『音楽芸術論』−2 作  曲
 
5 多様なジャンルと形式の音楽を創作すべきである


 (1) 音楽は多様でなければならない

 労働があるところには歌があり、歌があるところには生活のロマンがある。工場や農村、いたるところで見られる朝鮮人民のはりあいのある生活は、そのまま幸せの歌となって響きわたっている。

 社会が発展し人々の文化水準が向上するにつれ、音楽にたいする要求もそれだけ高まるものである。

 こんにち、朝鮮人民の文化水準は過去に比ぶべくもなく向上し、音楽にたいする要求もいっそう高まっている。人々は、音楽を暇つぶしに聞くのではない。音楽を聞いて高尚で美しい情緒と革命的な情熱をつちかい、新しい力を得、励まされるのである。音楽のジャンルと形式を絶えず新しく多様なものにしてこそ、音楽芸術は、人々を思想的、精神的に、文化的、情操的に教育する使命と役割を果たすことができる。

 音楽芸術のジャンルと形式を多様なものにすることは、音楽舞踊総合公演のレベルをさらに高めるためにも必要である。音楽のジャンルと形式が多様であってこそ、音楽舞踊総合公演の演目編成と形式を豊かで多様なものにすることができる。

 音楽芸術のジャンルと形式を多様かつ豊富にすることは、音楽発展の合法則的要求でもある。

 音楽は、その表現手段と方式によって大きく声楽と器楽の二つのジャンルに分けられ、声楽と器楽は、それぞれ固有な特性をもつさまざまなジャンルと形式に細分化される。

 音楽芸術のジャンルと形式は、たえず高まる人民の志向と要求を反映して新しく発展し、豊富になる。それは、古典主義音楽からロマン主義音楽を経て現在にいたる音楽の発展過程が如実に示している。

 音楽のジャンルと形式が多様かつ豊富になるのは、従来のジャンルと形式の踏襲や模倣によってではなく、時代の要請と志向に即して、それを改造、変革したり、古いものを捨てて新しいものをつくりだす、たえまない創造の過程を通じてである。

 わが国での『血の海』式歌劇の創造は、芸術形式が時代と人民の要求に応じて変化、発展することを示す実例である。かつての歌劇形式は時代後れで、朝鮮人民の民族的感情と好みに合わなかったため、我々は、その枠を思い切ってうちこわし、朝鮮式の新しい歌劇形式である『血の海』式歌劇を創造して世に出したのである。『血の海』式歌劇は、わが党が歌劇発展のための闘争の過程でつくりあげた偉大な創造物であり、その優越性はすでに世界に広く認められている。

 伽琴の独・併唱や歌謡『同志愛の歌』にもとづく合唱と管弦楽曲『同志愛の歌』なども、我々が独創的に創造した朝鮮式音楽の新しいジャンルであり、形式である。このように、我々は相異なる声楽形式や器楽形式を結合したり、器楽と器楽、声楽と器楽を効果的に結合したりして、新しい演奏形式をつくりだした。

 我々は、これらの成果に満足することなく、音楽のジャンルと形式をさらに多様なものにするため大いに努力すべきである。

 (2) 声楽作品の創作に力を入れるべきである

 声楽は、人間の声を基本表現手段としており、歌詞をもつという点で器楽と区別される。声楽は歌詞をともなうので、聞き手は、音楽作品の思想的内容を容易に把握することができる。我々は、音楽の内容と形象上の意図が誰にも容易に理解され、生活のなかで大衆が愛唱できるような声楽を発展させることに、まず力を入れるべきである。

 歌謡は、大衆の生活といちばん密接に結びついている音楽ジャンルである。歌謡は、大衆のあいだにすぐ普及し、いつどこでも愛唱される大衆音楽の基本的形式である。我々は、人民大衆の生活にいちばんなじみ、誰にも愛唱される歌謡を優先的に発展させるべきである。

 朝鮮音楽の革命的な使命と役割をさらに高めるためにも、歌謡を発展させる必要がある。大衆を動員し組織化して革命と建設に立ち上がらせるうえで、歌謡ほど威力のある音楽はない。

 金日成同志は、抗日革命闘争の時期に革命的な歌に重要な意義を付与し、祖国の解放をめざす聖なる戦いに立ち上がった革命闘士の気高い精神世界を躍動するメロディーにもりこんだ革命歌謡を大いに創作するよう導いた。あの時期に創作された革命歌謡は、抗日遊撃隊員には不屈の力と勇気を、敵には恐怖と死を与えた。一篇の詩が大衆の心をゆさぶり、銃剣の及ばないところでは我々の歌が敵の心臓を貫くということをつねに肝に銘ずるべきだという金日成同志の言葉は、歌謡音楽がいかに大きな役割を果たすかを教えている。

