金正日「演劇芸術について」−2 劇 文 学 

2−4 スタイルは、劇形象の情緒的ニュアンス


 文学・芸術作品の創作においては、生活の多様な情緒的ニュアンスを具体的に繊細にあらわすスタイルを正しく定めることが大切です。

 文学・芸術作品のスタイルは、生活の持ち味を情緒的に鮮明にあらわす形象の独特なニュアンスです。

 生活の情緒的ニュアンスは多様であるだけに、文学・芸術作品のスタイルもさまざまです。同じ劇的な生活を反映する戯曲であっても、美しく気高い感情にあふれる正劇があり、さまざまな笑いで一貫した喜劇があり、悲しみと悲愴な感情を呼び起こす悲劇があります。正劇と喜劇、悲劇はあくまでも戯曲の基本的ジャンルであり、そのジャンルには、それぞれ多様な形態と、それにともなうさまざまなスタイルがあります。生活は多様で、芸術にたいする人々の要求も同一でなく、作家の創作上の個性も異なるので、作品ごとにそれぞれ異なったスタイルが生まれるようになるのは当然なことです。戯曲の創作にあたっては、スタイルを正しく定めなければなりません。それでこそ、生活の本質的特徴を情緒的に鮮明にあらわし、いわんとする内容を印象深く際立たせ、作品の形態上の特性をよりよく生かすことができるのです。いまでは作品のスタイルを軽視する人はいませんが、演劇革命に着手した当初は、スタイルを正しく定め、それを形象創造の全過程で一貫して生かすために知恵をしぼる人はさほどいませんでした。当時は劇作品で正劇といえばストーリーをただ深刻なものにし、喜劇といえば最初から最後まで笑わせようとばかりし、作品のスタイルを生かすことについては論議さえされませんでした。かつて、文学・芸術部門では作品を評価するさいにも、人物の性格や構成、葛藤などの問題についてはさかんに論議しましたが、作品の情緒的ニュアンスを決めるスタイルについてはほとんど度外視しました。

 作品の情緒的ニュアンスを決めるスタイルを正しく定めるのは、戯曲の創作において生活をリアルに反映するための重要な要求です。

 作品のスタイルをどのように定めるかは、表現法や技巧に関する問題ではなく、生活をどのように見て描くかという創作家の立場に関する問題です。

 以前に映画人たちが、風刺小品をもって舞台公演をしたときにも指摘し、国立演劇団でも指摘したことですが、戯曲のスタイルを正しく定めなければ、正劇でもなければ喜劇でもないどっちつかずのものになってしまいます。風刺劇の場合でも、風刺の度合いと笑いのニュアンスは同じものではありません。作品全般が辛らつな風刺で一貫しているものもあれば、風刺的なものと正劇的なものが自然な調和をなし、独特なスタイルをもつものもあるのです。軽喜劇の場合でも、人物の性格と生活にあらわれる否定的な面を克服していく過程には、いろいろなニュアンスをおびた笑いがあるものです。一般的に、作品のスタイルは、一つの情緒的ニュアンスで一貫していなければなりません。しかし、具体的な作品の特性にともなう情緒的ニュアンスを正しくとらえず、正劇や喜劇に一般的にあらわれる情緒的ニュアンスで形象を統一させる場合には、作品がそれに固有な個性的な特色を生かせず、見ごたえのないものになりかねません。演劇のような総合芸術でスタイルを正しく定め、それを一貫して生かすことができなければ、俳優の演技や舞台美術、音楽などが内容と合わなくなり、場面ごとにニュアンスが異なり、観客を混乱させるようになります。

 作品のスタイルは種子にもとづき、人物の性格と生活の論理にかなうように定めなければなりません。

 種子によって作品のスタイルが決まります。作家が種子をとらえたというときは、既に作品の主題と思想はもとより、それを芸術的に具現する表現要素とスタイルまでとらえたことを意味します。種子をとらえたにもかかわらず、表現要素とスタイルが予想できないのであれば、それは種子を正しくとらえたことにはなりません。

 革命演劇『城隍堂』の創造にあたって、創作家たちがスタイルを正しく定めることができず右往左往した原因は、作品の種子にたいする深い把握もなしに創作に取り組んだことにあります。

