金 正 日

チュチェ思想教育における若干の問題について
朝鮮労働党中央委員会の責任幹部との談話
−1986年7月15日−


 こんにち、党員と勤労者をチュチェ思想で武装させることは、我が党にとって死活的な意義をもつ重要な問題です。私は、チュチェ思想教育と関連して提起されるいくつかの問題について述べようと思います。




 チュチェ思想教育は、我が党の唯一思想教育です。チュチェ思想教育は、我が党の指導思想であるチュチェ思想で党員と勤労者を武装させ、かれらを真のチュチェ型の共産主義的革命家に育てるための思想教育活動です。朝鮮の共産主義的革命家はチュチェ思想を確固たる信念とし、チュチェ偉業の完成をめざして献身的にたたかう真の革命家です。チュチェ思想教育を強化してこそ、党員と勤労者はチュチェ型の共産主義的革命家としての思想的・精神的品格と資質をそなえ、人民大衆の自主性を実現する聖なる偉業に身をささげてたたかうことができます。

 チュチェ思想は、朝鮮革命の偉業を勝利に導く党の確固不動の指導思想です。チュチェ思想にもとづいてのみ、人民大衆の自主性を実現する我が党の革命偉業を最後まで完成させていくことができます。

 革命は人民大衆の自主性を実現するための事業です。思想の革命性は、それが人間の自主性をいかに断固として擁護し、それを実現する道をいかに科学的に示すかによって決まります。チュチェ思想は、社会的人間の生命である自主性を擁護し実現することを革命の究極の目的とし、それを完全に実現するまで、革命を最後までつづけることを要求する徹底した革命思想です。チュチェ思想は、自主的に生き発展しようとする人間の社会的本性に即して、自然と社会と人間そのものを徹底的に改造して、人びとを世界と自己の運命の完全な主人にし、人類の永遠の幸せと繁栄の道を示す、最も完璧な革命学説です。

 チュチェ思想が人間解放の道を最も科学的に解明する革命学説となるのは、なによりもそれが人間中心の世界観にもとづいているからです。金日成同志は、歴史上はじめて、人間を世界の主人の地位にすえて、世界の本質とその変化発展の合法則性を明らかにする、人間中心の哲学的世界観を確立しました。

 チュチェ思想は人間中心の世界観であるというと、一部の人は、それがあたかも客観的世界を無視し、人間の主観的欲求や念願を一方的におしたてているかのように考えていますが、それは大きな誤りです。我々は人間を中心にして世界を考察すべきだといっているのであって、人間のみを考察せよといったことは一度もありません。

 ではなぜ、人間を中心にして世界を考察しなければならないのでしょうか。それは、人間が最も発達した物質的存在として、世界において主人の地位をしめ、世界の発展と人間の運命開拓で決定的な役割を果たすからです。

 人間も、自然の長い進化発展の過程で発生した、生命をもつ物質的存在であるという点では、ほかの生命物質と共通の基礎をもっていますが、その発展水準においては質的な差があります。したがって、世界における人間の地位と役割も、ほかの物質的存在とは根本的に異なっています。

 物質世界において主人の地位をしめるのは自然ではなく、人間です。物質世界において、人間は唯一の自主的な存在です。動物は自然に順応する方法でのみ生存できるので、自己の運命の主人とはいえません。動物は自然の変化発展の法則によってその運命が決定される自然の一部分ですが、人間は自然の変化発展の法則を科学的に認識し、それにもとづいて自然を自己の要求に即して改造し、それを自分に奉仕するようにしていく、世界の有力な主人です。人間は自然の変化発展の法則に服従して、自然と運命をともにする存在なのではなく、人間社会に固有の社会的運動法則に従って、自己の運命を自主的に、創造的に開拓していく社会的存在なのです。自然を改造する人間の創造的役割が大きくなるほど、世界の主人としての人間の地位はさらに高まり、人間の外にある物質世界はいっそう人間に奉仕する世界に変えられていくのです。

 人間は世界を自己の要求に即して目的意識的に改造していく唯一の創造的存在であるため、世界において主人の地位をしめるばかりでなく、世界を改造し発展させるうえでも決定的な役割を果たします。

 人間が世界において主人の地位をしめ、世界の発展において決定的役割を果たすというのは、人間が生きているこんにちの世界にたいする主体的な見解です。世界がどの程度に発展しており、今後どの方向にどう発展していくかということは、世界における人間の主人としての地位と、世界を改造する人間の創造的役割をぬきにしては理解できません。

 人間の運命は世界との関係において決定されるのであるから、人間が世界において主人の地位せしめ、世界の発展において決定的役割を果たすということは、とりもなおさず人間が自己の運命の主人として、自己の運命を開拓するうえで決定的役割を果たすということを意味します。したがって、世界における人間の地位と役割を解明するチュチェの哲学的原理は、人間の運命開拓の道を解明する原理となります。

