金 日 成

白頭山地区を大露天革命博物館としてより立派に整備しよう
 ―白頭山革命戦跡地建設総計画模型を前にしての幹部との談話―
1988年7月25日 
 
 
 スローガンが記されている密営の樹木

 最近、党中央委員会党歴史研究所では、1930年代後半期と1940年代前半期に朝鮮革命に一大高揚が起こり、祖国解放の歴史的偉業が達成されつつあった時期の革命史跡を数多く新たに発掘しました。白頭山周辺だけでも200余本のスローガンを記した樹木と2000余本の皮をはいだ樹木をはじめ、密営地、営舎の跡、テントを張った跡、たき火の跡、朝鮮人民革命軍の隊員が使用した生活用具、薬きょうなど貴重な革命遺跡・遺物を発掘しました。咸鏡北道、咸鏡南道、慈江道一帯をはじめ、全国各地でスローガンを記した樹木が数多く発掘されました。

 白頭山地区をはじめ、北部朝鮮一帯で新たに発掘された多くの革命遺跡・遺物は、抗日革命闘争の史料を豊富にするまたとない貴重な革命の財宝です。

 この貴重な革命史跡・遺物が20年くらい前に発掘されていたなら、党員と勤労者をわが党の革命伝統で武装させるのにたいへん役立てられたはずです。私は、久しい前から抗日武装闘争期の革命遺跡・遺物を探し出すため、朴永純同志を鴨縁江と豆満江沿岸へ派遣しました。彼は白頭山地区を何度も踏査しましたが、ついに白頭山根拠地のこの貴重な史跡・遺物を探し出すことができませんでした。金一同志もここに来ましたが、やはり探し出せませんでした。白頭山地区に秘密根拠地を設営する任務を果たした金周賢同志が生きていたなら探し出せたはずですが、彼が早くして倒れたため、貴重な革命史跡・遺物を長いあいだ探すことができませんでした。解放直後、私が白頭山に来ていたなら、この貴重な革命史跡・遺物をもう少し早く探し出せたはずですが、当時は、党、政権、武力の建設など革命と建設で提起される問題が多かったので来られませんでした。1950年代には、アメリカ帝国主義との戦いで白頭山に来られませんでした。

 新たに発掘されたスローガンを記した樹木の文章には、革命の司令部を生命を賭して守り、指導者に忠誠を尽くそうとする朝鮮人民革命軍隊員の確固とした信念が反映されており、祖国解放偉業を自力で達成せんとする主体的立場と祖国光復会10大綱領の反帝反封建民主主義革命路線が明示されており、祖国と人民を限りなく愛する愛国主義精神、不屈の共産主義的革命精神が反映されています。このような点から、スローガンを記した樹木の文章は、たんなるスローガンというより抗日武装闘争期の文献であるといえます。

 最近新たに発掘された革命遺跡・遺物は、白頭山を中心とする北部朝鮮一帯には朝鮮人民革命軍の小部隊やグループだけでなく、大部隊も進出して活動し、一部隊だけでなく多くの部隊が何回も進出して活動したことを示しています。

 我々が白頭山地区に秘密根拠地を設けたのは1936年の9月でした。私は、1936年5月、東崗会議後、金周賢同志をはじめ、幾人かに白頭山地区へ進出して秘密根拠地を設営する任務を与えて国内へ派遣しました。李東学同志もそのうちの一人でした。小白水谷、獅子峰、間白山、熊山など白頭山地区にある密営は当時彼らが位置を定めて設営したものです。

 小白水谷に設営された白頭山密営は、1930年代後半期と1940年代前半期の我々の活動中心地でした。小白水谷には、革命の司令部と金正日同志の生家があり、その他裁縫所、書記処、遮断ポスト、兵舎などがありました。この地域は秘密がかたく守られていました。

