偉人金日成主席
 
1.偉大な人間
 
1)人類知性の最高の境地に立って
探求の一生

 偉大な金日成主席は非凡な思索と探求によって、豊富かつ多面的な知性の塔を築き、それにもとづいて数十星霜わたる困難で複雑な中も人民大衆の自主偉業を勝利へと導いた。
 主席が天下の真理を会得してただ一度の錯誤や誤りもなく革命と建設を百戦勝へと導いた人類知性の代表者になりえたのは、まさに革命という壮大な実践の中で、並外れた思索と探求によって、一生を輝かせてきたことと主に関連している。
 金正日総書記は次のように述べている。
 「金日成同志は、また傑出した探求力を身につけていす。金日成同志は瞬時も思索と探求を中断したこはありません」
 主席は誰よりも博学多才で、すべての道理に精通し、革命と建設の複雑多端な問題を常に天才的英知で解決してきた非凡な知性人あった。
 主席をして、いかなる人物にも比肩できない知性の最高の境地に到達させた土台は、革命実践であった。
 主席は幼年の時代から探求心が抜群であった。一つの事象も深く考察し、その本質を把握する時まで思索と探求をやめなかった。
 手に取ってみようとした虹の秘密を知ろうと最後まで掘り下げてその道理を把握した話、蓄音機の原理を把握しようと部品を全部分解して見た話などは、主席が幼年の時代から並外れた探求心を持っていたことをよく物語っている。
 主席は小学校の時も質問を多くする学生として知られ、時には教員もその返答に窮するほどであった 。
 主席は早くから神秘主義を一つの病気に考え 、人間が神秘主義の病気にかかれば自分の役目を果たせない愚か者になると見た。何事でも最後まで掘り下げ、思索と探求を続けるならばこの世に神秘なことなど一つもないうのが、主席の独特な思考観点であり疲れを知らぬ探求の姿勢であった。
 現実の中での真理習得は、早くから主席が体質化したな探求方法であった。
 11歳の若年に「学びの千里の道」を歩んで祖国へ帰った主席は、朝鮮の山野、川と海、名勝古跡と学校、工場と農村、町と村をはじめ、多くのところを見て回りながら、祖国の山河の美しさと朝鮮人民の英知と才能について、民族の悠久さについて深く体験した 。主席にとって朝鮮人民の血の涙が滲んでいる山野、町と村は、そのまま祖国現実を肌感じでいる一つの大きな学校であった。
 この現実という学校で主席は、早くから蔑まれ抑圧される惨めな人民の境遇とあくどい抑圧者、略奪者の本性を悟り、正義と真理への強い志向を培い、革命的で科学的な世界観の土台を着実に築き始めた。
 早くから現実を目撃して体験し、思索と探求を重ねる過程で自然と社会の真理を会得し、数多くの事象の道理を把握するのは、主席の一つの習慣となった。現実をまたとない立派な学校とみなす主席の並外れた習慣は、革命闘争に身を投じた後にも変わりなく、実践の中で絶え間ない探求の道を歩み続けるようにした貴重な元手となった。
 1929年の秋から1930年5月の初旬まで吉林監獄で獄中生活をした主席が初歩を切った行路は、搾取と抑圧に苛まれる人民の中に入る道、職業的な革命活動の現実に入る道であった。
 職業的な革命家として現実の中に入ること、それは主席が獄中で温めた構想を実現するために高く掲げたスローガンであっだけなく、すべての道理に精通し真理を追求する、思索と探求のより高い目標の達成をめざす金日成主席特有の新たな道程であった。
 主席にとって探求の目的が、革命実践上の切実な問題を正しく解決するところにあったなら、人民の志向と念願、人民の才能と経験は、朝鮮革命を前進させ、世紀的な創造と変革を遂げるための尽きない探求の源泉であった。
 革命実践が主席にとって知識と真理を探求する広い活動舞台であったなら、主席がこの上なく立派な師としておし立てたのはほかならぬ人民であった。
 実に主席は、人民を自分のまたとない教師とみなし、一生涯人民を天のごとく崇拝した。主席が座右の銘としていた「以民為天」の理念には、人民大衆はいかなる個別の人物にも比べられない偉大な存在だという特異な見解と観点が置かれてあった。
 主席は幹部たちに会っても常に人民大衆を教師とみなし、彼らから謙虚に学び、すべての活動を人民大衆に依拠しておこなわなければならないと助言し、党大会の高い演壇でも、我々の最もすぐれた教師は人民大衆であり現実であると宣言した。外国の友人に会っても教師は人民大衆である、我々は常に人民から学んでいると述べている。
 誕生70周年を迎える意義深い場でも、自分の聖なる一生を感慨深く顧みながら、人民は、常に私の手厚い保護者であり、ありがたい恩人であり、すぐれた教師でしたと真情を打ち明けた主席は、偉大な生の最後の年の4月、朝鮮を訪問したアメリカのCNNテレビ放送会社記者団の質問に対する回答でも私の最も知恵深い博識な教師は人民ですと述べている。
 主席は、何を一つ思索し探求するにしても人民の自由と幸福、革命と建設の勝利のためにおこない、常に人民の素朴で飾り気のない言葉から探求の種子と糸口を求めていた。
 人民を教師とみなした主席は、幹部と労働者、農民、インテリはいうまでもなく、老人と子供に至るまで各階層の人民から実に多くのことを学び取り、体験した。
 チュチェ思想国際研究所の初代理事長であった安井郁は、人民を教師とみなし、一生を人民から学んだため、金日成主席はチュチェ思想のような人間中心の偉大な思想を創始し、百科全書的な思想と理論を打ち出すことができた、このことが分かるようになった私の気持ちは今、他に言いようがない、人民を教師とおし立てた主席こそは偉人の中の偉人であると感極まって言った。
 主席は、人民のなかで革命実践が提起する複雑多端な諸問題を一つももらさず解決しながら、革命の各時期、各段階で遂行すべき戦略と戦術、原則と方途を明示する思想と理論も打ち出し、政治と軍事、経済と文化をはじめとした各分野の科学技術知識も専門家以上に深く心得ていた。
 主席が打ち出したすべての思想と理論は、人民大衆の志向と新たな現実の要求を十分に反映して独創的に提示されたことにより、いかなる学術論文にも比べられない理論的深度と大きな実践的意義を有していた。主席が示した反帝反封建民主主義革命に関する思想と理論、社会主義革命と建設に関する理論、全社会の革命化、労働者階級化、インテリ化に関する理論など、民族解放、階級解放、人間解放に関する理論や党、国家、武力、経済、文化など各分野に関する理論は、すべてが時代性と独創性、百科全書的な完璧さによって、人類とともに永遠な生命力をもつ革命的な思想・理論である。
 朝鮮で社会主義農村問題に関するテーゼも主席が国の農業部門を陣頭に立って指導していた日々に、全国各所の荒いあぜ道で朝露に濡れ、雪や雨にうたれながら直接創造した朝鮮の農業問題解決の不滅の大綱である。
 実際、大小の国事を指導すべき国家元首が、現実で提起される具体的な問題までいちいち関心を寄せて指導するということは、口で言うほどなまやさしいことではない。しかし、主席は会議や報告資料を通してではなく、全国各地を絶えず指導しながら現実を調べ、実践で提起されるすべての問題を解決するために、思索と探求を瞬時も中断しなかった。
 久しい前から人々は、書物を手段にしてみずからの見解と経験を交換し、知識を習得しながら探求と文明の歴史を開拓してきた。読書は該博な人間をつくり、筆記は正確な人間をつくるといった名人たちの言葉も、人間の文明と知的能力の形成において読書がもつ意義を強調した価値ある見解だと思う。
 主席は、人間の生活と闘争で革命的で進歩的な書物の意義と価値を誰よりも深く洞察し、情熱的な読書で知性の塔を絶え間なく築いた、すぐれた篤学の士であった。
 1987年2月のある日、ソ連児童文学雑誌社の主筆は主席が誕生して幼年の時代を送った万景台の生家と周辺の事績物を見て回った後、主席にどんな書物が影響を与え、それらの書物が困難な時期に何を教えたのかと質問をしたことがあった。
 主席は主筆が提起した質問に答えながら、自分の思想と信念と意志は、決して一朝一夕にして生まれたものではなく、長期にわたるたたかいと生活の過程で生まれたものであり、その最初の出発点はほかならぬ読書を好んだ幼いころであったと述べている。そして、自分が幼いころに読んだ書物は、まことにたたかいと生活の真理をはじめて教えてくれた教師であり、真の人生行路の初の出発を助けてくれた道づれであったと感慨深く述べている。主席は幼年の時代から生涯の最後の時期まで常に手から本を離さず、一生、読書の日課を違うことなく守ってきた地道な愛読者であった。
 主席には、読書の時間と場所が別に決められていなかった。
 主席は、革命と建設を指導しながらすべての合間を読書に利用した。
 主席は、早暁に起きては新聞と新しい通信資料を読み、仕事の合間には各種の図書と雑誌に目を通し、夜の時間には小説をはじめとした各分野の書物を読んだ。ある時は食事をしながらも読書をし、自動車に乗って現地指導の道を行き来しながらも読書をした。このように体質化された読書なので、主席を随行する幹部らも主席が休むべき時間を切り出して読書をし、食事の時間と車内で読書するのを引き止めることができなかった。
 主席の読書分野には限界が別になかった。主席は新聞と雑誌から始まって、政治、経済、軍事、文化など各分野の書物をみな耽読し、分厚い小説も欠かさずに読んだ。
 主席が党と国家、人民を賢明に導く中でも戦略的問題からさ細な問題にいたるまで、すべてを立派に解決していく最高の知性を所有するようになった秘訣の一つは、ほかならぬ書物を無言の教師とみなし、書物とともに一生を生きてきたところにある。
 それゆえ、ある文筆家は主席が書物とともにおこなってきたたるまない探求とそれによって達した知性の高さを正確に測るためには、人類の背丈が今よりもはるかに高くなければならないだろうと激情に満ちて言ったのである。

