金正日「演劇芸術について」−3 演劇の舞台形象

3−1 演出は、創造と指導の芸術


 演出は、創造の芸術であり、指導の芸術です。演出における指導は、芸術創造のためのものです。演出家の実践活動において、創造と指導は不可分の関係にあります。演出家は、常に創造しながら指導し、指導しながら創造します。演出家が創造と指導をどのようにするかによって演劇の質的水準が決まるといえます。

 演出家は、創造者としての任務を正しく果たさなければなりません。

 演出家は真の創造者として、常に図式と教条を排撃し、新しく独創的な芸術の世界を切り開いていくべきです。演劇の創作にあたって図式と教条におちいれば、創意を発揮することができません。創造的思索に乏しい演出家は、いくら立派な戯曲が与えられても、すぐれた演劇をつくりだすことはできません。演出家はあらゆるものに創造的にのぞむ立場に立ってこそ、戯曲を舞台に移す複雑な仕事を成功裏に進め、思想性・芸術性の高い演劇をつくることができます。

 演出家は、創作上の定見をもって戯曲にたいし、形象化すべきです。演出家は、戯曲にたいする自分の確固たる創作上の定見をもち、それを自分の方式で形象化すべきです。

 演出家にとって最初から気に入る完全無欠な戯曲はまれでしょう。戯曲には演出家の思想的・美学的見解と創作的個性にマッチしたものもあれば、そうでないものもあるはずです。演出家は戯曲を尊重すべきですが、だからといってそれをそのまま舞台に移してはなりません。演出家は、独自の創作家です。演出家は独自性を発揮して、戯曲を自分の方式で舞台に描き出すべきです。演出家は作家の未熟な点はさらに熟成させ、見落とした点は見つけだして、形象をより完璧なものにする立場に立つべきです。

 言うまでもなく、演出家は、創造性を発揮するうえで作家のように自由でありうるはずはありません。作家は、現実から種子と性格、事件を思いどおりに選択することができますが、演出家はもっぱら戯曲に設定された種子と性格、事件のみを扱うことになります。演出家の創造的思索は、常に戯曲からはじまり、戯曲を生かすことに向けられるべきです。演劇の演出構想は、戯曲の種子にもとづかなければなりません。種子は演出家にとって、演出作業の方向を示す基礎となります。演出家は戯曲にもりこまれた種子を深く分析したうえで、それに熱烈に共感し、その解明にすべての表現手段を集中させる方向で演出構想を深めていかなければなりません。創造の過程で演出家の生活体験と芸術的ファンタジーを呼び起こすのも戯曲です。創造活動においては、作家が現実にしっかりと依拠しなければならないように、演出家は戯曲にしっかり依拠しなければなりません。だからといって、演出家は戯曲をそのまま舞台に移してはならず、舞台の特性に即して創造し直さなければなりません。

 戯曲と演劇は不可分の関係にありますが、互いに区別される特性をもっています。文学の表現手段である言語は、現実にあるすべての事物現象をありありと描き出すことはできても、それを演劇のようにじかに見せることはできません。文学の形象は言語に固定されているので、人々は作品を読みながら生活の様子を思い浮かべることはできても、じかに見たり開いたりすることはできません。舞台の特性をいくら十分に具現した戯曲であっても、こうした制約はまぬがれません。

 演出家は演出の構想段階から、舞台を通じて戯曲を見るべきです。戯曲は舞台においてのみ、その姿を完全にあらわし、生き生きとしたものになります。舞台は、戯曲が生き生きとした画幅として展開される場です。演出家は自分の創造的な目をもって戯曲を見てこそ、それを舞台に移せるかどうかを正確に見きわめ、形象化の方向を正しく定めることができます。

 演出家は、せりふを通じても人物の性格と生活を描いてみるべきです。演出家は一つひとつのせりふを深く分析して人物の性格を理解し、その基調をなす生活を見つけだして舞台に生きた人間像、生き生きとした生活をくりひろげて見せるべきです。演出家は、場と場のあいだで省略された生活や、舞台でじかに見せられない真の生活もすべて見すかすことができなければなりません。そうあってこそ、演出家はすべての生活を全一的な画幅として描きながら、舞台の上に調和のとれた生活の場面をくりひろげることができます。

 演出家は、戯曲に描かれた形象が文学的には非の打ちどころがないものであっても、舞台にふさわしくない場合は、惜しくても思いきって加筆するなり削除するなりすべきです。演劇では、舞台という条件でせりふを通じて見せられるものだけを扱うべきです。そうしなければ、いくら舞台を革新し改造するとしても、舞台という条件から脱することができません。

