金 日 成

全民族の団結の力で祖国の統一を自主的に実現しよう
第3回汎民族大会に参加した海外同胞との談話
−1992年8月19日−


 祖国の平和と統一のための第3回汎民族大会に参加した海外同胞のみなさんに会えて非常にうれしく思います。

 私は、第3回汎民族大会が成功裏におこなわれたことを高く評価し、熱烈に祝賀します。今回の汎民族大会には南側代表が参加できませんでしたが、祖国統一運動をより高い段階に拡大発展させるうえで重要な里程標をもたらした歴史的な大会でした。

 みなさんが1990年代に必ず祖国を統一し、統一の広場に私と金正日(キムジョンイル)同志をともに迎えると述べ、私と金正日同志の万年長寿を願ってくれたことに感謝します。

 祖国の統一は、朝鮮人民にとってこれ以上遅らせることのできない民族至上の課題です。我々は一日も早く祖国を統一して、全同胞の切なる願いをかなえてやらなければなりません。国が統一されれば、朝鮮人民は、ほかの国に劣らず裕福に暮らすことができます。我が国は領土が大きくありませんが、3面が海に囲まれ、地下資源が豊富で人口も7000万にもなります。ですから、我が国は統一さえされれば、経済を速やかに発展させ、すぐ世界の先進諸国の隊伍に列することができます。

 祖国の統一は、必ず自主、平和統一、民族大団結の3大原則にもとづいて実現されなければなりません。私は、既に1970年代の初期に祖国統一の3大原則を示しましたが、この原則にもとづいてこそ国の統一を実現することができます。

 祖国統一偉業の実現において、我々はなによりも民族自主の原則を堅持しなければなりません。

 外国勢力に依存しては,国の統一を実現することができません。いま一部の国は、口では朝鮮の統一を支持するといっていますが、実際には,我が国が統一されるのを望んでいません。それらの国は、我が国が分断されていれば自分の思いどおりにできるので、内心では統一より分断を望んでいます。ですから、誰かしらの援助を受けて祖国の統一を実現しようとすべきではありません。

 我々の経験が示しているように、革命と建設で提起されるすべての問題を自主的に、自分の方式で解決していくことが極めて重要です。我々はこれまで、アメリカ帝国主義との戦いも、社会主義建設も我々の方式でやりました。

 祖国解放戦争(朝鮮戦争)の時期、ソ連から来た人たちはソ連式の戦法を主張し、中国から来た人たちは中国式の戦法を主張しました。それで、私はそういう人たちに、戦はソ連式でもなく中国式でもない朝鮮式でしなければならないと話しました。第2次世界大戦の時期、多くの領土を敵の手に渡して後退し、再攻撃したソ連式の戦法は、領土が狭い我が国の実情には合いません。我が国の実情のもとでは、下手に後退しては敵に全領土を奪い取られるおそれがありました。中国式の戦法も流動しながら戦う運動戦の方法ですが、それもやはり領土の大きくない我が国の実情には合いませんでした。それで私は、我が国の実情に合う主体的な戦法で戦うことを決心し、事大主義者と教条主義者の主張に反対し「寸土をも敵の手に渡すな!」というスローガンを示しました。私はそのとき、人民軍の指揮官たちに、ソ連人はフォークで食事をし、中国人は箸で食事をするが、朝鮮人はさじで食事をする、これと同じように、戦も我々の方式ですべきだとし、我が国の地形条件に合わせて山岳戦を多くするよう強調しました。人民軍の指揮官たちは、私がうちだした戦法が正当であるといって全的に賛成しました。

 祖国解放戦争の時期、教条主義者はソ連から平射砲をかなり買ってきましたが、それも満足に使うことができませんでした。山の多い我が国の地形条件のもとでは平射砲より曲射砲のほうが必要でした。曲射砲でなくては山の向こう側の敵を掃滅することができません。

