偉人金日成主席
3.民族の慈父

1)民族再生の恩人

 朝鮮民族は、民族の始祖である檀君によって聖なる民族史を始めて以来、高い尊厳と強大さ、5千年の悠久な歴史とさん然たる文化を誇ってきた英知に富む民族であった。
 その朝鮮民族が、民族の正しい指導者にめぐり会えなかったため、事大主義と屈従によって衰え、20世紀の初期にはとうとう亡国の悲運にとざされ、植民地奴隷としての痛ましい受難を強いられるようになった。
 金日成主席が誕生することにより、こうした朝鮮民族に再生の曙光が差し、5千年の民族史の新たな転機が開かれた。
 金正日総書記は、次のように述べている。
 「金日成同志こそは、朝鮮民族を再生させた恩人であり、朝鮮人民に最も貴い社会的・政治的生命を与え、最も幸せで誇り高い生をもたらしてくれた慈父です」
 こんにち、朝鮮人民がみずからを栄えある金日成民族であると堂々と語るのは、主席の誕生から始まった朝鮮民族の歴史が偉大でかつ聖なるものだからである。
 主席は、奪われた祖国を取り戻し、不滅のチュチェ思想で自主の魂を吹き込み、不敗の党と無敵の強兵、人民の幸福が開花するすぐれた社会主義制度を民族の億年の財宝としてもたらした。
 立派で剛直な愛国的な家門、革命的な家門で誕生した主席は、早くから祖国と民族の運命を一身に体現しながら、偉大な愛国者、革命家として成長した不世出の偉人であった。
 主席が幼年の時代から耳慣れにした言葉は愛国であり、人生の目標として学んだのも、ほかならぬ国と民族のためのことであった。主席は、幼年の時代から童心世界に浸るよりは日本帝国主義者の凶悪さと受難にあえぐ民族のうっぷんと悲しみを自分の痛みとして体験しながら愛国の信念をかためた。
 1918年6月、6歳の主席は、母とともに朝鮮国民会の事件で平壌監獄に逮捕された父の面会に行った時、多くの銃口と高い塀、鉄条網で張り巡らされた監獄と日本の軍警によって父の体にできた傷を見ながら、悪魔のような日本帝国主義に対して義憤をおさえ切れなかった。
 7歳の年である1919年には3.1人民蜂起に参加し、国と人民を殺りくする恐ろしい暴圧の銃剣の前でも屈しない朝鮮民族の不屈の気概を切に感じながら、祖国と民族のために一身をささげて戦おうとする悲壮な決心をもった。
 父母に従って中間と中国東北地方に行く時も、亡国の民のうっぷんとともに日本帝国主義者がのさばる世に対する軽蔑を禁じえなかった。
 主席は幼年の時代から朝鮮の亡国の歴史について父母から聞きながら、国を取り戻す闘争に一生をささげる覚悟と決意をもって、13歳の若年にして朝鮮が独立しなければ再び帰ってはくるまいとかたく決心して、革命の道に身を投じた不世出の愛国者であった。
 主席は、祖国と民族の運命を救おうという使命感を深く自覚したため、20星霜という抗日の血戦の万里をいささかも動揺することなく、歩むことができたのである。
 主席は、早くから誰も比肩できない崇高な偉人的風格を備えていたことによって、もはや10代の時に、全朝鮮民族の念願と期待が込められた「太陽」の聖なる尊名で呼ばわれた、民族の傑出した指導者であった。
 一民族が自分の生んだ傑出した偉人に与える呼び名には、実に多くの意味が込められる。しかし、世界の偉人史のどのページにも、一民族が自分の指導者に、指導者として従い始めた初期から聖なる「太陽」の尊名で呼びながら限りなく敬慕し高くいただいた例はなかった。
 その尊名には、祖国と民族の運命を救い、みずからを導いてくれることを願う朝鮮人民、朝鮮民族の一致した念願が込められていた。それとともに、非凡な英知と指導力を身につけた民族の指導者を太陽のように慕う朝鮮人民の限りない敬慕と信頼の情が熱く込められていた。
 革命活動の道を踏み出した時、青年指導者である主席に革命家と独立運動家、人民は、朝鮮の前途を照らす星になってくれることを念願して「ハンビヨル」「一星」という雅号をつけ、再び太陽になぞらえた名である「日成」という尊名を冠した。
 革命詩人金赫は、朝鮮民族が崇敬する偉人を称揚した歌「朝鮮の星」をつくって普及した。この歌は、中国の満州はもとより、国内と海を渡って日本にも波及した。この事実は当時、主席を民族の指導者として高くいただこうとする朝鮮人民の心がどんなに熱烈であり、主席の偉人のような人格がどんなに万人の心を激動させたかを優に察することができる。
 主席を朝鮮の太陽として仰ぎながら叫ぶ朝鮮民族の歓呼と激情は、1930年代と1940年代を経て抗日武装闘争の全過程に高く響き渡った。
 抗日の日々、朝鮮人民は、主席の伝説のような偉人像を「白頭山の精気を一身に担った同胞の救い主」「百姓に万福をもたらす天がくだした聖人」として称揚し、さまざまな伝説を多く創造し、人民歌謡「白頭山の将軍星」などの歌までつくって歌った。そればかりでなく、抗日遊撃隊員と朝鮮人民は「金日成大将は万民の太陽である」「万民の太陽、光復の領袖金日成大将万歳 祖国解放万歳」「子々孫々奉じ従おう希世の英雄金日成大将」など、多くの革命的スローガンを国内はもとより、中国東北地方各地の千古の密林の樹木と樹林地帯に刻み込んで、主席を仰ぎ慕う全朝鮮同胞の胸に大きな民族的誇りと希望を与えた。
 主席は、最悪の条件で強大で暴虐な帝国主義侵略者と立ち向かって15星霜の血のにじむ武装闘争をくり広げて30代に民族再生の歴史的偉業をなし遂げた民族の英雄のなかの英雄であった。
 主席は、朝鮮革命の並外れた特殊性と歴史の教訓から出発して路線と方針、闘争方略にいたるまで民族解放闘争で提起されるすべての問題を徹底して独自に思考し確定した。
 民族解放のスローガンを高く掲げた主席は、いかなる勢力の圧力と専横のなかでもその実現をめざして戦う朝鮮の革命家の神聖な権利をしっかり固守することにより、朝鮮人民の抗日武装闘争を名実ともに民族の解放を目標とする民族的偉業としてかたく発展させた。
 1932年4月25日、朝鮮民族の最初の革命的武装力である反日人民遊撃隊を創建した主席は、国家的後方や正規軍の支援もない最も厳しい条件で、暴悪で強大な日本帝国主義と真っ向から立ち向かって血のにじむ遊撃闘争をくり広げた。
 武装闘争の基本形式を示した主席は、遊撃隊員の高い思想精神力と巧みな遊撃戦術を勝利のための威力ある宝剣として堅持し、敵らに甚大な政治的・軍事的打撃を与え、祖国解放の勝利をもたらした。
 主席は、民族の自主権は、もっぱらその民族自身の主体的な努力と不屈の闘争によってのみ保全し獲得することができるという確固たる立場と観点をもっていた。
 主席は歴史上初めて、軍民一致の貴い気風を創造し、抗日遊撃隊が国家的後方やいかなる他国の支援のないなかでも敵との戦いで常に勝利するようにした。
 「魚が水を離れては生きていけないように、遊撃隊は人民を離れては生きていけない」、これは主席が示した抗日遊撃隊の生存方式であり、活動原則であった。
 主席は、朝鮮人民の独立闘争が進むべき道はあくまでも自力更生の道であると確認し、遊撃闘争で提起されるすべての問題を自力で解決するよう導いた。
 遊撃隊員たちは、自力更生の旗を高く掲げて密林の中の兵器廠で各種の武器を自力で修理して研ぎ、延吉爆弾や木製の砲なども製作した。その日々に、やすりでミシンの針をつくって600着の軍服をつくりあげた不屈の闘争についての逸話も生まれた。
 主席は抗日革命闘争を開始しながら、全民族の大団結を独立闘争の大前提としておし立て、全朝鮮人民を聖なる祖国解放の旗のもと結束した。
 主席は、民族解放運動の具体的現実にもとづき、朝鮮人の力で日本帝国主義を打ち破り、国を解放するには、日本帝国主義に反対するすべての力量、つまり、労働者、農民、青年学生はもとより、宗教家、良心的な民族資本家にいたるまで、反日思想をもったすべての愛国力量を反日の旗のもとかたく結束すべきであると示した。
 主席は独創的な反日民族統一戦線路線にもとづき、国と民族を愛するすべての愛国力量を一つに結束できる統一戦線組織体である祖国光復会を1936年5月に創立した。
 全人民を一つに結束させた主席は、全国に全民抗争の炎を燃え上がらせ、民族自力で祖国解放の民族史的偉業をなし遂げた。
 1945年8月9日、主席は祖国解放のための最後の攻撃命令を下達した。
 朝鮮人民革命軍の総攻撃に合流して、すでに国内に組織されていた人民武装隊と武装蜂起組織、広範な人民は、全国各地で日本帝国主義侵略軍と憲兵、警察機関を襲撃、掃討しながら敵の背後を撹乱する闘争を果敢にくり広げ、進撃してくる人民革命軍部隊を大いに支援した。
 日本帝国主義は、最後の攻撃が開始されて1週間もならない1945年8月15日に無条件降伏を宣言せざるを得なかった。
 1945年10月14日、平壌牡丹峰公設運動場では、祖国と民族の独立をなし遂げた民族の英雄金日成主席の祖国の凱旋を歓迎する市民大会がおこなわれた。
 その日、三千里の山河を震撼させたその熱狂的な歓呼は、聖なる民族解放偉業を輝かしい勝利へと導き、息が絶えつつあった国と民族の運命を救い出した絶世の愛国者、解放の恩人に対する全人民的感謝の爆発であった。


