『音楽芸術論』−1 チュチェ音楽
 
1 チュチェ時代は新しいタイプの音楽を求める


 真の音楽は、時代の要請に忠実であり、時代の使命に寄与する。これは、時代にたいする音楽の基本的義務であり、重要な役割である。

 歴史上の各時代は、それにふさわしい音楽を求め、各時代の音楽はそれぞれの時代を反映する。中世の音楽は封建社会の社会的・歴史的関係を反映した封建的なものであり、近代に発生したさまざまな音楽潮流は資本主義の発生とブルジョア革命、資本主義上昇期の歴史的時代を反映するものであった。これは、音楽史発展の合法則性である。

 我々の時代は、人民大衆の自主性をめざす闘争がもっとも高い段階に達し、人民大衆の自主的な要求と創造的な生活を立派に実現していく使命をおびた歴史的な新時代である。

 人民大衆の自主性をめざす革命闘争が時代の潮流となっている現代は、人民大衆の自主性を擁護し、かれらの闘争を鼓舞する音楽芸術を発展させることを切実に求めている。

 チュチェ時代にふさわしい音楽、チュチェ時代の要請と使命に寄与する音楽はチュチェ音楽である。チュチェ音楽のみが、我々の時代の本質をもっとも正しく体現し、チュチェ時代の偉業に忠実に奉仕することができる。

 チュチェ音楽は、芸術の社会的本性にも合致する。人間は、自主的な本性から、現実における自分の境遇にたいして満足と不満足の見解と立場をもつようになる。これは、芸術の形式によっても表現される。人間は、その本性から、自分の創造的な活動の促進に必要な思想的・精神的エネルギーと美的・情緒的充足感を求める。芸術は、人間のこのような要求を実現する強力な手段となる。芸術は、人間の自主的、創造的な要求と意識によって創造された社会的産物であり、人間の自主的、創造的な意識の発展に寄与する。人々の思想と感情を反映し、人々を思想的、情操的に教育し、闘争へと鼓舞するのが芸術の社会的本性である。人民大衆が世界を支配する主人として登場し、革命と建設を力強くおし進めている現代において、音楽は当然、芸術の社会的本性に即して人民大衆の志向と要求を反映し、かれらに奉仕しなければならない。

 チュチェ音楽は、新しい時代の要請と人民大衆の志向を反映し、あくまで人民大衆に奉仕する新しいタイプの音楽である。

 チュチェ音楽は、新しい時代、チュチェ時代の要請と人民大衆の志向を、その内容と形式に立派に具現した新しいタイプの音楽芸術であり、従来のあらゆる音楽芸術と明確に区別される固有な特性をもっている。

 チュチェ音楽は、内容が革命的である。

 社会と歴史の発展において主体である人民大衆は、自主性を実現するために、自主的な志向と創造的な要求を実現するためにたえずたたかう。音楽は、人民大衆の自主性を擁護してたたかう自主的人間の思想・感情を描いてこそ、人民大衆の志向と要求を具現したといえる。

 音楽において人間の思想・感情は、かれらが生活と闘争で体験するさまざまな感情と情緒として表現される。

 音楽は、人間の思想・感情を内的衝動による情緒のあらわれとして描出する芸術の一ジャンルである。文学と芸術は、いずれも人間の思想と感情を描出する。しかし、音楽は、人間の思想と感情を描出する表現方式において、他の芸術ジャンルと区別される固有な特性をもっている。音楽は、音楽的な響きによって人間の感情的・情緒的体験を描出する特殊な芸術である。音楽は主に、現実から感じとる人間の情緒的体験、心理的衝動によって生じる感情と情緒を描出する。音楽は、文学のように表現しようとする思想を直接かつ具体的に描出することができず、美術のように現実を目にするように描き出すこともできないが、人間の体験する心理的・情緒的世界をどの芸術よりも深く繊細に表現する。

