金 正 日

両江道を革命伝統教育の強固な拠点にしよう
両江道の責任幹部および抗日革命闘士への談話 
1968年7月21日 

 金日成同志に随行して両江道に来てから既に5年になります。両江道に行ってくるという私の報告に、金日成同志は、自分も一度、両江道に行かなければならないのだが、今は席を外すことができないから、今度、行ったら革命戦跡の建設状況をよく見てくるように、と言いました。

 私はこのたび両江道に来て、主に普天堡と三池淵地区の革命戦跡と、恵山から厚昌に至る鴨緑江沿岸の革命史跡を見て回りました。

 私は両江道内の革命戦跡と革命史跡を見て回る過程で、反党反革命分派分子の罪業とその影響がいかに大きなものであるかをいまさらのように痛感しました。これまで反党分派分子は、革命戦跡を整えることに大きな関心を持っているかのように装って両江道をしばしば視察し、金日成同志には革命戦跡の建設が順調に進んでいると報告していました。ところが、今度来てみると、革命戦跡と史跡は、これといって整えられたものがありません。

 革命戦跡と革命史跡を整えることは、金日成同志が抗日革命闘争の時期に築き上げた偉大な革命業績を固守し、末永く輝かし、党員と勤労者をわが党の革命伝統で教育するための極めて重要な事業です。

 党中央委員会第4期第15回総会で暴露、批判されたように、反党修正主義者は、わが党の革命伝統を抹殺しようと、ありとあらゆる策動をしました。党の思想活動を担当していた連中は、革命伝統教育は共産主義教育の範疇に属するものであるから共産主義教育さえすれば革命伝統教育を別個におこなう必要はない、抗日パルチザン参加者の回想記は現状にそぐわない「古いもの」だ、小説を読むように通読すればよい、といった妄言を吐き、革命伝統教育を妨害しました。

 わが党の革命伝統は、朝鮮革命の起源を開いた貴い歴史的根源であり、革命偉業の勝利を確固と裏付ける不敗の力の源です。革命伝統教育を強化してこそ、党員と勤労者が勝利の信念を持って革命と建設で直面するあらゆる障害と難関を勇敢に乗り越え、革命を最後まで続けることができます。

 金日成同志の指導のもとに、抗日革命闘士は、手に武器をとって祖国解放の聖なる戦いに勇敢に立ち上がり、零下40度の極寒が続き、ひどい食料難のため木の皮や草の根で飢えをしのがなければならない厳しい状況のもとでも、屈することなく戦って祖国の解放をなし遂げました。抗日革命闘士が歴史に類例のない苦難と試練にうち勝ち、日本帝国主義を打ち負かすことができたのは、千万べん倒れようとも敵を討ち、国の独立と人民の解放をなし遂げずにはおかないという不屈の革命精神を持って戦ったからです。

 抗日革命闘士の崇高な革命精神と彼らが積み上げた革命業績と闘争経験は、朝鮮人民がとわに学び、継承すべき貴い財貨です。抗日革命闘争の時期に築かれた革命伝統があったがゆえに、朝鮮人民は厳しい祖国解放戦争で頑強に闘い、世界「最強」を誇っていたアメリカ帝国主義を打倒して祖国の栄誉と革命の獲得物を守り、あらゆるものが灰塵に帰した廃墟の中でも信念を持ってたたかい、社会主義建設でチョンリマの大高揚を起こすことができたのです。

 革命伝統教育を強化することは、朝鮮革命の任務からしても、わが国の情勢からしても、非常に切実な問題となっています。

 白頭山で始まった朝鮮革命の行軍はまだ終わっていません。我々は、アメリカ帝国主義者と対峙している困難な状況のもとで社会主義を建設しなければならず、アメリカ帝国主義とその手先の分裂永久化策動を粉砕し、祖国を統一しなければなりません。

 今、わが国の情勢は非常に緊張しています。アメリカ帝国主義者は、プエブロ号事件を契機に南朝鮮に膨大な兵力を引き入れ、我々に対する「報復」を云々して戦争騒ぎを起こしています。そうかと思うと、アメリカ帝国主義の戦争恐喝策動に恐れをなした修正主義者は卑怯にも、我々にアメリカ帝国主義と妥協するよう説いています。敵がいかに威嚇し、誰が何と言おうとも、我々は絶対に革命的原則を放棄することはできません。