 哲学的世界観の根本的使命は、人間の運命開拓の道を解明することにあります。人間のあらゆる認識活動と実践活動の究極の目的は、人間の運命を開拓することにあります。哲学の目的と使命も、この例外とはなりえません。人間が世界の本質はなんであるかを知ろうとするのも、それ自体に目的があるのではなく、つまるところ人間の運命開拓の道を知ろうとするところにあります。つまり、人間は世界の実体を知ることなしには、人間自身の運命についても知ることができないため、世界の実体を認識することに切実な利害関係をもつのです。したがって、世界観の進歩性と生命力は結局、それが人間の運命開拓の道をどれほど正確に解明するかによって決定されるといえます。チュチェの哲学的世界観の根本的特徴と比類なき優位性も、まさにそれが世界における人間の地位と役割を明らかにする哲学的原理にもとづいて、人間の運命開拓の根本的方途を最も科学的に解明しているところにあります。

 世界における人間の地位と役割を解明するためには、物質世界の一般的特徴とあわせて、人間の本質的特性がなんであるかを知らなければなりません。この2つのうちの1つを知るだけでは、物質世界における人間の地位と役割を解明することはできません。

 従来の哲学的世界観では、世界が物質でなりたっているという唯物論の原理と、世界がたえず変化発展するという弁証法の原理が解明されています。こうした哲学的原理のみでは、物質世界の一般的特徴は解明できても、世界における人間の地位と役割は解明できません。

 もともと世界観の基本的使命は世界における人間の地位と役割を解明することにある以上、唯物論と弁証法が世界観としての使命をまっとうするためには、世界が物質でなりたち、たえず変化発展するということを解明することにとどまらず、世界で最も発達した物質である人間が、主人の地位をしめ、世界の発展において決定的役割を果たすということまで解明しなくてはならないはずです。もちろん、唯物弁証法の一般的原理だけでは、人間の本質的特性と世界における人間の地位と役割にかんする問題を十分に解明することはできませんが、しかし、唯物弁証法の原理から離脱しては、この問題を正しく解明することはできません。

 ところがいま、一部の人は、チュチェ哲学は人間中心の哲学であるから、唯物弁証法の一般的原理とはなんのかかわりもないかのように考えています。チュチェ哲学は、人間を物質世界から分離して孤立的に考察するのではなく、それより未発達の物質的存在との関係で考察することにより、人間の本質的特性はなんであり、人間の地位と役割はいかなるものであるかを解明しています。最も発達した物質的存在である人間が、それより未発達の物質的存在にたいし、主人の地位をしめ、世界の発展において、最も高等な物質の運動である人間の運動が、下等な物質の運動にくらべ、より大きな役割を果たすというのが、唯物論と弁証法の基本的原理に合致するということは明白です。チュチェ哲学は唯物論と弁証法の原理をすてたのではなく、それを前提にして物質世界における人間の特出した地位と役割を科学的に解明することにより、唯物弁証法をもさらに完成させたということができます。

 世界における人間の地位と役割は、物質世界の一般的特徴と人間の本質的特性にたいする哲学的解明にもとづいてのみ明らかにすることができるのであるから、人間中心の哲学的世界観は、物質世界の一般的特徴を解明する原理と、人間の本質的特性を解明する原理、そして世界における人間の地位と役割を解明する原理のいずれをも包括していることになります。こういう点で、チュチェの世界観は従来の哲学的世界観にあった一面性を克服し、世界の本質と人間の運命の問題に最も深奥かつ包括的な解明を与えた哲学的世界観であるといえます。

 チュチェ思想は、人間が世界において主人の地位をしめ、世界の発展と人間の運命開拓において決定的役割を果たすという哲学的原理から出発し、常に人間を中心にすえ、すべてのことに自主的に対応し、人間の地位と役割の向上に寄与するよう、創造的に活動することを要求します。自主的立場と創造的立場が、すべての認識と実践活動で堅持すべき根本的立場、根本的方法となる根拠はここにあります。

 社会の本質とその変化発展の合法則性も、人間を中心にすえてこそ、正しく把握することができます。社会は人びとと、かれらがつくりだした社会的財貨と、それを結びつける社会的関係からなっています。ここで主人となるのはあくまでも人間です。社会的財貨と社会的関係は、いずれも人間がつくりだすものです。それゆえ、人間の自主的な思想・意識と創造的能力の発展にふさわしく、社会的財貨がつくりだされ、社会的関係が改善されていきます。

 社会的運動は人間が起こし、人間がおし進める人間の運動です。社会的運動を起こす原因も人間にあり、この運動をおし進める力も人間にあります。人間は自己の自主性と創造性、意識性の発展水準にふさわしく自然と社会を改造する創造的運動をくりひろげ、自己の運命を開拓する社会的運動をおし進めていきます。いうまでもなく、人間は客観的条件を無視して歴史を創造することは不可能ですが、客観的条件は固定不変のものではなく、人間の創造的活動によって、人間に有利に変えることができるものです。歴史発展において決定的役割を果たすのは客観的条件ではなくて人間です。

 金日成同志は日ごろから、事の成否の原因は主体に求め、なすべきことは客観に求めよ、と我々に教えています。革命と建設が成功裏に進められるか否かを決める基本的原因は、その主人である人間にあるのであって、客観的条件にあるのではありません。しかし、革命と建設は、人間が客観的対象を自己の要求に即して改造する創造的活動であるため、客観的対象の特性と運動法則を科学的に見きわめたうえで立てられた、正しい方法によってのみ、成功裏に進められます。革命と建設において人民大衆の創造的役割を高めるためには、大衆の革命的熱意と創造的積極性を十分に発揮させると同時に、それを必ず客観的対象と条件にかなった正しい戦略戦術と結びつけることが重要です。