 チュチェ音楽は、人民大衆の自主性をめざすたたかいと、自主的で創造的な生活での高潔で崇高な精神的体験と、楽天的で戦闘的な心理的激動を深い感情・情緒世界として描き出すことによって、人民大衆の志向と要求を具現する。

 音楽で大切なのは内容である。音楽で内容を無視し否定するのは、芸術至上主義、形式主義のあらわれであり、「芸術のための芸術」「純然たる形式美」の美名のもとに、音楽の健全で革命的な思想と内容を骨抜きにする反動的な主張である。音楽に進歩的で革命的な内容がなければ、人々を革命的な思想で教育するのに寄与することができないばかりか、思想教育に弊害をもたらすことになる。

 音楽で内容を軽視する傾向があらわれるのは、音楽の内容表現の特性にたいする誤った認識にも起因する。

 音楽では、芸術形象の特性のため、文学をはじめ、他の芸術ジャンルに比べて作品の思想的内容が前面にあらわれない。文学にしても音楽にしても、現実の生活と、そこからあらわれる人間の思想・感情を描き出す。文学は、生活と人間の感情をストーリーによって描写し、音楽は生活のなかでの人間の思想・感情を感情と情緒によって表現する。

 文学では、人間の思想は、ストーリーと人物のせりふを通じて直接、具体的に描き出されるが、感情の動きは描写を通じて間接的にあらわされる。音楽は、文学とは異なり、人間の感情を音楽的情緒によって直接、具体的に描き出す。しかし、音楽の思想的内容は、感情と情緒の奥底にあって具体的に前面に直接あらわれないので、作品の題目や声楽曲の歌詞、その他の音楽的論理といった間接的な手段の助けを借りなければ正しく理解することができない。そのため、一部の人は、音楽には思想と内容がないかのように考え、内容をおろそかにしている。これは、きわめて危険なことである。

 思想なくして感情が生まれるはずはなく、思想と感情なくして情緒が生まれるはずもないのであるから、自主的で革命的な思想と崇高な精神から出発しなくては、時代の情緒があふれる音楽は生まれえない。以前にも自主性を擁護する人民大衆の革命闘争は間断なくつづけられ、人民大衆の革命的志向を反映して歴史に肯定的な足跡を残した音楽も少なくない。しかし、以前の音楽に反映された進歩的な思想は、積極的なものでなく、闘争の真理を示すことができず、多くの場合、自然をうたったり純粋の美を描くことにごく皮相的にあらわれたにすぎない。自然をうたい、純粋の美を描くような音楽は実際上、人民大衆の闘争にとってさほど意義をもつものではない。音楽は自然をうたうにしても、自然にたいする人間の自主的で創造的な立場と態度を反映すべきであり、美を描くにしても人間を人間らしくする人間本来の美、自主性を擁護してたたかう真の人間の思想・感情の気高い美を描くべきである。特に、帝国主義者と反動たちが人民大衆の闘争意欲と健全な革命精神を麻痺させようと執拗に策動している現況下では、無意味な自然をうたったり純粋の美を描く音楽は、敵に道を開く結果をまねくだけである。

 我々の時代の音楽は、人民大衆の闘争そのものを客観的に描くだけのものであってはならない。

 過去にも抑圧と搾取に抵抗する人民大衆の闘争、労働者階級の指導する革命闘争を反映した音楽が創造された。このような音楽においても、革命にたいする信念と革命闘争における英雄主義、祖国と人民にたいする献身性、未来にたいする希望と新しい生活にたいする誇りと幸福感などが描かれた。しかし、そうした感情も、革命一般や闘争一般において扱われたため、我々の時代の要請を正しく反映しているとはいえない。

 音楽が描き出す立派な感情と情緒はすべて、革命の根本問題である人間の自主性を擁護する人民大衆の生活と闘争の根底と根本要因を体現したものでなければならない。真の音楽が描き出すべき人間は、自主性を生命とする人間であり、社会的・政治的集団に忠実な人間、社会的・政治的生命体のなかで永久に生きつづける人間である。音楽は、このような人間の思想・感情を描き出すべきである。

