金 正 日

作家、芸術家のあいだに
革命的創作気風と生活気風を確立するために
朝鮮労働党中央委員会宣伝部の責任幹部及び文学・芸術部門の活動家との談話
-1987年11月30日付-


 こんにち、作家、芸術家には全社会のチュチェ思想化偉業が新たな高い段階に深化、発展している現実の要請に即応して革命的文学・芸術作品をより多く、より立派に創作すべき重大かつ栄誉ある任務が提起されています。

 近年、 作家、 芸術家は、党の指導のもとに文学・芸術作品の創作で大きな成果をおさめています。 作家、 芸術家は、 敬愛する領袖金日成同志の不滅の革命活動史と偉大な風格を継承化した叢書『不滅の歴史』のうち『白頭山麓』『厳しい戦区』などの長編小説と、 十部作の革命映画『朝鮮の星』などシリーズ形式の作品、 音楽舞踊叙事詩『栄光の歌』、 劇映画『保証』、歌謡『夜空に降る雪よ』など、 数多くの文学・芸術作品を立派に創作して、党員と勤労者の教育に大きく寄与しました。 ことし、 国立演劇団の創作家、 芸術家は金日成同志が抗日革命闘争期にみずから創作、 公演した不朽の名作である革命演劇『娘からの手紙』と『三人一党』を『城隍堂』式演劇で舞台にのせましたが、 これは、 我が党の演劇革命方針の正当性と優越性をあらためて誇示する特出した成果といえます。

 党の指導のもとに一大全盛期を迎えたチュチェの芸術は朝鮮人民のみでなく、 世界人民のあいだでも絶大な支持と称賛を呼んでいます。 我が国の芸術はアジアとヨーロッパをはじめ、世界各地で熱烈に歓迎されており、 大きな反響を呼んでいます。 我が国の文学・芸術が、こんにちのように全世界にさん然と光り輝いたことは、いまだかつてありませんでした。

 近年、 我が国の文学・芸術におけるすべての成果は、 党の主体的文芸思想と文芸方針による貴い結実であり、 党と領袖に限りなく忠実な作家、 芸術家の高い創作的熱情と献身的努力が生んだ、誇るべき結実です。 しかし、我々はこれに満足したり慢心してはなりません。

 今、我が国は、 思想、 技術、 文化の3大革命の旗のもとに第3次7か年計画(1987~1993) を繰り上げて遂行し、 社会主義の完全な勝利を促進するため、かつてない速いテンポで力強く前進しています。

 金日成同志は最近、 農業発展の現実的要請を深く洞察し、 それに基づいて近い将来、 社会主義農村テーゼが提示した課題を完全に実現し、 経済建設のすべての分野に新たな転換をもたらす雄大な構想を示しました。 この雄大な構想が実現すれば、 我が国は完全に勝利した社会主義社会の様相をそなえるようになるでしょう。

 我々が理想として描いてきた社会主義の完全な勝利の日が近づきつつあるこんにち、 文学・芸術は当然、 革命の前進に歩調を合わせ、 人民の高い文化的・情緒的要求を充足させなければなりません。 我が国の文学・芸術が絶え間なく前進する革命の要請に即応してその使命を全うするためには、作家、芸術家のあいだに革命的創作気風と生活気風を確立しなければなりません。

 私がいつもいっていることですが、 文学・芸術作品は作家、 芸術家の高い思想と熱情の産物です。 他のすべてのことも同じですが、特に文学・芸術の創造は、燃えるような情熱と血のにじむ努力なしには成功しません。 かつて作家、 芸術家は高い情熱をもって夜を徹しての創作活動を行ったので、 立派な文学・芸術作品を数多く創作することができました。不朽の名作である『血の海』と『ある自衛団員の運命』を映画化するとき、 作家、 芸術家には昼夜の区別がなかったし、 劇映画撮影所全体が高い創作的情熱でわき立ちました。 五大革命歌劇を創作するときにも、 作家、 芸術家は昼夜をわかたず緊張して創作活動を行いました。 革命歌劇『密林よ語れ』を創造するときには、 芸術家が睡魔におそわれ柱にもたれてうたた寝をしながら創作活動を続けたものです。 私は、 革命歌劇『密林よ語れ』の一場面を明け方の4時まで指導したとき、 ヒロイン役の俳優が疲れ切って、 父と娘の離別の場面で眠る練習をしているうちに本当に眠りこんでしまった姿を今も思いだします。

 当時はすべての作家、 芸術家が党を信頼し、 党と一心同体となって仕事に打ち込んだものです。 私が劇映画撮影所で夜ふけまで作業をして帰り、 明け方の4時か5時に電話をかけても、 劇映画撮影所の責任幹部はきちんと電話を受けたし、 深夜、 平壌大劇場を出るとき作曲家に歌劇の新しい曲を創作する課題を与えれば、 朝、 執務室に出てみると、 新作の楽譜が私の机の上に置かれてあったものです。 当時は創作と生活に不満をいだく人も、 まぐれ当たりを期待する人もおらず、 綱渡りをして党に社交的な態度をとる人もいませんでした。 このように作家、 芸術家が高い情熱をもって昼夜をわかたず文学・芸術作品の創作に励んだため、 我が国での映画革命、歌劇革命が成功裏に進められ、チュチェ芸術の大全盛期が開かれたのです。

 朝鮮革命発展の要請からしても、 文学・芸術作品創作の本来の要求からしても、 作家、芸術家のあいだに革命的創作気風と生活気風を確立することは極めて重要な問題として提起されます。 ところが今、 作家、 芸術家のあいだに革命的創作気風と生活気風が確立されているとはいえません。

 作家、 芸術家のあいだに革命的創作気風と生活気風が確立されていないのは何よりも、文学・芸術作品の創作が不振状態に陥っていることにあらわれています。

 我が国の文学・芸術は党機関紙の社説のようにアピールに富み、 現実に先んじて革命発展の各時期、 各段階で動員的役割を果たさなければなりません。 党は昨年、 朝鮮革命の発展と現情勢の要請に即応して党員と勤労者に対するチュチェ思想教育をいっそう、強化する方針を打ち出し、 その実行において必ず解決すべき課題を新たに示しました。 しかし、 党の要求にこたえるほどの深奥で特色のある文学・芸術作品はいまだに創作されていません。

