金 正 日

チュチェの革命観を確立するために
朝鮮労働党中央委員会の責任幹部との談話
-1987年10月10日-


 私はきょう、我が党の創立42周年に際して、党員と勤労者のあいだでチュチェの革命観を確立することについて改めて強調したいと思います。

 我が党は、創立当初から困難かつ複雑な革命闘争をつうじて絶えず強化発展し、朝鮮革命を勝利の道に導いてきました。我が党が今日のように不抜の威力をもった革命的な党に強化発展することができたのは、何よりも抗日革命闘争の輝かしい伝統を継承してきたからです。抗日革命闘争の時期、真の革命家はチュチェの革命観に徹していたため、偉大な領袖金日成同志の周りに固く団結し、人民大衆と血縁的なつながりをもって、あれほど困難な状況のもとでもいささかの動揺もなく、革命の勝利をめざして断固たたかいとおすことができたのです。

 抗日革命闘士の革命観は、書籍や書斎で得た一片の知識ではなく、革命の道をはじめて切り開いた金日成同志の指導のもとに、凶悪な敵との厳しいたたかいのなかで体得した揺るぎない信念でした。革命観はこのように実践をつうじて体得し信念となってこそ、革命家に固有な品性として体質化されるのです。

 朝鮮革命は遠い道のりを前進し、革命家の地位や環境もかなりかわりましたが、信念化した革命観をもつことは、今日、我々にとって依然として重要な問題として提起されています。朝鮮革命はいまだに終わっておらず、我々の歩むべき革命の道は遠く険しいものがあります。しかし、古くからの革命家はしだいに減り、我々の革命隊伍には困難な革命闘争で鍛えられていない新しい世代が多数合流しつつあります。立ちはだかる難関と試練を克服し、朝鮮革命の最終的勝利を達成するためには、すべての党員と勤労者をチュチェの革命観で武装させなければなりません。

 革命観は一般的な知識としてではなく、信念として体得しなければなりません。思想は人間の要求と利害関係を反映した社会的意識であるため、実践の過程で体得してこそ強固なものとなります。革命観も原理的に認識するだけでなく、実際の生活をつうじて体験してこそ、確固とした意志にかえることができます。

 金日成同志は、人間はその階級的地位と利害関係を認識することからはじまって、搾取階級を憎悪し、自己の階級的利益を擁護する思想・感情をもち、さらには搾取社会をくつがえして勤労人民大衆の新しい社会を建設するためあくまでたたかおうとする固い決意と意志をもって革命の道に身を投ずるようになったとき、はじめて革命的世界観が確立したとみなすことができる、と教えています。これは、革命的世界観の確立過程を歴史上はじめて科学的に解明した卓越した思想です。

 しかし現在、活動家が党員と勤労者に革命観をうち立てるために行っている活動をみると、おしなべて認識段階にとどまっており、実践をつうじて体得させ、信念化させる問題に対しては相応の関心を向けていません。一部の活動家は、学習会や講演会の回数を集計し、文句暗唱のコンテストなどを行えば、革命観を確立する問題が解決されるかのように考えています。問答式学習コンテストにしても、多くの人に論争をさせ、衆知を集めて問題の本質を幅広く深く理解させる方法ではなく、文句を機械的に暗唱させる方法で行っています。党員と勤労者を革命思想で武装させる目的は、文句でも覚えて見識ばるようにするところにあるのではなく、あくまでも高い自覚をもって革命闘争に主人らしく参加させるところにあるのです。いうまでもなく、革命観を確立するためには認識の段階をへなくてはなりませんが、認識はそれ自体に目的があるのではなく、革命的決意と闘志をもって革命に積極的に参加させるための前提となってこそ意味があるのです。我々は革命観の確立を形式的に行おうとせず、革命実践と密接に結びつけて実質的に行い、それが揺るぎない信念と意志になるようにしなければなりません。

 チュチェの革命観は、革命の主人がもつべき主体的な観点と立場です。チュチェの革命観を確立するということは、革命の本質と根本目的、その実現方途を正しく認識し、革命のためにすべてをささげてたたかう決意と意志を信念にかえることを意味します。

 革命は人民大衆の自主性を実現するための事業であり、その主人である人民大衆自身が遂行すべき事業です。革命の目的は人民大衆の自主性を実現するところにあり、革命を遂行する根本的方途は、党と領袖の指導のもとに人民大衆の創造的役割を高めることにあります。つまるところ、革命の勝敗は領袖、党、大衆の統一体である革命の主体をいかに強化し、その役割を高めていくかにかかっています。革命観の確立においては、革命の対象に対する十分な把握も必要ですが、革命の主体に対する正しい観点と立場が極めて重要です。