 小白水谷からほど遠からぬところに獅子峰密営がありました。私は当時、小白水谷にいて、小部隊を派遣したり、国内で活動していた政治工作員や地下組織の責任者に会うときは獅子峰密営へ出かけて会ったりしました。天道教咸鏡南道道正の地位にあった朴寅鎮が天道教の代表を帯同してきたときも、獅子峰密営で会いました。獅子峰には、出版所もありました。政治工作員を地方へ派遣したり、地下革命組織のメンバーが訪ねてきたときには、獅子峰の出版所で刷った各種宣伝物や教育資料を持たせて帰したりしました。獅子峰は、獅子が横たわっているように見えるということで臥獅峰とも呼んでいました。

 間白山密営は、朝鮮革命の主体的力量を強化し、全民抗争をめざす中核育成基地としての使命と役割を果たした根拠地であり、祖国解放作戦の時期には、国内進攻を目前にひかえた朝鮮人民革命軍部隊の集結点でした。

 熊山密営は、朝鮮人民革命軍の小部隊が位置して活動したところです。熊山は熊が出てきて遊ぶからと、「熊が遊ぶ山」ともいいました。

 熊山には、熊が多いようです。数年前、中国の新聞に白頭山の天池に怪物があらわれたという記事が載ったことがあります。その記事を見た私は、白頭山の天池に怪物が実在するのかを確かめてみるよう指示しました。社会安全部のメンバーが3年ほど待機して監視していると、白頭山の天池に真っ黒な獣があらわれたそうです。よく見ると、それは熊だったそうです。その熊は、白頭山の天池を泳いで中国側に渡り、岩の上にのぼって遊んでは再び泳いでもどってきたそうです。それで新聞に、白頭山の天池にあらわれたのは怪物ではなく、大熊であるという記事を載せました。中国人が白頭山の天池で怪物を見たというのは、熊を見てのことだったようです。

 小?脂峰密営は、間白山密営に隣接する後方密営でした。そこには、兵器修理所、裁縫所、病院、後方連絡所などがありました。

 仙五山密営と無頭峰密営は、国内に入って活動していた朝鮮人民革命軍部隊の中間連絡所であり、鴨緑江沿岸地区、大角峰地区、双頭峰地区にある密営は国内に出入りする部隊が利用した連絡所でした。

 白頭山一帯に設けられた秘密根拠地は、1930年代後半期と1940年代前半期に、朝鮮人民革命軍主力部隊が依拠して活動した革命のとりでであり、朝鮮革命の策源地でした。

 我々は、1930年代後半期と1940年代前半期に白頭山一帯に設けられた秘密根拠地を拠点に、朝鮮革命の主体的路線を確固と守り、党創立準備活動と祖国光復会の組織を拡大する活動を力強く繰り広げ、朝鮮革命の主体的力量を強化し、祖国解放の大事変を主動的に迎える活動を力強く展開しました。

 1930年代の後半期に入り、革命情勢は複雑かつ困難を極めました。日本帝国主義は、1930年代の後半期に朝鮮人民革命軍の軍事・政治活動が強化され、その影響のもとに全国的範囲で朝鮮革命の主体的力量が拡大強化されてきたことに恐れをなし、朝鮮革命を圧殺しようと朝鮮人民革命軍への「討伐」攻勢をいっそうヒステリックに強行する一方、類例のない大検挙旋風をまき起こして革命組織を破壊し、数多くの共産主義者と愛国的人民を手当たりしだいに投獄し虐殺しました。当時コミンテルンに居座っていた極左冒険主義者は、コミンテルンの名で、満州地方で活動していた武装部隊が長春を包囲、攻撃し、熱河方面へ遠征して、中国関内に攻め寄せる日本帝国主義侵略軍に打撃を与えるという無謀な「路線」を提示し、その実行を強要しました。

