金 正 日

社会主義的現実を反映した革命的映画をより多く創作しよう
作家、演出家との談話 
−1970年6月18日− 


 最近、映画部門の作家、芸術家は、社会主義的現実を反映した幾本もの立派な映画を創作しました。

 今年、制作された劇映画『妻の職場』と『乙女理髪師』も、わが国の社会主義的現実で提起される切実な問題を正しくとりあげたタイムリーな作品です。これらの映画は、わが党の示した全社会の革命化、労働者階級化方針の実現に貢献する立派な作品だと思います。

 しかし、社会主義的現実を反映した映画を創作する仕事は、まだわが党の求めるレベルに達していません。映画部門の作家、芸術家が、全社会の革命化、労働者階級化をめざすわが党の歴史的偉業の遂行により積極的に寄与するためには、社会主義的現実を反映した革命的作品をさらに多く創作し、その思想的・芸術的水準を決定的に高めなければなりません。

 わたしはきょう、映画部門の作家、演出家が集まった機会に、社会主義的現実を反映した革命的映画創作における若干の問題について述べたいと思います。


  社会的意義のある問題をとりあげるべきである

 文学と芸術の重要な使命は、全社会の革命化、労働者階級化をめざすわが党の革命偉業に奉仕することにあります。

 社会の全構成員を革命化、労働者階級化するのは、社会主義革命が勝利したのちに労働者階級の党に課される重要な歴史的課題です。搾取階級が一掃されたあとにも、勤労者の頭のなかにくすぶっている古い思想の残りかすを根こそぎにしないことには革命をつづけることができず、社会主義・共産主義建設を成功裏に遂行することができません。そのため、わが党は社会主義制度の樹立後、直ちに全社会の革命化、労働者階級化方針を示し、その実現をめざして積極的にたたかっています。

 作家、芸術家が、革命のまえに担った気高い使命をまっとうするためには、何よりもまず人々の革命化、労働者階級化で提起される切実で有意義な問題を適時にとりあげ、それに正しい解答を与えなければなりません。

 創作家は、全社会の革命化、労働者階級化をめざすたたかいが力強く展開されているこんにちの社会主義的現実から切実かつ有意義な問題をえらびだすためには、わが党の思想と理論で武装し、党政策の見地から現実を考察しなければなりません。作家、芸術家が、党の革命的方針を積極的に擁護し、その実行において提起される問題をとりあげて正しく解明するには、党の思想と意図を正確に知り、党の立場を堅持することが大切です。党の思想と意図を知らない人は、新しい変革が起きている現実を正しく理解することができず、したがって、党の方針を実行するうえでなんらの寄与をすることもできません。

 いま作家、芸術家は、現実を体験しているとはいいますが、工場や農村、都市や村落で起きている偉大な革命的変革の過程を深く把握できず、そこから社会的意義のある問題をそのつど敏感にとらえて作品化することができないのは、党の路線と政策をよく知らないところに原因があります。事実、一部の作品は、我々の社会で立派な革命家、愛国者の模範となるモデルにもとづいて形象化したにもかかわらず、その性格や生活が実際に見聞した事実より感動を与えていません。

 創作でなぜこのような結果が生まれるのでしょうか。それは、創作家が現実にくりひろげられる出来事の本質を正しく理解できず、現代に育つ共産主義的人間の性格から新しい特質を正しく見ぬけないからです。そのため、有意義な問題を作品にとりあげることができず、新しくて美しい革命的な人間の典型を描き出すことができなくなるのです。

 創作家が党の政策で武装し、現地に出向いて人々の革命化により深い関心を払うならば、思想革命、技術革命、文化革命が力強く展開されている現実生活のなかから、新しく意義ある問題をいくらでも見つけることができるはずです。

 社会主義・共産主義は、社会の全構成員を労働者階級の姿に教育改造することなしには建設することができません。しかし、人々の頭のなかにくすぶっている古い思想の残りかすを一掃し、かれらを革命化するのは決して容易なことではありません。それはただ、不断の思想教育と深刻な思想闘争を通じてのみ解決することができます。芸術作品に描くべき深刻なドラマは、まさにこのような生活のなかにあるのです。

 では現在、創作家が現地に出向いて関心を払うべき切実な問題とはどのようなものでしょうか。

 人々を真の革命家、共産主義者に育てるうえで最も重要なのは、かれらの胸に党と革命にたいする限りない忠実性を深く槌えつけることです。我々の文学・芸術は当然、これに第一義的な関心を向け、党と革命にたいする忠実性をはぐくむうえで提起される問題を感動的に描かなければなりません。

 党と革命にたいする忠実性は、現代の共産主義者の最も気高い品性をなす基本的表徴です。忠実性は、共産主義的世界観にもとづくかたい信念となってこそ真実のものとなり、そのような忠実性は、いつどこでどのような風波に襲われようとも動揺せず、変質しないものとなります。党と革命にたいする忠実性は言葉のうえではなく、実践を通じて具体的に示されなければなりません。

 創作家が現地に出向き、党の路線と政策貫徹のためすべてをつくして奇跡と革新を起こしている勤労者の生活を深く掘り下げていくならば、革命途上の現代における最も誇らしい生き方はどのようなものであり、党と革命にたいする忠実性はどのように位置づけられ表現されるべきかといった有意義な問題をとりあげることができるはずです。このように、切実で意義ある問題を作品にとりあげて解明するならば、人々の革命化、労働者階級化に実質的に寄与することができるのです。

 我々の社会では、誰もが革命化、労働者階級化されなければなりません。完成された共産主義者というのはありえません。かつて、革命闘争に献身し、実践を通じて鍛えられた人でも、ひきつづき革命と建設に誠実に参加してたえず思想的修養を積まなければ、前進する隊伍から立ち後れて変質することもありえます。

 全社会を労働者階級の姿に改造していくためには、労働者階級も革命化しなければなりません。たとえ、労働者であっても、みずからをたえず鍛えなければ自己の階級的本源を忘れることもあり、そうなれば変質せざるをえなくなります。

 問題をこのような視点でとらえ、具体的に深めていくなら、人々を革命化するうえで提起される切実で価値ある問題はいくらでもあるはずです。

 創作家が、人々の革命化、労働者階級化に大きな影響を与える作品を書くためには、勤労者の生活を党政策の見地から分析し、問題を設定しなければなりません。

 人々を革命化するのは結局、かれらの頭のなかにくすぶっている古い思想の残りかすを一掃し、社会主義・共産主義思想を植えつけて真の革命家、共産主義者に育てあげることを意味します。したがって、勤労者の生活にあらわれる個人主義、利己主義、保守主義、消極性などの古い思想の残りかすをするどくとらえ、革命化の見地から問題を深刻にとりあげるべきです。しかし一部の創作家は、こうした角度から現実を考察し判断する観点と眼識がするどくありません。