 我々は戦争の時期に事大主義と教条主義に断固反対し、我が国の実情に合う主体的な戦法で戦ったため勝利することができたのです。

 戦後も、我々はほかの国に頼らず、自力で我が国の実情に即した社会主義を建設しました。一時、現代修正主義者は、我々にセフ(コメコン)に加入するよう圧力をかけてきましたが、我々は自分の方式で自活していくといって加入しませんでした。我々がセフに加入せず、自力更生、刻苦奮闘の革命精神を発揮し社会主義建設で提起されるすべての問題を自力で解決したのは、至極正当なことでした。最近、ソ連と東欧諸国で社会主義が崩壊しましたが、我が国では社会主義が微動だにせず生々発展しています。これは、我々が他国に頼ることなく、我々の方式で社会主義を建設したからです。我が国も以前の東欧社会主義諸国のように他国に依存していたならば、もう、既に崩壊してしまったことでしょう。

 最近私は、平壌(ピョンヤン)を訪れた南朝鮮の人たちと会った席上でも、我々は常にチュチェ思想の要求どおり革命と建設で提起されるすべての問題を我々の方式で解決していると話しました。

 外国人も、我々がチュチェ思想の旗を高くかかげ、革命と建設で提起されるすべての問題を我が国の実情に合わせて自力で解決してきたのが正しかったことを認めています。

 以前、駐日米大使だった人が、我が国についての文章を書いたことがあります。かれは、以前から我が国についてかなり研究してきた人です。かれは自分の文章で、朝鮮の金日成(キムイルソン)主席は革命を始めた当初から自主性のスローガンをかかげてたたかった、金日成主席は1950年代初期の朝鮮戦争のときにも、すべての問題を自主的に自分の方式で解決した。それゆえ朝鮮にはどんな方式を押しつけても効果がない、いま南朝鮮当局者は「吸収統一」をするといっているが、かえって南朝鮮が北朝鮮に吸収されるおそれがある、と書いていました。

 我々は、外国勢力への依存を断固反対し、民族自主の立場に確固と立って祖国の統一を自力で実現しなければなりません。

 国の統一を自主的に、平和的に実現する基本的保障は、全民族の大団結を達成するところにあります。団結は、すべての勝利の決定的な要因です。北と南、海外のすべての朝鮮同胞が民族大団結の旗のもとにかたく団結してたたかうならば、祖国統一の途上に横たわる現在の難局を打開し、1990年代に国の統一を実現することができるでしょう。

 私は革命と建設を指導する全過程で、常に民族の団結の実現に第一義的な力を入れてきました。樺甸で「トゥ・ドゥ」を組織し革命活動を始めた時期からこんにちにいたる、ほぼ70年のあいだ、私は民族統一戦線の実現をめざして、あらゆる努力をつくし、民族の団結の力に依拠して革命と建設を成功裏に推進してきました。

 日本帝国主義を打倒して祖国を解放するための抗日革命闘争の時期には、反日民族統一戦線路線を示し、その実現をめざして鋭意努力しました。

 私は抗日遊撃隊を創建するとすぐ、梁世鳳(リャンセボン)の独立軍部隊との統一戦線を実現するため、主力部隊を率いて南満州へ進出しました。南満州へ向かうとき、母に、梁世鳳が独立軍司令を務めているというから、私が部隊を率いて南満州に行ってかれとの統一戦線を実現するつもりだと話すと、母はそれがよいと言いました。事実、当時朝鮮民族が団結せずばらばらになっていては、爪先まで武装した日本帝国主義との戦いで勝利することは不可能でした。ところが当時、海外の独立運動家はさまざまの原因によって団結できず、分裂していました。私はまず、梁世鳳との統一戦線を実現し、それにもとづいてすべての反日勢力との統一戦線を実現することを決心しました。抗日遊撃隊を引率し通化へ行って梁世鳳に会ったのですが、かれは非常にうれしがり、我々を盛大に歓迎してくれました。梁世鳳は私の父と非常に親しい間柄でした。かれは私の父の葬儀にも参列しました。私がかれに統一戦線の問題を提起すると、最初は関心を示しました。しかし、梁世鳳は、自分の部隊に潜入していた日本帝国主義の密偵である参謀の離間策にのって我々と手を握るのを拒みました。参謀は梁世鳳に、抗日遊撃隊はいま独立軍を誘いこもうとしているが、まかりまちがえば部隊を全部奪われるおそれがある、といって我々との統一戦線にくさびを打ち込みました。私は参謀の言動からして、日本帝国主義の密偵に違いないと判断しました。しかし、梁世鳳は参謀の正体を知らなかったため、かれの言葉をそのまま取り入れました。そのとき私は、いまは梁世鳳が我々と手を結ぶのを拒んだが、将来いつかは我々と必ず手を結ぶに違いないと考え、そこを発って柳河、濛江を経て東満州へ行きました。