 コミンテルンは、我々が1936年5月、撫松県東崗で活動していた時期と1937年6月、間三峰戦闘をおこなった以後の時期、そして1938年5月、鴨緑江沿岸の臨江一帯で活動していた時期にも「熱河遠征」の断行を強要しました。しかし我々は、コミンテルンの無謀な「熱河遠征」路線が提起されるたびにそれを受け入れず、かえって国境地帯と国内に深く入って朝鮮革命を新たな高揚へ導く闘争をいっそう積極的に繰り広げました。「熱河遠征」路線が1936年5月に提起されたときには、白頭山根拠地に奥深く入り、朴達同志や、朴寅鎮をはじめ、天道教の代表とも会って、国内での党組織建設と反日民族統一戦線運動の活発な展開をはかる一方、主力部隊は普天堡に進出する大部隊進攻作戦を展開し、1937年6月の間三峰戦闘以後それが再度提起されたときには、白頭山密営に主力部隊の指揮官を集めて「熱河遠征」についての我々の原則的立場を明らかにし、その年の夏、北部国境沿岸で軍事・政治活動を展開しました。1938年5月、再び「熱河遠征」路線が提起されたときには、国内における革命闘争を高揚へ導く対策を立て、主力部隊を率いて長白、臨江一帯で大胆な流動作戦を展開しながら敵の背後を攻撃しました。崔賢同志の部隊もそのころ多くの戦闘をおこないました。そのころは、戦闘を一日に3回もしたことがあります。その後、臨江、濛江県一帯で活動していた朝鮮人民革命軍部隊を南牌子に集結させましたが、そこには南満州で活動していた楊靖宇も来ました。無謀な「熱河遠征」がたたって、楊靖宇の部隊は事実上壊滅のうき目にあいました。それで、楊靖宇は、幾人かの伝令兵だけをつれて朝鮮人民革命軍の司令部を訪ねて出発しました。彼が我々の司令部を訪ねてくるという報告を受けた私は、朴成哲同志の中隊を派遣しました。朴成哲同志は楊靖宇に出会い、通化をへて八道江上方の南牌子まで案内してきました。1938年11月、私は南牌子で朝鮮人民革命軍軍事・政治幹部会議を開き、コミンテルンによって強要された「熱河遠征」路線を正式に拒否し、国内と、臨江、濛江県一帯での朝鮮人民革命軍各部隊の軍事・政治活動を総括しました。

 南牌子会議では再び国内への大部隊進攻作戦を繰り広げることを討議、決定し、その年の冬に「苦難の行軍」を決行し、翌年の春には鴨緑江沿岸一帯に進出して春季大反撃戦を展開し、いたるところで敵を痛撃しました。「苦難の行軍」を成功裏に終えた我々は1939年4月、北大頂子で朝鮮人民革命軍幹部会議を開いて、「苦難の行軍」期間の軍事・政治活動を総括し、国内大部隊進攻作戦方針を確定し、小徳水馬登廠の森林でその年のメーデーを盛大に祝賀しました。メーデー祝賀行事には、国内と長白地区の地下革命組織の代表も参加しました。皆さんも劇映画『遊撃隊の5兄弟』を見て知っているように、そのときのメーデー祝賀行事は映画に描かれたとおりです。その後我々は、大部隊による国内進攻作戦を綿密に準備して、5月に大紅湍戦闘を敢行しました。大紅湍戦闘後、大部隊は戦術上、白頭山東北部へ活動舞台を移しました。これは、国内革命運動の発展と全般的朝鮮革命の新たな高揚を起こすうえで重要な意義をもちました。そのとき、朝鮮人民革命軍大部隊は白頭山東北部へ移動はしましたが、それまで掌握していた白頭山西南部を空けておいたわけではありません。大部隊は白頭山東北部へ移動しましたが、小部隊は依然として白頭山西南部に残って活動しました。

 私は茂山地区進攻作戦に先立ち、国内に設けた白頭山秘密根拠地をさらに強化し、そこを中心に白頭山一帯と国内で活動することになる小部隊の活動方向を示すため、間白山地区に来たことがあります。これは秘密に付されていたので、知る人は何人もいないはずです。