 領袖へのかぎりない欽慕と党へのゆるぎない信頼、領袖と党の指導を受ける革命的誇りと自負をすべての生活的な感情と情緒の下地とし、それにもとづく集団的英雄主義、犠牲的精神、楽天主義、幸福感といった感情と情緒があふれてこそ、その音楽は人民大衆の自主的な志向と要求を立派に具現することができる。

 チュチェ音楽の革命的内容で根本問題となるのは、領袖に関する問題であり、領袖、党、大衆の血縁的なつながりに関する問題である。

 領袖へのかぎりない忠実性とそれを核とする党と勤労人民大衆への忠実性は、チュチェ音楽の革命性を規定する基本内容となる。

 チュチェ音楽は、形式が人民的である。

 人民大衆の感情と情緒に合い、かれらが聞いて楽しめるというのが、チュチェ音楽のよりどころとする人民的な形式である。社会・歴史発展における主人は人民大衆である。音楽芸術の発展においても、主人は人民大衆である。音楽は、人民大衆の思想と感情をかれらが聞いて楽しめる音楽言語で表現してこそ、歴史を前進させる人民大衆の闘争に寄与し、人民の真の音楽になりうる。

 音楽の形式が人民大衆の情緒と感情に合い、かれらが聞いて楽しめるものとならなければならないのは、音楽言語の特性から提起される重要な問題である。

 音楽言語は、日常生活では使われず、音楽においてのみ使われる固有なものである。文学・芸術の他のジャンルでは、日常生活で使われる人々の交流手段が芸術的言語として利用されている。しかし、音楽言語は、人々の交流手段である言葉の意味や物体の形態、人の身ぶりや表情など、取り決められた意思表現形式を経ることなく、直接、心のなかに伝達される。音楽言語は、人々が音楽生活の過程で慣れ親しんでこそ理解でき、音楽的な情緒と感情をいだくことができる。かつて、交響楽や室内楽といった専門的な音楽が、長い歳月にわたって広範な聴衆を得ることができず、大衆的な普及が困難な問題となってきたという事実が、これを端的に物語っている。

 これまで音楽における人民性の問題は、誰も正しく解明することができず、いかなる音楽も正しく解決することができなかった。かつて、搾取社会では、人民大衆が主人の地位を占めることができなかったため、音楽の歴史においても人民音楽は主人の地位を占めることができず、支配階級に奉仕する専門的な職業音楽が主流をなしていた。以前の古典的な職業音楽は、たとえ、社会の発展にある程度進歩的な役割を果たしたものであっても、支配階級を中心とする上流社会の枠にとどまり、その範囲で人間の美しい感情をうたい、当時の時代的志向も反映したのである。一部の古典的な職業音楽の進歩性というものは、上流階級の立場から人民に同情を寄せ、人民の創造的才能をある程度認め、人民音楽の要素を取り入れて特権階級と専門家の好みに合わせて利用したにすぎない。かつて、音楽史の主流となっていた古典的な職業音楽は、すべて上流階級の暇をもてあます、ぜいたくな生活と結びついており、人民大衆には理解しがたい音楽であった。帝国主義時代にいたって、専門的な職業音楽は人民の思想・感情を完全に無視するようになり、その音楽言語は人民の理解からますます遠ざかった。一方、帝国主義者は、狡猾な方法で人民の音楽的要素を極端な反動的目的に悪用して、人民大衆を堕落させ、かれらの闘争意識を麻痺させる「大衆音楽」を広めることによって、それを人民大衆を抑圧し搾取し、奴隷化するための道具として利用した。