2)民族の尊厳と栄誉をとどろかせた民族的英雄

民族自主で建国聖業を実現

 金日成主席は、解放された朝鮮人民にチュチェの建国の大綱を示して、国と民族が進むべき道を明示し、自主的発展の大道を開いた。
 帝国主義の植民地支配から解放されて再生した民族にあって、進むべき前途を正しく知らなければ、たとえ民族的独立は遂げたとしても、自己発展の道で紆余曲折を免れず、再び列強のなぶりものになりかねない。
 主席は1945年8月20日、軍政事幹部らの会議でおこなった歴史的演説で、自主的な独立国家を建設するのは朝鮮民族が新しい祖国を建設するうえで捉えていくべき唯一の建国路線であることについて明確に示した。
 金日成主席は、次のように述べている。
 「祖国解放の歴史的大業がなし遂げられたいま、我々には新しい闘争課題が提起されています。我々は勝利の成果にもとづいて朝鮮革命をひきつづき前進させ、朝鮮人民自身の手で豊かで強力な自主独立国家を建設しなければなりません」
 朝鮮人民自身の手で豊かで強力な自主独立国家を建設しなければならないという主席の建国思想には、祖国解放の歴史的大業を朝鮮人民の手でなし遂げたように、新しい祖国の建設も他人の手を借りてではなく自分の手で、朝鮮の実情に即して他国の方式ではなく自分の方式でおこなうべきだという、徹底した自主的立場が反映されていた。
 主席は、新しい祖国建設路線を実現するための戦略的課題として建党、建国、建軍の3大課題を提示し、これを解放された祖国において朝鮮革命を急速に発展させるために遅滞なく貫徹すべき、緊急かつ重大な革命任務として提起した。
 主席は、自主的な新しい祖国建設路線の成果的実現のために、国を愛するすべての愛国力量をかたく団結させ、その団結した力で建国事業におけるすべての問題を解決することをその基本方途として提示した。
 1991年8月のある日、主席は、我々は解放後、新しい社会を建設するたたかいにおいても、民族の大団結をなし遂げることに主力を注いだ、私は祖国の解放をなし遂げた後に人民におこなった演説で、国と民族を愛し、民主を愛する全人民が一つにかたく団結して、力のある人は力で、知識のある人は知識で、金のある人は金で、建国事業に積極的に貢献するよう呼びかけた、我々は各階層の人民の団結した力に依拠して、民主的な新しい祖国の建設と社会主義建設を力強くおし進めたと感慨深く回顧した。
 主席は、民族自主的な新しい祖国建設路線にもとづいて解放された祖国で遅滞なく建党、建国、建軍の3大課題を立派に実現することといって、朝鮮人民の真の民族的自主権をもたらした。
 主席は解放された朝鮮にかもし出された情勢と革命の発展が、朝鮮革命を勝利へと導く党の創立を切実に求め、広範な人民大衆を結束させ、彼らを組織動員して新しい祖国を成功裏に建設できる基本的保証も統一的な党の創立にあるとみなした。
 こういうことから、主席は党創立の理論の提示からそれを実現するための闘争の全過程で、党をある特定の階級だけではなく、全朝鮮人民の要求と利益を代弁する政治的嚮導者として建設する原則を確固と堅持し貫いた。
 主席が独創的に示した党創立の原則は、自主性の原則であり、その方式は党創立の組織的・思想的基礎を強固にし、広範な大衆のなかで党の基礎組織を先に建設したことにもとづき、それを拡大強化する方法で党を創立することである。
 すべての準備にもとづいて主席は1945年10月5日、党創立のための予備会議を経て、10月10日、平壌で歴史的な党創立大会を開き、党中央指導機関としての北朝鮮共産党中央組織委員会を結成した。それで、チュチェ思想を指導思想とし、朝鮮人民の自主的利益を代表するチュチェ型の革命的党が誕生するようになり、「トゥ・ドゥ」の結成から始まった党創立の歴史的偉業が立派に実現されるようになった。
 1949年、朝鮮革命の要求と人民の志向によって、北と南に存在していた労働党が合党して、全朝鮮民族の利益を代表する革命的党、朝鮮労働党として強化発展された。
 主席は、党のマークに労働者と農民、インテリを象徴するハンマーと鎌、筆を明記させて、勤労人民の大衆的党としての朝鮮労働党の性格を明確にした。
 主席は解放された祖国に民族自主的な政権を樹立することにより、朝鮮民族をして自主権を自分の手に掌握した自主民族として世界の政治舞台に堂々と立たせた。
 解放直後、主権の問題をめぐる国内外の情勢は非常に複雑で鋭かった。
 主席は、それぞれの主義主張が乱舞し、先鋭化する南朝鮮の情勢と複雑な国際情勢のなかでも、遅滞なく北半部に人民の政権を樹立すべきであるという革命的方針を示し、人民の総意によって自分の手で地方主権機関を設けるように積極的な措置を講じた。
 北朝鮮のすべての地域で人民委員会が組織されて自己の活動を始めたことにもとづいて、1946年2月には北朝鮮臨時人民委員会が樹立した。
 主席の賢明な指導のもとに樹立した北朝鮮臨時人民委員会は、労働者階級が指導する労農同盟にもとづき、各階層の広範な人民大衆の統一戦線に依拠した新しい型の民主主義的な政権であった。
 主席が導く民族自主の人民主権のもとで反帝反封建民主主義革命の課題が成功裏に遂行されるにつれ、北朝鮮臨時人民委員会は北朝鮮人民委員会に強化発展した。
 主席は外部勢力の植民地奴隷化策動によって南朝鮮が再び外部勢力の植民地になりさがっている状況下で、全朝鮮人民の利益を代弁する統一的な中央政府を一日も早く樹立すべき切迫性を深く洞察し、憲法と国旗、国章を制定するようにして、共和国創建の準備活動を成功裏におこなうようにした。
 これにもとづいて1948年8月、北南の総選挙を実施するようにした。それにもとづいて1948年9月9日、金日成主席を国家元首、内閣首相とする朝鮮民主主義人民共和国の政府が組織された。
 朝鮮民主主義人民共和国の創建は、全朝鮮人民の総意によって樹立した唯一の合法的国家の誕生であり、共和国は全朝鮮人民の自主権の実際の代表者、徹底した擁護者であった。
 主席は革命の銃剣を強化することにより、自主権を掌握した国の堂々たる主人としての朝鮮人民の地位をさらに確固と保障した。
 主席は平壌学院を創設し、水上保安隊の組織に継いで、陸海空軍の母体部隊と各技術兵種部隊を組織しうる土台を築き、自体の兵器工業を創設したうえで1948年2月、朝鮮人民軍を創建した。
 主席が正規的革命武力を創建し、人民主権の確固たる武力的保証をもたらすことにより、朝鮮人民はかつて、銃がなくて亡国の悲運にとざされ、血の涙を流していた歴史の教訓を繰り返さず、強力な革命軍隊によってその自主的発展をめざす道へと確固と入るようになった。
 数千年の民族史で初めて民主の新しい国を樹立した主席は、民主改革を通じて朝鮮を人民が社会生活のすべての分野で実際の主人となって、自分の手で幸福を創造していく人民の国につくり変えた。
 主席は、農民の長い間の念願である土地改革から民主改革の煙火を掲げ、重要産業の国有化を実施するようにし、労働法令と男女平等権法令を発布させ、最も人民的で民主主義的な教育と文化、司法検察制度を樹立した。
 国と民族を復興させて人民により裕福な生活をさせるための主席の大志と崇高な愛に感動された朝鮮人民は、建国思想総動員運動の炎のもとで愛国米献納運動、愛国的増産競争運動、労働英雄運動など、多様な建国運動と生産突撃運動をくり広げながら、国の民族経済を発展させ、民族繁栄の土台を築くための闘争を力強く展開した。
 解放された朝鮮の勤労する人民大衆が国の実際の主人となって社会生活のすべての分野を自分の意思と要求に即して改造変革していく東方最初の民主の国であった。

自主民族の魂と気風の確立

 主席は、朝鮮人民にいかなる物質的財宝に比べられないほど高貴な民族自主の偉大な精神を植え付け、朝鮮式に生きていく闘争気風を確立した民族の慈父である。
 主席は、国の解放をなし遂げた初期から朝鮮人民に自己の運命の主人となって朝鮮の未来を朝鮮民族の力で開拓しなければならないという透徹した民族自主の精神を植え付けるために大きな心血を注いできた。
 主席は祖国の凱旋演説で、解放された朝鮮の主人はほかならぬ朝鮮人民である、かつて日本帝国主義の植民地支配下で抑圧されさげすまれてきた労働者、農民をはじめとした勤労大衆が新しい朝鮮の真の主人とならなければならず、彼らによって国のすべての問題が解決されるべきであるとし、すべての人たちが朝鮮の真の主人であるという自覚をもって、新しい朝鮮の建設に一致して奮い立つことを熱烈に呼びかけた。
 解放後、新しい朝鮮が進むべき前途を明示する主席の建国思想と路線が発表された瞬間から全朝鮮人民を大きく激動させ、新しい朝鮮建設へと力強く奮い起こす戦闘的旗印となったのも、それにいかなる外部勢力の干渉も許すことなく、民族の運命開拓で提起されるすべての問題を徹底して朝鮮人民自身の力で解決すべきであるという、民族自主の精神が確実に具現されていたからである。
 主席は解放後、祖国のどこを訪ねても、工場と農村、鉱山と漁村など、祖国のすべてが労働者、農民をはじめとした朝鮮の勤労大衆のものであり、文化人は新しい朝鮮の文化部門の主人、青少年たちは未来の朝鮮の主人公であると熱烈に主張している。
 主席は、朝鮮人民に主人としての自覚を深く植え付けるとともに、長い間、朝鮮人民の精神領域に残っていた思想的汚物を完全に一掃することにより、全国に民族自主精神を徹底的に確立するようにした。
 民族の尊厳に対する意識をむしばむ最も害毒的な思想傾向は、民族主体意識を麻痺させる事大主義とそれから生まれる民族虚無主義である。
 主席が朝鮮人民に徹底した民族自主精神を植え付けるうえで強力な思想的・精神的武器としたのはチュチェ思想であった。
 チュチェ思想は、すべての民族が自己の運命の主人となるためには、民族自主精神をもって、自民族の力に依拠して民族の運命を開拓しなければならないという真理を示している。
 主席はいつも、経済、国防建設の問題や文化建設問題、対外活動問題について助言をおこなう時にも、人民にチュチェ思想の要求どおり、自己の信念をもってすべての問題を朝鮮の現実に合わせておこなうよう強調している。
 徹底した自主の革命思想、チュチェ思想でしっかりと武装させるための主席の絶え間ない指導によって、朝鮮人民は事大主義と教条主義をはじめ、あらゆる古い思想の影響から脱して、自己の運命の主人は自分自身であり、自己の運命を開拓する力も自分自身にあるという強い自主の信念と意志、自主精神をもつようになった。
 解放後、困難で複雑な状況下で巨大な社会的変革が成功裏に完遂された秘訣も、どの国でも見出せないチョンリマ運動のような全人民的大衆運動の炎が激しく燃え上がって、他人が一歩を歩くとき、十歩、百歩走って短い歴史的期間にチュチェの社会主義強国が建設することができた秘訣も、主席が朝鮮人民に民族自主精神を植え付けたからである。
 主席は闘争の実践を通じて民族自主的に、朝鮮式に生きることが、朝鮮民族の固有の気質、気風になるように指導した。
 主席がおし立てる自己の方式、朝鮮式の闘争気風には、民族の運命は徹底的に自民族の力で自国の実情に即して開拓しなければならないという民族重視の哲学、愛国愛族の哲学が込められている。
 主席が主張した自己の闘争方式、朝鮮式は、決して時代の趨勢を無視した主観ではなく、自主を志向する人民大衆の志向と要求、民族の自主的利益の具現である。
 それぞれの国には民族固有の特性があり、人民大衆の志向と要求、生活感情と風習も異なっているため、すべての国、すべての民族に同様に当てはまる唯一の処方箋などあり得ない。
 主席は朝鮮人民をして、世界にいかなる風が吹き、情勢がどう変わろうとも、革命と建設でチュチェ思想の旗印、朝鮮式を最後まで固守し貫徹していくように指導した。
 この世に万能の処方箋があるとすれば、それは自主的な思想精神とそれによって高く発揮される自己の力だけである。
 振り返れば、他人が船に乗って世界を一周し、機械で産業を発展させ、繁栄を遂げている時まで冠をかぶり、ロバに乗って回ったあまりにも貧しく立ち遅れた朝鮮民族であった。その朝鮮民族が、他人が数百年のもの間、おさめた繁栄を半世紀余りの歴史的期間になし遂げ、こんにちは世界の強大国とも堂々と肩を並べ民族の尊厳を高くとどろかせている根本的な秘訣は、まさに主席が徹底した民族自主の精神力を与え、実践闘争のなかで自力更生の闘争気風が朝鮮人民の固有の闘争気風、気質になるよう、導いたからである。
 実に、革命と建設の全過程で朝鮮式、自己の方式という威力ある闘争方式で朝鮮人民を武装させ、朝鮮式に歴史の数多の試練を切り抜け、民族繁栄の大道を開いた主席の功績は、朝鮮民族の歴史で他人の方式を終わらせ、チュチェ式を徹底的に確立した貴い業績となる。

