金 正 日

地方経済の発展に関するわが党の方針の正当性
−1962年8月5日− 

 地方経済の発展は、社会主義経済建設できわめて重要な意義をもつ。地方経済を発展させてこそ、国のあらゆる潜在力を最大限に引き出して社会主義経済建設を強力に推進し、増大する人民の物質的需要をより円滑に満たすことができる。

 金日成同志は、地方経済の発展において画期的な契機となる地方の党および経済活動家蔀療連席会議に備えて、この7月、朔州郡を現地指導した。

 わたしは昌城連席会議の準備を進める金日成同志を補佐するため、朔州郡をはじめ、平安北道の一部の地方の経済実態を調査した。


  1 地方工業の発展について

 中央工業と地方工業を正しく組み合わせて発展させることは、社会主義経済建設の重要な問題の一つである。

 大規模な中央工業は、分業と協業を合理的におこない、新技術を導入して労働生産性の向上を図るうえで大きな優越性をもつ。しかし、中央工業だけでは経済建設と人民生活向上のための問題をそのつど円滑に解決することはできない。

 全国各地に居住する人民の多様な物質的需要を円滑に満たすためには、大規模な中央工業とともに中小規模の地方工業を発展させなければならない。特に、郡が農村の住民に商品を円滑に供給するためには、地方工業を発展させなければならない。地方工業を発展させてこそ、郡がみずからの強固な一般消費財生産基地をもち、農村への供給活動を円滑におこなうことができる。

 地方工業を発展させれば、生産を原料産地と消費地に接近させて多くの社会的労働を節約し、地方に埋もれているあらゆる潜在力と可能性を最大限に引き出して国の経済発展を促し、都市と農村の格差を速やかに縮めることができる。全国に地方工業を均等に配置すれば、一朝有事の際に国と人民の戦時需要を満たすのにも有利であろう。

 わが党は、解放後、新社会の建設に着手した当初から地方工業の発展に大きな関心を払ってきた。

 金日成同志は、特に、戦後、軽工業を速やかにもり立てて人民生活を向上させるという遠大な構想のもとに、すべての郡に多くの地方産業工場を建設することによって全国を稠密な工場網で覆うという賢明な方針を示した。地方工業を発展させるという金日成同志の遠大な構想を実現するうえで、党中央委員会1958年6月総会はとりわけ重要な意義をもつ。

 金日成同志が示した方針にもとづき、わが国の勤労者は数カ月の間に全国各地に1000余の地方産業工場を建設した。そして、かつて工業の基盤がなかった山間部の郡にも数多くの地方産業工場が生まれた。

 昌城郡、碧潼郡とともに朔州郡で起こった大きな変革は、山間部の住民の生活問題を自力更生の原則にのっとつて解決し、地方の自然地理的特性に即して地方工業を速やかに発展させるという、わが党の政策の正当性を実証している。

 地方工業を新たな段階へと発展させるたたかいにおいて、朔州郡が得た成果と経験は非常に貴重なものである。

 朔州郡は、わが国で山間部に属するさほど大きくない郡である。朔州郡には一つの邑と4つの労働者区、10の農村の里があり、人口は4万6500余人である。

 かつて朔州郡には小さな食品工場と酒造工場、家具生産協同組合があったが、技術水準が低く、生産量が少ないため郡の住民の生活にさして助けとはならなかった。

 地方産業を大々的に発展させるという党中央委員会1958年6月総会の決定が発表された後、朔州郡にも地方産業工場が生まれはじめた。1958年6月総会の決定を貫徹するための最初の2年間に6つの地方産業工場が建設されて、1960年にはその数が9つになり、工場の技術装備水準も高まり、労働者の技術・技能水準も著しく向上した。現在、朔州都の地方産業工場で生産される食品と日用必需品は、郡の住民の需要を充足させても余り、一部の製品は他の郡にも供給している。これは、朔州郡の幹部と住民が党政策の貫徹にこぞって立ち上がり、献身的に努力した結果である。

 我々は、朔州郡の地方産業工場の目覚ましい発展ぶりから、地方工業を速やかに発展させるというわが党の政策の正当性と生命力をはっきり読み取ることができる。

 朔州織物工場やトウモロコシ加工工場などいくつかの工場の実態を分析するだけでも、わが党の政策の生命力がよくわかる。

 朔州織物工場は、党中央委員会1958年6月総会の後、ゼロの状態で古い手工業的技術にもとづいて建てられた。

 朔州織物工場は1958年9月8日、10人の専業主婦で組織されたが、最初は1台の在来の織機と4台の糸車で、10平方メートルそこそこの郡幼稚園の奥の部屋を仕事場として仕事を始めた。当時、織工は1人しかおらず、労働者の技術・技能水準が低かったため、一日の織物生産量は14メートルにもならなかった。その後、工場の規模は次第に拡大したが、1960年になっても従業員が49人しかいない小さな工場にすぎなかった。

 日ごとに増大する織物に対する郡の住民の需要を充足させるには、生産能力を一段と高めなければならなかった。ここで第1の問題は、工場の生産面積を拡張することだった。

 郡党委員会は、国が巨額の投資をせず、地元の資材で地方産業工場を建設するという党の方針を堅持し、大衆をその貫徹へと立ち上がらせた。郡党委員会の活動家をはじめ、郡の責任幹部は困難な仕事の先頭に立って建設者を励まし、工事現場で郡党移動拡大執行委員会だけでも6回も開き、大衆を奮い立たせて懸案を解決した。

