『音楽芸術論』−2 作  曲
 
1 音楽はメロディーの芸術である


 (1) 音楽の基本はメロディーである

 音楽は人々に親近感を与える。それは音楽に、人々が好んで聞き、うたえるメロディーがあるからである。音楽があれば必ずメロディーがあるものである。

 メロディーは、人間の思想・感情の衝動によっておのずと流れでる情緒のあらわれである。

 以前は、音楽とは何かという種々の見解によってメロディーの本質を各人各様に理解してきた。ある人は、音楽の起源を動物の鳴き声を真似たことに求めたが、この見解によると、メロディーは動物の本能的な鳴き声の真似以外のなにものでもない。それでは、こんにち人間の動物的本能を刺激する低俗で官能的なメロディーが真のメロディーだとして、退廃的な音楽を推賞する反動的なブルジョア音楽を合理化することになる。かと思うと、ある人は、音楽は労働の動作を合わせるためのリズムから発生したとしたが、これはメロディーを単なるリズムの副産物とみる結果をもたらすことになる。この見解は、音楽の発生を労働と結びつけたという点で肯定的な側面があるように見えるが、労働が音楽を発生させた根本要因を正しく解明していないため、メロディーの独自的で主導的な表現性を否認することになり、ひいては、メロディーを否定することになりかねない。かつて、ある人は、音楽は言葉の抑揚から発生したとしたが、かれは言葉の抑揚とメロディーを本質的に区別することができなかった。

 メロディーは、動物の鳴き声を真似たものではなく、労働の動作のリズムや言葉の抑揚といったものを真似たものでもない。もちろん、メロディーの創造過程では、動物の鳴き声のような自然現象が一定の情緒的衝動と刺激を与え、労働のリズムや言葉の抑揚といった社会的現象が人間の音楽的思考に一定の影響を及ぼしたであろう。メロディーは、最初から言葉と密接に結びついて生まれたのであるから、その抑揚の影響を受けたことは確かである。しかし、メロディーは、自然や社会のある現象を単純に真似て生まれたのではない。メロディーは、人間の自主的な要求と創造的な活動を反映して創造された音楽芸術の手段であり、人間の意識の独自の産物である。

 人間は日常生活において、しばしば、自分の感情をメロディーに託して表現する。人間がうれしいことがあったり、心がはずむときに鼻歌が出るのは、これを端的に物語っている。人間が集団労働のときにうたう労働の歌にしても、単に作業の動作を合わせることだけが目的ではない。搾取社会における勤労人民の労働の歌には、苦役にさいなまれる身の上を嘆きながら、漠然ではあってもなんらかの希望と期待をいだいて苦役を忘れようとする被搾取者の思想・感情の衝動が感じられ、搾取と抑圧のない我々の社会の労働歌謡のメロディーには、新しい生活を創造する誇らしい労働で感じる生の矜持と歓喜があふれている。

 メロディーは、人間の思想・感情を反映したものである。メロディーが人間の思想・感情の反映であるからといって、人間の思想・感情を表現する基本形式であり交流手段である言葉と同一のものではない。言葉は人間の思想・感情の直接的な表現であるが、メロディーは思想・感情の衝動による情緒的な表現である。もちろん、言葉でもその抑揚によって一定の情緒が表現される。しかし、言葉での抑揚は二次的で補助的な手段であるが、音楽でのメロディーは主導的で独自的な手段である。まさにここに、音楽言語としてのメロディーが言葉の抑揚と異なる本質的な違いがある。

 メロディーは、音楽の思想的・情緒的内容をあらわす基本的手段である。

 音楽の表現手段は多々あるが、メロディーほど独自的で自立的な表現力をもつ手段は他にない。ハーモニーや拍子、楽器編成などもそれぞれ独特な表現力をもってはいるが、独自に音楽的形象を創造することはできない。しかし、メロディーは、音楽の思想的・情緒的内容と形象上の意図を完結した形式によってはっきり表現することができる。

 メロディーは、音楽的形象の質を規定する根本的要因である。

 歌を鑑賞するとき、伴奏なしでメロディーだけを聞いても音楽の形象世界にひたり、深い感動を覚えるが、メロディーなしで伴奏のハーモニーや拍子を聞くだけでは、それほど興味がわかず、音楽的な感興もそそられない。音楽ではハーモニーや拍子、音色などが変わっても、その形象の質は根本的に変わるものではないが、メロディーが変わると音楽そのものが完全に違ったものになってしまう。

 音楽のすべての表現手段のうちで、人民がもっとも容易に聞き分け理解できる手段は、メロディーであり、人民と親しくなるのもメロディーである。

 人民大衆は、長い歳月にわたり音楽を創造してくる過程で拍子やハーモニーなどをつくりだし、さまざまなアンサンブルの形式によって音楽の表現手段を豊富にしてきたが、そのなかでもメロディーをつねに第一として発展させてきた。

 人民が長い歳月にわたって創造し発展させてきた民謡はみなメロディーとして伝えられており、世界に広く知られている名曲も、人々の記憶にハーモニーや拍子ではなくメロディーとして残るものである。

