金 正 日

劇映画『崔家の人々』を反米教育に寄与する
名作として完成させるために
―文学・芸術部門の活動家および創作家への談話― 
1966年12月27日 

 このたび、劇映画『崔家の人々』の制作で創作家が苦労しました。

 この映画の完成フィルムを見ての金日成同志の教えに従って皆さんが修正した映画演出台本を金日成同志に見てもらいました。

 金日成同志は、修正された演出台本を見て、他の場面の修正はよいとして、崔牧師の息子の成根(ソングン)と、彼の義弟になるはずの英洙(ヨンス)との対決シーンでは、まだ英洙のせりふが弱いと述べました。金日成同志は、傀儡軍の大尉である成根が人民軍の分隊長である英洙に向けた銃口を下げざるを得なくなる妥当性が、彼らのせりふに強く表現されるべきなのだが、そうなっていないと述べました。

 英洙のせりふに、成根が民族反逆者として人民の審判を受けたくないなら、恥ずべき傀儡軍生活に見切りをつけて人民の側に立たなければならないという思想を強く打ち出すべきです。

 英洙の恋人で成根の妹である成姫(ソンヒ)のせりふも、そのようなものにすべきです。英洙と成姫が成根の民族的良心に強く訴えてこそ、銃口を下げる生活的な妥当性が映画的に解決されるのです。

 そういう方向でせりふの修正作業をやり直すべきです。

 数日前、金日成同志は劇映画『崔家の人々』を見て、わが国でまだ宗教問題が未解決なので、それを解決しようとしてこの映画を制作したかのような印象を与えてはならないとし、今わが国には宗教問題は存在しないと述べました。金日成同志はこの映画を通じて、わが国で宗教がどのようになくなり、宗教家がどのように改造されたかを正しく示すべきであるとし、映画に盛り込まれた話が江東郡の牧師なのか大同郡の牧師なのかにかかわりなく、牧師がアメリカ人に反対するものにすればそれでよいと述べました。

 わが国での宗教問題は祖国解放戦争の時期に解決ずみです。キリスト教について言うならば、それは19世紀の後半期にアメリカ人宣教師によってわが国に急速に伝播しました。戦争前には北半部にもその信者がたくさんいましたが、戦時にアメリカ帝国主義侵略者の野獣じみた爆撃によって礼拝堂がことごとく破壊され、彼らの殺人蛮行によって多数の信者が犠牲になり、生き残った信者も大同郡の牧師のように目覚めてキリストを信じなくなりました。今共和国北半部には宗教を信じている人がわずかしかいないうえに、信教の自由が法的に完全に保障されているので、宗教問題では何も提起されていることがありません。

 劇映画『崔家の人々』では、キリストを信じる宗教家や信仰そのものを問題にするのでなく、アメリカ帝国主義を「神様」のように信じ崇める崇米事大主義者を問題にし、アメリカ帝国主義に幻想的に対する立場と態度を問題にすべきです。

 創作家は金日成同志が示した創作方向にもとづいて、劇映画『崔家の人々』を思想性・芸術性の高いものにするため多くの努力を傾けました。しかし、もう少し力を入れるべきです。

 鐘つきの老人を撃てと強要された成根が、突然向き直ってキングスターの胸に拳銃を発射するシーンでも、そのように急変する彼の内面世界を映画的にさらに納得がいくように描出しなければなりません。

 以前、演劇『崔家の人々』を「反動作品」と糾弾した一部の人たちは、成根のような傀儡軍の大尉を立ち返らせたのは階級性がないと非難しましたが、それは正当な批判だとは言えません。問題は成根を立ち返らせたことにあるのでなく、彼のそのような行動を納得できるように描出できなかったところにあるのです。

 毒蛇のようなアメリカが自分の体と「韓国」の腰にきりきり巻きついていることを知っていながらも、それを甘受しなければならないのが「弱小」民族の悲しみだと考えている成根のような恐米分子が、アメリカ人に銃口を向けるというのは決して容易なことではありません。したがって、そのように行動する人間を形象化するためには、民族的意識に目覚める過程を納得できるように描かなければなりません。演劇では成根が目覚める過程を一場面で見せるのは非常に難しいことでしたが、映画では回想の手法を自由に使えるのですから、それを一場面で十分、集中的に描き出すことができます。