 最近、劇映画『花咲く村』のラッシュ・プリントを見て話したこともありますが、一部の作家、演出家は、現実生活から社会的問題をとりあげようとはするが、それを党政策の見地から考察できないため、問題のとらえ方において党の要求とはほど遠いものになってしまうのです。

 『花咲く村』にしても、農民の革命化をめざすたたかいから種子を得て問題を解明しなければ価値ある作品になりません。社会的問題をとりあげようとして、人の欠陥ばかりあばきだし、それにこだわってはなりません。

 創作家は種子をつかむとき、まずその種子で創作した作品が人々にどのような政治的影響を及ぼすかを深く考えてみるべきです。問題の政治的性格を正しく見ぬけず、現実に部分的に残っている非本質的な現象にこだわると、生活をねじまげることになります。したがって、生活から問題をえらびだすときには必ず、社会的本質を体現している典型的な問題をとらえるべきです。

 芸術で典型的なものは社会的本質を体現しているものであり、それは、常に政治的なものにするどくあらわれます。創作家は、文学・芸術における典型の問題が芸術的問題以前の政治的問題であることを明確に認識する必要があります。作家が作品を通じて人々に生活にたいする正確な認識を与え、社会の改造、発展のために献身するようかれらを導くためには、生活を政治的見地から考察し、社会的本質を体現している典型的な問題をとりあげなければなりません。

 作品で社会的問題をとりあげるときには、現実生活の要求と教育的目的に合致するようにとりあげることが大切です。

 作品では人々の革命化に大きな影響を及ぼすような大きな問題も設定できますが、それはあくまでも形象化によって解明できる問題でなくてはなりません。人々の革命化で提起される重要な問題をきわだたせようとして、作品では形象化できないある種の政治的問題をとりあげ、それをぎこちなく露呈させるならば、人々を感動させることができません。

 社会主義的現実を反映する作品では、人々の革命化に寄与できる問題を具体的に一つずつ提起して深めていくべきです。文学・芸術作品の価値は、どれほど大きな問題をとりあげたかということにあるのではなく、どれほど有意義な問題を掘り下げて解明したかにあります。

 人々の革命化、労働者階級化で提起される問題ならば、まず自己の革命化からはじめて、家庭を革命化し、分組と作業班を革命化し、さらには職場を革命化するうえで提起される問題を側面別に一つずつとらえて深く解明していくべきです。

 一部の人は、大事な国家の設備や資材が野ざらしにされて使いものにならなくなっているのを見ても気にしませんが、このような人の生活も革命化の見地から掘りさげて描くなら、人々の革命教育に大いに役立つでしょう。

 人々の革命化に寄与する作品を書くためには、問題を正しくとらえるばかりでなく、それを党の政策にてらして正しく解明しなければなりません。

 創作家がいくら現地に出向いて有意義な問題をとらえたとしても、それを党の政策に即して正しく解明できなければ、創作での成果は期待できません。

 最近のシナリオを見ても、種子はよいのですが、それを党の政策に即して正しく創作できなかったため、生半可な作品になってしまったものが少なくありません。

 ある労働者一家の革命化の問題を扱った作品や女性の革命化問題を扱った作品など、それぞれとりあげた問題は新鮮味があってうなずけるものです。しかし、創作家は、それを党の政策に即して正しく解明していません。

 創作家は、常に党の政策にもとづいて問題を提起するのみでなく、それを党の政策に即して解明すべきです。それでこそ、時代と生活の問いに正しい解答を与える立派な作品を出すことができます。

 創作家がこんにちの労働者の家庭問題を扱うとすれば、わが党によって教育され、実践闘争を通じて鍛えられた社会主義建設者としてのかれらの気高い精神的品性と誇りある生活を把握することからはじめるべきです。

 こんにち、わが国の勤労者は、党への限りない忠実性と革命にたいする主人としての態度をもって、社会と人民のために献身的に働いており、みずからをたえず革命化、労働者階級化しています。現代の勤労者のこうした新しい性格を見ぬけない作家は、一部の労働者のあいだに見られる否定的現象を一面的に誇張しやすいものです。

 人々の革命化の過程は、深刻な思想闘争によって古い思想の残りかすを克服していく過程であると同時に、生活環境や活動条件も社会主義社会の本性に即して変革していく過程です。

 ところが一部の創作家は、わが党が今後全面的に解決しようとしていることをすでに実現したかのように描き出す傾向があります。生活創造の過程を描かずに、ただ幸せな生活環境だけを描くようでは、幸せな生活の意義も満足に解明することができません。幸せな生活は、自然にもたらされるものではなく、創造的闘争の過程でもたらされ、その闘争に参加して献身的に働くところに革命の主人となった人々の栄誉と誇りがあるのです。したがって、創作家が革命化の問題を扱うためには当然、こんにちの社会的・歴史的条件に即して、新しい観点で生活を考察し、その生活が提起する問題を掘り下げて解明しなければなりません。

 常に党の政策にもとづいて問題を提起し、それを党の政策に即して解明していく創作家であってこそ、わが党の全社会の革命化、労働者階級化方針の実現に立派に役立つ革命的文学・芸術作品を創作することができます。


  人々の革命化の過程を掘り下げて描くべきである

 社会主義的現実を文学・芸術作品に反映するうえで何よりも重要なのは、勤労者がわが党の革命思想、チュチェ思想で武装していく過程、すなわち革命化、労働者階級化していく過程を掘り下げて描くことです。

 『赤い扇動員』が制作された当時も、わが国では党の方針に従って、すでに人間改造が大衆的運動として進められていました。しかし、いまでは、思想革命がさらに深化し、革命化の闘争が家庭と居住人民班、村落にまで広く及んでいる段階なので、作家、芸術家は当然、全社会の革命化、労働者階級化の過程がさらに深化している生活のなかに深く入り、そのモデル・を生き生きと描き出すべきです。

 こんにち、勤労者にとっては、みずからを革命化していく新しい人間の典型像を形象化した作品が切実に必要です。それは、みずからを共産主義的人間に改造していく新時代の人間の典型を創造した文学・芸術作品を通じて、人々に、自分も決心して実行するなら主人公のように革命化、労働者階級化できるという確信を植えつけることができるからです。

