『音楽芸術論』−2 作  曲
 
4 編曲は創作である


 (1) 編曲は音楽的形象を豊かにする

 編曲は、原曲の思想的内容と情緒的トーンをきわだたせ、音楽的形象を豊かにする。

 編曲とは、原曲の声音を多声化したり構造を拡大変形し、楽器の編成を改めて音楽的形象を新たなものにする創作作業をいう。

 編曲には、歌のための伴奏編曲、旋律声部を多声化する声部編曲、楽器編成を移し変える編曲、主題を展開して新たな形象を創造する編曲など、種々の形がある。編曲がどんな形をとっても、それはすべて創作とみなすべきである。編曲が創作となるのは、それが音楽的形象を豊かにしたり、新しいものにする創造的な活動であるからである。

 歌の伴奏編曲などもおろそかにしてはならない音楽創作作業の一つである。伴奏は、メロディーの意義を高め、その情緒を豊かにするうえで大きな役割を果たす。伴奏が上手であれば、興に乗って自然に歌をうたえるが、伴奏が下手であると、歌手に負担をかけたり、心にゆとりをもたせないため、歌を満足にうたえなくする。

 楽器の編成を変える編曲の過程も簡単なものではない。ピアノ用の作品を管弦楽総譜に移し変えたり、管弦楽用の作品をピアノの譜に移し変えるといった編曲過程は簡単なようであるが、それも作曲家の真摯な思索と探求なくしては成果をおさめることができない。いくら単純な編曲過程であっても、数学の問題を解くように、この楽器あの楽器に声部を割り振るといったような一つの公式に当てはめることはできない。編曲では、楽器の特性とその結合による音色と音量の関係、管楽器の様式といった種々の問題を十分考慮してこそ、音楽的効果を顕著にあらわすことができる。

 テーマ旋律を展開して新たな形象を創造する編曲は、より積極的な創造的思索と探求を要する創作の一種である。同じテーマ旋律でも、表現手段と手法、構成形式によって、音楽は合唱曲にもなり、独奏曲、重奏曲、管弦楽作品にもなる。作曲家は編曲によって、自分の創作上の構想と意図に即してテーマ旋律を発展させ、簡単なテーマ旋律をもってしても構造を拡大し、音楽作品の規模を大きくすることができる。

 編曲で重要なのは、作曲家が自分の創造的個性と独創性をいかに発揮するかということである。編曲にあたって、作曲家は個性と独創性を発揮して原曲の性格とスタイルを生かしながらも、音楽をいかにして新味が感じられ変化のあるものにするか、新しい表現手段や手法をどう用い、作品の構成をどのようなものにするかといった問題に深い関心を払わなければならない。それゆえに、編曲は決してメロディーの創作より容易ではなく、編曲の過程は新しい音楽的形象を創造する過程なのである。

 こんにち、朝鮮音楽の実践において編曲は、きわめて重要な位置を占め、その役割は日増しに高まっている。

 人民に広く知られた名曲と、朝鮮民族の宝である民謡を素材にして器楽音楽を創作することは、わが党が示した方針である。

 名曲と民謡を素材にして器楽作品を創作するということは、名曲と民謡のメロディーを主題とし、それを編曲して器楽作品を創作するということである。

 人民に広く知られている名曲と民謡を素材にして器楽作品を創作することは、朝鮮音楽を主体的に発展させ、器楽音楽の人民性を確たるものにする重要な方途の一つである。

 わが国の作曲家は、数々のすぐれた器楽小品や室内楽、交響楽を創作して世に出した。党の方針どおり、人民に広く知られている歌と民謡を主題とし、それを編曲してつくられた器楽作品は、ヨーロッパの器楽音楽とは違って誰にもすぐ理解され、人民に愛されている。

 元来、大衆に広く知られたすぐれた歌は、一つの形式に限らず、独唱や重唱、合唱形式でもうたい、種々の器楽曲としても編曲すべきである。そうしてこそ、歌がいっそう引き立ち、大衆の教育においても大きな作用を及ぼすようになる。

 これまで我々は、新しい作品を創作するとともに、既成のすぐれた歌をさまざまな音楽形式に編曲して使うよう大いに奨励してきた。その結果、音楽のジャンルや形式も以前に比べて多様化し、音楽舞踊総合公演の演目と形式、放送用音楽とテレビ画像音楽も豊富になった。