 こんにち朝鮮人民は、革命の歌を高らかにうたいながら、党と呼吸をともにし、新しい社会の建設をめざして堂々と進んでいる。作曲家は、歌謡芸術をさらに発展させ、人民大衆を革命と建設に力強く立ち上がらせるすぐれた歌をより多く創作すべきである。

 音楽の他のジャンルを速く発展させるためにも、歌謡創作に力を傾ける必要がある。すぐれた歌さえあれば、それで重唱や合唱もできるし、器楽曲に編曲して演奏することもできる。わが党は、前から歌謡名曲にもとづいて多様な形式の器楽曲をつくることを器楽創作の方針としてうちだしている。党の器楽創作方針を立派に貫徹するためには、歌謡の創作から革新を起こさなければならない。多様な主題とスタイルの歌を多くつくってこそ、新しく特色のある器楽作品を立派に創作して、チュチェ音楽の花園をいっそう豊かにすることができる。

 舞踊や映画をはじめ、他の芸術を発展させるためにも、すぐれた歌がなければならない。名曲があってこそ立派な舞踊が生まれるということは、すでに創作実践によって証明されている。群舞『祖国のつつじ』『雪が降る』をはじめ、すぐれた舞踊はみな名曲から生まれたのである。すぐれた映画の主題歌は映画的形象に新味と生気を与え、映画を引き立てる。

 歌謡の創作では、党と領袖の頌歌を立派につくることが大切である。

 党と領袖を仰ぎ慕い、高くたたえるのは、朝鮮人民の誰もが胸に秘めている崇高な志向である。作曲家は、朝鮮人民のこの崇高な感情を思想性・芸術性の高い頌歌にこめてうたいあげるべきである。

 元来、頌歌は、荘厳な性格の音楽であり、主に合唱としてうたわれてきた。しかし、我々の時代の頌歌は、独唱としても合唱としても、また誰にでもうたわれるものでなければならない。

 党と領袖の歌は、宙に浮いたものであってはならず、幅があり、しかも生活と情緒がなければならない。

 頌歌の歌詞は、ストレートなものではなく、生活になじんだ形象性の高いものでなければならない。それでこそ、歌に深みと思索的余韻が感じられるようになる。党と領袖の歌は、明るく気品のあるものでなければならない。頌歌を荘厳なものにするからといって、重々しいものにしてはならない。頌歌もほかの歌と同様に情緒がなければならず、明るくなめらかなメロディーの流れのなかで自然に崇高な感情が漂うようにすべきである。

 頌歌のなかで『金日成将軍の歌』は、最高の名曲である。『金日成将軍の歌』は、うたいやすく、うたえばうたうほどすばらしいので、老若を問わず知らない人がなく、外国人にも愛唱されている。『金日成将軍の歌』は、複数でうたってもよいし、集団で行進しながらうたってもよい。この歌は、管弦楽で聞いても、合唱で聞いてもすばらしい。『金日成将軍の歌』は、聞くほどに力が湧き、金日成同志をいただいて暮らし、革命を進める民族的誇りと自負を植えつけてくれる。頌歌『金日成元帥にささげる歌』も傑作といえる。これは、1950 年代に人民軍協奏団でつくった立派な歌である。この歌には、幅があるうえに情緒もある。メロディーに情緒的な屈曲があり、歌の感情づくりもうまくなされている。頌歌はこの歌のようにつくるべきである。

 行進歌謡も大いに創作すべきである。

 我々はいま革命を進めているのだから、歌によっても人々を革命闘争に立ち上がらせる必要がある。人々を立ち上がらせるには、行進歌謡がいちばんである。軍隊を前進させるにしても行進歌謡がなければならない。

 行進歌謡だからといって歌詞をスローガンのように堅苦しいものにしたり、曲を叫ぶようなものにしてはならない。歌詞は、政策的な線が明確でありながらも、形象的なものでなければならない。

 行進歌謡は、曲が荘重で気迫にみちていながらも、旋律性がなければならない。革命歌謡『遊撃隊行進曲』『決戦の歌』『革命歌』などは、力強く、勇気を与える行進歌謡である。こういう歌をうたうと、何度倒れようとも敵と戦って必ず勝利せずにはやまない不屈の意志と強い力が湧いてくる。これらの歌は、気迫と迫力にみちており、旋律性が豊かで、うたいやすくもある。作曲家は、抗日革命歌謡と解放後に創作されたすぐれた行進歌謡をモデルにして、革命を進める我々の時代の人民が力強くうたえる行進歌謡をより多く創作すべきである。