 革命の主体は領袖、党、大衆の統一体なのですから、革命観を確立するためには、領袖観、組織観、大衆観から正しくうち立てなければなりません。また、革命の主体は運命をともにする社会的政治的生命体なのですから、チュチェの革命観は、革命的信義と同志愛に基づいて生死、苦楽をともにすることを求める革命的道徳観によって裏打ちされなければなりません。領袖、党、大衆が一つの社会的政治的生命として結びついて革命の主体をなすように、領袖観、組織観、大衆観、道徳観は不可分の連関のもとに、一つの全一的な革命観をなしています。それゆえ、チュチェの革命観を確立するためには、革命的な領袖観、組織観、大衆観、道徳観をともに体得しなければなりません。

 チュチェの革命観をうち立てるためには、何よりもまず革命的領袖観をうち立てなければなりません。

 革命的領袖観の確立においては、領袖が社会的政治的集団の生命の中心であることを正しく認識することが大切です。

 領袖の指導的役割の重要さについては、従来の革命理論でもかなり強調されています。領袖が人民大衆の運命開拓において指導の中心として重要な役割を果たすことはいうまでもありません。しかし、領袖をたんなる最高指揮官としてのみ理解してはなりません。指揮の重要さについては、どの社会、どの階級においても公認されていますが、労働者階級のように、社会的政治的集団の生命の中心として自己の領袖をおしだした階級はありません。領袖と戦士の関係をたんに指揮する人と指揮される人の関係としてのみ理解してはなりません。もしも、指揮する人は指揮する権利のみをもち、指揮される人には指揮に服従する義務があるのみだとみなすならば、それは純然たる権利と義務の関係であって、同志愛と革命的信義に基づいた関係とみなすことはできません。個人主義的生命観に基づくブルジョア民主主義は、指揮する人と指揮される人の関係を、こうした権利と義務の関係とみなします。ブルジョア民主主義的見地からは、革命的領袖観を理解することができません。

 領袖は、あくまでも社会的政治的集団の生命の中心であるというところにその本質があります。生命の中心が生命体の生存と活動において重要であることは疑う余地もありません。領袖を中心に一つに結合することなしには、人民大衆は自主的な社会的政治集団としての生命力をもつことができません。我々は、領袖は社会的政治的集団の生命の中心であり、領袖と組織的、思想的に、同志的に結合してのみ、とわに生きる社会的政治的生命をもつことができるということを信念として体得すべきです。

 抗日革命闘士がかつて領袖にあくまで忠実でありえたのは、彼らが領袖の周りに固く団結し、敵との決戦において生死、苦楽をともにする過程で、領袖が朝鮮民族の生命の中心であり、自分の運命が領袖と血縁的につながっているということを深く体験したからです。我々には、今日の歴史的環境のもとで、党員と勤労者に、いかにすれば抗日革命闘士のように領袖と戦士との血縁的なつながりを生活をつうじて深く体験させることができるか、という問題が提起されます。もちろん、かつて革命家が体験したことを文学・芸術作品をとおして間接的に体験することもできます。領袖観を確立するうえで、領袖に限りなく忠実な抗日革命闘士の典型を形象化した文学・芸術作品をたくさん創作して利用する必要があります。領袖観を確立するための活動は文学・芸術作品をとおして行うべきですが、あくまでも今日の革命実践と密接に結びつけて行うほうが効果的です。

 革命闘争の具体的な環境は異なるとしても、領袖の指導のもとに、領袖の思想と意志にしたがって革命闘争を行うという点では、抗日革命闘争の時期であれ、今日であれ異なるところはありません。領袖の指導のもとに、領袖の思想と意志に従って革命闘争を行うことは、とりもなおさず領袖から与えられた社会的政治的生命をもって革命闘争を行うことを意味します。我々が領袖の思想と意志に忠実であるほど、領袖とつながりはいっそう密接になり、よりとうとい社会的政治的生命をもつようになり、個人主義的な生き方をする人には想像できない大きな生きがいを感じることができるのです。領袖の思想と意志どおりに思考し行動し、領袖と生死、苦楽をともににすることに生きがいを求める人であってこそ、革命的領袖観の確立した革命家といえます。我々は常に、領袖を心の柱として固く信頼し、領袖の示す革命課題を忠実に遂行することが最もとうとくはりあいのある生き方であることを体得し、領袖の思想と意図を実現するための革命実践をとおして領袖にあくまで忠実であるべきです。

 チュチェの革命観をうち立てるためには、党に対する正しい観点と立場をもたなければなりません。

 一般的に労働者階級の党というとき、それは領袖を中心に組織的、思想的に結合した労働者階級と勤労者大衆の前衛部隊を意味します。こういう点からすれば、党の指導はすなわち領袖の指導であり、党に対する観点と立場は本質において領袖に対する観点と立場となります。領袖は党の領袖である以上、党と領袖を切り離して考えることはできません。