 革命演劇『城隍堂』の根底には、「神様」や「鬼神」ではなく、自分の力を信じなければならないという生活の思想的核心が植えつけられています。まさにこの思想的核心から笑いや涙もあり、思索もある風刺劇としての独特の情緒的ニュアンスが生まれてくるのです。人間は「神様」や「鬼神」ではなく、自分の力を信じ、自己の運命を自分の力で切り開くべきであるという種子を解き明かすには、従来の風刺劇でのように、たんに風刺の対象となる否定的人物だけを登場させてはいけません。宗教や迷信に反対する肯定的人物も登場させ、かれらの性格と生活を通じて宗教や迷信が非科学的なものであることをあばき、宗教や迷信を信じていた人たちがそこから脱却して自分の力を自覚する過程を見せなければなりません。そのために、作品には地主や区長、みこ、伝道女、僧侶などの否定的人物の相互関係から生まれる風刺的なスタイルとともに、トルセをはじめ、肯定的人物の相互関係から生まれる正劇的なスタイルもそなわるようになるのです。

 風刺劇だからといって、正劇的な要素が許されてはならず、肯定的人物を登場させてはならないとするのは、風刺劇にたいする古い観念です。風刺劇も生活の論理に従わなければなりません。革命演劇『城隍堂』が、否定的人物を主人公にした従来の風刺劇とは異なり、肯定的人物を主人公にしたのは、種子の要求に即して生活を描かなければならなかったからです。劇作品においてどのような人物を主人公にするかという問題は、正劇か喜劇かというジャンル上の特性によってではなく、作家の思想的・美学的見解と作品に反映される生活によって決まるのです。このことは、革命演劇『三人一党』と『慶祝大会』を見てもよくわかります。

 革命演劇『三人一党』は、架空の国ではありますがソンド国の滅亡という深刻な悲劇をかかえているにもかかわらず、この作品には正劇的な要素がなく、肯定的人物もいません。それは、派閥争いと分裂は亡国の道であるという作品の種子を体現し、それを形象として実現する人物がほかならぬ権勢欲に目がくらんだ三人の政丞であり、かれらが王位をめぐって角逐する活動舞台が宮中生活であるからです。このような演劇に正劇的な要素はありえず、肯定的人物が登場しえないことは明らかです。

 革命演劇『三人一党』のスタイルで特徴的なのは、それぞれが王座につこうという妄想にとりつかれ、互いに相手をおとしいれ、中傷しながらも、自分では大胆に行動していると思いこんでいることからくる喜劇的主人公たちの主観的欲望と現実との矛盾、本質と現象との矛盾、意図と結果との矛盾が呼び起こす辛らつな風刺的笑いで一貫していることです。まさにここに、同じ風刺劇でありながらも、スタイルにおいて革命演劇『三人一党』が『城隍堂』と異なる固有な特徴があるのです。

 革命演劇『慶祝大会』は、風刺的なものと正劇的なもの、情緒的なものが見事に調和している革命演劇『城隍堂』とも異なり、風刺的形象で一貫している革命演劇『三人一党』とも区別されます。革命演劇『慶祝大会』は、敵の「慶祝大会」を抗日遊撃隊の慶祝大会に変える話をもりこんでいるので、風刺的なものと正劇的なものが組み合わさっており、否定的人物だけでなく肯定的人物も登場します。ところで問題は、作品に抗日遊撃隊と地下工作員をはじめ、肯定的人物を登場させたという事実そのものにのみあるのではなく、それがいかにして喜劇的スタイルを崩さず、空威張りをする敵の醜態を辛らつな風刺と痛快な笑いで燃やしつくしてしまったのかということにあります。革命演劇『慶祝大会』は、敵の内部矛盾を示す風刺的な生活と、遊撃隊と地下工作員の活動を示す正劇的な生活を一つのストーリーのなかに無理なく組み合わせることによって、風刺劇で風刺的なものと正劇的なものを調和させる問題を立派に解決しています。

 革命演劇『慶祝大会』で風刺的なものと正劇的なものを見事に調和させることができたのは、敵の内部矛盾を示す風刺的な生活を正劇でのように誇張することなく描いたからです。革命演劇『慶祝大会』では、遊撃隊の誘引戦術にかかった日本軍の「討伐隊」が同士討ちをして警察隊を全滅させたにもかかわらず、遊撃隊を「せん滅」したとして「慶祝大会」を開こうとする内容を扱っているので、演技を誇張しなくても風刺的なスタイルをそなえるようになっています。自分の失策を隠し、上部に偽りの報告をして「慶祝大会」を開こうとする「討伐隊」の隊長と、その真相をあばいてかれを失脚させ、その地位にありつこうとする「討伐隊」の参謀長との内輪もめのために、ぴんぴんしている警察署長が死人になったり精神病患者になったりします。関東軍司令部の副参謀長はこのことをよく知っていながら知らないふりをして、「大日本帝国」の「名誉」のために盛大な「慶祝大会」を開くことを命令します。観客はこの演劇を観て、敵の内部矛盾が自然にわかり、かれらのとりとめのない妄想と醜悪さを嘲笑するのです。