 工場の拡張工事に立ち上がった郡の幹部と勤労者、主婦は、レンガの代わりに使う大きな石だけでも10万個以上も集め、工場の建設に1万2500余の作業日に相当する労力を提供した。そして、総面積3900平方メートルの敷地に建築面積1080平方メートルの2階建ての工場を短期間で建設した。

 工場は、専業主婦をはじめ、潜在労働力を動員して、懸案だった労働力の問題も自力で解決した。その結果、工場の従業員数は1960年の49人から、1961年にはその3.5倍の171人に増えた。

 郡に建設された地方産業工場で消費財の生産を速やかに増大させるためには、技術革命を推進して古い手工業的技術を近代的な機械技術に改造し、労働者の技術・技能水準を高めなければならなかった。

 朔州織物工場は1961年8月7日の金日成同志の現地教示を心に受け止め、中央工業の支援のもとに技術問題を解決し、短時日に多くの技能工を養成するために奮闘した。

 朔州織物工場の人たちは、糸をほどく作業の機械化に必要な設備を手に入れるため1カ月間も多くの工場を訪ね回り、ついにそれを調達してその作業の機械化をなし遂げた。工作職場の人たちは、自力で3台の横糸巻き機を考案、製作して横糸を巻き取る作業を機械化し、手織機を48台の力織機に替えた。

 朔州織物工場の幹部と労働者は、工場を整備する過程で貴重な経験を積み、決心して取り組むなら不可能なことはないという確信をもつようになった。

 わが党の経済建設の基本路線が貫徹された結果、5カ年計画の末には、既に、自立的重工業の基盤が築かれ、近代的な工作機械工場だけでなく、紡織設備を生産する工場も建設された。

 重工業の基盤にもとづいて、今年、国は朔州織物工場にだけでも150台のチョンリマ織機や5台の動力整経機など近代的な設備を供給した。その結果、朔州織物工場の生産能力は1959年に比べて1962年には14.1倍に伸び、糸ほどき、整経、横糸巻きはもちろん、布織り部門まで完全に機械化された。

 機械設備が急増し、工場の技術装備水準が高まるにつれて、技能工の養成が重要な問題として提起された。近代的な機械設備が多くても、それを扱う人たちが技術を身に付けていなければ何の役にも立たない。

 朔州織物工場は、50人の労働者を亀城紡織工場に派遣して技術を修得させ、彼らに技術のない人を一人ずつ受け持たせて技能工に仕立てるようにさせた。

 その結果、短期間に多くの主婦が2台の織機を受け持つ技能工となり、設備補修工も新たに18人も養成された。現在、労働者の平均技能等級は1961年の3・2級から4級に高まり、労働者一人当たりの織物生産量も急増し、1961年の15メートルから27メートルの水準に達するようになった。

 工場は、技術を革新し、従業員の技術・技能水準を高める運動を、品目を増やし、品質を高める運動と緊密に結びつけて推し進めた。

 品目を増やし、品質を高めることは、地方産業工場が必ず解決すべき問題である。人民生活が向上するにつれて、品質に対する要求はさらに高まる。かつて品物が不足していた時、人民は多少品質が劣っていても何も言わずに買っていったが、いまでは事情が変わった。

 わが党は、良質の消費財に対する人民の多様な需要をより円滑に充足させるため、消費財の質を高め、品目を増やす課題を提起した。

 朔州織物工場は、丈夫で見映えのするさまざまな織物を大量に生産するようにという金日成同志の現地教示と党中央委員会1961年3月総会の決定を心に受け止め、それを実現するためにこぞって立ち上がり、その過程で大きな前進を遂げた。1959年の末までは人絹織物と再生織物しか生産できなかったが、いまでは野生植物繊維を利用して服地、だんだら縞の絹織物など13種の織物を生産しており、品目を増やすために引き続き奮闘している。品目が増えるとともに、質も向上している。

 1960年まで朔州織物工場で生産した織物のうち1級品は一つもなく、2級品は約20%、3級品は70%、そして不合格品が10%もあった。工場の幹部は、質の向上を図るうえで従業員の責任感と技術・技能水準を高めることが重要であることを見てとつてその解決に取り組み、労働者を質向上運動へと立ち上がらせた。その結果、いまでは不合格品はほとんどなくなり、1級品は15%、2級品は60%、その他が25%を占めるようになった。

 地方工業の発展において基本問題の一つは、みずからの強固な原料基地を築くことである。地方工業は中央工業とは異なり、地元の原料源にしっかり依拠しなければならない。そうしてこそ、地方産業工場が国に大きな負担をかけずに人民生活の向上に必要な各種の消費財を量産することができる。

 朔州郡は、野生植物繊維の原料源が豊富な所である。

 朔州郡の幹部は、繊維の原料が豊富な地域の有利さを利用して郡の強固な繊維原料基地を築くため、郡の住民を立ち上がらせた。そして、46ヘクタールのツルウメモドキをはじめ、多くの野生植物繊維の原料源を造成し、今年だけでも88.4ヘクタールのアサ畑を新たに造成した。また、毎年90トンの再生繊維と6トンの獣毛繊維が得られる原料源も造成した。これらの原料源を活用すれば、6600メートルの野生植物繊維織物と3万メートルの麻織物、20万メートルの再生混紡織物など、計35万メートルの織物を生産することができる。

