偉人金日成主席
6.永遠な領袖

1)チュチェ偉業の代をしっかり受け継がせ

 金日成主席は、歴史上初めて革命偉業継承の問題を革命の将来運命と関連した重大な原則的問題として提起し、早くからその実現に大きな力を入れ、朝鮮人民に子々孫々領袖の福に恵まれるようにした不世出の偉人である。
 革命偉業継承の問題を輝かしく解決した主席の業績のなかで最も大きな業績は、自分のすべての心血を注ぎ、労苦を尽くして朝鮮革命の代を固く継承する今一人の傑出した偉人を育てたことである。
 朝鮮革命が祖国解放という民族史的大事変を目前にしていた時期に、総書記の誕生を迎えた主席は、父の意を体し、息子を祖国と民族の立派な息子として育てることを自分の絶対の使命と責任として肝に銘じた。
 朝鮮人民は、万景台の革命家門で、金正日総書記が誕生した歴史のその日から総書記を金隊長の後を継ぐ白頭光明星として高く仰ぎ称揚した。
 「白頭山に金日成隊長の継承人誕生」「千万年末永く輝け、朝鮮の白頭泰星」、このスローガンには、民族の太陽金日成将軍の代をまっすぐに継承する道こそは、朝鮮の運命であり、未来であるという、朝鮮人民の絶対的な確信と金正日総書記がその歴史的偉業を必ず実現させることを願う朝鮮人民の切なる期待と願いがそのまま込められている。
 チュチェ偉業の将来運命をかけて総書記を立派に育てようとする主席の大きな労苦は、総書記のすぐれた生まれつきの資質と能力を誰よりも先に発見し、それを遺憾なく発揮させるための努力から始まった。
 主席が幼年時代の総書記から最初に感じたのは、普通の子供とは並外れた探究心と記憶力、度胸と人情味など、すぐれた才能と人格であった。鶏が水を飲むとき、必ず口ばしを上げる現象や、花の色のなかに黒い色がない理由を必ず解明した事実、一つに一つを合わせればより大きな一つになる場合もあるという、意味深長な道理を悟った事実、友達を巧みに率いる隊長の気質と幼年時代から他国の将官の前もちゅうちょせず遮る度胸、一個の果物も友達とともに分けて食べる純潔な人情味…
 主席は、すでに総書記の行動の潜在力を見抜いていた。それは、独自的で創造的な思考力、けりをつける忍耐力と意志、否認できない牽引力、正義の芯、高潔な人間性であった。それは、頭脳活動から気質と人となりにいたるまで完全無欠の結合によって調和をなした一つの天才としての人間像であった。
 主席は総書記が身につけている生まれつきの資質と能力が、祖国と民族の息子としての立派な人格として完成されるように最大の心血を注いだ。
 主席が総書記の成長で格別の関心を払ったのは、総書記をチュチェ思想の完璧な体現者、擁護者として準備させたことである。
 主席は、総書記をしてエネルギッシュな学習と探求、実践を通じて、党の思想と政策を完全に把握するようにし、その本質と正当性を深く解説した。
 主席の深い関心と配慮のなかに総書記は、早くも中学時代からチュチェ思想とその具現である党の路線と政策を熟知しており、この過程に主席のチュチェ思想が最も独創的で偉大な指導思想であるという確信をもった。
 総書記は、大学時代に主席の革命思想の独創性とその不敗の生命力を研究論証することに多くの時間を費やし、論文的な意義をもつ文献を数百件も発表した。
 総書記が成長する当時、朝鮮革命では主体性確立の問題が国と民族の運命、革命の運命を左右する死活の問題として提起された。事大主義と教条主義、支配主義に反対する厳しい闘争で、自主的支柱を打ち立てる問題が国と人民の運命のためにどんなに重要なものであるかを切に感じていた主席は、総書記が革命と建設のすべての問題を考察するうえで確実に独自の眼識をもつように指導した。