 反日民族統一戦線路線の実現で決定的な契機となったのは、祖国光復会の創立でした。私は1936年5月に東崗で、反日民族統一戦線組織体である祖国光復会を創立しました。祖国光復会の綱領と規約、創立宣言は私が作成しました。祖国光復会創立宣言は、私と数名の愛国志士の名で発表しましたが、私は金東明(キムドンミョン)という仮名を使いました。当時の私はまだ年も若く名前も広く知られていなかったので、仮名を使うほうが有利でした。

 祖国光復会が創立され、その綱領と宣言が発表されると、各地に散らばっていた多くの独立軍部隊と反日運動家が我々を訪ねて来ました。梁世鳳が率いていた独立軍も、祖国光復会の創立後我々を訪ねて来ました。梁世鳳の死後、独立軍の司令を務めた金活石(キムファルソク)は、蒋介石の国民党を崇拝し、かれと連係を結ぼうとあれこれ努力しました。日本帝国主義者は、かれが国民党との連係を結ぼうとしていることを知り、蒋介石の特使を装った密偵を独立軍部隊に送りこみました。金活石は蒋介石が自分と会ってくれるという密偵の話を真に受けてかれについていきました。ところが、途中である家に泊って朝起きてみると日帝の警察署だったということです。日帝警察は、かれに睡眠薬入りの酒を飲ませて眠らせ、翌朝起きるやいなや逮捕したのです。それで金活石は日本帝国主義者のために無念の死をとげたのです。その後、崔允亀(チェユング)が独立軍の司令を務めたのですが、かれが残っていた独立軍を率いて我々を訪ねて来ました。

 私は抗日武装闘争の時期、天道教徒との統一戦線にも大きな力を入れました。当時、抗日遊撃隊の活動地域にかなりの天道教徒がいました。私はかれらを反日の旗のもとに結集するため、天道教下層との活動を積極的に展開する一方、上層を教育し包容する活動も同時におし進めました。当時、天道教咸鏡(ハムギョン)南道の道正は朴寅鎮(パクインジン)でしたが、かれは北青(プクチョン)、豊山(プンサン)、甲山(カプサン)、三水(サムス)など道内各地域の天道教徒を統轄していました。我々は、朴寅鎮との活動を積極的に進めてかれを祖国光復会の組織メンバーに加え、かれの影響下にあった多くの天道教徒を反日勢力として結集しました。咸鏡南道だけでなく平安(ピョンアン)北道の碧潼(ピョクトン)、昌城(チャンソン)、義州(イジュ)地方にも天道教徒がたくさんいましたが、かれらが我々と手を結んで反日闘争に奮起するようにしました。事実、日本帝国主義の植民地支配当時、天道教徒のうち崔麟(チェリン)一派を除くほとんどの天道教徒が我々と手を結びました。崔麟は日本の承認を受けて自治を実現する方法で朝鮮の独立を達成すべきだといいましたが、日本の承認のもとに自治を実現するというのは話になりませんでした。朴寅鎮をはじめ、良心的な天道教徒は、崔麟の「独立説」はでたらめなものだと反対し、我々の武装闘争を積極的に支持しました。朴寅鎮の夫人がいまなお生きていますが、今年彼女の年齢は93と聞いています。前回私が抗日革命烈士の遺家族と会ったとき、朴寅鎮の夫人もその席に参加しました。彼女は年に比べてすこぶる元気でした。

