『音楽芸術論』−1 チュチェ音楽
 
2 主体性は朝鮮音楽の生命である


 音楽芸術を時代の要請と人民の志向に即して発展させるためには、音楽において主体性を確立しなければならない。

 音楽において主体性を確立するということは、自国人民の思想・感情と情緒に合い、自国の革命に寄与する音楽を建設し、創造することを意味する。

 革命と建設は民族国家を単位として進められるため、音楽芸術は、あくまでもその国の人民の思想・感情と情緒に合い、その国の革命に寄与しなければならない。かつて、ある人は、音楽には国境がないとし、音楽は民族と国家の関係を超越した「汎世界的な音楽」にならなければならないと主張した。これは、コスモポリタニズムを高唱する現代ブルジョア理論家の反動的な見解にもとづく詭弁にすぎない。国と民族が存在し、国によって人々の感情と情緒が異なるのだから、音楽に国境がないわけはない。もちろん、音楽の言語は、各民族に共通のものが少なくない。しかしこれは、音楽に国と民族間の何の境界もないことを意味するのではない。音楽言語には共通点があるが、その扱いと適用においては、それぞれの国の人民の生活感情と好みが反映される。したがって、それぞれの国の音楽には、相互の境があり、どの国、どの民族にも属さない「汎世界的な音楽」なるものはありえない。これは、音楽において主体性を確立して、自国人民の思想・感情と情緒に合い、自国の革命に寄与する音楽を建設し創造するところに、我々の時代の音楽発展の真の道があることを示している。

 こんにち世界的に、労働者階級の革命的音楽芸術は、ブルジョアジーの反動的音楽芸術と鋭く対立しており、革命的で人民的な音楽芸術にたいするブルジョア的で反動的な音楽芸術の攻勢と挑戦は日増しに激しくなっている。反動的なブルジョア音楽家は、種々さまざまの退廃的な音楽を好き勝手につくりだし流布させることによって、革命的で人民的な音楽芸術発展の道を阻もうとしており、修正主義者は、それに歩調を合わせて、労働者階級の革命的音楽芸術を腐敗、変質させようと悪辣に策動している。階級敵の策動にもかかわらず、わが国の主体的な音楽芸術は、真に革命的で人民的な音楽としての階級的性格を変わることなく固守しており、社会主義的音楽芸術の模範として燦然たる光を放っている。それは、どこからどんな風が吹きつけようと、ひたすらチュチェの旗を高くかかげ、我々の方式で音楽芸術を建設するというわが党の方針を貫徹したからである。

 主体性の確立は、わが国の音楽を朝鮮人民の要求と朝鮮革命の利益に即して発展させる確固たる裏付けである。チュチェの旗を高くかかげてこそ、わが国の音楽の革命的性格をさらに強化し、音楽芸術のたえまない発展を遂げることができる。実に、主体性は、朝鮮音楽の生命である。

 主体的立場を堅持するのは、音楽芸術を主体的に発展させるうえで堅持すべき根本原則である。音楽を朝鮮人民の思想・感情とわが国の具体的な実情に合ったものにするためには、音楽を主体的な立場に立って創造的に発展させなければならない。

 音楽では、民族音楽を基本とすべきである。民族音楽を基本にして発展させてこそ、音楽芸術において主体性を確立し、人民に愛される音楽にすることができる。

 進歩的なすべての音楽は、民族的である。一国の民族的な音楽のなかには、歴史的に形成され発展してきた伝統的な音楽とともに、音楽文化の交流過程で外国から入ってきた音楽もある。しかし、外国から入ってきた音楽であっても、個々の民族の情緒的要求と美学的な好みが反映されて次第に民族的な性格をおびるようになり、歳月が流れるうちに、その国の民族音楽に溶け込んでいく。したがって、民族的な音楽というとき、広義では自国人民の民族的情緒と感情に合わせて発展させていく音楽をすべて包括する。しかし、民族音楽を基本にして発展させるというときは、それぞれの国に固有な民族音楽を念頭に置いている。