 いかなる偉大な事業も、生活をより新しく高い段階に発展させようとする人間の理想からはじまるものです。そして、人間の理想に即して改造され発展した新しい生活は、再び人間に作用して新しい要求を提起しつつ、さらに高い段階へと発展していくものです。

 自然改造と社会改造がいかに雄大なスケールで進められるにせよ、それは人間の改造からはじまり、その結果も人間の改造に帰着します。したがって創作家は、人間改造を基本にして生活の発展過程を深く認識し、正しく反映すべきです。

 文学・芸術作品で人間改造の過程を掘り下げて描き出すためには、人々の革命化、労働者階級化でモデルとなる肯定的主人公を立派に形象化することが大切です。常に、党の思想と意志どおりに思考し行動する肯定的主人公の姿を感銘深く描き出せば、立ち後れた人がそれに自分をてらして革命化の過程をさらに早めることができます。

 ところが現在、我々の文学・芸術には、時代と革命にたいする自己の崇高な義務を深く自覚したたかいの過程で党の思想でいっそうかたく武装し鍛えていく人々の姿を、生き生きとした生活の素材をもって深く形象化した作品が多くありません。党と革命が求めれば、それがいかに困難できびしい持ち場であっても率先して身を挺する人間、陰ひなたなく、他人の評価を気にせず、ただ党を信じて献身的に働く人々の姿を掘り下げて描くならば、それは人々の革命化にとってすばらしい教材となるでしょう。

 事実、忠誠の一念に燃えていささかの動揺もなく強く生き、たたかう人々、革命化の立派なモデルとなる人はわが国のどこにでもいます。そのような人は、鉱山や製鉄所の労働者だけではなく、農民のなかにも、インテリのなかにもいます。それらの人は、自分の古い思想の残りかすを一掃し、思想・意識を改造するため積極的に努力するだけでなく、その社会・政治生活を開拓し、政治的生命をいっそう輝かすため、誠実に生き、たたかっているのです。

 作家、芸術家は、現実に深く入り、勤労者の革命化のモデルとなる新しいタイプの共産主義的人間の典型をより多く、より立派に描き出すべきです。しかし、現在、我々の文学・芸術には、こうした新しいタイプの人間の典型を深く形象化した作品が多くなく、また描く場合にも、否定にたいして肯定を弱く弱く傾向があります。

 人々を革命化、労働者階級化するうえでも、あくまでも模範的事実をさらに多く前面におしだし、すべての人にそれを見習わせるべきです。人々の古い思想・意識を改造する目的は、革命思想で教育し、共産主義社会までともに進むことにあります。この目的を達成するためには、社会の全構成員のモデルとなる新しいタイプの共産主義的人間の典型を示し、人々がそれを基準にしてみずからをかえりみ、それに見習うため努力するようにしなければなりません。

 こうした見地からみれば、みなさんが制作している『りんごの取り入れどき』にも欠陥があることがわかるはずです。この作品に登場する肯定的主人公は、まだ自分の思想的筋金が入っておらず、否定とのたたかいにおいても優柔不断なところがあります。また、主人公の新しい提案を積極的に支持すべき社会主義労働青年同盟員たちの形象がそれ相応に強調されていません。

 この作品は、新時代の新しい人間の物語がもられているのですから、社労青組織の動きを通じて彼女たちの性格を生き生きと描き出すべきです。我々の社会では、誰もが党や勤労者団体に入って組織から与えられた任務を遂行するために努力しています。この作品の主人公も、自分の創造的提案をあくまで実現するためには、社労青組織に依拠して働くべきです。我々の社会では、組織を離れては何もできません。

 社労青組織とのつながりを意義づけて描いてこそ、作品の政治性・思想性をさらに高め、現在十分に描かれていない肯定の役割もさらに強めて、現代青年の性格で重要な特徴をなす革命的組織性を明確に生かすことができます。

 作品で肯定の筋金を入れ、その力を明確に生かすためには、組織の役割を正しく描くとともに、古いものにたいする肯定的人物の批判精神を高めなければなりません。

 仕事と生活にあらわれる不健全なものにたいする妥協のない闘争精神は、革命家の性格を規定する基本的表徴の一つであり、社会主義社会で教育された新しい人間の気高い品性の一側面をなします。

 『りんごの取り入れどき』の主人公は、社会主義社会で成長した新しい世代です。現代の新しい主人公は、快活で楽天的で、難関に屈しない強靭な意志をもつ生気はつらつとした性格の持ち主であり、献身的な努力とたゆまぬ修養によって他の模範となるばかりでなく、否定的傾向にたいする妥協のない闘争によって、立ち後れた人々をすべて教育改造して、党に限りなく忠実な革命家に育てあげる真の人間改造者です。ここに現代の人間の美しい性格があるのです。この作品の主人公の形象化においても、現代に育った新しい人間のこのような典型的な性格が生き生きと描かれなくてはなりません。

 リンゴが腐るのを見て心を痛め、国の暮らしを心配する主人公が、人の思想がむしばまれていくのを見て、ひかえめに二言三言たしなめるように描かれては、観客の強い共感を呼び起こすことができません。

 勤労者のあいだに見られる否定的現象は、社会主義社会にありうるものです。わが国の勤労者のなかには、党の路線と政策に意識的に反対するような否定的人物は存在しません。我々の現実に見られる否定的人物は、主観的には党の政策を支持し実行しようとするが、習性化した個人主義、利己主義、主観主義、要領主義、保守主義、消極性などの古い思想の残りかすのため仕事と生活で誤りを犯し、結局、時代の発展についていけない人たちです。そういう人の病根を適時に除去せず放任するならば、当人自身を滅ぼすだけでなく、革命闘争と建設事業促進の大きな障害ともなります。したがって、勤労者の仕事と生活にあらわれる否定的現象はたとえ小さなものであっても、それをあばいてするどく批判すべきです。

 古い思想にたいする批判は、本質においてブルジョア思想にたいする批判であるため、常に妥協することなく、断固として徹底的におこなうべきです。非妥協、断固、徹底、これは思想闘争の原則的要求です。もちろん、対象と内容によって批判の形式と方法はそれぞれ異なりますが、どの場合でも、批判は否定的現象の思想的本質をするどく分析、評価して、是正の方途まで教えるようでなくてはなりません。

 批判の目標が不明確で、その内容が透徹で核心をつくものでないなら、芸術作品は思想教育の強力な武器になりえません。批判が思想闘争の武器、革命化の武器となるためには、対象を明確にし、その対象の古い思想に批判のほこ先を集中しなければなりません。

