金正日「演劇芸術について」−2 劇 文 学 

2−3 せりふは、戯曲の基本的表現手段


 戯曲はせりふの文学です。戯曲では、人物の性格が作家の描写によってではなく、主に人物のあいだで交わされるせりふによってあらわれます。戯曲で作品の社会的・歴史的環境や人物の劇的関係はもとより、事件の発展過程を具体的に示すのもせりふです。戯曲には人物のせりふ以外に俳優の行動を示すト書きがありますが、その行動を誘導していくのは、やはりせりふです。戯曲ではせりふを的確に書くことがなによりも重要です。

 せりふを的確に書くというのは、人物の性格の論理とドラマの状況に合わせて、意味深く、わかりやすく書くということです。

 既に『映画芸術論』でも強調したことですが、所与の状況とモメントで当の人物がいえる言葉はただ一つしかないとみるべきです。所与の状況とモメントで当の人物がそういうしかほかに表現のしようがないただ一つの言葉を正確に探し出し、意味深く書いたせりふであってこそ、すぐれたせりふだといえます。状況にそぐわず、人物の性格の論理に合わず、ああにもこうにも解釈できるせりふであっては、例え、文学的に洗練されたものであっても、人物の性格を生かすことができないばかりか、かえって作品の生活内容を曖昧にしてしまいます。

 戯曲ではせりふを的確に書いてこそ劇性を生かし、劇的感興をそそることができます。

 劇性は、劇的なものからわきでる強烈な情緒です。劇性はなによりも、人物のあいだに結ばれる劇的な関係から生まれます。ところで戯曲では、人物間の劇的関係がせりふを通じてからみあうので、劇性を生かせるかどうかは結局、せりふづくりをいかにするかにかかっているといえます。せりふづくりをじょうずにしてこそ観客をドラマの世界に引き込み、かれらに深い感興を与えることができるのです。観客が演劇を観ながらドラマの世界に引き込まれそうになって中途で興ざめしてしまう場合がありますが、それはせりふづくりに手落ちがあるからです。せりふづくりは、劇的な関係におかれている各人物が自分の思想・感情と心理をあらわす言葉を、ドラマの状況と生活の論理にかなった真実なものにしてこそ、すぐれたものだといえます。

 戯曲のせりふづくりは劇性を生かすものとならなければならず、具体的には感情づくりの流れにマッチしなければなりません。せりふづくりが感情づくりの流れにそぐわないものであれば、もっともらしいせりふをいくら多く入れても、観客の劇的感興をそそることはできません。

 戯曲ではせりふを的確に書いてこそ、主題と思想を掘りさげて解き明かすことができます。

 戯曲の主題と思想を作家の説明や直線的なせりふによって解き明かそうとしてはなりません。作家の説明や直線的なせりふは、創作家の思想的意図をぎこちなく露呈するだけです。戯曲の主題と思想は、主人公をはじめ、各人物の性格描写を通じて解き明かすべきなので、かれらの思想・感情と心理を具象的にあらわせるように、せりふを的確に書かなければなりません。せりふは時代と生活、性格の本質的な特徴を生き生きとあらわさなければなりません。せりふが簡潔明瞭で意味深いものであれば、戯曲の主題と思想を掘りさげて解き明かすことができます。

 戯曲でせりふを的確に書かなければならないのは、演劇の特性ともかかわりがあります。映画が行動の芸術であるなら、演劇はせりふの芸術であるといえます。シナリオでは人物の行動と内面世界を描写するト書きが基本的表現手段となりますが、戯曲ではト書きが人物の登場と退場、時間、場所などを示す補助的な表現手段にしかなりません。戯曲では、重要な劇的課題がせりふによって解決されるのです。

 演劇ではせりふをじょうずにこなすことが重要であり、せりふを聞く面白みがなくてはなりません。せりふが少なく行動が多ければ、演劇が幼稚なものになってしまいます。数年前、革命演劇『城隍堂』をつくるとき、みこと伝道女、僧侶たちの争いを腕ずくのけんかとして描こうとしました。それで、この場面では、動作よりせりふを多くして、3人に腕ずくの争いではなく口論をさせ、宗教や迷信がつくり事であることをかれら自身があばくようにさせました。