 チュチェ思想は、世界における人間の地位と役割を解明する哲学的原理にもとづき、自然と社会と人間にたいする正しい見解と観点を与えるだけでなく、最も完成された革命理論と戦略戦術、指導理論と指導方法を教えています。それゆえに、チュチェ思想は我が党のすべての活動の唯一の指導指針となるのです。我が党内にはチュチェ思想以外のほかの思想はありえず、また、その必要もありません。それで、チュチェ思想を我が党の唯一思想というのです。

 ところが、いまなお一部の人は、チュチェ思想が我が党の唯一思想であることを正しく認識していません。そのため、一部の人は我が党のチュチェ思想とマルクス・レーニン主義を対置させており、また、階級的教育や革命伝統教育はチュチェ思想教育と別個のものであるかのように理解しています。

 既に何度も強調しているように、チュチェ思想はマルクス・レーニン主義の革命的原則をすべて継承しています。マルクス・レーニン主義は、勤労人民大衆が苦難にみちた革命闘争の過程でかちとった貴い革命的財貨です。人間の自主性を完全に実現し、革命を最後までなし遂げることを要求するチュチェ思想が、マルクス・レーニン主義の革命的原則をすてるはずはありません。チュチェ思想はマルクス・レーニン主義の思想的・理論的財貨をすてるのではなく、歴史発展の要求に即して、さらに発展させ、豊富にしているのです。

 元来、事物の発展は、継承と革新の両側面をもっています。継承と革新のうちどちらかの一面だけを見るのは形而上学的な観点です。革命思想が発展する場合も、継承と革新の両側面をもつようになります。

 革命思想の基本的使命は、革命運動の追求する目的がなんであり、それを実現する方途がなんであるかを解明することにあります。労働者階級の革命思想であるマルクス・レーニン主義は、人間による人間の搾取と抑圧がなく、すべての人がひとしく豊かに暮らす共産主義社会を建設することを革命闘争の最終的目的としており、それを実現するためには、社会発展の客観的法則にもとづいた正しい戦略戦術に依拠してたたかわなければならないことを教えています。革命思想の使命の見地からみるとき、チュチェ思想とマルクス・レーニン主義は、ともに科学的共産主義思想としての共通性をもっています。チュチェ思想は、マルクス・レーニン主義全般を貫いている労働者階級の革命的立場と、唯物論的かつ弁証法的な原理と科学的理論を継承しています。

 しかし、こんにちにいたっては、マルクス・レーニン主義の創始者たちが活動していた時期にくらべ、革命の主体である人民大衆の自主性と創造性、意識性が著しく高まっており、社会発展におけるかれらの地位と役割も大きく変わっています。そのため、新たな歴史的環境に即して、革命命の理論と方法を創造的に発展させることが重要な問題として提起されます。

 金日成同志は、こんにちの新たな歴史的環境のもとで、共産主義はソビエト政権に電化をプラスしたものであるとしたレーニンの命題を、共産主義は人民政権に三大革命をプラスしたものであるという命題として理解すべきであると教えています。レーニンが電化について指摘したのは、共産主義を建設するためには、高い水準の物質的・技術的土台が必要であることを強調したものと理解することができます。金日成同志は、共産主義社会を建設するためには、物質的要塞とともに必ず思想的要塞を占領しなければならず、思想的要塞の占領を先行させなければならないと教えています。

 共産主義の物質的要塞を占領することが、自然を共産主義的要求に即して改造することであるなら、思想的要塞を占領することは、この社会の主人である人間を共産主義的要求に即して改造することです。社会主義と共産主義を建設するのも人間であり、また、人間のための事業です。共産主義社会を建設するためには、まず社会の主人である人間から共産主義的に改造しなければなりません。共産主義の物質的要塞を占領するためには技術革命を力強くくりひろげなければなりませんが、思想的要塞を占領するためには思想革命と文化革命をおし進めなければなりません。

 社会主義・共産主義の建設過程は、社会の物質的・技術的土台が強固になり、人びとの思想・文化水準が高まるにつれて、人間の自主性と創造性がより立派に実現されるよう、社会関係がたえず改善されていく過程です。社会における人民大衆の主人としての地位と役割を保障するうえで決定的な作用をするのは、社会生活を統一的に管理運営する人民政権です。人民政権の機能と役割を高めてこそ、社会的関係を合理的に改善し、社会における人民大衆の地位と役割をたえず高めることができ、社会主義・共産主義建設を成功裏に保障することができます。

 搾取階級が一掃され、政権が人民大衆に掌握されている社会主義社会では、共産主義の物質的要塞と思想的要塞が占領されていくにつれ、それにふさわしく社会的関係を共産主義的に改造していく問題は人民政権によって十分スムーズに解決されることができます。

 金日成同志は、社会主義制度が樹立されたのち、人民政権を強化するとともに、思想、技術、文化の三大革命を力強くくりひろげることを、社会主義・共産主義建設の総路線と規定しました。これは、我々に、新たな歴史的環境に即して労働者階級の革命理論をいかに創造的に発展させていくべきかを示した、生きた模範です。

 チュチェ思想は思想分野において偏狭な排外主義を断固排撃します。チュチェ思想は、世界における人間の地位と役割を高めることに少しでも貢献する思想であるなら、どの民族、どの人民が創造したかに関係なく、その価値を公明正大に評価し、それをみずからの思想体系内に包摂しています。