世界を見極める非凡な眼識

 金日成主席は、世界を最も幅広く、明哲に見極める非凡な眼識をもって、万事を誰よりもはっきりと見通す方であった。
 主席は、人間とその生活に対する深い理解と政治と経済、軍事と文化、外交など、社会生活のすべての分野に対する深い造詣をもっていた。主席は、世界の主人、自己の運命の主人である人間の本性と生活について誰よりもはっきりと把握しており、自然と社会の各分野に対して出色の眼識を持っていた。革命実践に対する探求と読書を通して主席が体得した多方面的かつ、深みのある知識によって、主席はどの分野に対しても並外れた識見をもつ博識家として名声を博していた。
 主席が千万人の心を正しく察する博士、周囲世界に対する百科全書的な科学的識見を持つ博識家であったため、朝鮮人民ばかりでなく世界の多くの人も、世界を見極める広い識見を持した主席を天才の中の天才と高く褒めたたえたのである。
 世界を知るには、何よりも人間を知るべきである。
 それは人間が世界の主人であるため、世界を把握し正しく変革していくためには人間について第一の注目を払い、人間をよく知らなければならない。
 人間を最も尊び、一生涯人民の中にいながら数えられないほど多くの各階層の人に接した主席は、人間の心中を最も正確に察する人間心理の博士であった。
 いつか、金正日総書記は幹部らに、多感で思いやりのある母親のように、人の身の上と心の奥底まで知り、一言をいっても胸がすくように話してくれる主席を誰もが心から信頼し、敬慕したのはあまりにも当然なことである、主席があまりにも気さくで博識であったので、村の老人たちまでが10代のうら若い主席を金成柱先生と呼んで尊敬し慕ったものだ、人民大衆が全知全能の存在であるなら、主席は人民大衆の心を一身に体現した人民の太陽であると熱く述べている。一生、いかなる指示や命令によってではなく、いつも人の心から察し、その心を動かす方法で大衆を指導することを違えることのできない鉄則にして活動した主席の偉大性に対する意味深い話であった。
 主席は人の心を正しく見抜いてそれを動かす、出色の能力を身につけていた。
 具体的な事象に対する人々の態度は喜びと悲しみ、満足と不満足、愛と憎悪といった、感情的・情緒的な心理状態で表現される。
 主席は人々の感情・情緒を一時も無視していなかった。主席は人の心を奥底まで見抜き、さ細な心理変化も正確に捉えた上で、それに合わせてすべての活動を能動的に展開した。
 主席が重視し気を配った人々の感情・情緒には、物心のついていない子供たちの童心からはじまって、青春男女の愛情と、人々の職業的特性による感情的・情緒的趣味、年長者の感情細部など、人間が体験できるすべての心理的現象が含まれていた。
 人々の心を実によく理解してくれる主席であったため、幼い小学校の子供が誰にも言わなかった秘密を主席にひそひそと耳打ちし、高齢の老人たちは膝を打ちながら言いたいことを全部言っていた。子供と話すときには、子供の気持ちを理解し、老人と話すときには老人の気持ちを理解した方が、ほかならぬ偉大な主席であった。
 総書記はいつか、幹部らに主席が抗日武装闘争を開始した時期、主席より10〜15歳も年上の多くの革命家が主席を朝鮮革命の最高指導者として従い慕った、それは主席が人々の心をよく知り動かす持出した能力をもっていたからだと述べた。
 主席は、感情・情緒の把握を人々の心を把握する上での第一の工程とし、彼らの志向と要求の把握を人々の心の奥底に入るための重要な一課題とみなした。
 主席は一生涯、数え切れないほど多くの人に会っている。国籍と経歴、年齢と職業、出身と社会的地位など、多くの差をもっている人々であっただけに、彼らの志向と生活上の要求もやはり千差万別であった。
 しかし、主席は人々が今何を考えて何を願っているのか、生活上の要求は何であり、彼らの理想は何であるかをはじめ、人々の志向と要求の具体的な細部まで関心を払い、具体的に調べた。
 革命は、人民大衆の自主性を実現するための組織的な闘争である。そのため、革命をおこなうためには大衆を動員しなければならず、大衆を動かすためには彼らの心から動かさなければならない。人の心を動かすためには、金や鞭を振りかざしてはならず、人々の思想・感情との活動をおこなわなければならない。
 主席は人の心を知ること、彼らの具体的な心理状態を正しく把握することを革命家が備えるべき第一の実力とみなし、機会があるたびに幹部らに子供たちの心理を奥底まで見抜いている小学校教員のように、人々の心理をよく把握しそれにあわせて働くべきであると常に教えていたのである。
 主席自身も言っているように、主席は小学校と中学校を経ているので青少年学生の心理をよく知り、長い間、軍隊生活をしてきたので軍人たちの気持ちを誰よりもよく知っていた。それで抗日武装闘争の時期、隊伍を率いてマクワウリ畑の傍を通り過ぎながらマクワウリを食べたがっている隊員たちの気持ちをかなえてやったその思いやりで、人民軍軍人たちが家にいる時のように餅やそば、初トウモロコシやマクワウリなどを食べたがるだろうから、切らさずに保障するよう懇ろに教えたのである。
 主席は工場と農場に出かければ労働者たちの油のにじんだ手もはばかりなく取ってくれ、農場員の土で汚れた手も宝の手だと言いながら、彼らの心の奥底まで詳しくはからった。
 ゆえに、主席は人間、人民大衆の志向と要求を最も正確に反映した人間中心のチュチェ思想を創始し、困難で試練に満ちた朝鮮革命を輝かしい勝利へと導きながら偉大な転換と変革へと千万の大衆を呼び起こす天才的な組織動員力を発揮することができたのである。
 人間の心を推し測る博士、実にこれは人間の心を最も尊び、民心を天心に推し立て、日ごろ人間の心を先に考慮し、彼らの思想・感情との活動から始めて数多の国事をおこなってきた主席に、数千万の人民が謹んでさし上げた全人民的な呼称であった。
 1992年2月、インドではチュチェ思想国際研究所の理事をはじめ、世界各国の著名な学者たちの積極的な努力による図書が発行され、誕生80周年を迎える主席に贈呈された。これは、時代と歴史、人類の前に不滅の業績を積み上げた主席の百科全書的な思想と理論、多方面的で豊富な識見に対する外国の友人たちの称揚の賜物であった。
 それで、総書記も世界の多くの国で主席の著作と思想・理論を解説する書籍を出版しながら、主席の百科全書的なすぐれた思想・理論を高く称揚していると熱く述べていた。
 主席が所有した革命と建設、人間生活と社会生活の多方面的な分野に対する識見は、その幅と深度を予想できないほど膨大なものであり、科学性と論理性、現実的意義において普通の常識を外れた超人的なものであった。
 主席は、革命と建設で提起されるいかなる問題についても明哲な思想的・理論的英知の込められた回答を与えている。それで朝鮮人民はもとより、世界の多くの政治家と学者、個別的人士まで主席の非凡な洞察力と広い識見、深奥で該博な知識に感嘆を禁じえなかったのである。
 主席が体得してみずからの有力な武器にした知識は、自然と社会の一分野に限られたものでは決してない。主席は朝鮮革命と人類の自主化偉業の複雑多難な問題を科学的に、完全無欠に解決できる膨大な知識を体得するために、常に探求の幅を広め最後まで掘り下げて、人々の想像を絶する知識の塔を築いた。
 主席は革命と建設のすべての原理的な問題はもとより、国際政治の複雑を極める実態をも常に明るく見極め、社会科学と自然科学の膨大な領域を包括する該博な知識を深く身につけていた。
 そればかりでなく、主席は家庭と生活倫理、風俗と世態など、人間生活の具体的な細部にいたるまですべてに精通し、古代から現代にいたる長期間の常識的な問題も誰より多く知っていた博識家であった。
 主席は外国の音楽と芸術、伝統と歴史についても非常に詳しかった。さらに主席は各宗教についてもかなり造詣を持っていた。
 1980年、主席がヨーロッパのある国を訪問する時、その国の大統領は、自国の訪問を熱烈に歓迎し、自宅に招請した。それで、主席は彼の家で大統領とともに食事をするようになったが、食卓には各種の特色ある料理とともにニンニクが置かれてあった。当時までその大統領は以前にはニンニクについて知らなかったが、その時分になって始めてその薬効成分を知るようになり、それに魅力を感じていた。彼は主席にニンニクの長点について話し始めた。
 主席がニンニクの長点についてまだよく知っていないとばかり考えた彼は、隣で口でも挟んだら、と思ったばかりに情熱的に話した。自分はニンニクを初めて食べているが、これを食べると口腔の病気もなくなり、健康にもよかったと言うのであった。
 余裕をもって彼の言葉を聞いてくれた主席は彼の話が終わると、ニンニクの原産地は朝鮮である、朝鮮人は昔からニンニクを栽培して食べた、朝鮮のニンニクがフランスを通じてヨーロッパに広まった、私は幼い時からニンニクを食べながら育った人である、だから私にニンニクの自慢はいい加減にしなさいと言って豪快に笑った。
 そばにいた朝鮮の幹部らも大きな声で笑い、大統領をはじめとしたその国の幹部らももらい笑いをした。ややもすれば他国の自慢になるところだった朝鮮民族の誇りであるニンニクが、主席によって本態を取り戻したのである。
 歴史上優れた知恵で名を馳せた人物を見れば、大体一定の分野における特異な英知によってであった。外交的手腕の高い外交家や軍事的知略にたけていた戦略家、文学的才能が抜きん出ていた有能な文筆家など、個別の分野ですぐれた知恵を所有した偉人はどの時代にもいた。
 しかし、主席は非凡な政治的手腕と洗練された指導芸術、すぐれた軍事的知略と科学的計算による経済管理運営方法などにもとづいて、革命闘争と建設事業で提起されるすべての問題を遜色なく解決してきた出色の知恵の持ち主、知略家であった。

