金 日 成

コロンビア・朝鮮親善文化協会委員長一行との談話
−1979年5月4日− 
 
 私は、あなたがたのわが国訪問を熱烈に歓迎します。

 あなたがたは、非常によい季節にわが国へこられました。いま、朝鮮は花が満開の季節です。

 委員長先生にとっては8年ぶりの訪朝とのことですが、その間、平壌はたいへんかわりました。

 委員長先生は、その間、朝鮮はあらゆる分野で大きくかわったが、軍事境界線だけはかわっていないといわれましたが、ごもっともな話です。

 わが国でいまだに軍事境界線がなくならず、祖国統一の偉業が達成されないのは、アメリカ帝国主義者が南朝鮮を占領しているためです。彼らは、依然として南朝鮮から軍隊を撤退させようとしていません。

 アメリカ帝国主義者は、南朝鮮から自国の軍隊を撤退させないばかりか、世界を支配しようとする野望をすてていません。しかし、彼らの支配主義的策動は必ず阻止され、破綻の憂き目にあうでしょう。

 反帝・自主をめざす世界各国人民の闘争は、日を追ってますます強化されています。人びとは誰でも民族の独立と自主権を要求します。我々は、人間が人間を支配するのに反対するだけでなく、ある国が他の国を支配することにも反対します。

 現在、ラテンアメリカ諸国の人民は、反帝・自主をめざす闘争を力強く繰り広げていますが、それは非常に好ましいことです。

 我々は、ラテンアメリカ諸国の人民が、国の主人となって創造的エネルギーをあますところなく発揮し、幸せな生活を営む日が必ず訪れるものと確信しています。

 私は、コロンビアにあなたがたのようなすばらしい親友をもち、きょう、こうして会えたことをたいへんうれしく思っています。我々には、ラテンアメリカにあなたがたのような友人がたくさんいます。

 我々は、あなたがたが朝鮮人民の革命偉業に積極的な支持声援をよせていることをいつもありがたく思っています。

 いまわが国でおこなわれている第35回世界卓球選手権大会は、朝鮮の現実を世界に知らせる重要な契機になるだろうという委員長先生のお言葉ですが、私もそう思っています。

 我々は、わが国で開催される第35回世界卓球選手権大会に参加することを希望する国の人びとを全部招待しました。このたびの卓球選手権大会には、70余の国と地域から来た選手と代表が参加しました。

 アメリカからは、卓球選手と記者、観光客など全部で60名も来ましたが、このように多くのアメリカ人が公式にわが国へ来たのは今回がはじめてです。これまで、わが国に来たアメリカ人といえば、祖国解放戦争の時期に、我々の捕虜となった数万名の米軍兵士と、アメリカの武装情報収集艦プエブロ号がだ捕されたとき、それに乗っていた数十名のアメリカ人だけです。

 第35回世界卓球選手権大会に参加したアメリカ人は、朝鮮に対して正しい認識をもつようになったようです。彼らは、朝鮮に来た当初、ちょうど「捜索作戦」に参加する人のように行動しました。彼らは、あちこち歩きまわって、我々のあらを探しだそうとかなり骨をおったそうです。彼らが、わが国であらを探しだそうといくら骨をおったところで、アメリカのように靴みがきをする少年や失業者などは捜しだせないでしょう。朝鮮には、失業者や浮浪者もいなければ、靴みがきをする少年や酔っぱらいなどもいません。

 わが国には酔いどれがいないだけでなく、みたらな生活をする人もいません。アメリカ人は、わが国であらになるような材料を探しだせなかったばかりでなく、かえって朝鮮に対する正しい認識をもつようになったようです。アメリカの新聞には、朝鮮の商店には商品が結構あるが、まゆずみのような化粧品がないという記事が載ったそうです。これは事実上、わが国にはあらになるようなものかないということを物語っています。

 アメリカ人は、街を歩いている朝鮮の子どもや年寄りに、自分らにどういう感情をいだいているのか、と聞いてみたそうです。彼らがそういうことを聞くのは、アメリカ帝国主義者が朝鮮人に罪を犯しているからです。