 白頭山一帯で活動した時期、党創立の準備活動を積極的に推進しました。

 私は、熊山密営で、国内で活動していた共産主義者と会って党組織建設活動を指導しました。普天堡戦闘がおこなわれる何日か前の1937年5月下旬、熊山密営で国内党工作委員会の会議を指導しました。この会議には、朴達同志をはじめ国内党工作委員会のメンバーと党の中核分子が参加しました。私はその会議で、党組織建設活動で提起される原則的な問題を明らかにし、国内の党組織を早急に拡大し、党組織に対する指導体系を確立する方針を示しました。この会議があったのち、朝鮮人民革命軍部隊のなかから優秀な政治活動家を選抜して北部朝鮮政治工作隊を組織し、彼らを国内に派遣して党組織を結成させることにしました。このように、朝鮮人民革命軍党委員会の指導のもとに、国内党工作委員会の機能が強まり、北部朝鮮政治工作隊の役割が強まるにつれ、国内における党組織建設活動が活発に繰り広げられるようになり、白頭山地区と茂山、延社地区を含めた北部朝鮮の広大な地域に党組織が拡大されていきました。

 そのころ、朝鮮人民革命軍内の一部の指揮官のあいだに軍事行動にのみ偏する傾向があらわれましたが、それを克服し、党および大衆政治工作を広大な地域で活発に繰り広げるようにしました。これは、1930年代後半期の抗日武装闘争の重要な特徴の一つであったといえます。

 1930年代後半期、朝鮮革命の主体的力量を強化する措置のうちで重要な意義をもつのは、北部朝鮮反日人民遊撃隊を組織することでした。私は、1930年代後半期、悪辣さを増す日本帝国主義の弾圧策動に対処して我々の主体的革命力量を決定的に強化し、朝鮮人民自身の力で祖国解放の歴史的偉業を達成するため、1938年の春、白頭山密営で北部朝鮮反日人民遊撃隊を組織する方針を示し、その隊長に7連隊中隊長の崔一賢同志を、政治委員には朴達同志を任命しました。しかし、その後、朴達同志をはじめ、国内で活動していた多くの中核分子が日本帝国主義者に逮捕され、その後間もなく崔一賢同志も戦死したため、北部朝鮮反日人民遊撃隊の結成は実現しませんでした。しかし、その方針は放棄したのでなく、すでに長白地方と北部朝鮮一帯に広く組織されていた生産遊撃隊、労働者突撃隊などの半軍事組織をさらに強固にし、全民抗争を起こして、敵の気違いじみた策動に主動的に対処できる積極的な措置によって深化、発展させました。

 北部朝鮮反日人民遊撃隊の政治委員として派遣した朴達同志は、「恵山事件」があった翌年の1938年9月、日本帝国主義者に逮捕されました。私が1937年に朴達同志と会ったのち、しばらくして彼に手紙を送ったことがありますが、それはちょうど間三峰戦闘があった日でした。

 1937年6月、普天堡進攻戦闘後、我々は間三峰で日本帝国主義軍隊の「最精鋭部隊」と自称していた金錫源指揮下の羅南19師団所属咸興74連隊と大戦闘を交えました。そのとき、咸興74連隊は戦闘で多くの損失をこうむりながらも退かず、ひきつづき兵力を増強して攻撃してきました。我々が敵に決定的な打撃を与えて引き上げようとしたころ、午前から降りはじめていた小雨が土砂降りになってきました。我々は一部の力量で増強されてきた敵を掃滅しながら、間三峰地区に踏みこんだ咸興74連隊に痛撃を加え、土砂降りの機に乗じてひそかに撤収しました。間三峰戦闘で生き残った敵が戦死した自軍兵士の生首なりとも持ち帰ることができたのは、我々が敵を守勢におとしいれ、間三峰から先に撤収したからです。あの日、我々が先に撤収せず攻撃をつづけていたなら、敵は自軍兵士の生首も持ち帰れなかったでしょう。

