金正日「演劇芸術について」−2 劇 文 学 

2−1 戯曲は、演劇の思想的・芸術的基礎


 思想性・芸術性の高い演劇を創作するには、戯曲を立派に書かなければなりません。創作集団に有能な俳優が多く、表現能力のある演出家がいるとしても、戯曲がすぐれていなければ観客の心をとらえる立派な演劇を創作することはできません。

 戯曲は、演劇の思想的内容と芸術的形式を定める基礎です。

 戯曲には、演劇の内容を規定づける種子(チョンジャ)と主題・思想、人物の性格と人間関係はもとより、形式を定める構成と葛藤、ストーリー、スタイルなどが示されています。また戯曲には、演出家をはじめ、創作家と俳優がそれぞれの形象化の方向を定め、創造的ファンタジーをくりひろげる基礎が示されています。したがって、立派な演劇を創作するには、思想性・芸術性の高い戯曲の創作に第一の関心を払わなければなりません。

 他の文学・芸術作品と同じように、戯曲はチュチェの人間学、共産主義的人間学とならなければなりません。チュチェの人間学、共産主義的人間学は、チュチェ思想にもとづいて人間問題を前面におし立て、チュチェ型の真の人間の典型を創造して、人民大衆を最も強力で尊厳ある社会的存在にならしめるのに寄与する文学です。

 『城隍堂』式演劇の劇文学は、人間はあらゆるものの主人であり、すべてを決定するというチュチェ思想にもとづいて、すべてのことを人間を中心にして考え、人間に奉仕させるという根本的要求を立派に具現しているため、時代が提起する問題に正しい解答を与えるチュチェの人間学となります。

 チュチェの人間学は、自主的な人間の典型を描き出さなければなりません。

 人間学である文学の基本的使命は、作品の中心にモデルとなる典型的な人間の性格を形象化して、人々に生活と闘争の真理を示すことにあります。生きた人間の性格創造をぬきにした文学は、自分のうちだした形象化の課題を満足に遂行することができません。作品の種子も人物の性格を通じて花咲き、実を結ぶものです。特に主人公の性格は、文学において思想的なものと芸術的なものを正しく結合し、内容と形式の調和のとれた統一を実現する中心となります。文学・芸術作品の主人公は、人間関係の柱となり、他の人物を制約し服従させるだけでなく、ストーリーを運ぶ中心人物となります。文学でいかなる人間を典型としておし立て描き出すかによって、作品が提起する人間問題の価値と意義が左右されるといえます。

 我々の劇文学においては、チュチェの革命観を確立していく人間の典型をおし立てなければなりません。

 我々はまだ革命の途上にあり、我々が歩むべき革命の道は遠くけわしいものです。ところが、我々の革命隊伍内では世代の交代が起こっており、困難な革命闘争で鍛えられていない新しい世代が国の運命を担って立つ革命の主人として登場しています。こうした状況のもとで、立ちはだかる難関と試練を乗り越えて、朝鮮革命の最終的勝利をかちとるためには、人々を革命観で武装させなければなりません。

 革命家が身につけるべき革命観は、チュチェの革命観です。チュチェの革命観で重要なのは、革命の主体にたいする正しい観点と立場です。チュチェの革命観を確立するには、革命の主体である領袖、党、大衆に忠実でなければなりません。言いかえれば、領袖観、組織観、大衆観を確立しなければなりません。領袖観、組織観、大衆観は、革命的信義と同志愛にもとづく道徳観によって裏打ちされるとき、確固たる信念となり、人生観となるのです。領袖観と組織観、大衆観、道徳観は切り離しがたく密接に連関しあって全一的な革命観をなします。作家がチュチェの革命観を確立していく人間の典型的な姿をリアルに描き出すには、かれらが革命的領袖観と組織観、大衆観、道徳観をともに体現していく過程として立派に形象化しなければなりません。

 作家は、厳しく困難な抗日革命闘争の炎のなかで形成された抗日革命闘士の革命的領袖観を掘りさげて描き出さなければなりません。作家は、抗日革命闘士たちの革命的領袖観が、金日成同志に従い、日本帝国主義との苦難の闘争をくりひろげる過程で体得した揺るぎない信念であり、自分の血とし肉として体質化した意志であることを、生活を通してリアルに描き出すべきです。そうしてこそ、領袖、党、大衆の血縁的な統一の輝かしい伝統を汚れなく守り、その歴史的根源から育った我々の時代の人間の革命的領袖観を感銘深く描き出すことができるのです。