 朝鮮人民はアメリカ帝国主義を憎悪する感情をいだいていますが、アメリカ人民とアメリカの反動層とを区別することができます。朝鮮人民は、このたび朝鮮に来たアメリカ人を差別せず、他の国ぐにの人と同じようにもてなしています。ですから、彼らは朝鮮人民に対して好感をもつほかありません。

 アメリカ人は朝鮮の現実をじかに見て、いろいろなことを感じています。彼らはこれまで、共和国北半部に対する悪宣伝ばかり聞かされてきたので、平壌は焼け野原となって見る影もなく、浮浪者が多いところだと思っていたそうです。

 先の祖国解放戦争のとき、アメリカ帝国主義者は平壌市だけでも、なんと40数万個の爆弾を投下しました。アメリカ帝国主義者は戦後に、朝鮮は100年たっても再起できないだろうといいました。しかし我々は、20余年の短期間に平壌を立派に復旧建設しました。アメリカ人は、全く予想外の変貌を遂げた平壌を直接見たのですから、どうして驚かずにいられましょうか。

 アメリカ人は、わが国で無料治療制が実施されており、すべての学生・生徒や幼児に衣服が無料で支給されていることについても、どうしてそういうことができるのかと感嘆しています。彼らには、我々の実施している人民的な施策がよく理解できないかもしれません。

 資本主義社会で暮らしていて、わが国にはじめて来た人には、不思議に思えることが多いようです。アメリカ人は、平壌に来た当初は、酔っぱらいや浮浪者がおらず、通りには行き交う人があまりいないので、疑問をいだいたそうです。わが国には、酔いどれや失業者、浮浪者がおらず、勤労者や学生・生徒はみな朝になると職場や学校に出かけるので、実際に真昼に街を出歩く人はあまりいません。彼らの疑問はメーデーの日になって解けました。メーデーは休日なので、公園や街を出歩く人が多かったのです。彼らは、その光景を見てはじめて、朝鮮人民がどれほど幸せに暮らしているかをよく理解できた、といったそうです。

 第35回世界卓球選手権大会に参加したアメリカ選手団のメンバーのなかには、アメリカの国籍をもった朝鮮人もいます。彼らも敵の悪宣伝ばかり聞かされてきたので、はじめは共和国北半部に対して誤った認識をもっていました。

 アメリカ卓球選手団の通訳としてわが国に来たある朝鮮人は、平壌に住んでいる自分の母と姉に会いました。彼は、平壌に到着するや否やわが国の関係者に自分の母と姉を捜してくれるよう頼みながらも、母と姉はすでにこの世にいないものと考えていたし、もし生きているとしても平壌ではなく地方に住んでいるものと思っていたそうです。ところが、その人の姉は、平壌の医科大学を卒業して医師をしており、その夫は大学の講座長をつとめていました。生死不明であった母と姉に30年ぶりに会ったのですから、どうして感激せずにいられましょうか。彼は母と姉に会ってからはホテルに泊らず、姉の家に行き、いまいっしょにいるとのことです。これは、特筆すべき事実です。このことは、わが国の新聞にも報道され、アメリカの新聞にも載りました。

 このたび、わが国に来たアメリカ国籍の朝鮮人は、共和国北半部の現実を日のあたりにして、朝鮮を地上の楽園というのはあまりにももの足りない表現なので「地上の天国」と表現してしかるべきだ、特別によい暮らしをしている人もいなければ貧しい人もおらず、誰もがひとしく幸せに暮らしている共和国北半部こそは自分たちの真の祖国である、といっています。

 第35回世界卓球選手権大会を契機に、わが国に来たのはアメリカ人だけでなく、他の資本主義諸国の人もたくさんいますが、そのような人たちが直接、朝鮮の現実に接するのは望ましいことです。資本主義諸国の人がわが国に来てみれば、朝鮮に対する正しい認識をもつことができます。