 金日成同志の革命活動史と不滅の業績、 偉大な風格を形象化した文学・芸術作品がいちだんと高い水準で創作されるべきですが、 5年前と現在を比べても大きな前進がみられません。 革命映画『朝鮮の星』第1、 第2、 第3部をはるかにしのぐほどの映画や小説が出ておらず、 むしろそれらの作品より思想的・芸術的水準が劣っています。

 私は昨年、文学・芸術部門で、金日成同志がいちばんであり、我が党がいちばんであり、朝鮮人民がいちばんであり、 朝鮮民族がいちばんであるという精神で党員と勤労者を教育するのに寄与する文学・芸術作品を創作することについても強調しましたが、 数編の歌詞のほかには、まだこれといった作品がありません。

 こんにち、勤労者、 特に青少年のあいだで階級的教育を強化することが重要な問題として提起されています。 しかし、いまなお、 我が国の文学・芸術作品は現実を賛美したり、 人民の幸せな生活をうたうのみで、 資本主義制度に対する我が国の社会主義制度の真の優越性を労働者階級的立場で深く描き出していません。

 作家、 芸術家のあいだに革命的創作気風と生活気風が確立されていないのはまた、 党が文学・芸術部門の活動を直接指導する過程で築いた業績を固守し発展させようという熱意と努力が足りないことにもあらわれています。

 我々が歌劇革命を起こして五大革命歌劇を創作してからもはや10余年が経ちましたが、その後、 音楽舞踊物語『楽園の歌』と音楽舞踊叙事詩『栄光の歌』のような叙事形式の大作を創作しただけで、 中央芸術団体では新しい歌劇を創作していません。 今では党がつくりだした創造システムと創造方法も満足に守られておらず、 映画創作の月間正常化の方針も正しく実行されていません。 作家、 芸術家のあいだには、 すべての文学・芸術作品を朝鮮式に創作しようとせず、 外国のものをのぞき見したり、 模倣を試みる事大主義的、 教条主義的偏向もあらわれています。

 革命的創作気風と生活気風が確立されていないことは、 作家、 芸術家の日常の活動と生活にもあらわれています。

 我々は今、革命の時代、闘争の時代に生きています。 現情勢と我々に提起されている革命任務は、 作家、 芸術家にいつにも増して革命的に創作し、 生活することを求めています。

 ところが今、 一部の作家、芸術家のあいだには、党と人民から課せられた革命的本分を忘却して、 活動と生活をのんびりと安易にする傾向が少なからずあらわれています。 朝鮮シナリオ創作社をはじめ、 文学・芸術創作機関の一部の作家は、 ここ数年間これといった作品を書いていないのに、 朝出勤しては時間になると退勤しています。 ここには作家、 芸術家の燃えるような創作的情熱というものがみられません。

 作家、 芸術家が燃えるような情熱と旺盛な意欲をもって創作に専念するときは、 時間の経つのがわからないものです。 作品の世界にひたって主人公とともに生きるときには、 流れ去る一秒一秒が惜しくて食事も抜き夜を明かすのが真の作家、 芸術家の姿です。 創作的霊感がひらめき、 情熱が燃えあがるときには、 幾夜を明かしても疲れをおぼえません。 やりたくてすることは十夜を明かしても疲れを知らないものです。 だからといって、 一年中夜を明かして働けというのではありません。 創作家、 芸術家はいったん構想を立てて創作にとりかかれば、 旺盛な情熱と覇気にあふれ、 夜を明かして働く革命的な創作気風を発揮しなければなりません。 時代と人民に対する自己の崇高な使命を自覚した作家、 芸術家にとって、 党と領袖に忠誠を尽くそうという燃えるような情熱と汚れない良心のみが創造的勤務時間を決定するのです。 党員としての良心をもつ作家、 芸術家であれば、 文学・芸術作品の創作で新たな高揚を起こすため、 昼夜を分かたず革命的に創作することを生きがいとし、 幸せと思うべきです。 しかし今、 作家、 芸術家には党員としての良心と革命的情熱が乏しく、 活動と生活において気迫がみられません。

 作家、 芸術家のあいだには安易な生活に流れ、 享楽のみを追求する利己主義的傾向もあらわれています。 人間が利己主義に陥れば、ブルジョア生活様式に染まり、 帝国主義の思想的・文化的浸透にたやすく侵されることになります。 ブルジョア思想、 修正主義思想のような不健全な思想毒素は、 作家、 芸術家に真っ先に浸透します。 これはこれまでの歴史的経験がよく示しています。 ひところ一部の国で党の指導を否認し、 社会主義制度をくつがえす反革命的陰謀の先頭に立った者のなかには作家、 芸術家が少なくありませんでした。いわゆる「創作の自由」を唱え、 労働者階級の革命的文学・芸術作品を抹殺し、 革命文学・芸術の伝統をくつがえす策謀に加担したのも作家、芸術家でした。

 こんにち、 深刻な政治的・経済的危機に直面しているアメリカを頭目とする帝国主義者が、より陰険な方法で思想的・文化的浸透をいつにも増して強化している状況のもとで、 作家、芸術家が緊張を緩め、 安易な生活に流れるなら、 ブルジョア思想、 修正主義思想に毒され、文学・芸術作品の創作にあらわれている不振状態を克服することができず、 これまでの業績そのものも固守することができません。

 作家、 芸術家のあいだに革命的創作気風と生活気風が確立されていないのは、 彼らが党と革命、 祖国と人民から課せられた革命的本分を十分に自覚していないからです。

 作家、 芸術家は我が党の文芸政策を擁護、 実行する思想戦線の旗手であり、 文学・芸術作品の創作を通じて祖国と人民に奉仕する革命家です。

 我が国の文学・芸術は、 革命の自主的主体の強化に奉仕する文学・芸術です。 言いかえれば、 我が国の文学・芸術は、社会的・政治的生命体である領袖、 党、 大衆の統一団結を強化し、 人民の永生の社会的・政治的生命を輝かすのに寄与するチュチェの文学・芸術です。 人類の文学・芸術の発展に最も高い要求を提起しているチュチェの文学・芸術は、 作家、 芸術家の透徹した革命的領袖観と人民への献身的奉仕精神に基づく高い創作的情熱によってのみ発展することができます。