 批判は政治性の表現であるばかりでなく、人間性の表現でもあります。真心の批判は、同志の欠陥を分の傷のように痛く思い、かれを正しい生活の道に導くために努力する高い人間性によってのみなされるものです。

 否定的現象を深く、するどく批判するためには、古い生活をよりどころにしている、その思想的根源を徹底的にあばきださなければなりません。したがって、批判は階級的教育の要求に即応しておこなうべきです。

 我々が、現実生活を扱った作品は階級的教育の内容によって裏打ちされるべきだと強調するのは、人々に搾取社会の反動的本質を明確に教え、それに根ざす古い思想の残りかすの弊害と危険性を深く認識させることに主な目的の一つがあります。またそれは、搾取され抑圧された過去の境遇と、限りない幸せと希望にみちた明日が約束されている現在の境遇を対比して見せることにより、人々に、最もすぐれた社会主義制度をかたく守り輝かしていくために献身させることにあります。そういう精神で教育してこそ、勤労者の意識にくすぶっている古い思想の残りかすを根絶し、かれらを、労働者階級の革命思想で武装させることができます。

 階級的教育は、対象の特性に即して、生活に即して無理なく進めるべきです。階級的教育をするということで無理にその内容をとってつけては、人々を感動させることはできません。創作家が人々の階級意識の向上に深い関心を払えば、階級的教育が可能な生活の契機はいくらでもとらえることができるはずです。

 我々の社会主義社会において、人々が古い思想の残りかすを克服し、みずからを革命化、労働者階級化していく過程は、本質的には新しい共産主義的人間の誕生過程といえます。したがって、文学・芸術作品で人々の革命化の過程を克明に描出するには、否定的人物の改造過程を正しく描くべきです。

 否定的人物の形象は、改造の過程と改造後の生活を正しく描いてこそリアリティーがあり、教育的意義も大きくなります。否定的人物の改造過程は、1、2度批判されてすぐ改造され、仕事に励むというように単純に処理してはなりません。創作家のなかには、一般的に否定的人物を簡単に処理しようとする傾向があります。創作家は、しばしば、否定的人物が自分の仕事を知らぬまに代行してくれる主人公の行動に感動させられたり、自分のことを語っている人の話を盗み聞きしたりすることを改造の契機として図式化しています。

 否定的人物は、それぞれ、そうなった生活の動機が異なり、その行動のあらわれも異なるのですから、改悛の過程が同一であるはずがありません。否定的人物の改造過程を実生活のごとくさまざまな角度でリアルに描いてこそ、観衆はそれに自分をてらして教訓をくみ取るようになります。

 我々の社会では、ごく少数の敵対分子を除いては、すべて教育改造して共産主義社会までともに進むべき人たちです。したがって、芸術作品で、否定的人物の改造後の生活を正しく描くのは非常に大切なことです。社会と集団に助けられ、実践闘争を通じて更生の道を歩む人間の美しい性格と健全な生活を見るとき、人々は、革命化こそは人間の政治的生命を輝かす真の生活の道であることを肌で感じることができます。

 人間の改造過程を示すうえで、その思想生活に生じた新しい転換を正しく描くことが大切です。そのためには、人々が革命化されて、しだいに共同労働と集団生活に積極的に参加するようになる過程を描くとともに、家庭と職場、居住人民班と村落が、革命化されていく様子も正しく描くべきです。

 否定的人物の形象化では、かれらと集団との関係を明確に描くべきです。社会主義社会に生きる人間だからといって、自然に新しい革命意識をもつわけではありません。革命意識は、共同労働や集団生活に積極的に参加し、実践闘争を重ねながら、地道に思想的修養を積んでいく過程でしだいにはぐくまれ、根づくようになります。革命と建設にたいする主人としての態度をとり、社会生活と共同労働に自発的に参加して献身的に働くようになってこそ、社会主義社会の本性に即した新しい人間になったといえます。

 人間を改造するということは、その思想・意識を改造することを意味します。否定的人物の改造過程も、かれの利己主義がなくなり、集団と共同所有にたいする新しい観念が形成される思想・意識の発展過程をリアルに描いてこそ、新しい人間に成長するその姿を説得力をもって示すことができます。

 『花咲く村』に描かれた永三老人の性格は、こうした面から見るとまだ一貫性に欠けています。自留地の手入れにばかり力を入れていた老人は、次男がトラクターの運転を誤って冷床商代用フレームを壊したと聞いたときにも、共同財産に損害を与えて営農作業に支障をきたしたことを考えるよりも、弁償のことを心配します。また、家に寝かせてある材木を幼稚園の遊び場をつくるのに使おうという長男に、親子のあいだにも持物の区別があるというのに組合のものと家のものを混同するわけにはいかない、と言ってのけるほど利己主義が徹底しています。これは、かれの性格に似つかわしい極めて生き生きとした生活的表現です。しかし、集団労働と共同生活に参加して形成されはじめた永三老人の新しい生活理念と心理を描くうえでは、まだ不十分です。

 芸術作品では、古い思想に毒された人の行動を生きた個性を通じて見せるにとどまらず、かれが組織と集団に助けられて古い考え方と誤りをどのように是正し、新しい人間に改造されて新しい生活を創造しているかを掘り下げて描き出すべきです。

 『花咲く村』で幼稚園の遊び場をつくるのに使う材木にまつわる話などは、一つの形象として完結させておくべきです。組合の青年たちが荷車に積んでおいた材木を引きずり下ろすほどの永三老人であったのですから、改造されたのちは、かれ自身が材木の積みだしを手伝って、早く幼稚園へ持っていけと督促するようにすべきです。このように一つの事件、一つの契機をとらえたならば、それを最後まで深化させて、一つの有意義な問題を解明する形象として完結させてこそ、性格が鮮明なものとなり、その形象が教育的価値のあるものとなります。

 否定的人物の誤った行動は、思想的に時代遅れとなったことからくるものなので改造されたあとの生活との対照や肯定的人物との対比においてその本質が明確に描かれなくては、人々に教訓を与えることができません。

 作家、芸術家は、全社会の革命化、労働者階級化にかんする党の方針にもとづいて生活のなかに深く入り、みずからを党の思想で武装していく現代の人間の革命化の過程をさらに生き生きと形象化すべきです。


  時代精神を正しく具現すべきである

 いかなる文学・芸術といえども、時代と社会制度を離れては人間を時代の典型として描き出すことはできず、歴史発展の本質が体現された典型的な生活をもりこむことができません。人間と生活を時代と社会制度との関係において描いた文学・芸術作品であってこそ、リアリスティックなものとなり、時代と生活のの真の鑑となります。