 しかし、党と領袖を完全に同一視することはできません。領袖は社会的政治的集団の生命の中心であるというところにその本質があるとすれば、党は領袖を中心に人民大衆を一つの社会的政治的生命体として結合させるうえで中枢の機能を果たす組織であるというところにその本質があります。

 党は領袖を中心とする党組織の結合体です。党に対する観点と立場は、領袖に対する観点と立場、党組織に対する観点と立場をともに包括しています。領袖観を革命観の独自の構成部分とみなす以上、党に対する観点と立場はつまるところ党組織に対する観点と立場に帰着します。それゆえに、革命観の構成についていうとき、領袖観と党観とはいわず、領袖観と組織観というのです。組織観は党組織にかぎらず、党の指導のもとに領袖と大衆を結びつけるすべての社会的政治的組織に対する観点と立場を包括しています。党組織は社会的政治的集団において中枢の機能を果たす政治組織であるという点で、他のすべての社会的政治的組織とは区別されます。

 組織を離れては、だれであれ領袖と血縁的に結びつくことができず、不滅の社会的政治的生命をもつことができません。いかに豊富な知識と抜きんでた才能をもった人であっても、領袖と組織的に結びつくことなしには、領袖によって与えられる社会的政治的生命をもつことはできません。組織から離脱することは、とりもなおさず自己の社会的政治的生命を失うことを意味します。そのため、真の革命家は組織を自分の生命より大切にし、尊重し、常に組織に依拠して生活したたかうことをおかしがたい鉄則とするのです。

 これまで組織のとうとさは、主に団結の必要性と結びつけて大いに強調されてきました。もちろん、革命を行うためには組織的に団結しなければならず、団結してこそ強大な力で闘争をくりひろげることができます。こうした意味で、組織の力はすなわち団結の力であり、団結は革命家の力の源泉であり、勝利の裏付けであるといえます。

 組織のとうとさを深く理解するためには、自己の社会的政治的生命と結びつけてみなければなりません。人民大衆は党組織を母体としてこそ、一つの自主的な社会的政治的生命体として結びつき、自己の運命の真の主人となることができます。我々は党組織を自己の生命の母体としてとうとび、尊重しなければなりません。我々が領袖を父なる領袖と呼び、党を母なる党というのも、領袖を中心とする党組織が社会的政治的生命の母体であるからです。

 党員と勤労者のあいだで革命的組織観を確立するためには、組織のとうとさを原理的に認識させるばかりでなく、組織生活をつうじて深く体得させなければなりません。すべての党員と勤労者は、組織を自己の生命より大切にし、常に組織に依拠し、組織の指導と統制のもとに活動し生活することを習性化しなければなりません。

 党生活は、党員の政治的生命の要求を実現していく政治生活です。我々の政治生活は、とりもなおさず国家と社会の主人としての地位を守り、主人としての責任と役割を全うするための組織・思想生活です。党員は党生活をつうじて、革命の主人としての最も有益で張り合いのある生き方をすることができるのです。

 党生活は、党の組織生活と党の思想生活とにわけてみることができます。

 党の組織生活は、党員が党組織に所属して組織の指導と統制のもとに、党から与えられる革命任務を遂行する政治活動です。党組織の主人は党員自身です。党員は、党組織を強化する活動に主人らしく参加すべきであり、その過程をつうじて党性を絶えず鍛え、党組織の一構成員として、常に組織の意思と規律に従って活動する習性を身につけなければなりません。

 党の思想生活は、党員が政治的生命を維持するための精神的な糧を受け入れ、それを自分の血とし肉とする政治生活です。党員は党と領袖の思想で武装してこそ、思想的に党と結合し、党員としての政治的生命を維持することができます。人間は食事をとってこそ肉体的生命を維持することができるように、党員は思想生活をつうじて党と領袖の革命思想を絶えず自分の骨とし肉としてこそ、党と生死をともにすることができます。

 党生活は、必ず革命課題の遂行と密接に結びつけて行わなければなりません。革命課題を立派に遂行する人が党生活に誠実な人であり、党と領袖に忠実な人です。

 今、一部の活動家が党員の党生活を指導するのをみると、主に党員の組織規律の遵守状況や学習状況などの問題に関心を払うだけで、本務である革命課題の遂行状況についてはほとんど関心を向けていません。こういう活動家はあたかも、党員が本務として受け持っている革命課題の遂行については行政・経済幹部が関心を払えばよい実務的な活動であるかのように考えています。そのため、党員の党生活は本務である革命課題を立派に遂行するためのものとなっておらず、甚だしくはその遂行を妨げる結果まで招いています。それで私は久しい前から、党員の党生活を本務である革命課題の遂行と密着させることについて強調しつづけているのです。