 我が党にはチュチェの思想体系以外にほかの思想体系は必要なく、チュチェ思想教育とゆかりのない、ほかのいかなる思想教育もありえません。それにもかかわらず、一部の宣伝部門の活動家は、チュチェ思想教育を何パーセント、階級的教育と革命伝統教育を何パーセントというふうに、党の思想教育活動計画を立てていますが、これをみると、まだかれらは、チュチェ思想教育以外にほかの思想教育があるかのように考えているようです。

 もちろん、階級的教育、党政策教育、革命伝統教育、社会主義的愛国主義教育などの各種形態の思想教育の内容はチュチェ思想の原理教育の内容と全く同じものではありませんが、それはすべて、人びとを我が党の唯一思想であるチュチェ思想で武装させる思想教育の一環です。チュチェ思想教育の究極の目的は、一言でいって、革命の主体である人民大衆を自主的な革命思想で武装させ、革命隊伍の思想、意志の統一を保障し、人民大衆に革命と建設で主人の地位を守らせ、主人の役割をまっとうさせるところにあります。我が党のすべての思想教育活動は、革命隊伍を組織的、思想的に強化し、人民大衆の自主的で創造的な役割を高めることに寄与すべきです。

 そのためには、忠実性教育をはじめ、あらゆる形態の思想教育活動をチュチェ思想の基本原理と結びつけておこなわなければなりません。我々は当然、階級意識の問題、社会主義的愛国主義の問題もすべて、チュチェ思想の基本原理にもとづいて説くべきです。そうしてこそ、すべての思想教育活動を我が党のチュチェ思想で一貫させ、革命の主体を強化し、その役割を高めるというチュチェ思想の根本的要求に即しておこなうことができます。こういう理由で私は、我が党がおこなっているあらゆる形態の思想教育をチュチェ思想教育であるというのです。これは、我が党の思想、理論、方法がチュチェ思想の基本原理で一貫しているため、我が党の革命思想をチュチェ思想と呼ぶのと同じ理屈です。

 一部の宣伝部門の活動家は、チュチェ思想教育といえば、チュチェ思想の原理教育のみを念頭においているようですが、もちろん、ほかの形態の思想教育と区別するため、そのような狭い意味で使うこともできるでしょう。しかし、チュチェ思想は我が党の唯一思想である以上、チュチェ思想教育というときには、そこに我が党のあらゆる形態の思想教育を包括すべきです。

 階級的教育は、革命の主体を強化するためのチュチェ思想教育の重要な形態です。労働者階級は、革命の主体において中核的力量をなしています。労働者階級の指導をぬきにしては、人民大衆は革命の主体として一つに団結することができず、人民大衆の自主性を実現するための革命を最後までつづけることもできません。社会主義・共産主義建設の過程は、労働者階級の要求どおりに自然と社会と人間を改造して、全社会を労働者階級化する過程であり、この過程には深刻な階級闘争がともないます。党員と勤労者のあいだで階級的教育を強めてこそ、彼我を正しく識別し、革命と建設で労働者階級の革命的立場を守りとおすことができます。特に我々は、南朝鮮を占領しているアメリカ帝国主義者とその手先をはじめ、階級の敵と直接対峙して革命を進めている状況のもとで、階級的教育に大きな力をそそぐ必要があります。

 現在、我が党が重視している社会主義的愛国主義教育も、革命の主体を強化することに寄与すべきです。革命が国家と民族を単位にしておこなわれている状況のもとで、個々の国の革命と建設における主体はあくまでもその国の人民です。世界革命にたいして担っている我が党と人民の第一の任務は、革命の民族的任務である朝鮮革命を立派におこなうことです。自国の革命に忠実であるためには、なによりも自分の民族を愛し、貴ばなくてはなりません。私はこういう意味で我が民族第一主義を主張するものです。我が民族が第一だというのは、他民族を軽視し、自民族の優位性のみを強調せよということではけっしてありません。我々、共産主義者が民族主義者になるわけにはいきません。共産主義者は真の愛国主義者であると同時に、真の国際主義者です。私が我が民族第一主義を主張するのは、自民族を最も貴ぶ精神と、高い民族的自負をもって、革命と建設を自主的におこなうべきであるということです。自民族を軽視し、他民族を盲目的に崇拝する人間は、自国の党と人民に忠実でありえず、自国の革命にたいして主人としての態度をとることができません。

 大国や先進諸国にたいしても、幻想をいだくべきではありません。幻想は現実ではありません。我々は常に、自国の具体的な現実から出発すべきです。大国や先進国だからといって、いつも正しい道を歩むものではなく、またそれらの国の経験だからといって、それがすべて我が国の実情に会うものでもありません。我々は大国の果たす役割を相応に評価し、それらの国との友好関係を発展させるべきですが、だからといって、自主性を投げすてて大国に盲従してはなりません。友好も自主性のために必要なのであり、また自主的な立場に立ってのみ、真の友好を保つことができるのです。

 民族の偉大さは、けっして領土の広さや人口によって決まるものではありません。人間の価値が思想によって決まるのと同じように、民族の偉大さも、なによりもその民族の指導思想がどれほど偉大であるかによって決まります。