 金日成同志は、アメリカ帝国主義者の傲慢極まる挑発策動に対処して、敵の「報復」には報復で、全面戦争には全面戦争をもってこたえるであろう、と厳かに宣言しました。我々は、いつ、なんどき敵が襲いかかってきても、立ち向かって撃滅できるように、政治的・思想的準備をしっかり整えなければなりません。

 我々は、革命課題が難しく情勢が厳しければ厳しいほど、革命伝統教育をさらに深めて、すべての党員と勤労者が白頭の革命精神を持ち、いかなる難関や試練をまえにしても動揺することなく、革命の最後の勝利をめざして断固闘えるようにしなければなりません。

 党員と勤労者をわが党の革命伝統で武装させるうえで、両江道の占めている位置は極めて重要だと言えます。

 両江道は、抗日革命闘争時期の戦跡と史跡が最も多い道です。白頭山と鴨緑江をはじめ、両江道内の山並みと川筋には、金日成同志が革命の道を踏み出した時から20星霜にわたって進めてきた苦難に満ちた抗日革命闘争の血の跡が刻まれており、一木一草にも抗日革命烈士の崇高な志が宿っています。真に両江道は、由緒深い革命の聖地であり、栄えある抗日革命闘争の偉大な歴史を全面的に、生き生きと見せてくれる大野外革命博物館です。

 両江道を革命戦跡にふさわしく整え、党員と勤労者をわが党の輝かしい革命伝統で教育するのは、両江道党委員会の第一の任務です。

 これまで両江道党委員会は、革命戦跡と革命史跡の整備をおろそかにしてきました。両江道党委員会の一部の活動家は、党の唯一思想体系が確立していなかったため、革命戦跡の建設を陰に陽に妨害する反党修正主義者の狡猾な策動を看破することができず、彼らに盲従しました。両江道党委員会は、わが党の革命伝統を固守する活動をおろそかにしたことから深刻な教訓をくみ取り、革命戦跡の建設に大きな力を注ぐべきです。

 革命戦跡と史跡の建設で最も重要な問題は、金日成同志によって築かれた革命伝統の純潔を守ることです。

 革命戦跡を金日成同志の革命活動事績を基本にして整えるのは、革命戦跡建設の根本原則です。

 わが党が継承すべき革命伝統は、ただ金日成同志によって築かれた抗日革命闘争の伝統のみです。わが国の革命運動史において、厳しい試練を最後まで克服して勝利した革命闘争は、金日成同志が展開した抗日革命闘争をおいてはありません。

 かつて悪い連中は、革命伝統の幅を上下左右に広げるべきだと言って、わが党の革命伝統に有象無象をまぜこもうとしました。党中央委員会の責任あるポストにあったある者は職権を悪用して自分の生家を整えさせ、それを見学対象に入れて革命戦跡の踏査者たちに見せるといったことまでやりました。これは、わが党の革命伝統を冒涜し、曇らせる反党的行為です。

 両江道の活動家は、革命戦跡と革命史跡を整えることが、ほかならぬ金日成同志が築いた不滅の革命業績を固守し、輝かせる事業であることを肝に銘じ、革命戦跡建設に対する党の原則を貫徹しなければなりません。そうして、わが党の栄えある革命伝統に、いかなる不純な要素も入り込まないようにすべです。

 普天堡革命戦跡地を立派に整えるべきです。

 普天堡戦闘は、抗日革命闘争において特別な意義を持つ歴史的な戦闘でした。金日成同志は、日本帝国主義の厳しい警戒網を突破し、敵の重要な拠点の一つであった普天堡に進出し敵を掃討することによって、日本帝国主義侵略者に大きな政治的・軍事的打撃を与え、絶望に陥っていた朝鮮民族に再生の希望と勇気を与えました。普天堡戦闘は当時、中国と日本はいうにおよばず、ソ連をはじめ、各国の新聞、通信、放送を通じて世界に広く報道されました。当時、ある国の出版物は、普天堡戦闘は東方の植民地民族解放運動において特記すべき歴史的な出来事である、と高く評価しました。