 間三峰戦闘の前に、国内革命組織の代表が朝鮮人民革命軍を訪ねてきました。そのとき我々のところに訪ねてきた代表は3、4名でした。その日、雨にうたれながら彼らと談話を交わしました。私は彼らとの談話で、日本帝国主義が朝鮮人民革命軍と人民とのつながりを断ち切るため、満州地方に「集団部落」をつくってあらゆる策動を弄している状況のもとで、地下革命組織のメンバーが敵の機関や団体などに入ってより積極的に活動できるようにするのが我々の方針である、これから帰ったら「集団部落」に入って「自衛団」にも入団し、「面長」などの地位も占めるべきだとあらためて強調しました。その日私は、彼らを通じて朴達同志に手紙を送りました。

 その後、「恵山事件」が起こり、革命組織メンバーに対する大々的な検挙旋風がまき起こりました。「恵山事件」以後、長白地方と国内の革命組織が試練をへているとき、朴達同志とその革命組織グループが普天堡の大鎮坪で活動しているという消息を聞きました。当時、金正淑同志がその組織と連係をもって朴達同志に会ったという報告を受けたことがあります。それは、多分1938年4月か晩春のことだったと思います。朴達同志が大鎮坪で活動しているという報告を受け、ただちに連絡グループを送って彼を白頭山に呼び、破壊された革命組織を再建し、革命闘争を新たな高揚へと発展させる課題を与え、再び送りだしたことがあります。私が朴達同志に会うため白頭山密営に来たとき、金正淑同志もそこにいたようです。朴達同志は、その後に逮捕されました。

 1940年代前半期にも、白頭山一帯の秘密根拠地を拠点にして、祖国解放の歴史的大事変を主動的に迎えるための活動を積極的に展開しました。

 1940年代に入り、朝鮮人民革命軍の一部の部隊をソ連領極東地方の訓練基地に送って軍事・政治訓練を強化し、革命的大事変を主動的に迎える準備を整えさせる一方、多くの小部隊と政治工作グループを国境地帯と国内に派遣して軍事・政治活動を展開し、革命組織を再建、拡大して新たな革命力量を整えるようにしました。このように、祖国解放の歴史的偉業を朝鮮人民の主体的力量でなし遂げるため積極的に闘いました。1940年代前半期の抗日武装闘争で基本をなしたのは、国境地帯と国内各地に派遣された小部隊と政治工作グループの軍事・政治活動でした。小部隊と政治工作グループは、白頭山地区の秘密根拠地を基本拠点として活動しました。当時私は、白頭山地区の秘密根拠地に司令部を置き、国内と中国東北地方の各地にあった臨時秘密根拠地にしばしば出向いて、小部隊と政治工作グループの活動を指導し、またソ連領極東地方で軍事訓練をしていた部隊の活動も指導しました。

 前にも話しましたが、祖国解放の最後の決戦を前にした時期、朝鮮人民革命軍部隊は白頭山根拠地を中心に北部朝鮮一帯で活動していたし、ソ連領極東の訓練基地では朝鮮人民革命軍部隊が戦闘準備を整えて命令を待っていました。しかし、対日戦争が開始されるや日本帝国主義があっけなく降伏したため、祖国解放作戦に参加したのは、白頭山根拠地と北部国境一帯にいた部隊、秘密根拠地に依拠して国内深くで活動していた小部隊と全民抗争武装組織だけでした。日本帝国主義の文書にも、ソ連の沿海州地方と朝鮮の国境一帯に朝鮮人だけで編制された4個師団の兵力が上陸作戦と飛行落下の準備を整え、10万の朝鮮人部隊が関東軍との決戦の準備を整えていたという事実と、国内の愛国的青年が徴兵・徴用を忌避した青年たちで武装部隊を組織し、白頭山と太白山脈をはじめ深い山林地帯に基地をおいて準備を整え、我々が進撃するとき合流する計画であったという事実が記されているそうです。ソ連の出版物にも、ソ連軍が羅津に上陸するとき、羅津市は数百名の朝鮮人民革命軍部隊がすでに解放してソ連軍を迎えたということが明らかにされています。これらの資料と、このたび新たに発掘された革命遺跡・遺物は、祖国解放の歴史的偉業が達成されつつあった時期、我々の主体的力量が強力であったことと、この時期の朝鮮人民革命軍部隊の基本的活動拠点が白頭山を中心とする北部朝鮮一帯の秘密根拠地であり、指導の中心拠点が白頭山一帯の密営地であったことを明白に示しています。