 金日成同志はチュチェ思想を創始し、チュチェ型の革命的党を建設して、隆盛繁栄する朝鮮人民の新しい歴史をつくり、人類が自主の道へ進む正しい道を示しました。まさにそのために世界の進歩的人民は、金日成同志を人類の偉大な教師としてかぎりなく尊敬し、我が国を「チュチェ思想の祖国」として高く称賛しています。我々は、これにたいし当然の民族的自負をいだくべきであり、金日成同志を高くあおぎ、党の指導に従い、革命と建設を人民の要求と我が国の実情に即して、我々の方式でおこなうべきであるという確固とした決意をもたなければなりません。

 革命伝統教育もチュチェ思想の基本原理にもとづいておこなうべきです。革命の主体は長い歴史的過程をつうじて強化発展します。このような点から、革命の主体は自己の歴史的根元をもっているといえます。革命伝統は、革命の主体がその歴史的根元から育ち、強化発展する過程でかちとった貴い革命的財貨です。このような革命的財貨を守り、継承発展させることなしには、革命の主体を強化する事業で一貫性と継承性を保つことができません。

 金日成同志を中心に革命隊伍の絶対的で無条件的な統一団結をなし遂げた我が党の革命伝統は、朝鮮人民の大きな誇りです。革命戦士にたいする領袖のあつい愛情と配慮、領袖に自己の運命のすべてを託し、領袖の指導に忠実に従った抗日革命烈士の模範は、こんにちすべての人の心をとらえています。

 朝鮮革命の前途には多くの難関が横たわっています。金日成同志によって切り開かれたチュチェの革命偉業を代をついで最後まで完遂するためには、朝鮮革命の黎明期に金日成同志を団結の中心、指導の中心とし、その思想と路線を貫徹するため命を賭してたたかった、青年共産主義者の気高い革命精神を見習わなければなりません。そうしてこそ、革命烈士が血をもってかちとった領袖、党、大衆の血縁的な統一の輝かしい伝統をけがれなく守り、深くしっかりとした根から育った我が党を、永久に革命をおこなう党、たたかいをやめることのない党に強化発展させることができます。

 我が党の路線と政策は、チュチェ思想を具現するための朝鮮革命の戦略戦術です。党員と勤労者のあいだで党政策教育を強化してこそ、革命闘争と建設事業をチュチェ思想の要求どおりに進めることができます。革命の主体を強化する目的も結局は、人民大衆が党と領袖の指導のもとに党の路線と政策を貫徹するようにさせるところにあります。党の政策を実行する過程は、すなわち革命闘争の過程です。我々は党政策教育をより実質的におこない、すべての党員と勤労者に、我が党の路線と政策の正しさと生命力を深く体得させ、それを貫徹するため高度の革命的熱意と創造的積極性を発揮するようにさせるべきです。

 宣伝部門の活動家は、我が党がおこなっているあらゆる形態の思想教育がチュチェ思想教育であることを肝に銘じ、それをチュチェ思想の原理と密接に結びつけてより高い水準でおこない、党員と勤労者にチュチェ思想の真髄を深く体得させ、革命と建設で主人としての態度を堅持させるべきです。




 チュチェ思想教育で最も重要なのは、党員と勤労者に革命の主体にたいする正しい認識をもたせ、革命的領袖観を確立させることです。

 党員と勤労者が革命偉業に忠実であるためには、なによりも革命の主体にたいする正しい観点をうち立てることが重要です。

 人民大衆は歴史の主体でありますが、常に自己の運命を自主的に、創造的に切り開いていく歴史の自主的な主体となるのではありません。搾取社会において、人民大衆は少数の支配階級に搾取され抑圧され、歴史の主人としての地位をしめることができませんでした。もちろん、搾取社会においても歴史を発展させたのは人民大衆です。しかし、かれらは自己の意思によってではなく、多くの場合、支配階級の意思に従って歴史を創造する重い負担を担わなければなりませんでした。このような境遇にある人民大衆は、まだ歴史の自主的な主体になったとはいえません。

 歴史の自主的な主体は、先進的な労働者階級が出現し、かれらの自主的な革命思想によって勤労人民大衆が意識化され、組織化されてはじめて、歴史の舞台に広く登場することができました。これは、人類の歴史発展において画期的な転換となります。このときから、勤労人民大衆は自主的な革命思想をもって、自己の運命を自力で切り開いていくようになりました。

 人民大衆が革命の自主的な主体になるためには、党と領袖の指導のもとに一つの思想、一つの組織に結束されなければなりません。組織的、思想的に統一団結した人民大衆であってこそ、自己の運命を自主的に、創造的に切り開いていくことができます。革命の主体は領袖、党、大衆の統一体です。

 人民大衆は、党の指導のもと領袖を中心に組織的、思想的に結束することにより、不滅の自主的な生命力をもつ一つの社会的政治的生命体をなします。個々の人間の肉体的生命にはかぎりがありますが、自主的な社会的政治的生命体に結束した人民大衆の生命は不滅です。

 金日成同志は、史上はじめて、個人の肉体的生命と区別される社会的政治的生命があることを明らかにしました。不滅の社会的政治的生命は、領袖、党、大衆の統一体である社会的政治的集団を離れては考えられません。個々の人間は、このような社会的政治的集団の一構成員となるときにのみ、不滅の社会的政治的生命をもつことができます。