 メロディーは、音楽的形象の創造において主導的にして第一の手段となる。こういう意味で、音楽はメロディーの芸術といえる。

 音楽作品におけるメロディーの地位と役割にたいしてどのような立場と姿勢をとり、それをどのように用いるかは、真の音楽芸術と現代の反リアリズム音楽を見分ける重要な基準の一つとなる。

 今世紀の初頭から生まれはじめた現代主義や前衛主義といった音楽は、思想的内容を否認し、内容の存在方式としての形式を破壊することによって、音楽表現手段の表現的意義を抹殺する。このような音楽は、例外なくメロディーを軽視するか、なくしてしまう。こんにち世界的に、大衆音楽分野においては、帝国主義者の奇形的な生活やすさんだ精神状態を反映した反人民的で退廃的な音楽が蔓延し、メロディーをひどくいびつなものにしたり、単調なリズムの無味乾燥な付属物にすることによって、メロディーをもてあそび、冒涜している。

 朝鮮の音楽には、20世紀の帝国主義社会の産物である反人民的で反リアリズム的な要素が絶対に入り込んだり、芽生えたりすることのないようにしなければならない。もちろん、朝鮮音楽の発展において現代音楽の発展趨勢を無視することはできない。しかし、世界的な音楽趨勢を受容するにしても、メロディーを無視して奇形化したり、なくしてしまおうとする反リアリズム的な創作方法の些細な要素も許してはならず、メロディーを基本とする健全な音楽を朝鮮式に消化して取り入れるべきである。我々は誰がなんといおうと、音楽でリズムなどの2次的な要素を強調しすぎてメロディーを弱めてはならず、メロディーにすべての手段を服従させる方向に進まなければならない。音楽創作においてメロディー中心、メロディー本位に進むのは、わが党がうちだしている確固たる原則である。

 音楽創作において、ハーモニー、様式、リズムといった他のすべての手段は、メロディーを生かすのに服従すべきである。

 ハーモニーや拍子、楽器編成、様式などの手段が豊かな表現力をもっているにしても、それはメロディーに服従し、それと結びついたときにのみ立派に発揮される。ハーモニーやリズムのような他の手段が、メロディーの形象と性格を積極的に裏打ちし、豊かにすれば、メロディーがいっそう生き生きとし、音楽におけるメロディーの基本的かつ主導的な地位と役割も立派に保全される。

 ハーモニーは、あくまでもメロディーを生かすのに服従すべきである。

 ハーモニーは多声部音楽に不可欠の要素であり、和音の連結によってメロディーの情緒的トーンを引き立て、音楽的形象を豊かにする強力な表現手段である。ハーモニーの豊かな表現力を正しく発揮させなければ、メロディーの情緒的トーンをより多様に生かすことができないばかりか、立派なメロディーも生彩を放つことができない。

 音楽の様式もメロディーを生かすうえで重要な役割を果たす。

 音楽における様式は、メロディーにたいして声部をどのように設け、伴奏のハーモニーや拍子をどのようなものにし、対位旋律と複声手段をどう用いるかといった、音楽を織りなす方式である。様式もそれ自体を生かすことを目的としてはならず、あくまでもメロディーを生かすのに服従すべきである。

 メロディーを生かし、民族的な味が出るようにするためには、朝鮮の拍子をうまく使う必要がある。

 拍子は、メロディーに従って反復されるリズム的なものであり、メロディーに律動的な興趣をそえる大衆的な表現手段である。拍子は、一貫して打楽器によってのみ生かして使うこともできるし、種々の伴奏楽器の音楽的流れのなかにあらわれるようにもできるが、いかなる場合でも、それはメロディーに合わせて用いるべきであり、メロディーを圧倒し弱めることのないように用いるべきである。メロディーに内在する律動的な興趣とはまるで違う拍子を使ったり、拍子をあらわす伴奏をあまり粗雑なものにすると、メロディーの性格と形象をゆがめることになる。

 メロディーを生かすためには、複声も適切に使う必要がある。

 複声は、一つのメロディーに別のメロディーを同時に響かせて音楽の響きと形象を豊かにする、比較的複雑な形態の多声手段である。複声を緊要な個所で効果的に使えば、メロディーを魅力あるものにし、旋律的形象をユニークなものにすることができる。しかし、対位旋律をはじめ、複声手段の使い方を誤ると、メロディーを正しく生かせないばかりか、どれが主旋律なのか聞き分けがたいものになってしまう。複声は、あくまでもわかりやすく民族的な味がありながらも、メロディーを十分に生かし、音楽の芸術的気品を高める手段とならなければならない。

 メロディーを生かすうえで楽器編成も大きな役割を果たす。楽器編成は多声部音楽において楽器を各声部に配分し組み合わせることによって、メロディーと伴奏を多様な音色で調和させる色彩的な表現手段である。楽器編成では、メロディーの性格と形象を浮き立たせる音色を選び、メロディーと伴奏、声部間の楽器配分を適切におこなって、メロディーに独特な感じをもたせながらも、伴奏との音色的調和がとれるようにしなければならない。

 作曲家は、あらゆる表現手段の特性を十分に生かしながらも、それをあくまでもメロディーを生かすのに服従させ、メロディーを基本とする朝鮮音楽の特性がいっそう明確にあらわれるようにすべきである。