 作家、 芸術家の生きがいと幸せは、 党と革命、 祖国と人民に奉仕する真の文学・芸術作品を創作するためにすべての知恵と情熱をささげるところにあります。 作家、 芸術家はいかにすれば生の各瞬間を党と革命により立派に寄与できるか、 いかにすれば一生を党とともに誇らしく終えることができるかという高い自覚をもつべきです。 人間は、ただ一日を生きても政治的生命をもって誉れ高く生きるべきであって、 一身上のことを気づかって一生を無為に過ごしてはなりません。 そんな人は何の役にも立たないあわれな人間です。 人間にとって無為に過ごした百日、 千日より、 革命のために一身をなげうってたたかった一日のほうが誉れ高く、 とうとく、 光り輝くものです。 しかし今、 一部の作家、 芸術家は革命的本分を深く自覚せず、 月給取りのようにその日その日をなすこともなく過ごしています。

 作家、 芸術家のあいだに革命的創作気風と生活気風が確立されていないのはまた、 彼らに創作実績に関係なく、 生活条件を保障することにも起因しているようです。

 今、ある社会主義国では、 作家、 芸術家に文学・芸術作品の創作実績によって給金を一年に一度支払っています。 そのため作家、 芸術家は前年の給料で生活しながら文学・芸術作品を創作しているそうです。 ところが我が国の作家、 芸術家は、 一年中一編の作品を書かなくても毎月きちんと給料をもらっているばかりか、 その他いろいろな恩恵にもあずかっています。 恐らく、 こんな立派な生活条件を保障されて文学・芸術創造活動を行うのは我が国の作家、 芸術家しかいないでしょう。 今、我が国の作家、 芸術家は、 立派な創作条件の整った社会主義の車に乗って左うちわでだれかに押してもらうことばかり望んでおり、車輪の油が切れても自分の手で油をさそうとせず、 だれかがやってくれるだろうと待っています。 こんなありさまでは、 資本主義国の芸術家であったら口すぎもできません。資本主義国の芸術家は昼は劇場で働き、 夜はナイトクラブなどで稼がなければ生きていくことができない例もあります。

 作家、 芸術家のあいだに革命的創作気風と生活気風が確立されていないのは、 文学・芸術部門の党組織が作家、 芸術家の教育と創作に対する指導を正しく行っていないことにも原因があります。

 作家、 芸術家を教育し、 文学・芸術作品の創作を日常的に指導するのは、 文学・芸術部門の党組織の基本任務の一つです。 しかし、 今、文学・芸術部門の党組織は、 作家、 芸術家に対する教育すら正しく行っていません。 作家、 芸術家のあいだにいろいろな好ましからぬ傾向があらわれていますが、 党組織は、 その都度、問題視して思想闘争を行おうとしておらず、 創作に対する要求の度合も強めていません。 創作に対する強い要求は、 決して創作の自由を拘束するものではなく、 党の権威乱用や官僚主義でもありません。 創作に対する強い要求は、 作家、 芸術家に信念と勇気を与え、 文学・芸術作品の創作で成果をおさめさせる党の信頼と期待です。 かわいい子は鞭で育てるという言葉のとおり、 党が作家、芸術家を大事にするほど、 党組織は創作に対する要求の度合をいっそう強めるべきです。

 私が文学・芸術部門の活動を直接掌握して指導したときは、 作家、 芸術家はだれもが党のいうとおりにすれば作品の創作で必ず成果がおさめられるという確信をもち、 いかに困難な課題でも一両日中に立派になし遂げたものです。 そのころ作家、 芸術家は、 党の要求を自分に対する大きな信頼と信任として受けとめました。

 強い要求は作家、 芸術家を革命化、 労働者階級化する効果的な補薬です。 人間はだれであれ、 称賛ばかりされるものではなく、 批判も受けてこそ、 いかなる風が吹いても変心しない革命家に育つことができます。 それで私は文学・芸術部門の活動の指導にあたった当初から、 作家、 芸術家の創作と公演活動の過程を革命化、 労働者階級化の過程にするという方針を示し、 いつも創作で強い要求を提起したのです。

 しかし今、 文学・芸術部門の幹部のあいだでは、 作家、 芸術家の革命化、 労働者階級化という言葉すら聞かれないありさまです。 鋼鉄も長く野ざらしにしておけば錆つくように、作家、 芸術家も要求の度合を強めず、 実践闘争の溶鉱炉のなかで鍛えなければ、 頭に錆がつき、 最後には変質するようになります。

 我々は文学・芸術の前進を妨げる欠陥を一日も早く克服し、 新たな創作的高揚を起こすため、 作家、 芸術家のあいだに革命的創作気風と生活気風を確立しなければなりません。

 作家、 芸術家の革命的創作気風と生活気風は何よりもまず、 党の政策を絶対的なものとして受け入れてあくまで実行するため断固たたかうことにあらわれなければなりません。

 我が党の路線と政策は、 我々の時代の唯一の指導思想である偉大なチュチェ思想に基づいており、 労働者階級と人民大衆の志向と意思を反映しています。 我が党の政策のどれ一つをとってみても、 歴史発展の客観的法則と革命闘争の原理、 人民大衆の意思を反映していないものはありません。我が党の路線と政策は全的に正しいものです。 我が党の主体的文芸思想と方針にしても、そこには社会主義・共産主義的文学・芸術の建設と創造で提起されるすべての理論的・実践的問題に対する解答が示されており、 創作方向と実践的方途まですべて明らかにされています。 作家、 芸術家は、 党の路線と政策を最も正しいものとして受け入れて無条件実行するために努力することを崇高な義務とすべきです。

