金正日「演劇芸術について」−2 劇 文 学 

2−2 ドラマづくりは、劇作術の基本


 戯曲でトラマづくりを巧みにおこなうのは、演劇の骨組みを堅固なものにする重要な問題です。

 ドラマづくりとは、作品の筋を劇的に織りなしていくことを意味します。言いかえれば、種子の解明へと、人物の関係と事件、葛藤、ストーリー、構成などを劇的に織りなしていくことをドラマづくりというのです。人物の関係を中心に多様な生活の内容を劇的に結びつけ、解き明かしていくドラマづくりに手落ちがあると、戯曲の思想的内容がいかにすぐれたものであっても、作品が堅苦しく退屈で、興をそそることができません。同じ生活内容でもドラマづくりをどうするかによって、観客をドラマの世界に深く引き込むこともできれば、皆目見当がつかなくするようにもなります。ドラマづくりをどのようにするかは、たんに筋立てをしていく劇作術の問題となるだけでなく、作品の思想性・芸術性を高める基本的条件の一つとなるのです。

 戯曲でドラマづくりを巧みにおこなうためには、ドラマの構成をしっかりと組まなければなりません。

 ドラマの構成は、形象の基本的骨幹をなしています。柱をしっかり立て、大梁をきちんと張り渡せば家が傾かないのと同じように、劇作品も構成がしっかりしていてこそ、人物、事件、葛藤などの表現要素を、作品の種子の解明へとかみあわせていくことができるのです。ドラマづくりは、つまるところ、ドラマの構成をどう組むかという問題だといえます。演劇の発展過程は、ドラマの構成において舞台の制約を克服する探求の過程でもあるのです。古代から現代にいたるまで、劇文学は構成形式の面で多くの進歩と変革を遂げましたが、『城隍堂』式演劇が出現する前までは、平面的な舞台構成の枠から抜けだしていませんでした。平面的な舞台構成によっては、闘争にわき立つ我々の時代の人間の生活をありのままに見せることができません。いまは科学と技術が発達して、地球の片隅で起こった出来事も間近に生々しく見ることができるのですから、人々が劇場に来て、幕と場が変わるたびに生活の流れがとぎれることに幻滅を覚えるのは当然のことです。我々の時代の人々は、舞台で演技をする俳優ではなく、実際に現実で息づき、思考し、行動するような生きた人間を見ることを求めているのです。例えば、観客が降仙(カンソン)の労働者を描いた演劇を観るのなら、それが舞台ではなく実際に現実で見るように感じられなくてはならず、1930年代の生活を反映した演劇を観るのなら、それが実際に当代の現実とその時代の生きた人間を見るように感じられなければなりません。

 生活は複雑で多様なものです。人間関係にしても社会的、階級的に極めて複雑にからみあっており、さまざまな時空のもとにおかれています。生活をリアルに反映するためには、複雑多様な関係にからみあっている人間の生活を本来の姿のとおり立体的に描かなければなりません。しかし、かつて演劇芸術部門では、生活を劇的な方法で反映することについては大いに論議されましたが、それを立体的に描くことについては別段論議されませんでした。演劇の立体性の問題を論ずる場合も、主に舞台装置や舞台構図に限られ、それを形象全般と関連させて見ることができませんでした。演劇の立体性の問題は、創作過程のある段階や個々の表現手段や手法に限られたものではなく、形象のあらゆる要素と関連のある問題なので、それはまずドラマの構成から解決されなければなりません。

 ドラマ構成の立体性は、人物関係の立体性をぬきにしては考えられません。もちろん、葛藤や事件も構成の立体性を生かすうえで重要な働きをしますが、ドラマはあくまでも人物を中心にすえて物語を展開していくので、葛藤や事件も人物の関係によってまねかれ、そこから生じるのです。したがって、人物の関係を立体的に設定するのは、葛藤と事件の立体性を基礎づけ、構成の立体性を保障する基本的条件となるのです。