民族尊厳の偉大な守護

 金日成主席は、民族の尊厳と自主権を生命とし、朝鮮民族を害したり、国の自主権を侵したりする支配主義者、帝国主義者を一度も許したことがなく、朝鮮民族を蔑視し愚弄しようとするいかなる支配と干渉行為に対しても妥協しなかった。
 日本帝国主義の植民地支配から脱して民族の尊厳と自主権を取り戻した朝鮮人民は、帝国主義連合勢力との3年間の厳しい解放戦争をおこなわなければならなかった。
 当時、朝鮮戦争時、特派記者として活動したことのあるロシアのある人士は、独ソ戦争が大軍と大軍の間の戦争、連合国と同盟国間の戦争であったならば、朝鮮戦争は「世界制覇」を夢見る大軍と創建されて間もない軍隊との戦争、連合国勢力と建設されて間もない1か国との普通の常識を外れた対決であったと書いている。
 剛毅な自尊心と必勝の信念と意志を身につけた主席は、祖国解放戦争の全期間、常に愛国聖戦の陣頭に立って、人民軍将兵と人民を民族の自主権と尊厳を守り通すための闘争へと一貫して指導した。
 主席は敵機の爆撃で橋が断ち切られた時には、近所の鉄橋をも渡って戦う人民軍兵士と人民を新たな偉勲へと鼓舞し、最前線にまで出て作戦を指揮した。
 その日々、敵が「不退の線」だと豪語していた錦江界線での強行渡河が成功裏におこなわれ、大田包囲作戦が勝利のうちに結束し、洛東江渡河が断行されて1か月余りの間に敵を大邱、釜山の狭い地域に追い込み、南朝鮮全地域の90%以上を解放する奇跡が創造された。また、1211高地が英雄の高地として名高くなり、祖国の寸土が命をもって守られた。
 主席は、愛族、愛民、愛国の信念で祖国解放戦争の勝利をもたらした。
 前線に不利な状況が生じて戦略的な一時後退が始まった時、一部の卑怯者は鴨緑江を渡ろうと主張した。
 しかし、主席は祖国の地に埋もれることがあっても、再び鴨緑江を渡ることができず、千万回、死すともこの地で侵略者と戦って必ず勝利すべきだという、民族守護者としての信念と意志、自尊心をくじかなかった。
 祖国解放戦争の勝利は、主席のその不屈の愛国的信念、ゆるぎない鋼鉄の意志に励まされた朝鮮の人民軍将兵と人民が剛毅な精神力と政治的・思想的優勢により帝国主義連合勢力を打ち破っておさめた輝かしい勝利であった。
 主席は祖国と民族の運命を決する苛烈な戦火の日々、勝利する明日を見通して戦後の復興建設の青写真を示し、その準備を早めるようにした。
 そして、前線で戦っていた大学生を校庭に再び呼ぶ命令をくだし、技術人材を前線から召還して外国留学に送るようにし、科学者大会を召集し、国家科学院を創設するようにした。
 これは、ひたすら祖国と人民に対する熱い愛と勝利に対する信念と楽観を持した民族の慈父である主席の偉大な世界でのみ考えられる伝説であった。そして、これは戦う朝鮮の人民軍将兵と人民に大きな励ましとなり、民族の尊厳、このうえない誇りとなった。
 主席は、戦争の全行程でチュチェ式の卓越した戦略と戦法を創造し、巧みに適用することにより、帝国主義連合勢力の軍事的・技術的優勢を戦略的・戦術的優勢で完全に粉砕し、敵にせん滅的打撃を与えた卓越した総帥であった。
 当時、敵が朝鮮戦争で適用したすべての戦略と作戦、戦術は、西欧の世界では数多くの侵略戦争を通じて「名声」をとどろかせた数十名の「策略家」と悪名高い好戦「将軍」らが集まって作り、検討したものであった。
 しかし、主席は確固たる主体的立場に立ってチュチェ式の独創的な戦略と戦術でそれらのすべてをことごとく撃破した。
 卓越した軍事の英才である主席は、戦争の全過程で、常に急変する軍事政治情勢とその発展推移、敵味方の間の力量関係と敵の行動性格、敵の弱点と前線の実態を具体的に把握したうえで、戦争の戦略的段階を科学的に設定し、各段階で遂行すべき課題とその実現のための正しい闘争方針、戦闘で適用すべき独創的な戦法を明哲に示し、前線で決定的意義を有する作戦と戦闘を直接組織指揮した。
 主席は、朝鮮の人民軍将兵と人民に対する熱い愛情でもって祖国解放戦争の歴史的勝利をもたらした。
 昔から愛を百病の薬、天をも得るカギ、死にも勝つ第一の武器であるといった。
 どの戦争史にもない火線休養所を開設し運営するようにした話、敵に包囲された兵士たちを救うために全前線にわたる緊急対策を講じた話、3歳の子供を救うために完全武装した隊員を敵区に派遣する非常措置を講じた話などは、主席の崇高な愛兵、愛民の精神世界を示している。
 この愛の伝説は、そのまま戦争の勝利のための奇跡をもたらした。
 思想と精神力において比べられず、戦略戦術と道徳的側面でも比肩でない朝鮮の人民軍将兵と人民の威力の前で敵は恐怖におののいた。
 祖国解放戦争を通じて主席は、現代の最もすぐれた名将、百戦百勝の鋼鉄の総帥としての名声を全世界に誇示し、民族の運命に責任をもって導く民族の慈父としての偉人像をさらに明白に示した。
 主席は戦後の数十年間、朝鮮で新しい戦争を挑発しようとする敵の絶え間ない侵略策動を断固粉砕し、自主民族の尊厳をしっかり守って輝かせた。
 朝鮮人民は、戦争を望まないが絶対に戦争を恐れず、決して平和を哀願しない、他民族の尊厳と自尊心を傷つけず、朝鮮民族の尊厳と自尊心が侵害され、蹂躙される時には勇敢に奮い立って、朝鮮人の気概を示すというのが、ほかならぬ主席が朝鮮人民に植え付けた民族的自尊心であり、革命的戦争観点であった。
 武装情報収集艦プエブロ号事件に次いで再び侵入した大型スパイ機EC121を一発目に撃墜させ、無数の非武装地帯での敵の武装挑発を制圧、粉砕しただけでなく、朝鮮民主主義人民共和国を的にしてくり広げたチーム・スピリット合同軍事演習をそのつど水泡に帰させたのは、主席が徹底した民族的自尊心と主体的な戦争観点で人民軍将兵と人民をしっかり武装させ、反帝対決戦に力強く奮い起こした結果である。
 民族の尊厳と自主権の代表者であり守護者である主席をいただいたため、朝鮮は強固な自主の強国として全世界にその威容を誇示することができた。