 (2) メロディーは美しくなめらかでなくてはならない

 音楽が人々に豊かな情緒をいだかせ、深い感興を呼び起こすためには、メロディーが美しくなめらかでなくてはならない。歌謡『忠誠の歌』が、人々の心を清め、かぎりなく気高く敬虔なものにするのは、メロディーが美しくなめらかだからである。民謡『アリラン』は、美しくなめらかなメロディーで朝鮮人の民族的な感情と魂を十分に生かしているので、メロディーを聞くだけでも民族受難の歴史が思い起こされ、郷土愛を切々と感じさせる。

 メロディーは、美しくなければならない。

 メロディーの美しさは、人間の美しい感情の情緒的反映である。真の人間の感情と志向は、美しいものである。自主性と創造性は人間の本性であるから、自主的で創造的な生活をめざしてたたかう真の人間の感情より美しい感情はない。

 自然と社会の束縛から脱するための人間の英雄的な闘争と、歴史の自主的主体である人民大衆への献身性、社会的集団と革命同志への私心のない犠牲的精神、これらの精神世界の核をなす党と領袖へのかぎりない忠誠心は、真の人間の美しい品格である。メロディーは、真の人間の崇高な感情を反映しなければならないので、低俗で退廃的なものとは無縁の美しいものでなければならない。人間の自主的で創造的な志向と要求に反する利己主義と人間憎悪思想、物欲と享楽主義に染まった者が好む美しさは、決して美しいものとなりえない。それは、人間を堕落させ、人間の精神をむしばむ腐りきった思想・感情の反映にほかならない。朝鮮音楽のメロディーにおいては、あらゆる低俗な感情を一掃し、自主的人間の健全で気高い美しさのみを反映すべきである。

 メロディーは、なめらかでなくてはならない。

 なめらかなメロディーは、朝鮮人が好む朝鮮音楽の民族的特性である。朝鮮人は色は濃いものより淡いものを、メロディーは騒々しいものや甲高いものよりもなめらかなものを好む。これは、朝鮮人民の民族的感情、民族的情緒の反映である。

 朝鮮人民は、昔から穏やかで気品があり、清く美しく鮮明なものを好んだ。これは、朝鮮人民の長い歳月にわたる生活の過程で形成された民族的特性である。朝鮮語も民族的特性がそのまま反映されて、気品があって清らかで、まろやかである。

 朝鮮語とともに発展してきた朝鮮の民族的旋律は清らかでしっとりとしていながらも、穏やかでなめらかである。朝鮮音楽の特徴は、メロディーがなめらかなことである。

 朝鮮人民が好むなめらかなメロディーというのは、決してうらぶれた安穏なメロディーのことではない。

 朝鮮人は、昔から労働に誠実かつ勤勉であり、侵略者との戦いではいつも勇敢であった。これは、搾取階級の有閑で怠惰で、卑怯で卑屈な品性とは縁もゆかりもない、進取的で楽天的かつ朗らかな性格としてあらわれる。朝鮮人民のすぐれた品性は、こんにちチュチェ思想が立派に具現されているわが国の社会主義制度において、新しい意味をもってさらに強く発揮されている。朝鮮音楽のメロディーはなめらかでありながらも、我々の時代の人民の情緒と感情に合った、生気と気迫にあふれる生新なものでなければならない。

 メロディーを美しくなめらかなものにするためには、レチタティーボ調のメロディーをなくし、有節歌謡調のメロディーを創造しなければならない。

 レチタティーボは、普通の言葉に曲をつけたものであり、言葉の抑揚のように2次的で補助的な役割しか果たせない非メロディー的な声楽形式である。レチタティーボは、言葉の抑揚を音調化したにすぎず、音楽言語の本質的属性の一つである音律がないので、真の意味でのメロディーとはいえない。

 メロディーの音調は、メロディーの思想的・情緒的表現性を条件づける重要な要因である。しかし、音調があるだけでは、メロディーが音楽言語としての固有な表現的機能を果たすことはできない。音楽言語としてのメロディーの表現的機能は、音調とともに音律があってこそ果たされるのである。まさにレチタティーボは、音調はあっても音律のない、不完全かつ不自然な声楽形式である。

 メロディーには、必ず音律がなければならない。音律とは、音の法則性を示すものであり、音の高さを規定する法という意味でも使われ、音の規律的な連結という意味でも使われる。ここでいう音律とは音調の連結であり、ある程度完結した音楽的思想の表現を可能にするメロディーに固有な規範性のことである。

 言葉の抑揚は、単語と文章の意味に服従する補助的な要素であるため、それ自体の規則なしに単語と文章の規範に服従する。しかし、メロディーは他の要素に縛られない独自の手段であるため、それには音調を規則的に配列して言葉の文章のように完結した、思想的・情緒的内容の表現を可能にする固有な文法が必要である。

 有節歌謡は、メロディーの本質的要求を十分に生かすことができ、人民の長い音楽言語的伝統と慣習に合うすぐれた音楽形式である。有節歌謡のメロディーは、音律が自然で整然としており、耳に快くうたいやすいので、優雅で気品のある朝鮮語の歌詞とうまく結合すれば、いっそうなめらかなものになる。

