金正日「演劇芸術について」−3 演劇の舞台形象

3−3 演劇美術は、流れ式立体舞台美術


 演劇革命の遂行過程で、『血の海』式歌劇での流れ式立体舞台美術の成果を演劇の特性に即して創造的に取り入れました。多様な生活の全景をもりこんだ立体的な画幅が舞台の上で、ドラマの流れに従ってたえまなく流れていく光景は、従来の演劇には見られなかった独特なものです。

 『城隍堂』式演劇の舞台美術は、生活の要求と人民の美感にかなっているばかりか、演劇の特性にも合致する真に写実主義的な流れ式立体舞台美術です。流れ式立体舞台美術は、環境描写にとどまっていた従来の古い舞台美術の制約を克服し、人物の姿や生活も現実で見るようにそのまま再現できるようにします。我々は今後も、流れ式立体舞台美術の創作原則を十分に具現して、演劇の思想的・芸術的水準をさらに高めなければなりません。

 流れ式立体舞台美術は、すべての画幅が人物の生活環境を見せながらも、性格を生かすのに積極的に寄与することを求めます。

 文学・芸術作品における環境描写は、自然と社会の姿を見せるのに寄与するだけでなく、人物の性格描写にも作用します。人物の性格を創造するうえで環境描写を巧みにすれば、内面世界をより深く幅広くあらわし、形象をいっそう感動的に際立たせることができます。小説は人物の性格創造のための環境描写において、ほかの芸術ジャンルに比べて高い境地に達しているといえます。映画も小説でのように、人物の性格をあらわすのに環境描写を多く利用しています。しかしながら、従来の演劇は、人物の性格創造のための環境描写において、多くの可能性を利用することができませんでした。かつての舞台美術は固定的で平面的なものだったので、一つの事件を単位として構成される幕と場の範囲でその事件が展開される環境と状況、雰囲気を示すことにとどまり、人物の内面世界を明らかにする作用はさほどしませんでした。従来の演劇では、人物の悲喜にかかわりなく装置と背景がそのままの停止状態にありました。人物の感情の変化に順応できない舞台美術をもってしては、新しい演劇の要求を満たすことができませんでした。それで、我々は演劇革命にあたって、人物の生活環境を示すことにとどまっていた舞台美術を、新しい演劇の人間学的要求に即して革新することにしました。

 『城隍堂』式演劇における舞台美術は、人物が行動する環境をつくりだすのみならず、かれの内面世界を掘りさげて描き出します。

 革命演劇『城隍堂』のクライマックスの舞台美術は、その好例の一つです。クライマックスでは、福順の母がトルセをはじめ、村の青年の助けによって、これまで地主や区長、みこたちにだまされてきたことを悟り、自分が苦労しているのは運命のしわざではなく、城隍神を信じたためであるといって、こん棒で城隍堂をぶちこわす瞬間、城隍堂はもとより周囲の立ち木や岩も消えうせ、その場に全く新しい情景が開けます。現実には見られないことが目の前で起こりますが、観客はその奇跡じみた舞台の変化を感銘深く受け入れます。それは舞台美術が、それまで迷信にとらわれてただ自分の運命を嘆き、地主や区長のような搾取者にだまされつづけてきた福順の母が迷信から覚め、新しい人間に生まれ変わる性格発展の論理に従って形象化されているからです。この場面で舞台美術は、人間が思想的、階級的に目覚めて、自分の運命を自分の手中におさめ、自分の力で切り開こうという自主的な志向をもつとき、いかに驚くべき力を発揮しうるかということをよく示しています。

 『城隍堂』式演劇の創造において、流れ式立体舞台美術の豊富な形象的可能性をいかに効果的に利用するかは、もっぱら美術家にかかっています。演劇の舞台美術は一貫して主人公の行動の線を追い、その生活環境をつくりだすと同時に、内面世界を描き出さなければなりません。もし美術家が舞台の画幅を人物の性格創造に服従させず、生活環境を見せることにのみ利用するなら、純然たる客観主義に陥ってしまい、逆にそれを人物の性格描写にのみ利用するなら、生活の客観的論理を無視し、性格と環境の統一を破壊し、自分の意図だけを優先させる主観主義に陥ってしまいます。