 党生活を本務である革命課題の遂行と密接に結びつけるべきであるというと、一部の活動家は、行政・経済活動までも自分で担当すべきであるかのように考え、行政を代行していますが、これも我が党の党生活指導原則に反することです。

 党活動家は党員の党生活を着実に指導して、すべての党員が党組織を大切にし、党から与えられた革命任務を立派に遂行するようにしなければなりません。

 チュチェの革命観をうち立てるためには、人民大衆に対する正しい観点と立場をもたなければなりません。

 金日成同志が教えているように、革命と建設の主人は人民大衆であり、革命と建設をおし進める力も人民大衆にあります。革命的大衆観は、人民大衆を革命の主人とみなし、人民大衆に奉仕し、人民大衆の底知れぬ力を信じ、それに依拠して革命を進める観点と立場です。

 革命的大衆観を確立するためには、人民大衆が革命の主人であるという観点に立たなければなりません。

 いうまでもなく、党は人民大衆を指導する地位にあります。しかしこれは、党が人民大衆の上に立つ存在であることを意味するものではありません。党は人民大衆自身の嚮導的中核力量です。人民大衆からかけ離れた党の存在について考えることはできません。

 党が人民大衆を指導するということは、大衆に自分の主観的意思をおしつけるのではなく、大衆の要求と利益を科学的に洞察し、それに基づいて正しい闘争を目標を示し、大衆をその実現へと導くことを意味します。党は人民大衆の要求と利益に即応して彼らのたたかいを導いていく義務を負っており、この義務を立派に遂行することによって人民大衆に奉仕しなければなりません。人民大衆の利益を抜きにした党の利益などありえず、人民大衆の利益を実現するためにたたかうところに党活動の最高原則があります。

 党は人民大衆の先進部隊であるので、大衆の後についてまわったのでは、大衆に忠実に奉仕することができません。党は、大衆が自己に真の利害を正しく自覚し、その実現のため積極的にたたかうよう助力し、導かなければなりません。党が人民大衆を指導するのは、ほかならぬ大衆の真の利益を実現するために大衆に奉仕することです。

 活動家が、革命の主人は人民大衆であるという観点に立たなければ、大衆をあなどり、大衆に号令をかけ、自分を大衆の上に立つ特殊な存在のように思いこみ、党の権威を乱用し、官僚主義的にふるまうようになります。大衆を軽視すれば、おのずと自分を特殊な存在のように思うようになります。大衆をあなどり、自分を特殊な存在のように思うのは、勤労者大衆を搾取し抑圧していた旧社会の支配階級の思想的遺物です。活動家は、人民大衆が革命の主人であるという観点にしっかりと立ち、人民に奉仕することが最も誇らしく、かいあることであることを深く体得しなければなりません。

 人民大衆が革命の主人であるという観点をしっかりと体得するためには、それを原理的に深く把握するとともに、大衆の力を信じ、大衆の力に依拠して革命を行うことを鉄則とし、常に大衆のなかにはいり、彼らと苦楽をともにすることを日常化しなければなりません。

 大衆を革命の主人とみなし、大衆に奉仕する心がまえをもつばかりでなく、大衆の力を信じ、大衆の力に依拠して革命を行うことを日常化するとき、革命的大衆観が確立したといえます。革命の勝敗は、人民大衆の創造的知恵と力をいかに動員するかにかかっています。個人はいかに聡明で有能であっても、人類が長いあいだ蓄積してきた知恵と力のきわめて限られた部分を体得しているにすぎません。ただ人民大衆のみが、人類が長いあいだ蓄積してきたあらゆる社会的財貨を全面的に体現しており、自然と社会、人間自身を改造して、自己の運命をみずから切り開いていく創造的エネルギーをもっています。それゆえ、人民大衆は社会の前進運動をおし進める革命の唯一の担い手となるのです。革命を行うためには、人民大衆の力に依拠する以外に他の道はありません。大衆の力を信じようとしない人は、自分自身の力を信じない人であり、そのような人は革命家の資格がありません。大衆の力を信じないところから、事大主義と外部勢力への依頼心が生まれ、悲観主義と敗北主義に陥るようになるのです。

 大衆の力がいかに大きいものであっても、それはおのずと発揮されるものではありません。大衆は思想的に目覚め、組織的に団結したときにのみ、その威力を余すところなく発揮することができるのです。意識化、組織化された大衆の力は、個々人の力を算数的に合わせたものとは、比べようもなく質的に区別される巨大なものです。金日成同志によって創始された革命的活動方法の不抜の生命力は、大衆の力を信じ、大衆の創造力を最大限に引きだし、すべての問題を大衆の力に依拠して解決していくところにあります。

 個人の利害関係を刺激する方法だけでは、人々の創意と献身性を高度に発揮させることはできません。集団の利益が個人の利益より大切であることを自覚した人であってこそ、高度の創意と献身性を発揮して、革命のために身を投じてたたかうことができます。