 普天堡戦闘があってから、既に30年の歳月が流れました。普天堡戦闘勝利30周年に際して昨年、普天堡戦闘勝利記念塔を建立したのは非常によいことです。

 普天堡戦闘勝利記念塔は、金日成同志への人民の熱烈な欽慕の念と、一致した念願を込めて立派に建立されました。記念塔は、内容が非常に豊かで深奥です。抗日遊撃隊員と愛国的人民が鋼鉄の統帥である金日成同志を陣頭にいただき、祖国解放の赤旗をなびかせて進む姿を生き生きと示しています。

 普天堡戦闘が持つ大きな意義にてらしてみると、普天堡戦跡地はまだ十分に整えられているとは言えません。今回、普天堡へ行った時、普天堡戦闘に参加した抗日革命闘士たちに普天堡戦跡地を見て回った感想を聞いてみると、彼らは異口同音に、実際に普天堡戦闘がおこなわれた規模に比べて戦跡地のつくりがあまりにも狭小な感じがする、と言いました。

 普天堡革命戦跡地をその規模と内容において、歴史的事実と意義にふさわしく立派に整えるべきです。普天堡には、口隅水堰から呻長徳を経て佳林川に至る朝鮮人民革命軍の進軍路程と金日成同志が戦闘を指揮した場所、市街戦が展開された激戦の跡など、当時の歴史的事実と金日成同志の卓越した用兵術をまざまざと示す遺跡・遺物がたくさんあります。

 革命戦跡の建設では、遺跡・遺物を原状どおり保存することに格別の注意を払うべきです。

 金日成同志は、普天堡戦跡地を原状どおり保存するよう何度も述べています。日本帝国主義の警察官駐在所、面事務所、消防会館、山林保護区の建物、郵便局の跡などは、普天堡戦闘の模様を如実に示す歴史的な証拠物件です。警察官駐在所の壁の銃弾の跡、木造砲台、留置場内の拷問道具などをすべて次世代に見せられるよう原状どおり保存すべきです。市街も当時の感じが出るように昔の姿を生かすべきであり、普天邑を整えようとして戦跡地の区域内にむやみに高層建築物を建てないようにすることです。

 普天堡革命戦跡地の解説を正しくおこなうことが大切です。今、普天堡革命戦跡地についての解説は、主に物件資料の紹介と戦闘過程の説明にとどまっていますが、金日成同志のすぐれた知略と軍事戦法についても説明すべきです。普天堡戦闘は、金日成同志の霊妙な遊撃戦法と用兵術を余すところなく示した代表的な戦闘の一つです。

 普天堡革命戦跡地を参観した外国人は、佳林川のほとりの司令部指揮処が警察官駐在所から100余メートルの距離にあるのを見て、司令官が敵陣からこんなにも近い所で戦闘を指揮した例は戦争史にないと言って、非常に感嘆するそうです。このことからも、金日成同志の胆力と用兵術がいかに非凡なものであるかがよくわかります。

 普天堡戦闘の説明をする時には、必ず口隅水山戦闘と間三峰戦闘についても説明すべきです。口隅水山戦闘と間三峰戦闘は、普天堡戦闘の連続と言えます。これらの戦闘を結びつけて説明してこそ、参観者に普天堡戦闘の政治的・軍事的意義と金日成同志の遊撃戦法の独創性をより深く認識させることができます。

 三池淵を革命伝統教育の大殿堂として大規模に建設すべきです。

 三池淵は、金日成同志が朝鮮人民革命軍の主力部隊を率いて茂山地区へ進出する際に立ち寄り、隊員を勝利へと鼓舞した意義深い所です。

 金日成同志は1963年に三池淵を訪れ、抗日武装闘争の時期、茂山地区に進軍する途中、遊撃隊員とともに三池淵の清らかな水を飲みながら休息したことをしみじみと回顧しました。三池淵には、朝鮮人民革命軍が一行千里の戦術で40余キロの道を真昼に歩武堂々と行軍した「甲茂警備道路」をはじめ、抗日武装闘争の輝かしい足跡が刻まれている遺跡がたくさんあります。

 国内進攻作戦における金日成同志の革命業績を末永く伝えるため、三池淵に大記念碑も建てるべきです。

 三池淵は、由緒深い革命の聖地であるばかりでなく、わが国でも有数の名勝の一つです。金日成同志は、既に苦難に満ちた抗日武装闘争当時、革命が勝利すれば風光明媚な三池淵に勤労者の休養地をつくろう、と切々と語っています。抗日遊撃隊員は、解放された祖国で幸せに暮らす人民の姿を思い浮かべ、新たな希望を抱いていっそう勇敢に戦ったのです。一日も早く三池淵を勤労者の休養地として美しく整え、抗日武装闘争の日々に金日成同志が構想し、抗日革命闘士が理想として描いた念願を現実のものにしなければなりません。