 社会的政治的生命体は多くの人でなりたっているため、そこには社会的集団の生命活動を統一的に指揮する中心がなければなりません。個々人の生命の中心が頭脳であるのと同じように、社会的政治的集団の生命の中心はこの集団の最高頭脳である領袖です。領袖を社会的政治的生命体の最高頭脳というのは、領袖がまさにこの生命体の生命活動を統一的に指揮する中心であるからです。領袖は、人民大衆の自主的な要求と利害関係を分析、総合し、一つに統一させる中心であると同時に、その実現をめざす人民大衆の創造的活動を統一的に指揮する中心です。

 党は領袖を中心に組織的、思想的に強固に結合した人民大衆の中核部隊として、自主的な社会的政治的生命体の中枢をなしています。個々人は党組織をつうじて社会的政治的生命体の中心である領袖と組織的、思想的に結合し、党と運命をともにするとき、不滅の社会的政治的生命をもつようになります。人びとは、党組織と党の指導する社会・政治組織の一員として組織・思想生活に積極的に参加することによってのみ、社会的政治的生命体の中心である領袖との血縁的な結びつきを強固にし、自己の社会的政治的生命を輝かせていくことができます。

 領袖、党、大衆は一つの生命に結合して運命をともにする社会的政治的生命体であるため、そのあいだには助けあい、愛しあう革命的信義と同志愛の関係が生まれます。革命的信義と同志愛は、個々の人間を一つの社会的政治的生命体に結合させる作用をします。

 これまで、自由と平等の貴さについては多くの人が説いてきました。チュチェ思想も自由と平等が貴いものであることを認めます。それは、すべての人が世界の主人、自己の運命の主人として、誰にも従属することを望まない自主的な存在であるからです。しかし、革命的信義と同志愛の原理は、自由と平等の原理と同じ次元の原理ではありません。革命的信義と同志愛の関係も、自由と平等の関係を前提とすべきではありますが、自由と平等の関係があるからといって、革命的信義と同志愛の関係がおのずと生まれるものではありません。品物を売る人と買う人は平等な関係にあるとはいえても、かれらが必ずしも同志的に愛しあう関係にあるとはいえません。自由と平等の関係を革命的信義と同志愛の関係と対立させるのも正しくありませんが、どちらかの一方をほかのものに溶解させようとするのも誤りです。

 一つの社会的集団を単位にしてみるとき、平等の原理が個人と個人との関係において従属と不平等に反対し、個人の自主性を擁護することに寄与するなら、革命的信義と同志愛は、人びとをして運命をともにする一つの社会的政治的生命体に結びつけ、社会的集団の自主性を擁護することに強力に作用します。平等の原理が個人の生命を最も貴いものとみなす個人主義的生命観にもとづくものであるなら、革命的信義と同志愛の原理は、個人の生命より社会的政治的集団の生命をこよなく貴いものとみなす集団主義的生命観にもとづいています。

 もちろん、社会的政治的生命体のなかにも、革命的信義と同志愛の原理だけでなく、平等の原理が作用します。ここで個人のあいだの平等は、かれらのあいだの革命的信義と同志愛に矛盾するものではありません。人間による人間の搾取と抑圧が根絶され、人びとの平等が保障される状況のもとでのみ、真の革命的信義と同志愛がなりたちます。革命的信義と同志愛は人間の自主性と創意性を抑制するものではなく、むしろそれをいっそうしっかりと保障します。

 もし、社会的集団の統一をはかるからといって人間の自主性と創意性をおさえるならば、集団内の真の統一ははかれず、逆に人間の自主性と創意性を保障するからといって集団の統一を破壊するならば、個人の生命の母体である社会的集団の生命が弱体化され、個人の自主性と創意性そのものを保障することができなくなります。社会的集団の統一は、人間の自主性と創意性を高く発揮させることに寄与できるようにはかられるべきであり、人間の自主性と創意性は、あくまでも集団の統一をはかる枠内で実現されるべきです。これは、平等の原理と同志愛の原理を統一的に具現することによってのみ、個人の自主性と創意性を高く発揮させる問題と、集団の統一を強化する問題がともに解決されるということを示しています。もちろん、これは容易なことではなく、おのずとなるものでもありません。それで私は、社会的集団のあるところには必ず指揮が必要であることを重ねて強調しているのです。

 領袖は社会的政治的集団の生命の中心であるのですから、革命的信義と同志愛も領袖を中心としたものとなるべきです。革命的信義と同志愛は、領袖と戦士の関係において最も崇高を高さで表現されます。運命をともにする社会的政治的生命体のなかでは個人のあいだにも革命的信義と同志愛が作用しますが、どの個別的な構成員も社会的政治的集団の生命の中心とはなりえないため、かれらのあいだの革命的信義と同志愛は絶対的なものとはなりえません。しかし、領袖は社会的政治的生命体の最高頭脳であり、集団の生命を代表しているため、領袖への忠実性と同志愛は絶対的で無条件的なものとなります。

 領袖、党、大衆が一つに結合されてはじめて、不滅の社会的政治的生命体をなすのですから、それを互いに分離させたり、対置させてはなりません。党と領袖の指導を離れた大衆が歴史の自主的な主体になりえないように、大衆から遊離した党と領袖も歴史を導く政治的指導者としての生命を有することはできません。大衆から遊離した領袖は領袖ではなく、一個人であり、大衆から遊離した党は党ではなく、一つの個別的な集団にすぎません。それゆえ私は、領袖、党、大衆を分離して考えてはならないと、常に強調してきました。