 党の文芸方針の実行において重要なのは、 条件の不備にかこつけて党の方針に注文をつけたり、 その実行を中途半端にすることがないようにすることです。

 今、一部の活動家と作家、 芸術家のなかには、 ささいな難関にひるみ、 条件の不備にかこつけて党の方針と指示にあれこれと注文をつけたり中途で放棄する傾向が少なからずあらわれています。 条件不備にかこつけて党の方針と指示に注文をつけるのは革命家的気質のない人であり、 党への忠誠心のない人です。

 革命自体が古いものをくつがえし新しいものを創造する困難かつ複雑な闘争であり、 無から有を創造する闘争です。 現在の条件が不利であるといっても、 それは解放直後や停戦直後に比べれば物の数ではありません。 我々にはこの世で最もすぐれた社会主義制度があり、 勤倹節約して築きあげた強力な社会主義の自立的民族経済があります。 文学・芸術部門には、 党の深い関心と配慮によってどの部門よりも有利な条件で心ゆくまで創作できるすべての物質的・技術的土台と社会的条件が整っています。 文学・芸術部門では、 決心さえすればなんであれできないことはありません。 しかし、 一部の作家、 芸術家は、 創作条件と生活条件にかこつけて作品の創作に打ち込んでおらず、 党の方針実行を中途で放棄したり、 ずるずる引き延ばしたりしています。 これは、 無条件性の革命的気風と党員としての良心に欠けた行為です。

 文学・芸術創作機関や芸術団体は、 決して安息の場ではありません。 文学・芸術創作機関と芸術団体は、 作家、 芸術家が一つの思想、 意志で固く団結し、 互いに助け導きあいながら、 党と革命に寄与する文学・芸術作品の創作にすべての才能と熱情をそそぐべき戦闘の場です。 創作に情熱をそそがず、 一身の安逸のみを追求して思索と探求を怠る人は、 作家、 芸術家の隊伍にいる資格がありません。

 今、我々に必要なのは、 解放直後と祖国解放戦争(朝鮮戦争) 期、 戦後の復興建設の時期に朝鮮人民が発揮した自力更生、 刻苦奮闘の革命精神であり、 作家、 芸術家が一心同体となって不朽の名作を1か月余りで映画化し、 短期間に五大革命歌劇を創造した闘争精神です。 一言でいって、 作家、 芸術家が党のまわりに一心団結してチュチェ芸術の大全盛期をもたらす映画革命、 歌劇革命を起こしたあのときの精神、 あのときの気迫が必要なのです。 「映画革命、歌劇革命を起こしたあのときの精神、あのときの気迫で生き創作しよう!」これが文学・芸術部門に提示する党のスローガンです。 作家、 芸術家はこのスローガンを高くかかげ、 限りない献身性と犠牲的精神を発揮し、 党の文芸方針を無条件あくまで実行して新たな創作的高揚を起こすべきです。

 作家、 芸術家の革命的創作気風と生活気風はまた、 党が文学・芸術部門の活動を指導する過程で築きあげた業績を固守し輝かすたたかいにあらわれなければなりません。

 党が文学・芸術部門の活動を指導する過程で築きあげた業績を固守し輝かすのは、 我が国の文学・芸術の明日の運命にかかわる重要な問題です。

 文学・芸術部門で党の業績を固守し輝かすというのは、 党の示した独創的な文芸思想と文芸理論、 創造システムと創作方法を断固擁護し、 党の指導のもとに創作、 公演された革命的文学・芸術作品の高い思想的・芸術的水準をいっそう発展させ、 党によって教育、 育成された創作陣を保存、 強化することを意味します。 文学・芸術部門で党の築きあげた業績を固守し輝かす闘争は、 金日成同志によって創始された革命的文学・芸術の伝統を擁護して発展させるための闘争であり、 映画革命、 歌劇革命の日々に高く発揮された革命精神と創作気風を堅持し、 あのときの精神と気迫で創作で絶え間ない高揚を起こすための闘争です。それはまた、 我々の世代のみでなく、 代を継いで永遠に我が国の文学・芸術を真のチュチェの革命的文学・芸術としてさん然と開花させる闘争です。

 歴史の流れにそって世代がかわるのは避けがたい一つの法則です。 世代はかわっても革命は中断できず、 闘争は続けられなければなりません。 映画革命、 歌劇革命の日々に私とともに夜を明かし、 文学・芸術革命の先頭に立った活動家と作家、 芸術家のなかには既に他界した人もおり、 還暦を過ぎた人も少なくありません。 今は、 当時十代の若者であった新しい世代が文学・芸術創造活動の柱となって、 我が国の文学・芸術の運命をになっています。 ところが、 新しい世代は映画革命、 歌劇革命がどのように進められたのか、 当時作家、 芸術家がいかに生活し、創作と公演活動をしたのかをよく知りません。 20余年間、 党の指導のもとに育った文学・芸術部門の古くからの活動家と作家、 芸術家が新しい世代に譲り渡すべき最も貴い財宝はなんでしょうか。 それはほかならぬ、 我が党の精力的な指導のもとに文学・芸術部門の活動家が一心団結して文学・芸術分野に築きあげた革命業績であるといえます。 新しい世代の作家、 芸術家に党の業績について正しく教育してこそ、彼らが革命のバトンをしっかり受け継いでチュチェの革命偉業の完成のために力強くたたかい、100年、 200年が過ぎた遠い後日にも、 我が国の文学・芸術を永遠にチュチェの革命的文学・芸術として開花させることができます。