 厚昌郡と新坡郡の革命史跡も立派に整えるべきです。

 葡坪は、祖国解放の曙光が初めて射した栄光の地です。金日成同志は、13の幼少の身で祖国解放の遠大な志を抱き、朝鮮が独立しなければ二度と再び帰るまいと固く誓い、葡坪の渡し場から鴨緑江を渡り、革命の道を踏み出しました。

 葡坪史跡地に金日成同志の銅像を大きく立派に建てるべきです。金日成同志のように幼少の身で愛国の大志を抱き、闘争の道を踏み出した革命の指導者は歴史に類をみません。葡坪革命史跡地に金日成同志の銅像を建てるのは、金日成同志が踏みにじられていた朝鮮民族に解放の曙光をもたらした歴史的なその日をとわに記念するためです。ところが、今、史跡地にある金日成同志の銅像は小さすぎます。朝鮮が独立しなければ二度と再び帰るまいと固く誓う金日成同志の偉大さが胸に迫ってくるように、銅像を大きくすべきです。

 厚昌郡は、金日成同志の幼年時代の革命活動事績とともに、金亨稷先生が革命活動の舞台を八道溝に移し、鴨緑江を行き来しながら反日民族解放運動を指導した不滅の事績がとどめられている所です。厚昌郡には、抗日武装闘争の時期、日本帝国主義者が愚かにも金日成同志を「帰順」させようと、李宝益女史を鴨緑江沿岸の国境一帯に引きずりまわした際に、女史が泊まった、いわれのある家屋もあります。

 このたび見て回ってみると、金亨稷先生の革命事績が秘められた家屋はまだ整えられていないものもあり、厚州旅館は垣も満足にめぐらされていませんでした。

 金亨稷先生が地下活動をしていた時に利用した建物と、李宝益女史が泊まった鴨江旅館と厚州旅館を史跡地として立派に整え、大衆教育に広く利用すべきです。

 両江道が革命戦跡と革命史跡をすべて整えるとなると、隘路が多々あることと思います。だからといって、ちゅうちょしてはいけません。反党修正主義者が及ぼした悪影響を一掃するという意味でも、革命戦跡と革命史跡の建設を力強く推し進めなければなりません。

 革命戦跡と革命史跡の建設は、私が直接、指導することにします。革命戦跡と革命史跡の建設には国家的な力をつぎこむべきですが、この仕事の主人はあくまでも両江道です。両江道党委員会は、各党組織を動かし、大衆に対する政治活動を力強く展開して、革命戦跡と革命史跡の建設に全道が立ち上がるようにすべきです。

 革命遺跡と遺物の調査、発掘を積極的に進めるべきです。

 これまで党歴史研究所は、金日成同志の革命活動史の資料の発掘をおろそかにしてきました。そのため、金日成同志の革命活動事績がこもっている貴重な遺跡・遺物はまだ全部発見されていません。

 1959年に抗日革命闘争戦跡踏査団が、中国の東北地方と白頭山一帯を踏査して、抗日革命闘争の主要戦跡と革命根拠地、密営など少なからぬ遺跡を新たに探し出し、貴重な遺物と歴史資料を収集しました。その後にも、革命遺跡・遺物と各種の資料が少なからず発掘されました。しかし、これまでに発掘された遺跡・遺物と資料は、長期にわたる金日成同志の英雄叙事詩的革命闘争歴史と、その革命業績に比べればごく一部にすぎません。

 金日成同志は、抗日武装闘争の時期、大部隊による祖国進軍作戦を断行しただけでなく、小部隊と政治工作員を派遣して武装闘争を国内に拡大しました。両江道には、朝鮮人民革命軍の小部隊と政治工作員が多数入って活動し、さまざまな形態の祖国光復会組織が各階層大衆の間に深く根をおろしていました。