 郡では、豊富な地元の繊維原料源を残らず活用するため、年間766トンの野生植物繊維と再生繊維を処理できる繊維加工工場を新たに建て、みずからの強固な繊維原料基地を築いた。

 繊維原料基地を築く運動は、各工場でも繰り広げられた。今年、織物工場では0.3ヘクタールのツルウメモドキ山と4ヘクタールのクズ山、2ヘクタールのアサ畑を造成し、17ヘクタールの柞蚕林を確保した。

 新技術とみずからの原料源に依拠して地方工業が発展するにつれて、労働者の収入も急速に増えている。従業員一人当た年の月平均賃金は1959年には34ウォンだったが、今年は42ウォンに増える。特に、専業主婦がみな地方産業工場で社会主義勤労者として働くようになって、労働者の世帯当たりの月平均収入は著しく伸び、生活水準も急速に向上している。労働者の1世帯当たりの月平均収入は1959年には64ウォンだったが、1962年には80ウォンに増える。

 1世帯当たりの収入が伸びるにつれて、労働者の生活水準も絶えず向上している。朔州織物工場の従業員は、この間、45代のミシン、196棹の洋服ダンス、140個の時計をはじめ各種の文化用品と家具を購入した。

 工場は、従業員の技術・技能水準向上運動をさらに強化する対策を立て、今後、技術者を50人以上養成し、すべての労働者の技能等級を5級以上に高めることを計画している。

 7カ年計画の末には、工場は布織りはもちろん、糊付け、整経など全工程を完全に機械化し、年間280万〜300万メートルの織物を生産する能力を備える。そうすると、7カ年計画の期間に生産量が著しく増大し、郡の人口一人当たり50メートル以上の織物が行き渡るようになるだろう。今後、わが国で地元の原料源を残らず活用する運動を引き続き強力に展開するならば、7カ年計画の末には地元の原料による織物生産の比率を60%以上に高めることができるだろう。

 郡幼稚園の奥の部屋で10人の専業主婦が1台の織機で始めた朔州織物工場は、4年が過ぎたこんにち、年間100万メートル以上の織物を生産できる機械化された織物工場に発展した。

 朔州織物工場をこのように発展させる過程には、幾多の障害と困難が横たわっていた。しかし、難関にぶつかるたびに、朔州織物工場の労働者、事務員と郡の住民は、金日成同志の教えと党の政策を無条件に貫徹するという確たる信念をもって、あらゆる困難と障害を乗り越え、ついに今日のような輝かしい成果をおさめることができた。

 朔州トウモロコシ加工工場は、1957年11月に精米工場の分工場として建設されて操業を開始した。当初は生産用建物は1棟しかなく、原料を処理する付属建物は1棟もなかった。機械設備は精米機が5台、トウモロコシ精選機が2台、胚芽分離機が3台、製粉機が2台あり、それでひき割りトウモロコシも生産していた。ところが、機械設備が立ち後れていたため、13人の労働者が懸命に働いても1日にひき割りトウモロコシを4トンしか生産できず、その質も非常に低かった。胚芽の回収率はわずか1〜2%にすぎず、それさえ製油用には使えず、すべて飼料にしていた。1960年まで朔州トウモロコシ加工工場は、従業員数にしても技術装備の水準にしてもこれという前進は見られなかった。

 金日成同志は、朔州トウモロコシ加工工場の実態を把握し、朔州郡の幹部に、トウモロコシはすべてひき割りにして人民に供給し、胚芽を残らず回収して油をとり、人口一人当たり一日に10〜20グラム供給するようにと指示した。

 郡の幹部は、トウモロコシ加工工場の労働者と郡の住民を金日成同志の指示の貫徹へと奮い立たせた。そして、1961年の初めに搾油作業班が新たに設けられ、従業員数はほぼ3倍、16人の主婦を含めて35人に増えた。

 工場の設備は、1559年に18台だったが、1961年には25台に増加した。現在、工場は精米機5台、トウモロコシ精選機3台、製粉機2台、胚芽分離機5台、水圧式搾油機3台、水圧式圧搾機1台、電動機8台を保有している。

 工場は、ひき割りトウモロコシの質を高め、より多くの油を生産して人民に供給することに大きな力を入れた。

 党組織は、ひき割りトウモロコシの質を高めるため、幹部を定州や順安など、他の地方のトウモロコシ加工工場に派遣して貴重な経験を学ばせる一方、従業員の間に金日成同志の教示と党の政策を浸透させ、労働者と広く協議して先進技術と新しい作業方法を生産に積極的に取り入れる活動を綿密におこなった。党組織の指導のもとに、工場の労働者は自力で1台のひき割り機と2台の胚芽分離機を考案、製作して生産に取り入れることにより、ひき割りトウモロコシを規格どおりに生産し、胚芽の回収率も著しく高めた。工場はまた、237平方メートルの原料倉庫と製品検査場を建設し、倉庫にベルトコンベヤーを設置することにより、原料の投入から製品検査に至るまで全生産工程を機械化し、生産性を著しく高めた。その結果、ひき割りトウモロコシの生産能力は一日当たり4トンから18トンに増加し、年間5600トンのトウモロコシを処理し、郡の需要を自力で充足させることができるようになった。胚芽の回収率も従前の2%から7%に高まった。