 すべての人民は、それぞれに固有の伝統的な民族音楽をもっている。民族音楽は、それぞれの国の音楽芸術で基本をなしている。民族音楽は、民族生活の固有性と特殊性を反映して歴史的に形成され、継承され、発展してきた伝統的な音楽である。民族音楽のように自民族の心理的特性に合い、民族的感情と好みに合う音楽は他にない。民族音楽には、民族生活の軌跡がとどめられており、民族独特の香りがただよっている。

 朝鮮は、世界的に音楽が早くから発展した国である。才能にあふれた朝鮮人民は、古来いろいろな民族楽器をつくり、自分の願いと生活感情を歌にしてうたい、わが国の伝統的な民族音楽を創造し発展させてきた。

 朝鮮の民族音楽は、西洋音楽よりも優雅で繊細である。朝鮮人民の生活感情を情緒的に生き生きと表現するうえで、いかなる音楽といえども朝鮮の民族音楽には及ばない。朝鮮の民族楽器にしても固有な特性をもっている。特に、民族木管楽器の清らかでさびのある音色と、民族弦楽器の柔和で優雅な味は、朝鮮の民族楽器だけがもっている独特なものである。朝鮮の民族楽器の独特な音色と繊細な技巧は、いかなる楽器もとってかわることはできない。このような民族楽器で演奏される音楽は、その音色が明るいにせよ暗いにせよ、朝鮮のものとして感じられるが、洋楽器ではそうはならない。朝鮮音楽においては、あくまでも朝鮮人民の民族的情緒と好みに合う民族音楽と民族楽器が基本となるべきである。

 我々は民族音楽もたしなみ、洋楽もたしなむべきである。朝鮮音楽とともに発展する過程で、すでに朝鮮のものとして定着した洋楽と洋楽器をいまになって難じたり捨てたりする必要はない。要は、洋楽と洋楽器をどう利用するかである。

 洋楽と洋楽器は、あくまでも朝鮮音楽に服従させるべきである。洋楽と洋楽器をもってしても朝鮮人民の感情に合う音楽を朝鮮式に創造していくならば、問題はない。洋楽器でも朝鮮音楽を演奏し、朝鮮の民族的情緒を十分に生かせばよいのである。民族音楽と民族楽器を基本にして発展させ、それに洋楽と洋楽器を服従させることが、音楽において主体性を確立することになる。

 音楽を主体的に発展させるためには、民族的な旋律を基調としなければならない。

 民族音楽は、民族の英知と魂がこもっている貴重な文化財であり、社会主義的音楽芸術の燦然たる開花の下地である。社会主義的文化は、決して無から創造されるものではない。社会主義的文化は、過去の民族文化遺産を批判的に継承し、発展させることによって創造される。

 民族的旋律は民族音楽の主たる手段である。民族的旋律を基調とするときにのみ民族的特性を具現し、音楽において主体性を確立することができる。

 民族的旋律を基調とするということは、音楽の情緒と表現形式において民族的旋律の特性を生かすということである。

 音楽における民族的特性は、音楽の情緒と表現形式に具体的にあらわれる。民族的旋律には、それに固有な音楽的情緒があり、表現形式がある。

 朝鮮人民は、昔から清らかで優雅でしっとりした、深みのある音楽を好み、メロディーもなめらかで美しいものを好んだ。これは、音楽にたいする朝鮮人民の民族的情緒の具体的なあらわれである。朝鮮の民族的旋律は情緒の面ばかりでなく、調と拍子、音調とメロディーの発展手法においても外国の音楽と違った固有な特性をもっている。民族的旋律を基調としてこそ、音楽で朝鮮人民の民族的特性を正しく生かすことができる。

 民族的旋律を基調とするということを、昔の民謡の旋律をそのまま再生させることとしてのみ理解してはならない。時代遅れの旋律的要素は捨て、我々の時代の人民の生活感情を生き生きと表現しうる新しい旋律的要素を積極的に探しだして、民族的旋律をたえず発展させ豊富にすることは、民族的旋律発展の合法則的要求である。音楽の情緒と表現形式に民族的旋律の固有な側面と新しい側面をともに生かしてこそ、音楽で民族的旋律の基調を正しく生かしたといえる。