 革命演劇『城隍堂』は、人物の関係を立体的に設定し、劇的に深化させていくことによって、当代の社会生活と階級関係を生々しく見せています。それは、主人公のトルセ、朴(パク)氏とその娘福順、万春(マンチュン)をはじめとする人民を一方とし、地主と区長、みこ、伝道女、僧侶などを他方とする肯定的人物と否定的人物の葛藤関係のみを短絡的に描いているのではありません。それは、自己の運命を宿命とみなし、迷信の奈落をさまよう福順の母と、彼女を目覚めさせるトルセとの関係、そして万春と福順の人情関係を叙情的、心理的に描き出しているばかりでなく、これに地主と区長との反目とあつれき関係、みこと伝道女、僧侶の口論など、人物の関係をさまざまな面から描きながら立体的に織りなしています。劇作品における人物の関係は、このように立体的なものになってこそ、ドラマが単調さをまぬがれ、複雑な生活の裏面まで実際に接しているように見せることができます。

 人物の関係を立体的に見せるのでなく、たんに肯定的人物と否定的人物に分け、かれらの関係を短絡的に単純に描くなら、ドラマは複雑な人間生活と社会関係をリアルに見せることができず、したがって、常識的で自明なものになってしまい興をそそることができません。

 ドラマ構成を立体的なものにするには、人物の関係を劇的な関係に深化させなければなりません。

 劇作品での人物の関係は、たんなる倫理的・道徳的関係や経済実務的な関係ではなく、複雑な社会・政治生活の過程で結ばれる社会的・階級的関係となります。したがって、人物の関係を劇的な関係に深化させるには、政治的・思想的および階級的な利害関係によって一致したり相反したりする、かれらの相互関係を深く描き出さなければなりません。

 劇作品における人物の関係は、作品に反映される社会関係の性格によって、同志的な団結と協力の関係にもなれば、階級的な対立と闘争の関係にもなります。同志的な団結と協力が社会関係の基本をなす社会主義の現実を反映する作品における人物の関係は、例え、かれらのあいだに意見の相違や衝突があるとしても、それは利害関係の根本的な対立からくるものではなく、共通の目的と理想を実現していく過程で生じるものなのです。それゆえ、社会主義の現実を反映する劇作品における人物の関係は、極端につくられたり決裂するものとして描いてはならず、否定的なものが克服され、同志的な団結がいっそう強まっていくものとして設定されるべきです。しかし、敵対的な社会関係を反映する作品における肯定的人物と否定的人物の関係は、かれらの目的と理想が根本的に相反するものであるため、はじめから対立と闘争の関係に、敵対的性格をおびて極端にするどくつくられ決裂するものとして設定されるべきです。

 戯曲で人物の関係を劇的に深化させるからといって、いかなる場合にもかれらの関係を直接的な性格の衝突として描いてはなりません。かつては劇的なもの、劇性を矛盾した人間の性格の直接的な衝突からしか生じないものとみなしていたので、作品での葛藤を肯定的人物と否定的人物の直接的な対立と闘争としてのみ設定しようとしました。言うまでもなく、劇的なものというのは日常生活でのありきたりの現象ではなく、正常な生活の流れを乱す事件、社会的に一定の関心や注目を引く衝撃的な事件といったものを念頭においているのです。しかしながら、劇的なものを相反する性格の直接的な対立と衝突の表現としてのみ理解するのは一面的であり、古い劇作術の概念から抜けだせないことを意味します。戯曲で肯定的人物と否定的人物の直接的な対立と闘争による葛藤のみを絶対化していた時期は過ぎ去りました。戯曲で劇性を生かすからといって、必ずしも否定的人物を設定しなければならないという法はありません。こんにちの我が国の社会主義の現実を扱う作品、特に党と領袖の賢明な指導と我が国の社会主義制度の優越性を描く作品においては、葛藤がなくても、作家が現実を肯定する燃えるような情熱をいだいて、主人公の内面世界を掘りさげて描き出すなら、劇性を十分生かすことができます。劇性は、同じ目的と志向をもつ人々の同志的関係である場合も、それぞれの活動気風や考え方が異なることからも生じ、肯定的主人公の主観的な欲望と実践との不一致からも生じるものです。我々の時代の主人公は、党と領袖に忠誠をつくすことを最大の生きがいとして生活し、たたかいますが、知識や能力、情熱が足りないために、与えられた任務を遂行する過程で紆余曲折を経ることもあるのです。課された任務を誠実に遂行するために自分のすべてをささげて懸命に努力する、その美挙のなかにも強い劇性がありうるし、自分の任務を果たせなくて気をもむもどかしさと自責、煩悶のなかにも劇性はありえます。劇文学にそのような肯定的主人公の生活を正しく反映するなら、肯定的人物と否定的人物の直接的な対立がなくても劇性が生じ、ドラマの牽引力が生まれます。