 少し前まで、4台の手動式搾油機によって、16人の主婦が手工業的な方法で一日に80〜100キログラム程度の油を生産できるにすぎなかったこの工場が、今年は手動式搾油機を水圧式搾油機に替えることにより、仕事を楽にしながらも生産性を3倍に高め、油の実収率も10%から16%に高めることができた。

 工場では、搾油能力の向上に伴って原料の供給が重要な問題となった。搾油機の胚芽処理能力は年間500トンだったが、工場が回収できる胚芽は年間350トンにすぎなかった。

 工場は油の原料の問題を解決するため、農民が消費するトウモロコシの加工と、ひき割りトウモロコシとトウモロコシの交換を行う一方、技術的支援を与えて7つの里に小形胚芽分離機を設置し、胚芽を回収するようにした。その結果、今年の上半期には215トンの胚芽を回収し、20トンの油を生産することができた。

 朔州トウモロコシ加工工場で難問の一つに数えられたのは、労働者の技術・技能水準を高めることだった。

 労働者の大部分は、水圧式搾油機を見たこともない主婦たちだった。工場はこうした労働者の実情を考慮して技術学習と技能伝習の強化に特に関心を払い、労働者もみずからの技術・技能水準を高めるため懸命に努力した。その結果、主婦たちはみな有能な機械工、修理工になり、労働者の平均技能等級は4級から5級に高まった。

 生産工程が機械化され、労働者の技術・技能水準が向上するに伴い、工場の総生産額と労働者一人当たりの生産額も急増した。1959年の総生産額は3万4000ウォンだったが、1962年には8万900ウォンに増え、労働者一人当たりの生産額は同期間に1876ウォンから2448ウォンに高まることになる。

 労働者の月平均賃金は1959年の32ウォンから1962年には46ウォンに増え、労働者の月平均一世帯当たりの収入は同期間に58ウォンから89ウォンに増えるだろう。

 今後トウモロコシ加工工場は、トウモロコシの機械への投入から製品の運搬に至るまで、全工程の流れ式機械化を完成することになる。年内に一日のひき割りトウモロコシ生産量は18トンから24トンに増大し、胚芽を500トン回収して年間100トンの油を生産することになるだろう。工場は、労働者の間で技能伝習と技術学習を強化し、先進企業の見学を活発におこない、労働者の平均技能等級を5級から5.5級に高めることを目標に奮闘している。

 食品工業の発展は、地方工業の発展において重要な位置を占める。食品工業を発展させて、しよう油、みそはもちろん、各種の菓子類、副食物を大量に生産してこそ、人民の生活を速やかに向上させることができる。

 わが党は地方工業を建設するにあたって、地元の原料源に依拠する食品工場の建設に大きな関心を払った。

 食品工業を発展させるという党の方針が貫徹され、近年、朔州食品工場は画期的な発展を遂げた。

 朔州食品工場は1951年に操業を開始したが、しよう油やみそを生産する程度だった。朔州食品工場は1958年までは従業員が52人にすぎない小さな工場だったが、1961年には従業員は82人に増えた。

 朔州郡では、今年に入って、食品工場の生産能力を高めるため工場を拡張した。工場の労働者と郡の住民の勤労闘争によって、朔州食品工場は敷地1万1000平方メートル、建築面積2424平方メートルの大工場になった。朔州食品工場は、以前のようにしょう油、みそ、トウガラシみその生産にとどまらず、油、あめ、菓子などさまざまな加工食品を生産している。

 朔州郡には、食品工場のほかにも酒造工場、家具生産協同組合、製紙工場、農機具工場など各部門の地方産業工場がある。

 朔州郡の地方産業工場の実態は、工業の基盤がほとんどない山間部の農村の郡でも、その実情に即して地方産薬工場を建設し、地元の原料源に依拠して生産を発展させていくならば、人民の生活を速く向上させることができることを示している。

 朔州郡の地方工業の発展史は、地方工業を発展させるというわが党の政策の正当性を生き生きと実証している。

 朔州郡の経験は何よりも、大衆を動かして地元の潜在力を引き出す方法で生産を高めるという、わが党の地方工業建設方針が全的に正しいことを示している。

 金日成同志は、全国各地に地方工業を創設するという方針を打ち出した時、地元の潜在力を引き出せば生産を十分高めることができると考えた。

 朔州の織物工場やトウモロコシ加工工場、食品工場などの地方産業工場は、実態資料が示しているように、国の巨額の投資なしに、主に地元の潜在力を引き出して創設された。朔州郡では、地方工業の建設と運営に必要な労働力と技術、原料と資材を内部の潜在力を引き出す方法で解決した。朔州郡の幹部は政治活動に力を入れ、大衆を地元の潜在力を引き出す運動に立ち上がらせた。住民が金日成同志の教えを体してこぞって立ち上がったので、なかった資材も生まれ、新技術も開発され、原料基地も築かれた。