 音楽では、伝統的な民族音楽を大いに奨励すべきである。そうしてこそ、音楽芸術において主体性を確立することができる。

 伝統的な民族音楽で基本となるのは民謡である。民謡は、民族音楽の精髄であり、民族音楽の特長を集中的に体現している。

 民謡は、諸人民の固有な民族的情緒と生活感情に合う真の人民の歌である。

 わが国には、地方ごとに特色のある民謡が多い。長い歳月にわたって人民のあいだで広くうたわれ伝わってきた朝鮮民謡には、朝鮮人民の民族的情緒と生活感情が簡潔にして洗練された音楽形式に豊かにもられている。いまでも、朝鮮人民は民謡を好んでいる。我々は、民謡の発掘と研究に力を入れ、祖先が愛し好んでうたった価値のある民謡を、我々の時代にさらに美しく開花させなければならない。

 民族楽器も奨励すべきである。

 民族楽器は、民族音楽を創造する重要な手段である。音楽の創作において民族木管楽器や民族弦楽器などの民族楽器を大いに生かすべきである。民族楽器による独奏や重奏、管弦楽なども創作し、楽器の編成や音楽の編曲においても民族楽器の比率と役割を高めるべきである。

 音楽で民族的な拍子の興趣と妙味を生かすには、長鼓のような打楽器も効果的に利用すべきである。

 民族音楽を奨励するからといって復古主義を許してはならない。民族文化遺産に虚無的な態度をとってもならないが、復古主義的な態度をとってもならない。復古主義に反対するのは、社会主義的民族文化の建設でわが党が堅持している基本方針の一つである。

 階級社会で発生、発展してきた民族音楽には、階級的および社会的・歴史的制約性が反映されている。民族文化遺産だからといって、なんでもそのまま再生しようとしてはならない。かつての搾取階級の好みと趣味に合わせてつくられた音楽は、継承する価値がない。人民によって創造された民謡であっても、時代遅れの古い要素がないとは限らない。我々は民族音楽の遺産のうちで、進歩的で人民的なものと古くて反動的なものを正しく識別し、後者は捨て、前者は生かして現代の階級的要求と美感に合わせて改作もしくは発展させるべきである。

 民族音楽を現代的美感に合わせて発展させることは時代の要請である。我々は、革命の時代の人民の思想・感情と情緒にかなった民族音楽を発展させなければならない。

 民謡を発掘して新たに形象化することに力を入れるべきである。

 わが国の民謡では、西道民謡が主要な地位を占めている。西道民謡はメロディーが穏やかで美しく、なめらかなうえに民族的情緒が豊かなので、わかりやすくうたいやすい。東海岸地方の民謡のなかにも、メロディーが穏やかで美しいものが少なくない。そういう民謡をすべて掘り起こし、時代的美感に合わせて新たに立派に形象化することは、わが国の民謡をいっそう美しく開花させるための重要な要求である。

 我々は西道民謡を基本とし、南道民謡もすぐれたものは生かすべきである。かつて、全国的に広く知れわたっていた民謡のなかには、南道民謡も少なくない。もちろん、南道民謡がすべて人民に愛され、好んでうたわれたわけではない。以前の南道民謡のなかには、だみ声でうたわれる古臭いパンソリ(語り歌)風のものや時調風のものもある。そういう点を考慮に入れて南道民謡を吟味し、特性がきわだった価値ある民謡は、西道民謡と同様に、我々の時代の人民の美感と情緒に合わせて新たに創作し、形象化すべきである。

 南道民謡はその持ち味を生かしながらも、あまりにややこしかったり曲折の激しいものはなめらかにし、歌唱でだみ声のような要素をなくすべきである。南道民謡も穏やかでなめらかな澄みきったものにすべきである。

 ポチョンボ・エレクトロニック・アンサンブルで新たに形象化した民謡『オンヘヤ』は、南道民謡の持ち味を生かしながらも、西道民謡の唱法によって朝鮮人民の現代的美感に合わせて立派に形象化した代表的な民謡の一つである。

 我々のいう西道民謡唱法は、従来の概念とは違った意味をもっている。それは、民謡の地域的分布による狭い概念ではなく、解放後、わが党の主体的な民族音楽建設方針を具現して創造された朝鮮式の民謡唱法にたいする包括的な意味を有する。朝鮮式の民謡唱法をそれ相応に生かすならば、南道民謡もその持ち味を保ちながら、朝鮮人民の好みと情緒に合わせて新たに形象化することができる。