 領袖、党、大衆が一つに結びついて社会的・政治的生命体をなし、肯定的なものが全社会を支配する我が国の社会主義の現実を反映する作品においては、肯定をおし立て称賛すること自体が、既に否定にたいする批判となります。社会主義の現実を描く作品においては葛藤を設定しない場合もありうるからといって、これを一時期に唱えられた「無葛藤論」と同じものと考えてはなりません。

 社会主義の現実をテーマにした作品で葛藤の問題を解決するにあたっては、2つの傾向を警戒しなければなりません。1つは、戯曲で否定の線を強く生かしてこそ対立と衝突をするどく描き出すことができるからと、種子の要求と素材の特性とは関係なく、必要以上に葛藤を強く設定しようとする傾向であり、いま1つは、否定の線がなくても戯曲をつくることができると一面的に解釈し、否定をあまり描こうとしなかったり、描く場合にもそれを人為的に弱めようとする傾向です。前者の場合は、肯定的なものが基本をなす我が国の社会主義の現実をゆがめることになり、後者の場合は、社会主義社会での階級闘争の本質をゆがめることになります。作家は社会主義社会における葛藤の特性をよく知り、それを創作実践に具現していくときにのみ、時代の要請と人民の志向にかなった思想性・芸術性の高い劇作品を創作することができるのです。

 戯曲でドラマの構成を立体的に巧みに組むには、ストーリーを密なものにしなければなりません。

 ストーリーは、場面の構成と密接にかかわりあっています。ストーリーは、場面の構成を通じて実現し、場面はストーリーにそって展開されます。ストーリーが密でなければ、構成が密なものにはなりません。ストーリーを密なものにするには、それが起承転結の過程として明白に織りなされるように、場面のドラマづくりを巧みにおこなわなければなりません。すなわち、ストーリーにそって事件が発生し発展してクライマックスに達し、結末にいたるまでの過程で解決すべき各場面の課題が明確に示され、それが人物の性格と生活の論理に合致するものとならなければなりません。

 ストーリーは、ドラマの構成において中心的な位置におかれています。ドラマ構成の重点を生かし、ストーリーを密なものにするためには、ストーリーをなす人物の線と事件の線のうち、主導的な位置にあり、種子を解き明かすうえで決定的な役割を果たす基本人物の線と基本的事件の線を正しくとらえ、それを堅持していかなければなりません。生活の多様さを描こうとして、むやみにその対象を広げてはならず、あるディテールがそれ自体としては魅力があるとしても、それが作品の基本線を覆い隠したり弱めたりする場合は、思いきって捨て去るべきです。選択を誤った一つのディテールが作品全体を曇らせることもあります。作家はドラマづくりにおいて、興味深く魅力がある生活だからといって、副次的な問題を掘りさげて中心を失うことのないようにすべきです。副次的な線はストーリーにしっかりと筋金を入れ、ドラマづくりを密なものにするよう、あくまで本筋に服従させるべきです。

 ストーリーは、場が変わるたびにたえず新たに展開されて劇的な緊張感をかもしだし、事件の進展に大きな期待をいだかせるものにならなければなりません。そうしてこそ、観客が劇的な興味をもって、作品の世界に深く引き込まれるようになります。場面ごとに展開される話が新しく、ドラマの流れに情緒的な屈曲をもたせて観客の心をしめつけたりゆるめたりするものになってこそ、ドラマづくりが成功したといえます。