 その日々に、総書記は100余年の労働者階級の革命思想史で公理のように認められてきたマルクス・レーニン主義の時代的および理論的制約性を明哲に解明した。それだけでなく、政治経済学と歴史学、法学、文学など、社会科学のすべての分野で学界を驚嘆させる独創的な発見と貴重な助言をおこなって、社会科学全般をその基礎から新たに解明し、教育の前途を主体的に開拓した。総書記が数百年余りの「定説」として公認されてきた歴史問題である「新羅精通説」を再評価し、朝鮮の中世史を東方の強大国である高句麗を中心にして正した一つの事実だけでも、この時期、総書記の独自の思考力と実践力の境地をよく示唆する。
 いつか総書記は、自分は3歳のときから軍人であり、自分の兵士生活は白頭山で始まったことにほかならない。生まれて始めてかけた布団は母の軍服であり、最初に手にしたのも母の拳銃であったと感慨深く回顧した。
 総書記の最初の学校は、強大な帝国主義を打ち破る戦場であった。まさに、ここで銃剣に対する総書記の強い信頼と愛が根をおろし、パルチザンの息子としての突撃的な性格が形成され、職業的な軍人としての気質が体質として全身に位置づけられるようになった。幼年時代から服のなかでは軍服を好み、遊びのなかでも軍事ごっこを好み、本のなかでも英雄伝を愛読していた総書記の非凡な風格はこのように形成されたものである。
 主席が総書記にチュチェ偉業のバトンとして譲り渡したのは、銃剣であり、人生の柱として植え付けたのも軍人の魂であった。
 早くから祖国解放戦争時に最高司令部の作戦台のそばで総書記の軍事的英知と知略をそなえさせた。その関心と努力で主席は、1960年代に入っては総書記の革命行路に偉大な先軍指導の足跡を深く印し、軍現地指導の道で卓越した軍事的知略と軍指揮術を体得するように深い関心を払った。
 総書記の革命指導史に先軍革命指導の開始として記録された1960年8月、朝鮮人民軍近衛ソウル柳京守第105戦車師団に対する現地指導も、ほかならぬ主席が総書記とともに歩んだ軍現地指導の道であった。
 主席が総書記とともに全国の多くの人民軍部隊へと絶えず続けた軍現地指導の日々は、単に総書記に軍事的知略と用兵術を体得させた過程ではなく、名実ともに、チュチェの軍事家としての完璧な品格をそなえるようにした歴史的な日々であった。
 こうした日々のなかで総書記は、20代に将軍の英知と気概をもって生まれたもう一人の白頭山青年将軍として高く名を馳せた。抗日闘士たちと人民軍の指揮官は、1960年代の末から総書記を「最高司令官」であると高くいただいた。
 主席は、総書記を人民の偉大な精神力と限りない創造的力を知り、人民と喜怒哀楽をともにし、人民のためにすべてをささげる人民の息子として育てることに最大の心血を注ぎ、労苦を尽くした。
 主席は、幼い総書記の心のなかに人民は最大の正義であり、力であり、万事解決の根本であることを信念として植え付けるためにすべてをささげた。
 主席のこの崇高な努力は、総書記が早くから人民を知り、人民に対する熱烈な愛と信頼を肝に銘じるようにし、その偉大な人民と生死をともにする真の人民の指導者として成長できるようにした貴い滋養分となった。
 主席は一生涯、絶え間ない現地指導の道を歩んだ。この時に主席は総書記とともに同行した。ここには、総書記をして国の具体的現実をより幅広く体験し、その過程に革命と建設に対する指導方法と指導芸術を体得させようとする主席の深い意図が込められている。
 主席が現実のなかで、総書記をチュチェ偉業の継承者として育てた過程は、具体的な活動方法を一つ一つ体得することから始めて、現実で提起される諸問題について自体で判断し、結論するようにし、多様な主題の幅広い談話を通じて政治的見識と実践能力の培養にいたるまで、政治家としての成長全過程を包括した。
 1964年6月19日、総書記は、主席の委任によって党中央委員会で活動を始めた。
 主席は、総書記が党活動全般を掌握し、党の戦闘力と指導力から絶えず強化するようにしながら、次第に人民軍をはじめ、全般的な分野に対する指導を実現するようにした。