 叙情歌謡も立派につくるべきである。我々には、戦闘的な歌だけでなく叙情歌謡も必要である。叙情歌謡は、人々に生活への希望と楽観をいだかせ、人民を新しい社会の建設へと奮い立たせるうえできわめて重要な役割を果たす。祖国解放戦争(朝鮮戦争)の時期に創作された『聞慶峠』や『塹壕でうたう』『故郷のわが家』などは、すぐれた叙情歌謡である。勇敢な人民軍の将兵はこういう歌をうたいながら、敵と戦って勝利した。

 こんにち、我々は、チュチェの時代、前進する自主の時代に生きている。作曲家は、時代精神が脈打ち、朝鮮人民の美しく気高い志向が反映された叙情歌謡を大いに創作すべきである。

 我々の叙情歌謡は、生活への信念と強い創造的情熱、革命的楽観にみちた我々の時代の人民の明るい情緒が強烈に感じられるものでなければならない。我々には、安穏で無気力な叙情は不要である。我々には、明るく希望にみちた、朝鮮革命の勝利の前進に資する健全な叙情が必要である。叙情歌謡を情緒豊かなものにするからといって無気力で緩慢なものにしたり、楽天的で情熱的なものにするからといって軽薄なものにしてはならない。叙情歌謡だからといって情緒を暗いものにするのは一つの偏向である。叙情歌謡は、メロディーがしっとりとして情緒が高尚で、聞き終えて余韻が残るものでなければならない。

 叙情歌謡は、ポピュラーなものにすべきである。芸術性を高めるからといって、うたいにくいものにするのは、技巧本位主義であり、形式主義のあらわれである。人民は、素朴でしかも芸術的形象の高いものを好む。

 『忠誠ひとすじに』は、すぐれた叙情歌謡の一つである。この歌は、不朽の名作『血の海』の原作を脚色して映画化したときにつくられたものである。この歌は、朝鮮人民の民族的な感情と現代的美感にかなった朝鮮式の新しい叙情歌謡を立派につくることが十分可能であるという確信をいだかせてくれる。以前、作曲家は、叙情歌謡には当然声を張りあげる箇所がなければならないものと考え、歌をうたいにくいものにした。そういう歌は、作曲家には必要かもしれないが、広範な人民大衆には不必要である。『忠誠ひとすじに』は、美しくなめらかな民族的旋律の特色を生かした歌であり、素朴でありながら気品がある。作曲家は、朝鮮人民の崇高な思想・感情と志向を反映した美しくなめらかで、うたいやすい叙情歌謡を大いに創作すべきである。

 労働歌謡や舞曲歌謡、それに生活を反映した歌も多くつくるべきである。このような歌は、人々に労働の喜びと生きるはりあいを感じさせ、新しい社会の建設をめざすかれらの闘争を大いに鼓舞する。

 声楽作品の創作では、重唱曲と合唱曲を立派につくることが大切である。重唱曲と合唱曲を歌謡にもとづいてつくるにしても、重唱曲は重唱曲として、合唱曲は合唱曲として、それぞれのジャンル的特性を生かすべきである。

 重唱曲は、2重唱、3重唱、4重唱、5重唱といったように複数の声部からなっているので、それぞれの声部の特性が生かされ、全体的な調和が保たれるようにしなければならない。

 合唱曲も上手につくるべきである。合唱曲は、新しく創作することもできるし、独唱曲や重唱曲のなかから合唱曲になるものを編曲してつくることもできる。

 無伴奏合唱も発展させるべきである。現在、わが国にはこれといった無伴奏合唱曲がない。無伴奏合唱は、管弦楽の伴奏による合唱よりもむずかしく、技術が必要である。無伴奏合唱を聞いてみれば合唱団の技量レベルがわかる。無伴奏合唱は、和声を上手にこなし、声部に趣向を凝らしてこそ効果をあげることができる。これまでの無伴奏合唱曲は、出だしと終わりをハミングにするのが通例であった。外国ではどうしようと、我々は無伴奏合唱も朝鮮人民の感情に合わせて朝鮮式にすべきである。

 伽琴独・併唱形式を発展させるべきである。

 伽琴併唱はもともと独りで伽琴を弾きながらうたうものであったが、解放後は複数の人が弾きながら歌うものに発展した。複数の人が伽琴だけで歌をうたうのは味も素っ気もない。伽琴だけで歌をうたうのは斉奏でもなければ重唱でもない、どっちつかずのものである。今後、伽琴併唱は、独唱と併唱に混成管弦楽の伴奏をそえる形式にするのが望ましい。

 合唱と管弦楽曲の形式を発展させるべきである。

 合唱と管弦楽曲は、わが国で探求、発見された新しい形式の声楽ジャンルである。合唱と管弦楽曲は、合唱と管弦楽が別々のものではなく、二つの部類が一つのアンサンブル体系内で有機的に結びついている独特な音楽形式である。