 これによって、生産成長の潜在力は至るところにあり、潜在力を引き出すことは生産を拡大するうえで大きな役割を果たすということがわかる。朔州郡が地方工業を創設して消費財の生産を高めた経験は、蓄積だけが生産拡大の源泉ではなく、内部の潜在力も生産成長の重要な源泉となることを示した。

 内部の潜在力は蓄積とは異なり、追加的な投資なしに生産を高めるための重要な源泉である。社会主義経済建設において、内部の潜在力を引き出すことは非常に重要な課題として提起される。わが党の地方工業建設方針は、まさに内部の潜在力を引き出して消費財の生産を高めるという金日成同志の遠大な構想を具現したものである。

 朔州郡の地方工業建設の経験は、大衆を思想的に啓発すれば、内部の潜在力をいくらでも引き出すことができることを示した。内部の潜在力を引き出す秘訣は、人々の思想を啓発することにあり、政治活動を先行させて人々の思想を啓発すれば、内部の潜在力を最大限に引き出して生産を速やかに高めることができる。

 朔州都の経験はまた、自力更生し、生産者間の創造的協力を強化して地方工業を発展させるという、わが党の政策が全的に正しいことを示している。

 朔州郡が地方産業工場を建設し、地方工業の運営に必要な技術と原料、資材を解決する過程には大きな困難が横たわっていた。しかし、郡の幹部と勤労者は、自力更生の革命精神を発揮し、同志的に協力してあらゆる困難を克服し、今月のような発展をもたらした。

 自力更生は、古いものを一掃し、新しいものを創造するためにたたかう共産主義者が身につけるべき革命精神である。自然を改造して人民に幸福な生活をもたらすための経済建設の課題も、自力更生の革命精神をもって解決していかなければならない。

 生産者が同志的に協力し助け合うのは、社会主義的生産関係、社会関係の重要な特徴である。国家主権が人民の手中にあり、生産手段が社会的所有となっている社会主義社会では、人民大衆は社会の真の主人となり、彼らの間には団結と協力の関係が結ばれる。社会主義社会では、企業間、生産者間に資本主義社会におけるような「営業の秘密」といったものはありえず、互いに技術を教え合い、経験も交換し、同志的に協力してあらゆる問題を解決していく。

 朔州郡の地方工業建設の経験は、生産者大衆が自分の力を信じて自力更生の革命精神を発揮し、中央工業が地方工業を支援し、知っている人が知らない人を助けるならば、いかなる困難な問題も立派に解決できることを示した。

 朔州郡の経験はまた、郡を単位にして地方工業を発展させるというわが党の政策が全く正しいことを示している。

 金日成同志は、わが国において郡の占める位置を科学的に分析し、党中央委員会1958年6月総会で地方工業を発展させるという方針を提示した際、既に郡を単位にして地方工業を建設するという雄大な構想を練っていた。

 政治と経済、文化の各分野で都市と農村の連係を強めるのは、社会主義・共産主義建設における原則的な問題である。

 都市が発生して以来、長期間にわたって搾取社会が持続する過程で、都市と農村の対立が激化した。わが国の都市と農村における社会主義的生産関係の全一的支配は、長期間にわたる都市と農村の対立を一掃した。これは大きな歴史的出来事である。

 しかし、社会主義制度が確立した後も長い間、都市と農村の格差は残っている。都市と農村の格差をなくすことは、社会主義・共産主義建設における我々の重大な課題である。この課題を解決するためには、都市と農村の連係を強めて政治、経済、文化の各分野で都市が農村を支援し、あらゆる面で農村の後進性を克服し、農村を都市の水準に引き上げなければならない。

 都市と農村の連係を強めるには、一定の地域的拠点が必要である。

 金日成同志は、わが国で郡を地域的拠点と規定し、農業も郡を単位として発展させるという遠大な構想のもとに郡農業協同組合経営委員会を組織し、地方工業も郡を単位として発展させるという賢明な方針を打ち出した。

 朔州郡の地方工業建設の経験は、郡を単位として地方工業を発展させることが、工業と農業間の生産的連係を強め、農村の供給活動を強化するための合理的な道であることを示した。これは、郡を単位として地方工業を発展させたわが党の政策が、都市と農村の格差を次第になくし、社会主義・共産主義建設を推し進める最も正しい政策であることを実証している。


  2 農業の発展について

 農業は、工業とともに人民経済の2大部門の一つである。農業を発展させてこそ、食糧に対する人民の需要と原料に対する工業の需要を円滑に充足させることができる。

 農業は、特に、地方経済の発展において重要な位置を占める。農業を発展させずには、地方経済を総合的に発展させることができず、地方の住民の生活を向上させることもできない。それゆえ、すべての郡は、地方工業とともに農業の発展を責任をもって指導し、地方の自然的・経済的条件に即して農業を合理的に発展させなければならない。

 地域の特性に即して農業を発展させるうえで、朔州郡の経験は非常に貴重である。

 朔州郡は、耕地面積が3800余ヘクタールしかなく、それさえ大部分はやせた斜面畑で、田は270余ヘクタールにすぎない。農家は約2000戸で、組合員は4200余人であり、主な農産物はトウモロコシである。

