱法は別個の問題である。朝鮮式の唱法を規定するにあたっては、民声か洋声かということが問題なのではなく、朝鮮人民の民族的情緒と現代的美感が正しく具現された唱法であるかどうかが問題なのである。朝鮮人民の民族的情緒と現代的美感に合う場合は、洋声で用いられる唱法も朝鮮式の唱法になりうる。

 唱法も時代の要請を反映するものであるので、それには、伝統的なものと革新的なものがある。昔、しゃがれ声でうたわれたパンソリ唱法が朝鮮の民族的旋律に合うわけはなく、民謡唱法にしても昔のままでは声楽的形象において現代的美感を正しく具現することはできない。我々の時代になって新しく発展させた民謡唱法も民謡や民謡風の歌をうたいこなすのに適するものであって、一般歌謡に適した唱法にはなりえない。

 一般歌謡は、洋声に適した唱法でうたってこそ、持ち味を出すことができる。だからといって、洋声で民族的情緒を無視してはならない。一般歌謡の唱法は、洋声の特性を生かしながらも、歌を民族的情緒たっぷりにうたいこなせるものでなければならない。こうした要求が具現されてこそ、洋声で用いられる唱法も朝鮮式の唱法といえる。

 洋声にも朝鮮式の唱法があるということについて、いささかも奇異の念をいだくことはない。もともと洋声というのは、西洋から入ってきた声楽という意味で使われてきた言葉である。音楽文化の交流の過程で、わが国の音楽芸術には以前から民声とともに洋声が存在してきた。これは、歳月の流れのなかで民族的特性が反映され、民族音楽の特性が浸透して、しだいに西洋音楽とは区別される新しい形態をなし、こんにちにいたっては、朝鮮のものとして定着している。したがって、我々のいう洋声は決して西洋音楽と同一視することはできない。我々が民声、洋声という言葉を使っているのは、あくまでも、みな同じ朝鮮音楽でありながら相異なる特性をもっている民謡にもとづく声楽と、現代的な歌謡にもとづく声楽を区別するためである。洋声も朝鮮音楽の一形態なのであるから、それには西洋人が自国の音楽で用いる唱法とは異なる朝鮮式の唱法があって当然である。朝鮮式唱法の概念を幅広く理解すべきであって、民声か洋声かと、どちらかの一つに限定してはならない。

 朝鮮式唱法は、民声と洋声の特性に即して具現しなければならない。

 朝鮮式唱法を民声と洋声にともに生かすというのは、民声と洋声をごたまぜにするということではない。民声は民声としての特性を生かし、洋声は洋声としての特性を生かすべきである。わが党は以前から、朝鮮音楽において民謡と歌謡をごたまぜにしてはならず、民声と洋声をどっちつかずのものにしてもならないことを強調してきた。朝鮮式唱法は、民声と洋声に一線を画し、総体的には朝鮮人民の情緒と思想・感情に合わせて歌をうたう唱法でなければならない。

 いまわが国では、民謡独唱と合唱のような民声と洋声が結合した新しい音楽形式が創造され、人民に愛されている。民声と洋声の結合は我々が新しく試み奨励しているものであり、民族音楽を現代的に発展させる重要な方途の一つである。ここで必ず気をつけるべきことは、民声と洋声をごたまぜにしないようにすることである。民声と洋声の正しい結合を実現するためには、個々の特性のみを絶対化して民声と洋声がそれぞれ目立つようにしてはならず、かといってそれぞれの特性を無視し、どっちつかずのものにしてもならない。

 民声は、その独特なトリルやバイブレーションによって洋声とはっきり区別される。楽譜に記された音を基本とし、それに多様な形態の微分音を入れ、微妙なトリルによって音楽を味わいのあるものにするのは、民声にしかない独特な技巧である。民声のトリルには、1、2音のあいだに装飾音としてごく短くなっているものもあれば、いくつかの音を連結して旋律的に長くなっているものもある。

 民声に固有な唱法上の技巧は、トリルとバイブレーションにとどまらず、技巧のなかにまた技巧があって、どれをとればよいのか迷うほど多様かつ豊富である。このような唱法上の技巧を生かせない歌手は民謡歌手になれず、民声の特性に即して歌を立派にうたいこなすことができない。

 洋声にもそれに適した唱法があるのだから、洋声歌手は洋声歌手としての特性を生かすべきである。歌謡を力強く幅広くうたいこなすうえで洋声の唱法上の技巧は、民声がとってかわることはできない。