 こんにち我々の時代の人間は、領袖と組織的思想的に、同志的に結びついてこそ、永生の社会的・政治的生命を得ることができることを、信念として体得しています。金日成同志にたいする朝鮮人民の忠誠心は義務感からではなく、革命的信義に根ざす最も崇高な思想・感情となっており、民族の運命にかかわる死活の要求となっています。朝鮮人民が数千年の歴史上はじめて迎えた敬愛する金日成同志を民族の偉大な太陽として高く仰ぎ、あくまで忠誠をつくすのは、朝鮮人民の当然の道義なのです。

 作家は作品において、朝鮮人民が歴史的体験を通じて自分の生活信条とし、民族の運命を左右する死活の要求として受け入れた革命的領袖観を生活を通して掘りさげて描くことによって、金日成同志のふところで政治的生命を輝かしていく道に真の生きがいと喜びがあることを強調すべきです。そうして人々に、個人の利益のみを考え、領袖も祖国も民族も眼中になく、一身の安楽のみを追求するのは動物の生活と変わりがなく、領袖を戴いて社会的・政治的生命を輝かしていくことこそが真の生であり、喜びと誇りにみちた生活であり、自分はもとより次代の永遠の幸福が保障される最も輝かしい生であることを、説得力をもって認識させるべきです。

 チュチェ型の真の人間の典型を創造するためには、「一人はみんなのために、みんなは一人のために!」という共産主義的原則を体現している我々の時代の人間の革命的倫理と道徳を、高い芸術的境地で感銘深く描き出さなければなりません。

 作家は作品において、共通の目的と理想を実現するため手をとりあって進む社会的集団においてのみ提起される共産主義的道徳関係が、同志間の関係と家庭生活、社会共同生活にどう具現されるかということを深く描いてみせなければなりません。人々のあいだの信義や友情に関する問題は従来の作品でも取り扱われ、そうした作品のなかには人々に一定の感銘を与えたものも少なくありません。しかし、そういった作品の場合も、信義や同志愛の問題は、あくまでも個々人の純然たる倫理道徳の問題としてのみ取り扱われました。

 作家は作品において、革命的信義と同志愛を個々人の品性としてではなく、集団主義的生命観にもとづいて掘りさげて描くべきです。すなわち道徳関係を、同志間の関係や家庭生活、社会共同生活において、たんに同志を愛し大事にしたり、人間としての道義を守るといった個々人の感情や品性の問題としてのみ描くのでなく、領袖への忠実性にもとづく革命的信義と同志愛でなければならないことを深く描き出すべきです。我々の時代の人間の性格は、まさにこのように形象化されてこそ、従来の作品に描かれたものとは質的に区別される新しいタイプの人間の典型となりうるのです。

 戯曲では、生活と闘争の手本となる肯定的典型を多くおし立てるだけでなく、前進途上にありうる否定面もためらうことなく描出すべきです。社会主義を建設する道には坦々たる大路ばかりでなく、ぬかるみや茨の道もあるのです。ところが、一部の活動家のあいだには前進途上に立ちはだかる難関を自力でつきぬけることができず、敗北主義に陥って動揺したり要領主義に走る傾向があらわれています。革命任務の遂行に粉骨砕身するのでなく、怠けて現状維持にとどまる傾向、貴族化して人民生活に関心を払わない傾向、党政策が満足に実行されないことについて心を痛め、難問を解決するために懸命に努力するのでなく、座して泣き言を並べるといった傾向は、例外なく党と領袖にたいする忠実性の欠如に起因しています。作家は、我が党の思想と縁のない否定的な要素が朝鮮革命を大きく阻害することになり、それを一掃しなければならないということを劇的にするどく解明すべきです。

 我々の時代の人間の典型を創造するうえで重要なのは、政策的筋金を明確に通すことです。

 典型の創造において政策的筋金を明確に通すことは、党的で革命的な文学の本質的要求です。典型創造において政策的筋金は、党の路線と方針にもとづく確固たる定見と原則的立場です。典型の創造において政策的筋金を明確に通してこそ、作品の形象体系全般に党政策の線を明確に通し、生活の本質を正しく解明することができます。

 大きな感動を呼び起こす出来事であっても、それにはさまざまな非本質的な現象があるものです。創作においては生活を具体的に分析して本質と現象を正しく見分け、党政策の線を明確に通し、それに他のいっさいのものを徹底的に服従させていくべきです。