 これまで朔州郡は、耕地面積を効果的に利用してより多くの穀物を生産し、山を合理的に利用して畜産業を発展させるという党の方針を貫徹することにより、農業を発展させ、農民の生活を向上させるうえで大きな成果をおさめた。それは、農家1戸当たりの分配量の伸びを見ただけでもよくわかる。郡では、1959年に1戸当たり穀物は2トン、現金は258ウォンずつ行き渡ったが、1961年には穀物は2.4トン、現金は555ウォンに増えた。これは山間部の郡としては低い水準ではない。

 朔州郡の農業の発展状況を具体的に把握するため、郡機関所在地にある邑農業協同組合の実態を分析してみた。

 邑農業協同組合には、205戸の農家と1135人の住民がある。組合員数は500余人であり、そのうち女性は325人である。組合の耕地面積は300ヘクタールだが、田は34ヘクタールしかなく、畑が228ヘクタール、果樹園が21ヘクタール、桑畑が17ヘクタールである。

 かつて、この地方の農民たちは、やせた斜面畑だけではいくら努力しても農業を立派に営むことはできないと考えていた。

 しかし、邑農業協同組合は、地域の特性に即してトウモロコシ栽培を基本として畜産業を合理的に結びつけ、穀物の収穫高も高め、畜産業も発展させた。組合の穀物収穫高の成長状況を見ると、1959年には482トン、1960年には595トン、1961年には682トンで、3年間に141.5%の成長を遂げた。

 山間部の郡で農民の生活を速やかに向上させるには、山を合理的に利用して、兎、羊、ヤギ、牛などの草食家畜を大々的に飼育する方向で畜産業を発展させなければならない。年に羊を1頭飼えば150ウォン、ガチョウを1羽飼えば80ウォンの収入を得るとのことである。畜産業を発展させれば、農民の現金収入を伸ばし、勤労者の食生活を改善するとともに、地方産業の原料問題も円滑に解決することができる。

 朔州邑農業協同組合は、山間部の協同組合の実情に即して、数年前から草食家畜を主として畜産業を発展させてきた。そして現在、110頭の牛、2502匹の兎、132羽のガチョウ、30匹のヤギ、532頭の豚を飼育している。

 組合は、兎を大々的に飼育することに大きな力を入れている。

 兎は、飼料穀物を使わなくても多くの肉と毛皮が得られる生産性の高い家畜である。組合は、兎の飼育に必要な飼料を天然飼料を基本として調達している。冬期用飼料としてはクズ、アカシアの葉、柳の葉など野生植物飼料と豆さや、トウモロコシの葉など穀草類を多く用意して利用した。冬でも、母兎には液汁とビタミンが豊富な樹枝飼料を切らさず与えて子を生ませている。

 夏期には、山間部に多いさまざまな草を与えた。青刈飼料の50〜60%はクズやアカシ.アなど豆科の植物とし、40〜50%はオオバコ、タンポポ、ノゲシなどの野草を多様に混ぜ合わせた。

 組合は、現有の兎を生産性と収益性の高いアンゴラ兎にかえている。組合は既に1580匹のアンゴラ兎を生産した。現在、母兎が350匹に増えたので、全般的にアンゴラ兎の飼育に移行する可能性が生まれている。この他に、組合には136匹の雑種の母兎がいる。

 組合は、今後、兎を大々的に飼育し、幼児と児童・生徒に兎の毛皮のオーバーを着せることを計画している。

 組合は、1960年から草食のガチョウを飼育しはじめ、当初は技術上の難問が多く生じたが、いまではそれらの問題を解決し、生産を正常化して100羽以上飼育してい.る。組合は、ガチョウの生理的特性に即して夏は放し飼いにし、冬には乾草やトウモロコシの茎や芯などを与えている。ガチョウは草だけ食べても、4カ月で4〜6キログラムになる。ガチョウは、鶏の2〜3倍の肉をとることができる。組合は、牛、羊など他の家畜も、天然飼料基地を造成し、輪換放牧を合理的におこなって飼育している。

 朔州邑農業協同組合で耕地を効果的に利用して穀物の収穫高を高め、草食家畜を大々的に飼育する方向で畜産業を発展させた結果、農家1戸当たりの分配量が引き続き増えている。組合の農家1戸当たりの分配量は、1959年には穀物1トン378キログラム、現金319ウォンだったが、1960年には穀物2トン38キログラム、現金626ウォン、1961年には穀物2トン384キログラム、現金637ウォンに増えた。

 朔州邑農業協同組合の実態資料は、山間部の農業を発展させ、て農民の生活を均等に向上させるという、わが党の政策の生命力を実証した。

 土地は農業の基本生産手段なので、山間部の不利な土地条件が農業生産と農民の生活に一定の影響を及ぼすことは確かである。しかし、土地条件が農業生産と農民の生活を左右するわけではない。農業生産と農民の生活は、人々が土地をいかに改良して利用するかにかかつている。

 土地を改良して地力を高め、土地を利用するうえで適地適作の原則を守り、山をひかえた所では山を効果的に利用するという党の方針を貫徹するなら、山間部の農業生産を十分発展させることができ、人民の生活を向上させることもできる。