ぬきんでた記憶力

 一生の美しい追憶となる体験や忘れえぬ事柄を記憶しておき、顧みるのは、誰にもある普通の意識現象である。しかし、個別的人間の記憶量には限界があり、一定の事実や事件、資料を記憶する期間も制限されている。
 しかし、主席は人々の中で普通見られる記憶の限界や時間の流れに伴う資料の退色を全く知らない、特出した記憶力を所有していた。
 主席は、朝鮮民族の悠久な歴史と諸国の歴史、そして、各年代にあった多くの事実と事件について誰よりも詳細に記憶し、長い後日まで忘れないぬきんでた記憶力の持ち主であった。
 主席が記憶していた事実と事件には、朝鮮民族の栄えある抗日革命闘争の時期から社会主義建設闘争の時期までの数々の大小事はもとより、誰も特別と思わないさ細なことにいたるまで、実に膨大な内容のものが含まれていた。
 主席は自分が結論して指導した問題はもとより、資料や現実に対する調査を通じて知るようになった各部門や単位のそれぞれの時期にあったさまざまなことや、それに関した問題を一つももらさずに記憶していた。
 数十余星霜の長きにわたる革命生涯で誰よりも多くの人と厚い人間的なきずなを結んでいた主席は、 一度会った人であればそれが誰であれみんな記憶し、一生追憶していた。
 主席は生涯の終わりの時期にも、数千の幹部らをはじめ、数々の平凡な勤労者と軍人、外国人だけでなく、ひいては幼年の時代に聞いていた村の巡査や地主の名前まで正確に暗記し、多くの人を生々しく記憶していた。
 実際、歴史学を専攻した学者でもなく、国の政事を見なければならない一国の元首が、大小の事実と事件、それに関わった多くの人をみな詳細に記憶するのはなかなか信じがたいことである。しかし、主席は自分の一生で見て聞いたこと、感じて体験したことのほとんどすべてを覚えていた。
 主席は普通の人間の知的能力では到底想像できない、ぬきんでた記憶能力をもって活用してきた方であった。
 主席の記憶力は、記憶の時間とその正確さの不可避な連関に対する人々の固まった認識を完全にやぶる特異なものであった。主席はすべてのことを最も早く、最も正確に記憶する、特異な記憶力をもっていた。
 1984年、ユーゴスラビアを訪問したとき、主席はチトー記念センターで、陳列された大きな熊の皮について聞いていたチトー大統領の話と狩猟の点数についても正確に記憶していて、随行員とセンターの管理員をびっくりさせたことがある。
 ずいぶん前に一度聞いていた数字まで正確に記銘し再生する主席の記憶力は、文字通り反復や過ちを知らない最も早くて正確な記憶力であった。
 主席の記憶の世界は時間的限界のない無限大の世界であった。
 人間が頭脳の中に記銘して再生する資料の量は限られている。ゆえに、人々は誰もが記憶の対象を選択的に決めるのである。
 主席は、人々の間で記憶の量と関連してあらわれる一般的な傾向とは完全に無関係な、出色の記憶力の持ち主であった。
 主席は、この世で最も複雑で膨大な現実の中で最も多くの人を対象にして活動し生活してきた方であった。主席は、自分の全生涯で直面した複雑多難な現実的諸問題や出会った無数の人々をみな生々しく記憶し保持していた。
 主席の記憶力は、強固さと持続性の面でも特出したものであった。
 歳月の流れは誰であっても、一時頭の中に覚えていた過去のことを次第に退色させてしまう。特に、業務量が多様で複雑であり、間断なく新たな資料を頭脳の中に構築すべき創造型の人間である場合には、記憶していた古い資料が新しい資料に席を譲る交替速度が速い。
 主席の回顧録には、半世紀も越した久しい前に会っている、実に数え切れない人々が登場し、彼らの生活の細部、複雑な歴史的事実と事件、多くの人に対する詳細な資料が収録されているが、そのすべてが主席の記憶にもとづいたものであった。
 回顧録の一句一句にほうふつ(注:原書表記は髣髴・ありありと思い浮かぶさま)として生きている事実と事件、計り知れない人物は、時代と歴史、複雑多様な人間世界を総括する、主席のぬきんでた記憶力が記した歴史の目撃資料である。

千里眼の英知

 科学的な英知は偉人の灯火である。真の偉人は金権や鞭ではなく卓越した英知を、千万の人を目覚めさせ、社会の発展を先導していく最も威力ある武器の一つにみなす。
 主席は一生涯、天才的な先見の明で革命と建設を指導してきた。主席は朝鮮革命を指導する全過程で常に天才的な英知で未来への希望と信念を与える科学的な設計を示し、数多のことを計画的に、勝ち目があるように解決してきた。ゆえに、主席は革命指導の全期間、ただ一度の失敗や錯誤もなかった。
 主席は生涯の全過程に対内外的に提起される数々の問題を直接処理してきたが、すべてを科学的な予見と明確な計画にもとづいておこなった。
 朝鮮労働党と国家のすべての路線と政策は、主席の先見の明によって科学的に示された。
 主席は、革命実践上の複雑な問題を解決するうえで常に将来を見通して遠大な構想と科学的な計画にもとづいてすべてのことをおこなってきた。主席はいかに複雑に提起される現行の問題であってもみな、将来の構想を実現するうえで有利な前提になるよう、先を見通して解決した。
 主席が革命の進路を開いていた時期、朝鮮には受け入れるだけの革命遂行の教範もなく、指導を求めるだけの先覚者もいなかった。だからといって、外部勢力に依存して国と民族の運命問題を解決することはできなかった。すべての問題を自力で、独自に解決しないと、一歩も前進できないのが、当時の朝鮮革命であった。
 こうした主観的・客観的要求から、主席は最初から主体的な路線と政策にもとづいて革命を遂行する独自の道を選択すべきだという確固たる決心をもつようになった。
 主席は革命の前途を正しく見通し、今後かもし出される主観的、客観的条件と変化される情勢を科学的に判断した上ですべての路線と政策、戦略と戦術を作成することを違うことのできない鉄則としてきた。
 解放後、おこなわれた土地改革がその代表的な実例である。立ち遅れた農業国家であった当時の朝鮮の人口において80パーセントを占めていた農民たちの最も切実な願いは、自分の土地をもって農業を営むことであった。解放前、農民たちは自分の土地がなくて地主の土地を借りて働きながら背骨が曲がり、血と汗を流さなければならなかった。
 主席はこうした現実の要請を正しく反映して、4万4千戸の地主の土地を没収し、72万余戸に達する広範な農民大衆の長年の願いをかなえてやる土地改革の偉大な変革を実現した。
 そして、土地改革が将来、社会主義革命への移行と国の社会主義的発展の有利な条件をつくる契機になるよう賢明な措置を講じた。
 朝鮮における土地改革の成果的遂行は、いまだ古典やどの国の革命経験にもなかったものとして、複雑多難な当時の革命課題を遂行しながらも、到来する次の段階の革命課題を見通してすべてのことをおこなった主席の非凡な先見の明がもたらした輝かしい勝利であった。
 革命と建設を指導する主席の先見の明は、近い将来だけでなく、遠い将来のことまでも手に取るように知り尽くし、すべてのことの経緯はもとより、弊害と意義についてまでも正確に予測する、文字通り神秘な予見性であり、判断力であった。
 いつか、総書記はわが国がFワルシャワ条約機構とコメコンに加盟しなかったのは全く正しいことであった、実に主席は先見の明のある、革命と建設の卓越した指導者であったと熱く述べた。
 一時、修正主義者らが朝鮮に自分らの経済連合体であるコメコンに加入するよう圧力をかけてきたが、主席は個別的国の自立的民族経済の発展を抑制するコメコンの運命を正しく見込み、自立的民族経済建設路線をあくまで固守した。
 主席が早くから見込んでいたように、コメコンはヨーロッパにおける社会主義体制の崩壊とともに終焉を告げたが、朝鮮の自立的経済は人間の想像を絶する厳しい試練の中でもチュチェの赤旗をしっかりと守る威力あるものとして発展するようになった。
 主席の指導の賢明さと科学性は、このように遠い将来を見通す非凡な英知を抜きにしては考えられないことである。朝鮮革命の全過程にわたって徹底的に貫かれた革命的原則性と巧みさ、創造性と科学性は、一つの事をおこなうにしても遠い将来を見通し、ありうるすべてのことを予見した主席の科学的な先見の明による貴い結実であった。

2)人間愛の最高の化身
 
熱烈な人間愛

 金日成主席と会見している人は、それが誰であれ、主席に惹かれるようになった理由がその高潔な人間愛と徳望にあると異口同音に言っている。これは主席が身につけている崇高な人間愛と徳望に対する当然の称揚である。
 早くも革命の草創期に主席が創始した不滅のチュチェ思想は、人間をこの世で最高の尊厳と価値をもつ貴い存在におし立て、人民大衆が最も知恵あり強力な歴史の主体であることを力強く宣言した人間尊重、人間愛の思想である。
 人間を尊び、人民を重視する主席の崇高な観点と透徹した立場の精華は人民崇拝である。
 1936年の初冬、主席の接見を受けた朴寅鎮道正は主席に、崇めるものは何かと心中の事を聞いた。
 金日成主席は、彼の質問に次のように述べている。
 「…もちろん、私にも神のように崇めるものがある。それは、ほかならぬ人民である。私は人民を天のごとくみなし、神のごとく人民に仕えてきた。私の神はほかならぬ人民である。この世に人民大衆のように全知全能で威力ある存在はない。それで私は『以民為天』を生涯の座右の銘としている」
 天のごとくみなし、神のごとく仕える人民、これには主席の人民重視の観点が総体的に集約されている。
 人民は天である、誰も考えられなかったこの独特な観点は、人民という巨大な実体の威力と価値を最上の境地に引き上げた主席の崇高な人民観の結晶体である。
 人民を天のごとくみなし、神のごとく仕えるべきだというのは、主席が生涯、主張してきた座右の銘である。いまだ歴史のどのページにも記されていない主席のこうした崇高な座右の銘が「以民為天」という4文字で集大成されている。
 主席のすべての思索と実践活動の始めも終わりも人民に対する愛にあった。人民に対する愛から出発し、人民に対する限りない愛によって一貫して展開されたのが、すなわち主席の偉大な思索であり、偉大な活動であった。
 主席は生涯の全過程で超人的な精力をもって、多くのことを構想して設計し、実践した。その中心には終始一貫人民に対する愛が置かれてあった。主席には人民に対する愛を抜きにした一瞬間の思索や一つの実践活動もありえなかった。
 人民への太陽のように明るく暖かい微笑は、主席の独特な人情味の集中的表現であった。
 万人の心をとらえる明るい笑みを浮かべた主席の姿は、80の全生涯を一貫した太陽の姿であった。
 主席の尊顔にはいつも明るい笑みがあふれていた。労働者、農民に会う時も子供たちに会う時も、太陽のように明るい微笑をたたえていた。幹部らに会っても、現地指導の道で軍人たちと革新者に会っても満面に明るい笑みをたたえて話を交わし、さらには過ちを犯して心配をかけた恥ずかしい思いで恐縮しきっている幹部と人に対しても優しく微笑んで一つ一つ過ちを諭してくれた。主席は公式的な会議や談話、党と国家行事の幹部壇でも常に満面に明るい笑みをたたえていた。
 主席は、一時的に朝鮮労働党と人民に反対して反逆の道を歩んだ人であっても、自分の過ちを悔い改める人々は笑顔で対応し、外国の賓客に会っても常に笑みをたたえて談話をした。
 常に満面に明るい笑みをたたえる主席は、人民に対する愛情、革命同志に対する友情のため、 一生涯涙も多く流した方である。
 主席が最も悲しみ、胸を痛めて涙を流した時は、愛する革命同志を失った時であった。同志たちが犠牲になったという悲報に接するたび、こぼれる涙とともにできた心中の傷は、永遠に癒せなかった。
 主席は抗日戦の日々、祖国の解放を見ずに同志たちが先に逝くたび、心を痛めて寝食も忘れ、苦痛と悲哀の痛みを胸に、涙の中で追悼の言葉を書き、みずから遺体の安置もした。
 主席は、誰もが一瞬間に心を惹かれ感動する、並外れの人情味を身につけていたため、常に万人の支持を得、彼らの厚い信頼を受けていた。
 主席は一生を限りなく謙虚に生きた方である。自分を人民の息子、人民のために働く奉仕者とみなした主席は、いかなる人民の称揚についてもいっさい受け入れず、自身をおし立てようとするいかなる試みや行為も許したことがなかった。
 しかし、主席が偉大な生涯にわたって人民からの一つの呼び名だけはたいそう満足して心安く受け入れている。
 それは、ほかならぬ人民の「慈父」という呼び名であった。
 一国の主席、政権党の総書記と慈父という言葉には、大きな意味上の差がある。主席や総書記という言葉が一国の最も包括的な政治組織と最高の政治組織における公式的な最高職務を指す概念であるなら、慈父という言葉は、生み育てる一家庭の父母を指す概念である。これまでの人類史を振り返ってみても、名望ある政治家や軍司令官、偉人の中には自分を人民の慈父と名乗った人はいない。なお、人民大衆がある偉人や政治家について一様に慈父と心から呼んだことがなかったことは言うまでもない。
 主席は、朝鮮人民にとって党と国家の最高指導者である前に、限りなく慈愛深くて強い心の柱となってきた父であり、思いやりの深い、細心な母であった。
 主席は人民に対する暖かい愛をもって、冷たい露にぬられ、歳月の雪と雨に降られながら工場や農場、軍部隊を訪ね、人民と兵士たちの生活を肉親の心情で気遣った。人民の食・衣・住の問題を解決しようと、一生をささげた方が主席である。
 主席は人民の幸福、全国の家庭の幸福のために真心を尽くし、自分のすべてをささげながらも1年に1回しかない誕生日や祝日の日も人民とともにおられながら、素朴で質素に過ごすことを一番うれしく思った。
 慈父という呼び名には、主席の手元であらゆる愛と配慮を受けながら成長した朝鮮人民の心からの感謝の気持ちがこめられている。