 編曲は、歌のメロディーの創作に劣らぬ困難な作業であり、高い創作的技巧が求められる。自分がつくった歌を自分で編曲できない人は作曲家とはいえない。誰それはメロディーをつくるのはうまいが編曲の腕は劣るのでメロディーだけつくらせ、また、誰それは編曲の腕があるから編曲だけさせるというようなことをすると、創作家が奇形化してしまう。作曲も編曲も上手にこなす人が真の作曲家である。

 作曲家は、高い編曲技術を身につけるためたゆまぬ努力をつづけ、創作実践を通じて編曲技術を一つひとつ修得していくべきである。

 (2) メロディー本位に編曲するのが朝鮮式である

 編曲は朝鮮式にしなければならない。

 編曲を朝鮮式にするということは、リズム本位ではなくメロディー本位にするということである。名曲にもとづいて種々の器楽作品を編曲するときテーマ旋律を生かすのは、朝鮮式の編曲で守るべき一貫した原則である。編曲をリズム本位にすると、メロディーが無視されたり失われて、何をあらわそうとしているのかわからなくなる。

 管弦楽であれ軽音楽であれ、どんな曲を編曲するにせよメロディーを基本にし、それにリズムを乗せるべきである。メロディーを基本にすれば、リズムがいくら変わっても快く聞こえる。

 編曲では、リズムを生かすからといってメロディーを無視してはならないが、メロディーを生かすからといって音楽を無味乾燥なものにしてもならない。編曲は、テーマ旋律を生かしながらも、総合的な響きが豊かで立体感のあるものにすべきである。

 編曲でメロディーを生かすには、テーマ旋律をばらばらにしないことである。

 テーマ旋律をばらばらにして、上げたり下げたり、あれこれと細工すると、メロディーが細切れになり、曲想から離れて、はては、何を描こうとしたものか、形象的内容がわからなくなってしまう。メロディーをばらばらにして音楽を展開するのは、作曲家によってつくられた「器楽的な主題」にもとづいて音楽を展開するときに用いる発展手法の一つである。こういう発展手法にもとづいた音楽は、専門家にしか解されず、広範な人民大衆が理解し楽しむ音楽にはなりえない。音楽は、簡潔で、意味が明確に伝達され、しかも深い情緒が感じられるものでなければならない。

 メロディーをばらばらにして音楽を展開する方法は、名曲や民謡を素材とする器楽音楽創作の本質的要求にも合わない。名曲は思想性が高く情緒が豊かなので、楽器で何回か繰り返し演奏するだけでも、人々に大きな情緒的感興を与えることができる。美しく意味の深い名曲のメロディーをばらばらにして細切れにすると、かえって音楽的形象の価値を低下させることになる。ピバダ歌劇団が、歌謡『金日成元帥にささげる歌』をピアノ協奏曲用に編曲したことがある。ところが、作曲家がピアノ曲の特性を生かそうとして、第1節も終わらぬうちにメロディーをばらばらにしてあれこれ細工し、好き勝手に編曲したため、原曲のメロディーは細切れになり、何の歌なのかまったくわからなくなってしまった。朝鮮人民なら誰もがみな知っており、敬虔な感情をこめてうたう名曲を好き勝手に編曲するのは、観客を愚弄するにひとしい。

 我々はすべての面で人民性を主張するものであり、芸術においても人民性を具現しなければならない。人民性の欠如した音楽は無用であり、それは単なる音の遊戯にすぎない。真の芸術性は、つねに人民性を前提とする。

 音楽を一つのメロディーで貫けない場合もある。とくに、テーマ旋律を劇的に解き明かしていくときは、さまざまな表現法を多様に活用することになるので、主題の旋律素材にもとづく加工発展手法を用いることもできる。管弦楽『青山の原に豊年がきた』や交響曲『血の海』の第3楽章『革命の旗』で、このようなテーマ旋律の加工発展手法が巧みに用いられている。要は、どんな歌を編曲するにせよ、原曲の情緒が十分に生かされ、メロディーの持ち味が失われないようにすることである。

 編曲は、新味が感じられるようにすべきである。

 人間の生活は多様であり、芸術にたいする情緒的感触も各人各様であるので、作品が多様でそれぞれに特色があってこそ、音楽芸術の認識的・教育的機能をいっそう高めることができる。