 革命において個人の運命は集団の運命と密接につながっており、集団の利益と個人の利益は統一されています。しかし、革命はあくまでも集団である人民大衆のための事業であって、一個人のための事業ではありません。個人はただ集団の一構成員となってこそ、革命の主人となり、主人としての役割を全うすることができます。革命家は集団の利益のために献身的にたたかうことによってのみ、自分自身の運命を最も立派に開花させていくことができます。

 我が党の大衆路線の優位性は、人民大衆に民主主義的自由と平等を保障するだけでなく、彼らに革命と建設の主人としての地位を占めさせ、主人としての役割を果たさせるところにあります。人民大衆は社会の主人として平等の地位を占めることで満足することなく、革命と建設の主人としての任務と役割を果たさなければなりません。そのためには、党の指導のもとに組織的、思想的に団結し、正しい戦略・戦術に基づいてたたかわなければなりません。大衆路線はかならず党の指導と結びつかなければなりません。大衆は党の指導を抜きにしては、革命と建設の主人としての威力を発揮することができず、党は大衆に依拠せずには、革命と建設に対する指導を実現することができません。党の唯一的指導と大衆路線を結びつけることが、我が党の活動の根本原則となる理由はまさにここにあります。

 活動家は党の大衆路線についてしばしば口にはしていますが、革命的大衆観点が確立しておらず、大衆路線を具現した党の革命的活動方法を体得していないため、官僚主義を完全に克服しておらず、大衆の革命的熱意と創造的積極性を十分に発揮させてはいません。そのため、党政策の貫徹において自信をもてず、甚だしくは、我が党の革命的活動方法とはゆかりのない個人主義的な実用主義的方法に期待をかける傾向まであらわれています。我々は革命的大衆観点を確立し、我が党の革命的活動方法を体得させることに大きな力をそそぐべきです。

 革命的な領袖観、組織観、大衆観が革命的良心に基づいて信念化されるようにするためには、かならず革命的道徳観と結びつかなければなりません。

 道徳は外部からの強要や統制によってではなく、良心によって自発的に守られるべき社会的な行動規範です。革命的道徳観は、革命的良心に基づいた、人々の行動規範に対する観点と立場です。革命的良心は、個人の生命より社会的政治的集団の生命を大切にし、個人の利益より党と人民の利益、革命の利益を大切にする社会的意識です。革命家は革命の利益に合致した行動をしたときは誇りをもつようになり、それに反する行動をしたときは、例え他人には知られなくとも、良心の呵責をうけるものです。

 領袖、党、大衆に忠実であることは、革命の根本的利益からして、革命家にとっておかすことのできない義務となります。これをおかすことは結局、革命を裏切ることになるので、革命的規律の見地からすれば許されがたいことです。しかし、運命をともにする一つの社会的政治的生命体として結ばれている領袖、党、大衆の関係は、同志愛と革命的信義に基づいているがゆえに、領袖、党、大衆に忠実であることは、革命家にとって当然守るべき道徳的義務でもあります。領袖、党、大衆に対する忠実性は、革命的良心に基づく道徳によって裏打ちされなければならず、またそうなってこそ、真に強固で真実なものとなります。

 かつて朝鮮人民が、日本帝国主義の植民地奴隷としてあらゆる蔑みと抑圧をうけ、民族の魂まで失うはめになったとき、金日成同志は不滅のチュチェ思想を創始し、朝鮮人民に民族自主精神をいだかせ、彼らを聖なる革命闘争へと導きました。金日成同志こそは朝鮮民族を再生させた恩人であり、朝鮮人民に最もとうとい社会的政治的生命を与え、最も幸せで誇り高い生をもたらしてくれた慈父であります。金日成同志を忠誠心をもって仰ぎいただくのは、朝鮮に生まれたすべての人の当然の道義です。

 我々は実生活をつうじて、領袖は人民大衆の要求と利益を最も理想的に体現しているため、領袖の思想と意図に即して行動することが、最も良心的で道徳的な行動であることを切実に体験しています。したがって、領袖に対する忠実性は共産主義的道徳の最高表現であるというのです。

 我々は、何らかの強要や義務感からではなく、けがれのない良心をもって領袖を高く仰ぎ、党組織を尊重し、組織規律を自発的に守り、人民大衆を心から愛し、人民大衆のために献身的に奉仕すべきです。

 革命的信義と同志愛に基づく革命的道徳は、たんに領袖、党、大衆に対する忠実性にだけでなく、社会生活のすべての分野に具現されなければなりません。

 元々、道徳は、社会の全構成員が自発的に守るべき普遍的な行動規範として発生しました。しかし、人々の利害関係が階級的に対立するようになって、道徳も階級的性格をおびて互いに対立するようになりました。搾取社会では、階級的利害関係を抜きにしたいかなる普遍的な道徳についても考えることはできません。