 これまでの進歩的な音楽にしても、人民性、人民への奉仕精神は、人民にたいする同情の域を出るものではなく、人民音楽の形式を専門家の立場から取り入れたにすぎなかった。そのような音楽は職業音楽の古典的な伝統の継承を主張し、古典的な職業音楽の専門家本位の古い枠をそのまま受け継いだ。結局、これまでの進歩的な音楽の人民性というものは、人民の外から人民に支持と同情を寄せ、人民の外の音楽に人民音楽の要素を利用したにすぎない専門家本位の音楽であるという点で、かつての古典的な職業音楽の人民性と本質上、それほどの違いはなかった。人民自身が主人とならない音楽、人民に奉仕しない音楽、人民大衆が理解し楽しむことのできない音楽においては、人民性について考えることができない。人民大衆が革命の主人として登場したこんにち、以前の職業音楽の専門家本位の古い枠は徹底的にうちこわされなければならない。

 一部の専門家だけに好まれ、広範な勤労人民大衆には理解できない音楽は無用である。我々の時代の音楽が、専門家本位に走り、広範な大衆の理解を考慮に入れないならば、人民に見捨てられ、革命と建設においてなんの役割も果たせなくなるであろう。

 音楽の形式を徹底的に人民的なものにするには、大衆性、通俗性が貫かれなければならない。音楽においては、以前の古典音楽にたいする無原則な崇拝思想を一掃し、我々の時代の要請に合う新しい古典的な音楽形式を通俗的に発展させなければならない。そうしてこそ、古典的な音楽形式も人々を思想的、情操的に教育し、闘争へと鼓舞する真の音楽となりうる。

 音楽で大衆性、通俗性を貫くためには、広範な大衆が好み、かれらに人気のある大衆音楽の形式も健全かつ高尚に発展させなければならない。我々のいう大衆性、通俗性は、旧社会の大衆音楽や通俗音楽とは無縁のものである。旧社会における大衆音楽、通俗音楽という言葉は、専門的な職業音楽を「高尚」な音楽とみなし、街頭の退廃的な音楽、酒場や料亭の三文音楽をそれと区別するために使った低俗な音楽の代名詞であった。

 チュチェ音楽は、古典的な音楽形式を発展させるにしても、大衆音楽形式を発展させるにしても、人民的立場から通俗的に発展させることを重要な原則とする。

 大衆音楽形式の健全な発展のためには、帝国主義者が広めている退廃的な「大衆音楽」の浸透を防ぎ、低俗で不健全な享楽や奇形的で退廃的な趣味を助長するささいな要素も許してはならない。そうしてこそ、人民大衆の志向と感情に合い、時代を前進させる高尚な大衆音楽を創造することができる。

 わが国の音楽の大衆性、通俗性は、音楽の社会的本性に即して人民大衆の思想と感情を反映し人民大衆の革命闘争に寄与する、チュチェ音楽の崇高な使命と革命的で人民的な性格を規定するもっとも重要な要因の一つとなる。チュチェ音楽の大衆性、通俗性は、高尚な芸術性を前提とする。チュチェ音楽で大衆性、通俗性を貫くということは、音楽の芸術的レベルを落とすことを意味するのではない。チュチェ音楽こそは、徹底的に大衆的で通俗的でありながらも、もっとも高い芸術的レベルが保たれる音楽である。

 人民大衆に奉仕するチュチェ音楽の社会的機能は、音楽の芸術形象の特性に即して立派に遂行される。音楽は、人民大衆を革命的に教育し、闘争に立ち上がらせるうえでみずからの役割をもっている。

 音楽は人々に豊かな情緒と躍動する生気、燃えるような情熱をいだかせる崇高な芸術である。

 音楽は、人間の情緒を豊かにする。

 人間は、思想と知識だけでは生きていけない。人間が自分の意識を高めてみずからをたえず改造していくためには、健全な革命思想をもち、自然と社会に関する幅広い知識を蓄積するとともに、豊かな情緒をつちかわなければならない。