 作曲家それぞれの思想や感情、生活体験、芸術的レベルといったものは、編曲においても個性的な特性としてあらわれるものである。

 編曲は、特色があり新味があってこそ、聞きごたえがある。すぐれた音楽はいくら聞いても聞き飽きないものであるが、人のものを真似た音楽は、新作のものであっても新味が感じられない。人々に音楽を聞くよう強要することはできない。人々が聞きたい、うたいたいと思う音楽であってこそ、真の人民の音楽といえる。何の創作的探究もなしに、編曲を図式的な枠にはめて千編一律にするなら、特色と新味のある音楽作品をつくることはできない。芸術作品は、独創的で個性的かつ非反復的なものであってこそ引き立ち、永遠の生命力をもつようになる。模倣は、紋切り型と類型を生み、紋切り型と類型は芸術に死をもたらすだけである。

 編曲に特色と新味をもたせるには、表現手段と手法を多様かつ独特に用いなければならない。表現手段と手法が独創的で個性的であってこそ、作品の思想性が鮮明になり、情緒的感化力が増大する。

 音楽の表現手段と手法をどう用いるかは作曲家にかかっている。情熱を燃やし、思索をめぐらしてたえず新しいものを探究する作曲家は、人民に愛される立派な音楽を創作することができるが、そうでない作曲家は一生、後世に伝えるべき作品を一編もつくりだすことができない。編曲は新しい形象を創造する作業であるので、頭を使えば使うほどよい手法が浮かぶものであり、よい手法が浮かべば編曲の腕も上がり、独特で個性的な作品を創作することができる。

 音楽的形象において和声は重要な役割を果たす。和声をどう用いるかによって音楽のトーンが変わってくる。和声がリズムとともに妙技をふるえば、澄んだ明るい歌を暗いものにしたり、荘重な歌を軽やかなものにすることができる。

 和声はそれ固有の音響的なトーンによって、民族的な特性を生かしたり、現代的な美感をきわだたせたりする。作曲家は、和声のもつ豊富な形象的可能性を正しく認識し、民族的情緒と時代の美感にかなった新しい和声の探究に深い関心を払うべきである。

 和声は、その構成がどのような原理にもとづき、何を基底にして形成されているかを問わず、メロディーの美しさを高めることに服従しなければならない。いかに仰々しい和声を用いても、歌に秘められている深い意味と高尚な情緒をもりあげることができなければ、用をなさない。

 音楽では、人民が容易に理解できるように平凡かつ素朴な和声を用いるべきである。鋭い不協和音や複雑な和声法を乱用して響きを荒々しいものにしたり、音楽の流れを煩雑なものにすると、メロディーを濁らせるおそれがある。

 和声を古典的な基本図式に教条的に合わせ、主和音をただ単純に用いるばかりであってもならない。メロディーの性格からして必要な場合は、適当な箇所で種々の不協和音や複雑な和声法を用いて、メロディーの性格や形象上の意図をきわだたせることもできる。ひとことで言って、和声は耳に快いものにしながら、メロディーの性格と個性に合わせて用いるべきである。

 和声をメロディーに合わせて用いるには、和音が旋律音に合うだけでなく、メロディーの全般的な様式とスタイルにも合わなければならない。和声には音楽言語としての一定の様式があるので、軽音楽に用いる和声と交響楽に用いる和声は、様式上、相異なる特性をもつようになる。同じ交響楽の場合でも、深刻な哲学性のあるスタイルと明るい民謡風のスタイルは異なるので、和声を用いるうえでもその方式は、それぞれ違ったものでなければならない。

 和声を用いるうえで民族的特性を生かすべきである。西洋で用いられる和声と我々が用いる和声がまったく同じものであるなら、朝鮮音楽の民族的特性を生かすことはできない。我々は、民族的旋律を基調とし、朝鮮のメロディーにふさわしい朝鮮式の民族的和声を発展させなければならない。

 編曲に特色と新味をもたせるには、複声法も多様に用いる必要がある。わが国の器楽作品の主題は大部分が有節歌謡形式の名曲にもとづいているので、多様な複声法を活用して音楽の単調さを避け、響きを立体的で豊かなものにしなければならない。

 複声法は、あくまでもテーマ旋律を生かすことに服従しなければならない。編曲では、テーマ旋律を複声法によって解き明かすこともあれば、対位旋律をもって展開することもある。いずれにせよ、作曲家はテーマ旋律の民族的性格とスタイルにもとづき、その深い意味と情緒がきわだつように編曲すべきである。