 戯曲でドラマの構成を立体的なものにするには、多場面構成法を取り入れなければなりません。

 かつての古典劇では時間、場所、事件の一致性を絶対化して、一つの事件が展開される時間内では場所を変えてはならないということを法則とみなしてきたので、ドラマのなかで生活が発展し、時間が流れても、場所と舞台をたえず変えることができませんでした。現代演劇においても三一致の法則の古い枠から抜けだせないまま、複雑で多様な生活をいくつかの幕内に無理やり押しこめ、人物の裏面生活と幕前生活をせりふを通じて長々と説明するので、現実を立体的に実感をこめて反映できず、劇性を人為的に集中させ、生活をリアルに描くことができませんでした。しかしながら、以前はこうした舞台的制約が演劇の特性から来る避けがたいものと考えられていました。

 『城隍堂』式演劇では、従来の演劇の舞台的制約を克服し、ストーリーを生活の論理に合わせて織りなすことができるようにドラマを多場面に構成し、それを自然な流れでつなぎあわせることによって、観客を情緒的に共感させています。『城隍堂』式演劇では、場面が変わるたびに幕を閉じていた従来の古い枠をうちこわし、場が変わっても、次の場面に期待をいだかせる生活を連続的な流れで描き出すことによって、舞台の制約をほとんど受けることなく、人間と生活を生き生きと見せられるようにドラマを構成しています。このようなドラマ構成法は、我々の時代の人民の美感に全的にかなったものです。『城隍堂』式演劇が世に出るやいなやあれほど大きな反響をまき起こしたのも、ほかならぬ新たな劇作術の優越性を如実に示すものです。だからといって、新しいドラマ構成法を、やたらに場面をふやし、多場面に構成しさえすればよいものと考えてはなりません。生活を叙事詩的画幅に描くからといって、一律に場面をふやして雑多な事件をあれこれと広げたり、一つの人間関係にしても劇的に掘りさげて描き出さず、多くの人物を引き入れて話を散漫なものにしてしまうと、ドラマに緊張感がなくなり、観客になんの感興も与えることができません。戯曲で場面ばかりふやし、雑多な生活を平面的に広げるのは、ドラマの構成を散文化する一つの偏向です。

 『城隍堂』式演劇が開拓した多場面構成法の長所は、場面が多くて舞台の変化を多様なものにするということにのみあるのではなく、場面の構成が立体的で、場面と場面のつながりがそつなく組まれているため、話が途切れず、生活の流れにそって自然に進むようにドラマづくりができるという点にあります。多場面構成法で場面が変わるたびに暗転したり幕をおろしたりするならば、場面をふやす意味がなくなるばかりか、従来の幕構成形式と差異がなくなります。場面が多いほどドラマの構成を密にして、どの場面もミスを出したり劇的感興が途切れることなく持続するようにしなければなりません。ドラマの持続性が堅持されてこそ、生活の流れをリアルに描き出し、感情の流れを中断することなく観客をドラマの世界に引きこむことができるのです。

 戯曲の各場面は相対的に完結した生活の一部分をもりこんではいますが、それはいかなる場合にも絶対的な独自性をもつわけではありません。戯曲の場面は、互いに制約し補充する関係でドラマを受け継ぎ、おし進めながら、内的に緊密につながった構成の一環をなしているのです。場面と場面は、人間関係によって必然的に条件づけられた生活の連続であり、それは立体的にかみあわさって上昇発展する一つの劇的流れをなします。それゆえ多場面構成法では、場面間のつながりを保つことに深い関心を払わなければなりません。多場面構成法では、場と場のあいだの生活を描写したり、前の場面に次の場面の生活をつなぐ要素を植えつけ、次の場面でそれを引き継ぐといった方法でドラマづくりをおこなうべきです。