人民に民族第一の誇りと自負を抱かせ

 こんにち、朝鮮人民、朝鮮民族がもっている誇りと自負は、ほかならぬ偉大な領袖をいただき、偉大な党の指導のもとに無敵の軍事力をもったチュチェの祖国で革命をおこなう民族的誇りと自負であり、美しくて住みよい国で暮らす民族的誇りと自負であり、悠久な歴史と文化をもった民族的誇りと自負である。
 主席が朝鮮人民に植え付けた民族的誇りと自負で最も貴重なのは、朝鮮人、朝鮮民族として生まれた誇りと自負である。
 朝鮮人民革命軍の政治幹部および政治教員の前でおこなった演説で、朝鮮民族は5千年の悠久な歴史をもつ単一民族であり、昔から侵略者と歴代の反動的な支配者に抵抗して頑強にたたかってきた勇敢で覇気のある民族であり、人類の科学と文化の発展に大きく寄与した才知にたけた民族である。祖国と人民を誰よりも熱烈に愛する朝鮮の革命家は、朝鮮人民としての民族的自尊心と誇りをさらに深く心に刻み込まなければならないと教えた。
 各階層の人民に朝鮮人として生まれた誇りと自負をもたせようとする主席の心血と労苦は、解放された祖国の地に響き渡った「愛国歌」にも、戦火の日々、平壌市教育幹部養成所の教員、学生たちにおこなった意義深い談話にも込められている。
 主席が植え付けた朝鮮民族としての誇りと自負は、朝鮮民族の英知と勇敢さ、文明度と直結する健気な思想感情であり、祖国の山河の美しさと貴重さとも結びついた特異な愛の感情である。
 主席は、朝鮮人になった誇りと自負を特別に深く抱いていたため、常に誰に会おうと朝鮮人であることを忘れないように強調していた。
 主席は、民族の悠久な歴史を全世界に輝かせ、民族の文化遺産を継承発展させることにより、朝鮮民族の誇りと自負をより高くとどろかせた不世出の愛国者である。
 主席は、5千余年の朝鮮民族史を主体的見地で正しく定立するよう導いた。
 当時まで朝鮮民族が悠久な歴史をもっているとはいうものの、実際に朝鮮民族の発生、発展の行跡が鮮明に定立されておらず、空白に残っている部門が少なくなかった。
 主席は解放後、遅滞なく朝鮮民族の歴史に対する全面的な研究をおこなうよう措置を講じ、みずからこの事業に責任をもってエネルギッシュに指導した。その過程で朝鮮民族の歴史は、科学性と歴史主義的原則で再評価され正しく解明されるようになり、朝鮮民族は悠久な民族史をもつ世界で最も文化的かつ尊厳高い民族であることがはっきりと実証されるようになった。
 主席は朝鮮民族の始原に関する問題に科学的解明を与えることにより、朝鮮民族が暮らすこの地が人類の発祥地の一つであることが明らかになった。
 1950年代まで朝鮮の歴史学会の一部の人たちは、人類発生の初期と呼ばれる旧石器時代の遺跡が発掘されなかったことを根拠に、朝鮮には旧石器時代が存在しなかったし、隣国で旧石器時代を経た人たちが新石器時代にこの地に移住してきて暮らしたと見ていた。
 主席は、旧石器時代の遺跡が発掘されなかったからといって、朝鮮に旧石器時代が存在しなかったとは言えないとし、研究を深めて発掘をより積極的におこなうための措置も講じた。
 こうして、朝鮮が人類発祥地の一つ、朝鮮人の発祥地であり、人類文化の発祥地であることを実証する貴重な考古学的な資料が多く発掘されるようになった。
 主席は、朝鮮人の起源問題についても科学的に研究、分析するよう導いた。
 主席の助言と細心な指導のもとに、歴史学者らは朝鮮人に対する人類学的表徴と文化的特性に対する研究を深化させて、朝鮮人は名実ともに本土起源の単一の民族であり、朝鮮民族は旧石器時代から新石器時代、青銅器時代に至る原始社会のすべての発展段階を経ながら、独特な生活様式と文化を創造してきたすぐれた民族であることが解明された。
 主席は、日本帝国主義の民族抹殺策動と歴代の反動的で大国主義的な史家によって、甚だしく歪曲されていた朝鮮民族の始祖である檀君を探し出し、伝説として伝えられてきた5千年の民族史を科学的に解明した。
 主席は、歴史学者も思い至らなかった問題を優れた英知と深奥で豊富な知識、科学的な洞察力で具体的に解明しながら、以前に研究された資料であっても、
檀君を考証するうえではさ細なこともおろそかにしてはならないと助言し、調査発掘隊も所々に派遣して発掘調査を積極的に進めるようにした。
 こうして、多くの歴史書籍の記録と檀君神話を通じて得た結論と考古学的発掘によって古朝鮮の始祖王の生存時代が解明され、檀君が平壌一帯で生まれて国を建てたということが定説だという証拠をもつようになり、1993年、檀君陵に対する発掘がおこなわれて彼が実在した人物であると科学的に解明されるようになった。
 主席は東方の強大国であった高句麗の建国年代を科学的に解明し、高麗の太祖である王建についても主体的立場で再評価するよう指導した。
 主席は、歴史を研究するうえで徹底して主体的立場にたち、自分の信念をもって、かつて歪曲されていたすべての歴史的事実や事件に対して正しく考察し評価するよう指導した。
 こうして、かつて定説となっていた安岳3号古墳の壁画の主人公の問題、檀君陵紀跡碑周辺の石獅子の問題など、多くの歴史問題が朝鮮民族の利益と民族的特性に即して解明されるようになった。
 主席は歴史発展の各段階、各分野に対する該博な知識と非凡な洞察力を備えたことによって、歴史学者と世人の驚嘆を得ていた。
 主席は、朝鮮人民の悠久な民族文化遺産が朝鮮民族史、人類の文化史に貴重な財宝として輝かしい光を放つようにした。
 主席は民族文化遺産を抜きにしてその民族の歴史と未来についても論ずることができないという見解と観点をもって、朝鮮人民がなし遂げた民族文化遺産を民族の大事な財宝として守り輝かせるために誰よりも労苦を尽くした。
 主席は崇高な愛国の一念から民族文化遺産を主体的に継承し発展させるべきだという独創的な思想を示し、その実現のための活動を直接指導して朝鮮で民族文化遺産保存の新しい起源を開いた。
 主席は、朝鮮人民の愛国偉業、社会主義偉業を指導する全期間、祖先たちが創造した民族文化には、民族固有の言語と風習、生活感情、人民のすぐれた才能が反映されており、こうした民族文化遺産は民族文化の発展において貴い財宝になるという確固たる見解と立場を堅持してきた。
 主席は解放後、遅滞なく民族文化遺産を保存管理する活動をつかさどる国家機構を設け、歴史遺跡と遺物を発掘して保存し、平壌市をはじめ、各道都に歴史博物館を建設し、全国の歴史遺物を収集して国宝として登録し、歴史遺跡と遺物があるところには他の建設をしないようにし、各地の寺もそのまま保存するようにした。
 文化のすべての分野にわたって朝鮮人民がおさめた民族のすぐれた遺産をすべて探し出し、それを新たな現実に合わせて継承し発展させた主席の細心な指導によって、国立芸術団体が組織され、国立音楽学校が創立し、国立曲芸団と建築家同盟が組織されて、民族のすぐれた文化芸術と建築術を正しく継承し発展させるための活動が力強くくり広げられるようになった。
 民族の貴重な文化遺産を探し出して守り抜いた主席の熱い愛国心は、厳しい祖国解放戦争の日々、人民の生命と財産を保護し、民族の貴重な文化遺跡をいささかの損傷もなしにそのまま保存するため、ソウル解放のための総攻撃を明け方になった後に開始するようにした事実と、流失し焼却されるところだった貴重な文化遺産である朝鮮封建王朝の実録を救うための対策を講じ、最高司令部に保管するようにした伝説のような話を通してもよくわかる。
 主席は戦後、国の状況が困難ななかでも破壊された歴史遺跡を現状どおり復元するようにし、多くの古典文学作品と医学書籍を収集、整理、翻訳するようにし、朝鮮の始祖王の陵墓を立派に改修するようにした。
 このように、主席は生の最後の時期まで、民族の歴史と文化をよりさん然として輝かせるためにすべてを尽くした民族の慈父であった。


3)民族の繁栄をはかる社会主義を建設した指導者

社会主義を民族の自主偉業に転換

 金日成主席は、朝鮮で社会主義革命が完遂されつつあった1958年6月11日、最高人民会議第2期第3回会議で、第1回5か年計画に関する法令を採択し、社会主義の建設が民族の将来の繁栄をめざす闘争になると明白に宣言した。
 早くから革命の道に身を投じ、「トゥ・ドゥ」の旗のもとに、朝鮮革命の開始を宣言した主席は祖国の解放をなし遂げた後、民族の自主性、人民大衆の自主性が完全に実現された社会主義、共産主義を建設することを革命の目標とおしたてた。
 主席が抗日の血戦万里の道をかき分ける時から建設しようと構想した社会は、愛国、愛族、愛民の理念から出発して各階層の人民大衆の要求と利益を全面的に具現し、全同胞の民族的利益と繁栄の実現に真に寄与する人民大衆中心の社会主義社会であった。
 主席は、歴史上初めて革命と建設の主人は人民大衆であるという原理にもとづいて、社会の発展と革命運動の合法則性を新たに解明することにより、社会主義理論を新たな科学的土台のうえに引き上げた。
 主席は、チュチェの原理を具現して社会主義、共産主義建設の理論を全面的に示し、全一的に体系化した。
 主席が示した社会主義、共産主義建設の理論には、社会主義、共産主義社会の様相と共産主義建設の戦略的目標、社会主義への過渡期と社会主義の完全な勝利および共産主義の高い段階への移行を内容とする社会主義、共産主義建設の合法則的道程、共産主義建設の綱領としての全社会のチュチェ思想化の方針、人民大衆の自主的要求と利益を擁護して確実に具現し、主体性と民族性を固守すべきであるという社会主義建設の根本原則、人民政権を強化し、思想、技術、文化の3大革命を遂行すべきであるという社会主義、共産主義建設の総路線、社会主義の政治方式に関する理論などがある。
 主席が示したチュチェの社会主義理論は、あくまで自国の実情と自民族の要求と志向を重視する立場から出発して展開され体系化された理論である。
 1983年6月のある日、主席は朝鮮を訪問しているペルー・アメリカ革命人民同盟代表団を接見したとき、チュチェ思想がマルクス主義を機械的に模倣したのではなく、こんにちの現実に合わせて創造的に発展させた思想だと理解しているとの彼らの言葉を肯定した。
 主席はマルクスの著作には、個々の国での革命の遂行方途までは具体的に記述されていない、個々の国の共産主義者は、自分の頭を働かして自国人民の利益と自国の実情に合った革命の遂行方途を見いださなければならないとし、革命の遂行において固定不変の公式といったものはありえない、我々は長期にわたる革命闘争の過程で、こうした結論を得るようになったと意味深く述べた。
 主席は朝鮮革命を指導する全過程で、特に朝鮮で社会主義制度が樹立した後、社会主義の建設で提起されるすべての理論的・実践的問題を既成の理論や公式にこだわることなく、朝鮮革命の要求と社会発展の合法則性に即して独創的に解決した。
 去る世紀の末、世界の社会主義運動の内部で起こった悲劇的な事態とは対照的に生成発展していく朝鮮式社会主義の真骨頂を通じて、社会主義の標柱を掲げてはいてもすべての民族構成員の自主的志向と要求を無視しおろそかにするならば、全民族的偉業としての社会主義をスムーズに前進させていくことができないということが実践によってはっきり証明された。
 かつて、社会主義運動では、その階級的原則を守り階級的団結をなし遂げる問題が主に強調され、民族をどれ程度重視するかという問題は、自己の個人的所信を表明する程度に論じられてきた。
 早くから、共産主義者になるためには真の民族主義者になるべきだとしながら国と民族のために一生をささげるという覚悟をもって革命の道に身を投じた主席は、歴史上初めて民族主義について正しい解明を与え、国と民族の運命を開拓する革命闘争で共産主義と民族主義、共産主義者と民族主義者の関係を立派に解決した。
 主席が一生、強調している言葉がある。
 「革命は民族のためにおこなう!」
 まさに、これにすべてを民族重視の角度で考察する主席の特異な革命観点がある。すべての革命闘争はただ民族のために必要であり、また価値をもつというのが主席の熱い民族愛にもとづく革命に対する観点の中核である。
 主席は、民族の利益の上のいかなる階級や党派の利益などあり得ず、民族に背を向けたいかなる英雄も決して真の英雄と言えない、民族のためならいかなる深淵や障壁も乗り越えるべきだという不変の観点をもって、民族と革命の相互関係の問題を解決した。
 民族重視の社会主義社会建設の独創的な道を開拓し導いた主席の卓越した指導と熱い愛情は、全朝鮮人民の利益を真に実現してくれる愛国、愛族、愛民の新しい社会を建設し、社会主義と民族の運命を一つに結び付けた根源であった。
 主体性とともに民族性を固守し発展させて民族的特色が生かされた社会主義を建設しなければならないということ、まさにこれが、主席の主張する社会主義建設の重要な一方略であった。
 社会主義建設で主体性を生命としてきた主席の指導によって、朝鮮の具体的現実と人民の民族的感情と情緒に即して政治生活と経済生活が保障され、朝鮮民族の特色を生かして朝鮮式社会主義を建設することができた。
 すでに、抗日武装闘争期に祖国光復会10大綱領を示しながら社会生活のすべての分野で帝国主義的、封建的文化と思想、生活因習を徹底して一掃し、真の民族文化を建設し、人民的な教育制度を樹立する問題を綱領に明記した主席は、社会主義的民族文化を建設するうえで民族的形式に社会主義的内容を正しく結合することを鉄則としてきた。
 主席は、教育、文学芸術、生活様式など、すべての文化分野で民族性を重んじ、それを現代的美感と人民の要求に即して発展させることこそは、民族性の真の継承発展になるとみなした。
 主席は、言語分野に大きな関心を払って民族性を生かすようにした。
 主席は解放後、新しい祖国建設の壮大な設計図を示しながら朝鮮語の民族的特性を大いに生かし、純潔性を固守するために、すぐれた平壌の言葉を基準にして朝鮮語を発展させるべきという方針を示し、朝鮮語と文字が外来語と漢語が入り交じった混合語、混合文字にならないよう格別な感心を払い、指導した。
 主席は民族のスポーツの発展にも関心を払い、民族正統の高麗医学を大いに奨励し発展させ、文学芸術分野で民族性をユニークに生かしていくように指導した。
 主席は、衣・食・住の生活分野でも民族的特色を大いに生かすように指導した。
 1958年8月23日、玉流館を建設するようにして、敷地を定めてくれた主席は1960年8月13日に民族的情趣にあふれる朝鮮式建築物にその名も「玉流館」とつけてくださった。その後も数十余回にわたって玉流館を現地指導し、直接冷麺の味見もしながら人民に対するサービスにおける問題にいたるまで具体的な助言をおこない、解決した。
 こんにち、玉流館では、平壌の誇りであり民族の誇りである平壌冷麺、肉を盛りつけたチェンバン麺、チェンバン麺をはじめ、牛のバラ汁、平壌魚がゆ、緑豆チジムなど、各種の民族料理をつくって朝鮮人民と外国人に立派にサービスしている。
 2000年、平壌を訪問した金大中とその一行が玉流館で平壌冷麺をごちそうになったという事実が報道されると、南朝鮮の人たちの間では平壌冷麺が大人気料理になったという。
 主席は早くも戦争の最中である1953年4月5日、第55回軍事委員会で平壌市復興建設の基本方向を示しながら、平壌市を復興するうえで歴史的に形成された都市の基本軸を保存し、普通門、大同門のような伝統的な朝鮮式建物と新たな近代的な建物をよく配合することについて強調した。
 主席の構想により、平壌市には、戦後からこんにちにいたる間に平壌大劇場と人民文化宮殿をはじめ、文化芸術、サービス基地と主要建築物が朝鮮式に立派に建ちあがった。
 主席は美しくてすぐれた民俗を重んじ、より開花させるために朝鮮民族の魂が反映された生活文化を大いに生かすよう、誰よりも心血を注いだ。
 こんにち、朝鮮式社会主義が愛国に理念と情を置いたすべての朝鮮人の真の祖国となり、世界の多くの国と民族の驚嘆の対象となっているのは、社会に民族の魂が激しく脈打ち、民族的なすべてのものが重視されてより開花しているからである。