 メロディーを美しくなめらかなものにするためには、メロディーの激しい高低と屈曲をなくし、それをなめらかなものにする必要がある。

 メロディーがなめらかであるというのは、歌詞から受けた感情の衝撃によって湧き起こるメロディーの流れが自然なものであることを意味する。

 歌詞と曲を兼ね備えている歌は、音楽で基本をなす。元来、音楽は、歌詞と曲が一つになって生まれたのであり、人々のあいだにいちばん広まり愛されている音楽のジャンルも歌である。人民大衆のなかから生まれ、かれらに好まれている歌謡音楽はすべての音楽の基礎であり、音楽史発展の基本原動力である。歌詞をそなえた歌は、音楽で重要な役割を果たすばかりでなく、音楽の本質的属性を規定する基礎となる。

 人が歌をうたうといった性質を意味する歌唱性は、メロディーの本質的要求である。人民的な音楽は、器楽の場合もメロディーが歌唱性をもつ。歌唱性のないメロディーは、人民性が欠如したものであり、人間性を失ったものである。音楽の歌唱性をしっかり保障するには、メロディーをうたいやすく、よどみなく流れるなめらかなものにしなければならない。

 メロディーは、歌詞を無理なく旋律的な言語に変えるだけでなく、それに固有な言語的特性を生かして自然に流れるようになってこそ、うたいやすく、なめらかなものになる。

 メロディーをなめらかなものにするには、高低と屈曲を激しいものにしてはならない。

 メロディーの激しい高低と屈曲は、メロディーが歌詞に機械的に服従し、歌詞の部分的な意味と抑揚を誇張したり、反対に歌詞の抑揚に合わない曲をつけたりして、歌詞との調和のとれた結合を破壊するために生じるのである。メロディーは、歌詞に服従しすぎて自然な流れを乱してはならず、歌詞との関係を無視し、歌詞との調和のとれた結合を破壊してもならない。メロディーの高低と屈曲を激しいものにするのは、西洋式のレチタティーボや技巧本位的で専門家本位的な声楽形式を真似ることから生じる教条主義的な表現である。

 激しい高低と屈曲をなくし、メロディーをなめらかなものにするためには、歌詞と曲を密着させ、それに合うメロディーの特性をよく生かさなければならない。

 歌の創作において、有節歌謡形式は歌詞と曲を密着させるもっともすぐれた形式である。

 歌詞と曲を密着させることは、有節歌謡形式の歌の創作における原則的要求である。歌詞と曲を密着させてこそ、歌詞の意味がよく伝わり、メロディーの歌唱的本性に合わせてメロディーの自然な流れをつくりだすことができる。

 歌詞と曲を密着させるということは、歌詞の詩語と音楽のメロディーを調和よく、自然に結びつけるということである。

 歌詞と曲を密着させるには、メロディー1音に文字2つをつけないようにすることである。メロディー1音に1つの音節をつけるのは、歌謡創作における一般的原則である。朝鮮語では、1音節が1字で表記される。メロディー1音に2、3字の歌詞をつけると、歌詞を口ごもり、メロディーの流れがとぎれがちで不自然なものになる。

 歌詞と曲を密着させるうえで、歌詞の句とメロディーの節を合わせることが大切である。歌詞の句とメロディーの節が合わないと、歌詞の意味がゆがめられ、音律がちぐはぐになり、呼吸が合わず、流れが不自然なものになる。音楽では、歌詞がない場合でも音律を均質なものにし、メロディーの呼吸と流れを自然なものにしなければならない。

 歌詞と曲は、その抑揚と音の高低長短がよく調和し、強弱が合わなければならない。

 朝鮮語は、抑揚の高低長短が典雅で美しく、詩の韻律を引き立てる。

 メロディーでは、抑揚の特性を十分に生かさなくてはならない。歌詞には、詩的な抑揚と韻律から生じる拍子と強弱があるので、その力点がメロディーの強拍と合うようにするのが望ましい。

 メロディーを美しくなめらかなものにするためには、人民音楽のすぐれた特性を創造的に生かし、発展させなければならない。

 人民音楽は、民族音楽発展の主流であり、原動力である。人民大衆は、歴史の主体であるだけでなく、音楽を含む人類の精神文化の富の創造においても主体である。人民大衆は、太古の昔からみずからの音楽を創造して享受し、数千年にわたって磨きつづけながらこんにちまで伝えてきた。人民音楽は、人民を愛し、人民の音楽的財産を大切にする進歩的な音楽家の重要な創作的源泉となり、進歩的な職業音楽の発展に大いに寄与した。

 人民大衆の創造的労働と生活のなかで創造された人民音楽のメロディーこそは、個々の国の民族的メロディーを代表し、そのモデルとなる。人民音楽には、民族的メロディーの美しくすぐれた特性が集約されており、こんにち朝鮮音楽の基調となる民族的特性が強くにじんでいる。もちろん、かつての人民音楽には、それが創造された歴史的時代と社会発展段階にともなう一定の制約性があるので、それを継承するにあたっては、我々の時代に即して直すべきものは直し、新しいものに替えるべきものは替える必要がある。

 我々は人民音楽の特性を極力探しだし、それをこんにちの時代的美感に合わせて創造的に生かし、我々の時代の新たな高い段階で発展させるべきである。

 朝鮮人民が長い歳月にわたって創造してきた人民音楽は、優雅で、世界に誇れる高い芸術的気品をそなえている。『アリラン』『トラジ(ききょう)』『陽山道』などの民謡は、メロディーが優雅で心をすがすがしくするばかりでなく、うら悲しい情緒で人々の感動を呼び起こす。朝鮮の人民音楽のなかには、労働の躍動する気迫と生の熱烈な志向があふれるメロディーで人々を楽しくさせ、力と勇気を与える歌も多い。