 抗日武装闘争の時期、我々は各階層人民との統一戦線活動に力を入れたので、広範な大衆の積極的な支持声援を受けることができました。人民は敵の弾圧と監視のなかでも、遊撃隊に食糧や被服など多くの物資を送り届けてくれました。当時の状況下で遊撃隊を援助するというのは容易なことではありませんでした。日本帝国主義は豆満(トウマン)江沿岸一帯をはじめ、抗日遊撃隊の活動が活発な地帯に集団部落を設け、人民が抗日遊撃隊を援助できないように統制しました。かれらは、その年の農作がすむと農民に収穫高を報告させ、軍刀をつって畑に来ては確認までしました。けれども、農民はかれらの目を盗んでは、さまざまな方法で抗日遊撃隊に食糧を届けてくれました。農民は、秋にジャガイモ畑でジャガイモの収穫が終わったかのように茎を刈り取っては、その畑を抗日遊撃隊に知らせてジャガイモを掘っていかせ、またトウモロコシも収穫して山奥に設けた倉に貯蔵しては、それを抗日遊撃隊に持っていかせました。我々は、農民が指定した畑でジャガイモを掘りつくせなかった場合は、そのままにしておいて翌年の春に凍ったジャガイモを掘り出して食べたりしました。

 我々は民族統一戦線の旗のもとにすべての反日愛国勢力をかたく結集し、広範な大衆の積極的な支持声援を受けて日本帝国主義と戦ったため、祖国の解放をなし遂げることができたのです。

 私は解放後にも、民族の団結のためにひきつづき大きな力を傾けました。

 解放後、私は凱旋演説で、祖国の進むべき道を示しながら、国と民族を愛し民主を愛する全人民がかたく団結し、力のある人は力で、知識のある人は知識で、金のある人は金で建国事業に積極的に貢献することを呼びかけ、各階層人民の団結の力に依拠して民主主義の新しい祖国建設を力強くおし進めました。

 同時に、国と民族の分裂を防ぎ祖国の統一を達成するため、南朝鮮の各階層の人士に多く会いました。解放後、南朝鮮から呂運亨(リョウンヒョン)、許憲(ホホン)をはじめ、多くの人士が私を訪ねて来ました。呂運亨は祖国統一のために奮闘している最中、敵に暗殺されました。解放直後、南朝鮮から私に最初に手紙をよこしたのもかれでした。かれは平壌に幾度か来ましたが、一度は私に、自分がこれから南朝鮮に行けばいつどんなことになるかわからない、将軍の荷にならなければ子供らを送るから立派に育ててもらいたいと頼みました。それで、大きい子をあずかるのは、なんの負担にもならないから子供らをよこしなさいといいました。そのとき呂運亨は、自分が南朝鮮に帰れば敵の手にかかるだろうと予感がしたようです。呂運亨が2人の娘を私によこしたのは幸いでした。かれの娘たちが私たちのところに来なかったなら、その運命がどうなったかはわかりきったことです。呂運亨は敵に暗殺されたため、南北連席会議に参加できませんでした。

 南北朝鮮政党・大衆団体代表者連席会議は、1948年4月に平壌で開かれましたが、これは解放後はじめて北と南の代表が一堂に会して救国対策を討議した全民族的な会合でした。我々の積極的な努力により、南北連席会議には南朝鮮から多くの代表が参加しました。この会議には、南朝鮮から李承晩直系の政党を除いたほとんどの政党、大衆団体の代表が参加し、金九(キムグ)と金奎植(キムギュシク)も参加しました。みなさんは今回「統一戦線塔」があるスク島革命史跡地へ行けばわかるはずですが、私は南北連席会議が終わったあと、金九をはじめ南朝鮮から来た人士たちを連れてスク島に行き、以後の活動方向を討議しました。そのとき私はかれらに、南朝鮮に帰って民族の団結を実現するため積極的にたたかう問題、李承晩の「単独選挙」を破綻させる問題をはじめ、連席会議で討議された重要な諸問題について再度強調しました。李承晩は、全民族の反対にもかかわらず、アメリカ帝国主義にそそのかされて、強引に「単独選挙」を実施しました。

 李承晩は外国勢力を後ろ盾にして「大統領」の座につきはしましたが、人民からは支持されませんでした。1956年の「大統領」選挙のとき、李承晩と並んで、進歩党の党首であっだ奉岩(チョボンアム)も「大統領候補」として出馬したのですが、かれの得票数は李承晩に比べてわずかばかりの差しかありませんでした。最初ば奉岩の支持者が多かったのですが、李承晩が詐欺といかさまの手口で選挙票を束にしてかき集めたので、わずかな差で優勢になったのです。あのとき「大統領」選挙が公正に実施されたなら、おそらぐ奉岩が「大統領」に当選していたはずです。南朝鮮の多くの人が゙奉岩を支持したのを見ると、進歩党の影響力は相当なものであったようです。゙奉岩は以前朴憲永(パクホンヨン)と親しい仲でしたが、その後仲たがいして李承晩のかいらい政府に入閣して「農林部長官」まで務めました。゙奉岩が進歩的な活動をくりひろげるや、李承晩はかれが北と連係を結んでいるという途方もない口実を設けて逮捕し、死刑に処しました。李承晩は、北をあこがれたり、北と連係があるとおぼしき者はすべて逮捕して処刑しました。