 合唱と管弦楽曲『同志愛の歌』は、合唱と管弦楽形式の代表的な作品である。これは、独唱と重唱、合唱、それに管弦楽も含めた大きなアンサンブル形式の作品である。以前はいかにすぐれた歌であっても、合唱として編曲するときは2、3節の歌に前奏と間奏を入れたにすぎなかった。しかし、合唱と管弦楽曲『同志愛の歌』では、歌と管弦楽を効果的に組み合わせて音楽的形象の幅を広げ、芸術的に気品のあるものにしている。合唱と管弦楽は、有節歌謡形式を独創的に発展させた朝鮮式の声楽アンサンブル形式である。わが国では、合唱と管弦楽曲『同志愛の歌』につづいて『永遠にこの道を行かん』や『金日成主席とともに千万里、党とともに千万里』など多くの作品が合唱と管弦楽曲の形式で創作された。我々は、今後もこういう大規模の声楽アンサンブル形式を大いに発展させるべきである。

 合唱と管弦楽曲を発展させるうえで重要なのは、図式主義を克服することである。この形式は、男女の声部からなるさまざまな声楽形式と管弦楽が有機的に結びつき、有節歌謡形式の特性を最大限に生かせるので、作品の構成と編曲手法を多様にするのは十分可能である。強い創作的情熱をもってたえず思索し探求してこそ、個性的で独創的な作品が生まれるのである。

 (3) 朝鮮式の器楽作品を創作すべきである

 器楽は、声楽とともに音楽芸術の2大構成部分をなしている。器楽を発展させなくては、社会主義的民族音楽芸術を全面的に、幅広く発展させることはできない。

 ヨーロッパの音楽史をみると、いつは声楽の時代で、いつは器楽の時代だといわれているが、これは音楽史発展の必然的な過程ではなく、封建的支配階級が音楽を独占したことに起因する時代的および社会的・歴史的制約性の結果といえる。人民大衆が歴史の主人となった我々の時代においては、声楽と器楽をひとしく発展させ、音楽芸術を人民大衆の真の文化的・精神的享有物にしなければならない。

 わが党は、器楽音楽を主体的に発展させるため独創的な器楽創作方針を示し、その貫徹をめざして努力してきた。その結果、多くのすぐれた器楽作品が創作され、勤労者の思想・文化教育に寄与している。こんにち、わが国の器楽は声楽とともに、人民的で民族的な音楽、大衆に愛される真のチュチェの音楽として発展している。

 器楽音楽は、時代とともに高まる朝鮮人民の崇高な精神世界を美しく豊かな芸術的形象によって描き出し、人民の文化的・情操的要求をさらに充足させなければならない。

 我々は、わかりやすく気品のある朝鮮式の器楽音楽を発展させるべきである。

 あっさりした形式の器楽小品を多く創作する必要がある。

 器楽小品は、規模が大きくなく構造が簡潔で、いつどこでも容易に演奏できるすぐれた形式である。

 器楽独奏曲は、さらりとしていながらも気品のあるものにし、やさしいものから高度の技術を必要とする作品にいたるまで多様につくるべきである。

 民族楽器のための独奏曲もつくり、洋楽器のための独奏曲もつくる必要がある。わが国の民族楽器のなかには、独奏用に使える立派な楽器がたくさんある。伽琴、奚琴(ヘグム)などの弦楽器や短簫(タンソ)、チョテ(横笛)、チャンセナプ(チャルメラに類するもの)のような木管楽器は、格好の独奏用楽器である。とりわけ、玉流琴(オンリュグム)は、音色が澄んでおり、奏法が多様であるため、作品がすぐれたものであれば独奏楽器としてどこに出しても遜色がない。作曲家は、楽器の特性にかなった多様な形式とスタイルの器楽小品を大いに創作して器楽音楽の発展に寄与すべきである。

 室内楽も朝鮮式に発展させるべきである。

 室内楽は文字どおり室内で演奏する音楽を意味するが、小さな演奏舞台に限らず大きい劇場でも演奏できる器楽重奏形式である。昔は、室内楽といえば普通、いくつかの楽章からなるソナタ・メドレー形式の独奏曲や重奏曲を意味した。しかし、いまは室内楽曲をそのようにつくる必要がない。

 我々は、美しく優雅なわが国の名曲にもとづいて、種々の楽器を効果的に組み合わせた多様で特色のある朝鮮式の器楽重奏曲を創作すべきである。

 我々は万寿台芸術団に女性器楽アンサンブルを設けて久しく、この部門で一定の土台を築いた。女性器楽アンサンブルは、女性で構成されているだけでなく、楽器編成が独特で、演奏形式が優雅にして高尚かつ素朴でありながら、気品があるという固有の特徴をもっている。女性器楽アンサンブルが創造した立派な芸術的成果は、国内だけでなく外国にも広く紹介されて好ましい反響を呼んでいる。