 勤労人民大衆が主人となった社会主義社会における道徳は、労働者階級的性格をおびています。しかし、労働者階級は階級そのものを廃絶して無階級社会を実現するためにたたかう階級であるので、労働者階級の利益は全社会の利益と合致します。労働者階級の利益を反映した道徳は、全人民大衆の利益に合致するがゆえに普遍的な意義をもちます。

 労働者階級の道徳である共産主義的道徳は、歴史的に発展してきた道徳のうちから合理的なものをすべて継承し、人間の社会的本性に即して発展させた、最もすぐれた先進的な道徳です。共産主義的道徳は、人間の社会的本性である自主性と創造性を擁護するすべての人が守るべき最も普遍的な道徳です。

 労働者階級の思想を具現している社会主義社会では、人々が国家と社会の主人として平等な地位を占めながらも、運命をともにする一つの社会的政治的生命体として結合されています。人々が革命的信義と同志愛に基づく共産主義的道徳を自発的に守るのは、社会主義制度の本質的要求に即応した当然かつごく自然なことです。

 共産主義的道徳がいまなお社会主義社会に全面的に具現されていないのは、主として旧社会の遺物が残っている事情と関連しています。将来、社会主義の完全な勝利が達成され、共産主義の高い段階へと発展するにつれ、権力による社会生活の規制範囲はしだいにせばまり、共産主義的道徳による社会生活の規制範囲はいっそう拡大されるでしょう。こういう点からすれば、社会主義・共産主義の建設過程は、社会生活において権力の作用がしだいに減少し、道徳の作用が絶えず拡大されていく過程であるといえます。

 労働者階級の党は当然、社会発展の合法則的要求に即して共産主義的道徳を全面的に助長し、共産主義的道徳教育を強化していくべきです。

 しかし現在、共産主義的道徳教育は、発展する現実の要求に即応して正しく行われていません。活動家は、共産主義的道徳教育を革命に対する忠実性と結びつけて少なからず行っていますが、日常生活と結びつけることにはあまり関心を払っていません。共産主義的道徳教育では党と革命に対する忠実性を培うことに中心をおくべきですが、それだけでは社会生活のあらゆる分野に共産主義的道徳を全面的に確立することはできず、党と革命に対する忠実性そのものも、強固な道徳的基礎のうえにうち固めていくことができません。

 共産主義的道徳は、二つの部分に大別することができます。その一つは、集団と個人との関係において守るべき道徳であり、他の一つは、個々の人の関係において守るべき道徳です。

 集団と個人の関係は、領袖、党、大衆と個々の人との関係において表現されます。

 人民大衆が集団であることはいうまでもないことであり、集団の中心としての領袖と集団の中枢としての党も集団を代表しています。社会的財貨も集団に属しているので、国家と社会の共同の財貨と個人との関係も、集団と個人の関係とみなすべきであり、ひいては人間と財貨と領土のすべてを包括している祖国と個人の関係も、やはり集団と個人の関係とみなすべきです。

 集団とそれに属する個人は運命をともにしているので、集団と個人のあいだには同志愛に基づく革命的信義という道徳的原理が作用します。「一人はみんなのために、みんなは一人のために!」という集団主義の原理は、ほかならぬ集団と個人のあいだに作用するこのような共産主義的道徳関係をあらわしています。しかしこれは、集団の利益と個人の利益が全く同じであることを意味するものではありません。集団を離れた個人は生きられないのですから、集団の利益が個人の利益より大切であることは明らかです。集団と個人の関係において、個人は集団の利益を自分一個人の利益より大切にし、集団のために献身的に奉仕することを当然の道義とすべきです。

 社会的政治的集団に属している個々人のあいだにも、同志愛に基づく革命的信義という道徳的原理は作用しますが、集団と個人の関係とは異なり、個人と個人の関係は平等であるため、ある一個人の利益が他の一個人の利益より大切であるという議論はなりたちません。すべての人は集団内で平等な資格をもち、同志的に愛し助けあうことを道徳的義務とすべきです。

 元々同志愛は、相手方を自主的な存在とみなし、その独自性を認めることを前提とします。支配者と被支配者とのあいだに同志愛というものはありません。同志愛は、運命をともにする社会的政治的集団に属している人々のあいだにのみ存在するものです。同志愛は互いに尊重し、献身的に助け合うところに表現されるべきです。もしも自分の利己的な欲望を実現するための手段として他人を愛するなら、それは真の同志愛とみなすことはできません。