無限大の度量と包容力

 金日成主席は生涯、海のように広い度量と包容力をもって万民を育み見守った真の人間愛の体現者であった。
 主席は朝鮮人民の幸福のために労苦を重ねる多忙な中でも南と海外の同胞を一時も忘れず、全同胞を愛の懐に抱いて暖かく見守り、導いた。
 主席は良いこと、うれしいことがあっても分かれて離散した同胞たちを思い、彼らに悲しいこと、困難なことがあれば誰よりも心を砕いた。党と国家の大慶事を迎える時刻にも南朝鮮と海外の同胞たちを思い、元旦の朝、新年の辞でも欠かさず彼らに暖かい挨拶を送る主席は実に全民族を抱いて気遣う全同胞の慈父である。
 主席は大雨が降り、日照りが続いても南朝鮮の農民たちの営農のことを心配し、冬にはまた南の空を眺めながら寒さに震える南朝鮮の同胞たちを気遣った。
 1984年8月末──9月の初旬、南朝鮮で水害を被った。当局の公式の発表によっても300余名が死亡し、20万7000余名が罹災民となって路頭に迷い、3万6700余棟の住宅が破壊し、6万7000余ヘクタールの耕地が流失、埋没された大災害であった。
 主席は、自然災害を被った南朝鮮の同胞たちのために心を痛め、即時赤十字中央委員会をはじめ、当該部門を総発動して救護物資を送ることを決定し、その強烈な意向を世界に公布するようにした。
 南朝鮮の傀儡当局者が世界の面前で仕方なく救護物資を受け入れることを約束してからもあれこれとその実行を邪魔したが、偉大な慈父の同胞愛によって非常に短期間に米5万石(10回精米した米)、生地50万メートル、セメント10万トン、各種の多量の医薬品が用意されて境界線を渡った。総量を額数で計算すると、1800万USドルに値するものであったが、「友邦」を自称していた国々が当時、名目上送ったという「救護金」もそれぞれ2万、10万USドルであっただけである。当時まで120余年の赤十字救済歴史上最も多かった記録も1983年にインドが水害を被ったとき、スウェーデンからもらった75万USドルであった。
 救護物資を載せた1400余台の貨物自動車と14隻の船舶が、板門店の境界線を越えて海の波をかき分ける光景を目撃しながら、全朝鮮民族ばかりでなく、世界の人々が偉大な慈父の同胞愛に胸を打たれ激情につつまれた。
 このように熱い同胞愛をもっている方なので、主席は訪北する南の同胞らを一人も差別せずに、肉親の情で暖かく包容した。
 国が解放された後、呂運亨、洪命薫、金奎植などの政治家と金九のようなかつて反共思想に根深く染まっていた頑固な民族主義者、キム・ソクヒョン、パク・シヒョン、ド・サンロクのような学者をはじめ、多くの南朝鮮の同胞たちが偉大な慈父をお目にかかっては主席の明るい微笑と同胞愛に惹かれて人生の方向転換をしたのである。
 世界120余の国には多くの朝鮮同胞が住んでいる。
 主席にとって海外同胞一人一人はみんな自分の血肉であった。例え、居住地と国籍は異なるとしても、彼らはみんな自分が必ず包容して見守りいたわるべき実の息子、娘であり、肉親であった。
 主席は終始一貫、在日同胞たちの運命問題で心を砕き、彼らの尊厳と利益を守るためにすべてを尽くした。
 主席は、在日同胞たちの民主主義的民族権利を擁護し、彼らが祖国と民族のための真の人生を生きるように、1955年5月には共和国の尊厳高い海外公民団体であり、強力な統一戦線体である総聯(在日本朝鮮人総聯合会)を結成し、それを通して同胞たちに肉親の情を超越する熱烈な愛と恩情を注いだ。
 1957年に主席の指導の下に国家予算の草案が審議される時であった。
 戦争の傷がまだ癒されなかった状況なので、復旧と建設の課題が数多く提起されていたので、国の財政実態は非常に困難であった。
 主席は我々が工場を一つ、二つ建設できないことがあるとしても、異国で苦労する同胞たちに子供を勉強させる金を送らなければならない、これは一度や二度で終わるのではなく、恒常的に捉えていくべき活動であり、単なる教育事業ではなく、重要な民族的愛国事業であると強調した。
 こうして、どの国にもない在日同胞の子弟のための「教育援助費と奨学金」という新たな財政予算項目が設定され、現在まで莫大な教育援助費と奨学金、多くの教科書と民族楽器が在日同胞の子弟に渡されるようになった。
 主席の慈愛深い愛は、世界の各地に住んでいる多くの海外同胞にも行き届いた。
 偉大な慈父の真心のこもった同胞愛に惹かれ、アメリカにいる祖国統一促進会の会長であり、南朝鮮の人々の教会連合会の顧問であった金聖洛牧師、国際テコンドー連盟(ITF)の総裁崔泓煕、世界平和連合の総裁ムン・ソンミョン、ドイツの名望高い同胞音楽家ユン・イサン、在米同胞の女流記者ムン・ミョンザなど、それぞれの職業と政見、国籍をもった多くの海外同胞が人生の新しい出発をし、同胞の統一と繁栄のための道で人生の真の意味を新たに感じ取った。
 主席の愛の世界は国境を知らない、広大な人情の世界であった。
 主席は限りなく広い度量と包容力によって、一生多くの外国の人士と親交を深め、暖かい恩情と配慮を施した。
 主席は解放後から生涯の終わりの時期まで、各国の党と国家の元首級の人物だけでなく、それぞれ異なる国籍と政見、職務と年齢をもった各階層の136カ国の7万余名に達する外国人を接見し活動した。解放後から偉大な生涯の最後の時期まではほとんど50年である。結局、平均的に見れば1年間に1400余名、毎日4名程度の外国人を接見し活動したことになる。
 主席は、対面するほとんどの外国人を単なる実務的な活動対象としてではなく、親しい友人として対し、友情を交わし、暖かい人間的きずなを結んだりした。
 主席の暖かい人情味、外国の友人たちと非常によく解け合い、親しく対応する限りなく広い度量と人間愛に、朝鮮民主主義人民共和国と敵対関係にあったり、好ましくない感情をもっていたりした外国人までも、一度対面しては瞬間に魅了されて主席の支持者、信頼者、宣伝者になったのである。
 主席を2回も会見する栄光に浴した外国のある人士は自分の文に、主席はどういう方なのかと聞く人々に、一度会えば別れたくない、いつも慕いたい、偉大な人間であると言ってあげたいと書いている。
 イタリアには、太陽はすべての人のために光を放つという格言がある。大洋と大陸を越える暖かい愛によって、人類に光明を与え、愛を与える主席こそは偉大な人間、人類の永遠な太陽である。
 1992年のある日、総書記はシリーズ劇映画『民族と運命』の創造活動を関連して幹部らと談話をおこなった。
 総書記は談話で、南朝鮮と海外から主席の懐を訪ねてくる人々の中にはかつて祖国と民族に対して罪を犯した人もいる、しかし、主席は過去を問わず、統一という聖なる事業に余生をささげるという彼らの決意を信じ、慈愛深い懐に抱いていると熱く述べた。
 1986年9月、共和国北半部の永住を宣言する海外同胞崔徳新の記者会見があった。
 永住を宣言する記者会見で彼はこういった。
 「金日成主席は、民衆を愛し、民衆に真の福音をくださる民衆中心、民衆本位の哲理に根をおろした偉大な政治経綸とすぐれた品格、非凡な先見の明と該博な知性、広い度量と慈しみ深い徳望を備えた偉人の中の偉人であり、聖人の中の聖人です。一度会えば、遠い過去に抱いていた願いと今日と明日の念願まで察し、一瞬にして胸がすき、目の前が明るくなる前途を指し示し、愛と恩情を施す金日成主席は、実に私のように反共をしていた人までも民族の一構成員に包容する慈愛深い方です」
 主席は民族に対して大罪を犯した過去と決別して新しい出発を始めた彼が人生の終わりをきれいにしめくくるよう格別な関心を払った。
 主席は、永住を宣言した彼に祖国平和統一委員会の副委員長、統一新報社の名誉社長、朝鮮民主主義人民共和国最高人民会議代議員として活動するよう大きな信頼を与えた。それだけでなく、1989年3月から朝鮮天道教会中央指導委員会の委員長として働くように恩情をほどこし、金日成勲章と祖国統一賞も授賞した。彼が死亡した時には愛国烈士陵に安置するように暖かい配慮をめぐらし、彼の未亡人にも限りない信頼と配慮をほどこした。
 一時の誤りも大らかに白紙化する主席の懐に抱かれて人生の新しい門出をして、共和国英雄や祖国統一賞の受賞者、教授、博士、人民俳優になり、党と革命、祖国と人民に忠実な活動家として生の終わりを立派に締めくくった人は数え切れないほど多い。
 大きな雅量をもって人に対し、人間的な情を注ぐ主席の人間愛の幅がかくも限りなく広かったので、かつて封建時代の王族の後裔も主席の前で深く頭を下げたのである。
 主席が高麗太祖王建王陵を見て回ったという消息に接した王建玉の後裔たちが600余年間も隠匿していた王建の玉璽と系譜を出し、家門の運命と将来を主席に全的に託した歴史的事実は、封建時代の王と歴史的人物の功績までも歴史主義的原則で客観的に評価しおし立ててくれる主席の度量と包容力がいかに深くて熱いものであるかを物語っている。
 偉大な太陽の大きな度量と包容力に惹かれて、再生の道を歩み、人生を立派に総括した人々と彼らの子孫は今日も、主席の暖かい愛の懐を忘れず、主席が永生の姿でおられる太陽の聖地を訪ねてまた訪ねている。