 いま各芸術団体が、器楽重奏形式を発展させるために努力を傾けているが、これは好ましいことである。その間、数回にわたる器楽重奏競演を通じて重奏への関心と要求が高まり、演奏レベルも一定の段階に達したといえる。しかし、器楽重奏を発展させるためには、より多くの探求と努力が必要である。

 器楽重奏を発展させるうえで重要なのは、その特性を生かして作品を創作することである。

 室内楽は、一般的に繊細に個性化され、独自性がなければならない。器楽重奏は、重奏としての素朴な面貌と、高い芸術的気品をそなえていなければならない。そうあってこそ、重奏としての味わいがあり、芸術的効果をさらに高めることができる。いつだったか、中央のある芸術団が、器楽重奏『夜空の雪よ』を原曲のスタイルと違ったものにしたことがあった。この歌はメロディーが美しく素朴であるにもかかわらず、コントラストをもたせるといって中間部を劇的に展開し、演奏においてもドラマ性だけを強調したので、歌の素朴さは失われ、ぼたん雪が降るのではなく、まるで暗雲が押し寄せてくるような感じであった。素朴な器楽重奏曲で交響楽の感じを出そうとしたのは、作曲家の主観である。器楽重奏は、あくまでも清楚でスマートな感じがしなければならない。

 器楽重奏を発展させるためには、その編成を多様で特色のあるものにしなければならない。万寿台芸術団の女性器楽重奏が模範だからといって、他の芸術団もその編成を真似る必要はない。万寿台芸術団の編成も一種にしぼっているのではなく、3重奏や4重奏、5重奏など多様である。器楽重奏は、弦楽器だけのものや弦楽器と木管楽器を組み合わせたものなど、多様でなければならない。

 民族器楽重奏の編成も、一つや二つに限らず、多様化すべきである。現在、民族木管楽器を基本とする重奏だけがおこなわれているが、伽琴や玉流琴などを入れて大胆に新しいものを試みるべきである。

 器楽分野では、交響楽の発展にも力を傾けるべきである。

 わが国の交響楽の歴史は浅いが、党の正しい指導のもとにいまでは立派な演奏集団とすぐれた創作陣容を擁しており、前途有望である。以前、一部の人は交響楽といえばベートーベンやチャイコフスキーの交響曲でなくてはならないかのようにヨーロッパの交響曲を崇拝し、朝鮮の交響曲を作るにしてもヨーロッパ式の交響曲をそのまま真似たものである。そのような音楽が、人民大衆の好みに合うはずはない。にもかかわらず、ヨーロッパの交響曲を崇拝する人たちは、大衆の文化レベルが低いからそれが理解できないのだとかれらを冒涜した。そういう人たちは、例外なく事大主義に冒された人であり、音楽を知らない人である。

 もともと交響曲や協奏曲といった音楽は、封建貴族階層の生活と結びついているものであった。当時の作曲家は、たいてい中産階層であったか、富裕な階層に寄生する人であったので、かれらは貴族をはじめ、社会の上層部の人たちの好みに合う音楽をつくるほかなかった。昔の有名な作曲家のなかには、宮殿や貴族所有の楽団に雇われて音楽活動をした人が多く、自分の作品を伯爵誰それに、または、どなたに贈るといった形式をとることも少なくなかった。我々は、ヨーロッパの古典音楽の時代的および社会的・階級的制約性を正しく認識してかからなければならない。

 もちろん、ヨーロッパの古典音楽は、人類の文化が創造した貴重な財産の一つである。我々はヨーロッパの古典音楽も知るべきであり、それを演奏するときは外国人よりも上手でなければならない。しかし、我々の交響楽を発展させるうえでヨーロッパ式の交響楽を真似る必要はない。我々は、交響楽も朝鮮人民の好みと感情に合わせて朝鮮式に発展させるという原則を堅持すべきである。

 これまで我々は、交響楽の分野でも主体性を確立するために努力した結果、民族的かつ人民的で現代的な交響楽を多く創作して世に出すことができた。『血の海』をはじめ、一連の交響楽や、『青山の原に豊年がきた』『アリラン』などの数々の管弦楽曲、それにピアノ協奏曲『朝鮮はひとつだ』、バイオリン協奏曲『思郷歌』などは、すべてわが国の名曲にもとづいてつくられたものであり、思想性・芸術性が高いうえに誰でもすぐ理解できるすぐれた交響楽である。これらの作品は、主題に意義があるだけでなく、規模が大きく、音響の幅、多様な管弦楽的トーン、音楽発展の積極性と豊かな交響楽性をもっているため、作品の高い思想性・芸術性が立派に保たれている。こんにち、朝鮮の交響楽は、大衆に愛される真に人民的な交響楽となっている。中央のある交響楽団が労働者地区に出かけて公演をしたときアンコールを受けたとのことだが、これは朝鮮式の新しい交響楽がかれらの心をゆさぶり、かれらが心からそれを受け入れたことを示している。