 楽器編成に特色をもたせることも、編曲を新味のあるものにするうえで大きな作用を及ぼす。

 楽器編成を通例のやり方ですると、新しい音楽であっても新味を出すことができない。歌を古典的形式でのみ編曲すると、音楽で新味と現代的な感覚が生かされない。作曲家は楽器の組み合わせとその利用において、新しいものを探求する創作家としての姿勢と立場を堅持すべきである。時代は前進し、美にたいする人民の感覚と評価もたえず変わっていく。昨日の表現手段、手法がいかにすぐれたものであっても、それは、時代とともに変化、発展するものである。個性的で独創的なうえに、時代感と人民の美学的要求にかなった表現法を探求、利用するところに、編曲を成功へと導くカギがある。

 作曲家が編曲を立派におこなうためには、高い技巧を身につけなければならない。

 いくら創作への情熱を燃やし、思索をめぐらしたとしても、技巧がともなわなければすぐれた音楽的形象を創造することはできない。我々は技巧ばかり重視し、それを絶対視する技巧主義には反対であるが、創作における技巧の役割は重視し、それを大いに奨励している。世界的な作曲家は、みなすぐれた技巧の持ち主であった。かれらは、すぐれた技巧によって自分の創作上の理想を実現し、歴史と時代を代表する名曲をもって人類の音楽発展に寄与した。作曲家は、これまでのあらゆる進歩的ですぐれた音楽的形象の手法と技法を習得し、それを広く活用するとともに、我々の時代の人民の好みと情緒にかなった新しい手法を探求して、編曲に決定的な転換をもたらすべきである。

 (3) 編曲は構想がすぐれていなければならない

 編曲は音楽の主題を展開していく形象創造の作業であるため、それには音楽の流れのための一定の秩序がなければならず、それを作品の形象的内容に即して実現させるための操作が必要である。作曲家が音楽を展開するために練る創作案を編曲構想という。

 編曲は、単に楽器を配分し和音を合わせる実務的な作業ではなく、音楽的形象を拡大し豊かにする創造的な作業である。したがって、編曲を立派におこなうためには、必ず作曲家の創造的思索と芸術的探求によって得られた構想がなければならない。設計なくしては家が建たないように、構想なくしては立派な編曲は期待できない。作曲家は、構想に格別の意義を付与し、立派な音楽的構想を立てるために頭を働かせるべきである。

 作曲家の音楽的構想は、主題の選択から実現される。器楽作品は、まず主題が示され、それにもとづいて音楽が展開されるので、作曲家は主題の選択に第一義的な関心を払わなければならない。主題をどう選定するかによって編曲の成果が左右される。

 従来の器楽音楽では、主題を器楽的に加工し発展させることを前提としていたため、完結したメロディーよりも、音楽的に加工し発展させることのできるメロディーの断片に器楽的な主題を見いだそうとした。しかし、我々は、名曲と広く知られた民謡を素材にして器楽曲をつくるので、形式的、構造的に完結し、器楽曲として展開できるメロディーに器楽的な主題を求めなければならない。

 器楽作品に編曲するときは、音楽のテーマ旋律を楽器の特性に即して選定しなければならない。

 ソナチネや協奏曲をつくるときには、独奏楽器の特性に即して主題を選定すべきである。そうしてこそ、楽器の表現力を最大限に生かし、演奏で成果をおさめることができる。楽器ごとに独特な音色があり、表現的可能性も異なるので、歌もそれに見合ったものを選定すべきである。

 編曲では、作品のジャンル的特性に即して主題を選定しなければならない。

 管弦楽は管弦楽として、器楽重奏は器楽重奏として、軽音楽は軽音楽として、それぞれジャンル的特性をもっている。

 歌謡『聞慶峠(ムンギョン)』や『雪が降る』を管弦楽や器楽重奏にすると効果があらわれるが、軽音楽にするとそうならない。軽音楽では陽気な民謡や軽やかで叙情的な歌、映画音楽の軽快な歌を、吹奏楽では行進曲調の歌や舞曲的な歌を演奏するのが望ましい。