 革命戦跡と革命史跡を立派に整えるには、こうした革命活動の内容を立証する遺跡・遺物と資料がたくさんなければなりません。抗日革命闘争がおこなわれてから、既に数十年の歳月が流れました。金日成同志を仰いで抗日革命闘争に参加した革命闘士の頭にも白い物がまじるようになりました。彼らがこれ以上老いるまえに、まだ発掘されていない遺跡・遺物を残らず探し出さなければなりません。

 抗日革命闘争時期の遺跡と遺物を永久に保存するための対策を立てるべきです。

 抗日革命闘争時期の遺跡・遺物は、金日成同志の栄えある革命活動史と不滅の革命業績を実物によってまざまざと見せてくれます。それは、党員と勤労者をわが党の革命伝統で教育するうえで、数百言にまさる大きな感化力を持っています。みなさんも見て感じたと思いますが、青峰宿営地と乾滄宿営地、ペゲ峰宿営地にある天幕、たき火、炊事場などの跡を見ると、苦しい戦闘と行軍が続く困難な状況のもとでも、抗日遊撃隊員がいかに規律と秩序のある生活をしたかが目のまえにありありと浮かんできます。特に、青峰宿営地の大木に記されたスローガンには、抗日遊撃隊員の強い革命精神と不屈の闘志がひしひしと感じられます。

 「朝鮮青年よ! 速やかにはせ参じて抗日戦に力強く参加せよ」「立て、団結せよ、世界の勤労大衆よ、自由と解放のためにたたかおう」などの多くのスローガンは、こんにちも人々の胸を熱くし、革命闘争を力強く鼓舞しています。

 抗日革命闘争の歴史が刻まれている遺跡・遺物は、朝鮮人民が代を継いで伝え、永久に保存すべきこのうえなく貴重な財宝です。革命遺跡と遺物の保管、管理に万全を期し、貴重な物件資料に損傷がいかないようにすべきです。

 物件資料の保管、管理で重要なのは、遺跡・遺物が退色したり変質したりすることなく、本来の姿をそのまま維持できるようにすることです。物件資料を原状どおり保存するには、その管理を科学的におこなわなければなりません。革命事績遺物を永久保存するための研究を本格的に進められるように、研究機関を別個に設ける必要があると思います。物件資料保存の研究では、何よりもスローガンの記された樹木が腐らないようにし、その字が消えないようにする問題から解決すべきです。スローガンの記された木々は、千金にもかえがたい貴重な革命的財宝です。

 白頭山をきちんと管理すべきです。白頭山は、朝鮮民族の魂が秘められており、朝鮮革命の根がおりた祖宗の山、革命の聖山です。白頭山には、全国各地から絶え間なく踏査者が訪れ、外国人もたくさんやってきます。

 今、白頭山の管理が十分になされていません。白頭山に登りながら見ると、道がよくならされておらず、あちこちに紙くずなどが散らばっており、道の脇のくぼみも埋められていませんでした。

 三池淵から白頭山へ通じる道をきれいにならし、踏査者が休息できる場所と施設も設けるべきです。踏査者をよく教育し、白頭山の一木一草、小石一つをも大事にし、愛するようにすべきです。そうして、白頭山に登る時、辺りを汚し、天池の水を濁したり、風致を害することのないようにすべきです。特に、白頭山一帯は、樹海をなしているので、山火事が起こらないように徹底した防火対策を立てるべきです。

 革命戦跡と革命史跡の踏査を綿密に手配すべきです。

 革命戦跡と革命史跡を立派に整える重要な目的は、それを通じて党員と勤労者をわが党の革命伝統で教育することにあります。百聞は一見に如かずと言うように、白頭山をはじめ、金日成同志が歩んだ不滅の足跡をたどって行軍し、革命戦跡と史跡を踏査すれば、書物や映画を見て学ぶよりも、はるかに貴重な体験をすることができます。

 私は、白頭山に登頂して満州の広野と周辺の山並みを見るたびに、革命の赤旗を高く掲げ、荒れ狂う吹雪をついて敵を討った抗日遊撃隊員の姿がまぶたに浮かび、血戦の日々に響いた銃声が聞こえてくるような思いがします。

 革命戦跡の踏査は、党員と勤労者をわが党の輝かしい革命伝統で教育する極めて効果的な方法です。それは特に、革命の試練を経ていない新しい世代の青年・学生にとっていっそう切実な要求です。