 ところがいま、朝鮮の交響楽は、数が少なく、そのジャンルと形式も多様ではない。今後、交響楽をより多く、より立派に創作して、チュチェの器楽音楽をさらに高いレベルに引き上げるべきである。

 作曲家は、それぞれの作品の構成形式、管弦楽の組み方と色彩を独特で多様なものにし、和声や複声などの表現手段を能動的に活用して、特色のある個性的な交響楽を創作すべきである。

 管弦楽組曲も立派な形式の一つである。組曲は、民謡や歌謡でもつくれるし、映画音楽でつくることもできる。映画音楽組曲は、映画の主題歌をアレンジしてつくるものであるから、管弦楽だけでなく歌も組み入れ、それに合わせて映画のシーンを見せたり、スライドで画面を映し出すこともできる。映画音楽組曲では、管弦楽によるバックミュージックを流してナレーションを入れるのもよい。

 器楽音楽分野では、軽音楽をうまくつくるべきである。

 軽音楽は、文字どおり軽い音楽であり、室内楽や交響楽とは区別される大衆音楽の一ジャンルである。軽音楽は、とくに青年のあいだに人気があり、かれらの楽天的で希望にみちた生活と切り離すことができない。

 我々は、朗らかで生活になじんだ朝鮮式の軽音楽を多くつくるべきである。

 朝鮮式の軽音楽は、メロディーを基本とすべきである。外国の軽音楽がリズムを基本にしているからといって、我々もそうする必要はない。朝鮮式の固有なメロディーと拍子があるのだから、外国のリズムを真似ることはない。リズムを基本とする軽音楽は、朝鮮人民の民族的情緒に合わず、音楽そのものの特性にも合わない。外国の軽音楽もリズムを基本にしていたが、最近はメロディーを重視する傾向にある。軽音楽は、あくまでもメロディーを基本とすべきである。

 軽音楽は、それに適した歌を選択するとともに、軽音楽の特性を生かして面白く、軽快に編曲しなければならない。歌の性格からしてギターを生かすべきところではギターを、アコーディオンを生かすべきところではアコーディオンを生かすというように、いろいろと変化をもたせて、おもしろいものにすべきである。すべての楽器に声部をひとしく与えるといったやり方では、軽音楽の特性を生かすことはできない。

 軽音楽の編成に民族木管楽器を入れるのは、軽音楽を朝鮮式に発展させるうえできわめて重要なことである。数年前にピバダ歌劇団が創作した軽音楽と民謡斉唱『歌声ひびくわが祖国』は民族木管楽器を入れたものであったが、音色が独特で非常に耳に心地よかった。軽音楽の編成に竹管楽器を入れたのは、新しい発想である。軽音楽の編成に短簫やチョテ、ピリ(ヒチリキに似た笛)などを入れると音色も変わり、朝鮮的な味をさらに生かすことができる。

 軽音楽を発展させるためには、軽音楽専門の作曲家がいなければならない。軽音楽だからといって簡単につくれるわけではない。軽音楽には、軽音楽としての特性があるので、それに精通しなくては作曲も上手にできない。我々は、ヨーロッパ式でもなく、昔の楽劇団の方式でもない、我々の方式による独特な現代朝鮮の人民的で民族的かつ生新で健全な軽音楽を創造しなければならない。

 (4) 『血の海』式歌劇をさらに発展させるべきである

 『血の海』式歌劇は、我々の時代の要請を反映した新しいタイプの歌劇である。『血の海』式歌劇は、主体的文芸思想を立派に具現することによって、内容において革命的で社会主義的であり、形式において人民的で民族的な社会主義・共産主義音楽芸術の真のモデルとなっている。

 人類史における歌劇の発生は、音楽芸術を支配階級の専有物から大衆的な劇場芸術に転換させようとする進歩的な志向によるものであったといえる。しかし、歌劇の歴史は、数百年に及んでも、『血の海』式歌劇のように内容と形式において人民の志向と思想・感情を時代の要請に即して立派に具現した歌劇はなかった。我々は、歌劇革命を通じて『血の海』式歌劇の創造でおさめた尊い成果をかためながら、思想的、芸術的にすぐれた新しい歌劇をより多く創作することによって、革命歌劇建設におけるわが党の偉大な業績をさらに輝かさなければならない。