 編曲の構想をすぐれたものにするには、原曲の特性を正確につかむことが大切である。

 原曲のテーマ旋律を正しく把握せず、むやみに編曲しては成果が得られない。主題は、音楽の性格とスタイルを規定するので、その旋律的特性と情緒的トーンを正確にとらえてこそ、編曲でも原曲の特性を生かし、さらに拡大し、豊かにすることができる。器楽曲を編曲するとき、すべての歌にドラマ性を付与しては原曲の情緒的トーンが生かされない。素朴な歌は素朴に、ドラマ性のある歌はドラマ性を生かして編曲すべきである。ドラマ性を生かすからといって、素朴な歌にまでドラマ性を強調するのは作曲家の主観主義のあらわれである。編曲では、つねにテーマ旋律の情緒を生かし、メロディーの持ち味を失うことのないようにすべきである。

 原曲の特性を正確に把握するためには、原曲にもりこまれている深い意味と音楽言語の要素が内容の表現にいかに寄与しているかを分析する必要がある。そうしてこそ、原曲の思想・主題の内容とその音楽的特性を全面的に深く把握し、音楽の相も明確に規定することができる。

 編曲の構想は、原曲の主題・思想を掘り下げて解き明かすことに基本をおくべきである。

 音楽芸術作品の基本は、内容である。内容は形式を規定し制約し、形式は内容に従いながらそれを表現する。創作構想は、あくまでも内容に合致したものでなければならず、内容の表現に大いに寄与しなければならない。

 主題・思想の解明に服従しない構想は、構想のための構想であり、それは形式主義に堕してしまう。音楽における形式主義は、メロディーを否定したり調性を破壊することだけを意味するのではない。テーマ旋律の形象的内容にはおかまいなしに音楽を大げさに展開し、規模だけ大きくしようとする大作主義や、主題展開のための全一的な構想とは関係なしに、いたずらに妙技をふるおうとする技巧主義も形式主義のあらわれである。すべての表現手段と手法を、テーマ旋律が体現している形象的内容を掘り下げて解明することに集中できるような構想であってこそすぐれた構想といえる。

 編曲の構想は、音楽的なものでなければならない。

 構想が音楽的なものでなければならないということは、人々の感情、情緒の自然な流れに合い、しかも、音楽の文法的要求にかなったものであるべきだということである。

 感情の変化がなく、坦々と流れるだけの音楽は、人々の情緒的感興をそそることができない。音楽は、その流れに感情の変化、緩和と高揚、連続と蓄積の結果として起こる感情の爆発といった屈曲があってこそ、人々の心をとらえることができる。

 音楽の流れにあらわれる情緒の変化は、音楽がそれに固有な文法的要求にかなったものであるとき、より大きな効果をあらわすものである。

 言語に文法があるように、音楽にもそれなりの文法がある。音楽文法は、音楽の表現手段と手法によって音楽を織りなしていくうえで守るべき秩序である。音をなんなりと羅列すれば、自然に音楽になるのではない。メロディーをとってみても、それには音の高低と長さが一定の規則に従って秩序正しく配されている。もし、この秩序が破壊されて均衡を失うと、メロディーの表現性が弱まり、ひいてはメロディーそのものも意味を完全に失うであろう。

 音楽を展開していくうえでも一定の秩序がある。音楽は作品の基本的な形象が集中している音楽的主題にもとづいて展開されるが、これは、文学や絵画など他の芸術ジャンルとは区別される音楽固有の展開方式である。編曲では、音楽叙述方式の特性を十分に生かしながら、それにもとづいて作品の形象世界を拡大し、豊かにしていくべきである。

 音楽のジャンルと形式によっても構想は違ってくる。声楽作品と器楽作品のための編曲の構想は異なり、同じ器楽作品であっても管弦楽、重奏、独奏のための編曲の構想はそれぞれ異なるものである。これは、それぞれの作品が固有な特性をもっているからである。

 編曲の構想は、特色のあるものでなければならない。

 テーマ旋律の形象的内容が異なり、作品のジャンルも異なるのなら、編曲の構想が同一のものになるわけがない。同じジャンルの音楽作品であっても、作曲家の世界観や創作態度、文化レベル、生活の趣味、創作技巧によって異なった構想が生まれるものである。構想は、創作家の個性によって人ごとに異なり、作品ごとに異なるであろうが、要はそれがどれほど作品の特色を生かせるものであるかということである。