 今後、革命戦跡と史跡の踏査を計画的に、綿密に手配すべきです。革命戦跡の踏査を単なる見学と考えたり、物見遊山式におこなうようなことのないようにすべきです。踏査者は、抗日遊撃隊式に背のうを背負い、革命歌謡を歌いながら革命烈士の足跡をたどって行軍する過程を通じて、抗日の革命精神を学び、心身を鍛えるようにすべきです。

 両江道の責任幹部は、人民生活を改善するため積極的に努力すべきです。

 金日成同志はいつも、両江道が他の道に比べて経済的に立ち遅れ、人民の生活水準も低いと心配しています。

 経済の発展において、両江道は他の道に比べて多少条件が不利だと言えます。しかし、両江道が設けられてもう15年近くになります。10年たてば山河も変わると言いますが、両江道は15年になるというのに、これといって目につくほどのことをしていません。

 金日成同志はその間、数回にわたって両江道を現地指導し、豊山郡、甲山郡のへんぴな山里まで訪れ、経済発展と人民の生活向上の方途を具体的に教えました。

 このたび来てみると、金日成同志が1963年に現地指導をした際に与えた課題はいうに及ばず、1958年に両江道に来た時に与えた課題も満足に実行されていません。恵山市をとってみても、新しく建設されたものはこれといってなく、平屋がひしめきあっていて、道都とは言いがたいありさまです。厚昌、新坡、三水も郡機関所在地の面貌を整えておらず、農村には、わらぶきの家がまだかなりあります。両江道には木が多いのですから、幹部が人民の生活に関心を払って努力するなら、農村の文化住宅などはいくらでも建設できるはずです。
 恵山市をきれいに整えるべきです。恵山市は道都であるばかりでなく国境都市であり、両江道の革命戦跡へ通じる関門でもあります。革命戦跡を踏査するために国内の人だけでなく外国人もたくさん訪れるので、恵山市をきれいに整えなければ国の恥になりかねません。環境整理をし、高層住宅も建て、鴨緑江のほとりに公園もつくって、恵山市を近代的な文化都市にすべきです。

 両江道の建設を大々的に進めるためには、建材生産基地を設けなければなりません。自己の建材生産基地を持たずに、他の道で生産されるセメントに依存したのでは、建設をスムーズに進めることができません。軽石を利用して建材をつくることも必要ですが、より重要なのは石灰石を探し出してセメント工場を設けることです。石灰石はわが国のどこにでもあるのですから、両江道だからといってないはずはありません。何としてでもセメントを道内で生産しなければなりません。

 農業の指導に力を入れるべきです。

 両江道は高山地帯で気候が寒冷なので、穀物がよく実りません。両江道の農業はジャガイモを基本とすべきです。金日成同志は、両江道の畑作の王者はジャガイモであると述べています。もちろん、地帯別に稲がよくできる所には稲を、小麦や大麦がよくできる所には小麦、大麦を植えるべきです。

 先進農法を積極的に取り入れて農業を科学的に営むべきです。両江道にも農業科学研究機関があるのですから、気候風土に合わせて品種を改良し、作物の配置と栽培法も改善すべきです。かつて、個人農が焼畑耕作をしたように、農業をいい加減に営んではなりません。

 野菜の試験栽培を続けて、野菜問題を必ず解決すべきです。両江道がまだ食糧を自給自足できない状況のもとで、道内の人民と革命戦跡の踏査者に供給する穀物は他の道から持ってくるとしても、野菜は道内で生産して供給すべきです。

 人民の生活を向上させるためには、地方工業の発展に力を入れなければなりません。金日成同志が昌城連席会議で示した方針どおり、山間地帯の特性を生かして山を十分に利用し、地元の原料源に依拠する地方工業を大々的に発展させるべきです。そうすれば、人民に生活必需品を十分に供給し、人民の生活を向上させることができます。

 両江道の自然地理的条件は、どの郡を見ても昌城郡よりはましだと言えます。両江道の幹部は昌城郡の模範に見習い、人民の生活を向上させるために奮闘すべきです。

 両江道の占めている位置は重要なのですから、道党責任書記と道人民委員長をはじめ、道の責任幹部は力を合わせて仕事に励まなければなりません。両江道の幹部は、両江道を革命戦跡の道にふさわしく立派に整え、政治、経済、文化の各部門の活動を速やかにもりたて、金日成同志の高い政治的信頼と期待にこたえるべきです。
出典:『金正日選集』増補版2


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