 演出家は、演劇が最終的に完成し、その運命が決まる創作の最後の工程で、いつにもまして創造精神を高く発揮しなければなりません。

 演出家は、戯曲の種子を生かすことにすべての要素を集中させることにはじまり、一つの芸術的技巧を用いることにいたるまで、具体的な形象化作業に力を入れなければなりません。形象化の段階で、演出家は自分の芸術的意図がじかに露呈しないようにすべきです。いくら特色のある技巧であっても、小手先の芸であることが感じられるようでは形象をそこなうことになります。種子を生かすためにあらゆる表現要素を綿密にかみあわせながらも、それが感じられないようにし、個々の形象に高い芸術的技巧を裏打ちしながらも、それが露呈しないようにするのが才幹であり真の創造なのです。

 演出家が戯曲の文学形象を舞台の特性にふさわしく創造し直すからといって、それをたんなる素材とみなし、種子や主題、主人公の性格や基本的事件などを勝手に手直ししてはなりません。戯曲にしっかり依拠しながらも、それをそのまま舞台に移すのではなく、独創的に形象化するところに、演出の創造的性格があるのです。

 演出家は、発展する現実の要請と具体的実情に即して、たえず新しいものを探求しなければなりません。演劇革命を遂行する過程で演出分野に大きな成果がもたらされましたが、それに満足することはできません。演劇部門での創造活動が深化し、多くの実践的問題が提起され、人民の文化的・情操的要求が日ましに高まっている現状は、新しい表現方法を積極的に探求することを切実に求めています。

 新しいものを探求し創造する過程は、常に古いものを克服する深刻な闘争をともないます。古いものは、ひとりでになくなるものではなく、1・2回の闘争を展開するからといって完全に克服されるものでもありません。古いものは極めて保守的で執拗なものです。それゆえ新しい形象を創造するには、古いものを一掃する不断の闘争を展開しなければなりません。創造の過程は、すなわち闘争の過程です。闘争のない創造はありえません。舞台の上に展開されるすべての新しい形象は、創造的闘争の結実だといえます。古いものを克服し新しいものを探求する過程は、とりもなおさず図式と模倣、教条に反対する闘争の過程です。創作活動は、常に多様で具体的なものを対象として進められるのですから、演出家は図式と模倣、教条を一掃し、新しい形象を創造しなければなりません。創作活動そのものが、古い枠を踏襲する図式と、他人のものを機械的に真似る教条に反対するのです。

 演出家の創造的活動は、現実にしっかり依拠しなければなりません。創作の原点は、実生活です。実生活は、創作の源泉であり対象です。演出家は、現実にしっかりと足をすえ、すべてのものを生活の要求にてらして創造的に考察する立場に立ってこそ、生きた人間と生活を正しく把握し、それにかなった新しい表現方法を探し出すことができます。

 新しい人間、新しい生活は、常に新しい表現方法を求めます。新しい内容が、それに見合った新しい形式を求めるのは一つの法則です。演出家は、新しい現実を古い器に盛るのでなく、新しい器に盛ることができるように思いきって改造し革新すべきです。演出家は表現法を一つ用いるにしても、それがどの時代のどんな生活的要求を反映したものであり、これまでどのように利用されてきたのかといったことを検討すべきであり、それをこんにちの現実に即して創造的に利用する方途を模索すべきです。時代と社会制度が変わるにつれて人々の社会的関係も変わるのですから、それにふさわしい新しい表現方法を探求せずに、昔から使われてきた古い方法をそのまま繰り返す演出家は、創作家とは言いがたいでしょう。演出家は、常に新しい人間、新しい生活が求める新しい表現方法を探求し、それにもとづいて新しい形象を創造するがゆえに創作家と言われるのです。世に名を残した創作家は、みな新しい形象の世界を探求し創造した開拓者です。

 演出家は、創造活動で演劇のジャンル上の特性を十分に生かさなければなりません。歌劇には歌劇の味があり、演劇には演劇の味がなければなりません。演劇と歌劇はいずれも舞台総合芸術ではありますが、相異なる特性をもっています。歌劇が歌の芸術であるなら、演劇はせりふの芸術だといえます。歌劇が歌劇としての持ち味を出すには歌がすぐれたものでなければならないように、演劇が演劇としての持ち味を出すにはせりふが聞きごたえのあるものでなければなりません。

 演出家は創作過程で、表現手段と表現法をあくまでも演劇のジャンル上の特性に即して用いるべきです。

 演劇は舞台を前提とし、俳優と観客の生きた交わりを実現する芸術です。演劇は舞台とともに生まれ、舞台とともに発展してきました。舞台をぬきにした演劇というものはありえません。演劇は舞台の上でのみ日の目をみるものなのですから、演劇のすべての表現手段を舞台の条件に即して用いてこそ効果があらわれます。演劇の舞台は、あくまでも劇的生活を通じて人物と観客の交わりを実現するための舞台です。演劇は舞台を通じてのみ劇的生活を描き出し、人物と観客の交わりを実現することができます。