 文学・芸術部門に築きあげた党の業績を固守し輝かせるには、 映画革命、 歌劇革命の日々、 崇高な革命的信義と同志愛を胸に深く刻んで党に忠誠を尽くした作家、 芸術家から、常にあのときの革命的創作気風と生活気風で生き働くべきです。 今は彼らが年老いたせいか、 創作と生活でポストを維持して晩年を無難に過ごそうとしているようですが、 これは革命家らしくない態度です。 真の革命家には老化がありえません。 肉体的には老化しても、思想的、 精神的には老化しないのが革命家の気質です。 思想的・精神的老化は革命に対する倦怠のあらわれであり、 思想的に変質していく好ましくない症状です。 作家、 芸術家が創作と生活の各瞬間を緊張して生きず安易に過ごすなら、 老化現象が生じ、 これが持続すれば結局、 思想的に変質して革命の落伍者になってしまいます。 屈することなき強靱な意志と高い情熱をもって創作し生活するところに、 作家、 芸術家の生の誉れと生きがいがあり、 我が党が文学・芸術部門に築きあげた業績を固守し輝かせる真の道があるのです。

 作家、 芸術家の革命的創作気風と生活気風は、 文学・芸術作品の創作において事大主義、教条主義を一掃して主体性を確立し、 独創性と創作上の定見、 大胆さを大いに発揮することにあらわれなければなりません。

 革命的創作気風と生活気風とは、 我が党の革命精神でチュチェの革命偉業の遂行に寄与する作品の創作に献身し、 革命的に生活する気風を意味します。 言いかえれば、 革命的創作気風と生活気風とは、 いつどこからいかなる風が吹こうと、 だれが何と言おうと、 すべてをチュチェの観点で見、 チュチェの要求どおり創作し生活することです。

 ところが、 最近創作された一連の音楽作品には、 朝鮮人民の生活感情に合わない旋律があらわれているかと思うと、 外国で使い古された編曲法を模倣する傾向まであらわれています。 去る祖国解放戦争期の女性義勇軍戦士の闘争を題材にした映画では、 彼女たちの性格と生活を外国の映画と同じように描いています。

 活動家にいかに主体性がないかは、 最近開催された第1回非同盟およびその他発展途上諸国の平壌映画祭参加者のための芸術公演を見てもよくわかります。

 平壌映画祭は自主、 親善、 平和の理念のもとに新興諸国の映画創造活動で自主性を堅持し、 親善と協力を強化するために開催された非同盟およびその他発展途上諸国の初の映画祭でした。 新興諸国の映画人は平壌映画祭を契機に、 自主性を堅持している朝鮮の主体的文学・芸術を見てよい点を大いに学びとろうとしました。 ところが、 活動家は彼らのそういう気持ちを考慮せず、 外国人のための公演だからと、 いくつかのクラシック音楽を含めて公演しました。 これは、 文学・芸術部門の活動家にいまなお事大主義、 教条主義が残っており、 主体性が確立されていないことを示しています。

 事大主義、 教条主義は、 革命的創作気風とは縁もゆかりもない古い思想です。 我々は文学・芸術作品の創作で事大主義、 教条主義を根絶し、 朝鮮民族第一主義の精神を具現して主体性を確立しなければなりません。

 文学・芸術作品の創作において朝鮮民族第一主義を具現するというのは、 朝鮮人民に固有な生活感情と情緒にマッチする民族的形式に、 人類思想発展の最高峰をなすチュチェ思想をもりこむことを意味します。 こうしてこそ、 我が国の文学・芸術が朝鮮人民の民族的特性にマッチするばかりでなく、 その思想的内容の水準も最高のものになります。

 朝鮮人には朝鮮音楽がいちばんであり、 朝鮮画がいちばんであり、 朝鮮舞踊がいちばんです。 文学・芸術部門では、 朝鮮民族に固有な特性と風習を無視する傾向を一掃し、 あくまでも朝鮮民族第一主義の精神に依拠して、 朝鮮人民の好みと情緒、 志向と要求にかなった朝鮮式の作品を創作しなければなりません。

 音楽部門で朝鮮民族第一主義を具現するには、 民謡を発展させなければなりません。 我が国の民謡は、 朝鮮人民の民族的情緒と生活感情にマッチした代表的な芸術ジャンルの一つです。

 小説と映画、 演劇、 美術、 舞踊など他の文学・芸術作品でも、 朝鮮人民には我々のものがいちばんだという思想で我が党のチュチェ思想を具現した民族的なものをかかげてこそ、 朝鮮革命の主体の強化により立派に貢献し、 世界の文学・芸術発展にも大いに寄与することができます。

 第13回世界青年学生祭典のための音楽作品も民族的旋律を基調にして、 あくまでも朝鮮式に創作すべきです。 世界の各大陸からくる青年のムードを考慮するからといって、 音楽作品にジャズやロック音楽のにおいをただよわせては絶対にいけません。 我々の音楽作品では民族的な旋律が現代的美感にマッチして流れ出てこそ、 青年がそこから朝鮮音楽の真味を感じ取り、 朝鮮の歌をもっと好んで歌うようになります。

 独創性は創作の本性です。 創作は本来の意味からして独創的であり非反復的です。 文学・芸術作品にはすべてそれぞれの固有な特色があるべきです。 文学・芸術作品にそれぞれの固有な特色がなければ、 文学・芸術としての生命を失うことになります。 それゆえ作家、芸術家には、 常に新しく独創的なものを発見し開拓しようという探求精神が強くなければなりません。

 最近の一部の文学・芸術作品を見ると、 テーマが清新さと多様さに欠け、 人物の設定と構成までも他の作品のものとほとんど似ています。 特に、 最近の歌はいずれも似たりよったりで、 どれが先につくられ、 どれが後につくられたのやら区別さえつかないありさまです。 こうした現象は、 作家、 芸術家が新しい形象を創造するための思索と探求を怠っているからです。 思索することを嫌い、 新しいものを探求するため精力的に努力しない作家、芸術家は、 10年経っても特色と深みのある作品を創作することができません。

 作家、 芸術家の創作的思索は、 必ず社会の現実に対する主体的観点と立場に基づくべきです。いつに主体的観点と立場にしっかり立ち、 自主的な人間の生活を深く研究して創作的思索を熟させ、 旺盛な情熱を発揮して創作活動を行うときにのみ、 人民大衆の好む新しく独創的な形象を創造することができます。