 運命をともにする社会的政治的集団内における人間関係は、完全に平等で自主的な関係であると同時に、互いに献身的に助け合う同志愛の関係です。社会的政治的集団の要求と利益を反映する共産主義的道徳は、当然、個々人の自主性を十分に発揮させると同時に、集団の統一と団結の強化に寄与するものとならなければなりません。このような道徳が立派に具現された共産主義社会は、最も正義を尊ぶ社会であり、同志愛で結びついた最も立派なむつまじく団結した社会です。

 共産主義社会の特性にふさわしい共産主義的人間の道徳品性は、大別して二つの側面をもっています。共産主義的道徳品性をそなえた人間は、何よりも最も正義を尊ぶ人間です。正義を尊ぶ人間とは、人間の尊厳と権利を侵害するあらゆる不当な行為を憎悪し、すべての問題に偏見と私心をもたず、公正にのぞむ公明正大で誠実な人間をさします。共産主義的道徳品性をそなえた人間はまた、人をいたわり愛し、人に心から奉仕する、最も人民的で献身的な人間です。

 金日成同志は、世の中で最もとうといものは人間であるため、人間を尊重し愛することは共産主義的革命家の最も重要な道徳品性であると教えています。

 しかし一部の活動家のあいだでは、いまだに共産主義的道徳品性をそなえていないため、人を心からいたわり愛することができないだけでなく、他人の人格を無視して自主的な権利を侵害する行為がなくなっていません。職権を乱用して人を抑圧しようとする傾向があるかと思えば、不当な方法で他人の利益を犠牲にして自分の利己的目的を実現しようとする傾向もあります。こうしたことはすべて旧社会の遺物であり、我々の社会では容認できないことです。にもかかわらず、一部の活動家はこうしたことが革命の根本的利益にはさほど抵触しないかのように考え、それを軽視しています。人間の人格を無視し、人間を愛することができない人間は、人民大衆の革命偉業に忠実たりえません。同志をあざむく人間は党と領袖をもあざむき、自分のために他人を犠牲にする人間は、革命の利益もかえりみません。

 各人が守るべき共産主義的道徳は、同志間の関係や家庭生活、社会共同生活のいずれにも具現されなければなりません。

 同志との関係においては、革命的信義を固く守ることが大切です。

 金日成同志は、千金を積んでも買えないのが革命同志であり、革命は同志を得ることからはじめるべきであると教えています。

 革命同志は一つの共通する社会的政治的生命をもち、革命偉業のために生死、苦楽をともにするとうとい戦友であり、親しい兄弟であります。革命家はまことの同志を得たとき、それを最大の喜びとし、そういう同志を失ったとき、最も悲しむものです。同志をいたわり、愛するのは、革命家にとって初歩的な道徳品性であるといえます。同志を心からいたわり愛し、誠実な態度で接することのできない人は、党と革命にも忠実でありえません。日常生活において同志間の革命的信義にあついか否かを把握することは、党と革命に対する忠実性を正しく診断し評価する最初の工程となります。

 同志愛はあつく真実なものでありながらも、原則的なものでなければなりません。同志を愛するからといって、同志の欠点を見ても見ぬふりをし、それを是正させるために努力しない人は、真の同志愛がなく、同志に対する信義を守らない人です。原則を守るからといって、同志に冷たく接し、欠点ばかり探そうとする人も正しくありません。我々は、党と領袖への忠実性を尺度にして原則的な態度で人に接しながらも、同志を信頼し、心から愛し、喜びと悲しみをともにわかちあうあつい同志愛をもたなければなりません。

 上下の関係においても、同志愛と革命的信義が具現されなければなりません。我々の社会において上部と下部の関係は、決して支配者と被支配者の関係ではなく、等しく革命任務を遂行する同志の関係です。下部の人は上部の人をより重要な革命任務を遂行する大切な同志として尊敬し、助け、上部の人は強い責任感をもって下部の人をあたたかく見守り、導かなければなりません。

 我々の社会において、家庭は基礎生活単位です。家庭生活が健全で幸福であってこそ、社会生活全般が明朗で活気をおびるようになります。

 家族関係は血縁関係に基づいているという点で、他の社会的関係と区別される特性をもっています。しかし、家族関係も社会的関係である以上、家族のあいだには当該社会に共通の道徳的原理が作用します。我々は、家庭生活の過程で結ばれる夫婦間、親子間、兄弟姉妹間の肉親の情を尊重し、それが真の同志愛となるようにすべきです。

 一部の人は、あたかも共産主義的革命家は家庭もかえりみず、ただ革命一点ばりの人情味のない人間であるかのように考えていますが、それは間違いです。自分を生み育ててくれた父母を愛し尊敬するのは、人間の初歩的な道義です。いちばん身近な骨肉である父母、妻子を愛することのできない人は、祖国と人民を愛することができません。