民族の理想が開花する真の社会建設

 金日成主席は、次のように述べている。
 「我々の社会は、人民の政治的権利が法的に、社会的に立派に保障され、人間の尊厳を侵害、蹂躙するいかなる社会悪もない、政治的に最も安定した社会です」
 長期にわたる人類歴史は、人間が真に人間らしい生を享受しうる社会の建設を志向して探求してきた歴史的過程であったといえる。その歴史の流れのなかで東洋と西洋の多くの人が、理想社会、理想国家を夢見てきた。
 朝鮮民族だけでなく、東洋と西洋のそれぞれの民族が描いてみた理想社会の形態において共通的なものは、人間尊重の社会、人間による人間の搾取と圧迫がなく、真の自由が保障される平等な社会に対する渇望であった。
 その念願を込めて、社会主義ソ連が理想社会建設の最初の帆を上げた。しかし、現代修正主義の策動によって20世紀の最後の年代にソビエト社会主義が崩壊すると人々は絶望感に陥った。
 人類のその理想は果たして夢であったのか。この世紀的質問に答えたのが、ほかならぬ主席が樹立し指導してきた朝鮮式社会主義の現実であった。
 世人が目にした朝鮮式社会主義は、主席が真の人間尊重の思想、人民大衆中心のチュチェ思想にもとづいて建設し、チュチェ思想の要求を一貫して具現してきたことによるたまものであった。
 主席は、世界で最も貴い存在は人間、人民大衆であることを歴史上はじめて解明し、それを自分の持論に具現した人民の卓越した領袖であった。
 主席にとって、人民はすなわち天であり、「神様」であった。
 主席の「以民為天」の思想と持論が、社会主義建設の実践に全面的に具現された結果、やがて歴史に類を見ない理想的な人間尊重、人民尊重の社会が建設されるようになった。
 主席は、人間、人民大衆の人格と価値を最上に高めることを制度的に法制化するようにした。
 こんにち、朝鮮民主主義人民共和国社会主義憲法は、自主的人間の権利と義務、公民の権利と義務を最も神聖に、最も立派に規制している自主的人間尊重の大法典である。これには、政治生活、経済生活、文化生活など、すべての分野で社会主義的公民が享受できる権利が最も平等に、最も理想的に規制されている。
 主席は、すべての政策と路線、社会的施策を徹頭徹尾、社会の構成員の利益と意思を反映して作成、公布し、人民自身の手で徹底して施行していくようにする原則を一貫して堅持するようにした。
 人民大衆中心の社会主義という幸せのよりどころで、年々歳々、福楽を享受している朝鮮人民の生活を通じて、民族の念願を花と咲かせ、社会主義楽園を建設した主席の偉人像は、より輝いている。
 ひたすら、人民のためを思う主席にとって祝日の日、休息の日が別にあったのではなく、なお1年中のただ1日である誕生日さえ祝うことを許さなかった。主席が燃えるような精力で一生を変わりなく人民行きの列車に乗って走ってくることができた思想的・精神的要因は、ほかならぬ人民に対する熱烈な愛と幸福の楽園で生きようとする民族の念願を必ず実現しようという重い責任感を持したことにあった。
 去る革命運動史には、偉人たちが自分自身の目的を立てて遠路を歩んだ逸話もあるが、主席のようにひたすら人民を訪ねて、一生休まずに数千数万里の道を歩み続けた例はなかった。
 主席が、人民のためにささげた不眠不休の昼と夜、思索と心血はそのまま朝鮮人民の幸福となり、喜びとなった。
 主席は、人民的な社会主義的施策で人民により多くの福が行き渡るよう気を遣った。
 主席が樹立した社会主義制度下で朝鮮人民は、衣・食・住の心配ばかりでなく、治療を受ける心配、学ぶ心配も知らない幸福な人民として生を享受するようになった。その幸福な生活のなかで1960年代から「われら幸せ歌う」という歌がこの地に響き渡っている。
 実に、朝鮮人民にとって主席が樹立した社会主義制度、母のような温かい愛情で手取り、足取り見守り導く社会主義祖国は幸福の楽土、永遠な生のよりどころである。
 朝鮮人民は、この世のどの人民も享受できない福のなかの福を享受しながらその万福を生んだ福を「領袖にめぐまれた福」だとたたえ、それは朝鮮人民にだけめぐられた福であると誇り高く自負する。ゆえに、朝鮮人民は日に日に深まる主席の限りない愛と恩情に燃えるような愛国で報いるために、自分らの持ち場と職場で奇跡と革新を起こしてきた。
 主席は人民のこういう姿を見ながら、我々は実に人民に恵まれた福を享受していると熱く述べている。
 人民は領袖に恵まれた福を歌い、領袖は人民に恵まれた福をもって生まれたと自負する、福があふれる社会、福が福を生む社会がほかならぬ朝鮮の社会主義である。

子孫万代の繁栄を裏付ける

 朝鮮式社会主義があれほど威力あり、生命力のある社会として万人の賛嘆を受けているのは、自分の領袖、自分の指導者のまわりに一つに結束した一心団結の社会であることと重要に関連している。
 主席が建設した社会主義の本質的特徴と不敗性は、全人民が一心団結した社会だというところにある。
 一心団結は、朝鮮の社会主義の存在と発展の生命線であり、その不敗性の源泉である。
 歳月の激しい雨風にもめげず毅然と立っているたくましい樹木を見る時、地中に深く張ったその根を思うのと同様に、人々は朝鮮の社会主義を不敗のとりでに作り上げた力の源泉をほかならぬ一心団結で探している。
 こんにち、一心団結という言葉が朝鮮の真の姿、本質的特徴を表現する単語として世人に知られているが、それは決して平坦な過程のなかでおのずと容易になされたものではない。
 朝鮮革命の開拓期に新しい世代の青年共産主義者によって築かれた一心団結の伝統を、抗日の革命隊伍に立派に具現し、祖国解放の歴史的偉業をなし遂げた主席は、祖国を解放した後には党の組織的・思想的団結を実現したことにもとづいて、それを全社会の統一団結として強化発展させた。
 主席は解放された祖国の地に第一歩を踏み込みながら、人民に民主主義の旗のもとに結束して新しい朝鮮を建設しようと熱烈にアピールした。労働者、農民、インテリ、企業家、宗教家など、それぞれの階級と階層の人民に会っても民主主義の旗のもと一つに団結することについて熱く述べた。
 主席は全社会の統一団結を社会のすべての構成員の血縁的きずなにもとづく最も強固な一心団結に絶えず強化発展させてきた偉人であった。
 血縁的きずなにもとづく強固な一心団結、全社会が一つの仲むつまじい大家庭をなし、領袖と人民が一丸となって渾然一体をなした社会が、ほかならぬ主席が打ち立てた朝鮮の社会主義である。
 朝鮮の社会がこんにちのように血縁的なきずなのなか、一つの仲むつまじい大家庭、渾然一体をなすことができたのは、主席の人民に対する燃えるような愛と信頼、熱い同志的愛と信義に根源がある。
 主席にとって一人の同志は何物にも代えがたい貴重な存在であった。それで、抗日の日から、資本家は金もうけが格別の楽しみだというが、私にとっては同志を集めることがまたとない楽しみであり、喜びであったと述べている。
 主席は領袖と人民の関係は指導をして、指導を受ける関係である前に、革命の道で生死をともにする革命の戦友であり、一家族であるという崇高な人間関係に関する思想を打ち出し、人民のためにありとあらゆる愛と恩情をたゆみなく施した偉人であった。
 偉大な領袖、偉大な党のまわりに一つの思想と意志、情で結束した朝鮮人民の高尚な精神世界は「一人はみんなのために、みんなは一人のために!」という集団主義的スローガンのもとでより崇高に発揮されている。
 実に、領袖を中心にして全人民が鉄桶のごとく結束して全社会が渾然一体をなしているまさにここに、一心団結の社会としての朝鮮の社会主義の永遠な生命力があり、世界で最もすぐれた社会を建設してくれた主席の不滅の偉人像がある。
 主席は、国と民族の興亡盛衰の法則から軍事力の強化を国事のなかの第一国事としておし立て、早くから軍事力の強化に総力をあげた。
 自衛の原則を堅持し、軍事力の強化を最も重視した主席の不滅の指導業績があって、朝鮮は世界的な軍事強国に、こんにち、強国建設の確固たる軍事的担保をもった生命力のある不敗の社会主義に発展した。
 主席は、最も生命力があり、強固な自立的民族経済を建設して富強繁栄の確固たる土台を築いた。
 朝鮮で戦後の困難ななかでも重工業の優先的発展と軽工業と農業の同時的発展を内容とする経済建設路線が社会主義経済建設の基本路線と選ばれるようになったのは、自立の原則にもとづいて国の経済的土台を築くべきであるという主席の戦略的構想にもとづいたからである。
 自立的民族経済の強固な土台があったからこそ、朝鮮は、世界の社会主義が崩壊し、帝国主義者の制裁と圧力が度合いを強めており、世界経済の波動が絶え間なく及んでいるなかでも、ゆるぎなく社会主義建設を力強く推進させてくることができた。