 朝鮮民謡のメロディーには、朝鮮人民の高い音楽的才能が深く秘められており、音楽言語の民族的特性がはっきりと生きている。

 朝鮮民謡のメロディーは、その一つひとつの音調が独特で特色があり、音律がよくととのっているうえに、メロディーの流れが感情発展の論理に従って巧みに展開されている。朝鮮民謡のメロディーに固有な特性の一つであるトリルは、多様な技巧で民族的な味わいを生かし、朝鮮音楽に広く用いられている。朝鮮民謡では調も固有な特性をもち、メロディーの民族的色彩を十分に生かすうえで大きな作用を及ぼす。朝鮮民謡のメロディーで、リズムは多様で豊富な朝鮮拍子の興趣を巧みにもりあげ、民族的な味わいをよく生かしている。朝鮮の人民音楽のメロディーの特性は、こんにち朝鮮音楽に大いに生かし、発展させるべきすぐれた人民的財産である。

 朝鮮民謡は、朝鮮語の特性に合わせて、メロディーの民族的かつ通俗的な歌唱性もよく生かしている。

 わが国の民謡には、弱拍ではじまるメロディーはほとんど見られない。これは、朝鮮語の詩歌の韻律的特性によるものである。朝鮮語の詩歌は、詩的な情緒が豊かでゆかしいだけでなく、力点がきわだたず、つねに最初のくだりにおとなしくあらわれる。元来、朝鮮語は力点がきわだたず、つねに単語の第一音にさらりとあらわれるという特性がある。朝鮮語を使う朝鮮人民は、昔から、メロディーにしても弱の拍子でなく、強拍からはじまる正拍子を使ってきた。したがって、専門的な音楽教育を受けていない一般大衆には、弱の拍子からはじまる歌はうたいにくい。いつか劇映画『14回目の冬』の主題歌『春を告げる花になろう』が弱の拍子からはじまる4分の4拍子になっていて大衆のあいだに普及するのがむずかしそうなので、正拍子の8分の6拍子に改めさせたことがある。そうしたところ、その歌は大衆がすぐうたえるようになり、広く普及した。

 もちろん、朝鮮歌謡のメロディーは、絶対に弱の拍子からはじまってはならず、正拍子を使わなければならないというのではない。メロディーの特色を生かし、形象を多様にするために、弱の拍子からはじまるメロディーも使える。しかし、メロディーで民族的なものを生かし、それを聞きやすくうたいやすいものにするには、人民音楽形式のすぐれた特性と、民族語の定着した慣習を十分に生かすことが重要である。

 民謡は歌詞と曲が密着しているので、民謡の歌詞を現代的に改める場合、歌詞と曲の密着関係を考慮する必要がある。民謡の歌詞をむやみに直すと、歌が面白くなく、聞きごたえがなくなる。

 作曲家は、朝鮮人民の情緒と感情、好みに合った、なめらかで美しい朝鮮式の民族的メロディーを立派に創造して、朝鮮音楽を朝鮮人が好み、楽しめる人民的な音楽芸術、朝鮮人に奉仕し、朝鮮革命に寄与する革命的な音楽芸術に発展させていくべきである。

 (3) メロディーに特色があってこそ音楽的形象が生きてくる

 メロディーは表現力が豊かで多様である。音楽が労働と闘争で人々に力と勇気を与え、人の心を美しく気高いものにするのは、メロディーの豊かで多様な表現力によって感動深い音楽的形象を創造するからである。

 メロディーは、日常生活の断片的で素朴な感情から、大きく深い思想をもりこんだ深刻な精神的体験にいたるまで、個々人の個性的な生活にもとづく小さな叙情から、全人民の一致した志向と意志をもりこんだ幅広い集団的感情にいたるまで、人間の生活のあらゆる喜怒哀楽を描きだせるかぎりなく豊かで多様な表現力をもっている。作曲家は、メロディーの豊かで多様な表現力を生かして、個性的で特色のあるメロディーをつくるべきである。

 芸術の形象は、本質において芸術的個性の創造である。

 芸術の形象に個性が欠けていれば、それは形象とはいえない。現実を見て感じるように、形象は生き生きとしたものでなければならない。生活のなかから生まれる人間の思想と感情は具体的かつ個性的である。現実を実際に見て感じるのと同じように描くには、人間と生活を個性的に、具体的に見せなければならない。

 メロディーを個性化するということは、ほかのメロディーと区別される特色をはっきり生かすということである。メロディーに特色があってこそ、具体的で個性的な人間の思想と感情、情緒をリアルに表現した音楽的形象を立派に創造することができる。

 音楽的主題を明確にするためにも、メロディーには特色がなければならない。

 音楽でいう主題とは、具体的な思想と感情の音楽的表現であり、形象上の個性の明確なメロディーのことである。音楽作品における主題は一つの形象を代表し、それは一つの思想が音楽的に集中されて完成する。有節歌謡のメロディーはそれ自体が一つの完結した音楽的主題になるが、大きな形式の器楽曲では、作品を貫通して統一させる主題が別に存在する。音楽は主題のメロディーに特色があってこそ、音楽作品としての個性的で独創的な形象がよく生かされる。