 健全で豊かな情緒は、生活をうるおいのあるものにするばかりでなく、人々の感情を崇高なものにし、精神と道徳を清らかなものにする。情緒が豊かな人であってこそ、人間をかぎりなく愛し、貴い人生を有益に送るために努力するものである。

 人間の心に強い刺激を与え、人間を情緒的に感動させる音楽は、人間の情緒を美しく豊かなものにする。人間に豊かな情緒をもたせることのできない音楽、情緒に欠けた音楽は音楽とはいえない。音楽で数理的な論理だけを重視し、人間の美しく豊かな情緒を軽んじるならば、それは、人民大衆に理解されないばかりか、音楽が抽象化され、真の人間性から遠ざかり、本来の機能を果たすことができなくなる。情緒が豊かな音楽であってこそ、人民大衆を健全で革命的な思想と情緒で教育し、生活を楽しく朗らかなものにするのに奉仕することができる。

 音楽は、人間の生活に躍動する生気をもたらす。

 躍動する生気は、人々に生にたいする喜びとロマンをいだかせる。生にたいする喜びとロマンは、人間の自主的な生にたいする誇りと、真の生を輝かそうとする人間の志向をさらに高める。躍動する生気があってこそ、社会生活が活気づき、革命的な気迫にみちるようになる。

 音楽は、人々に生気を与える独特な生命力をもっている。音楽を聞いていると知らず知らずに陶酔して思索にふけったり、心が浮き立ったり、闘志と勇気がわいて突き進みたくなったりするのは、人々に及ぼす音楽の生命力がいかに大きなものであるかを如実に物語っている。

 人々に躍動する生気を吹き込むことができない音楽は、真の音楽になりえない。哀愁と厭世、低俗で奇形的な享楽と放縦をあおりたてる音楽は、人々の健全な意識を麻痺させる退廃的な音楽であり、自主性を生命とする真の人間の思想・感情とは無縁であり、人間の自主的で創造的な志向を阻む反動的な音楽である。音楽は人々に躍動する生気を吹き込んでこそ、健全で崇高な音楽となり、社会的機能を果たすことができる。

 音楽は、人々に燃えるような情熱をいだかせる。

 情熱は、人間の創造的活動をさらに高揚させる。いくら思想・意識が高くても、燃えるような情熱がなければ創造性を発揮することはできない。情熱のない人は、何事においても成果をあげることはできない。情熱があってこそ仕事が楽しくなり、創意が生まれ、障害と難関を前にしてもためらわず、それに立ち向かうことができる。自分の仕事にたいする燃えるような情熱は、革命家が必ず身につけるべき気高い品性の一つである。

 音楽には、人の心をとらえ、燃え立たせる熱いものがある。音楽は、心にじかに訴える情熱の芸術ともいえる。人の心をゆさぶる音楽は、人に燃えるような情熱を吹き込み、創造的積極性を呼び起こす。人々に燃えるような情熱をいだかせることのできない音楽は死んだ音楽であり、人々を呼び起こすことのできない音楽は価値を失った音楽である。時代の思想・感情と時代的美感に合わない音楽は、人々の情熱をかきたてることができない。したがって、暇をもてあましていた固陋な封建時代の支配階級の音楽は、我々の時代を前進させることはできない。人々に燃えるような情熱をいだかせ、かれらを革命と建設に立ち上がらせる真の音楽は、革命的現実を熱く体験した作曲家の心からのみ生まれるのである。

 チュチェ音楽は、音楽の特性にかなった社会的機能を立派に果たすことによって、人々を教育し、自主的で創造的な人間に育てるうえで大きな役割を果たす。音楽にあふれる豊かな情緒と躍動する生気、燃えるような情熱のなかから意味深い思想が生まれでるとき、その認識的・教育的機能はたとえようもなく大きなものになる。