 人物と観客の交わりは、せりふづかいを通じて実現します。ところで、演劇のせりふづかいを生かすカギは、人物の性格を直接創造する俳優が握っています。せりふは作家がつくりだしますが、それを駆使するのは俳優です。演出家は俳優に、人物の性格と状況にふさわしくせりふをリアルに駆使するように要求すべきです。

 演出家は、俳優が人物のせりふを自分の心から響き出る言葉として使いこなすようにリードすべきです。そうするには、演出家が俳優に人物の性格と生活を深く把握して体験するようにしむけ、常に人物の思想・感情をもって呼吸し生活するようにしむけなければなりません。人物の思想・感情と生活がすっかり身についた俳優であってこそ、人物のせりふをリアルに駆使することができるのです。

 演劇の長所は、人物と観客との直接的な感情の交わりを実現することです。人物と観客との直接的な感情の交わりは、演劇の情操的浸透力と感化力を高めるカギです。観客が人物の生活世界に深く浸り、かれらとともに呼吸し、喜びと悲しみを分かちあうときにのみ、演劇は生命力をもつことになります。

 人物と観客の生きた交わりを実現する基本的方途は、演出家が感情づくりを巧みにし、俳優に演技をじょうずにさせることにあります。演出家は、俳優がせりふをうまく生かして、人物のさまざまな思想・感情を具体的に、生き生きと駆使するようにしなければなりません。

 演出家は、芸術創造活動の指導に力をそそがなければなりません。

 演劇のような総合芸術において、創作の成否は集団の力と知恵をいかに引き出すかにかかっています。演出家が、俳優、美術家、作曲家をはじめ、創造活動に携わる基本メンバーを正しくリードしてこそ、いかなる困難な問題も立派に解決して創造活動を力強くおし進め、舞台に調和のとれた画幅を展開することができます。

 人を教え導くべき位置にある演出家は、責任感が強く、博識で、洗練された指導芸術を身につけていなければなりません。演出家の責任感は、集団にたいする責任感であり、作品の運命にたいする責任感です。演出家は、党から与えられた任務を必ず最高の水準で完遂してみせるという強い思想的決意をもってこそ、自分の責任をまっとうすることができます。演出家は、各分野の芸術に精通し、多方面にわたる才能があり、ほかの芸術家の創造活動を一つの目的の実現へと統一的に導く洗練された指揮能力をもっていなければなりません。

 演出家は、芸術的指導において集団の創造精神、創造能力をたえず高く発揮させなければなりません。

 演出家は、創造集団のすべてのメンバーが各自の力と才能をささげて新しい形象を創造するという強い志向をもつようにし、かれらの創作上の個性と構想、創造的発起を尊重して積極的に支持し、創造的ファンタジーをたえず呼び起こすべきです。演出家は俳優と美術家、作曲家の創作上の構想と発起を尊重し、作品の創作方向にそってそれを正しくまとめてこそ、創作メンバーを新しい形象の創造へと奮い立たせることができます。

 演出家は正しい創作方向を定めるだけでなく、それを創作メンバー自身のものとなるようにしなければなりません。演出家の創作上の構想は、創作メンバーによってはじめて舞台の上に実現されます。創作メンバーは創作方向が正しいものであることを確信し、それを自分のものとして受け入れるときにのみ、その実現のために情熱と創意をあますところなく発揮するようになります。創作メンバーに把握されていない演出構想は、実際の創作過程に具現されません。

 演出家は芸術的指導において、即興とあて推量、経験主義を排し、科学性を保障すべきです。現実は、科学的な理論にもとづく科学的な方法、科学的な実践を求めています。兵士が射撃のこつを十分にのみこんでこそ百発百中の名射手になれるように、演出家は芸術の法則を深く体得してこそ創作で常に成果をおさめることができます。演出家は、芸術の発展と創作に作用する法則を深く研究し体得しなければなりません。演出家は、生活を美学的に把握する一般的な原理と方法からはじまって、文学形象を分析する原理と、それを舞台の特性に即して構成し直す方法を知るべきであり、さまざまな表現手段と表現法を駆使するこつを体得しなければなりません。そうしてこそ、演出家は発展する現実の要請に即応して演劇を高い水準でつくりあげる有能な芸術家としての資質をそなえ、創作団の司令官としての役割を果たすことができるのです。

出典:金正日選集 9巻

ページのトップ



inserted by FC2 system