 演劇は行動の芸術だとして、俳優が大仰な身ぶりでもったいぶり、外的な行動にかたよるのは、みな新派劇の残滓です。もちろん、ドラマの状況によっては、人物の性格をせりふよりも無言の行動によって描写するほうが効果的な場合もあります。登場人物が深い思索にふけったり、思いがけない状況に直面し、気をのまれて言葉も出ないときには、無言の行動のほうが数百言のせりふよりも効果的です。しかし、無言の行動をより意味深いものにするには、それがみな前後の場面のせりふと内的に密接なつながりをもったものでなければなりません。そうではなく、行動が全く外的な動作でのみ表現される場合には、なんの形象的意味もあらわすことができません。

 戯曲のせりふは、名せりふとならなければなりません。意味深くてわかりやすく、聞きごたえのあるせりふが名せりふです。例え、一言、二言の簡単なせりふであっても、かみしめるほど意味深く、哲学的な思索にふけらせるせりふ、生活の真理を悟らせ、教訓を与えるせりふが、すなわち、名せりふなのです。

 名せりふは意味深いうえに内容が明白でわかりやすいので、1回聞いても忘れがたいものです。

 革命演劇『城隍堂』で、娘の結婚式用の豚までつぶして城隍堂の供え物をしようとする福順の母のなげかわしい姿を見て、トルセと万春が胸をたたきながら語るせりふや、城隍堂に火を放とうという万春に、空き家に火を放つのではなく迷信を信じる人々の頭に火を放つべきだというトルセのせりふは、だれにもすぐ理解できるうえに深い意味のこもった名せりふです。こういったせりふが大きな共感を呼ぶのは、ありとあらゆる苦労を体験し、かろうじて生きのびてきたにもかかわらず、それを宿命と考え、忘れ形見の娘にだけはその数奇な運命をたどらせまいと、みこの口車に乗せられて厄払いをしようとする福順の母の苦い生活体験と深く結びついているからです。

 革命演劇『血噴万国会議』で、日本帝国主義とアメリカ帝国主義の策動のため万国平和会議に参加できなくなった主人公が、自分には生きて帰れる祖国もなければ死んで埋もれる祖国もない、と国なき民の身の上を痛嘆するせりふや、腹をかき切って自決する最後の瞬間に、できることならあの空に、この世のすべての人に見てもらえるように赤い血で、外国の力をあてにすれば国が滅びるという文句を刻みつけたいものだ、と切々と叫ぶせりふには、主人公李儁の一生の総括と血の教訓が集約されているだけでなく、作品の種子が哲学的に深く解き明かされています。戯曲のせりふはこのように思想的内容が明白で、かつ哲学的な深みがあり、人物の生活体験からにじみ出るものでなければなりません。

 戯曲のせりふを名せりふにするには、いわんとする思想の要点を大衆向きの言葉で簡明に表現しなければなりません。実のない言葉を並べ立てたり同じ言葉を繰り返し、場違いな成句やことわざを使って弁才をふるおうとしてはなりません。もちろん、必要な場合には、せりふに成句やことわざを使うこともできますが、そういうときもその場にふさわしく使ってこそ効果をあらわすことができます。野暮ったく弁才をふるうと、せりふが難解なものになったり低俗なものになって人々に不快感を与え、作品の品位を落としてしまいます。有言の説明的なせりふよりも、実のある大衆的で簡明な二言の名せりふのほうが強い作用を及ぼすものです。

 戯曲のせりふを名せりふにするには、人物の性格とドラマの状況にふさわしく書かなければなりません。性格と状況にふさわしい生活的なせりふが名せりふなのです。せりふが性格と状況にふさわしいものであってこそ、人物の性格的特徴と生活の本質を明白に解き明かすことができます。