 歴史上のすべての音楽が、社会的に肯定的な役割を果たすわけではない。音楽はその社会的・階級的性格によって、肯定的かつ進歩的な役割を果たすこともあれば、否定的かつ反動的な働きをすることもある。元来、音楽は人間の創造的な労働生活の過程で生まれたものであるが、歴史を前進させた人民大衆と、それを阻んだ反動階級との熾烈な階級闘争の過程で発展してきた。音楽の発展過程で、人民大衆はつねに音楽の社会的本性に即して肯定的な役割を果たしてきたが、歴史の反動層はつねにそれを抑制し阻害してきた。社会発展における熾烈な階級的対立と複雑な社会的関係は、かつての搾取社会のすべての音楽に進歩的で人民的なものと古くて反動的なものとの闘争をともなわせた。人民的な音楽であっても、かつては、社会・歴史発展段階の未熟さと階級関係の複雑さが反映されざるをえなかった。特に、帝国主義時代のあらゆる退廃的な音楽の氾濫が示しているように、こんにち、音楽にたいする反動たちの攻勢はきわめて執拗にして狡猾かつ陰険なものであり、進歩的なものと反動的なものとの闘争はさらに激化している。

 人民大衆が主人となり、かれらに奉仕するチュチェ音楽だけが、人民の志向に逆行するあらゆる反動的なものを一掃するだけでなく、人民に理解されず感情に合わないあらゆる非人民的なものを徹底的に克服することによって、人民大衆の自主的で創造的な闘争の新しい時代であるチュチェ時代の真の音楽になりうる。

 時代の要請と人民の志向をリアルに反映し、人民大衆に真に奉仕する革命的で人民的なチュチェ音楽は、革命的な音楽芸術の伝統に基礎をおいている。わが国における音楽芸術の革命伝統は、抗日革命闘争の時期に不朽の名作をはじめ、抗日革命音楽が創作、普及されたときから築かれた。

 偉大な領袖金日成同志は、抗日遊撃隊員と人民を革命的に教育し、革命闘争へと鼓舞激励するうえで音楽芸術が果たす機能と役割を深く洞察し、それにもとづいて革命歌謡と革命歌劇をはじめ、数々の不朽の名作をみずから創作することによって、チュチェ音楽の起源を開き、革命的音楽芸術の輝かしい伝統を築いた。抗日革命音楽は、チュチェ音楽の歴史的根源であり、万年の礎である。抗日革命音楽は、わが国の音楽の発展においてはじめてチュチェ思想を具現した、もっとも革命的で人民的な音楽芸術のモデルである。朝鮮人民は、数千年の悠久の歴史と燦然たる文化をもつ英知にあふれた人民である。人民の集団的知恵によって創造された民謡をはじめ、民族音楽の遺産のなかには、世界的に誇るべき美しくすぐれた作品も多い。しかし、かつて朝鮮人民は、封建的束縛と日本帝国主義の植民地社会の歴史的条件と思想的・美学的制約のため、自分の生活感情と未来への素朴な願いを美しくなめらかな旋律にもりこんだにすぎず、古い社会をくつがえし、社会の変革をもたらすうえでの根本問題を反映した革命的な音楽を創造することはできなかった。1930年代に一部の音楽家がプロレタリア音楽活動を進めたとはいうものの、党的で労働者階級的な音楽といえるほどのものは残せなかった。

 朝鮮音楽の革命伝統は、民族独立と階級解放、人間解放をめざす朝鮮人民の闘争で切実に提起される根本問題にもっとも正しい解答を与えた不朽の名作をはじめ、抗日革命音楽の創作によって築かれた。

 抗日革命音楽は、革命的で社会主義的な内容を民族的で人民的な形式でリアルに表現し、高い思想性と気高い芸術性を密接に結合しているため、革命的な音楽芸術のモデルとなり、チュチェ音楽の建設の貴い資産となる。抗日革命音楽は、簡潔で素朴な形式に革命的な内容をもりこみ、高い思想性・芸術性をもっているため、誰もが好んでうたい、人々に革命的な思想・意識と不撓不屈の闘争精神を植えつけ、力と勇気と燃えるような情熱をいだかせることによって、抗日革命偉業の勝利に大いに寄与した。我々は、このような実践的モデル、豊富な経験をもっていたため、解放後、短期間に時代の要請と人民の志向にかない、革命と建設に真に奉仕するチュチェ音楽を成功裏に建設し、発展させ、豊富にすることができたのである。