 舞台美術は、環境描写と性格描写にともに作用しなければなりません。美術家は舞台の画幅を通じて当代の世相と社会の姿、自然の情景を明白に示すと同時に、人物の性格を明らかにすべきです。美術家は、いくつかの固定した幕と場に生活環境を限らせていた既成の慣例から脱し、主人公の行動の線を追ってその生活環境をつくりだし、内面世界を描き出す多様な画幅を展開すべきです。そうしながら、それらの画幅を密接につなぎあわせ、生活の発展過程とそれにともなう主人公の成長過程を一貫して見せるように、一つの造形的な流れにすべきです。

 流れ式立体舞台美術は、場面をたえず転換させ、画幅を流れ式に描き出すことを求めます。場面の転換を流れ式にすれば、ドラマの流れを持続させ、短時間に多くの内容を見せることができます。

 革命演劇『血噴万国会議』では画幅がたえず流れていくので、わずか2時間の公演時間にソウルや北間島、ハーグの場面をはじめ、複雑かつ膨大な内容を遜色なく見せることができたのです。従来の演劇でそれらの場面をみな見せようとすれば、おそらく3、4時間はかかるでしょう。

 場面を流れ式に転換させるときには、観客に舞台の画幅がいつ変わったのか感づかれないくらいに自然に転換させて、観客の情緒的感興を持続させなければなりません。場面の転換を流れ式にする目的自体が、生活の流れを自然に保ちながら、観客の情緒をさますことなく持続させるところにあります。観客の感興を持続させてこそ、演劇の情操的浸透力をさらに高めることができます。

 場面の転換にあたっては、装置と背景をたえず変えながらも、それを調和のとれた一つの画幅として展開すべきです。場面を瞬間的に転換させながらも全般的な画幅の視覚的完結性を保障するのは、舞台形象のリアリティーを生かし、芸術的品位を高める基本的方途の一つです。美術家は場面描写を構想するときから、それを流れ式に転換させながら画幅の調和を実現する方途を見いださなければなりません。美術家は映画の演出家のように、生活をたえまない動きのなかで把握し、形象化する能力を身につけるべきです。流れ式立体舞台美術の構想にあたっては、装置と背景を容易に調和させる技術的条件も十分に考慮すべきです。

 『城隍堂』式演劇の舞台美術は、最新科学技術の成果にもとづき、創作実践で提起される困難かつ複雑な課題をスムーズに解決していかなければなりません。

 美術家は、人物の性格を変化、発展の過程で見せるばかりでなく、さまざまな視点から幅広く見せることができるように、舞台の画幅を立体的に描出すべきです。舞台の画幅を立体的に描出してこそ、舞台の上に展開される生活状況を現実でのように自然に見せ、人物の性格をいろいろと際立たせ、観客をドラマの世界に深く引き込むことができます。

 美術家は、従来の平面的な舞台構成から思いきって脱却し、対象をさまざまな視点から自由に再現する一方、舞台の上に再現するあらゆる対象の形態と色彩、その細部を現実にあるものと同じように見せるとともに、それらの調和を実現すべきです。美術形象の造形性や立体性などは常に対象の実在性を前提とし、それらの調和にもとづいてはじめて生まれるのです。

 舞台美術を流れ式で立体感のあるものにするには、いろいろな表現手段と方法が利用されます。美術家は、人物の性格と生活をリアルに生き生きと、深くかつ幅広く描き出す原則に立って、いろいろな表現手段と方法を統一的に、調和がとれるように利用すべきです。

 流れ式立体舞台美術は、演劇の特性に即して創造しなければなりません。

 こんにち、舞台芸術部門で舞台美術を流れ式に創造するのは、普遍的な現象となっています。『血の海』式歌劇を原点とする流れ式立体舞台美術は、演劇に一般化されたばかりでなく、舞台芸術の多様なジャンルに広く普及されています。このような状況のもとで、個々の芸術ジャンルの特性に即して流れ式立体舞台美術を創造するのは、極めて重要な問題として提起されます。この問題をどう解決するかによって、個々の芸術ジャンルの舞台美術がそれぞれの固有な味をもつかどうかが決まります。

 演劇と美術は、いずれも直観芸術ですが、互いに区別される特性をもっています。演劇は生活を時空の変化のなかで総合的に反映しますが、美術は生活の一断面を停止状態で反映します。従来の演劇では、時間の流れとともに生活は変化し発展しても、装置と背景にはほとんど変化が見られませんでした。装置と背景が変化し発展する人物の生活を裏打ちできないため、結局、従来の演劇では生活を現実でのように自然に見せることができませんでした。この問題は、演劇革命を起こして舞台に流れ式立体舞台美術を取り入れることによって立派に解決されました。