崇高な同志愛でつづられた革命的生涯

 主席の人間愛は、革命同志に対する熱い愛情でその絶頂をなした。主席は偉大な生涯をいかなる人物も比肩できない、労働者階級の革命闘争史にいまだかつてなかった真の同志愛でつづってきた。
 主席が抗日大戦を宣布した時から全生涯にわたって情を注ぎ、真心を交わした革命同志は数千数万に達する。その一人一人に注いだ主席の同志愛は、枯れていく人生にも再生の春をもたらす暖かい生命素であり、終生一度も冷めたことのない情熱的な愛であった。
 主席の一生は同志の獲得にささげられた崇高な一生であった。
 早くから父母の革命的影響を受けながら並外れた革命的同志観を確立した主席は特有の同志観を確固たる信条とし、石の上にも花を咲かせるような熱烈な愛で同志を得るための一生を生きてきた。
 主席は、崇高な革命的同志愛で革命隊伍の一心団結をなし遂げ、その威力で祖国解放の歴史的偉業を実現し、新しい祖国建設と祖国解放戦争、戦後の復興建設と社会主義建設をはじめ、複雑で困難な朝鮮革命の全歴史的段階で常に勝利と成功のみをもたらした。
 主席を革命の陣頭に最初にいただいた朝鮮革命の初世代の革命家らは、主席の同志愛を石の上にも花を咲かせる愛であると心から歌い、主席の懐で革命を学び成長したすべての人は、主席を、一生をかけて慕うべき偉大な同志として高く奉じた。
 主席は歴史上、どの偉人よりも同志が多かった。
 生死を分かつ厳しい決戦場や平和的建設の日々にも、主席を限りなく清らかな同志的信義と忠誠で高く奉じた人々はみんな、主席が探し出し、手塩にかけて育て、手取り足取り導いた、主席の革命同志たちであった。
 朝鮮労働党の胎児であり種子である初の党組織「建設同志社」の名称に込められた意味は実に深奥である。「建設同志社」という名称には、同志の獲得から革命の第一歩を踏み出し、生死をともにする同志をたえず探し求めて結束し、革命を発展させて、最後の勝利を達成しようという主席の雄大な抱負と確固たる意志がそのまま込められていた。
 同志を獲得するための遠くて険しい道を踏み分ける日々に、主席は人民大衆の解放闘争史に類を見ない崇高な同志観を確立した。
 主席の同志に対する信条は真の同志は第2の私だということである。
 主席にとって同志は単なる友情を分かち合う友人や仲間を意味するのではない。思想と志向が一致し、そのために自分の生命をも惜しみなくなげうつことのできる、もう一人の自分だというのが主席の革命の同志であった。
 同志を得れば天下が得られ、同志を失えば天下を失うということが、抗日のその日々から主席が掲げてきた大命題であった。
 思想と志をともにし、生死をともにする同志たちの力はこの世で最も威力あり強固なものであり、その力に依拠すれば不可能なことも恐れるものもないというのが、ほかならぬ同志の貴重さと役割に関する主席の一貫した見解であった。
 同志を獲得することから革命の第一歩を踏み出し、同志を集めた後に武器を得、党と国家も建設した主席にとって同志を得ることは一生のまたとない楽しみであった。
 主席がこの世で最も貴重な財宝とみなしたのは、黄金や千万の財ではなく、生死をともにできる革命の同志であった。
 主席は、同志を千金をもってしても買いがたく何物にも代えがたい、最も貴い財宝とみなした。まさに、それで主席は同志の獲得をまたとない楽しみにしたのである。
 主席は同志を一人一人得るたびに喜びを感じていた。それは何物にも比べられない厳かで壮快なものであった。
 主席は一生、限りなく崇高な同志的信義心をもって革命の同志を限りなく愛し、いたわり、同志のために自分のすべてを尽くした崇高な信義の最高の体現者であった。
 主席は抗日革命闘争の勝利の神話的な秘訣を知りたがる人々から朝鮮人民革命軍がいかにして新興軍事強国である日本の軍事力を打ち破るほど強くなれたかという質問を多く受けた。
 主席は自分の一生を総括した回顧録の中で、朝鮮人民革命軍が強かったのはなぜかと問われるたびに、私は、信義によって結束した集団だったからだと答えてきた、我々の団結が道徳と信義にもとづかず、ただ思想・意志の共通性によるものだけであったなら、我々はこれほど強くはなかったであろうと書いている。
 主席は、強盗日本帝国主義が現代軍事科学のすべての最新成果と数十年にわたる暴圧政治と領土膨張を通じて練磨したファシスト的な抑圧手段を総動員して朝鮮革命を絞殺し、朝鮮民族を抹殺しようと狂奔するとき、革命的信義と団結の戦略で抗日革命戦争を導き、国の独立と人民の解放をもたらすことができたのである。
 主席は各段階の革命課題を遂行していく全工程で、常に隊伍の思想・意志の団結を強固にし、革命と建設を力強く推進する上で道徳・信義を威力ある武器としてきた。
 愛と信義で大衆に対し、彼らを呼び起こす主席の限りない崇高な同志愛と道徳・信義に惹かれて、数千数万の人々が主席の最も忠実な同志となり、領袖のために自分をささげることのできる革命家として成長した。
 世界には指導者も多く、人民大衆の革命闘争を指導した傑出した偉人も少なくない。しかし、主席のように人民大衆の一人一人を自分の貴重な革命同志とみなし、愛情を注ぎ、限りない信義心で導き見守った指導者や偉人はなかった。
 革命の同志たちに対する主席の同志的信義は、時間の限界を知らない永遠な道徳・信義であった。主席は革命戦士と同志たちの生存時だけでなく、犠牲になった後も厚い信義心をもって生きているときと少しも変わらない温かい愛と配慮をめぐらした。
 写真も退色してしまう長い歳月の中で先に逝った革命同志を忘れず、彼らと限りない情を分かち合った主席の信義心によって、平壌の大城山の朱雀峰の丘には抗日の革命先達の半身像を厳かに安置した革命烈士陵がつくられるようになった。
 その後、主席は犠牲になった昔の戦友たちが懐かしくなる度には、事務を執っていた錦繍山議事堂の窓を開けて、抗日戦争の昔の同志たちが永生の姿で安置された陵を眺めたりした。
 主席と抗日戦場の姿そのままで永生する先達の間では、崇高な信義にもとづいた懐かしさと真心のこもった対話が間断なく続いた。
 国が解放されるや否や、革命家遺児たちの学院を建設し、多くの人を各地に派遣して国の津々浦々と異国に離散している同志の子女を一人も漏らさず探し出し、先代の後を継ぐべく革命家に育てた方も、革命の同志に対する永遠に退色を知らない崇高な信義の持ち主である偉大な主席であった。
 主席が生涯の最後の瞬間まで、金策同志とともに撮った写真を金庫の中に大事に保管していた話、全国各地に闘士たちの銅像を建てて都市と機関、単位の名称に革命先達の名をつけるようにした話、多くの革命同志の子女を育てて堂々たる活動家におし立てた話など、主席の崇高な信義の世界にまつわる話には限りがなかった。
 主席の崇高な信義の世界は、その幅において限界を知らぬ崇高な人間愛の世界であった。
 主席が限りなく崇高な信義をもって暖かい愛と配慮をめぐらし、情を分かち合った人々の中には身近で働く活動家から始まって平凡な労働者、農民や物心のついていない子供、海外同胞、外国人にいたるまでさまざまな人がいた。
 主席は一生涯、人民との約束を一度も守らなかったことがなかった。人民との関係で官職ではなく、愛と信義を第一位に置く主席は、誰よりも信義を重んじ、それを守るためであれば、いかなる苦労もいとわず、いかなることでもためらいを知らなかった。
 主席は革命活動をおこないながら知るようになり、少しでも援助を受けたことのある人であるなら、彼がどの国の人であれ自分の恩人としてみなし、彼らに人間的信義を守るために努力した。彼らの中には、中国人の抗日革命縁故者もおり、アパナセンコ、ノビチェンコなど、旧ソ連の軍人もおり、さらにはモンゴルの平凡な女性もいた。主席は機会あるたびに彼らをお招きし、厚い恩情をほどこし、可能なすべてのことを配慮した。
 実に、主席は一生を同志と人民のためにささげた崇高な革命的信義の鑑であった。