 抗日革命音楽の多様で豊富な種類と形式は、我々のチュチェ音楽をさらに幅広く豊満なものに開花させるゆるぎない源であり、貴い資産である。

 金日成同志を、団結の中心、民族の太陽として高く仰いだ抗日革命闘士と全朝鮮人民の崇高な思想・感情をリアルに反映した不滅の革命頌歌『朝鮮の星』をはじめ、さまざまな性格の叙情歌謡と行進曲、数え歌・文字取り歌形式の歌と風刺歌謡、舞踏曲と輪舞歌、遊戯歌にいたるまで歌謡芸術のあらゆるジャンルとともに、革命的歌舞と革命歌劇の伝統がきびしい抗日革命闘争の過程で築かれた。

 抗日革命音楽によって起源が開かれたチュチェ音楽は、わが党の賢明な指導のもとにたえまない発展の道を歩んできた。わが党は、金日成同志が抗日革命闘争期にみずから創作した不朽の名作を我々の時代の歌劇舞台に再現する活動を賢明に指導して、この地に『血の海』式歌劇の新しい起源を開き、歌謡の名曲創作と人民的な器楽創作において偉大な変革の新しい歴史を創造した。こうして、チュチェ音楽の伝統をさらに幅広く深化、発展させ、チュチェ音楽のたえまない発展のための強固な土台を築きあげた。党の賢明な指導のもとに日に日にめざましい発展を遂げてきたわが国の音楽は、こんにち人民からかぎりなく愛され、チュチェ音楽のモデルとして世界に名声を博している。

 わが国の歴史上、音楽芸術が、こんにちのように美しく輝き、花と咲いたことはない。これは、文学・芸術建設におけるわが党の貴い業績の一つである。

 チュチェの音楽芸術を新たな高い段階へとたえず発展させるためには、音楽芸術にたいする党の指導をさらに強めなければならない。

 党は、革命闘争と建設事業を勝利に導く参謀部であり、指導的力量である。チュチェの音楽芸術建設の偉業は、党の指導によってのみ成功裏に遂行される。音楽芸術は、領袖の革命思想を世界観の基礎とし、その発展の道を示す正しい指導思想と理論にもとづいてこそ、立派に建設される。党は、領袖の革命思想とその具現である主体的文芸思想で音楽家を武装させるばかりでなく、革命発展の各時期に正しい文芸路線と方針を提示し、その貫徹へと力強く鼓舞激励することによって、主体的音楽芸術建設の偉業を輝かしい勝利に導く。チュチェの音楽芸術建設の偉業は、真に革命的で人民的な新しいタイプの音楽芸術を建設するための偉業であるため、あらゆる古いものとの深刻な階級闘争をともなわざるをえない。現在、内外の階級敵の策動が日増しに強まっている状況のもとで、音楽芸術にたいする党の指導を強化することは、階級の敵が流布している修正主義的音楽をはじめ、あらゆる不健全な音楽潮流の浸透を防ぎ、チュチェの音楽芸術の健全な発展をはかるために、いっそう重要な問題として提起される。我々は、音楽芸術にたいする党の指導を強化することによって、どこからどんな風が吹きつけようと、わが国の音楽芸術を真に革命的で人民的な音楽芸術としての、みずからの持ち味が鮮明なチュチェの音楽芸術としてより美しく開花させなければならない。音楽芸術にたいする党の指導をさらに強化するところに、チュチェ音楽建設の決定的な裏付けがあり、わが国の音楽をして朝鮮革命と朝鮮人民に立派に奉仕させる真の道がある。



 


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