 演劇の舞台美術は、形象創造の一つの手段です。舞台美術は演劇の要求に服従し、その形象的特性に即して創造されるべきです。舞台美術の形象は、人物の行動の線を追って変化し発展するほかの表現要素と同様に変化し、発展しなければなりません。まさに、この要求を実現するのが流れ式立体舞台美術です。

 流れ式立体舞台美術がすぐれているからといって、歌劇のものをそのまま演劇に取り入れてはなりません。演劇と歌劇は、同じ舞台総合芸術ですが、互いに区別される特性をもっているため、舞台美術にたいする要求も異なります。

 演劇は舞台芸術のうちで最も生活的な芸術であるので、その人物の言動は実生活そのままの形式をとります。舞台の上で起こる事件も生活でのように展開されます。それゆえ演劇では、他のすべての表現要素と同様に舞台美術の形象も生活的なものであってこそ、演劇の特性と要求にかなったリアルなものになります。

 舞台美術は、舞台の空間づくりから実感が出る生活的なものでなければなりません。

 歌劇や音楽舞踊物語などでは、だいたい舞台の前部にはセットをさほど置かず、広い空間を残しておきます。それは舞踊手が踊りをおどり、合唱のメンバーが随時舞台を出入りしなければならない事情があるからです。舞台の前部に空間ができるので、それを視覚的にカバーするために、自然に装飾的効果がある装置を舞台の両横に幾重にも垂れさげるのです。しかし演劇では、歌劇や音楽舞踊物語でのように舞踊手が踊りをおどれるように舞台の前部を広く空けておく必要もなければ、はなやかな花枝をはじめ、いろいろな装飾物で舞台の両横をカバーする必要もありません。演劇では舞台空間の構成において抽象化と様式化を避け、生活的な写実性を追求すべきです。演劇の舞台では、平面と空間がすべて生活的な実感が出るように構成されなければなりません。舞台の空間をつくるときだけでなく、その上に置かれる装置や背景、人物のメーキャップや衣装、小道具をつくるときにも、生活的な味がにじみでるようにしなければなりません。

 舞台美術の形象では、生活を美化してはなりません。社会主義の現実を反映した劇作品や歴史的な素材を扱った劇作品には、ときおり生活を美化する傾向が見られますが、それではいけません。芸術で生活を矯小化するのもよくありませんが、生活を美化するのも好ましくありません。生活を美化するのは本質を明らかにせず、うわべだけきれいによそおうとするものであり、生活の真実をねじまげ、芸術の認識的・教育的機能を弱める極めて有害な傾向です。芸術の真の力は、生活の真実を解明することにあります。真実は、だれにも十分に納得がいき、共感を呼ぶものです。リアリティーが芸術の生命だといわれる理由は、まさにここにあるのです。創作家は、芸術の創造において生活を美化する傾向を断固排撃しなければなりません。

 装置や背景、衣装や小道具のみならず、人物のメーキャップもみな現実に見られるような生活的なものでなければなりません。そうしてこそ、人物が現実に生活している人のように自然なものとして映り、装置や背景、衣装や小道具も真実味を感じさせます。

 演劇の美術形象に実感をもたせるからといって、写真のように対象を機械的に複写してそのままの状態で見せてはなりません。そんなことをすれば記録主義や自然主義に陥るようになります。文学・芸術作品の創作において記録主義と自然主義の傾向を一掃すべきです。

 舞台美術は時代感があって、生活のにおいが感じられるものでなければなりません。一つの舞台画幅からも観客が時代を感じとり、当代の生活を見とり、そこで暮らす人間を見るようでなければなりません。演劇の主題と思想を深く感じさせる舞台画幅は、美術家のつきつめた探求、洗練された創造的能力の産物です。

 絵画は、鑑賞の対象として見るのです。人を思索させるところに絵画の力があります。見れば見るほど奥深い意味が感じられ、深く考えさせられる絵が名画です。美術そのものがそれ一つを通じて十、百を考えさせる芸術であるため、美術家はだれにもまして思索と探求を深め、才能をつちかわなければなりません。美術家の思索と探求によって、演劇の思想的・芸術的品位を高め、人々の深い感動を呼び起こす、すぐれた舞台美術の形象が創造されるのです。

出典:金正日選集 9巻

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