 メロディーを特色のあるものにするためには、生活のなかからメロディーの芽を探しださなければならない。

 音楽でメロディーの芽をつかむ問題は、文学で種子(チョンジャ)をつかむ問題と同様、作品の思想性・芸術性を左右する根本要因となる。

 作曲家はメロディーの芽を正しくつかんでこそ、立派な音楽的形象を創造することができる。

 メロディーの芽とは、作曲家が現実に接して受けた思想・感情の衝動から流れでるメロディー形象の個性的要因であり、メロディーの特色を規定する特徴的な要素である。

 メロディーの芽は、作曲家のたゆまぬ創作的思索と探求が重ねられる過程で、音楽のさまざまの手段と手法によって豊富な滋養分を摂取しながら、音楽的形象という一つの有機体として完成される。

 もちろん音楽でも、メロディーの芽をつかむ前に、作品の種子をつかむ問題が提起される。種子がなくては芽が出ず、幹と枝が伸びて花が咲くことも、実を結ぶこともできないように、種子のない音楽作品など考えられない。

 音楽作品にも思想が体現されており、文学と同様、生活の思想的核心となる種子がある。ところが、日常生活で用いられる交流手段でない音楽的手段だけでは、人間の思想を具体的にあらわすことができないので、歌詞のないメロディーを見て、その音楽作品にもられている思想がどのような種子から流れでたものであるかを明白に規定することはむずかしい。

 同じ音楽であっても、声楽作品の場合は、いわんとする思想と、その基礎となる種子が容易に理解できるが、それは声楽作品がメロディーとともに歌詞をもっているからである。声楽作品において歌詞はメロディー形象を規制する基本要因であるため、歌詞の種子は音楽的な種子と一致する。しかし、歌でメロディーだけを取りだしたり、純粋な音楽的手段によって思想・感情を表現、伝達する器楽作品の場合は、その思想がなんで、種子がなんであるかを、文学でのように一言で言いあらわすことはできない。

 音楽作品の種子は、それから出たメロディーの芽によって、その本質的特質をはっきりあらわすようになる。メロディーの芽は、生活のなかで見つけた種子から音楽的形象が形成されはじめたメロディーの要素であり、そのなかには、音楽作品を通して作曲家がいわんとする思想・感情が具体的に体現されている。音楽では、メロディーの芽をつかむ問題が音楽作品の種子をつかむ問題と密接につながっており、メロディーの芽をどうつかむかによって、作品の思想性・芸術性が大きく左右される。

 メロディーの芽は、メロディー進行の出発となる最初の叙述を意味するものではなく、メロディーの一部分を意味するものでもない。メロディーの芽が完成した形象として育つ過程は、作曲家のたゆまぬ思索と探求をともなう創造の過程である。単にメロディーが響きはじめて展開される瞬間に、メロディーの芽が形象として完成されるのではない。メロディーの芽には、完成されたメロディー形象がもつ個性的な特質、特色ある表現の萌芽があり、それがたゆまぬ思索と探求を経て、一つの主題として成熟するメロディーの独創的かつ個性的な要素がある。メロディーの芽は、必ずメロディーのどこかにそのまま残っていなければいけないものでもない。完成したメロディーの主題には、はじめにつかんだ芽がどこかにメロディーの形で残っていることもあるが、みずからの特色を規定する独創的かつ特徴的な表現的要素として潜在していることもある。

 メロディーの芽は、既成の音楽理論にある旋律的動機発展の原理とは根本的に異なる、まったく新しい概念である。もちろん動機の理論は、メロディー発展の論理を法則化したものとして、メロディー創作に関する理論において一定の意義がある。既成理論における動機はメロディーの構造的単位であり、音楽が時間的に展開されていく論理的過程の基礎となる。これとは違って、メロディーの芽は、作曲家が思想・感情を具象的に表現するために、現実でつかんだ生活的感情・情緒が集約されたものであり、旋律的形象の質を特徴づける個性的要因なのである。メロディーの芽が一つの完結した音楽的形象として完成される過程は、時間的に築造されていく構造的過程ではなく、具象的に熟して花と咲く創造の過程である。

 メロディーを創作するにあたって、メロディー進行に関する規格化された論理や純然たる技巧的な展開方法だけでは、人間の繊細にして豊かな思想・感情の奥深い世界を満足に描きだすことはできない。音楽芸術ではメロディー発展の論理やメロディー展開の技巧も必要であるが、現実の生活にもとづいた意義深い思想を音楽的形象によって見せられるようにする情熱的な思索と探求、血のにじむような創造の努力がなおさら重要である。こうした思索と探求、創造の過程でしっかりとらえ、それを育てて花と咲かせる旋律的形象創造の要因、ファンタジーと情緒にあふれる特色あるメロディーの要素が、すなわち、メロディーの芽なのである。