 革命演劇『慶祝大会』がスタイルの面で風刺的なものと正劇的なものの調和を実現するうえで新境地を開くことができたのは、前部の風刺的な場面と後部の正劇的な場面を劇的に無理なく結びつけて、感情づくりをじょうずにしたためでもあります。このことは、抗日遊撃隊の攻撃に色を失った「討伐隊」の隊長が生きながらえようと、トゥルマギ(昔の朝鮮の男子用外衣)にボンゴジ(昔の朝鮮の毛製の帽子)といういでたちで逃げだすところを捕らえられた哀れな姿を見てわき起こる観客の嘲笑と糾弾の笑いが、勝利した遊撃隊の慶祝大会場に響き渡る痛快な笑いに変わる演劇の終場を観ただけでもよくわかります。

 作品のスタイルは、このように種子にもとづき、人物の性格と生活の論理に合わせて定めてこそ鮮明なものとなり、形象をリアルに際立てる働きをするのです。

 スタイルは、作品の認識的・教育的目的に合わせて定めるべきです。

 革命演劇『城隍堂』は元来、宗教や迷信を信じる一部の入を風刺的に嘲笑する目的で創作された作品ではなく、宗教と迷信の非科学性をあばき、自分の力を信じるように人民を悟らせる目的で創作された作品です。革命演劇『城隍堂』が笑いもあれば涙もあり、思索もある独特なスタイルの作品になったのは、宗教と迷信の非科学性をあばき、人民に自主精神を植えつけようという教育的目的を定めたためでもあります。かつて、日本帝国主義の植民地支配下であらゆる屈辱と無知蒙昧な生活を強いられながらも、それを宿命と考え、自分の力ではとうていその悲惨な運命から抜けだすことができず、ただ「神様」や「神霊」だけが自分を救うことができると考える人が少なくありませんでした。こういう状況のもとで人民を目覚めさせ、革命闘争に立ち上がらせるためには、かれらが宗教と迷信の非科学性を認識し、そこから脱して、自分の力を信じるように覚醒させることが重要でした。作品はまさにこうした教育的目的から、宗教と迷信の非科学性をあばく風刺的な笑いだけでなく、福順の母のような人物の愚かな行動をとがめながらも同情を寄せるうら悲しい笑いもあり、悩みや涙もある独特なスタイルをもつようになったのです。

 周知のように、人間生活におけるすべての出来事がことごとく喜劇の対象になるのではありません。こっけいな話も、生活の本質を反映したもので、社会的批判の性格をおび、教育的目的が明確であってこそ喜劇の対象になるのです。喜劇はこっけいなものでなければならず、そうでなければ喜劇としての特性を失ってしまうといって、終始一貫笑わせようとばかりするならば、生活をゆがめるだけでなく、観客を無視することになります。喜劇だからといって、全編笑いで貫かなければならないという法はありません。はじめから終わりまで人為的に笑わせようとするなら、そのような笑いは作為的で矯飾的なものになり、作品の品位を落としてしまいます。喜劇は笑いを通じて人々を教育する思索的な芸術です。作品ごとにその教育的目的が異なり、スタイルも異なるので、笑いのニュアンスはそれぞれ異なったものになりますが、喜劇は人々がわれ知らずひと笑いしたあと、その笑いのなかにひそむ社会的問題点について深く考えこませるものでなければなりません。たんなる笑いに終わる喜劇は、本来の意味での芸術ではありません。喜劇の笑いは、たんなる笑いのための笑いではなく、社会的意味をもつ笑いであるべきです。

 作品のスタイルは、種子の要求と作品の認識的・教育的目的をぬきにしては考えられません。あらかじめ作品のスタイルを定めておいて、それに生活内容を合わせようとするのは、服をつくってから体をそれに合わせようとするのと同様に愚かなことです。

 スタイルは、作品の構成上の特性にもかなうように定めなければなりません。生活ではさまざまな情緒が互いに作用し浸透しながら一貫した流れをなしているので、作品のスタイルは構成上の特性にふさわしく定めてこそ、形象の情緒的特徴をさらに生き生きと際立たせることができます。