 朔州邑農業協同組合は、わが党の方針どおりに農産と畜産を正しく結びつけて、土地を改良し、適地適作の原則にもとづいて農業を営んで穀物の生産を高めただけでなく、山の多い地域の特性を効果的に利用して草食家畜を大々的に飼育する方向で畜産業を発展させることによって農民の収入を増やした。

 しかし、朔州邑農業協同組合で万事がうまくいっているとは言えない。特に、郡機関所在地の農業協同組合として生産配置が合理的になされているとは言えない。

 朔州郡の自然地理的条件と経済状態からして、この郡の農業は食糧供給基地としてだけでなく、地方工業の原料基地としての役割も立派に果たさなければならない。そのためには、穀物とともに急速に発展する地方工業に原料を十分に供給できるように農業の発展方向を規定しなければならない。ここで基本は、穀物の生産を引き続き増やしながら、野菜と工芸作物、肉、卵の生産に力を入れることである。

 穀物の生産に引き続き力を入れることは、朔州郡の場合も例外ではない。耕地面積のほとんどが畑である朔州郡では、トウモロコシを多く栽培して収穫高を高めるための万全の対策を立てるべきである。

 朔州都は、やせ地を沃地に改良しうる可能性が十分ある。朔州郡では、山に無尽蔵にある草を刈り取って緑肥を大量につくることができ、家畜を大々的に飼育しているので厩肥も豊富である。やせ地でも堆肥をたくさん施し、よく手入れすれば、沃地に改良して穀物の生産を速やかに高めることができる。

 朔州郡では、穀物の生産を高めるための正しい対策を立てるとともに、郡内の需要を満たすことができるように野菜基地を築く問題にも大きな関心を払うべきである。地元の気候風土に適した野菜の品種をつくり出し、野菜基地の物質的・技術的土台を築く事業を強力に推し進めるべきである。

 野菜基地を強固に築き、工芸作物を多く栽培し、野生の果実をはじめ、天然原料を採取して適時に売り渡すのは、郡内の地方工業を早く発展させるための必須の要求である。

 地方経済を発展させるには、郡の役割を一段と高めなければならない。朔州郡の経験が示しているように、郡が奮起して党の方針を粘り強く貫徹していくならば、内部の潜在力を引き出して地方産業を発展させることができ、例え、耕地面積が少なく、土地が傾斜し、やせている山間部の郡でも、自力で農業をさらに発展させて人民の生活を十分向上させることができる。

 現在、わが国の地方産業工場はほとんどが郡にあり、農業の指導も郡が受け持っている。地方産業工場の原料基地を造成する問題も、地方工業と農業との緊密な連係を保つ問題も、郡が受け持って解決していかなければならない。

 郡が農民から穀物はもちろん、農業副産物や畜産物、工芸作物を適時に買い上げて地方産業工場に供給してこそ、地方産業工場がその能力を十分に発揮することができ、農民の生産意欲を高めることもできる。また、郡が地方産業工場で生産される消費財をすべての農村の里に円滑に供給してこそ、農民の生活も向上させることができる。

 わが党は、都市と農村の格差をなくし、労働者と農民の生活を均等に向上させ、平野部の農民も山間部の農民もともに豊かに暮らせるようにするために奮闘している。この課題も、郡を立派に整備し、郡の役割を高めてこそ成功裏に実現することができるのである。郡を立派に整備し、郡の役割を高めることは、現在わが国の社会主義農村建設において提起されている切実な要求である。

 郡には、地方経済を発展させることのできるあらゆる条件と可能性が備わっている。要は、幹部が地方経済を発展させるという党の方針をいかに貫徹するかにかかつている。

 郡は、既存の地方工業の基盤をかためて拡大、発展させ、技術を革新して、一般消費財に対する地元の需要のより多くをみずからの生産によって充足させるために努力しなければならない。

 そのためには、山を合理的に利用して地方工業の原料基地を絶えず拡大するとともに、技術革新運動を引き続き展開して生産工程を機械化し、生産文化を高めなければならない。同時に、地元の需要を見積って被服工場、金物工場などさまざまな中小規模の工場を年次別に建設する事業を強力に推し進めるべきである。

 郡はまた、農業を郡の地域の特性に即して発展させ、日ごとに増大する地方工業と住民の農産物に対する需要を充足させなければならない。

 郡は、穀物の生産に引き続き力を入れながら野菜の生産を増やし、自然的・経済的条件に即して畜産基地をより強固に築いていくことが必要である。

 我々は、郡を立派に整備し、その役割を高めることにより、地元のあらゆる潜在力と可能性を最大限に引き出して経済をさらに発展させ、人民生活を一段と向上させるという、金日成同志の遠大な構想を立派に実現しなければならない。

出典:『金正日選集』増補版1


<参考>「革命と建設に対する金日成主席の指導を補佐して」

 『金正日総書記革命活動史』第2章−第3節は、次のように記述している。

 総書記は、当該部門の実態をつぶさに把握し、それにもとづいて党の路線と政策を作成する主席の活動を補佐した。

 まず、歴史的な朝鮮労働党第4回大会の報告を作成する主席の執筆作業を積極的に助けた。第4回党大会(1961年9月11日、開催)を控えて、政治、経済、文化、軍事、国際関係など各分野の膨大な資料や文献を収集、整理し、主席が執筆した大会報告を清書して差し上げた。