 早くから総書記が党中央委員会で活動しながら革命と建設全般に対する指導を実現するようにした主席の出色の先見の明と決断は、総書記を第一歩から主席の革命偉業と切り離すことのできないチュチェ偉業の指導者、主席の魂と人格と指導風貌をそのまま継承したもう一人の卓越した指導者として準備させた決定的要因であった。
 ゆえに、30余年の歳月が流れた遠い後日、総書記は党中央委員会で活動を始めた時を幹部らの前で感懐深く回顧しながら、私がその時、民青(民主青年)に行ったならば党中央委員会での30年の党活動歴史をもてなかっただろう。主席は思慮深い意図をもって私を育てたと熱く述べた。
 主席が総書記を熱烈な革命家、国と民族の息子として立派に育ててきた日々は、朝鮮人民が総書記の偉人像に魅了されて総書記を心から高く奉じてきた意義深い日々であった。 総書記は、大学の時代から公認された指導者として青年学生と教職員から絶対的に信頼されていた。
 総書記は、革命と建設全般を指導し始めてからは「親愛なる指導者」として、すべての幹部と人民の限りない尊敬と燃えるような敬慕を受けていた。
 1970年代の初旬からは、次第にその尊称が党と国家の公式書類に記されるようになった。
 文学芸術部門と社会安全部門をはじめ、総書記の指導を受ける各部門の幹部と人民は、総書記の指摘が数回もあったにもかかわらず、事務室と機関に総書記の肖像画を丁重に掲げ、1971年2月16日には総書記に対する忠誠の頌歌をつくって歌った。
 もちろん、この歌詞をつくって歌う当時は、総書記に大きな心配をかけたし、総書記の厳しい指示によって出版物や放送に公開されなかったが、それは朝鮮人民の間で急激に普及された。真っ暗な夜空に昇った明星を仰いで全国の人民が心から「朝鮮の星」の歌詞をつくって歌った歴史のその日の感動的な再現であった。
 当時、すべての党員と人民は、総書記をチュチェ偉業の唯一の継承者として公認し、「嚮導の星」に高く仰ぎ慕った。
 全国の党組織と政権機関、行政経済機関、勤労者団体、人民軍と社会安全機関、科学、教育、文化、出版報道機関、工場、企業所、協同農場では、党中央委員会に総書記を主席の後継者として高くいただくという請願書と手紙を送ってきた。
 朝鮮労働党と朝鮮人民の歴史的意志は、すでに誰も、何をもってしても、おしとどめることのできない絶対的なものとして固まった。
 1974年2月、歴史的な朝鮮労働党中央委員会第5期第8回総会では、総書記を党中央委員会政治委員会委員に朝鮮労働党の首脳部にいただく組織問題を討議し、総書記をチュチェ革命偉業の後継者として高くいただいた。
 金正日総書記は、次のように述べている。
 「金日成同志の最も輝かしい先見の明は、早くから革命偉業継承の歴史的必然性を洞察し、そのための準備を着実におこない、革命偉業を確固として継承、達成していく組織的・思想的基礎と指導体系を強固に打ち立てるようにしたことです。これは、金日成同志が朝鮮人民のために積み上げた最も貴い功績です」
 主席が総書記を祖国と民族の立派な息子として育て、全党と全人民軍将兵と人民の熱烈な敬慕と絶対的な支持と賛同のもとにチュチェ偉業の唯一の継承者としておし立てたのは、党と革命、祖国と人民の運命開拓で最も重大かつ、根本的な問題を解決した歴史的出来事であり、チュチェ革命偉業の永遠な継承と勝利を約束する一大慶事であった。
 主席は、総書記の唯一的指導を実現するための組織的・思想的基礎と指導体系を樹立する活動を最も着実におこなうようにした。
 1982年6月12日、三池淵で開かれた党中央委員会の会議で、主席は人民軍の前に提起される最も重要な課題を提示しながら、金正日総書記が人民軍を党的だけではなく軍事的にも指導するように述べた。そして、総書記の活動を軍事的に補佐できる新たな機構を設けるようにした。
 歴史的な三池淵会議がもつ重大な意義は、総書記に朝鮮人民軍最高司令官の職務を公式には授与しなかったが、事実上、総書記が最高司令官のような地位で活動するようになったことを内外に宣言したことにある。