 映画は、鐘つきの老人に銃口を向けた瞬間に、成根がすでに体験した生活とアメリカ帝国主義に対する彼の憤怒を生々しい絵図に描き出してみせるべきです。幼いころ、鐘つき老人の懐に抱かれ、綱を手にして鐘を打った生活を思い出させ、その狂おしい鐘の音を聞きながら、死んだ姉とアメリカ人を呪う母の顔、姉を殺し朝鮮人を手当たり次第に虐殺してあざ笑うキングスターとリチャードの汚らわしい形相を連想させ、自宅の庭で英洙と銃口を向け合って対決した時、自分を厳しく弾劾して叫んだ英洙と成姫の姿を思い起こさせるべきです。こういう回想シーンを巧みに描出すれば、アメリカ人の胸板に銃口を向けかえて発射する成根の行動がうなずけるようになり、そのような決定的な行動をとる彼の精神状態と意識発展の過程を、民族的意識に目覚める過程として感得できるようになるでしょう。

 映画は演劇と同じように、性格創造の劇芸術です。映画は、人物の性格とドラマ性を明確に生き生きと形象化してこそ、思想性・芸術性の高い作品になります。

 劇映画『崔家の人々』は、否定的人物の形象を基本にした新しいスタイルの作品であるだけに、崇米分子である崔学信(チェハクシン)牧師とその息子の成根、そしてアメリカ帝国主義侵略者のさまざまな人物を、生き生きとした個性によって性格化することに特別な力を傾けるべきです。 文学・芸術作品における人間の性格は、一定の階級と階層を代表する社会的・階級的典型として描き出されながらも、それぞれが固有の特徴を持つ非反復的な個性として形象化されてこそ、大きな思想的・美学的価値と魅力を持つことができます。

 人物の性格描写で大切なのは、彼らの思想・意識です。思想・意識は人間の精神世界において核心をなし、性格の基本的特徴も思想・意識によって決まります。それは、人間のあらゆる活動が思想・意識によって規定され推進され、知識や感情も思想・意識によって規制されるからです。

 人間にとって思想・意識はその性格を特徴づける基本的要因となります。だからといって、思想が同じであれば性格も同じになるというわけではありません。例え、同じ思想を持っているとしても、それに対する理解の程度と信念に差があり、それが思考と行動において違ったあらわれ方をするので、人ごとに相異なる性格的特性を持つようになるのです。

 創作家は、思想・意識と性格の相互関係に対する正しい理解を持って、劇映画『崔家の人々』の主人公崔牧師とその息子の成根を、アメリカ人を信じ崇める崇米主義者として描きながらも、彼らをそれぞれ性格の異なる人物として典型化、個性化しなければなりません。

 崔牧師について言うならば、数十年もの信仰生活を通してキリスト教に対する信仰と、アメリカに対する幻想が一つに凝結した徹底した崇米分子でした。アメリカを「神様」と信じて無条件崇拝するのは、崔牧師の性格を特徴づける基本的思想です。

 したがって映画では、崔牧師のそうした思想・意識から彼のすべての行動と感情が生じ、彼がなめる深刻な家庭的悲劇の主観的要因もまさにここにあるということを十分に描き出してみせなければなりません。

 徹底した盲目的な崇米主義者としての崔牧師の性格を正しく表現するためには、朝鮮人民に対するアメリカ兵の野獣じみた蛮行を見ても、それをアメリカ帝国主義の侵略的本性とみなすのでなく、「神様」を裏切った個別的なアメリカ人の過ちとみなす彼の崇米主義的立場と態度を克明に描き出すべきです。映画では、アメリカに対する幻想のため、彼らが愛国者を逮捕しようと血眼になって探しまわっているにもかかわらず、みずからリチャードを訪ねて自宅にかくまっている人民軍の英洙を救ってもらいたいと頼み、キングスターが長女の成玉(ソンオク)を殺した事実を信じようとしない崔牧師の行動と内面世界を納得できるように描写しなければなりません。