 白頭山密営を中心として北部朝鮮一帯に設けられた秘密根拠地は、朝鮮革命の主体的立場を固守し、主体的革命力量を強化し、日本帝国主義の狂気じみた策動によって朝鮮革命が試練をへていた時期、朝鮮革命の一大高揚のための主動的で積極的な措置を講じるうえで大きな役割を果たしました。

 白頭山密営を中心とする革命戦跡地を立派に整備することは、党員と勤労者をわが党の革命伝統で武装させ、チュチェの革命偉業を代を継いで継承、完成させていくうえで極めて大きな意義をもちます。したがって、このたび新たに発掘された革命史跡資料にもとづき、白頭山革命戦跡地を革命伝統教育の立派な場に、大露天革命博物館に整えなければなりません。

 模型に示されているとおり、白頭山革命戦跡地を小白水谷地区を中心に、獅子峰地区、間白山地区、熊山地区、小姻脂峰地区、仙五山地区、無頭峰地区、鴨緑江沿岸地区、大角峰地区、双頭峰地区など10余個の区域に幅広く整えれば、白頭山地区は文字通り大露天革命博物館になるでしょう。

 白頭山革命戦跡地は、革命遺跡・遺物が発掘されたすべての地区をいっぺんに整備しようとせず、踏査参観条件の具備程度に合わせて整備すべきです。小白水谷地区、獅子峰地区、間白山地区、熊山地区、小?脂峰地区は、白頭山革命戦跡地のうちでも重点をおいて整備すべき対象です。

 小白水谷地区は、革命の司令部が位置していた所であり、金正日同志の生家があるのですから、立派に整えるべきです。革命の司令部が位置していた所であり、金正日同志の生家がある小白水谷地区は、閑静で荘厳な雰囲気がかもされるように整えるべきです。そうしてこそ、ここを訪ねる人たちが厳かな感情にひたり、自然に頭を下げるようになります。

 小白水谷地区には、革命事績館か陳列室のようなものを建て、白頭山地区で発掘された革命遺跡・遺物を展示し、訪ねる人たちに実感のこもった教育ができるようにすべきです。新たに発掘されたスローガンを記した樹木の文字は長い年月をへてはっきり見えませんが、科学院咸興分院革命史跡保存研究所の科学者たちが、そういうものまで再現させる科学技術的方法を考案したというのはよいことです。

 獅子峰地区には、出版所を復元すべきです。当時、出版所では小部隊の責任者や政治工作員、地下革命組織の責任者に各種の出版物を刷って普及しました。小?脂峰地区には兵器修理所、裁縫所、病院などの後方基地がありましたが、それらも復元するのがよいでしょう。

 仙五山と無頭峰、大角峰、双頭峰、鴨緑江沿岸地区の密営は、連絡所としての特性を生かして小さな記念碑や標識碑のようなものを立て、参観者のための公共サービス施設を設けるべきです。

 革命戦跡地には、記念碑や事績碑、頌詩碑のようなものばかり建立せず、参観者の教育と休息用の家も建てるべきです。そうすれば、参観者が参観の道すがら立ち寄って水を飲んだり、休んだりすることができます。

 革命戦跡地の周辺には、緑地やクロマメノキの畑や花壇などをきれいに造成し、珍しい実がなる木を植えるのがよいでしょう。

 革命戦跡地踏査道路も立派につくるべきです。

 小白水谷に位置する白頭山密営を中心に、三池淵、新茂成、大紅湍方面への白頭山の分かれ道、新設された鴨緑江沿岸道路、鯉明水方面への道路を連結して環状線道路を形成したのは理想的です。