3)不屈の精神力の第一の強者
 
不変の信念と意志

 金日成主席が身につけた革命的信念は、人民大衆の革命思想と正義の革命偉業に対する確信で一貫されている出色の精神力であった。
 金正日総書記は、次のように述べている。
 「革命的信念は、革命偉業の正当性と勝利の確信であり、革命偉業のために献身しようというかたい覚悟と意志です」
 主席はチュチェ思想の創始を宣言し、それを具現して各段階の複雑多難な革命課題を成果的に遂行する過程で、チュチェ思想の科学性と真理性、正当性と生命力に対する並外れた誇りと確信を固くもつようになった。
 朝鮮革命の誇るべき発展の歴史はすなわち、チュチェ思想を具現して祖国と人民の運命を救い、その尊厳と栄誉を全世界にとどろかすための主席の栄えある革命活動史であり、朝鮮革命の実践闘争の中でチュチェ思想の正当性と真理性が遺憾なく確証された過程であった。
 解放直後、国家を管理し経済を運営した経験もなく、国が非常に立ち遅れていた上に、南北に分裂された困難な状況にあったが、主席は土地改革を実現するために各地の農村に出かけて数日間も農民たちと生活をともにしながら、どういう方法で土地改革をおこなうことが朝鮮の農村の実情に合うかを具体的に研究した。その過程で主席は他国のことをそのまま真似るのではなく、チュチェ思想の要求どおりに自国の実情に即して自力ですべての問題を解決するために努力するのがより必要であることを確信した。
 主席はこのような過程を通じて、革命の主人としての自覚をもって自分の力に依拠し、すべての問題を自国人民の利益と自国の実情に即して自主的に、創造的に解決していく主体的観点と立場こそは、革命と建設で堅持すべき最も正しい観点と立場であるという信念をさらにかたくした。
 人民大衆の革命偉業の正当性に対するゆるぎない信念を持って一生をたたかってきた主席の高潔な精神力がそのまま思想的・精神的源泉となっていたため、朝鮮革命は第一歩を踏み出した初期から、革命の各段階を経ながらも一貫して人民大衆の正義の革命偉業として前進してくることができたのである。
 社会主義が人民大衆の理想であるということを確信し、その偉業をあくまで完成しようという主席の信念は、革命闘争の全過程で一時たりとも動揺したり、変わったりしなかった。
 主席は社会主義偉業の正当性に対するこうした並外れた確信をもっていたため、その勝利を絶対的に信じ、あらゆる事大主義と教条主義、修正主義との熾烈な闘争を展開しながら幾多の試練と難関を乗りこえ、人民大衆中心の社会主義を建設したのである。それだけでなく、ヨーロッパの多くの社会主義国が正義の道で脱線して資本主義を復帰させていたその厳しい時期にも揺るぎなくチュチェの社会主義の旗を高く掲げて朝鮮労働党と人民を力強く導いたのである。
 社会主義偉業に対する確固たる信念を持っていたがゆえに、主席は1992年4月12日、アメリカ「ワシントン・タイムズ」記者団を接見し、彼らがソ連と東欧社会主義の崩壊に対する見解を質問したときにも、社会主義の発展過程には一時的に紆余曲折がありえるが、人間の社会的本性を具現した社会主義の理念は変わるものではない、社会が発展するにつれ、社会主義を求める人間の社会的本性はさらに発展するものであり、したがって、人々が社会主義へ進むのは動かしがたい法則であるとしながら、社会主義の道を最後まで進もうとするみずからの信念と意志を確固と表明したのである。
 主席は一生涯、朝鮮人民の直義の祖国統一偉業の勝利についても並外れた確信を持ち、その実現のために力強くたたかってきた。
 主席は、わが人民への最も立派な贈り物は祖国の統一であるとし、祖国統一を自分にまかされた最上の民族史的課題として受け止めていた。
 主席は朝鮮が分裂の苦痛をなめた初日から、朝鮮民族の祖国統一偉業は正当であり、必ず勝利するというかたい信念をもってその実現のために労苦を重ねた。
 祖国統一に対する透徹した信念の持ち主であった主席は、数十年の長きにわたり、国の統一のために労苦と心血をつくし、祖国統一3大憲章のような祖国統一の里程標をもたらし、偉大な生の最後の時刻にも祖国統一の問題に深い関心を払った。
 主席は一生涯、朝鮮人民の正義の偉業に対する確信とともに人類の解放偉業、全世界の自主化偉業も必ず実現されるという鉄の信念を持していた。
 主席は、自主性は人類共同の念願であり、自主性を志向することは、現代の基本潮流として、世界のすべての国、すべての民族が自主的な新しい世界を建設するために一致して闘争に奮い立つならば、人民大衆の自主偉業、世界の自主化偉業は立派に成就されるという確信をもって一生、それを実現するために力強くたたかってきた。
 主席が持した革命的意志は、自主的な思想・意識と鉄の信念でかためられた不屈の革命的節操であり、強い闘志であった。
 主席は、革命の道に立った初期から人民大衆の限りない力を絶対的に信じ、人民大衆の力に依拠して、革命の草分けの道を屈することなく乗り越えてきた。
 主席が守ってきた革命的節操は、崇高な革命的信義に源泉を置く強靭な意志であった。
 主席は早くから革命の道に立ち、同志と人民の中で苦楽をともにしながら、同志的信義を何よりも重んじた。
 主席は必ず祖国を独立し、朝鮮人民に自由と幸福をもたらすことこそは人民と同志に対して担った自分の本分であり、信義であるとみなした方である。
 主席は革命同志と人民に対する革命的信義を果たすために、革命的節操と不屈の意志で敵の陰険かつ狡猾な策動をことごとく粉砕し、革命闘争の道でただ一度もためらったり、原則を譲歩したりしたことがなかった。

たぐいなき胆力と度胸

 金日成主席がもっている胆力は、いかなる雷鳴にも微動だにしない強大無比さと死をも恐れずに立ち向かい、何事もスケールが大きく設計し、最後までおし進めた頑強な実践力であった。
 いかなる難関と試練に直面しても泰然自若で余裕しゃくしゃくに万事を処理し、大胆かつスケールの大きい作戦を練り、一度決心したことはけりをつけるまで揺るぎなく実践していく頑強な気概に、天下第一の胆力家としての主席の崇高な偉人像がある。
 主席の胆力はいかなる強敵の侵略と挑戦、いかなる試練と逆境にあっても微動だにせず、立ち向かう強大無比の精神力であった。
 主席は2度の革命戦争を指導した総帥である。主席が指導した苛烈な2度の革命戦争は、逆境に立ち向かっていく人間の胆力がどういう高さにいたるべきかを実践的模範で見せる生きた教材である。
 抗日革命戦争は、それ自体が無比の胆力で開始され組織展開された革命戦争であった。実際、飛行機と戦車、軍艦をもった帝国主義強敵とごく少ない武装でもって全面対決戦を決心するということは、普通の常識では想像できないことであった。
 しかし、主席は誰もすぐには決心できないこの道を断然選択し、抗日大戦を宣布した。
 いつか、総書記は強靭な胆力で強盗日本帝国主義との革命戦争を組織指導した主席の偉大性について話しながら、普天堡戦闘を例にあげたことがある。総書記は主席が普天堡戦闘を指揮した佳林川のほとりの司令部指揮所は日本帝国主義の警察官駐在所から100メートル余り離れたところであったとし、これについて外国の人士たちも、司令官が戦場からあれほど近いところで戦闘を指揮した例は世界戦争史上なかったといっていたと述べた。
 たぐいなき胆力で一生涯、祖国と革命を守護した主席の強靭な精神力は、生涯の晩年まで変わりなく高く発揮された。
 主席は東欧社会主義諸国の連鎖的崩壊という歴史の渦中でも、多くの古典的著作を発表して、あらゆる帝国主義反動と立ち向かってあくまで正義の革命的立場を固守する鉄の意志を明白に披瀝した。
 主席は仕事を一つ設計し作戦しても人々の想像を絶する高い目標を提起し、仕事をスケール大きくくり広げ、一度設定された目標は最後まで貫徹することを鉄則にした。
 西海閘門は、主席の革命的展開力と頑強な実践力を示す労働党時代の数多い立証者の中の一つである。
 1981年10月、党中央委員会第6期第4回総会で自然改造事業の4大課題を提起した主席は、西海閘門建設のための雄大な設計図を示した。
 当時、一部の幹部と専門家は、大同江下流の臥牛島の前をせき止める案を出し、それも旧ソ連でのヴォルガ・ドン運河とルーマニアのドナウ川の下流運河の建設と比べながら数十年がかかってこそ完成されると予想した。
 主席は、そのようにしては干拓地の用水問題を完全に解決できないとし、実務幹部らが予定した位置より海の方へもっと出てその位置を定め、それも数十年ではなく、数年内に終える大胆な目標を示した。
 当時、ある国の人々は水深が深い上に、干潮と満潮との差が著しい条件で、8キロメートルの外海をせき止めることは全く不可能なことだとし、朝鮮で西海閘門を建設すれば、自分らはベーリング海峡をせき止めるとまで、横柄な話し方もした。しかし、彼らはたぐいなき胆力と闘争力をもった主席の不屈の精神力の前で、自分らの考えが全く誤りであったことを認めざるを得なかった。
 主席の大胆かつスケールの大きい作戦と頑強な実践力によって、朝鮮の軍人建設者と人民は、みずからの設備と資材、技術でただ5年の間に労働党時代の記念碑的建造物である西海閘門を立派に建設する歴史の奇跡を創造した。
 主席は天をもつく、無比の胆力を備えた偉人の中の偉人、剛毅な精神力の最高体現者であった。
 敢然として立ち向かう攻撃精神は主席特有の精神力であった。
 主席は生涯の末期に栄光に満ちた一生を総括しながら回顧録の中で、私の生涯を通じての志向は、防御ではなく攻撃だったといえる、私は革命に身を投じたその日から今日にいたるまで、敢然として立ち向かう攻撃戦術をもって人生を生きぬいてきた、前進途上に難関が立ちはだかるたびに、私はその前でためらったり動揺したりしなかったし、迂回したり避けたりすることもなかったと書いている。そして、革命発展の各段階において、我々が主に敢然として立ち向かう攻撃戦術を用いたのは、複雑で試練にみちた朝鮮革命の要請であった、 20世紀、世界をゆさぶる複雑な政局の渦中にあって、我々がもし防御や後退、迂回の方法にのみすがっていたならば、我々の前に立ちはだかる難局を打開することはできなかったであろう。だから、私はいまも、あのとき我々が逆境に立ち向かい、それを順境にかえた革命的戦略が至極正しいものであったと考えていると感極まって書いている。
 革命活動の初期からあらゆる辛酸をなめながら、敢然として立ち向かう攻撃精神で万難を排してきた主席は、困難を極めるたびに、恐れを知らぬ胆力をもって死にも敢然として立ち向かいながら逆境を順境に、禍を福に変えてきた。
 実際、抗日の戦場は、毎瞬間が数多の死線を乗り越えなければならない決戦場であった。解放後、革命詩人の李燦が「金日成将軍の歌」を創作しながら不滅の頌歌に「長白の山なみ 血に染めて 鴨緑の流れを 血に染めて」と書いたのは余りにも当然なことであった。しかし、主席はこの無数の死線、血のにじむ決戦場で常に敢然として立ち向かう攻撃戦術を一時も緩めたり、変えたりしなかった。
 朝鮮人民革命軍の主力部隊が1937年の春、小湯河で数千に達する兵力が幾重にも取り囲んだとき、主席は敵が森林地帯にだけ神経をとがらせている点を正しく見抜き、包囲が比較的手薄な大道路に沿って大胆に住民地区へ行軍するようにして危機を逃れて部隊を救い出した。
 頑強な攻撃精神をもった主席は1939年の春、茂山地区へ進出する時も、日本帝国主義が遊撃隊「討伐」のために建設し竣工検査を待っていた甲茂警備道路を白昼に行軍をすることにより、敵をびっくり仰天させた。
 革命のために、愛する祖国と人民のためなら、いかなる危険もかえりみず、胆力を持って攻撃戦で立ち向かった主席は、革命生涯の全期間、常に銃弾がふりそそぐ最前線にて朝鮮人民を勝利へと導いた。
 抗日の日々、主席のいる司令部は常に戦場の最も熾烈なところにあったし、そこで主席はモーゼル拳銃で敵兵を撃ち倒しながら戦闘を指揮した。大沙河戦闘時のように司令部を狙う敵の銃口が集中される中でも、主席は一度も一身の危険もかえりみず、最決戦場に出ていた。時には機関銃を手にして突撃戦に臨み、時にはしんがりをつとめて追ってくる敵を撃滅したことも一度や二度ではなかった。
 主席は一生涯、決心して取り組めば不可能なことはないという胆力をもって革命と建設のすべての問題を剛毅な精神力で解決した剛腹な方であった。何事も決心さえすれば不可能なことがないというのは主席の一生を貫いた根本的精神であったし、こうした不可能を知らぬ胆力があったがため、朝鮮革命は常に勝利の一途を歩むことができた。
 抗日武装闘争の時期、遊撃区で火薬を自力でつくり出したのも、主席が身につけた不屈の革命精神、決心さえすれば不可能なことがないという鉄の信念と胆力がもたらした貴い結実であった。
 主席が戦後、トウモロコシの栽培を大々的におこなうようにしたとき、 一部の保守主義者はそれに半信半疑しながら反対した。
 しかし、主席は人民大衆の積極的な支持、声援の中で保守主義、消極性を粉砕し、トウモロコシの栽培を全国的におこなうよう断固と導くことにより、戦後の困難な食糧問題を解決した。
 主席は対外関係においても、例え、誰から認められず、妨げがあるとしても革命に有利で人民に有益であればそれでよしという胆力をもって、いかに緊迫で厳しい状況の中でも余裕しゃくしゃくと朝鮮革命を勝利へと導いた。