 我々は、西道民謡とともに健全で教育的価値がある南道民謡も積極的に掘り起こして、現代的美感に合わせて朝鮮式に新たに創作、形象化することによって、民族音楽の宝庫を豊かにし、それにもとづいてチュチェの音楽芸術をさらに発展させるべきである。

 民謡を時代的美感に合わせて新たに創作し、形象化すべきである。

 昔の民謡には、歌詞にむずかしい漢文調が混ざっているものもあれば、古臭い感じがする表現もある。そういう民謡はわかりやすい言葉に直したり、新しい表現に変えたりして、時代的美感に合わせて新たに創作、形象化してうたうようにすべきである。民謡のメロディーも不十分な点があれば音楽的にさらに手直しして洗練させるべきである。民謡を形象化するうえでも従来の歌唱法を踏襲するのでなく、演奏形式も新しくし、伴奏も多様にして、我々の時代の人民の感情に合うものにすべきである。

 民謡を発展させた新民謡風の歌を多く創作すべきである。以前は、作家や作曲家が介在せず、長い歴史にわたって人民大衆のあいだで広くうたわれる過程で磨かれ完成された歌だけを民謡と称した。しかし、こんにちでは、そういうものだけを民謡とみなすことはできない。音楽の専門家によって創作された歌でも、民族的旋律の特性が鮮明で民族的情緒が感じられ、人民のあいだで広くうたわれるようになれば、民謡化されたという意味で民謡といえる。こんにち、人民に愛されている民謡風の歌はすべて、我々の時代の新しい民謡である。民謡も時代とともに発展するものとみるべきであって、歴史のある時点にとどまるものとみるべきではない。我々は民謡についての認識を新たにし、我々の時代の民謡としてうたえる民謡風の歌を多く創作しなければならない。

 民族楽器を現代的に改良し発展させることは、民族音楽を時代的美感に合わせて発展させるうえで重要な意義を有する。

 朝鮮の民族楽器は澄んだ美しい音色と豊かな表現力をもっているが、昔の一部の楽器は音量に乏しく、音色に濁りがあるという欠点もある。民族楽器に固有な特性と長所は大いに生かすべきであるが、短所は放置すべきではない。民族楽器を現代的に改良して短所を改めてこそ、民族楽器でも我々の時代の音楽を立派に演奏し、民族音楽を朝鮮人民の美感に合わせてさらに発展させることができる。

 民謡を改作し、民族楽器を改良するからといって、本来の固有な特性を失わせてはならない。

 民族音楽を発展させるうえで大切なのは、その持ち味を生かすことである。民族音楽の持ち味が生かせなければ、音楽が中途半端なものになってしまう。朝鮮人民は、朝鮮のものでもなく西洋のものでもない、どっちつかずの音楽は好まない。

 民族音楽の持ち味を生かし、現代的美感を具現してこそ、音楽は時代の要請にかなった民族音楽になる。民族音楽を発展させるうえで、現代性の原則にのみこだわって歴史主義の原則を無視したり、歴史主義の原則だけを強調して現代性の原則を無視してはならない。民謡を新たに創作し形象化するにしても、それに固有な特色が生かされ、時代相が感じられるようにし、民族楽器を改良するにしても、本来の音色と形態が保たれるようにすべきである。

 音楽において主体性を確立するためには、外国の音楽芸術の成果と経験を批判的に取り入れなければならない。

 音楽において主体性を確立するからといって、外国のものを頭から無視し、排斥してはならない。わが国の音楽を早く発展させるためには、外国の音楽からもすぐれたものは大いに取り入れなければならない。

 現在、電子工業の発展にともなって世界的に新しい電子楽器が出現しており、それにもとづいた新たな現代音楽が発展している。現代科学の成果が取り入れられ、音楽的形象の立体化水準も日ごとに高まっている。こういった音楽の発展趨勢を無視しては音楽を世界的レベルに引き上げることはできない。