 革命演劇『城隍堂』にしても、そこにはトルセをはじめ、多くの肯定的人物が登場しますが、かれらの生活には苦しみと涙だけではなく、喜びと希望もあります。風刺劇だからといってこのような生活を無視し、風刺的な笑い一つで通そうとするなら、生活をゆがめることになります。革命演劇『城隍堂』を創造するにあたっては、風刺劇であるという前提のもとに肯定的人物をも風刺的に形象化していた偏向を克服し、生活の持ち味にふさわしく風刺的な笑いを基本としながらも、それに正劇的な要素をうまく組み合わせて形象化したので、この作品が独特なスタイルをもつ作品として完成されたのです。

 革命演劇『娘からの手紙』でも、情緒的ニュアンスの異なる生活を有機的に調和させています。この演劇は、知識は光明であり、無知は暗黒であるという生活の真理を、ユーモラスな笑いのなかで掘りさげて解き明かしています。この作品は、学ぶのをいやがり、知ったかぶりをしていては世間の笑いものになるということと、人間は知識を得てこそ自主的人間としての尊厳をもつことができるという生活の真理を解き明かした点で大きな意義があります。この作品には複雑な事件がありません。読み書きを学ぶのをいやがる主人公が世間の笑いものになる事件を中心にすえ、生活デテールを集中させることによって、構成を簡潔に組みながらもいわんとする思想を明白に示しています。主人公の許達寿(ホタルス)は、農は天下の大本であり、労働が人間をつくるのだといって、かたときも仕事の手を休めない勤勉で誠実な農夫です。しかしかれは、読み書きは昔から科挙(官吏登用試験)に合格して官職につこうとする両班(リャンバン)が習うべきものであって、一生手ぐわをとって働かなければならない農夫にはなんの利益ももたらさず、かえって禍をまねくものだと考えていました。かれはこの世の道理をわきまえていないのに、まるで自分がいちばん物知りであるかのようにふるまいます。この作品は、肯定的な面と否定的な面がからみあっている主人公の矛盾した性格のうち、喜劇的なものがどのように克服されるかを、娘から送られてきた手紙をめぐってくりひろげられる笑うに笑えぬ悲喜劇を通じて生き生きと解き明かしています。

 革命演劇『娘からの手紙』は、学ぶのをいやがり、知ったかぶりをして世間の笑いものになる喜劇的性格を生活的に掘りさげて描出する一方、人々に階級意識を植えつけ、革命の原理を悟らせる夜学の先生の形象も、ユーモラスなニュアンスと正劇的なニュアンスの調和した生活のなかで自然に描出しています。この作品では、喜劇的な生活の線とともに、主人公の肯定的な側面を際立たせる生活の線と、夜学の先生をはじめ、肯定的人物の生活からにじみでる正劇的な情緒が形象全般に強くただよっています。総体的には、物語を正劇的に運びながらも、そこから自然に笑いがわき起こるように、正劇的な生活と喜劇的な生活を有機的に調和させてドラマづくりをしたところに、笑いも情緒もあり思索もある、この作品の独特なニュアンスがあるのです。

 革命演劇『娘からの手紙』のような軽喜劇は、こんにち演劇芸術と映画芸術の分野で少なからず創造されています。1960年代の初めに演劇『山びこ』が上演されて以来、さまざまなスタイルの軽喜劇がたくさん創作されました。そのなかには正劇的なものと結合したものもあれば、諧謔的なものと結合したものもあり、叙情的なものと結合したものもあります。

 戯曲作品のスタイルは、芸術ジャンルの特性に応じた要求を正しく生かしながら、時代の要請と人民の好みにも合うように定めるべきです。

 生活を反映するうえで戯曲は演劇的特性をそなえなければならないので、スタイルはそれにかなった独特な情緒的ニュアンスをもってこそ、その特性を正しく生かすことができます。作品の情緒的ニュアンスを独特に生かそうとして、戯曲の特性に合わないスタイルを定めるようなことがあってはなりません。スタイルは戯曲の特性を生かす働きをしてこそ、作品の情緒的ニュアンスを強めるうえでなくてはならない要素となるのです。