 我々は、革命と建設において領袖が決定的な役割を果たすということについても正しい理解をもつべきです。領袖は団結と指導の中心であり、人民大衆の運命を切り開くうえで決定的な役割を果たします。これは、頭脳が人間の活動において決定的な役割を果たすのと同じことです。しかし、領袖はあくまでも党の領袖、人民大衆の領袖なのですから、領袖の役割を党の役割、大衆の役割と分離して考えてはなりません。領袖の役割、党の役割、大衆の役割は常に一つに統一されています。

 これと同じく、領袖への忠実性と党への忠実性、人民への忠実性は一つに統一されています。党への忠実性、人民への忠実性なしに、領袖への忠実性のみをもつということはありえず、またそのような忠実性は真の忠実性とはいえません。領袖への忠実性を、党性、労働者階級性、人民性と別個の問題とみなしてはなりません。領袖は党と人民大衆の生命の中心であるため、党への忠実性と人民への忠実性は、領袖への忠実性に集中的に表現されなければなりません。そのため、領袖への忠実性を党性、労働者階級性、人民性の最高表現というのです。

 我々が革命的領袖観を確立し、領袖への忠実性を第一の生命とするのを、チュチェ型の共産主義的革命家の基本的品性とする理由はまさにここにあります。

 領袖への忠実性は、社会的政治的集団の生命が個人の生命の母体であるという集団主義的生命観に根ざしています。人間にとって最も貴いものは生命です。生命のなかでも肉体的生命より社会的政治的生命のほうが大切であり、個人の生命より社会的集団の生命のほうが大切です。社会的集団の生命があってこそ、個人の生命があるのです。個人がその生命の母体である領袖、党、大衆に忠誠をつくすのは、誰かの指図によってではなく、自分自身がもっている社会的政治的生命の根本要求から生まれでるものです。それは他人のためではなく、自分自身のためです。チュチェ思想は、肉体的生命の要求をみたすための生活は動物の生活と変わるところがなく、領袖、党、大衆から離れた孤立した生活は人間の社会的本性に反する価値のない生活とみなします。チュチェ型の共産主義的革命家は、党と領袖の指導のもとに革命的信義と同志愛でかたく団結し、人民大衆の自主性を実現するための共同偉業に身を賭してたたかうことに、真の生きがいと幸せを見いだすのです。それゆえ、革命的領袖観は革命的人生観の核心であるといえます。

 しかし最近、党生活にあらわれている欠点を分析してみると、いまなお活動家には革命の主体にたいする正しい理解が欠けており、特に領袖を社会的政治的生命体の中心とみる観点が確固たるものでないことを知ることができます。領袖を中心とする党と生死苦楽をともにしようとする革命的信念が確固としていないため、金日成同志の教えと党の方針にたいして絶対性、無条件性の原則を守っておらず、難関に直面すると敗北主義に陥って動揺し、要領主義的に立ちまわっています。

 我々は金日成同志の教えと党の方針を一種の命令や義務としてうけとめる前にまず、それが最も崇高な生の要求であることを深く自覚し、無上の喜び、光栄として受け入れ、母なる党と父なる金日成同志の大いなる愛情と信頼であることを胸に探くきざみ、それを貫くために自分のすべてをささげるべきです。このように思考し行動する人であってこそ、革命的領袖観に徹したチュチェ型の共産主義的革命家であるといえます。

 敗北主義は、党と領袖の思想を自分の信念となしえず、人民大衆のつきない力を信じないところから生まれます。敗北主義者は、党と領袖、人民大衆を信じるのではなく、個人の小才や偶然の僥倖に期待をかけます。革命的領袖観が確立し、主体にたいする正しい観点をもった人は、領袖、党、大衆が統一されるとき不可能なことはないというゆるぎない信念をもっているがゆえに、いかなる環境のもとでも敗北主義に陥ることがありません。

 形式主義、要領主義に陥るのも、つまるところ、革命的領袖観が確立していないためです。形式主義、要領主義は、革命にたいする主人としての態度に根本的に反する使用人根性の表現です。我々は月給取りではなく、領袖を中心とする党と血縁的なつながりを結び、党と生死運命をともにする革命の主人です。こうした自覚をもった人には、形式主義や要領主義などありえません。

 他国をあおぎみて事大主義や教条主義に走るのも、革命的領袖観の確立していない表現です。もともと革命的信義と同志愛は、環境や条件によってあれこれ変わるものではありません。子供が父母を愛し尊敬するのは、自分の父母が必ずしも他人の父母よりまさっているとか、父母から恩恵をうけられるからではなく、まさに自分を生み育ててくれた生命の恩人であるからです。革命的信義を守る人であれば、有利なときも不利なときも変わることなく、ひとえに自分の生命の母体である領袖、党、大衆と生死運命をともにするものです。もし、自国が立ち後れているといって失望し、祖国をいとわしく思ったり、祖国が危機に瀕したとき、自分を育ててくれた母なる祖国を裏切って我が身のみを救おうとする人がいるなら、どの国の人民をとわず、そうした人間を良心のある人間とはみなさないでしょう。革命的信義を守る人であれば、いかなる風が吹き荒れようとも、事大主義に走ったり、自分の領袖、自分の党、自分の祖国を裏切るようなことはないでしょう。