 成根にしても、思想のうえではアメリカを信じ崇める父親の崔牧師と大同小異だと言えます。しFかし彼は、崇米思想の生活的基礎と信念、知性と行動において父親とは異なる特徴を持っています。成根は、その侵略的本性を全く知らずにアメリカを「神様」と信じ、たてまつる崔牧師とは異なり、アメリカを毒蛇として認識し、その毒蛇が自分の体と「韓国」全体をきりきり巻きにしてのどを締めつけていることをよく知っていながらも、それをどうすることもできない宿命として受け止めている恐米分子です。

 成根の性格描写ではまず、恐米分子としての彼の性格の主な特徴を十分に描き出すべきです。これと同時に、アメリカ人の蛮行と民族的蔑視に強い民族的侮辱と憤激を感じながらも、どうすることもできない傀儡軍将校の境遇と苦悩を描くことが大切です。恐米思想とともに、知性もあり、民族的憤りもあるこのような性格的特質を生活的に深く掘り下げてこそ、同胞の胸に弾丸を打ち込まなければならないその劇的な瞬間に、恐米の思想的束縛から抜け出してアメリカ人の胸板に向けて銃を発射する彼の断固とした行動と突然の精神的変化が、性格の論理に従って描き出されます。

 リチャード、キングスター、ジェームスの形象も、侵略者としての多様な個性的性格が明白に現れるように描くべきです。

 リチャード、キングスター、ジェームスはいずれも朝鮮に対するアメリカ帝国主義の侵略政策の代弁者、執行者です。彼らは侵略者という意味ではいずれも悪どい連中です。しかし彼らは、アメリカ帝国主義の侵略政策の実行においてはそれぞれ異なる任務を果たしており、侵略の手段と方法に対する理解と信念においても違いがあります。したがって、彼らを同じ侵略者として描きながらも、相異なる性格的特徴をあざやかに浮き立たせ、鋭く描き出すべきです。

 アメリカ帝国主義侵略者は常にそうであったように、朝鮮戦争の時にも片手には銃をとって公然たる武力侵攻を強行しながら、片手にはオリーブの枝を手にして朝鮮人民を欺瞞し、思想的・文化的攻勢を強化しました。映画でリチャード、キングスター、ジェームスの野獣性と狡猾さを十分に描き出すためには、アメリカ帝国主義のそのような二面政策と結びつけて彼らの性格的特徴を浮き彫りにしなければなりません。

 牧師のリチャードは、アメリカ帝国主義の思想的・文化的侵略の代弁者であるので、彼の形象化においては「神様」「使徒」の、朝鮮人の「友」を装った偽善者の性格、うわべは上品で慈愛深いが、またとなく狡猾で凶悪な個性的特徴を的確に描き出すべきです。

 米軍将校のキングスターはアメリカ帝国主義の武力侵攻の代表者です。彼は大砲万能の「哲学」と信仰を持つ狼として、朝鮮人民を手当たり次第に虐殺することに快感と喜悦を感じる暴虐で残酷きわまる野獣として性格化すべきです。

 ジェームスは、アメリカ帝国主義の二面政策を実行する米中央情報局の顧問です。彼は、リチャードとキングスターを裏で操る権勢のある陰険な人物として描き出すべきです。

 創作家はすべての人物の性格と場面、せりふづかいで反米感情をいっそう明確に打ち出し、劇映画『崔家の人々』を思想的、芸術的により立派に完成させなければなりません。

 劇映画『崔家の人々』は基本的な線が明確になったのですから、今日わたしが指摘した方向で少々修正すれば立派な映画になるでしょう。

 今年ももう数日しかないのですから、修正作業を急ぎ、正月には金日成同志に完成された映画を届けられるようにしなければなりません。
出典:『金正日選集』1巻

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