 主席は1991年12月24日、朝鮮労働党中央委員会第6期第9回総会を招集した。歴史的な総会では、総書記を朝鮮人民軍最高司令官に高く推戴する重大な措置が講じられた。
 総書記が朝鮮人民軍最高司令官の重任を担った同日は、抗日の女性英雄金正淑女史の誕生74周年になる意義深い日でもあった。
 1993年4月9日、朝鮮民主主義人民共和国最高人民会議第9期第5回会議は、主席の崇高な意志とすべての人民軍将兵と人民の一致した意思と念願を反映して、朝鮮人民軍最高司令官である金正日総書記を朝鮮民主主義人民共和国国防委員会委員長に高くいただいた。
 主席は、チュチェ革命偉業に対する指導の継承問題を最も高い水準で完全に実現していた生涯の最後の時期には、全党員と人民が、総書記に忠実であり、総書記の唯一的指導を生命線として奉じるように実践的模範を示し、党と人民に貴重な頼みの教示をおこなった。
 主席が1992年2月16日、金正日総書記の誕生日に際して直接つくった親筆頌詞は総書記の偉大きに対する完璧な称揚である。

  白頭山頂に 正日峰そそり立ち
  小白水の碧き流れ よどみなし
  光明星誕生し いつしか50年
  文武忠孝兼備せるを こぞってたたえけり
  万民称賛の心 ひとしくして
  歓呼の声 天地をゆるがす

 主席は、生前に2月16日を民族最大の慶賀すべき祝日として制定するという、朝鮮民主主義人民共和国中央人民委員会の政令も直接批准した。総書記を朝鮮人民軍の最高司令官として高くいただいた後、初めて閲兵式がおこなわれる時には閲兵行事が最上の水準でおこなわれるように指導し、答礼の発言も総書記にさせた主席の思慮深い意志を人々は知らないでいた。
 主席は、貴い生涯の最後の瞬間まで幹部らと人民をして総書記に対する忠誠の真心をもって、総書記の指導を忠実に奉じていくように精力的に活動した。
 主席は、このように革命の生死存亡と民族の将来を決定する革命偉業の継承問題を自分の代に完全無欠に解決した。
 主席の不滅の業績があって、朝鮮民族の尊厳と栄誉を全世界にとどろかせる総書記の時代が始まるようになり、総書記の指導のなかで朝鮮革命の永遠な勝利と繁栄を保障する継承の歴史が変わることなく流れるようになった。


2)永遠に流れる太陽の歴史

 1994年7月8日、主席の心臓は鼓動を止めた。
 人類を抱き、時代と革命を抱いて太陽のように燃え上がっていた主席の逝去は、朝鮮人民と世界の進歩的人類に空の太陽が消えたような大きな衝撃を与えた。20世紀のたそがれ時を揺るがした青天の霹靂のような悲報は、平凡な人々が卓越した偉人も生の終点があるという人類史の法則を再度確証するかのようであった。
 しかし、主席の逝去は、時代と歴史の前に主席が一生涯になし遂げた業績に匹敵する今一つの大きなページを切り開いた。それは、人類歴史上初めとなる人間の現実的な永生であった。
 主席は、朝鮮人民の心のなかに生き続ける永遠な人民の慈父である。
 主席の逝去直後、朝鮮のある文筆家は、太陽が完全に消えたかのように真っ暗な空から雨が降ってくる、この世の果てしなく遠いところで宇宙の心魂が泣いている、地上で一時にあがった人民の哭声に空がこたえたのである。涙にまじえた天地……
 人民が泣く時には、世界で最も大きな悲しみが迫ったことを信じるべきだという文を残した。
 数千万の老若男女が一時にあげた切々たる大きな号泣。これは、主席の逝去が全世界に与えた巨大な最初の衝撃であった。
 主席は、朝鮮人民と永遠に離れられない人民の領袖である。
 主席が朝鮮革命の道を踏み出した20世紀の初頭、すでに同胞は朝鮮の再生と栄光のために朝鮮の空に昇った朝鮮の太陽を見た。ゆえに、熱血の新しい世代、青年共産主義者らは主席に太陽の尊名を冠した。最も偉大であり、最も永遠なものの象徴である太陽としてのみ主席を呼べると確信したためである。
 歴史が流れ、歳月が変わっても主席の象徴は変わることなく太陽であった。朝鮮人民と進歩的人類は、主席を「チュチェの太陽」「民族の太陽」であると感服して呼び、「人民の太陽」「人類の太陽」であると、最も美しい歌詞、最も厳かで格調高い詩で称賛した。