 総書記は、さらに主席が進めていた地方の党および経済活動家昌城連席会議の準備作業を積極的に補佐した。

 主席は1962年7月、山間地帯の経済発展と人民生活向上のモデルとして定めた昌城郡の経験を全国に一般化するため、現地で地方の党および経済活動家昌城連席会議(1962年8月7日開催)を準備していた。

 総書記は、参会者たちの見学対象として予定されていた昌城郡と朔州郡へ行って地方産業工場と協同農場の実態を調べた。これにもとづき1962年8月5日、「地方経済を発展させるためのわが党の方針の正当性」と題する論文を執筆した。

 この論文で、朔州郡の経験は、郡が決心して粘り強く党の方針貫徹に取り組むならば、地方工業と農業をさらに発展させ、人民の生活を十分向上させることができることを示していると強調し、具体的な数字と実際の資料によってそれを立証した。

 この論文で分析した資料は、昌城連席会議を準備していた主席にとって大きな助けとなった。後日、主席はこのことを回想して、昌城連席会議を開くときモデルケースを作り、文書の準備をするなどで難問が多かったが、会議がわたしの意図どおり順調におこなわれたのは金正日同志がわたしの意図と考えをすっかり見抜いてあらかじめいろいろと助けてくれたからだと語っている。


<参考>金正日総書記は、人民の生活実態にかんする研究について大学生のころには体系化していた。総書記は、金日成主席の労作をはじめとする数多くの書物を通じてこの部門についての理論的な研究を深める一方、系統的に全国的範囲での統計資料を集めている。そして、学期ごとの休みには、ほとんど例外なく地方にでかけて人々の生活を調査している。

 ある年の8月、山村の幼稚園を訪ねた総書記は、子どもたちの歌を聞いた後、子どもたちに弁当箱を持ってこさせ、それらを一つずつ開けてみた。ほとんどがジャガイモであった。食生活が豊かではないように思えた。

 総書記は、この実態を主席に報告し、山間地帯の農作物生産における決定的な改善対策を立てるうえで重要な寄与をなした。その後、ほどなくしてその村の人々は、山間地帯の気候風土に適した作物を栽培することができるようになったし、ジャガイモと米を優先的に交換してもらう国家的な恩恵を受けることになった。

 総書記の大学時代のこのような努力は、社会的に注目の的となった。学友や大学の教職員はもちろんのこと、党の幹部や政策立案者たちですらも総書記の言葉を傾聴したし、意見を正しいものとして受け入れた。

 総書記のこのような調査は、その後、論文の執筆において生かされた。総書記が学生時代に書いた多くの経済論文は、独特な着眼と現実的意義によって人民生活の向上に役立つ貴重な文献的価値をもつものであった。

 1962年の夏、総書記は地方経済の実態を科学論文としてまとめようと、鴨緑江沿岸の村である昌城郡と朔州郡にでかけた。総書記は、昌城、朔州一帯の人民生活や地方産業の実態を調査しながらも、特に、朔州の織物工場と、トウモロコシ加工工場をはじめ、地方産業工場を幾度となく訪ね、原料の供給状態や生産能力、労働力の構成と設備の利用状況などを具体的に調べ、それが山間地帯の人民生活の向上にどれぐらい寄与しているかを調査した。

 総書記はそうした日々、多くの労働者と膝をまじえて語り合ったし、幹部たちとも工場の展望や事業計画などについて貴重な意見をかわしている。また、朔州邑協同農場をはじめとして郡内に点在する農場や牧場をつぶさに見てまわった。そして、その過程で得た重要な資料はそのつど党中央に報告した。

 1962年8月、金日成主席の指導のもとに、地方党および経済部門幹部たちの参加する昌城連席会議が開かれたが、金正日総書記が論文執筆のために綿密に分析した実態報告書が、会議で採択された地方経済を発展させるための一連の新しい党方針の基礎資料になった。

 その会議の前夜に総書記が執筆した論文は「地方経済を発展させるためのわが党の方針の正当性」と題されたものであった。この論文には、地方経済を発展させるための党の方針、朔州地区の経済実態、山間地帯の工業、農業を発展させるための対策、山間地帯の郡をより豊かにする問題と、郡を中心とした住民たちへの日用品供給網を形成する問題に至るまでが総合的に明示されていた。

 地方工業を形成する工場が消費物資を生産し得る正確な計画と、郡の役割をたかめ地方工業と農薬を発展させてきた具体的な経験が分析されているこの論文は、歴史的な昌城連府会議決定の貫徹において貴重な文献となった。

 経済の発展と人民生活の向上に注がれた総書記のこのような熱情は、他の分野における活動においてもいかんなく発揮された。時には、国際情勢を研究した資料をもって外交部の幹部に助言をあたえたこともあったし、または、映画供給にたずさわる職員たちとともに、有力な大衆教育の手段である映画を政策的な立場から、より効果的に活用できるよう対策を講じたこともあった。また時には、行く先々で各学校の実態を調べては教育発展において政策的意義を有する数多くの案を考えだしている。

 総書記は、このように大学時代から、単純に党政策の執行に一助となるような形ではなく、党政策の作成と執行に直接寄与する事実上の政治家となっていたのである。


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