革命的情熱と楽観

 主席の一生はそれこそ、超人的な情熱で生きた一生であった。
 偉大な革命的生涯の全期間に渡り、主席はしばしの休息もとらず、人民大衆の自主偉業のために、祖国と民族のために昼夜を分かたず、献身の道を歩み、先頭に立って万難を排しながら祖国繁栄の地ならしをした。
 主席の一生には、休息という言葉すらなかった。
 主席は、人間の意志力の発現とみには全く信じられない超人的精力で活動した。
 いつか、幹部らが主席に夜更けまで仕事をし、また早暁には誰よりも早く起きて仕事を始めることを少し控えてほしいと懇願すると、主席は大らかに笑いながら身についた習慣はなかなかなくしがたいと述べた。
 抗日武装闘争の時期、敵らは必ず早暁に襲撃してきたので主席は部隊の運命が心配になって安心して休まれず、それ以来、朝早く起きるのが主席のかたまった習慣となった。
 主席は祖国が解放されたらゆっくり休もうと約束したが、解放されるとまた胸がいっぱいになるほど仕事が待っていたので、山にいるときと同じく早暁には眠れなくなるとし、それでまた心配する同志たちに建党、建国、建軍の事業が一段落つくと、のんびり休もうと言っていたと話した。
 そして、ところが次には戦争が起こり、戦争が終わると、復興建設が始まり、続いてチョンリマ大進軍が始まった。しかし、他国より立ち遅れているのに十分に寝て休めばどのように彼らに追いつき、追い越せるかとし、結局、生活は自分に朝ゆっくり休むことを許さなかった、それでかたまった習慣であるとし、朝早く起きる習慣だけは一生変えることができないだろう。健康は革命のために必要であり、革命家は革命活動を瞬時も中断してはならないと平然と話すのであった。
 主席にはただ一度の休暇も、数時間の短い休息もなかった。むしろ、主席は情熱的に活動することを自分の休息として思っていた。
 主席のエネルギッシュな活動は、単に時間の延長線上でのみおこなわれたのではない。
 主席は一生、天気が悪い日にも関わりなく活動し、険しい道もかまわずに現地指導の道を歩み続けた。
 朝鮮革命博物館には、今も主席が現地指導の際着ていた質素な軍用外套が大事に保管されている。襟がすり切れて毛羽立った軍用外套、その外套には危機に瀕した革命の運命、祖国と民族を救い、人民に豊かで文化的な生活をもたらすためにしばしの休息もとらず、人民を訪ねて数億万里の道を歩み続けた主席の大きな労苦と人民への愛が秘められている。
 それゆえ総書記は、誰も知らない道、類を見ない困難な道を一生涯歩んだ方は主席である。主席は革命の道に身を投じた当初から生涯の最後の瞬間まで常に人民行きの列車に乗って祖国と人民のための現地指導の道におられた。実に人民のためにささげた主席の一生を思うと、目頭が熱くなると熱く述べている。
 世界の政治界を見れば普通、国家元首や政治指導者たちの晩年は、政治と離れた静かな環境で流れていたのが一般的である。
 しかし、主席は高齢の身でありながらも信じがたいほど燃えるような精力で国事を指導し、各階層の人々も接見しながら生の終わりを立派に締めくくった。
 実際、生の晩年に主席は心臓病を患っていた。
 逝去した年には、眼病まで患い、1994年の最後の新年の辞をおこなうときにはよく見えなくて原稿を手にし、苦労して読まざるを得なかった。それで主席はとうとう目の手術を受けるようになった。
 若い人々もそういう手術を受ければ、一ケ月余り休みながら治療を受けなければならない。
 しかし、主席は目の手術を受けて何日も経っていないときに海外同胞の孫元泰先生を接見し、続けて朝鮮少年団第5回大会に参加した学生少年たちと会って記念写真を撮った。
 主席は逝去する数ヶ月前にも全国農業大会や全国石炭工業部門従事者大会の参加者をはじめ、多くの勤労者と会って綱領的な助言をおこない、彼らと記念写真を撮った。
 それだけでなく、数回にわたって農業部門の幹部協議会を指導し、温泉郡と平壌市周辺の農場を現地指導しながら農業問題を話し合った。生涯の最後の日であった7月5日と6日には経済部門の責任幹部協議会を招集し、社会主義経済建設で堅持すべき綱領的な指針を示した。
 主席は生前に54回にわたって87余の国を訪問した。その道のりは52万2460余キロメートルに達する。それだけ、主席の対外活動は人々の想像を絶するものであり、主席が接見した外国の元首と政治人、各階層の人士の数は数え切れない。
 主席は一生、誰より苦労も多くし、胸の痛む喪失の苦痛も数多くなめた。
 しかし、主席は一度たりとも悲観や動揺を知らなかった。特に革命の前に試練と難関が直面するたび、将来の勝利に対する楽観をもって主動的に立ち向かい、常に楽天的に生活した。
 主席の革命的楽観主義に見習って、抗日闘士たちは千古の密林の中で、素手で延吉爆弾をつくり出し、敵に両眼をえぐり取られ、断頭台の露と消えながらも革命の勝利が見えると声高に叫ぶことができた。未来に対する楽観、解放された祖国で幸福に暮らす日は必ず来るという楽観が不屈の闘争精神を生み、祖国解放の歴史的偉業をなし遂げることができたのである。
 祖国解放戦争で朝鮮人民が発揮した大衆的英雄主義と楽観主義も主席が身につけた楽観主義精神にもとづいて形成され、高く発揮されたことである。
 主席の一生は楽天家の一生であった。
 主席は、我々の人生の経験によれば、歌は革命的楽観主義の象徴であり、革命勝利の象徴であるとしながら、よく人間の生活には詩もあり踊りもあり、歌もあるものである、そうでなければ生きる楽しみがないのではないかと述べている。
 歌声が高いと、国が栄え、党が強くなり、歌声の高いところに革命の勝利があるというのは、主席が革命的生涯の全期間にわたって堅持していた観点であった。
 いつか、主席はかつて白頭山で日本帝国主義と戦うとき、我々は歌を歌いながら戦った、歌は敵撃滅の力であり、必勝の武器であった、我々は祖国解放戦争の時期にも、戦後の復興建設時期にも革命の歌を高く歌いながらあらゆる試練に打ち勝ち、この地上に人民の楽園を建設したと回顧した。
 文学と芸術を非常に愛した主席は機会があるたびに、直接、不朽の古典的名作「血の海」「花を売る乙女」「血噴万国会議」「ある自衛団員の運命」「城隍堂」などの革命歌劇、革命演劇、革命歌謡「思郷歌」「反日戦歌」などをはじめ、革命的な文学・芸術作品を創作した。
 主席は小説や映画のような文学・芸術作品の鑑賞を好み、歌もよく歌い、楽器もひきながら楽天的に生活した。
 主席はもともと運動が大好きであった。水泳も好み、おこない、卓球も上手であった。
 実に主席は一国の革命の成敗や生命力、人間の生活水準も革命的楽観主義によって左右されるという信念にもとづいて革命闘争と生活を楽天的におこなってきた剛毅な精神力の最高の体現者であり、それによって朝鮮革命は歴史のあらゆる風波のなかでも常に青春の活力に満ちて力強く前進してくることができたのである。