 我々は1948年までは、祖国の統一をめざす民族統一戦線活動で多くの成果をおさめましたが、その後この活動にはこれといった前進がみられませんでした。その間我々は、民族の大団結をなし遂げるために可能なあらゆる努力をしました。私は、民族大団結のために多くの文を発表し、演説もたくさんしました。みなさんも海外で民族の団結のために大いに努力しました。にもかかわらず、いまなお我が民族の完全な団結が実現せず、国の分断が持続しているのは、アメリカ帝国主義と南朝鮮かいらい一味の分裂主義的策動、ファッショ的弾圧策動のためです。

 いま我々は、自主、民主、祖国統一を主張していますが、南朝鮮かいらいは、従属とファッショ、分裂の道を歩んでいます。北と南の対立と闘争は結局は、愛国者と売国奴、民主勢力とファッショ勢力、統一勢力と分裂主義勢力間の対立と闘争といえます。

 南朝鮮当局者は、南朝鮮を完全にアメリカの支配のもとにゆだねています。アメリカと南朝鮮当局者は南朝鮮を「独立国家」だと宣伝していますが、なんの国権も自主権もなくアメリカの指揮棒に従って動く南朝鮮をどうして独立国家といえるでしょうか。南朝鮮人民も、南朝鮮はアメリカの完全な植民地であり、「大統領」はあやつり人形だといっています。南朝鮮がアメリカの支配下にあるかぎり、今後他の人が「大統領」の座につくとしても、かれもやはりアメリカの指揮棒に従って動くあやつり人形にならざるをえなくなるでしょう。南朝鮮当局者が、なんの定見もなしにアメリカの指揮棒に従って動くのは哀れでなりません。

 南朝鮮当局者は、社会の民主化に反対しており、ファッショ的暴圧によって「政権」を維持しようとしています。南朝鮮にはいまなお「国家保安法」をはじめファッショ的悪法が存続しており、南朝鮮当局者は愛国的人民と青年学生を「国家保安法」にかけて弾圧しています。

 南朝鮮当局者は国の統一に反対し、アメリカの「二つの朝鮮」策動に積極的に追従しています。いまの南朝鮮当局者の行動を見ると、我が国を永久に二分しようとしているのが明白です。南朝鮮当局者は、国が分断されていればアメリカの支持を受け、民主運動をファッショ的に弾圧して権力の座を維持することができるものと思っています。

 南朝鮮当局者は、北と南、海外同胞が一堂に会して統一の対話をすることも必死になって妨害しています。今回の汎民族大会に南側代表が参加できなかったのも、南朝鮮当局者のファッショ的弾圧策動のためです。南朝鮮当局者は、数万の武装警察を動員し、今回の汎民族大会に参加するため北へ来ようとする南側代表を銃剣で弾圧しました。

 いま南朝鮮当局者は、我々が北南連席会議か政治協商会議のようなものを開こうと提案しても、なんの肯定的な返答もしていません。

 最近、南朝鮮当局者が我々との「頂上会談」を提起しました。それで私は、そのような会談自体は反対しない、しかし、私に会うというなら新しい統一方案を用意すべきだ、我々は、既に連邦制統一方案を示しているが、それより合理的な方案があれば出してもらいたい、もし新しい統一方案が用意されていないならば、我々の連邦制統一方案に賛成してもよい、北と南が最高位級会談をするなら、一定の統一方案をもって論議すべきであって、ただ対座してお茶を飲み、冷麺でも食べて別れるのでは、無意味だといいました。ところが、南朝鮮当局者はなんの統一方案も出しておらず、我々が示した連邦制統一方案にも賛成していません。南朝鮮当局者が外国にしばしば出かけて「頂上会談」をしているとのことですが、おそらく国と民族のための会談ではなく、国と民族を売り渡す会談でもしているのでしょう。