4)祖国統一の救い星

祖国統一の偉大な経綸

 祖国統一は、金日成主席が早くから解放された祖国に帰ってきた初期から胸に秘めた意志であり、信念であった。
 亡国の悲しみを胸に、「鴨緑江の歌」を歌いながら朝鮮独立の誓いを立てた時、主席が描いた祖国は一つの朝鮮であり、分裂した二つの朝鮮ではない。主席が白頭密営の灯火を手にして照らしてみた朝鮮の地図も白頭山から漢拏山に至る三千里朝鮮であって、決して二分された朝鮮ではなかった。
 解放直後、民族分裂の悲運にとざされた当時、すでに民族の分裂を防げず、祖国統一をなし遂げられないと、次代まで大きな不幸と苦痛をなめるようになるだろうとし、統一の道を模索してきた主席は1960年代に入ってからは我々がもっと年をとる前に祖国を統一しなければならない、祖国統一の任務を絶対に次代に譲り渡してはならないと切に述べ、統一偉業の実現のためにあらゆる精魂を傾けた。
 祖国統一に対する主席の念願と意志は、主席の一生を貫いた人生観であり、体質化された信念と意志であった。
 金日成主席は、次のように述べている。
 「祖国の統一は、朝鮮人民にとって一刻の猶予もならない民族至上の課題であります。我々は一日も早く祖国統一の偉業をなし遂げて全民族の一致した切なる願いをかなえ、統一した祖国を次代に譲り渡さなければなりません」
 主席は、数十年を一日のように国の統一の偉業を実現するためにあらゆる労苦と心血を注いだ。
 我々の世代に祖国を統一しなければならない、統一した祖国を次代に譲り渡さなければならない。これは、主席が祖国統一に対する透徹した使命感から高くかかげた信念のスローガンであり、統一の旗印であった。
 人民に祖国統一を贈り物として譲り渡そうとする大きな願いを常に胸に秘めていた主席であったので、第2回汎民族大会が準備されていた1991年8月1日にも祖国平和統一委員会の責任幹部、祖国統一汎民族連合北側本部のメンバーとの談話で、私は国が分断された以後の半世紀間、一日として朝鮮民族の不幸と災難について忘れたことがなく、わが祖国の統一について考えなかった日がない、祖国統一の課題を次代に譲り渡さなければならない。我々は、必ず、我々の世代に祖国を統一しなければならないと述べた。
 主席は祖国統一の問題を外部勢力によって人為的に分断された民族の血脈を再びつないで、一つの民族として不信と対立をなくし、民族の和合をはかる問題として規定した。
 主席は祖国統一の問題の本質を闡明したことにもとづき、祖国統一の問題はその性格において朝鮮民族内部の問題、朝鮮人民の内政問題であり、朝鮮民族の主体的力量によって実現すべき全民族的偉業であることを明哲に示した。
 主席は祖国統一の問題に対する科学的な評価にもとづき、祖国統一は朝鮮民族にとって最も死活的であり、一刻の猶予もならない民族至上の課題として提起されるという歴史の結論をくだした。
 1996年11月、総書記は歴史的な板門店視察の道で、主席が打ち出した祖国統一の3大原則、高麗民主連邦共和国創立方案、全民族大団結10大綱領は、祖国統一の3本の柱、3大憲章であるといえると熱く述べた。
 主席は、崇高な祖国愛、民族愛にもとづいて、自主、平和統一、民族大団結の祖国統一の3大原則を示すことにより、祖国統一の礎石を磐石のごとく打ちかためた。
 祖国統一を外部勢力に依存し、外部勢力の干渉を受けることなく、自主的に実現しなければならないという自主の原則は、統一問題解決の根本的立場であると同時に起点であり、祖国統一を武力行使に依拠することなく平和的な方法で実現すべきであるという平和統一の原則は、朝鮮半島の分裂が抱えている戦争の危険性とこれを取り除くべき民族的、時代的要求に即して提起される切迫で重大な統一問題解決の重要な方途である。そして、思想と理念、制度の差を超越して民族的大団結をはからなければならないという民族大団結の原則は、祖国統一という志向と目標のもと、全民族を一つに結束させる行動の指針であり、祖国を自主的に、平和的に統一するための基本的保障である。
 自主、平和統一、民族大団結の祖国統一3大原則を示したのは、主席が祖国統一の運動史に積み上げた不朽の功績であり、朝鮮民族に残した最も貴重な統一遺産である。
 主席は、祖国統一3大原則にもとづいて公明正大な民族共通の統一方案である高麗民主連邦共和国創立方案と民族統一戦線の綱領である全民族大団結10大綱領を示すことにより、祖国統一の実現の現実的な道程と方途を明示した。
 主席が示した高麗民主連邦共和国創立方案は、北と南のすべての階級と階層、党派がともに受け入れられる最も合理的で公明正大な統一国家建設の方途を示している統一大綱である。
 新たな統一方案には、北と南が互いに相手方の思想と制度をそのまま認め、容認する基礎のうえで双方が同等に参加する民族統一政府を樹立し、そのもとで北と南が同等の権限と義務をもって、それぞれの地域自治体を実施している高麗民主連邦共和国を創立して祖国を統一することが見込まれている。
 連邦国家の国号も朝鮮に存在した初の統一国家である「高麗」の名をつけたものであり、民主主義を志向する北と南の共通の政治理念とともに双方がともに受け入れられる連邦であるという国家結合方式と共和国であるという国家政治体制を反映している。
 全民族大団結10大綱領は、自主的で平和的かつ、中立的な汎民族統一国家としての連邦国家の創立を総体的目標として提起し、民族愛と民族自主精神を団結の理念的基礎、共存、共栄、共利をはかり、祖国統一偉業にすべてを服従させることを団結の基本原則として規定している。
 全民族大団結10大綱領は、自主性を生命とする民族の本性と祖国統一の本質、数十年間の分裂によって発生した政治的、社会的問題から提起される本質的で現実的な要求を全面的に反映している独創的な民族統一戦線の綱領、政治連合の綱領である。全民族大団結10大綱領は、透徹した自主的、愛国愛族の立場と全同胞の念願を包括的に反映したことにより、国と民族を愛し、統一を願う人であるなら、誰もが受け入れられる最も合理的で現実的な民族団結と民族繁栄の大綱領、大憲章である。
 自主、平和統一、民族大団結の祖国統一3大原則、高麗民主連邦共和国創立方案、祖国統一のための全民族大団結10大綱領は、民族自主精神と祖国愛、民族愛を抜きにしては全く考えることも、規定することもできない統一の里程標である。
 こんにち、北と南、海外の全同胞は、歳月の流れにつれて祖国統一3大憲章がもつ大きな民族史的意味をさらに切に認識しており、この不滅の統一大綱、3大憲章が指し示す道に沿って祖国統一のための全民族的運動に力強く奮い立っている。
 半世紀以上の長きにわたる主席の祖国統一の闘争史は、主席が一つの朝鮮路線、統一路線を一貫して堅持し、祖国統一の機関車をひっきりなしに、かつ、力強く走らせてきた闘争の歴史であった。
 主席は解放後、国が分裂した当初から全民族の統一熱望を反映した自主的な統一路線を一貫して堅持し、敵の分裂主義路線に主動的に対処することにより、敵の反統一策動をことごとく粉砕した。
 主席は苛烈な戦火の日々に、賢明な指導によって戦争の勝利のために南朝鮮人民を解放し、共和国の旗のもとに祖国統一偉業を実現するように全民族を覚醒させ、奮起させる一方、祖国統一に有利な国際的環境を作り出し、祖国統一を促進させていくようにした。
 主席は戦後、反統一勢力の悪辣な策動によって、民族的対立が日に日に激化されるなかで、民族の運命に対する崇高な責任感を抱き、一つの朝鮮路線、統一路線にもとづいて現下の情勢の要求に合うさまざまな合理的な統一方案を相次いで示した。
 共和国の正当で合理的な統一政策は、南朝鮮人民の統一愛国闘争を力強く鼓舞し、世界の平和愛好人民に朝鮮の統一問題に対する正しい理解と認識を与え、朝鮮問題の平和的調停のための国際会議で世論を広く呼び起こした。
 主席の指導によって1971年9月20日から1972年8月11日の間に25回に渡る双方的赤十字団体の予備会談と13回の双方実務者会談がおこなわれるなか、赤十字会談とは別途に1972年5月の初旬には最初の北南高位級政治会談が平壌でおこなわれた。この歴史的な北南高位級政治会談により、その後、主席の統一理念がそのまま反映された歴史的な7.4南北共同声明が採択される祖国統一史に永遠に記される大きな政治的出来事が起きるようになった。
 7.4南北共同声明の発表は、主席が示した自主的平和統一方針の輝かしい勝利であり、特に、北南協商方針がもたらした立派な結実であった。北南高位級政治会談と共同声明の発表は、統一運動を、北南対話を通じて新たな高さで指導するうえで画期的な転換の契機を開いた。
 1991年12月、歴史的な「南北間の和解と不可侵および協力、交流に関する合意書」と「朝鮮半島の非核化に関する共同宣言」の採択は、全的に主席の卓越した対話協商思想と崇高な包容力がもたらした歴史的勝利であった。
 このように、主席は、一つの朝鮮路線、統一路線にもとづいて主動的で積極的な統一提案を引き続き提起し、祖国統一偉業を力強く指導してきた民族の慈父、統一の救い星である。