 すべての民族の歴史のなかには、その民族がおし立てる指導者がいる。
 しかし、どの歴史にも幼年の時代から民族の星、革命の太陽として呼ばれて称揚された偉大な指導者、偉大な領袖はいなかった。
 朝鮮人民は、10代の主席に不滅の頌歌「朝鮮の星」を創作してさし上げた。人民がさし上げる頌歌も主席の幼年の時代につくられたものであった。
 かつて、労働者階級の領袖が受けた領袖頌歌は、彼らの執権後に受けたことであった。
 朝鮮民族の運命を一身に担い、革命の道を踏み出した時から主席は革命を導き、人民を見守る朝鮮の星であり、朝鮮の太陽であった。
 主席は、空の太陽のように朝鮮人民にできる限りのことをすべて与えた人民の太陽であった。
 主席は、人類思想史の最高峰をなす自分の思想もチュチェ、人民大衆の名をつけて朝鮮人民に贈った。人民大衆の永遠な義務と権利を位置づけるチュチェ思想は、歴史の主人である人民の思想であり、その人民の幸福と栄光のための闘争の旗印であった。
 朝鮮人民は、主席のチュチェ思想を通じて圧制者に奪われた自己の尊厳と地位、限りない創造の能力と人類史を導くべき責任を取り戻した。チュチェ思想の理念と意志に支えられて歴史の舞台に登場した朝鮮人民は、自分のための唯一の思想、唯一の保護者がほかならぬチュチェ思想であることを知るようになった。
 朝鮮人民は、主席の尽きない指導力によって、奴隷の境遇から英雄的人民の栄えある地位に上がった歴史の幸運児であった。
 主席の卓越した能力は、80余星霜、主席の全生涯のなかで限りなく発揮された。主席は他人が機関車に乗って20世紀に入るとき、牛車を引きながら40余年の亡国史の第一歩を踏み出したその世紀に朝鮮人民を人類史の中心に、陣頭に立たせた。大国の間にはさまれて身動きが取れない朝鮮民族を立ち上がらせ、チョンリマの勢いで天地開闢の歴史を開いた主席は、朝鮮人民にとって、その運命を永遠に見守り、万福をもたらす偉大な創造の巨匠であった。
 朝鮮人民は、主席の偉大な愛に支えられて一つの大家庭のなかで幸福のみを享受してきた一家族であった。
 主席は、抑圧され搾取されてきた人民を懐に抱いて不幸な子供を育てる母のようにあらゆる苦労を尽くし、ひたすら人民のために生きた人民の慈父であった。
 マルクスは、多くの人に幸福をもたらした人が一番幸福な人であるとし、もし、人間が自分自身だけのために仕事をするならば、著名な学者、偉大な賢者、立派な詩人とはなれるかも知れないが、決して真に完成した人間とはなれないといった。マルクスのこの見解に照らして見ても、主席は実にこの世の最も多くの人、まだ、誰も人民大衆に与えなかった大きな幸福、永遠な幸福を与えたこの世の唯一の聖人であった。
 去る20世紀は、主席を人民の領袖、人民の慈父として奉じ、主席と人民を一つの運命に結びつけた。
 主席の偉人的な能力によって受難の歴史を終わらせた朝鮮人民は、主席の指導を抜きにしては歴史の嵐を切り抜けることができないことを知っていた。
 主席の暖かい愛を熱に、光にして無敵の英雄として成長した朝鮮人民は、その栄えある愛を失えば、自分たちが陽光の外に移植された巨木のように悲惨に枯れてしまうことを知っていた。
 朝鮮人民は、自分の歴史的地位をこの世の頂点に引き上げるために、一生をささげた主席が自分たちの生のなかから離れると自分らの生のすべてがないことを知っていた。
 朝鮮人民は、主席が生き続けるときにのみ、自分たちの歴史的地位と自分たちが享受する栄光と幸福が永遠に保存されることを痛感している。
 民心は天心であり、民心の流れは歴史そのものであるといった。
 主席との永訣の日に朝鮮人民は、主席の姿を太陽像であると高く呼んだ。そのように、主席は輝かしい太陽の姿で人民の心のなかに永遠におられる。
 人民の念願と意志によって、歴史は昨日も、今日も変わらない主席の歴史として永遠に流れている。