 戯曲のスタイルは、時代とともに変化し発展する人民の美感にかなったものでなければなりません。スタイルは、決して不変のものではありません。社会主義の実生活を反映する正劇では、勤労者相互間の問題を扱う作品で劇的葛藤を設定する場合、それを朝鮮人民の美感に合わせて、外的に激烈に描かず、内的に深刻に描いています。史実を反映する正劇でも、時代の要請と朝鮮人民の美感に合わせて新しいスタイルを開拓しています。同じ正劇であっても、そのスタイルは多様なものです。正劇には、抗日革命闘争の時期に創作、公演された不朽の名作、革命演劇『血の海』『ある自衛団員の運命』『父は勝った』『遺言を守って』のように人々を革命闘争に立ち上がらせるものもあれば、演劇『赤い扇動員』のように人間の思想改造の過程を劇的に掘りさげて描いた深刻なものもあり、人の心のなかに生まれるドラマをえぐりだす心理的なものもあれば、明朗な情緒がみなぎる叙情的なものもあります。

 悲劇の場合もスタイルは多様です。一般的に悲劇の重要な形象的特徴は、主人公が闘争で倒れたり、かれの理想や志向が挫折することからくる悲しみと悲憤慷慨の情緒にあります。搾取社会における写実主義的悲劇の主人公は、進歩的な理想と志向をもってはいながらも、世界観の制約と社会的・歴史的条件の不可避性のため、それを実現することができずに犠牲になる人間です。こういった主人公は、歴史的必然性とその実現を不可能にする社会的・歴史的条件との矛盾を反映して、自分の犠牲と死によって進歩的な理想と志向の正当さを実証します。このような主人公の死と、社会制度の矛盾や人物の性格の自己矛盾によってもたらされる悲劇的体験は、人々に大きな悲しみと同情を呼び起こし、かれらを正義のたたかいへと鼓舞する働きをします。伝統的な悲劇とは異なり、社会主義社会における革命的悲劇の主人公は、党と革命、祖国と人民に奉仕しようという気高い志向と遠大な抱負をもち、それを実現するために献身的にたたかう過程で、敵の策動や天災のためにその志を実現できないまま犠牲になったり、自己犠牲によってその志を実現する人間です。こうした主人公の死は、革命偉業にたいする限りない忠実性と犠牲的精神、社会的・政治的集団と同志にたいする革命的信義と同志愛の生きた模範を示しているがゆえに、人々に大きな感動と同情を呼び起こし、大衆を英雄的偉勲へと鼓舞する大きな作用をします。革命的悲劇における主人公の英雄的な犠牲は、永遠に生きて輝く人間の真の生にたいする主体的な理解にもとづいてなされる革命的で楽天的なものとなります。革命的悲劇の主人公はいかなる状況下で犠牲になろうと、肉体的生命には限りがあるが政治的生命は永遠なものであるように、祖国と人民とともに永遠に生きつづけるのです。まさにここに、革命的悲劇における主人公の英雄的な死と、伝統的な悲劇における主人公の悲劇的な運命とのスタイル面での違いがあるのです。

 不朽の名作、革命演劇『血噴万国会議』『安重根、伊藤博文を射つ』は伝統的な悲劇に属してはいますが、従来の歴史物の悲劇とは異なり、過去の史実から教訓を酌み取り、歴史的人物の地位とその時代的制約を明らかにする過程を通じて有意義な社会的問題を提示することによって、史劇の創造において新境地を開きました。これらの作品では、李儁や安重根が歴史に名を残した人物だからといって、かれらを決してこんにちの革命闘士や民族的英雄のように描いてはいません。

 革命演劇『血噴万国会議』では、「ハーグ密使事件」をクライマックスとする主人公李儁の国権回復をめざす活動の過程を史実にもとづき、当代の世相と各階層の人物の生活をリアルに描き出して、外国の力をあてにしては国が滅びるという思想を掘りさげて解き明かしています。この思想は主人公李儁の一生の総括であり、血の教訓であり、歴史の真理です。外国の力をあてにして頼ろうとすれば愛国心さえも無残にもてあそばれ、踏みにじられるようになり、民族自主意識がなければ国が滅びるという生活の真理を、主人公李儁の運命の線を通じて劇的に解き明かしています。このように革命演劇『血噴万国会議』は、主人公李儁をそれまでの悲劇作品によく見られた人物、すなわち自分の進歩的な理想と志向を座礁させられた歴史のたんなる犠牲者としてではなく、自決する最後の瞬間に、外国の力をあてにすれば国が滅びるという歴史の教訓を切々と訴える人物として描いています。この作品が歴史物悲劇の創作において新しいスタイルを開きえた秘訣は、まさにここにあるのです。

 文学・芸術作品を人々に愛されるものにするには、それぞれの形態に応じたスタイルを多様にうまくいかさなければなりません。同じジャンル、同じ形態の作品であっても、スタイルが明確であれば特色のある作品になりえるのです。            

出典:金正日選集 9巻

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