 思想性・芸術性の高い戯曲を創作するには、種子を正しく選定しなければなりません。

 文学・芸術作品において人間像が生命であるなら、人間像に活力を与え、生気をみなぎらせる生命の核は種子です。作品の種子は、作家がいわんとする基本問題があり、表現の要素が根をおろす下地がある生活の思想的核心です。現実からいかなる種子を選定するかは、作品の性格と思想的・芸術的質を規定づける基本的要因の一つとなります。

 種子を正しく選定してこそ、時代が提起する切実な人間問題に正しい解答を与え、作品の哲学的な深みを保障し、創作で速度戦を力強く展開することができます。

 作家が現実のいかなる対象に目を向け、社会生活のどの側面から種子を選定するかは、創作の出発点となるばかりか、作品の運命を左右するカギとなります。有機体に活力を与える生命の因子がなければ、その有機体が生存できないのと同様に、思想的核心の欠如した作品は無にひとしいものです。核のない作品は、いわんとする基本問題が明確でないため、見る人にそれぞれ違った解釈をさせるようになります。作品の主題と思想は、種子に根ざしているものですから、種子が明確でなければ結局、主題と思想も曖昧になってしまいます。

 種子は、党政策の要求に合致し、劇的要求にも合致したものを選択しなければなりません。党の路線と政策にしっかり依拠して現実に対応する作家であってこそ、生活が提起するすべての問題を正しく識別し、人間学の本質的要求にかなった種子をとらえることができます。

 よい種子をとらえるには、時代に対応する作家が情熱に燃えなければなりません。情熱に燃えなければ創作をすることはできません。創作をたんなる義務感からするのであれば、決して人の心をゆさぶるよい種子をとらえることはできません。

 党政策の要求に合致し、時代が提起する人間問題に解答を与えうる種子は生活のなかにあります。生活は党の政策が現実として開花し、実を結ぶ基盤です。生活をよく知ってこそ、時代の要請と人民の志向にかなった有意義な種子を選択することができるのです。

 こんにち我が国では、領袖、党、大衆が統一団結して一つの強固な社会的・政治的生命体をなしており、社会主義の完全な勝利を早めるための力強い進軍運動がくりひろげられています。まさに、これが我が国の現実であり、朝鮮人民の生活なのです。

 作家は、誇らしい進軍運動が展開されている生活のなかに深く入って、人民大衆と苦楽をともにしてこそ、自然改造、人間改造、社会改造で輝かしい成果をおさめ、世界の人々から「社会主義の模範の国」とたたえられている我が国がいかに偉大で、朝鮮人民がいかに高い民族的誇りと自負をいだいて革命を進めている人民であるかを心の底から体得することができます。

 朝鮮人民は、金日成同志の指導のもとに、日本帝国主義とアメリカ帝国主義を打ち倒した英雄的人民であり、戦後の復興建設の難関を乗り越え、この地に社会主義制度をうち立てた剛毅な人民です。朝鮮人民は、戦争によってあらゆるものが破壊された廃墟のなかから、他の国が世紀にわたって実現した国の工業化をわずか14年という短期間になし遂げ、我々の力、我々の技術、我々の設備と資材によって8キロメートルの外海をせき止め、世界有数の西海(ソヘ)閘門を建設しました。いま朝鮮人民は白頭(ペクトウ)の革命精神、炎に包まれた川を渡り、ぬかるみを歩んだあの日の闘志と勇猛心をいだいて、思想、技術、文化の三大革命を強力に推進しながら、社会主義大建設の行軍を早めています。

 作家は、こんにち我々の社会に起きている劇的な出来事や感動的な事実から種子を選択して作品を書いてこそ、いかなる風が吹こうと動揺することなく、ひたすらチュチェの一路を突き進む朝鮮人民の不撓不屈の革命精神を感銘深く描き出し、かれらを朝鮮民族第一主義の精神で教育するのに積極的に寄与することができます。

 戯曲は、演劇芸術の特性と要求に即して書かなければなりません。戯曲は、生活を劇的な方法で反映する、文学のうちで最も代表的なジャンルです。シナリオも生活を劇的な方法で反映し、人物の性格を作家の説明ではなく、人物自身の行動を通じて明らかにするという点では戯曲と同じですが、戯曲でのように生活を限られた場面で集約的に見せるのではありません。シナリオは、その表現において時空の拘束をほとんど受けないので、現在から過去へ、過去から現在や未来へと自由に飛躍しながら生活を多様に描くことができます。しかし、戯曲は時空の制約を受けるので、そうすることができません。もちろん、『城隍堂』式演劇では時空の制約を克服するために多場面構成法を新たに適用しましたが、時空を映画でのように自由に飛躍させたり、集約し拡大変形して見せることはできません。戯曲では、生活のなかでドラマを体現している種子を、劇的に結ばれた人間関係を通じて集約的に解き明かさなければなりません。戯曲は演劇をつくるための文学であるので、人物の設定から人間関係の結びつきとストーリーの展開をはじめ、形象化のすべてが劇的なものとならなければなりません。戯曲は劇的なものであってこそ、人物に行動を起こさせ、かれらの関係を結び、葛藤を露呈する状況とモメントをことごとく演劇の特性に合ったものにすることができます。