 『血の海』式歌劇を発展させるためには、歌劇の主題とスタイルを多様化しなければならない。

 とくに、労働者階級の闘争を主題とした歌劇に力を注ぐべきである。

 労働者階級を描いた文学・芸術作品を多く創作することは、文学・芸術建設でわが党が堅持している方針である。

 党と領袖に限りなく忠実な労働者階級の典型を描いた歌劇をつくることは、党員と勤労者が、労働者階級の革命的な思想と不屈の闘争精神、気高い品性を見習い、みずからをチュチェ型の革命家として準備していくようにするうえで重要な意義をもつ。我々はいかなる逆境にあっても党と領袖に従い、党の路線と政策を断固擁護してたたかう労働者階級の典型を歌劇に立派に描き出して、すべての党員と勤労者が歌劇の主人公のように生き、たたかっていけるようにすべきである。

 『血の海』式歌劇の主題とスタイルを多様化するためには、現代物と古典物を組み合わせる必要がある。

 民族古典作品を『血の海』式歌劇にするうえで重要なのは、歴史主義の原則とともに現代性の原則を正しく具現することである。民族歌劇『春香伝』の創作にとりかかった当初は、月梅の性格をこんにちの時点で正しく規定できず、旧来どおり偏屈な人物として描き、彼女がうたう歌も古くさいパンソリ(語り歌)調のものであった。また、さげすまれ見捨てられた母としての月梅の素朴な性格が正しく描かれず、春香と夢竜(モンリョン)の愛を描く美しくなめらかな歌劇音楽のスタイルの統一が保たれていなかった。香丹(ヒャンダン)や房子(パンジャ= 李朝時代地方官庁に仕えた下僕)にしても、酒や踊りに明け暮れる怠け者のように描いたので、かれらの階級的性格が明確に生かされなかった。

 この歌劇は、月梅や香丹、房子の性格描写の問題をはじめ、一連の欠点をこんにちの時点で是正した結果、『血の海』式歌劇の創作原則にもとづいた新しいタイプの民族歌劇として立派に創作された。

 創作家は、新しい歌劇創作における美学的問題を正しく解明し、『血の海』式歌劇の主題とスタイルを多様化すべきである。

 『血の海』式歌劇を発展させるためには、『血の海』式歌劇の創作原則を確実に具現しなければならない。

 『血の海』式歌劇の創作でなによりも重要なのは、歌を有節歌謡化するという党の方針を貫徹することである。

 『血の海』式歌劇は、劇的方式と劇作術において従来の歌劇と根本的に区別される新しいタイプの歌劇である。この歌劇の音楽的・劇作術的特性の一つは、歌がせりふや行動、劇の場面を機械的に追うのではなく、歌劇音楽の全体的なスタイルを規定し、劇の場面と人物の内面世界を情緒的に一般化しているところにある。『血の海』式歌劇の歌は、レチタティーボやアリアのように劇的な行動と状況を機械的に追う従来のヨーロッパ式歌劇の音楽形式とは異なり、普通の有節歌謡になっている。

 歌劇で場面と音楽の統一を保つ方途は、歌がせりふや行動、状況を追うのではなく、場面と状況を音楽的に一般化することにあり、個々の歌を美しくなめらかなものにし、ドラマ性を歌唱と管弦楽によって生かすことにある。生活を掘り下げて一般化した歌は、俳優が悲しそうにうたえば悲しい歌になり、楽しそうにうたえば楽しい歌になるのである。革命歌劇『党の真の娘』のなかの『なつかしき将軍はいずこに』は、主人公が太白(テベク)山の病棟の場面でうたうときは悲しく切々たる歌になっているが、最高司令部の夢を見る場面でうたうときは希望にみちた歌になっている。

 我々は歌劇の創作において、『血の海』式歌劇の創作原則に従って有節歌謡を美しくなめらかな名曲にし、人民の感情に合って誰もが楽しめるものにすべきである。

 『血の海』式歌劇の創作原則を貫くには、有節歌謡によって劇をうまく運ばなければならない。

 有節歌謡で劇をうまく運ぶには、主調歌をすばらしいものにしなければならない。歌劇には、主題歌とともに、それを中心とするさまざまな主調歌がなければならない。歌劇の歌はみなすばらしいものでなければならないが、とりわけ、主調歌は必ず名曲にしなければならない。それでこそ、主調歌のメロディーを反復し、それをテーマ旋律にして歌劇のスタイルを明確にし、テーマ旋律から他の歌を派生させて歌劇のスタイルを統一させることができる。

 主調歌のうち、とくに主題歌をすばらしいものにしなければならない。

 主題歌は、歌劇の主題・思想をあらわす基本主調歌である。歌劇で主題歌のメロディーは、ドラマの主要発展段階と契機で反復されて、歌劇の全般的な線を描き、スタイルを統一させるうえで中枢とならなければならない。