 南朝鮮当局者が我々の連邦制統一方案に賛成していないのは、アメリカが承認しないからだと思います。アメリカは、我が国が統一されるのを快く思いません。アメリカはなんとしても、南朝鮮かいらいをそそのかして我が国を二つに分断させておき、我が国の社会主義制度を崩壊させようとしています。かれらは「吸収統一」しようと企みましたが、それが不可能だと知り、いまは孤立させ窒息させる方法をとっています。南朝鮮当局者がもちだしてきた「北方政策」なるものも、「二つの朝鮮」をつくりあげ、我々を国際的に孤立させようとするものであり、アメリカが我々にありもしない「核問題」で騒ぎ立てているのも、結局は我が共和国を圧殺しようというのが目的です。最近、核査察問題をもって我々にいいがかりをつけていたアメリカは、我々が南朝鮮にあるアメリカの核基地も査察すべきだと主張すると、なにもいえないでいます。事実、我々は、既に国際原子力機関の査察を受けたのですから、公正の原則で今度は南朝鮮にあるアメリカの核基地を査察しなければなりません。ところが、アメリカは最近、南朝鮮当局者と口を合わせて「同数査察」問題をもちだしています。これは言語道断です。

 アメリカは、「二つの朝鮮」をつくりあげて我が国の社会主義制度の転覆をはかっていますが、それは愚かな妄想です。朝鮮民族は長い歴史と文化をもった単一民族であり、なんぴとも我が民族の永久分裂をはかることはできないでしょう。そして、我が国の社会主義についていうならば、以前のソ連や東欧諸国の社会主義とは根本的に異なります。我が国の社会主義は、人民大衆中心の社会主義です。アメリカ帝国主義者が我々を圧殺しようといくら策動しても、我が国の社会主義は絶対に崩壊しないでしょう。

 我々はいままで50年近いあいだ、帝国主義の圧力と封鎖のなかで生きてきました。そのため、アメリカ帝国主義が「経済制裁」だのなんのといくら脅迫しても、朝鮮人民は驚きも恐れもしません。ソ連と東欧諸国の社会主義が挫折したからと、我々が生きていけないわけではありません。

 我々には食べるものも着るものもあり、この世で最もすぐれた社会主義制度があります。朝鮮人民は他国に比べてぜいたくといえる暮らしはしていませんが、食・衣・住の心配、治療を受ける心配、子供を学校にやる心配をせず幸せに暮らしています。

 いま我が党は、白米の飯に肉汁を食べ、絹の服を着て瓦ぶきの家に住みたいという人民の宿望を実現するために努力しています。我々はまだ人民に食肉を十分に供給できずにいますが、なんとしてもこの問題を解決しようと思っています。

 我々が党の農業第一主義の方針を立派に実行して、穀物生産を増やせば食肉の問題を解決し、軽工業革命を促せば商品の問題も円滑に解決することができます。そうなれば、人民の生活はいまよりさらに向上し、朝鮮式社会主義の優越性はより高く発揮されるでしょう。

 いま、世界の多くの国の人が、朝鮮式の社会主義がいちばんだといって我が国を訪問しています。この4月にも、私の誕生80周年にさいし、世界各国から数多くの代表団と代表、進歩的人士が我が国を訪問しました。かれらは我が国の現実を見ては、社会主義を建設するなら朝鮮式にすべきだといいました。そのとき、共産党、労働者党をはじめ、各国の党が平壌で、社会主義偉業を擁護し前進させる宣言を採択して署名しました。平壌宣言は、社会主義をめざす世界の革命的党と進歩的人民の共通の闘争綱領として、その生命力と正当性が日を追っていっそう明らかに実証されています。平壌宣言が採択、発表されて数か月しか経っていませんが、宣言を支持、賛同して署名した党は、既に131に達しています。これは、社会主義が人民の心に依然として生きていることを物語るものです。社会主義は一時的に曲折を経てはいますが、必ず再生して前進することになるでしょう。

 偉大なチュチェ思想を具現している朝鮮式の社会主義は必勝不敗です。領袖、党、大衆が一心同体となっており、全社会がひとしく行動する我が国の社会主義はなんぴともあえて侵すことができないでしょう。アメリカは、朝鮮も東欧社会主義諸国のようにすぐ崩壊するものと思っていたのですが、一心団結した我々の威力を見て、このごろは多少、考えを改めるようになったようです。