 時代が変わり社会制度が変われば、人間も生活も変わるものです。こんにちの労働者、農民は、かつての労働者、農民とは異なり、その生活も以前と同じではありません。にもかかわらず、少なからぬ文学・芸術作品では、社会主義的現実をこんにちの時代精神の高さで十分に描き出していません。これは、創作家がいまなお、こんにちの時代精神を深く受容していないことを意味します。

 時代精神は、時代と生活の基本的志向を反映します。現代は、革命の時代、社会主義・共産主義を建設する誇らしい革命の時代です。朝鮮人民は、現世代に自力でアメリカ帝国主義侵略者を南朝鮮から追い出して祖国の統一を達成し、朝鮮革命の完成と世界革命の勝利を早めるために断固としてたたかっています。何ものによってもくじくことのできない朝鮮人民のこうした闘争精神は、そのまま現代の志向となっています。

 文学・芸術作品に時代精神を正しく具現するには、作家、芸術家が現実のなかに入って、生活が提起する有意義な問題をとらえ、それを時代の志向に即応させて描き出すべきです。

 我々の現実には、こんにちの時代精神を体現している典型的な生活がいくらでもあります。しかし、創作家が人民の生活を具体的に研究し体験しなければ、チョンリマ(千里馬)の勢いで力強く前進する革命的現実についていくことができず、躍動する新しい生活の気概をうたいあげることができません。

 最近、創作家が映画化を提起した演出台本『女子トラクター運転手』を例にとって、この問題を考えてみましょう。

 この作品の創作家は、わが国の現実にくりひろげられている新しい出来事を深く研究し体験していないため、党の呼びかけにこたえて農村に進出した女子トラクター運転手の生活を描きながらも、それをこんにちの時代精神の高さで正しく描いていません。

 創作家が農村に進出した青年の生活を正しく描くためには、新しい世代を農村に進出させる党の方針を明確に知り、党の呼びかけにこたえて農村に進出した若者たちの気高い精神世界を肌で感じとらなければなりません。

 いま、党が青年を農村へ進出するよう呼びかけているのは、社会主義農村テーゼの示した道に従って、農村で思想革命、技術革命、文化革命をさらに強力におし進め、迫りくる革命的大事変を立派に迎えることができるよう、農村基盤を強固にするためです。

 ところが『女子トラクター運転手』では、党の呼びかけにこたえて農村に進出した女子トラクター運転手の誇らしい生活を一貫して描きながら、その気高い精神世界を示すのではなく、彼女を嫁に迎えようと奔走する分組長のコミックな行動を見せることに焦点をおいています。

 創作家は、農村技術革命の先駆者であるトラクター運転手を主人公にした以上、当然、その生活をこんにちの時代精神の高さで描くべきです。すなわち、彼女が社会主義農村の主人として、分組長のような立ち遅れた人を目覚めさせ、特に、農村の青年を、わが党の社会主義農村テーゼの実現をめざすたたかいの先頭に立たせ、祖国統一の革命的大事変を主動的に迎える準備をととのえさせる過程を描くことにすべてを集中させるべきです。

 ヒロインの思想的志向からして、どのストーリーが主なものとなるべきかを見きわめるべきです。彼女はなぜ、みずから農村に進出したのでしょうか。模範労働者の娘である彼女は、労働者階級のなかで成長し、幼いときからよい影響を多く受けてきました。彼女は、青年の農村進出を呼びかけた党のアピールに熱烈にこたえて社会主義農村建設の誇らしいたたかいに青春をささげる一念に燃え、学校を卒業するやいなや農村に駆けつけました。こうした彼女の燃えるような志向を追ってストーリーを展開すれば、そこから社会主義農村建設の力強い気概と躍動する時代の息吹が熱く感じられるでしょう。創作家が、主なテーマをおろそかにして、二次的なものを前面に出したため、作品の基本的な流れが時代精神に反するものになってしまいました。

 創作家は、人間の精神世界と思考方式の変化を敏感に感じとり、緻密に描き出すことにいっそう注意を向けるべきです。

 この作品には当然、わが党の自衛的な国防思想が深く具現されるべきです。ヒロインをはじめ、女子トラクター運転手たちの形象化において、党の自衛的な国防路線を貫徹しようとする戦闘精神をビビッドに描き出すならば、彼女たちの性格は力強い、意味あるものとなるでしょう。ヒロインは、有事のさい男子トラクター運転手たちが戦車兵として前線に出動するなら、女性がそのあとをうけ、党の呼びかけがあれば自分たちも戦車を操縦して、仇敵アメリカ帝国主義者を掃討する戦闘員になるという強い革命精神をもった現代の典型として描かれるべきです。こうした生活が描かれてこそ、人々はヒロインと農村の乙女たちの形象を通じて、偉大な農村テーゼのもとに日ごとに変貌するわが国社会主義農村の革命的現実を見て時代精神を熱く感じとり、新しい世代の力をかたく信じるようになるでしょう。

 この作品で強調すべきことは、アメリカ帝国主義の新たな戦争挑発策動とともに、日本軍国主義の再侵略策動を暴露し、それと強くたたかう主人公たちの断固たる反帝精神です。アメリカ帝国主義と日本軍国主義は朝鮮人民の不倶戴天の敵です。人々は、米帝や日帝という言葉を聞いただけでも敵愾心に燃え、こぶしをかたく握りしめます。この火のような憎悪心と敵愾心は歴史的に燃えつづけてきたものであって、何ものによっても消し去ることはできません。

 ヒロインは、朝鮮人民のこの不屈の反帝革命精神の持ち主でなくてはなりません。彼女は、トラクターの運転技術を修得することは敵とまっこうから戦うことと同じであるという思想で農場の乙女たちを教育し、彼女たちに常に緊張した動員態勢をととのえて、戦闘的に働き生活する決意をかためさせるべきです。

 このようなヒロインには、家で雑談にふけったり机の前で居眠りをするような生活は似つかわしくありません。浮ついた恋愛の話や身辺の雑事にとらわれるような人物の形象は、現代の青年の健全な理想と生活にふさわしくありません。革命的映画芸術では、ブルジョア思想、封建的儒教思想、修正主義思想など、いっさいの不健全な思想の小さな要素をも許してはなりません。