 民声と洋声の特性を生かすうえで必ず考慮しなければならない問題は、時代的美感と朝鮮人民の民族的情緒を具現することである。

 民声の唱法を生かすからといって歌を昔風にうたってはならない。民謡のトリルやバイブレーションを度のすぎたものにするのは、朝鮮人民の情緒と現代的美感に合わない。バイブレーションが多いと古めかしい感じがし、トリルを多用したり、そのさまをあまり複雑なものにすると歌のどの部分も生かされず、かえって散漫になる。

 洋声の唱法を生かすときには、外国のものを真似ることのないようにすべきである。

 かつて一部の歌手は、外国人のように声を高くはりあげ長く伸ばしてこそ洋声の特性が生かされるものと考えた。朝鮮人民は、声を高くはりあげ、長く伸ばすのを好まず、美しい声で歌をなめらかにのびのびとうたうことを好む。朝鮮人民の民族的情緒を無視し、洋声の特性を云々するのは教条主義のあらわれである。復古主義と教条主義は、いずれも我々の方式とは無縁であり、朝鮮式唱法の要求をぬきにして民声と洋声の特性について語ることはできない。

 楽器の奏法では、民族楽器と洋楽器の特性を正しく生かす必要がある。

 器楽の演奏で第一に解決すべきことは、奏法の問題である。楽器には、それぞれ固有の奏法がある。楽器の特性は、奏法にそのままあらわれ、奏法は楽器の音色と音量に大きな影響を及ぼす。

 民族楽器と洋楽器の奏法は、それぞれ異なる。同じ弦楽器であってもバイオリンと小奚琴(ソヘグム)の奏法は異なり、同じ木管楽器であってもフルートやオーボエの奏法とチョテやセナプの奏法は異なる。バイブレーションや微分音の演奏技巧にしても、それは洋楽器では解決できない民族楽器に固有なものである。

 演奏者は、奏法に自分が演奏する楽器の特性を十分に生かさなければならない。民族楽器は民族楽器としての特性を生かし、洋楽器は洋楽器としての特性を生かすべきである。

 伽琴の演奏では、弄弦(ロンヒョン=朝鮮の民族弦楽器奏法の一種)を生かしてこそ持ち味が出る。短簫やチョテなどの民族楽器もバイブレーションを入れて演奏してこそ聞きごたえがある。一時、伽琴奏者は、奏法の現代化を云々して弄弦をなくし、ギターともハープともつかない演奏の仕方をした。伽琴のような民族楽器の演奏では弄弦を駆使することが腕の見せどころなのに、それをなくしては民族楽器の持ち味を出せないことになる。これは、朝鮮式の芸術創造方法ではない。民族楽器の奏法を現代化するのはよいことであるが、民族的情緒を弱めたり、すべての楽器が同じ音色を出すようにしてはならない。

 民族楽器の奏法は、弄弦のようにそれに固有なものを生かしながら現代化すべきである。もちろん伽琴などを演奏する場合は、昔のように弄弦を多用する必要はない。民族楽器の奏法に民族的情緒を生かすからといって、古めかしいものにしてはならない。弄弦は、音楽の要所要所で的確に使い、使うときには効果的に使ってこそ、民族的情緒が感じられ、しかも現代的美感にマッチしたものになる。

 民族楽器の奏者は、バイブレーションや微分音の演奏技巧をはじめ、民族楽器の独特な奏法を大いに生かして、朝鮮人民のすぐれた音楽的才能が演奏ではっきり表現されるようにすべきである。

 洋楽器の演奏においても、それに固有なものを生かすべきである。主体性を確立するからといって、洋楽器を民族楽器のように演奏させるわけにはいかない。洋楽器の特性を無視してバイオリンを奚琴のように演奏するのなら、朝鮮音楽でバイオリンという楽器そのものを奨励する必要がなくなる。洋楽器には、洋楽器としての特性と長所があるのだから、それを奏法にもそのまま生かすべきである。要は、その奏法が洋楽器の特性にかない、そのうえ朝鮮音楽を巧みに演奏し、朝鮮人民の情緒を反映できるようにすることである。

 洋楽器でも、朝鮮音楽を朝鮮の拍子に合わせて巧みに演奏するなら問題はない。それぞれの楽器の独特な技巧を生かしながらも、朝鮮の拍子が十分感じられるように演奏すれば、洋楽器によっても朝鮮の味を出すことができる。

 音色もなるべく朝鮮の音色を生かすべきである。洋楽器の音色の鈍く濁った音、鋭い音は避け、充実していて、しかもソフトで穏やかな音色で演奏してこそ、朝鮮人民の好みと情緒に合うのである。

 洋楽器でも朝鮮の拍子と民族的情緒に合う音色を生かして朝鮮音楽を上手に演奏すれば、人民から歓迎される。

 演奏者は、音楽を朝鮮式に立派に演奏することによって、音楽的形象に朝鮮人民の民族的情緒と思想・感情がよく表現されるようにすべきである。





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