 創作上の定見と大胆さは、 作家、 芸術家が文学・芸術作品の創作において堅持すべき立場と姿勢です。作家、 芸術家が確固とした創作上の定見をもたずに作品を創作するときには、 作品に筋金を入れることができず、 特色のある形象を創造できないばかりか、 しまいには党政策に反する作品を創作するといった重大な過ちも犯しかねません。 作家、 芸術家が、はじめは社会的に意義のある種子をとらえてするどい形象化をしても、 創作上の定見がしっかりしていなければ、 人々のいろいろな意見を聞いて動揺し、 結局は曖昧模糊とした作品をつくりだすようになります。 一つの型にはめてつくりだした図式的で類型的な無味乾燥な百編の文学・芸術作品より、 社会的に意義のある問題を生きた人間の個性化された形象を通じてするどく生き生きと描いた一編の文学・芸術作品のほうが有益で貴いものです。

 創作上の定見をもつべきだとして、 自分の考えばかり正しいと固執すべきではありません。 創作上の定見と固執は縁もゆかりもありません。 創作上の定見は党の意図と人民の志向にかない、 生活の真実と形象の論理に合うものでなければなりません。 創作上の定見はあくまでも、 チュチェの革命的世界観に基礎をおくべきです。 深奥な思想的内容をもつ創作上の定見であってこそ、 真の生命力を有することができます。

 創作上の定見のはっきりした創作家であってこそ、 文学・芸術作品を大胆に創作することができます。一部の作家、芸術家は、現実的にさし迫った問題に直面しても、 下手に取り扱って、もしや政治的誤りを犯すのではないか、人々に非難されはしまいかと、大胆に作品を書こうとしていませんが、 これは創作におけることなかれ主義、 要領主義です。 活動と生活におけることなかれ主義、 要領主義は幹部に限らず、 作家、 芸術家にもあります。 ある意味では、創作におけることなかれ主義、 要領主義の方が危険であるといえます。 人間精神の技師であり、 思想戦線の前哨である作家、 芸術家がことなかれ主義、 要領主義に陥っては、 党が解決を望む問題を文学・芸術作品に正しく反映することができず、 結局は党員と勤労者を党の思想で武装させる活動をスムーズに行うことができなくなります。 作家、芸術家は党が解決を望む問題、 党が要求する問題、 党が力を入れようとする問題を敏感にとらえ、 文学・芸術作品を鋭くリアルに創作しなければなりません。

 作家、 芸術家が確固とした創作上の定見をもって大胆に新しいものを創作するには、 党の政策を正しく知り、 それを自分の血とし肉とし、 確固たる信念とし、 変化する現実に敏感でなければなりません。 党の政策を心から受けとめ、 それが具現される現実から新しいものを適時にとらえてこそ、 文学・芸術作品に社会的に意義のある問題を鋭く提起することができます。

 党への信頼は、 文学・芸術作品の創作において大胆さを生みだす力の源です。 作家、 芸術家が発展する現実から新しいものを発見したとしても、 党を信頼しなければ決して、 それを大胆に提起することができません。 党を信頼し、 党と運命をともにするときにのみ、確固たる創作上の大胆さを発揮することができます。

 文学・芸術作品の創作において大胆さを発揮するからといって、 大作主義に陥ってはなりません。今、一部の創作家は、 短編小説や短編映画、 寸劇、 舞踊小品などの戦闘的で機動的な文学・芸術形式の作品は創作せず、 長編小説や長編映画、 幕数の多い演劇のみを創作しようとしています。 ある作家にいたっては、 内容のない生活素材で、 ともすれば二部作だの、前後編だのと、 その大きさをもって一役果たそうとしています。 このような傾向は人民性のない官僚主義的表現であり、 功名心のあらわれです。 歴史には、終生短編小説を創作して世界的に名声を博した作家もおり、 数編の一幕戯曲を書いて世界演劇史に名を残した作家もいます。 ところが我が国の作家は、2、3編の短編小説を書くと、 その後は長編小説を書く方向に創作のかじを向けています。 そのため、 短編小説の創作は、新人が作家として認められる踏み台にすぎないものと考えられるようになりました。 大作主義的な創作傾向は結局、 短編物の質を落とし、 長編物の質も落としています。 作家、 芸術家は大作主義的傾向を一掃して専門化の方向に進み、 自分の専門分野で高い政治的見識と洗練された芸術的才能をもつベテランとなるべきです。

 作家、 芸術家のあいだに革命的創作気風と生活気風を確立するためには、 現実のなかに入って生活し創作しなければなりません。

 躍動する現実は、 作家、 芸術家にとって創作の無限の源であり、 思想鍛練の溶鉱炉です。

  作家、 芸術家は現実のなかに入ってこそ、 思想、 技術、 文化の3大革命の旗を高くかかげて力強く進む我々の時代の偉大な前進運動と、 朝鮮人民の高い精神世界をあつく感じ、 そのなかから新しく有意義な問題をとらえて生活をリアルに描き出す作品を創作することができます。 作家、 芸術家が現実のなかに入り、 勤労者と寝食をともにし、 仕事もともにしながら創作してこそ、 政治的見識と創作的視野を広め、 自身を思想的に鍛えることができます。 現実のなかに深く入って生活を真剣に体験し熱烈に愛する作家、 芸術家であってこそ、 時代を代表し歴史の発展を促す名作を創作することができるのです。

 ところが今、 少なからぬ作家、 芸術家は現実に出向かず、 机に座って文章を書いたり、ピアノに向かって作曲しています。 そのため、 今、音楽分野では人民に好まれるうたいやすい大衆歌謡が出ていません。 もちろん、 勤労者と青少年を党政策の実行に奮起させるためには政策歌謡を多く創作しなければなりません。 しかし、 政策歌謡だけでは人民の多様な文化的・情緒的要求を充足させることができません。 人民の文化的・情緒的要求を充足させるには、 政策歌謡とともに勤労者の多様な生活を反映したうたいやすい大衆歌謡をたくさん創作しなければなりません。 奇跡と革新でわき立ち、 希望と幸せにあふれる朝鮮人民の誇らしい生活には、 彼ら自身が好むうたいやすい生活的な大衆歌謡を創作できる立派な素材がいくらでもあります。