 現代の主人公は、生産革新者、有能な経済組織者、熱烈な政治宣伝者として形象化されるべきです。時代精神の体現者は、偉大なチュチェ思想を不動の信念とし、党の路線と政策をいささかの狂いもなく無条件、徹底的に実行して、チュチェの革命偉業の勝利をめざしすべてをささげてたたかう新しいタイプの共産主義者です。現代の青年は当然、チュチェ思想の絶対的な信奉者、無条件的な擁護者となり、我々の革命偉業を先頭に立って実現していく栄えある近衛隊、決死隊となるべきです。

 ヒロインは、農場員と青年のなかに入って、わが党の路線と政策を宣伝し、社会主義農村建設にかんする党の遠大な構想を教えるべきです。ヒロインが、宣伝者、教育者としての役割をまっとうするとき、農場員は彼女を農村に派遣されてきた、労働者階級の真の娘として強く信頼し愛するようになり、彼女に従って農村建設と農業生産で革命的熱意と創造的積極性をあますところなく発揮するようになるでしょう。

 創作家が、党の路線と政策にてらして生活を考察し、現実から党政策の大きな生命力を見出すことができれば、革命の時代の気概を体現した性格を十分に形象化することができるはずです。

 文学・芸術作品に時代精神を正しく具現するためには、時代を特徴づける典型的な生活をリアルに反映しなければなりません。

 生活をリアルに反映するのは、社会主義リアリズム創作方法の基本的要求です。社会主義リアリズム芸術は生活をリアルに反映するので、人々の心をとらえるのです。リアリティーのない芸術は人民の利害を正しく反映することができず、したがって、人民の思想・感情を代弁することも、かれらに愛されることもできません。

 文学と芸術は、真の生活とはなんであり、人間はどのように生きるべきかという問いに正しい解答を与えなければなりません。

 与えられた生活の享受に満足する人間は、新しい生活より豊かで文化的な生活を創造することができません。人間の真の生活は、社会主義・共産主義をめざすたたかいのなかにあります。

 創作家は、時代の志向にてらして現実の生活をリアルに描き出すことによって、人々に生活の高い理想と、その実現が可能であるという確信を与え、かれらの生活が、社会主義・共産主義をめざすたたかいであるため、最も貴いものであることを十分に自覚させるべきです。人々に気高い生活の目的と未来への確信を与えるのは、革命教育で極めて重要なことです。

 朝鮮人民が活気にみち明朗で楽天的なのは、かれらが生活を熱烈に愛し、自己の革命偉業の正しさをかたく信じ、自己の力を確信しているからです。

 社会主義的現実を反映する作品では、生活をありのままに、リアルに描き出すべきであって、粉飾してはなりません。生活を矮小化するのもよくありませんが、粉飾するのもよくありません。現実をあるがままにリアルに描かず、現実にないものを描写したり誇張するなら、生活の本質をゆがめ、社会主義制度の真の優位性を正しく示すことができなくなり、人々はそうした生活を信じないようになります。

 みなさんは、人民の幸せな生活を、パラソルをさし乳母車を押して歩く姿で見せることができるものと思ってはなりません。それは、我々の現実にのみ見られる新しい生活でもなく、また社会主義制度の優位性を示す有意義な生活でもありません。

 人々に幸せな生活にたいする認識を正しく与えるためには、創作家がゆるぎなく労働者階級の立場に立って、その革命的内容を明らかにしなければなりません。生活で異色的なものを強調して、人々に安逸で奢侈なものに好奇心をもたせるように生活を潤色すべきではありません。幸せはどこにあるのか、どのような理想が最も真実なものなのか、こうした問題にたいする健全な理解を与えることが大切です。こんにち、一身の安楽のためではなく、国と社会のために力と才能のすべてをささげてたたかうところに真の理想と幸せがあることを、生き生きとした形象によって植えつける芸術が、現代の人々に必要なのです。

 そのような芸術は、革命的な生活のなかで新しい性格を創造するときにのみ生まれるものです。新しい性格を創造するためには、創作家が現代の人間の生活にたいする共産主義的観点と理想を正しく把握しなければなりません。はでな生活を見せることでは、革命の時代が求める形象をつくりだすことができず、勤労者に正しい生活観点と健全な美感を植えつけることができません。

 生活を粉飾する問題と関連して、特に指摘すべきことは、生活の本質を見ようとせず、現象を誇張する弊害です。

 ある映画のラッシュ・プリントを見ると、ヒロインが職場をやめようとしたとき、託児所で子どもたちに朝鮮人参湯を飲ませているのを見て、党の慈愛深い施策をいまさらのように感じて再び熱意を出して働くという話になっていますが、これは人々に不自然な感じを与えます。いま、朝鮮人参湯は、すべての子どもに飲ませているものでもなく、またそれを見て党にたいするありがたさを感じるというのも真実みがありません。子どもと母親にたいする党の配慮を正しく見せるためには、朝鮮人参湯を飲ませる話ではなく、国家が子どもを全面的に養育している本質的な側面を描くべきでしょう。

 生活を粉飾する傾向は、結局、人間の性格の理想化におちこみます。

 生活の粉飾には、創作家のことなかれ主義も作用しているようです。否定的人物や否定的現象を描けば、現実をねじまげることになりはしないかと考える傾向がなきにしもあらずです。そのような人物や現象を伏せておくことが、かえって現実をねじまげることになるということを知るべきです。

 芸術は、政治に服従すべきです。革命と建設をより立派に進めるよう人々を奮起させることに貢献するのが我々の芸術の使命です。こうした政治的使命を達成すべき芸術において、政治性を高めるのは不可欠のことです。

 作品の政治性を高めるためには、創作家が確固たる政治的立場に立って、生活を深く、リアルに描き出さなければなりません。創作家は生活のディテールを描いても、その思想的本質と政治的意義を掘りさげて解明し、人間を描いても、その政治的立場と信念が明確にあらわれるように形象化すべきです。

 社会主義的現実を反映するうえで勤労者の高い階級意識を強調するのは、作品の政治性と思想性を高めるうえで、特に重要な意義をもちます。

 社会主義制度を擁護し、それをさらに強固にするためにたたかう朝鮮人民の革命精神には、高い階級意識が裏打ちされています。人々は、わが国の社会主義制度こそ勤労者大衆に奉仕する最もすぐれた社会制度であることを体験を通して十分に知っています。創造的労働への熱烈な志向と勤労闘争における英雄主義は、ほかならぬ社会主義制度にたいする熱烈な愛と高い階級的自覚に根ざすものです。