 描写対象の見地からすれば、戯曲に織り込むべき生活が別個にあるわけではありません。あらゆる生活を戯曲に織り込むことができますが、それは劇的な方法でなさなければなりません。戯曲作家は、生活のなかで劇性のある素材の探求に関心を払うべきです。例えば、停戦直後の困難な状況のもとで社会主義を建設したときの生活も劇性の強い生活だといえます。当時、戦争によってすべてのものが破壊されたため、我々には食料や衣類が欠乏し、住宅と呼べるような家もなく、復興建設をしようにもレンガの一枚もまともなものがないありさまでした。アメリカ帝国主義者と南朝鮮のかいらい一味は連日「北進」騒ぎを起こし、反党反革命分派分子は機械から米が生まれるのかといって、我が党の路線と政策に反対しました。しかし、我が党はいささかも動揺しませんでした。我が党は人民大衆を信頼し、人民大衆は党と領袖を信頼し、自力更生、刻苦奮闘の革命精神を高く発揮して戦後の復興建設を成功裏になし遂げ、この地に社会主義制度をうち立てました。戯曲はこのように政治的意義があり、内容が豊富な生活を織り込んでこそ、劇性の強い作品になりうるのです。

 戯曲が劇的な人間生活に重きをおくからといって、必ずしも劇的な起伏や屈曲のはげしい衝撃的な事件や葛藤のするどい生活だけを扱うというものではありません。勤労者相互の団結と協力が社会関係の基本となっており、領袖、党、大衆が一つの社会的・政治的生命体をなし、互いに助け導きあいながら、むつまじく暮らしている我が国における社会主義の実生活も十分戯曲に織り込むことができます。

 戯曲には、日を追って新しく変化し発展する朝鮮人民の美感を考慮に入れて、劇的なものに情緒的なものと叙事的なものを適切に取り合わせるべきです。文学・芸術の描写方式は、相互作用と依存の関係にあります。劇的な方式だからといって、たんに劇的なものばかりあるのではなく、それには叙情的な要素と叙事的な要素も多様な形態で浸透しているのです。

 『城隍堂』式劇文学では、劇的な方式を基本として生活を描きながらも、演劇創作における音楽の役割を考慮に入れて、叙情的な描写方式に属する歌詞を多様な形式で駆使しています。こんにち、我が国の演劇において、音楽はせりふとともに重要な表現手段の一つとなっています。『城隍堂』式劇文学における歌詞は、人物の性格と生活を叙情的、心理的に見せたり、叙事的に描き出し、また、劇的に掘りさげて、その内面世界を多様に描出します。戯曲では、パンチャン(傍唱)でうたわれる歌詞を、人物の性格と生活の論理に合わせて有節化して書くべきです。

 戯曲では、ドラマの要求に応じてナレーションも多様に書くべきです。

 『城隍堂』式演劇では、叙事的描写方式に属するナレーションをドラマの要求に応じて多様に駆使することによって、生活の流れと人物の感情世界を具象的に際立たせています。革命演劇『血噴万国会議』の序場で、不気味な暗雲がたれこめ、雷鳴がとどろくなかで語られるナレーションは、亡国の悲運に見舞われていた当時の我が国の時代相を浮き彫りにしており、主人公が国権回復のために密使として発つ場面でのナレーションは、苦難にみちた数千里の路程を時空のうえで飛躍させながら、愛する妻子と故国の山河を後にするかれの悲憤憤慨の内面世界をよくあらわしています。主人公が自決したあと終場に移る場面でのナレーションは、過去の歴史の教訓をもって現代の人々に警鐘を鳴らすことによって、作品の哲学性をさらに深めています。戯曲のナレーションは、このように劇的描写方式の要求に即して十分な感情の蓄積を経て、劇的に高まった生活的契機に入れるべきであり、人物の内面世界に密着させて劇性をいちだんともりあげるように入れなければなりません。種子の要求と思想・主題の課題にも合致し、たえず進展するドラマの流れと場面の要求にも合致するナレーションであってこそ、演劇の思想性・芸術性を高めるのに真に寄与することができるのです。

出典:金正日選集 9巻

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