 だからといって、家族のあいだの肉親を情を絶対化してはなりません。肉体的生命より社会的政治的生命のほうが大切であり、血縁関係より同志的関係のほうが重要である以上、家族のあいだの肉親の情はあくまで同志愛に服従しなければなりません。革命家は自分の家族を熱烈に愛するとともに、彼らがみな革命活動に忠実であるよう、同志的に大いに援助しなければなりません。

 男女間の愛で道徳を守ることは、家庭生活と社会生活を健全なものにするうえで重要な意義をもちます。男女間の関係は真実の愛情に基づいて結ばれるべきであり、互いに人格を尊重し、信頼し、心から援助する同志的関係とならなければなりません。

 社会共同生活においては共産主義的道徳を自発的に守らなければなりません。

 社会共同生活で重要なのは労働生活です。労働にまじめに参加するのは、社会的人間の神聖な道徳的義務です。社会的労働にまじめに参加しない人は、社会の主人としての資格がなく、また創造的人間としての張り合いのある生き方をすることができません。すべての勤労者は労働を愛し、かげひなたなく、社会に対し自分の労働の結果に責任をとる立場に立って、労働にまじめに参加しなければなりません。

 社会の全構成員は、労働にまじめに参加するだけでなく、労働の創造物を愛護しなければなりません。労働によってつくりだされた財貨を愛護するのは、社会的集団への忠実さであらわれであるばかりでなく、労働と、労働にたずさわる人に対する正しい態度となります。

 我々はまた、すべての人が礼儀を守り、年寄りと子ども、子持ちの女性と身体障害者をいたわる社会的気風を確立することに注意を払わなければなりません。

 チュチェの革命観を揺るぎない信念とするには、それが人生観化されなければなりません。

 人生観は個人主義的人生観と集団主義的人生観に大別されます。個人主義的人生観が個人の安逸と享楽を最高の目的とする人生観であるなら、集団主義的人生観は、自己の運命を集団の運命と結びつけ、集団のためのたたかいに真の生きがいと幸福を求める人生観です。個人主義的人生観によれば、個人の生命より大切なものはなく、人生は個人の一生で終わることになります。しかし集団主義的人生観では、個人の生命より集団の生命のほうが大切であり、人生は個人の一生で終わるのでなく、集団とともに永遠に生きつづけるものとみています。

 我々が革命を行うのは、自分自身と自分の世代ばかりでなく、次代のためであり、ひいては人類の未来のためであります。もし、人間がたんに自分自身の安楽のために生きて一生を終えるならば、残るものはなにもなく、そのような一生はなんのかいもない無意味なものとしかいえません。人生が生きがいのあるものとなるには、永遠に生きつづける集団のために寄与するところがあり、残るものがなくてはなりません。かつて抗日革命闘士が草根木皮で飢えをしのぎ、石を枕に野宿しながら屈することなくたたかったのは、安らかな生活のよさを知らなかったのではなく、一瞬を生きても、祖国と人民のためにたたかうのが誇らしく張り合いのある生き方であることを自覚していたからです。

 前世代のない我々の世代を考えることはできず、我々の世代なくしては次代もありえません。我々は自分自身と自分の世代ばかりでなく、次代のためにすばらしい未来をもたらすべき神聖な義務をになっています。

 人類の運命は一つに結びついています。我々は自国の人民ばかりでなく、人類共同の繁栄のためにたたかわなければなりません。我々は個人利己主義を排撃するように、民族利己主義にも反対しなけれはなりません。革命家は当然、革命の民族的任務と国際的任務にともに忠実でなければなりません。

 今日、朝鮮人民は、国土が分断され、世界反動の元凶であるアメリカ帝国主義と直接対峙した状況のもとで、社会主義建設と祖国統一のためにたたかっており、平和と社会主義の東方のとりでを守ってたたかっています。我々のたたかいは朝鮮民族のためのたたかいであると同時に、人類共同の安全と繁栄のための聖なるたたかいであります。我々のたたかいは困難なたたかいであっても、それだけ誇らしく張り合いのあるたたかいです。歴史は、自国人民と人類の未来のために献身的にたたかった人々の業績は永久不滅であり、彼らの偉勲は歳月の流れとともにさらに光り輝くことを示しています。自国の人民と人類のために忠実に生きることは、とりもなおさず自分自身のために最も忠実に生きる道です。

 我々は領袖、党、大衆に忠実であることが最も立派な生き方であるということを揺るぎない信念とすることによって、革命観が人生観化されるようにすべきです。

 革命観を確立することは、革命の主体を強化し、チュチェの革命偉業を代をついで最後まで完成するための極めて重要な活動です。

 我々は革命観を確立する活動を着実に行って、党員と勤労者をチュチェの革命観の確立した真の共産主義的革命家にしっかりと育てあげなければなりません。

出典:「金正日選集」 9巻
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