 主席は、貴い一生をささげて時代と人類のためにおさめた不滅の業績によって生き続ける。
 主席の逝去に対する世界の反響には、主席の逝去によって地球が軽くなったという意味深い言葉もある。
 主席に対する世界の評価は、全地球的な重さを表した時代と人類の評価である。それは、思想はもとより、指導業績と風貌、すべての面において人類歴史の発展に大きな業績をなし遂げ、偉人史の手本を創造した主席に対する時代と人類の最も公正な評価である。
 2001年9月、朝鮮を訪問した江沢民中華人民共和国主席は、チュチェの最高聖地錦繍山記念宮殿を訪問し、主席に崇高な敬意を表し、訪問録に、功績は卓越であり、偉業は永遠であろうという文を残した。
 彼が残したこの文は、時代と人類のために大きな業績を積み上げた主席の歴史は、世紀を次いで永遠に続くという、人類の確信をそのまま反映している。
 去る20世記の中葉から世界の政治舞台では、革命をおこなうためには必ず金日成主席の接見を受けなければならないという格言が公理のように認められてきた。
 かつて、多くの人は、自分たちの幸福の道を啓示するという聖者とその聖地を訪ねることを幸運としてみなした。マルクス主義が出た後、全世界の労働者階級は、マルクスが生存していたドイツをマルクスの祖国として呼び、レーニン主義が勝利したソビエトロシアを世界革命の本拠として呼んできた。
 チュチェ思想が創始された朝鮮は、世界と人類の明るい未来を永遠に示す灯台、革命の聖地となり、チュチェ思想の創始者である主席の接見を受けることを世界の革命家と進歩的政治家、人類の最大の願いとなった。
 偉大な思想を与えることは、世界を与えることであるという言葉がある。
 ある歴史家は、20世紀を総括しながら、ギリシャ神話のプロメテウスが人間に火を与えて文明世界の扉を開けてくれたように、金日成主席はチュチェ思想を創始して人類に主人となった世界、理想郷の建設のカギを与えたと高く称揚した。
 人間の純対不変の本性である自主性を発見し、それを中核にしてチュチェの思想、理論、方法を全一的に体系化したチュチェ思想は、事実上、誰の意志による思想であるというよりも、時代と人類、歴史そのものの意志であり、それに込められた真理の力によっておのずと永遠な生命力をもつ不滅の思想である。不滅のチュチェ思想を創始した主席は、時代と人類とともに生き続ける。
 今日も、主席の音声は、チュチェ思想を通じて地球上のすべての国と民族、人民大衆のために絶えず響き渡っている。この声が勤労人民大衆に自主的な新しい生活と平等な新しい世界を建設する意志を励まないところは事実上、地球上のどこにもない。
 主席は、20世紀の人民大衆の運命開拓で焦眉の問題として提起されていた民族解放革命と階級解放革命、社会主義建設を目指す闘争など、各段階の革命を唯一無二に当代に勝利へと指導して人類偉業の大宝庫を豊富にした指導の巨匠であった。
 主席の革命指導史には、民族的独立と自主権を守護する2回の革命戦争もあり、廃墟のなかで国を打ち立てる2回の復興建設もあり、反帝反封建民主主義革命と社会主義革命を包括する2段階の社会革命もあり、社会主義制度の樹立後、継続革命の旗を高く掲げてチュチェの社会主義を建設するための闘争実践もあり、人々を完成された社会的人間につくるための人間解放の偉業を実現するための闘争もある。政治家として当代に一つの問題だけ解決しても大変なことだと認められる大きな偉業、それも人類史が解決を望むすべての焦眉の問題を自分の政治生涯で最も立派に解決したのは、実に万人の驚嘆を呼び起こす驚異的な事実であった。
 20世紀の世界政治の中心に立っていた主席の革命業績と闘争経験の偉大さは、決してその包括範囲の膨大さや実際的な結果にのみあるのではない。