 作品の構造形式を探求することは、構想を特色のあるものにするよい方途である。

 音楽には、歴史的に形成されたさまざまな構造形式がある。音楽の構造形式は、音楽的思惟の重要な表現形式であり、それ自体に音楽の文法的要求が具現されている。音楽作品の構造形式は、その大部分が人民音楽形式にもとづいて発展してきたものであり、それに固有な形象的可能性と表現上の特性をもっている。音楽の構造形式は、固定不変のものではなく、時代と社会が変わり、人々の芸術的な感覚が変わるにつれてたえず変化、発展し、豊かになる。

 作曲家は、過去の進歩的な音楽実践によって確立された構造形式を、自分の作品の創作に効果的に利用することができるようでなければならない。

 作曲家は、作品の形象的内容を十分に表現できる新しい形式を見つけだすことにも相応の関心を払うべきである。作曲家は既存形式の利用においても、発展する朝鮮人民の思想的・情緒的要求と革命的芸術の本性にふさわしく、構造形式をたえず改変し、完成させていくべきである。

 編曲には、ねらいどころがなければならない。

 坦々と流れるだけの音楽は、聞きごたえがない。音楽は、一貫してつやのある音が響くなかにも、格別注意を引くところがなければならない。それは、作品の思想的内容と楽想の要求に即して設定されるべきである。一気にもりあがるクライマックスの強烈な音響だけが人々の心をとらえるのではない。ときには、嵐の前の静けさのような叙情のほうがはるかに緊張感があり思索的で、聞きごたえがある。注意を引く魅力的な箇所は、1、2の方法に限られるのではなく、作品により種々の手段と手法によってさまざまに処理される。作曲家は、着実な構想と巧みな技巧によって、作品ごとに印象深く気品のある形象を一箇所ずつ創造すべきである。

 編曲の構想は、緻密なものでなければならない。

 編曲の構想を緻密なものにするためには、作品の各部分がそれ相応の位置におかれ、部分間の連関が無理なく保たれなければならない。各部分が相応の位置におかれず、何の論理性もなしに配されると、形象の発展で一貫性が失われ、音楽が散漫になり、作品の思想的核心がかすんでしまう。

 構想を緻密なものにするうえで重要なことは、各部分がそれぞれ明確な形象上の役割を負うとともに、テーマ旋律にもりこまれている思想的内容を掘り下げて解き明かすのにひとしく合流させることである。そのためには、テーマ旋律を力強く展開しながら、形象世界を幅広く、深く見せることに音楽の流れを集中させなければならない。

 編曲では、一つの和声や対位旋律も無意味にあらわれては消えるのではなく、一定の論理性をもって、発展の次の段階で再びあらわれるようにすべきである。ときには、音楽発展の基本的な流れからしばし離脱して、挿入的な音楽を取り入れる場合もありうる。しかし、表現手段や手法をどう利用するにせよ、それらはテーマ旋律をもりあげ、形象的内容をきわだたせるのに服従してこそ、意味あるものになる。

 管弦楽や軽音楽でいたずらに技巧を凝らして音楽の流れを散漫にしたり、何の感情の蓄積もなしに急に打楽器を打ち鳴らしたりするのは、構想の粗雑さのあらわれである。編曲は、交響曲や協奏曲、「合唱と管弦楽」といった規模の大きい作品であるほど、構想の段階から熟考して手落ちがないようにすべきである。豊かな創造的ファンタジーと論理性が正しく結合した音楽的構想であってこそ、音楽が自然に流れるなかで、主題の形象的内容を明らかにすることができる。

 (4) 音楽の構成部分を正しく処理しなければならない

 音楽作品の創作においては、つねに作品の各部分をどのように処理するかという問題が提起される。

 構想の段階で作品の形式とスタイルが定められているからといって、音楽作品がおのずと容易に創造されるわけではない。音楽作品創作の構想は、創作が本格的に進められる段階で音楽作品の各構成部分を正しく処理してこそ実現する。

 音楽作品は、概して提示、展開、締めくくりの3段階を経て完成される。音楽におけるこの3段階は、それに固有な特性からして、単なる音楽的な流れの論理的段階であるだけでなく、作品の構成形式をなす基本部分となっている。

 音楽には、作品構成の三つの基本部分とともに、導入部、連結部をはじめ、2次的な部分がある。2次的部分は作品によってある場合もあればない場合もあるが、編曲においてはそういう部分も総体的な形象化の課題の解決に服従しなければならない。音楽の構成部分の処理で重要なのは、主題を提示する最初の部分と中間部をうまくつくることである。