 鯉明水──小白水間、三池淵──新茂成間には広軌鉄道を敷き、新茂成──白頭橋間の約20キロメートル区間にはモノレールを敷き、白頭橋と白頭山頂のあいだを上り下りするコースと、白頭山頂と天池のあいだを上り下りするコースに観光ロープウエーを設置する計画は、もう少し考えてみるべきです。

 白頭橋と白頭山頂のあいだを上り下りするコースと、白頭山頂と天池のあいだを上り下りするコースに観光ロープウエーを設置するか、エスカレーターを設置するかということは、専門家とさらに協議してみるべきです。これらのコースにエスカレーターを設置すると、利用されない冬季の管理が問題になりますが、それは大丈夫です。エスカレーターを利用しない冬季には油を塗り、シートで覆って保管し、5、6月から再整備して利用すればよいでしょう。

 鯉明水──小白水間、三池淵──新茂成間に広軌鉄道を敷くのは好ましくないようです。そこに広軌鉄道を敷くとなると、少なくとも両側100メートル区間の木を伐らなければならなくなりますが、そうなると周辺の景観をそこなうようになります。広軌鉄道を敷くからと、その一帯の山林を破壊するわけにはいきません。白頭山革命戦跡地は樹木が茂り、景色が美しくてこそ参観に好適で、教育的意義もあります。鯉明水──小白水間、三池淵──新茂成間の道路を立派につくり、革命戦跡地の参観者にバスが利用できるようにするのがよいでしょう。鯉明水──小白水間、三池淵──新茂成間には鉄道を敷かなくても、やがて北部鉄道第2段階工事が終われば、恵山──鯉明水──三池淵間に鉄道が敷設されるので、参観者の交通問題が解決されるはずです。恵山から鯉明水、三池淵をへて茂山方面への北部鉄道工事が提起されたときにも、私は山林が破壊されるのが惜しくて、鯉明水──三池淵間の広軌鉄道の敷設についていろいろと考えてみました。

 新茂成──白頭橋間にモノレールを敷設する案についても、さらに検討する必要があります。モノレールの敷設が他に比べて工費も多くかからず、鉄道が単線なので樹木もあまり伐り倒さなくてもすむなら敷設してみる必要があります。

 白頭山革命戦跡地を山火事から保護するために、間白山、小?脂峰、無頭峰地区の踏査道路を山火事阻止線に沿って新設することにしたのは結構なことです。革命戦跡地には山火事阻止線を合理的に設定すべきです。山火事阻止線を予定したとおり設ければ、今後、山火事からの白頭山密営地区の保護によいだけでなく、道路としても利用できるはずです。

 革命戦跡地の管理員用の住宅も立派に建設すべきです。

 小白水谷地区に革命戦跡地管理員の住宅を建設するにあたっては、ごみの処理対策をしっかり立てて、周辺の環境を汚染させないようにしなければなりません。以前、妙香山地区を形成するときにも、最初は国際親善展覧館の位置する谷間の上手に公共施設を建てるというので、それに反対しました。国際親善展覧館の位置する谷間の上手に公共施設を建てると、そこから出る汚物が谷間の流れを汚すので好ましくありません。それで食堂や商店などの公共施設は、国際親善展覧館と少年団野営所のある谷間の下手に建てさせ、その上手では探勝者が背のうを背負って探勝だけするようにさせました。小白水谷地区に建てる予定の管理員の住宅はごみの処理対策を十分に立て、周辺の環境を汚さないようにすべきです。

 新茂成村に革命戦跡地管理員の住宅を建てるのは、住民地区が革命戦跡地から遠く離れているので大丈夫だと思います。新茂成村を近代的に建設すれば、白頭山の周辺に三池淵邑と鯉明水、新茂成と三つの山間都市が形成されることになります。