 革命演劇『三人一党』で3人の政丞(大臣)が地位争いをして口論する場面は、せりふを人物の性格とドラマの状況にふさわしく使った好例だといえます。王が死んで外国軍の侵略が目前に迫った危急存亡の秋(とき)に、3人の政丞がすみやかに時局を収拾し、危機に瀕した国を救う対策を立てるのではなく、王位をねらって、それぞれがみずからを忠臣と称し、相手をおとしいれ中傷し合うせりふは、出世欲に目がくらんだ派閥分子の正体をあばきだしており、派閥争いは亡国の道であるという歴史の真理を哲学的に深く解明しています。3つの党派に属している軍隊を統合するのが白馬国の侵入を防ぎ、国を救う唯一の道だと主張する朴(パク)政丞のせりふ、強弱の差が甚だしい状況にあっては大国に援兵を請うのが賢明な策だと主張する文(ムン)政丞のせりふ、こういう危急のときには一歩退いて事態を収拾し、力を養うべきだと言い張る崔(チェ)政丞のせりふは、いずれも人物の性格的特徴を表現する個性的な言葉になっているので、王座につこうとして懐柔と権謀術数、詐欺といかさま、背信と売国のすさまじい角逐をくりひろげる3人の政丞の表裏不一致の醜態を生々しくさらけ出しており、聞く面白みもあります。人々はこの場面を舞台でじかに観ずにせりふを読むだけでも、大柄な体躯でことあるごとに刀を抜く武官タイプの無知で粗暴な朴政丞、二言目には王族出身だと上品ぶっているが腹に一物ある文政丞、狡猾で残忍きわまりない崔政丞の性格的特徴を生き生きと思い描くことができるでしょう。

 せりふは、人物の思想・感情と心理状態の変化をするどくあらわし、かれがおかれている生活状況を最も的確に反映したものであってこそ、名せりふになるのです。名せりふをなにか妙を得た言葉と考えてはなりません。一部の作家は、名せりふがいくつかあれば作品ができあがるものと考え、しゃれた文句をつくりだすことに神経を使っていますが、1・2か所のしゃれた文句で作品の主題と思想が解き明かされるのではありません。名せりふは、体裁をつくるためではなく、人物の思想・感情と生活をリアルに生かして、作品の主題と思想を哲学的に掘りさげて解き明かすために必要なのです。作家はある1・2か所ではなく、作品全般を人物の性格とドラマの状況にふさわしい生活的なせりふでつづるべきです。

 戯曲のせりふは、作家の言葉ではなく、劇中人物の言葉とならなければなりません。ところが一部の劇作品をみると、作家の思想と意図が直線的にあらわれているせりふが少なくありません。作家の主観によって美文化されたせりふは、観客に人物自体の性格を信じられなくするばかりか、作品のリアリティーに疑問をいだかせてしまいます。作家が主観的につくりだした説明的で美文化されたせりふは、人物の性格描写を高めることができません。

 戯曲のせりふを名せりふにするには、せりふを生活的にリアルに書かなければなりません。

 戯曲のせりふは、叙述的な言葉ではなく、日常生活で使われる言葉であるべきです。人物のせりふが日常生活で使われるなじみのある言葉であってこそ、観客の共感を呼び起こし、芸術的価値と説得力をもつことができるのです。せりふを生活的にリアルに書くためには、人民がいつも使っている生活的な言葉を選んで書かなければなりません。従来の演劇でのように、叙述的なせりふや舞台用のせりふを書くようなことがあってはなりません。生活的なせりふではなく、叙述的なせりふや舞台用のせりふを書けば、そのせりふをもって演技をする俳優も自然に舞台の枠に縛られ、はては演技が形式的なものになりかねません。従来の演劇が人々から見限られた主因の一つは、ほかならぬ生活とは縁遠い形式主義的な舞台用のせりふを書いたことにあるのです。

 戯曲で生活的なせりふを書くのは、生活的なせりふが果たす重要な表現機能ともかかわりがあります。

 作品の思想的内容がいくら新しくすぐれたものであっても、せりふが生活的なものでなく、ぎこちなく個性のないものであれば、形象化が清新なものにならず、作品の主題・思想の内容も感銘深く解明することができません。人民がいつも生活で使っている言葉のように、生活的な情緒があり、豊富な生活体験と感情蓄積にもとづいており、その状況と契機に自然に流れ出る生活的なせりふを使ってこそ、作品の形象性を高めることができるのです。