4)高潔な風格を備えた偉大な平民
 
限りなく謙虚に生きた一生

 朝鮮のことわざに、実る稲穂は頭垂れるという言葉がある。自分をへりくだって相手を尊重する謙遜な態度をもってこそ、人々の間に率直な話が交わされ、真実な交際がなされるのである。
 金日成主席は限りなく謙遜な品格を身につけて、一生を生きてきた偉人の中の偉人である。
 金正日総書記は、次のように述べている。
 「金日成同志は限りなく慈愛深く謙虚な人でした」
 主席は積み上げた大きな業績も、人民の称揚と世界的な公認も拒みながら一生、自分をへりくだった。
 主席は、しばしば自分も人民の息子であると述べている。
 人民の息子、例え、短い言葉ではあるが、その中には自分を人民の隊伍の中に人民の一構成員として平凡に立たせて生きようとする主席の真心と人民の一構成員として生きるうえで生きがいと価値を求める主席の確固たる人生観がそのまま反映されていた。
 主席は自分を人民の息子、人民の忠僕、平凡な人民の一構成員とみなして生きることをこの上なく重んじた。
 主席は一生、誰の前でも自分の功績や称号についておのずと自負したり、自称したりしたことがなかった。主席の謙虚な姿勢と立場は、司令官も人民の息子であるといっていたパルチザン時代にも、振り返れば自分の80歳は一言で言って人民の息子として人民のためにささげた闘争の一生であるといえるとした80の高齢にいたるまで一度たりとも変わったことがない。
 インドネシアのボゴール植物園は、世界草花博覧会場をほうふつとさせるほど花が多く、歴史が長いことからして世界的にも有名な植物園である。
 主席がこの植物園を訪ねた時、インドネシアのスカルノ大統領と植物園の園長は、ある有名な植物学者が長年の努力の結果、新しく育種した美しい花に主席の尊名を冠したいと請願した。
 その時、主席は、私は別にやったことがないから、花にまで名をつける必要はないとして、謙遜に辞退した。
 すると、スカルノ大統領は、そうではなく閣下は人類のために多くのことをなさったので、高い光栄に浴して当然ですと言い、自己の意思を変えようとしなかった。植物園に対する参観が終わり、首都に帰っても大統領は自己の提案を重ねて提起した。
 この報告を聞いた主席は、大統領とインドネシア人民の願いがそうであるなら、朝鮮人民に対する称揚のあらわしとして受け入れることができると熱く述べた。このようになって数千年の人類歴史上初めて、花に偉人の尊名がつけられるようになった。
 一生涯、活動と生活を常に虚心にしてきた方であるというところに、主席の謙虚な人間的風格の今一つの魅力がある。
 主席は、自分を平凡な党員の一人とみなし、党の前に限りなく虚心に生きてきた。
 いつか、金正日同志は、主席は全国の党員が党組織観念を高めているのに、総書記であり国家主席である自分がその模範を示すべきである、党中央委員会の組織書記が党活動を受け持っているから、組織書証から任務の分担を受けてその執行状況を報告することは党員の義務ではないかと話しているとし、すべての幹部らが主席の崇高な党組織観念を見習うべきであると強調したことがあった。
 世には多くの政党や団体、国家の指導者がいるが、主席のように自分が直接創建し導く党に対してこのように虚心な偉人はどこにもいなかった。
 主席は国家の法と秩序を自発的に遵守することを公民の神聖な義務としてみなし、いつ、どの単位にいっても、直接樹立された制度と秩序を守ることを違えることのできない準則にした。
 主席は農場に行った時は、見張り番の農場員に自分の身分証も出し、軍部隊を訪ねた時、歩哨勤務中の幼い兵士にみずからの身分を明かしたりした。
 主席は一生、学ぶために努力した。主席が一生、限りなく虚心な姿勢と立場をもって学んだ先生は人民大衆である。
 主席にとって書籍が無言の先生であったなら、人民は知恵あり博識な先生であった。それで、主席は人々に会えば誰の言葉であってもみな聞いてくれた。
 その個々人のさまざまな要求と志向が主席によって党と国家の路線と政策として集大成され、革命と建設の指導指針と転換されたりした。主席によって科学的に集大成され、全面的に体系化された路線と政策は、いずれも誰も打ち出せない真理の中の真理であった。
 限りなく謙遜に、一生を人民の息子として生きてきた人類史上になかった偉大な平民を高くいただいたことにより、朝鮮人民は世界のどの人民も呼ばれたことのない「指導者の師」という身に余る称号を持っことができたのである。

限りなく素朴な生活

 金日成主席は革命的生涯の全期間、余りにも素朴で質素に暮らした。
 主席は、抗日革命の全期間、弾雨をついて血戦の先頭に立っていた旗手であった。主席は一度も司令官の襟章をつけたことがなく、専用寝食条件や特別な待遇などを許したことがなかった。困難で試練に満ちた日々に主席は隊員たちと少しも区別のない素朴な生活をした。
 主席は、万民を魅了させる気さくな品性を備えていた人民の慈父であった。
 人を引き付ける魅力を備えた方、懐に抱いた労働者と農民、インテリと兵士はいうまでもなく、海外同胞や外国の友人まで会見するや瞬間に心を引かれ、心の内を打ち明け、別れてはまた会いたがる方がほかならぬ主席であった。
 たしかに、主席には磁石のように人の心を引き付け、我知らずに熱烈な魅惑と信頼心をもたせる特異な引力があった。
 主席は人々といささかの間隔も置かず、ざっくばらんに付き合った気さくな方であった。
 こんにち、朝鮮のどの幼稚園、託児所に行って見ても一目に胸がいっぱいになる一点の油絵がある。祖国の未来、朝鮮の子供たちの中におられる主席の慈愛深い姿を形象化した美術作品である。
 公園の素朴なベンチに座って太陽のような明るい笑みをたたえている主席、そのまわりに子供たちが多く集まって、ある子供は主席の中折り帽子を斜めに被って笑っているかと思えばまたある子供は主席の首を両手で抱きしめて耳打ちをしている。みんなが自分の実のお祖父さんと一緒にいる幸福感に満ち溢れている姿である。
 一国の指導者と幼い子供たちの間の飾り気がなく素朴で熱い、血肉の情あふれる場面を描いた美術作品は、そのまま領袖と人民、子供たちの間の血縁の関係をみせる歴史的な一画幅である。それは、人類史にいまだかつてなかった人倫道徳と政治倫理、人間的風格の新しい境地を示した最もすぐれた偉人を形象化した最も美しい画幅となっている。
 主席は一生、いささかの間隔や気取りもなく、人々とよく交わって活動し生活してきた。
 主席は自分の活動と生活の基盤を常に人民が生活するところに置き、行く先々で人民と交わっていた。
 天のごとく信じている人民の中に入ってとけこんでこそ、彼らの尽きない力を最大限に発揮させることもでき、党と国家も動かせ、革命も完遂できるという確固たる観点は、主席をして終生、人民と隔たりなく交わることを活動と生活の鉄則とするようにしたのだ。
 国籍と皮膚色、言語の相異なる外国の人々も主席は儀礼上の格式にこだわらず、親しく気さくに対したりした。
 主席を思いがけなく失い、全国の人民が血の涙を流していた1994年12月のある日、朝鮮人民は主席が数十年前のテレビをそのまま利用し、普通の地味なビニール・スリッパを使っていたという信じがたい事実の前で驚きを禁じえなかった。
 自分の一生をことごとくささげて人民にできることすべてを解決してくれた方、半世紀余りにわたって党と国家の最高職責におられながら革命を指導してきた方が人民と変わらぬ平凡な生活をしたそれ自体が歴史に類を見ないことであった。
 いつか、ある幹部が活動の費用まで自分の生活費で負担する主席に活動費が添付された生活費を上げたことがあった。その時、主席は国家の財政規律を違えてはならないとし、自分の生活費を除いた金額の全部を返すようにし、またある内閣会議で総合大学総長の生活費が首相の生活費より高い問題が提起されたときには、そのことに職務が何の関係があるか、総合大学の総長は科学者であるので当然、生活費を多くもらうべきだと、念を押して強調した方が偉大な主席であった。
 1993年11月のある日、平安南道平原郡元和協同農場で盛大におこなわれた決算分配会では、戦後、社会主義農業協同化の時期から名誉農場員として登録されている主席に、その間貯金して置いた10万2485ウォンの分け前を丁重に差し上げる決定が採択された。抗米の戦火の日々、農民たちとともに春の種まきをした時から農場が進むべき道を示しながら、農場の経済管理を細かく指導した主席の心血と労苦に対する切々たる感謝のあらわしであった。
 分配会に対する報告を注意深く聞いた主席は、その金で農場にトラクターと自動車、農機具を買ってあげようと言った。
 それで総22台のトラクターとトレーラー、自動車が4キロメートルまで出迎えた農場員たちの歌と踊りの中、元和協同農場に入るようになった。
 感激的なこの話を伝えられたヨーロッパのある政治活動家は、世界的に一国の領袖が名誉農場員となって分け前をもらったという話も初めてであり、その分け前で農民たちにトラクターや自動車を買って送ったという話も初めて聞いた、農業が始まって数万年が流れているが、これは実に伝説のような話であるといった。
 天下の景勝である妙香山に位置している国際親善展覧館は、主席に対する敬慕の念が集大成された偉人称揚の大殿堂である。
 主席に世界各国と党の指導者と人士、団体と機関から送られてきた贈り物が展示されているここには忘れがたい話がある。
 他国の政治家を見ると大体、他人からもらった贈り物を公開しない。それを単に自分の人格や尊厳に対するあらわしとして思うことから、個人の財産として保管し利用したりする。他人に見せる場合にも個人の人格に対する自慢の種にするのが常である。
 しかし、主席は自分に送られた多くの贈り物をそのまま国の財宝と、人民の尊厳と威力の象徴としてくれた。自分への贈り物まで子々孫々譲り渡す国の財宝、人民の財宝にした方なので、3大革命展示館や歴史博物館、さらには東明王陵をはじめ、全国の財宝と歴史遺物は一々指導しながらも、自分に送られた贈り物が展示されている展覧館は生涯の最後の時期まで全部見て回れなかった主席であった。
 金や財産ではなく、崇高な思想と健全な精神を革命家の第一の財宝としてみなしてきた主席ならではのことである。
                                                



inserted by FC2 system