 何事もはじめが肝心であるように、音楽も出だしがよくなければならない。音楽の出だしは、人々に強い印象を与えるものでなければならない。

 重奏曲や管弦楽を作曲するとき、作曲家は、最初のテーマ旋律はどの楽器に任せ、伴奏と和声の声部はどの楽器に配し、速さと強さはどの程度にするかといった細かい問題にいたるまで熟慮する必要がある。一つの音符でもそれが五線紙に記されるときは、創作家の芸術的思索と探求によって得られたものでなければならない。

 中間部の処理にも力を入れるべきである。中間部は、前と後ろの部分のあいだにおかれ、両部分と形象的な対照をなす部分である。中間部によってはじめの部分と対照をなしていた音楽的形象は、反復部にいたって形象的な統一をなすことになる。音楽において対照と統一は、ほとんどすべての音楽作品に共通的に作用する形式形成の基本的原理の一つである。

 人間の思惟や美の感覚は、つねに安定した均衡のとれたものを指向する。一方が大きく他方が小さいと均衡が崩れて安定感がなくなるが、反対側に大きなものをもう一つ配すると均衡がとれ、安定感が保たれる。中間部によって対照をなしていた音楽的形象は、反復部によって構造的に均衡がとれ、形象的に統一が保たれる。音楽形式の歴史は、久しい前に3部分的構造のような合理的な形式をつくりあげたが、これは人間の音楽的思惟の論理的な帰結といえる。

 中間部の対照は、1、2の決まった枠にはめてはならず、種々の表現手段と手法によって多様につくられるべきである。主題の性格やスタイルが異なり、作品の規模もそれぞれ異なるのであるから、中間部の構成を1、2の方法に固執して型どおりのものにしてはならない。

 中間部は、はじめの部分で示したテーマ旋律の素材にもとづいてつくるのが望ましい。そうすれば、作品全体が一つのテーマ旋律で貫かれるので、作品の思想が明確になり、聴衆も音楽が容易に理解できる。ピアノ協奏曲『朝鮮はひとつだ』の中間部は、前の部分のテーマ旋律にもとづいてつくられている。この曲のゆるやかに切々と響く中間部のメロディーを聞くと、それは迫力があって、前進的な原曲のメロディーから派生したものであることが誰にもわかる。

 中間部には、テーマ旋律とは異なる新しいメロディーを取り入れることもできる。中間部に新しいメロディーを取り入れれば、前の部分との形象的な対照を強めるうえでも、また、内容を論理的に展開していくうえでも効果的である。交響曲『血の海』では、第一楽章の前の部分に『血の海の歌』を入れ、中間部に『“討伐”歌』をおいた。日本帝国主義者の野獣じみた蛮行にうっ憤と憤怒が爆発したような『血の海の歌』のあとに、血涙を絞って悲痛にうたう『“討伐”歌』の切々たるメロディーをおいて『血の海の歌』を反復しているのでストーリーが明白で、音楽的な屈曲があって効果的だった。第1楽章は、構成的見地からみると緊張、緩和、緊張の三段階からなっている。第2、3楽章もやはりそうなっている。

 中間部がどんなメロディーの素材によるものであれ、それは、前の部分と情緒的な対照をなし、その対照は、調性や速度、音楽の強度、楽器編成の違いによっていっそうはっきりとあらわれる。

 中間部の叙述法もそれぞれ違ったものにすることができる。平坦で均衡のとれたものにもできるし、きわめて劇的に進展して構造的に不均衡なものにすることもできる。要は、中間部の音楽を一様のものにせず、種々の対照の手法によって作品の規模とスタイルに合わせて形象化の幅を広げ、作品の思想的内容を掘り下げて解明していくことである。

 編曲では、導入部の創作にも力を入れるべきである。序奏とも呼ばれる導入部は、基本部分の前におかれ、主題の出現を情緒的に準備させる役割を果たす。人々は、導入部の音楽を聞いて、それにつづく基本部分の音楽を予想し、自然に音楽の世界に引き込まれる。

 序奏は、管弦楽『青山の原に豊年がきた』のようなものにすべきである。この管弦楽のホルンによる序奏は、メロディーが作品のテーマ旋律の一つである『豊年の歌』と音調的につながっている。

 作曲家は歌を一つ編曲するにしても、大衆が理解し楽しめる音楽にすべきであって、自分や少数の専門家にしか理解できない音楽をつくってはならない。大衆の音楽レベルが低くて自分の音楽を理解できないのだと考えるような作曲家は、生涯立派な作品をつくることができず、ついには人民に見捨てられるということを銘記すべきである。