 歌劇にはいくつかの劇的な線があり、それには、作品の種子と主題・思想を貫く中心的な線がある。この劇的な中心の線で反復されるメロディーは主題歌となるべきである。

 不朽の名作『血の海』を脚色した革命歌劇『血の海』では、主題歌である『血の海の歌』を序曲と恨みの血の海の場面、抵抗と闘争の血の海の場面などで反復することにより、歌劇全般において恨みの血の海を抵抗と闘争の血の海に変えるという作品の種子が明確にされている。革命歌劇『花を売る乙女』でも、序章で主題歌の『いつも春には』を流し、そのテーマ旋律を反復して終章で『革命の赤い花は咲き誇る』を流して、悲しみと孝行の花かごが闘争と革命の花かごに変わるという深奥な種子を明確にしている。革命歌劇『血の海』では、主調歌の一つである第1章の『乙男(ウルナム)よ泣くな』のテーマ旋律を第6章の『母の薬を買ってきた』で反復することによって乙男の線を強調し、その成長過程をよく描き出している。『血の海』式歌劇の創作においては、主題歌と主調歌をうまくつくることに力を入れるとともに、テーマ旋律の反復手法をそれに合わせて生かし、すべての歌をそこから派生させ、歌劇の音楽スタイルの統一をなすことに注意を払う必要がある。

 有節歌謡でドラマをうまく運ぶには、音楽の感情づくりで有節歌謡による生活の蓄積を明らかにしなければならない。

 有節歌謡による生活蓄積の描出は、『血の海』式歌劇の劇作術の主な特徴の一つであり、歌劇でドラマを発展させる効果的な方法の一つである。『血の海』式歌劇のドラマの進展は、従来の歌劇のようにレチタティーボによる劇的場面と、アリアなどの歌による叙情的な場面の交替過程によってではなく、個々の劇的場面と生活を音楽的に一般化した有節歌謡によって感情を蓄積し、蓄積された感情を主調歌をはじめ、重要な歌で爆発させることでドラマを進める独特な手法によってなされる。革命歌劇『花を売る乙女』では、コップニがさげすまれ辱められる場面を展開しながら有節歌謡による生活の蓄積をつづけ、歓楽街にある薬屋の主人がコップニに同情して薬をつくってやる場面で感情を爆発させ、劇的な感情を高めることによって、コップニに深い同情が集まるようにしている。ところが、民族歌劇『春香伝』を最初創作したときは、春香と夢竜の別れの場面を描きながらその生活の蓄積を見せずに、別れの場面だけを長々と見せていた。その結果、別れの場面そのものも生かされなかったばかりか、春香と夢竜が百年の契りを結ぶやいなや別れるようにとれた。これは、有節歌謡によって生活の蓄積を描出するという『血の海』式歌劇のドラマづくりの要求を具現しなかったために生じた欠点であった。その後、改めて別れの場面を縮め、その代わり前の場面で春香と夢竜の愛情関係をこまやかに見せることができるようによい歌をつけ加え、有節歌謡によって生活を蓄積するようにした。その結果、歌劇の前半部で二人の愛情関係を見せながらも、別れの場面の感情づくりが実感のこもったものになった。

 ドラマづくりでドラマ進展の主な段階と契機が設定され、そこに主調歌をはじめ、重要な歌が配されたあとは、感情づくりを綿密にして、有節歌謡による生活の蓄積と感情の爆発を手際よく解決しなければならない。

 『血の海』式歌劇の創作においては、パンチャン(傍唱)の機能と役割をさらに高めるべきである。

 『血の海』式歌劇のパンチャンは、我々がはじめて着眼し、取り入れた歌劇の有力な手段である。『血の海』式歌劇のパンチャンは多様な叙述的特性をもっているため、歌劇のドラマづくりを自由自在にできる万能の形式となっている。歌劇の創作においては、パンチャンの多様な叙述手段を大いに活用し、新しく見いだすことによって、その機能と役割をさらに高めるべきである。

 『血の海』式歌劇の創作原則を確実に具現するためには、管弦楽の役割を高めることも大切である。

 歌劇の管弦楽は、有節歌謡を機械的につないでいく役割を果たすだけにとどまってはならない。歌劇では、管弦楽が有節歌謡を歌のスタイルとストーリーに合わせて一つにつなぎ合わせることが重要である。革命歌劇『党の真の娘』を創作するとき、有節歌謡形式のすばらしい歌をつくったにもかかわらず、管弦楽がそれらを一つにつなぎ合わせることができなかったため、管弦楽の作業を何回もやり直したことがある。歌劇の管弦楽は、それなりの道があるのであるから、管弦楽の作業もそれに合わせておこなうべきである。

 我々は、有節歌謡、パンチャン、管弦楽といった『血の海』式歌劇の基本手段が有機的に結合した統一的な音楽的形象によって歌劇の主題・思想と人物の性格をきわだたせ、それを演技、演出、舞踊、舞台美術と密接に結びつけることによって、総合芸術形式としての『血の海』式歌劇の創造的威力をさらに高めなければならない。





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