 北と南、海外のすべての朝鮮同胞がかたく団結しさえすれば、内外の分裂主義者の妨害策動を粉砕して祖国の統一を達成することができます。

 いま南朝鮮では、民族の団結と統一を望む人が多数を占めています。南朝鮮で国と民族の分裂を追求する勢力はごく少数にすぎません。数年前、南朝鮮の民主人士文益煥(ムンイクファン)牧師が平壌を訪問したことがあります。そのとき私はかれに、南朝鮮には自主、民主、祖国統一を望む人のほうが多いのか、それとも従属とファッショ、分裂を追求する人のほうが多いのかと尋ねたところ、かれは、統一を望む人が大多数で、分裂を望む人はわずかだと答えました。事実、南朝鮮で従属とファッショ、分裂を追求する勢力は少数の権力層と一部の軍部層、それに一部の買弁資本家だけです。南朝鮮ではこのごく少数の分裂主義勢力が権力を掌握し、銃剣をもって自主、民主、祖国統一を志向する進歩的勢力を弾圧しています。南朝鮮で、自主、民主、祖国統一を志向する勢力と、従属、ファッショ分裂を追求する勢力との矛盾はますます激化しており、両勢力間に熾烈なたたかいがくりひろげられています。こうした状況にあって、誰が祖国の統一を願い、誰が民族の分裂を追求しているのかを明らかに区別しておくことがなによりも重要です。穀物をふるいにかけて選別するように、南朝鮮の統一勢力と分裂勢力を分け、統一勢力をいっそう拡大していかなければなりません。

 全民族の団結を実現するためには、北と南、海外同胞間の対話を積極的に発展させ、全民族的な会議のようなものをたびたび開催しなければなりません。

 今後、全民族的な会議は、北南連席会議の形式でもよいし、各階層の連合会議や政治協商会議の形式でも開けるでしょう。南北連席会議があってからもはや40年も経っているので、連席会議を再び開催すれば、民族的団結を達成する重要な契機となるでしょう。

 今後、汎民族大会もひきつづき開催すべきです。

 汎民族大会を全民族の大団結を実現する大会にするには、北と海外の代表だけでなく、南側代表も参加しなければなりません。もちろん、北と海外の代表だけの汎民族大会も民族的団結の実現において一定の役割を果たしますが、南側代表が参加しなければ汎民族大会が全民族の大団結の達成に大きく寄与することができません。今回の汎民族大会では南側代表が送ってきた文書を付け加えて共同決議文を採択しましたが、文書の上で合意した共同決議文を発表するだけではさほど意義がありません。これでは、汎民族大会が対外的な示威にはなるとしても、南朝鮮人民に及ぼす影響力はそれほどのものではありません。汎民族大会に南側代表が参加しなければ、結果的にはその意義と影響力がそれだけ弱まります。北と海外の代表だけでなく、南側代表も参加する汎民族大会をしてこそ、それが名実ともに汎民族大会になるでしょう。ですから、汎民族大会は必ず、北と南、海外の代表がすべて参加する原則で開催すべきです。

 南側代表まで参加する汎民族大会を北で開くのがむずかしければ、日本のような第3国で開催してもよいでしょう。そして、汎民族大会に南側代表を最初から多く参加させなくてもかまいません。最初はおよそ20名か50名ほど参加させ、徐々にその数を増やすのがよいでしょう。私の考えでは、汎民族大会を最初は外国で催して少数の南側代表を参加させ、大会の場所を平壌かソウルに移してから南側代表の参加者数を増やすのが最も理想的だと思います。

 北と南、海外のすべての朝鮮同胞は所属と党派にかかわりなく、思想と政見、信教の違いを超越して一つにかたく団結すべきです。

 私は、海外同胞のみなさんが民族の大団結を達成するたたかいを力強くくりひろげ、祖国統一の聖なる偉業の実現に大きく寄与するものと信じます。

 みなさんが民族大団結の実現のために積極的にたたかうことを決意したのはよいことだと思います。

 みなさんが今後もたびたび祖国を訪問するよう望みます。

出典:「金日成著作集」43巻


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