 外国の音楽の成果と経験を取り入れるにあたっては、なんでも見境なしに取り入れたり、うのみにすることなく批判的に取り入れて、自分のものとして消化する必要がある。外国の音楽はいかに立派なものであっても、そのまま自国の現実と人民の好みに合うわけではない。

 音楽の現代化においても主体性を確立しなければならない。我々は、電子楽器を利用するにしても朝鮮音楽に合うように利用し、現代音楽を演奏するにしても朝鮮式に演奏すべきである。人民がポチョンボ・エレクトロニック・アンサンブルの音楽を好むのは、電子楽器で朝鮮音楽を朝鮮式に立派に演奏するからである。

 つい最近まで人々は、電子楽器といえばロックやディスコ、ジャズのような音楽ばかり演奏するものと思っていた。事実、いまでも資本主義諸国には狂乱的な音楽を専門とするエレクトロニック楽団があり、それは音楽を奇形化し、人々の健全な思想・意識を麻痺させる有害な作用を及ぼしている。しかし、資本主義諸国のエレクトロニック楽団が否定的な作用をするからといって、電子楽器を排斥する必要はない。問題は、音楽の表現手段である電子楽器にあるのではなく、それでどのような音楽をどう演奏するかにある。

 電子楽器は、最新科学技術の産物であり、音色と音量を多様に幅広く調整できるという特長がある。電子楽器を効果的に利用すれば、音楽的形象の幅と深さをより十分なものにすることができる。

 電子楽器で朝鮮人民の趣味と情緒に合わせて朝鮮式に音楽を創造し発展させることは、電子楽器の導入と発展において堅持すべき原則である。電子楽器でも革命的で健全な音楽を朝鮮人民の民族的情緒に合わせてうまく形象化すれば、人民に愛されるようになる。

 ポチョンボ・エレクトロニック・アンサンブルの音楽は、朝鮮式の要求を具現して、電子楽器で朝鮮人民の趣味と情緒に合う朝鮮式の音楽を立派に創造した模範となる。リズムに重きをおき、粗雑で耳障りな騒がしい音を出すのでなく、朝鮮の拍子に乗り、なめらかで高尚な朝鮮のメロディーを基本とし、音楽を美しく健全に、情緒豊かに演奏するのが、ポチョンボ・エレクトロニック・アンサンブルの特色である。

 ポチョンボ・エレクトロニック・アンサンブルの経験は、世界的趨勢に従って現代的な音楽を手がけるにしても、あくまでも主体的な立場に立って朝鮮式の要求を具現するときにのみ、朝鮮革命に寄与し、朝鮮人民に愛される音楽を立派に創造することができることを端的に物語っている。

 外国の音楽に幻想をいだき、それを生で取り入れるのは、事大主義、教条主義のあらわれである。音楽分野で事大主義と教条主義が容認されると、ブルジョア的で修正主義的な音楽の浸透を防ぐことができず、わが国の音楽を革命的に、健全に発展させることができない。我々は、外国の音楽の成果と経験を批判的に取り入れ、わが国の実情と人民の感情に合わせて発展させる主体的立場を堅持しなければならない。

 音楽芸術分野では、現代的な音楽の発展趨勢に従いながらも、古典的な音楽はひきつづき古典的な方向に進むべきである。

 我々には、ポチョンボ・エレクトロニック・アンサンブルのような現代的な音楽も必要であるが、万寿台芸術団のような古典的な音楽もなければならない。わが国の土壌に根づき、幹を伸ばしてきた朝鮮の古典的な音楽は、それなりに一貫して生かしていくべきである。新しいものを創造するからといって、わが党がこれまでつとめて発展させてきた朝鮮の古典的な音楽を顧みないならば、それは朝鮮の音楽史を抹消することになる。

 ポチョンボ・エレクトロニック・アンサンブルの音楽のような新しい音楽を開拓しながらも、朝鮮の古典的な音楽をひきつづき発展させるためには、各芸術団体がそれぞれの特色を生かさなければならない。芸術団体の特性を生かして、歌劇や音楽・舞踊総合公演、伝統的な民族音楽、古典音楽などが各自それなりの道を進んでこそ、わが国の音楽をさらに多様に、幅広く発展させることができる。





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