<注釈> −スローガンを記した樹木 金日成同志が、組織、指導した抗日革命闘争の時期、朝鮮人民革命軍の隊員と革命組織のメンバーが祖国解放の念願をこめ、樹皮をはいでスローガンを記した樹木。白頭山密営の司令部テントの周辺をはじめ、全国各地で数多く発掘された。白頭山地区では、その大部分がうっそうとした密林に立ち枯れの木のままで、一部は倒木の形で発掘された。スローガンの一部を見ると「白頭山に将軍星が出た。白頭山の将軍星3千里を照らす」「白頭山に縮地の術をつかう将帥出現」「日本の手先、民族反逆者を処刑せよ。朝鮮民族は日本人と同祖同根でない。日本人にだまされるな」「2千万朝鮮同胞は総決起して抗日戦に参加しよう。土地のない朝鮮農民は総決起し、日本人に奪われた良田沃土を取りもどそう」「あ、朝鮮よ、白頭山に白頭光明星誕生」などがある。これは、抗日革命闘争の輝かしい歴史を実物によって生き生きと末永く伝える貴重な文献的意義のある財宝である。

 −東崗会議 金日成同志の指導のもとに、1936年5月1日から15日まで中国東北地方の撫松県東崗で開かれた朝鮮人民革命軍軍事・政治幹部会議。会議で金日成同志は「反日民族統一戦線運動をさらに拡大発展させて朝鮮革命全般を新たな高揚に導こう」と題する歴史的な報告をおこなった。金日成同志はこの報告で、革命情勢の要求を反映して祖国光復会を創立すると述べ、その意義を分析し、つづいて祖国光復会の性格と綱領の基本的内容を示した後、各階層大衆との活動をそつなくおこなう問題、革命組織の役割を強化し、非合法的活動を強化する基礎のうえで合法的活動の可能性を最大限に利用する問題など、祖国光復会運動を強化、発展させるための課題を示した。つづいて白頭山を中心とする国境一帯に新たな遊撃根拠地を創設すべきであるとし、白頭山地区秘密根拠地創設のための具体的な方途を明らかにした。そして、金日成同志がみずから作成した祖国光復会綱領と規約、創立宣言を発表した。また、会議では全朝鮮人民の一致した意思と念願をこめて金日成同志を祖国光復会の会長に推戴した。会議では祖国光復会機関誌『3・1月刊』の発行を決定。東崗会議は、南湖頭会議とともに抗日武装闘争を中心とする朝鮮革命全般を一大高揚へと導くうえで大きな意義をもつ会議であった。

 −楊靖宇(1905〜1940) 中国東北抗日連指導者の一人。1927年、中国共産党に入党。以後、中国共産党豫南持委書記を務め、1931年、日本帝国主義の満州占領以後、東北抗日連軍第1軍事長兼政治委員、中国共産党南満州省書記などを歴任。抗日遊撃戦をつづけ、1940年2月、吉林省濛濛江で戦死。

 −「恵山事件」 1937年と翌38年に、日本帝国主義者が恵山を中心とする朝鮮国内と中国東北地方の長白一帯で数多くの朝鮮の革命家と愛国的人民を逮捕、投獄したファッショ的弾圧事件。1930年代の後半期、金日成同志の指導のもとに朝鮮北部国境一帯で革命勢力が急速に成長するや、それに恐れをなした日本帝国主義は官憲とスパイを大々的に動員し、革命家と愛国者の捜索に狂奔した。1937年10月上旬、彼らは甲山郡雲興面の鉄道工事場で組織メンバーの一人を逮捕し、それを端緒に朝鮮共産主義者と愛国的人民に対する第1次検挙旋風を起こした。このとき権永璧、李悌淳をはじめ、国内の祖国光復会指導メンバーと数多くの会員が逮捕された。ついで第2次検挙(1938年5〜10月)のさいに朴達をはじめ、数多くの共産主義者と愛国的人民が逮捕された。日本帝国主義侵略者は、検挙した共産主義者と愛国的人民を拷問にかけて虐殺したあげく、1941年8月には「恵山事件」という名で「咸興地方法院」だけでも167名に「有罪」の判決を下し、多くの愛国者に死刑、無期懲役を宣告してソウル西大門刑務所に移送した。
出典:サイト「わが民族同士」 参照:『金日成著作集』41巻 

ページのトップ


inserted by FC2 system