統一のためにささげた偉大な一生

 金日成主席にとって民族大団結は、すなわち祖国統一であった。民族の団結を遂げていく過程は、すなわち国と民族の統一と繁栄を遂げていく過程であるというのは主席の持論であった。
 主席は、思想と理念、政見と信教の違い、財産の有無と社会的地位に関わりなく、すべての階級、階層が、民族共同の要求と利益を第一位とし、一つに結束するという独創的で幅広い民族大団結思想を打ち出し、それを実現するために大きな心血と労苦を注いだ。
 主席は国が分裂した初期、すでに国と民族を愛する北と南の愛国的民主勢力を一つの統一戦線体に結束することを決心し、そのために1949年6月、全朝鮮的な統一戦線組織である祖国統一民主主義戦線を結成した。
 祖国統一民主主義戦線は、北と南の70余の愛国的政党、社会団体が網羅した全民族的愛国勢力の総集結体として、北と南のある地域に限定された統一戦線体ではなく、南北の全地域を包括する全民族的愛国勢力の統一戦線体であった。
 主席は、民族大団結のための統一戦線を形成することを確固たる意志とし、それを実現するための活動にすべての精魂を傾けた。
 主席の主動的な発起とエネルギッシュな指導によって1948年4月、平壌で分裂史上、初の歴史的な会合であり、民族会議である南北朝鮮の政党、社会団体代表者達席会議がおこなわれた。
 5月2日、主席は大同江のスク島で南北連席会議に参加した南北政党、社会団体の代表とともに協議会を開き、 5.10単独選挙を阻止し、統一的民主主義政府樹立のための当面の闘争対策を討論した。
 スク島協議会は、全朝鮮的な統一的中央政府としての朝鮮民主主義人民共和国を創建することについて合意を見た事実上の全朝鮮政治協商会議となった。
 主席は終始一貫、北と南、海外のすべての人士と同胞が一堂に会して統一対話を交わしてこそ、民族大団結を成功裏に遂げることができるという立場から、北と南の間の接触と協商のための前途に横たわった難関を主動的に打開し、その実現のための闘争をより積極的に指導した。
 北と南の間の接触と往来を実現するためのこうした闘争過程に1970年代に赤十字会談を始めとした各レベルの接触と協商がおこなわれ、北と南の間に最初の高位級会談がおこなわれ、1980年代に新しくて合理的な連邦制方式で統一をなし遂げるための各階層の民族構成員の幅広い接触と往来、対話の実現のための闘争がより積極化された。
 南北間に各レベルでおこなわれた接触と往来、対話と協商は、全朝鮮人民の意思と念願を民族大団結と統一の実現へと力強く志向させた。
 主席は、世界の各地域で暮らす海外同胞に祖国訪問のより広い道を開き、共和国北半部の同胞と接触できる機会をもたらし、海外同胞を暖かく迎えて彼らが北と海外の連帯を実現するうえで先駆者的役割を果たすように暖かく指導した。
 その過程にオーストリアのウィーンで1981年11月3日から6日まで祖国統一のための北と海外同胞のキリスト信者間の会合がおこなわれ、続いて1982年12月、フィンランドのヘルシンキと1984年12月、オーストリアのウィーンで第2回、第3回対話がおこなわれた。特に、第3回対話では北と海外同胞陣容間の連合のための非常設協議体として、祖国統一のための民族連合が結成される大きな成果がおさめられた。
 こうした肯定的変化を深く洞察した主席は、遅滞なく北と南、海外を包括する汎民族的な大会を召集するように積極的な措置を講じた。
 それで1990年8月15日、とうとう祖国解放45周年、民族分裂45周年になる同日、反統一勢力の悪辣な妨害策動によって汎民族代表がたとえ、一か所に集められなくなった状況下でも板門店とソウルでは同じ時刻に同じ案件をもって同一した日程に従って断ち切られた民族の血脈をつなぐための歴史的な会合である祖国の平和と統一のための汎民族大会が全同胞の大きな関心のなかで大盛況裏に開催された。
 1990年11月、とうとう民族大団結の旗のもと北と南、海外の統一愛国勢力が民族の前に誓ったとおり、常設的な全民族統一戦線体である祖国統一汎民族連合(汎民連)が結成されたし、続けて1992年8月15日、祖国統一汎民族青年学生連合(汎青学連)が結成され、汎民連と汎青学連の傘下組織が北と南、そして海外の各地域に組織されるようになった。
 北、南、海外の全同胞の熱い統一熱望のなかで祖国統一のための民族大団結の闘争はおしとどめることのできない歴史の流れとなった。
 主席は、統一偉業を実現するうえで提起される要求と国際政治の実態を深く洞察したうえで、朝鮮人民の祖国統一偉業に対する支持者、同調者の隊伍を増やし、国連などの国際舞台で内外分裂主義者の「二つの朝鮮」陰謀を阻止、破綻させることにより、祖国統一に有利な局面を開くためにエネルギッシュに活動した。
 主席の主動的な措置と賢明な指導によって1973年9月から開幕された国連総会第28回会議の第1委員会では共和国代表団の積極的な活動と多くの国の代表の力強い支持声援にもとづいて、7.4南北共同声明の原則に従って、朝鮮の自主的平和統一を促進させるという希望を表しつつ、米日反動の「二つの朝鮮」国連同時加入案を一蹴し、国連南朝鮮統一部復興委員団を即時解体することを決定し、これは国連総会で表決なしに満場一致で採択された。
 そして1975年、国連総会第30回会議では、敵対勢力の悪辣な妨害策動にもかかわらず、朝鮮問題解決に関する共和国政府の立場を反映した43か国の共同決議案が第1委員会と総会で圧倒的多数の賛成票で可決された。
 この共同決議案の基本内容は、「国連軍司令部」を解体し、国連の旗のもと南朝鮮にあるすべての外国軍隊を撤去させるのが必要であると認めるということ、これと関連して朝鮮軍事停戦協定を平和協定に変えることを停戦協定の実際の当事者に呼びかけるということ、朝鮮の北と南が南北共同声明の原則を遵守し、相手方に反対する武力行使をしないことを保障する実際的措置を講じることにより、朝鮮で軍事的対峙状態を解消し、強固な平和を維持し、国の自主的平和統一を促進させていくことを要望するということなどであった。
 1980年代末──90年代に入り、帝国主義者は各国における社会主義の崩壊と変質を自分らに有利に悪用して国連で「投票機械」を動かして、朝鮮の永久分裂のための「二つの朝鮮」陰謀を必ず実現させようと公然と策動していた。
 主席は、こうした状況下で国連に共和国が先に加入するようにする重大な決断をくだした。
 主席のこの措置には、国連に南朝鮮が単独で入って朝鮮問題を「解決」されて民族の永久分裂を固着させようとする敵らの狡猾な企図を阻止し破綻させ、変遷した状況に即して祖国統一の闘争で引き続き主動を堅持し、分裂主義者に打撃を与えるための深い意図が込められていた。
 主席は解放後から生涯の全期間、130余か国の7万余名の外国人士と活動した。そのなかには、社会主義諸国、非同盟国家ばかりでなく、資本主義諸国、さらには敵対国であるアメリカと日本の人士もいた。
 主席は、彼らに朝鮮統一問題の本質と朝鮮人民の祖国統一闘争の正当性と生命力、統一祖国の展望についてわかりやすく教えた。
 主席の積極的な対外活動によって1970年の1年だけでも第3回非同盟諸国サミットなど、各国際会議と国際機構で朝鮮の平和的統一を支持する200余件の各種の連帯性措置が講じられた。こうした大勢の潮流のなかで各国、各地域で朝鮮人民の祖国統一を支持する署名運動、連帯性集会などが広範にくり広げられた。
 朝鮮の自主的平和統一のための国際連絡委員会の呼びかけによって、1979年4月から12月までの間におこなわれた朝鮮人民の祖国統一偉業を支持する国際的署名運動に世界128か国と31の国際機構と地域機構で10億8000万名以上が参加したという事実は、朝鮮の統一にどんなに有利な国際的環境がもたらされたかをよく示している。
 主席は、祖国統一に有利な国際的環境をもたらすために民族分裂の基本的張本人であるアメリカ当局との協商闘争を主動的にくり広げることにより、朝鮮問題解決のための画期的局面を開いた。
 主席の積極的な朝米協商方案によって共和国とアメリカ間の会談は1993年に幕開けとなり、1994年10月には歴史的な朝米基本合意文が発表される歴史的出来事がもたらされた。
 総書記にアメリカ大統領が直接「朝鮮民主主義人民共和国最高指導者」という尊名まで丁寧につけて保証書簡を取り付けて朝米間の基本合意文が取り交わされたという消息で世界は沸き立った。
 主席は、不滅のチュチェ思想と崇高な民族愛から出発して海外同胞運動の発展の独創的な道を開拓してきた。
 主席は自主的立場で海外同胞の問題は徹底して民族問題の一環であり、海外同胞運動はたとえ他国でおこなわれるが、どこまでも自己の祖国と自民族、自国革命に奉仕すべきであるということ、こういうことから海外同胞運動は同胞たちの民主主義的民族権利を擁護し、祖国の富強繁栄と統一偉業に貢献するものとならなければならないということを示した。
 たとえ、異国の地に住んではいても、朝鮮人の血筋を引いた海外同胞はどこまでも朝鮮民族であり、したがって、民族構成員としての権利を行使し、義務を果たさなければならないというのが海外同胞の問題を見る主席の立場であった。
 海外同胞運動を指導するに当たって、主席が大きな力を入れたのは、朝鮮人が住んでいる世界各地に海外同胞組織を結成するようにし、同胞たちを祖国統一隊伍に一つにかたく結束することであった。
 主席の賢明な指導によって1955年5月25日、朝鮮民主主義人民共和国の権威ある海外公民団体である在日本朝鮮人総聯合会「総聯」が結成され、結成大会では「祖国の平和的統一独立と民主主義的権利のために」という組織活動方針が採択された。
 総聯結成を起点にして、在日朝鮮人運動は、はじめてチュチェ思想を指導理念とする民族的愛国運動として確固と転換され、主体的な海外同胞運動の資源が開かれるようになった。
 主席は、総聯をモデルに海外同胞組織を建設するための海外同胞運動の闘争を指導した。
 アメリカとヨーロッパ地域、独立国家協同体地域、中国に住む朝鮮の海外同胞は、主体的海外同胞組織の典型である総聯をモデルにして、既存の自己の散発的な組織を再整備し、自主、民主、統一のための進歩的団体を新設し、それを汎同胞的な組織として拡大、発展させた。
 この過程に1970年代──80年代にアメリカ、ヨーロッパ、日本などで祖国統一と関連して促進委員会、研究会、国民戦線、国民会議、民主主義を守る会、自主統一推進会、祖国統一促進会、協会などの名称で自主、民主、統一のための進歩的団体が結成された。
 資本主義世界に社会主義のとりでである朝鮮民主主義人民共和国の堂々たる海外公民の同胞組織が結成されて祖国と運命をともにしながら統一愛国闘争を力強くくり広げるようになった歴史的現実は、主席の主体的な海外同胞運動の思想の輝かしい勝利を示す驚異的な画幅であった。
 主席は、海外同胞組織の活動で同胞たちが自分の主義主張を祖国の統一繁栄であるという民族的大義に服従させて、みんながかたく団結しなければならないことを一貫して強調した。
 主席のエネルギッシュな労苦があって、世界各地には共和国の威力ある海外同胞組織が雨後の竹の子のように生まれ、そのまわりに広範な同胞大衆が結束し、主席の祖国統一構想を実現していく道で、自分の役割を責任をもって遂行していけるようになった。
 主席は、暖かい配慮によって7000万の同胞を懐に抱き、統一の道に導いた偉大な慈父であった。
 ひたすら、民族重視、民族統一であるという民族的大義を前にし、愛国を志向する人であるなら彼が誰であれ、暖かく抱き、生を輝かせた主席の幅広い愛と信頼は、この世の誰も考えられない幅と深さ、熱い熱度をもっていた。
 主席の懐は、聖なる統一実現の道に一身をささげた人であるほど、より熱い信頼を与え、彼らに民族構成員としての最も高貴な生、永生する生を与えた熱い愛の懐であった。
 こんにち、平壌市郊外にある新美里愛国烈士陵には、祖国統一のために一身をささげてたたかった多くの統一愛国烈士たちが安置されている。彼らは、みんな主席が知り、高くおし立てた愛国者であった。
 遠く離れた子供を思って眠れないのが父母の気持ちであるというが、主席は実の親の気持ちにも比べられない限りなく暖かい愛によって、海外に離ればなれになった同胞をみんな懐に抱いて統一愛国の道に立たせ、貴い生を与えようと誰よりも心を砕いた。
 それゆえ、主席は、解放後から海外同胞の問題に深い関心を払い、彼らを祖国に連れてくるための措置も講じ、祖国を恋しがる彼らがいつでも祖国を訪問できるように必要なすべての条件を保障した。
 主席の父なる愛のなかで、1959年12月から世界が「資本主義から社会主義への民族大移動」であると激賞した在日同胞の帰国の航路が開かれ、多くの在日朝鮮の同胞たちが祖国の懐、主席の懐に抱かれるようになった。
 主席は海外に派遣される代表団と幹部らばかりでなく、海外同胞組織の幹部らと海外同胞たちにも、祖国に来たがる同胞を祖国はいつも歓迎することをみんなに伝えるようにし、その過程を通じて彼らが祖国をよりよく知るべきであると常に強調した。
 主席の暖かい愛と信頼のなかで多くの人士らが、統一愛国の道で生を輝かせるようになった。