 祖国解放戦争の時期には、 詩人と作曲家が前線と後方で情熱を燃やして作詞し作曲したので、 『ざん壕でうたう』『泉のほとり』『だれも知らない』のような人民に愛唱される名曲が創作されました。

 今、我々には、 人民の生活感情を具体的に鮮明に反映した生活的な大衆歌謡が必要なのです。しかし、 詩人と作曲家が現実のなかに深く入って人民と呼吸をともにし、 人民のための歌詞と音楽を創作するという姿勢と立場をとっていないので、 真に生活的でうたいやすい大衆歌謡が多く創作されていません。

 一部の演出家は、 あたかも現実体験は作家に限ったことのように考え、時間がないという口実で現実には出向かず、 作家の書いたシナリオにすがって演出台本をつくっています。そうかと思うと、 一部の作家は、 休養所や静養所のような静かなところに行って文章を書こうとばかりしています。 作品を書くということで一年中休養所や静養所などに入りびたっている作家もいるとのことです。 これも検討を要する問題です。 いくら才能があり、 経験豊かな作家、 芸術家であっても、 現実を離れては生活をリアルに描き出す真の文学・芸術作品を創作することができません。 生活を真面目に体験していない作家の文学・芸術作品からは、 手先の小器用さはわかっても、 生活を肯定するあつい心臓の搏動は感じられません。 私は、 作家が休養所や静養所のような静かなところに半年、 1年間ととどまって作品を書くのは反対です。 そういう場所は、 立派な作品が書ける準備を十分に整えた作家が速度戦を展開して短期間に、 思想的、 芸術的にすぐれた作品を書くために必要なのです。作家は休養所や静養所などで創作するとしても、 執筆中に難問があれば遅滞なく再び現実に入っていくべきです。

 現実こそ、 作家、 芸術家に生活も情熱も才能も、 すべて与える肥沃な土壌であり、 創作の無限の源です。

 現実のなかで生活を体験し作品を創作するのは、 抗日遊撃隊式の活動気風です。 作家、芸術家は、 かつての抗日遊撃隊員たちのように背のうを背負って現実に入り、 労働者、 農民と寝食をともにして生活を体験し、 生産現場で作品を創作する気風を強く発揮すべきです。 そのためには、 作家、 芸術家の現実体験を制度化し、 それを目的意識的に、 計画的に行わなければなりません。

 党は、 党活動家が現実のなかに深く入って実情を具体的に調べ、 広範な大衆に党の政策を解説、 宣伝し、 彼らをその実行に奮い立たせる活動を立派に行えるようにするため、 以前から党中央委員会、 道党委員会では1か月に20日間は下部に行って働き、 10日間は部署に戻って総括し、 再武装、 作戦練り直しをする活動体系を確立し、 それを厳守するよう制度化しました。 文学・芸術部門でも、 作家、 芸術家の具体的な実情と創作の本性に即して、現実体験の整然たる体系を確立する必要があります。

 現実体験は必ず党の政策で武装したうえで真剣かつ誠実に、 地道に忍耐強く行うべきです。 作家、 芸術家が党の政策と路線を知らずには、 チュチェ時代の精神と朝鮮人民の偉大な前進運動を正しく理解することができません。 ただ党政策で武装した人であってこそ、躍動する現実のなかで新しく有意義な生活素材と種子をとらえ、 それを時代の要請と人民の志向に即応して思想的、 芸術的に立派に形象化することができます。

 現実体験を遊覧式にしてはなりません。一部の作家、 芸術家は現実体験を命じられると、仕方なく1週間か10日ほど旅行でもする気分で出かけますが、 そういうことでは現実を正しく体験することも、 自分を鍛えることもできません。

 我々は現実体験を遊覧式にする傾向をなくし、 真剣かつ誠実に、 地道に忍耐強くするのを制度化しなければなりません。

 作家、 芸術家のあいだに革命的創作気風と生活気風を確立するためには、 文学・芸術部門の党組織が作家、 芸術家との活動を正しく行わなければなりません。

 文学・芸術部門の党組織が作家、 芸術家との活動をするうえで何よりも重要なのは、 彼らを我が党の唯一思想、 チュチェ思想で武装させることです。 作家、 芸術家がチュチェ思想でいかに武装したかによって、 作品の思想水準が決まります。 チュチェ思想は朝鮮民族の生命であり、 我が国の文学・芸術の生命です。 我が党は、これまでチュチェ思想を指導指針としてたたかったがゆえに、 金日成同志を中心に一つに統一団結し、 革命と建設で大きな勝利を達成することができました。 我々が生きる道は、チュチェ思想の旗を高くかかげて進む道以外にはなく、 チュチェ思想の旗をかかげずには一歩も前進することができません。歴史的経験は、 絶対に他人の笛に踊らされず、 我が党の示したスローガンのとおり、 徹頭徹尾主体的立場で、 我々の方式で生きていくべきであることを示しています。 チュチェ思想で武装せず、 革命的領袖観を確立しなければ、 外国への幻想が生まれ、 ブルジョア思想と修正主義など異質な思潮に染まって革命と建設に重大な結果を及ぼすようになります。現情勢は極めて複雑で流動的です。 文学・芸術部門の党組織は、 作家、 芸術家のあいだでチュチェ思想教育を着実におこなって、 彼らを我が党のチュチェ思想でしっかり武装させなければなりません。

 作家、 芸術家に対するチュチェ思想教育で重要なのは、 金日成同志の著作と党の文献を原典をもって深く学習し、 それを創作実践と密接に結びつけることです。 チュチェ思想教育では、 著作の原典を学習させることより効果的な方法はありません。 作家、 芸術家にとって、 チュチェ思想の学習は知識のための学習ではなく、 チュチェ思想を創作実践に立派に具現するための学習にならなければなりません。 創作実践と密着しない学習はなんの意味もありません。 作家、 芸術家の学習会では、 現実のなかで見聞した内容をもって討論することもでき、 自分が書く作品の主人公の問題をはじめ美学上の問題をもって討論することもできます。 要は、チュチェ思想の命題を一つ知るにしてもその真髄を明確に知り、それを創作と生活に具現できるように学習することです。