 作曲家は現実に入り、生活のなかでメロディーの芽を見つけてこそ、メロディーを特色のあるものにし、独創的で個性的なメロディー形象を立派に創造することができる。

 メロディーの表現手段と手法を新たに探して用いるのも、メロディーを特色あるものにする一つの方途である。

 とらえたメロディーの芽が、特色のある形象として熟し、花と咲くようにするためには、いろいろな手段と手法を巧みに用いて、それに肉付けをし、育てなければならない。

 作曲家が手段と手法を用いるうえで既成の枠に縛られ、他人のやり方を真似るようでは、新しく独創的な旋律的形象を創造することができない。

 旋律的形象の独創性と個性は、旋律的手段をどう選び、その手法をどう用いるかによっても大きく左右される。メロディーの進行方向と線、調、リズムなど、いろいろな手段と手法は豊かな表現力をもっている。しかし、メロディーの手段と手法を個性的に特色づけて用いなければ、その効果は十分に発揮されない。

 メロディーの進行方向はメロディーの線を規定する固有な要素であり、メロディーの情緒的屈曲を形成し、感情の高まりとしずまりを調和させるうえで大きな役割を果たす。メロディーの進行方向が同じであると、メロディーの線が同じになり、その情緒的屈曲と感情の線が基本的に同じなので、特色を生かすことができない。音楽でメロディーの線は、具体的な形象の要求と作曲家の個性的アイデアによって互いに違ったものでなければならない。

 メロディーをなめらかなものにするからといって、メロディーの進行をただ順々に配列していくわけにはいかない。順次進行はメロディーをなめらかなものにする一つの手法ではあるが、メロディーが順次進行によってのみ穏やかに上下するだけなら、情緒的屈曲と感情の変化がないばかりか、主題としてのメロディーの個性がなく、単調で聞く面白味がなくなる。感情が先立って、上り下りの激しい跳躍進行を多く用いると、メロディーの情緒が乱れて、うたいにくいうえに聞きづらいものになる。

 メロディーの線は、順次進行と激しくない跳躍進行が適切に組み合わさって、感情と情緒がなめらかに流れなければならず、メロディーの線では、メロディーの特色と形象の個性を生かせるように、作曲家の形象上の意図が明白にあらわれなければならない。作曲家が定見をもたず、人のものを真似たり、ただ無難にメロディーの線を処理したのでは、音楽創作での成功は望めない。作曲家は、メロディーの芽からつかんだ形象への確固たる定見をもち、メロディーの線をどのような形にし、クライマックスをどこにおき、特色をどう生かすかといったことをよく考えたうえで、それに合わせてメロディー展開の多様な手法を用いるべきである。

 メロディーではリズムもきわめて重要である。

 リズムは、メロディーの進行を時間的に規制する手段であり、メロディーの流れに脈拍と活力を与える重要な役割を果たす。主題としてのメロディーの個性は多くリズムにあらわれ、メロディーの種類とスタイルもリズムによって区別される場合が多い。

 メロディーにおけるリズムはきわだった特色がなければならず、メロディーの種類およびスタイルの特性を十分に生かさなければならない。いうまでもなく、特色を生かすからといって、リズムを人の感情の流れに合わない複雑なものにしてはならない。リズムで民族的拍子を十分に生かすのは、メロディーの民族的な味を引き立て、特色を生かすうえできわめて効果的である。作曲家は、リズムの効果をうまく生かして利用し、メロディーの特色をよく生かすべきである。

 メロディーの手段としては、調も重要な位置を占める。メロディーは、線とリズムだけでは、その思想的・情緒的内容を表現することができない。メロディーは調があってこそ、思想的・情緒的表現の機能を果たすことができる。調はハーモニーの基礎であり、調に特色をもたせると、それに裏打ちされたハーモニーもトーンが感じられ、多様なものになる。

 調は、メロディーの進行を高さの関係で組織する手段であり、メロディーに音楽的響きのトーンをもたせ、それが形象創造の有機体としての生命をもつようにする。

 調のないメロディーは、メロディーではなく、音楽とはいえない。人民は調のない音楽をうたうことができず、自分になじんだ調の歌を好んでうたう。歴史的に調のない人民音楽はなかった。我々は、調を否定する音楽、「無調音楽」を認めない。

 メロディーでは、調を多様に用いるべきである。調を多様に用いないと、いくら多くの歌をつくっても、音楽的トーンがみな同じものになってしまう。

 現代性を具現するからといって7音音階ばかり用いたり、民族性を生かすからといって5音音階ばかり用いるといった創作態度では、多様で特色のあるメロディーをつくることはできない。メロディーに新味をもたせるからといって、朝鮮人民になじみのない外国の民族的調をむやみに使ってもならない。

 メロディーで調は、形象のトーンを生かせるように、その調の可能性をいろいろと探しだし、新味が出るように用いるべきである。従来の方法を踏襲して、長調、短調の一般的な規則に縛られていては、メロディーに新味をもたせることができない。

 メロディーの調を特色づけるためには、人民音楽の宝庫である民謡を深く研究し、それに多様かつ豊富な人民的才能を見いださなければならない。もちろん、従来の民謡の調だからといって、元のものをそのまま使うことはできない。民謡の豊かで多様な調のなかから現代の美感に合うものはそのまま使えるが、そうでないものはこんにちの人民になじみ、一般化された調とよく組み合わせて、現代的に生かして使うべきである。そうすれば、民族的なものと現代的なものがほどよく結合した、特色のあるメロディーをいくらでもつくりだすことができる。