 (5) 伴奏の編曲を巧みにこなすべきである

 歌の形象化水準を高めるためには、伴奏の編曲を巧みにこなすことが大切である。伴奏編曲の成否によって歌の形象化水準が決まる。

 伴奏には、いろいろな種類がある。歌の伴奏だけでも、独唱伴奏、重唱伴奏などがある。器楽作品では、総じて独奏の伴奏が基本となっている。

 人々は独唱や独奏を聞くとき、その歌や楽器の音だけでなく伴奏も聞くものである。すぐれた伴奏は歌の形象化と気品を高めるが、粗雑な伴奏や複雑すぎる伴奏はかえって歌を損なう。作曲家は、伴奏編曲に慎重を期し、伴奏を巧みにこなすために努力すべきである。

 伴奏は、歌を生かすことに服従し、歌唱の助けとならなければならない。歌唱に生気と活力をそえ、歌をいっそうつややかなものにするところに伴奏の意義がある。

 伴奏は、あくまでも歌をやさしく包みこまなければならない。伴奏があまり派手すぎたり堅苦しいものであると、歌を引き立てるのでなく、押さえつける結果をまねく。伴奏がメロディーの性格とスタイルを生かして歌をやさしく包みこんでこそ、音楽が聞きよくなり、聞く人が歌のなかに深く引き込まれる。

 伴奏は、歌で表現しようとする形象上の意図を補強するものでなければならない。

 歌には、それぞれ旋律的形象の特性があり、それに即してある音は強く、ある音は弱く、また、ある箇所では感情をしだいにもりあげ、ある箇所ではしだいに消え入るように余韻を引くうたい方を求める。音楽を聞いていると、静かで穏やかなメロディーが格調の高い訴えと力強い叫びに変わることもあれば、やさしく愛撫するようなメロディーが限りない激情に変わることもある。伴奏は、メロディーの形象上の意図を生かし、それをきわだたせ、補強しなければならない。

 伴奏の編曲では、楽器編成を適切にすることも大切である。伴奏音楽の楽器編成を型にはまったやり方ではなく、多様化すべきである。歌の伴奏は、ピアノだけでもできるし、バイオリンやチェロなどいくつかの楽器、または管弦楽でおこなうこともできる。要は、楽器編成で歌の性格と演奏の効果をねらうことである。

 伴奏では、前奏と間奏、後奏を上手にこなさなければならない。

 前奏と間奏は、歌を情緒的に準備させ、自然に流れでるように誘導する役割を果たす。前奏と間奏は、歌への期待をいだかせると同時に、人々を歌の世界に誘いこみもする。

 前奏と間奏は、歌にもりこまれている情緒とかけ離れたものになってはならない。間奏は、歌の情緒を他に導くのでなく、歌がいだかせた感情をさらに高め、つぎの節に入れるように巧みに誘導すべきである。間奏では1箇所高めるのも悪くない。器楽的に1箇所高めれば音楽に屈曲が生まれ、歌のつぎの節がいっそう生き生きしたものになる。

 歌によってその性格とスタイルは多様なので、前奏、間奏も多様でなければならない。前奏は、リズムだけのものにしてもよいし、和声的な叙述で歌を引き出すものにすることもできる。間奏の音楽素材は、その歌の旋律素材に求めてもよいし、新しい旋律素材を使うこともできる。しかし、新しい旋律素材を使うからといって、歌の基本的な相とかけ離れたものにしてはならず、あくまでも情緒をもりあげ、形象化を深める方向をとるべきである。

 前奏と間奏の長さは、適当なものにすることである。間奏が長すぎると音楽が情緒的にたるんで退屈な感じにする。伴奏は、音楽によって歌と一緒に終わるものもあれば、後奏のあるものもなければならない。

 独唱や重唱が終わるとき、歌の性格や情緒とは関係なく、伴奏も同時に終わるようにするのはありきたりの図式である。格調の高い歌に後奏をつけて何回か強く印象づけて終わらせたり、静かに終わる歌に穏やかな後奏をつければ、聴衆により深い情緒的余韻を与えることができる。

 作曲家は、1小節の前奏や間奏、後奏であってもおろそかにせず、慎重を期すべきであり、伴奏にいっそうつやをもたせるために思索と努力を惜しんではならない。





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