 文学・芸術部門の党組織は、 作家、 芸術家の組織生活を正しく指導すべきです。

 作家、 芸術家の組織生活を正しく指導してこそ、 彼らが政治的生命をたえず輝かし、 党と領袖に忠実なチュチェ型の共産主義的革命家になることができるのです。 革命的創作気風と生活気風も、 作家、 芸術家のなかで組織生活を強化してこそ高く発揮されます。 創作の成果はもっぱら、 作家、 芸術家の組織生活をどう指導するかにかかっています。 文学・芸術部門の党組織は作家、 芸術家の組織生活を正しく指導して、 彼らのあいだに党の唯一思想体系を確立し、 すべての作家、 芸術家を党と領袖に限りなく忠実なチュチェ型の革命的文芸戦士に育てなければなりません。

 文学・芸術部門の党組織は組織・政治活動に綿密に取り組み、 作家、 芸術家が勤務時間内にフルに働くようにすべきです。 今、文学・芸術部門では、 行政会議はもちろん、 党会議まで勤務時間に開き、 労働規律を遵守していません。

 金日成同志は最近、 勤務時間に党会議を開く悪いくせがついたが、 解放直後にはそういうことがなかったと指摘しました。 文学・芸術部門の党組織は、 今後、 勤務時間内に党会議をはじめ、いろいろな会議や活動を無秩序に行う傾向を根絶し、 作家、 芸術家が勤務時間にはただ文学・芸術作品の創作に鋭意専心するようにすべきです。

 作家、 芸術家が単位時間内にエネルギーをそそいで創作に励むようにするためには、 彼らに明確な課題を与え、 その日の計画はかならずその日に遂行するよう厳格な制度を確立しなければなりません。

 今、芸術行政活動家が創作の手配をおおざっぱにするので、 創作という口実のもとにのんびりと構えている作家、 芸術家が少なくありません。 創作計画は時間別、 個人別、 グループ別、 部署別に綿密に作成し、 創作団のすべてのメンバーが歯車のようにかみ合わさり、気をひきしめて活動できるようにすべきです。 組織計画化が難しいといって日課を綿密に組まなければ、 創作に熱中する作家、 芸術家の陰で安易にその日、その日を過ごす作家、芸術家があらわれかねません。 文学・芸術部門の党組織は党の要求を正しく認識し、作家、芸術家が心から党と領袖、 祖国と人民のために寸暇を惜しみ、 心身ともに尽くして献身的に働き、創作する革命的な創作気風と生活気風を確立すべきです。 こうして、 すべての作家、芸術家が党と領袖のまわりに一心団結し、 揺るぎない信念と不屈の意志をもって高い創作的情熱を発揮し、 いま一度文学・芸術作品の創作で一大高揚を起こすようにしなければなりません。


(注1)革命歌劇「娘からの手紙」 大衆の意識化が切実な要求として提起されていた1920年代末を時代的背景として創作された演劇。この演劇は、ある農村に住んでいた主人公夫婦が、娘から送られてきた手紙を受け取ったものの、字が読めなくて人々の笑い物になる場面と、さまざまな人物像を通じて、学ばなくては社会的存在としての尊厳を守ることも、自己の運命をみずからの力で切り開くということもできないということを生き生きと示している。


(注2) 革命歌劇「三人一党」 朝鮮の反日民族解放運動と共産主義運動に甚大な弊害を及ぼしたブルジョア民族主義者と分派分子の派閥争いが甚だしかった1920年代を時代的背景としている。この演劇は、架空の国の3人の大臣が国王の死後、われこそは忠臣なりと王位争奪戦にうつつを抜かしているうちに、外国の侵略をうけて国を滅ぼしてしまう過程を芸術的に描いている。演劇は、派閥争いと分裂は亡国の道であり、派閥分子は例外なく事大的な売国奴であったという歴史の教訓によって団結の真理を示している。


(注3) 「城隍堂」式演劇 革命的演劇創造に関する主体的文芸理論と方針が具現された革命演劇「城隍堂」をモデルにして創作された演劇をいう。

 「城隍堂」式演劇は内容において、人民大衆を押し立て人民大衆に奉仕するというチュチェ思想の要求を具現している。革命演劇「城隍堂」は、「神様」や「鬼神」、仏といった神霊的な存在が世界の主人、支配者なのではなく、自主的な思想・意識をもった人民大衆が世界の真の主人であり、唯一の支配者であるというチュチェの真理を明らかにしている。

 「城隍堂」式演劇は形式においても新しい特性を有している。その特性はまず、多場面構成形式を導入したことである。これは、ドラマの進展に伴って人物の性格と生活の論理に即して、一場面の中でも時間と場所をしばしば変化させて画幅を多様かつ幅広く展開し、生活の流れも中断することなくそのまま再現できるようにする。その特性はまた、舞台美術を流れ式立体舞台美術にしたことである。これは、ドラマの進展にそって装置と背景を絶えず変化させ、生活をリアルで生き生きと、幅と深みをもって描き出せるようにする。その特性はまた、音楽をセリフとともに重要な表現手段の一つとしていることである。


(注4) 社会主義農村テーゼ 社会主義社会における農村問題を最終的に解決する方向と方途を示した金日成主席の著作「我が国おける社会主義農村問題に関するテーゼ」をさす。

  1964年2月、朝鮮労働党中央委員会第4期第8回総会で、党の社会主義農村建設綱領として採択された。同テーゼには、社会主義・共産主義建設における農村問題の位置と意義、その本質、社会主義下での農村問題解決の基本原則、社会主義農村建設の基本課題、社会主義農村建設における郡の役割と任務、協同農場の経済的土台を強化し、農村の生活を向上させる当面の諸対策が明示されている。


(注5) 五大革命歌劇 金正日総書記の指導のもとに1970年代の初めに創作された革命歌劇、「血の海」「党の真の娘」「密林よ語れ」「花を売る乙女」「金剛山の歌」をさす。

出典:「金正日選集」9巻

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