 共和国北半部の人民は、アメリカ帝国主義侵略者とその手先のファッショ支配下で苦しんでいる南朝鮮人民をかたときも忘れておらず、かれらに最上の新生活をもたらそうという念願と志向に燃えて熱心に働いています。したがって、映画で、安楽でぜいたくな生活を見せてそれを羨望させるような形象化は絶対に避けるべきです。社会主義的現実を反映する作品では、どのような方法であれ、社会主義的愛国主義思想を強調すべきであり、それを階級的教育の見地から解明すべきです。

 作家、芸術家は、現実を粉飾したり矮小化する傾向と強くたたかい、我々の文学・芸術の思想性と芸術性をさらに高め、その戦闘的役割をたえず強めていくべきです。

 新しい時代の生活を反映する映画では、歌も時代精神を反映したものでなければなりません。映画の歌は、チョンリマ(千里馬)の勢いで駆ける朝鮮人民の気概をこめてこそ、人々の心をゆさぶり、闘争へと立ち上がらせることができます。

 作曲家は、時代精神と主人公の美しい志向をこめた歌をつくるべきです。そして、歌からは、目的指向性が明白で、生活にたいする信念と創造的気迫にみち、革命的楽天主義の精神を体現した現代の人間の、明るく快活で躍動する情緒が強くにじみでなければなりません。社会主義建設のための人民の闘争とかけ離れて、たんに自然をうたうような音楽はなんの価値もありません。自然をうたう場合でも、そこには人々の生活感情が強く脈打っていなければなりません。

 わが党の革命思想で武装した勤労者は、その志向を時代と結びつけ、自分の生活を革命の前進運動と結びつけることを知っています。生活にたいする自主的立場と創造的態度、気高い思想・感情をもっていることは、偉大なチュチェ思想で武装した勤労者の鮮明な性格的特徴です。

 作曲家は生活をまじめに体験し具体的に把握してこそ、朝鮮人民の性格的特徴をそれにふさわしいニュアンスの旋律で真実に表現し、映画の主人公の性格とその生活状況に即した歌を作曲することができます。

 現実を反映する映画では、勤労者の誇りある労働をうたう場合、労働歌謡だからといって堅苦しく、うるおいのないものにしてはなりません。

 労働歌謡は、力強くはつらつとしていながらも、うたいやすくなければなりません。通俗性は、大衆歌謡の人民性を規定づける重要な基準です。労働歌謡は、人民の思想・感情をその日常的な生活言語と音楽形式で表現する歌謡であるため、その旋律は闘争感がありながらも、なめらかで素朴で、生き生きとしていなければなりません。

 叙情歌謡でも通俗性を生かすことが大切です。芸術性を高めるからと、人民の好みに合わず、うたいにくい曲調をつくりだすのは技巧本位主義であり、形式主義です。人民には歴史的に形成された民族的情緒があり、その表現に適した民族的旋律があって、それは時代と社会の発展にともなってさらに洗練され豊かになります。人民の生活感情と音楽にたいする好みと趣味にあわない旋律をつくりだす技巧は真の意味での技巧ではなく、音楽を生活から遠ざけるのみです。

 音楽の創作において、作曲家が職業化することのないようにすべきです。作曲が職業となれば胸が燃えあがらず、五線紙に心臓の鼓動を書きあらわすのでなく、たんなる音楽記号を羅列することになるので、そこから真の音楽が生まれるはずはありません。

 こんにちの生活が求める新しい人民的な音楽を創造しようとする作曲家は、勤労者の性格と生活から新しい特徴を見出し、それをリアルに表現することのできる、新しく特色のある旋律を探しだすべきです。類型は、具体的な体験をへずに、一般的なイメージをそのまま引き写すところから生まれるのです。

 躍動する生活のなかから、かれることのない泉のように、清新で豊かにあふれでる朝鮮人民の生活感情を立派にうたいあげるためには、高い思想性と高尚な芸術性が結びついた音楽を創作しなければなりません。

 創作家は、生活を素朴に描きながら、芸術的品位を高めなければなりません。形象化されていない素朴さは幼稚なものとなり、不必要にてらった形象は真実みに欠け、かえって芸術的品位を低落させます。

 時代精神は、人民の志向と結びついており、人民の生活のなかに具現されています。創作家は、常に人民とともに生活し、人民の声で時代精神をうたいあげる真の芸術家となるべきです。


  創作で独創性を発揮すべきである

 社会主義建設で連日新たな奇跡と革新を起こして前進している勤労者は、文学・芸術分野でもかれらの誇らしい生活を反映した多様で特色のある作品が創作されることを望んでいます。

 こんにち、革命と建設のための勤労者の闘争は、社会的内容においてどの歴史的時期とも比べられないほど多様かつ豊富であります。勤労者は、共和国の北半部で社会主義建設をおし進める一方、祖国を統一し、革命の全国的勝利を早めるために献身しているのみか、帝国主義、植民地主義とたたかう世界各大陸の進歩的人民の闘争を支援して力強くたたかっています。

 わが国における社会主義建設のための闘争も、思想革命、技術革命、文化革命のいっそうの深化発展につれて、内容が非常に深まり、豊かなものになっています。

 このような社会主義的現実を反映する文学・芸術は、当然、思想的内容において豊かで深奥でなければならず、芸術的形象化においても新しく、非反復的なものでなくてはなりません。しかし、作家、芸術家は、発展する現実のこうした客観的要求に、多様で特色ある作品の創作をもって満足にこたえていません。

 創作家がこんにちの勤労者の思想的・芸術的要求にこたえる作品を出すためには、まず現実の生活で提起される新しい問題を、それぞれ特色を生かしてとりあげなければなりません。創作家が新しい問題をとりあげるのは作品を独創的なものにする先決条件であり、出発点となります。

 しかし、一部の創作家は、問題設定そのものからして独創性を発揮していません。

 先日も話したことですが、みなさんが新しく創作した、靴修理工を主人公にしたシナリオはすでに制作された劇映画『乙女理髪師』とストーリーも似ており、作家の言おうとする思想においても目新しいものがありません。

 我々の社会で靴修理工は日常的に人民の便宜をはかっているのですから、その生活も上手に描けば、人々にとってよい教育となるでしょう。しかし問題は、創作家が五十歩百歩のストーリーで同じテーマの作品をつづけざまにつくりだそうとするところにあります。事実、この作品はテーマと構成、スタイルにおいて『乙女理髪師』とこれといった違いがありません。ただ『乙女理髪師』のヒロインである理髪師のかわりに靴修理工を座らせただけです。