 主席の革命業績と闘争経験は、その一つ一つが最も科学的なチュチェの世界観にもとづいているだけでなく、それが最も典型的な革命闘争の実践でその正当性と生命力がことごとく検証されたことにより、いつどの国の革命と建設でも普遍的な意義をもつ不滅の業績であることにより大きな世界史的意義がある。
 主席が創造した業績と経験は、それ自体が進歩的人類の生と闘争の真の教科書となっている。
 キューバ革命の指導者フィデル・カストロは、主席を接見して4時間余りにわたって革命と建設に関する助言を受けてから、これは、すなわち革命の教科書であると称揚し、主席に回顧録を必ず書かせてほしいと真心を込めて切に申し上げた。
 ソ連のスターリン大元帥から中国の毛沢東主席、周恩来総理をはじめ、ベトナムのホーチミン主席、インドネシアのスカルノ大統領、カンボジアのノロドム・シハヌーク大王、チリ大統領サルバドル・アジェンデなど、去る世紀のすべての名人政治家たちは、一致して主席を世界的な政治元老として高く奉じ、主席に世界革命の運命を託した。
 人類が生むことのできるすべての偉人的能力が主席に集中された。
 主席がおられたので20世紀があるといえた。
 ひとえに、主席の思想と業績の重さでのみ人類の重さ、地球の重さを測ることができるというのが去る世紀が残した歴史的総括である。
 主席の不滅の思想と業績を原動力にして流れる時代と歴史の流れは永遠である。
 人民のために、時代と人類のために自分の限りない能力を遺憾なく発揮した主席の永生は必然的なものであった。しかし、主席が人類の歴史のなかに開いた道、人類が必ず進むべき、その必然の道も卓越した後継者が創造する継承の歴史がなければ絶対に実現され得ない。
 総書記は、主席を生前の姿で高くいただき、主席の思想と業績、主席の貴い遺訓を貫徹するための力強い闘争によって、この地に領袖永生の輝かしい歴史を開いた。
 「偉大な領袖金日成同志は、永遠に我々とともにおられる」
 「偉大な領袖金日成同志の革命思想で、いっそうしっかり武装しよう!」
 総書記が血の涙が流れていた痛恨事の日々に示したこのスローガンには、主席を社会主義朝鮮の永遠な始祖、朝鮮民族が永遠に高くいただくべきチュチェの太陽として奉じようとする総書記の鉄の意志と燃えるような忠誠心が熱く込められている。
 総書記の燃えるような忠誠によって建設された錦繍山記念宮殿は、主席が生前の姿でおられる永遠な太陽の家であり、チュチェの最高聖地である。
 主席を生前の姿で安置するための総書記の指導で特記すべきことは、主席の尊名を共和国の永遠な主席として法文化することにより、主席を永生する社会主義朝鮮の始祖として高くいただいたことであった。
 総書記は1997年7月、主席の革命生涯と不滅の業績を末永く輝かせるためにチュチェ年号と太陽節を制定、公布するようにした。
 主席の銅像と太陽像、現地教示版、党創立記念塔のような記念碑が新たに建立し、名勝地の自然岩に領袖永生のスローガンと太陽称揚の文字が刻まれ、領袖永生歌謡と領袖永生の文学作品が多く創作、普及され、主席の革命活動と不滅の業績を収録した記録映画が編集、上映された。
 総書記は、主席の生前の意志と意図を100%継承し、100%完遂することを主席の永生の総体的目標として打ち出し、不屈の意志と労苦を尽くして実現した。
 金正恩総書記をいただいて領袖永生の歴史は続いている。
 こんにち、世界は領袖の永生であるという一つの新たな時代、主席の永生の歴史をはっきり見ている。
 主席は、人民大衆から絶対的に支持され信頼された人民の慈父として、時代と革命の重荷を一身に担った世界的な政治元老として、不世出の偉人を後継者としておし立てた領袖として生き続ける偉人である。
 金日成主席は、朝鮮人民と人類、限りなく繁栄する社会主義朝鮮と永遠なチュチェ時代とともに永久に不滅であろう。
                                                



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