 作曲家はメロディーの手段と手法を用いるうえで、他人のものを真似るような悪習が生じないようにみずからを戒め、メロディーの創作で独創性と個性を生かすために努力すべきである。

 メロディーを特色づけるには、情緒的トーンを正しく選ぶ必要がある。

 メロディーの情緒は耳を通して感じられるが、各様のメロディーに漂う繊細で多様な情緒の違いは、トーンのイメージによって識別される。メロディーを聞いて、それが明るい、暗い、濃厚だ、淡泊だ、澄んでいる、濁っているなどというのは、それぞれのメロディーの情緒的感触の違いをトーンのイメージとして感じとるということを意味する。メロディーに感じられる喜怒哀楽のさまざまな情緒も、トーンのイメージと結びつけて感じとられる。トーンのイメージとして浮かぶメロディーの独特な情緒的感触が、すなわちメロディーの情緒的トーンである。

 メロディーの情緒的トーンは、メロディーを特色づけ、音楽的形象を個性化するうえで重要な役割を果たす。情緒的トーンは、メロディーの思想的・情緒的内容と形象をあらわす顔といえる。情緒的トーンが具体的な形象の要求に即して正しく選定されたということは、メロディーの特色がきわだち、音楽的形象が個性的であることを意味する。

 メロディーの情緒的トーンを正しく選定することは、音楽的形象を通俗的に理解できるようにするためにも大切である。メロディーを聞くとき、その線の模様、表現手段の特徴、構造といった要素よりも、その情緒的トーンが先に感じられるものである。メロディーの情緒的トーンは、音楽的形象にたいする総体的な印象をいだかせる。

 音楽では、ジャンルやスタイルもメロディーの情緒的トーンによって区別される。叙情的なメロディーと行進曲的なメロディーとでは情緒的トーンにおいて違いがあり、民謡と現代歌謡も情緒的トーンによって区別される。情緒的トーンは、同じジャンル、同じスタイルのメロディーでも、思想・主題の範囲によって違ったものになり、そのなかでも具体的な形象によってそれぞれ変わったものになる。同じ叙情的な歌であっても、祖国をうたう叙情と社会主義建設をうたう叙情が同一のものであるはずはない。祖国の歌にしても、祖国の幸福な今日と希望にあふれる明日をうたうときと、生死を分かつきびしい戦時に祖国の運命をうたうときとでは、情緒的トーンが異なるものである。

 メロディーの情緒的トーンは、ジャンルやスタイルによっても異なり、思想的・情緒的内容を表現する具体的な形象によっても異なるので、それを正しく選定してこそ、思想的・情緒的内容と形象の具体的な要求に即して特色のあるメロディーを創造することができる。

 メロディーの情緒的トーンは、具体的な生活内容によって繊細なものでなければならない。

 人間が生活の具体的な状況で体験する心理的・情緒的感触は、多様かつ繊細である。人間は同じ状況にあっても、思想的立場と見解、経歴、環境、性格、習慣などによって心理的・情緒的感触がそれぞれ異なるものである。メロディーの情緒的トーンは、具体的な生活のなかであらわれる思想・感情の違いまで細かく生かしてこそ、メロディーの特色をきわだたせて、生き生きとした形象を創造することができる。

 我々の時代の音楽では、メロディーの情緒的トーンは多様かつ繊細で明るいスタイルで貫かれるべきである。

 党と領袖の賢明な指導のもとに、助け導き合いながら、希望と情熱にあふれて楽天的に働き生活する我々の時代の人間の思想・感情を表現するメロディーの情緒的トーンが暗いものであってはならない。深刻な内容を表現するとか、切々たる思いを表現するからといって、メロディーを暗いものにしたり悲哀にみちたものにするなら、我々の時代の精神を正しく反映することはできない。明暗は相対的な概念であるので、形象の性格によってメロディーの明るさは違ってくるものであるが、現状を反映するにはできるだけ明るいものにすべきである。

 メロディーを明るいものにするからといって、軽いものにしすぎても我々の社会の雰囲気に合わず、現実をゆがめることになる。メロディーを重みのないものにすると、音楽が軽薄で卑しいものになりかねない。

 メロディーの情緒的トーンは、作曲家が現実をどう理解し把握するかによって違ってくる。作曲家は現実に深く入って我々の時代の本質を正しく把握し、生活の持ち味を深く体得すべきである。そうしてこそ、現実の生活にあふれる時代の情緒を実感し、そのなかから具体的な形象を生き生きと表現できるメロディーの情緒的トーンを正しく見つけだし、リアルで感動的な音楽的形象を創造することができる。

 メロディーを特色づけて音楽的形象を十分に生かすのは、単なる技術実務的作業ではない。音楽的形象は技術的な製品ではなく、生きた人間の個性のなまなましい再現であるため、音楽的形象の完成過程は、生きた人間の思想・感情、情緒を深く体験し、それを非反復的に再現するたゆまぬ探求と創造の過程となるべきである。作曲家は、現実に深く入って生活を深く体験し、メロディーの手段と手法を独創的に探求して特色のあるメロディーを探しだし、我々の時代の人間の崇高な思想・感情を豊かな音楽的形象によって感銘深く表現すべきである。





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