 職業や職種をかえるだけでは、新しい形象の世界を切り開いていくことができません。創作がこのようになされるなら、それほどやさしいことはありません。きょうは理髪師を靴修理工にかえ、明日は靴修理工をバスの車掌にかえて、似かよった話をいくらでもつくることができるでしょう。しかし、これでは創作とはいえません。既存の形象をくりかえすのは、創作ではなく模倣です。創作とは、字義どおり新しい形象を創造することです。

 創作家は、いくら社会的に有意義な問題をとらえたとしても、それと同じ問題を扱った作品があれば、惜しくてもいさぎよく捨てるか、それとも全く新しい視点で改めて形象化すべきです。これが、革命的芸術家の立場であり品性であります。

 生活は多様で、芸術にたいする人々の要求も多様であり、芸術家の創作上の個性もそれぞれ異なるだけに、芸術的形象は必ず新しく、特色がなければなりません。創作家は、新しい作品を出してこそ、革命闘争と建設事業に積極的に寄与し、映画の形象世界を多様かつ豊富に広げてその時代の芸術の開花発展にも寄与することができます。

 芸術家は、新しいものを探求する時代の先駆者であり、人民を教える教育者であります。創作家はどのような作品をつくっても、時代と人民にたいする自己の気高い使命を深く銘記すべきです。自己の使命を深く自覚している創作家であってこそ、時代と人民が求める新しい問題を大胆に提起し、それを時代精神の高さで感動的な形象によって意義づけ解明することができます。

 新しいテーマは、常に新しい人間にたいするテーマ、新しい生活にたいするテーマです。毎日のように奇跡と革新が起きている我々の現実には、芸術的形象の素材となる新しい人間、新しい生活がいくらでもあります。

 創作家が、時代と人民の要求を解決する高い創作目標を立て、現実に深く入って人間と生活を幅広く、深く体験し研究するならば、新しく有意義な問題をいくらでも発見することができるはずです。しかし、現実にうわべだけでのぞみ、机上で話をつくりだそうとしたり、他の作品を真似たりしたのでは新しい問題を提起することができません。新しいテーマを示し、新しい形象を創造できる有意義な種子は、生活のなかでのみとらえることができます。だからこそ、生活は創作の源泉だというのです。

 創作家には、生活を常に新しい目で考察し、生活が提起する問題を定見をもって独創的に解釈し、新しい角度から解明できる力と才能が必要です。

 創作家が時代の変遷にともなってたえまなく変化発展する人民の新しい美感にかなった特色ある作品を創作するためには、新しい問題をとらえるばかりでなく、それを独創的に解明しなければなりません。創作で新しい問題をとらえるのは作品を特色あるものにする前提となりますが、問題がいくら新しいものであっても、それを独創的に解明できなければ、特色ある作品にはなりがたいものです。作品を独創的で特色あるものにするためには、問題も新しく、形象も新しくなければなりません。

 映画的形象の創造においても同じことが言えます。創作団のすべてのメンバーが確固とした創作上の定見をもち、図式と模倣を排して創意性を発揮してこそ、映画的形象を特色あるものにすることができます。作家は、作品の種子からスタイルにいたるすべての表現要素に特色をもたせて新しい文学的形象を創造し、演出家は、新しい表現手段と手法を探求して、それを新たに映画的形象に再創造すべきです。特に、俳優は、人間像を直接スクリーンに描き出す芸術家であるため、人一倍の努力を要します。

 しかし、一部の俳優の演技を見ると、千編一律式に軽々しく演じる場合が少なくありません。

 経験のある俳優は役をもらうと、その人物がすでに自分の創造した人物と違ったどのような新しい性格をもっているのか、新しい人間像として登場しうる人物なのかということに関心を払います。自分がもらった人物の役が、すでに上映された映画の人物と似かよっていたり、新しい性格的特徴がないとき、俳優にはなんの創造的意欲もわかないでしょう。人物の性格が新しいときにのみ、俳優は創造的熱情に燃えるものです。

 もちろん、人物の性格が新しいからといって、形象そのものが新しくなるわけではありません。新しい人物の場合でも演技が枠にはまったものになるのは、俳優が人物の性格を深く把握できず、一般的なイメージをもって演技するからであり、例え、人物の性格を正しく把握したとしても、実際の演技で人物の一般的な輪郭を描く程度にとどまるからです。演技における枠は、俳優が創造者としての独自性を発揮できずに自分を見失ってしまうか、人物の個性を自分の個性にかえてしまうところから生じるのです。

 ある俳優の演技を見ると、役の人物ではなく、俳優自身がそのままあらわれています。このような現象は、俳優が過去の創作経験のみに頼って、自分の生活体験を人物描写にそのまま移すところから生じるのです。

 俳優が新しい人物を演じるというのは、新しい生活を営むことを意味します。俳優は人物を演ずるたびに、その内面世界と心理的動きを深く把握し、生活を真剣に体験したうえで人物の性格を新たに体現していくときにのみ、古い演技の枠をうちこわして清新な形象を創造することができます。

 俳優は、現代の人間に見られる新しく美しい思想・感情と心理を見きわめ、それを自分の生活体験と創作経験を基礎にして真剣に体験し、生き生きと体現しようとする創造的立場から、人物の性格をのぞきこまなければなりません。

 俳優は、人物の性格を深く把握して個性的に生かすために心血をそそぐときにのみ、新しい人間像を創造することができます。

 作家、芸術家は、人民の生活を愛し、かれらの生活の理想を高め、それを現実に立派に実現するように励ます人民の擁護者であり、教育者であります。

 創作家は、常に現実に深く入り、人民の高い理想にてらして新しい形象を創造するための探求と革新の道をたゆまず歩まなければなりません。

 作家、芸術家は、人々の革命化の問題にひきつづき深い関心を払い、共産主義的な新しい人間に成長する現代の真の人間の典型をより多く描き出すべきです。作家、芸術家は、いまだに全社会の革命化、労働者階級化のモデルとなる労働者階級の生活を反映した映画をつくっていないことに責任を感じ、この課題の解決に力をそそぐべきです。

 作家、芸術家は、全社会の革命化、労働者階級化の先頭に立っている労働者階級の形象化に第一義的な関心を払うと同時に、農民とインテリをはじめ、各階層大衆の革命化の過程を多角的に掘り下げて描き出すべきです。そのために、作家、芸術家のなすべきことはたくさんあります。

 作家、芸術家は、時代と人民にたいする気高い使命を深く自覚し、社会主義的現実が求める革命的作品の創作で新たな前進をもたらすためにいっそう奮起しなければなりません。

 出典:『金正日選集』2巻


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