 生活的でリアルなせりふを書くのは、喜劇的なスタイルの作品の場合にいっそう切実な問題となります。喜劇だからというて、せりふと行動を誇張しカリカチュアライズしては絶対になりません。喜劇の笑いは、人為的なものではなく、人物の性格と生活から自然にわきでるものでなければなりません。ところが、かつては喜劇といえば、あたまからこっけいなものでなければならないという前提のもとに、コミックな言動で人物の性格を誇張する傾向がありました。特に風刺劇では、最初から笑わせようと欲を出すあまり、生活の論理を無視し、とりとめのないコミックな言葉で話を運ぶ傾向が多分にみられ、またそれが当然のこととみなされました。以前、映画人たちが小品をもって舞台公演をしたときにも、風刺劇だからといってあたまから大げさな演技とコミックなせりふで観客を笑わせようとする傾向があらわであったので、喜劇であるほど生活をリアルに描くべきであり、人物の性格の論理とドラマの状況にかなった生活的なせりふを使うべきだと指摘したことがあります。ところが、革命演劇『城隍堂』の創造にとりかかった当初にもそれと同じ欠陥があらわれました。それで、条件付きの状況だのなんだのといって対照や強調、誇張の手法を人為的に用いる従来の喜劇の古い枠をうちこわすことなしには、朝鮮式の新しい演劇を創造することができないと判断し、それをなくす闘争を強力に展開させました。革命演劇『城隍堂』が従来の風刺劇のように人物の性格と生活を一面的にカリカチュアライズせず、ユーモラスな笑いもあれば風刺的な笑いもあり、喜びや悲しみもあり、人情味もある新しい形式の演劇になりえたのは、人物の性格と生活そのものから笑いが自然にわきでるように、せりふを生活的にリアルに使ったからです。

 作家は、生活的なせりふをリアルに書くことが演劇の思想性・芸術性にかかわる重要な問題であることを肝に銘じ、生活的なせりふを真剣に探求すべきです。

 生活的なせりふを書くうえで重要なのは、当代の世相を正しく反映することです。人民の言語生活は、時代の発展とともに、たえず変化し豊かになるものです。時代感の出る生活的なせりふを書くには、当代の言語生活を正しく反映しなければなりません。人間は、だれしも時代のなかで生活し、その影響を受けるので、人物のせりふには当代の社会的風潮が反映されざるをえません。歴史物においては当代の言葉ではなく、現在我々が使っている言葉をそのまま書いてもなりません。歴史物では歴史物の味が、また現代物では現代物の味が出るようにせりふを書くべきです。

 不朽の名作、革命演劇のせりふには当代の世相と各階層人民の生活がリアルに反映されているので、半世紀以上の長い歳月が流れたこんにちにいたっても、観客に当代社会の生活をそのまま生き生きと見せることができるのです。作品ごとに文体は固有なものでありながらも現代的美感にかなったものでなければならず、歴史主義的原則に反するものであってはなりません。生活環境や事件、風物などをその時代にふさわしくじょうずに描いたとしても、人物のせりふに一言でも時代にふさわしくないものがあれば、形象化全般のリアリティーを失ってしまいます。

 生活的なせりふを書くうえで重要なのはまた、経済と文化、思想と道徳の各分野で使われている生活的な言葉を的確に選ぶことです。経済と文化、思想と道徳の各分野で使われる言葉はその時代の言語生活の基本内容をなしているので、それにふさわしくないせりふが一言でもあると、観客は作品に描かれた時代と生活を信じなくなります。例え、生活的な言葉であっても、時代にふさわしくないものや低俗な表現などは絶対に書かないことです。言語生活で親近感をいだかせるからといって、朝鮮民族に固有な礼法を無視してはなりません。一家親族や隣人間の言語生活での親近感は、道徳的に気高く文化的に洗練された言葉を使うときにのみ生まれるものです。朝鮮民族に固有な礼法にもとる非文化的な表現は作品の風格を落とすばかりでなく、人民の言語生活に悪影響を及ぼします。作家はあらゆる古いものを一掃し、たえず気高く美しいものを創造する実生活に深く入り、そこから文化的で時代感の出る新しい言葉を積極的に探し出して書くべきです。

 戯曲のせりふは、行動と密着したものでなければなりません。

 せりふは行動と密着したものであってこそ、リアルで生活的なものとなり、意味深くわかりやすい名せりふとなるのです。演劇のせりふは行動によって裏打ちされなければ、生活的でリアルなものになりえません。劇的なせりふは劇的な行動を生み、劇的な行動は劇的なせりふを生むので、行動と密着していないせりふはリアルなせりふになりえません。

 革命演劇『城隍堂』のクライマックスで福順の母が、自分が不幸せだったのは、もって生まれた運命のためではなく、このいかがわしいほこらを信じたためだというせりふは、自分の手で城隍堂をたたきこわす行動と生活的に密着しているので、あれほど大きな劇的感興と痛快さをいだかせ、観客に忘れがたい深い印象を与えるのです。

出典:金正日選集 9巻

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