 我々はなによりも、ほかの国の偉人ではなく、まさしく金日成同志が、日本帝国主義支配の暗たんたる時期に、あらゆる艱難辛苦にたえて奪われた祖国を取りもどし、この大地に繁栄する社会主義祖国を建設してくれたということを知るべきです。日本帝国主義とアメリカ帝国主義を打ち破り、チョンリマ(千里馬)朝鮮の栄誉をとどろかせるよう人民を導いてくれたのも金日成同志であり、こんにち世界反動の元凶であるアメリカ帝国主義と直接対峙している困難な状況のもとでも、社会主義建設と祖国の自主的統一をめざす朝鮮人民の革命偉業を勝利の道に導いているのも、ほかならぬ金日成同志です。朝鮮のすべての共産主義的革命家は、父なる金日成同志から不滅の政治的生命を授かり、その愛と配慮のもとで育ってきたのです。じつに、金日成同志は我々すべての偉大な教師であり、政治的生命の父であります。それゆえ、金日成同志にたいする我が党員と勤労者の忠実性は一点のくもりもない純潔なものであり、絶対的かつ無条件的なものなのです。

 革命的領袖観を確立し、党と領袖にたいする忠実性を革命的信義とするためには、領袖と自分の党の偉大さについて深く知る必要があります。党と領袖の偉大さを会得させる教育においては、党と領袖の思想と理論の偉大さ、指導の偉大さ、思想的・精神的品格の偉大さを認識させることに基本をおくべきです。

 いま党組織では金日成同志の徳性の教育に力を入れていますが、それだけでは党員と勤労者に金日成同志の偉大さを深く会得させることはできません。いうまでもなく、金日成同志は最も気高い人民的品格と共産主義的徳性をそなえています。しかし、党員と勤労者をチュチェの革命的世界観の確立した真の共産主義的革命家に育てあげるためには、なによりもかれらに金日成同志の思想と理論、指導の偉大さを深く会得させなければなりません。

 金日成同志は、不滅のチュチェ思想を創始した偉大な思想家・理論家であり、アメリカ帝国主義と直接対峙している困難かつ複雑な環境のもとで、社会主義・共産主義への前人未到の道に人民を賢明に導いている偉大な政治家です。いま、世界の多くの国の進歩的人民は、こぞって金日成同志の創始した不滅のチュチェ思想を学んでおり、金日成同志を偉大な教師としてかぎりなく尊敬しています。

 党員と勤労者に金日成同志の思想と指導の偉大さを深く会得させるには、金日成同志の著作の学習を実質的におこなわせることが重要です。

 金日成同志の著作には、チュチェの思想、理論、方法が全面的に集大成されており、革命と建設で提起されるあらゆる理論的・実践的問題と、それを解決するための具体的方途が明白に示されています。金日成同志の著作には、党の指導のもとに朝鮮人民が困難かつ複雑な闘争の過程でかちとったあらゆる貴い経験と輝かしい業績が、幅と深さをもって総括されており、我々が指針とすべき根本的原則と戦略戦術が全面的に解明されています。金日成同志の著作は、革命と建設にかんする真理を集大成した百科全書であり、チュチェ思想の叢書です。金日成同志の著作こそ、我々が研究し、学習すべき最も貴重な古典です。それゆえ金日成同志の著作学習は、あくまでもその原書をもっておこなうべきです。

 ところがいま、著作学習は形式的におこなわれています。一部の人は著作を原書で学習するのではなく、もっぱらそれを解説したテキストや参考資料などにたよっています。著作の原書を読めばよく理解できるのですが、それを解説したテキストを読むと、難解で内容がはっきりしません。それにもかかわらず、宣伝部門の活動家は、そうしたテキストをつくって下部に送り、出席をとることで著作学習にかえています。

 著作を学習する目的は、金日成同志の思想と理論を深く会得し、それを貫徹することにあります。党員と勤労者はまず、自分の部門の事業と関連のある著作から深く学習し、そこに示されている課題を貫徹することに主力をそそぐべきです。

 著作学習を実質的におこなうには、対象の特性とレベルに合わせて、学習をさまざまな形式と方法でおこなう必要があります。著作にかんする研究討論会を論争の方法で進めるのは、著作学習を実質的におこなうすぐれた方法の一つです。論争の方法で学習を集団的におこなうのは、学習気風を確立するうえでも、内容を深く認識するうえでも効果的です。互いに質問しあい、問答式に学習するのは、学習にたいする熱意を刺激し、共同の努力で真理を深く会得するうえで効果的であるということを、私は早くから強調しています。すべての部門、すべての単位で、実情に即して、古典的著作にかんする研究討論会を論争の方法で、広くおこなうようにすべきです。

 著作研究討論会では、著作にもられている思想的・理論的内容を深く把握することに力を入れるだけでなく、そこに示されている原則と方法を現実に具現するうえでの問題点をとりあげ、それを解決する方途についても討論すべきです。著作研究討論会が、実際の活動とかけはなれた空論となってはなりません。

 我々は、チュチェ思想教育を深めて、革命の主体にたいする正しい観点を確立し、領袖、党、大衆の統一をさらに強めていかなければなりません。
出典:朝鮮・平壌 外国文出版社(1987年発行)


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