偉大な生をささげて開いた統一の明るい展望

 金日成主席の一生があれほど偉大なものとなれたのは、それが全民族の運命に責任をもち、民族のための不眠不休の一生であり、生の最後の瞬間までも祖国の統一と民族の明るい未来のためにささげた大いなる一生であったからである。
 1990年代は、主席が80の高齢を前後した時期であった。しかし、主席はその年齢にもかって、よりもっと頑強に、より精力的に祖国統一のための道に身命を賭してことにあたった。
 主席はこの時期、祖国統一の決定的突破口を開くうえで自分が旗手になるべきであり、さらには分裂の深淵がより深まっている現状況下で、その画期的局面は自分が開くべきであると深く考えていた。
 事実、この時期、全民族的な統一対話を実現し、祖国統一汎民族連合のような汎民族統一戦線を結成するようにし、北南対話を成功させて北南の合意書と非核化共同宣言を採択させ、祖国統一のための全民族大団結10大綱領を発表して、全民族を大統一戦線に結束させ、朝米協商の妥結と北南最高位級会談の道を開拓し、南朝鮮の各階層の統一使節を接見し、彼らを統一の道に導いたのは、主席のような民族の偉大な慈父、不世出の愛国偉人ならではの思いもよらない巨大な民族史的問題であった。
 主席は朝米協商を実現し、南朝鮮の当局者と直接統一対話をおこなうことが1990年代を祖国統一の年代にならせる画期的突破口であると結論した。
 主席の広い度量と卓越した政治知略によって、とうとう1992年4月、アメリカのビリー・グラハム牧師が朝鮮との友好を望んでいるというクリントン大統領の口頭メッセージをもって朝鮮を訪問し、その結果、以前には閉ざされていた朝米協商の扉が動き始めた。
 主席は1994年4月16日、アメリカの「ワシントン・タイムズ」記者団の質問に答えながら、アメリカに我々は平和をこのうえなく大切にし、戦争を望まないが、誰であれ、我々の自主権を侵害し武力をもってわが国を征服しようとするなら、我々も自衛権を行使し、武力で対応せざるを得ないということ、わが共和国政府と人民は自主権を生命とみなしており、いかなる侵害からも祖国の自由と独立を守る確固たる決意と準備ができていると厳かに警告した。
 このようになって、アメリカ政府は再び協商の道に出たし、1994年6月には元アメリカ大統領であったジミー・カーターがクリントン大統領の特使の資格でソウルと板門店を経て平壌を訪問するようになった。
 限りなく広い度量と包容力を備えた主席は、カーターを暖かく迎え入れ、彼との談話で朝米間の対決問題を解決するための合理的な方案を示した。
 カーターは主席が示した協商方案に全的な支持を表しつつ、朝来間の凍結した氷を壊す先駆者になることを誓った。
 それ以後、アメリカが朝米会談に再び応じることにより、朝鮮とアメリカとの関係改善の突破口が開かれるようになった。
 このように、朝米関係改善の突破口を開いた主席は、朝米会談とともに北南協商の前線も展開し、円熟した政治実力とすぐれた指導手腕で祖国統一の新たな決定的局面をもたらすための不眠不休の労苦をささげた。
 主席は北と南間の対話の門が開かれていた初期から、最高位級会談に大きな意義を付与し、それを成功させるために労苦を惜しみなくささげた。南朝鮮にいわゆる「文民政権」が樹立した後も、主席のこの立場には変わりがなかった。
 主席はカーターに、国の統一のためであれば、自分は誰とでも会う用意があるとし、北南間の最高位級会談をする以上、互いに統一方案をもって対座すべきであり、南朝鮮当局者は自分の統一方案を示さなければならないことを明らかにした。
 北南間の最高位級会談は、会談のための会談ではなく、統一のための会談、民族分裂の悲運を転換させる会談とならなければならない。したがって、最高位級会談は自己の明白な統一方案をもって祖国統一の大原則を合意してしかるべきだというのが、主席が会談と関連して堅持した根本的立場であった。
 主席は広い度量によって、かつて、極端な右翼民族主義者、反共的であった人物に会って民族のための道に指導した経験からも、もし南朝鮮当局者がいくら民族に背を向けていたとしても、朝鮮民族のいささかの魂があるならば、民族統一に対する提議に背くことはできないだろうと確信した。
 このようになって朝鮮民族の悲劇的な分裂歴史に年輪が49回も刻まれていた1994年7月、平壌では主席の発起と絶え間ない労苦によって、分裂史上はじめて、北南間の最高位級会談が予見されるようになった。これは、全民族に祖国の平和的統一に対する大きな希望と期待を与える消息であった。
 この消息が公布されると、北と南、海外の全同胞は、北南間の最高位級会談の開催を熱烈に歓迎しながら、この画期的な会合の道を開いた主席に限りない感謝と最大の敬意を表した。
 祖国統一の日は、目前に迫っていた。それゆえに、南朝鮮の著名な人士である文益煥牧師も、統一は未来型ではなく、現在型であり完了型であると嘆声を上げたのである。
 主席は、瞬時も休息することも仕事の手を休めることもできなかった。
 祖国統一のために一日を10日、1時間を10時間のように働くべきであるというのは、主席が直接立てた活動日課、生活日課であった。自分がもっと奮闘すればそれだけ統一の大門は1時間でももっと早く開けることができると主席は思っていた。
 主席の生の最後の時期の統一指導とともに永遠に忘れられない胸の熱い話がある。
 1994年7月7日、ちょうど前日に経済部門の幹部協議会を指導し、夜更かしして分厚い統一書類を見ていた主席は、同日の朝、総書記が日課として定めた朝の散策まで忘れて思索を重ねた。
 幹部らが執務室に入ってから深い思索から覚めた主席は、壁にかけられた時計を見て、金正日総書記が組んだ日課なので必ず守るべきであるが、今日は祖国統一と関連した書類を早く完成して金正日総書記と討論しなければならない、だから今日だけは散策時間を守れないだろうと話した。その書類は、民族分裂の悲劇を終わらせ、祖国統一への新たな局面を開くようになる北南間の最高位級会談と関連した歴史的な書類であった。
 主席は、全同胞の悲願である祖国統一の画期的局面を開くようになる北南間の最高位級会談について深く考えながら歴史的な書類を完成していった。
 主席は遠からず到来する祖国統一の日を思い描き、全同胞の一致した統一意志を込めて闊達な筆致で「金日成1994.7.7」であると記入して歴史的書類を終結した。
 実際、当時、主席は心臓病と目の手術によって安定治療をしなければならなかった。しかし、主席は統一のために、このように自分をつくしたのであった。
 その1994年7月8日の早暁2時、民族の慈父である金日成主席が思いがけなく、祖国統一の書類をそばに置いたまま、偉大な心臓の鼓動を止めた。
 主席の逝去は、5千年の民族最大の痛恨事であり、同胞の統一運動史にいまだかつてない、いかなるものをもってしても決して補償できない最大の喪失であった。
 あれほど願っていた祖国統一のために一生をロウソクのように燃やした朝鮮民族の慈父である主席は、統一した祖国を見ずに余りに哀惜にも逝去した。
 祖国解放50周年を前にして板門店の統一閣の前には、祖国統一のために心を砕き、偉大な心臓の最後の鼓動までささげた主席の歴史の最後の親筆を形象した祖国統一親筆碑が不滅の記念碑として丁重に建立された。
 1996年11月24日、朝鮮人民軍板門店代表部を現地指導した総書記は、主席の親筆碑の前で激情にかられて長い間立っていた。
 総書記は、激情を抑えながら熱く述べた。
 碑に刻まれた主席の親筆はわずか九つの文字にしかならないが、ここに込められた意味は数千数万字の碑文にも代えられない巨大で偉大なものがある…
 主席の親筆には、主席の剛毅な統一意志と信念が含蓄されており、祖国統一に対する主席の心血と労苦が凝結されている。それは、自分が朝鮮人民に与えられる最も大きな贈り物は祖国統一であるとし、統一のために一生をささげた主席の大きな労苦と限りない献身に対する貴い証票であり、その親筆を刻んだ親筆碑は、祖国統一の道に一生をささげた主席の業績を後世に末永く伝える歴史の功績碑である。
 民族の慈父である主席が、偉大な革命生涯の最後の瞬間までささげて祖国統一の歴史的偉業の遂行に積み上げた革命業績は、民族分裂の悲劇史を終わらせ、必ず国の統一をなし遂げるための全民族的闘争で永遠不滅の礎石となる。
                                                



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