 多場面構成法を取り入れるからといって、生活をあまり広げてはなりません。ドラマの構成を多場面にする場合も、できるだけ生活を集中化、集約化して描くべきです。演劇では、いかに複雑で多様な生活や、長い歳月にわたってさまざまな場所で進行する話であっても、限られた場面で2時間内外で描き出さなければなりません。多場面構成では話を簡潔に展開しなければならないので、生活を高度に集約化、集中化すべきです。

 生活描写の集中化、集約化とは、典型化の原則にもとづいて省略すべきことは省略し、飛躍させるべきことは飛躍させて、種子の要求にかなった最も基本的な内容だけを選んでもりこむことを意味します。各場面に本質的な意義をもつ内容だけをもりこんでこそ、場面の内容が典型的なものとなり、形象に哲学的な深みをもたせることができます。

 場面の構成は、種子にもとづいて組まなければなりません。

 種子は、すべての表現要素を内容に応じて統一させ、構成を組む基礎です。場の構成は、種子の要求をぬきにし作家の主観によって組むことはできず、ただ種子にもとづいてのみ組むことができるのです。戯曲の各場は、相対的な独自性をもちながらも構成の一単位となるので、種子をスムーズに生かす場面づくりであってこそ正しい構成づくりになりえます。これは、戯曲の場面が種子の要求に合うように互いに密着し統一されてこそ、有機的な構成になることを示しています。

 革命演劇『城隍堂』では、すべての場面が、宗教と迷信は非科学的であり、人間の自主性を麻痺させるということを理路整然と示す角度から設定されています。この演劇では、人間は「神様」や「鬼神」を信じるのではなく、自分の力を信じるべきであるという種子を生かす方向に話が集中しています。

 戯曲でドラマづくりを巧みにおこなうためにはまた、感情づくりを上手にしなければなりません。

 ドラマづくりの基本は、感情づくりです。感情づくりがドラマづくりの基本となるのは、それが劇的な人物関係と事件、ストーリーの進展過程を一つの流れのなかに情緒的に統一させる表現機能を果たすからです。以前は事件づくりをドラマづくりの基本とし、人間の思想・感情を掘りさげて描くよりも、事件によってドラマを興味本位につくる傾向が強かったものです。事件づくりは人物の関係をつけ、かれらの行動を条件づける生活状況をつくることにすぎないので、人物の行動の線を引き、その行動過程であらわれる感情の流れをうまくつくりだしていくためには、事件づくりと感情づくりを密着させなければなりません。

 事件づくりと感情づくりは、人物の性格と生活の本質を明らかにする表現方法であり、それは互いに矛盾し排除する関係にみるのではなく、依存し制約する関係にあります。事件づくりにもとづかない感情づくりは空虚なものであり、感情づくりのなされていない事件づくりは無味乾燥で生硬なものになってしまいます。感情づくりのなされていない事件づくりは、人々の感興をそそることができません。人物の思想・感情は事件のなかであらわれるのですから、感情づくりは事件づくりにもとづかなければなりません。そうであってこそ、事件発展の論理に従って人物の思想・感情と心理を緊張と弛緩、蓄積と爆発の流れのなかで自然につくりだし、その過程でかれの思想・感情を鮮明にあらわすことができます。

 こんにち、我々の革命演劇が観客に愛されているのは、種子が意味深く深奥で、見終わってから深い哲学的な思索にふけるようになるためだけではありません。それは、ドラマづくりが、劇的な緊張感と興味をいだいてたえず新たに展開される物語を観ることができるように立体的に組まれているのが大きな要因です。

 『城隍堂』式劇作術は、演劇革命の過程で完成された朝鮮式の劇作術です。新しい劇作術が時代の要請と人民の志向にかなったものであっても、作家がそれに精通していなければ創作で成果をおさめることはできません。朝鮮式の劇作術に精通した作家であってこそ、我々の時代の人民の美感にかなった思想性・芸術性の高いすぐれた戯曲を書くことができるのです。

出典:金正日選集 9巻

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