 革命闘争と建設事業において我々がおさめた業績の秘訣を知りたいという委員長先生のお言葉ですが、これについて簡単に話すことにしましょう。

 我々が革命と建設において大きな業績をおさめることができたのは、何よりも、党と人民大衆が一つの思想、意志でかたく団結した力があったからです。それはまた、わが党の路線と政策が正確で、わが党が人民大衆を正しく組織動員したからです。

 私は抗日革命闘争のとき、魚が水を離れては生きていけないように遊撃隊は人民を離れては生きていけないということを、常に強調しました。抗日革命闘争のとき、我々は人民大衆と団結する原則を堅持し、各階層大衆との活動に力を入れました。我々は当時、労働者、農民とかたく団結する一方、インテリや資産家、区長、面長との活動も活発におこないました。

 朝鮮人民は、朝鮮人民革命軍がいればこそ、祖国の解放を達成することができるということをよく知っていたので、誠心誠意、朝鮮人民革命軍を援助したのです。当時、日本帝国主義侵略者は、朝鮮人民革命軍を孤立させようと集団部落をつくり、封じ込め政策をとりました。彼らは、人民が朝鮮人民革命軍部隊に食糧を送れないように、厳しく統制しました。しかし日本帝国主義者は、人民が朝鮮人民革命軍部隊に食糧を送るのを防ぐことはできませんでした。人民は、ジャガイモ畑の茎だけ取り払い、収穫を終えたかのようにみせかけ、人民革命軍部隊には、どの畑に行けば収穫していないジャガイモがあるから掘っていくようにと知らせてくれました。また、トウモロコシの穀実を摘んであるところに集めておいては、それをもっていくようにと人民革命軍部隊に知らせてくれることもありました。

 我々は、祖国解放戦争のときにも、戦後の復興建設のときにも、常に人民大衆と団結する活動をすべての活動に最優先させました。

 党が人民大衆とかたく団結し、彼らを正しく組織動員してこそ、革命と建設で成果をおさめることができるのです。

 戦後、廃墟と化したわが国で、平壌をはじめ、多くの都市をいちはやく復旧建設することができなのも、老若男女をとわず、全人民が動員されたからです。現在、朝鮮にはおよそ1500の貯水池がありますが、それも農民が積極的に参加して建設したものです。以前、わが国には果樹園が多くありませんでした。我々は、1961年に党中央委員会常務委員会北青拡大会議を開き、全人民的運動で20万ヘクタールの果樹園を造成する課題を示しました。北青会議後、全人民が参加して果樹園造成の運動を力強く繰り広げたため、何年もたたないうちに、ほぼ20万ヘクタールの果樹園を造成することができました。

 一口にいって、我々が革命と建設において多大な業績をおさめることができた秘訣は、党が人民大衆とかたく団結し、人民大衆を正しく組織動員したことにあります。朝鮮のことわざに“一人では将軍になれない”というのかありますが、人民大衆を組織動員せずに一人では、何ごとにおいても成果をあげることはできません。

 わが国には毎年、世界各国の国家元首や代表団がたくさん来ますが、私はそのつど、わが党が人民大衆を組織動員するうえで得た経験を彼らに話してやります。

 我々は、朝鮮労働党が人民大衆を正しく導いていることに対し、高い誇りと自負をいだいています。

 アメリカ帝国主義者が、あえてわが国に手を出せないのも、党のまわりにかたく団結した人民と強力な党があるからです。アメリカ帝国主義者も、わが国の全人民が武装しており、全軍が幹部化され、全国土が要塞化されていることをよく知っています。アメリカ帝国主義者が共和国北半部に戦争をしかけるならば、朝鮮人民は団結した力で彼らと戦い、必ず勝利するでしょう。

 アメリカ帝国主義者がわが国で戦争をするには、傭兵をかりださねばなりませんが、傭兵というのは金をめあてに戦場に出てくる人間なので、戦争で勝利することはできません。

 我々には、いかなる侵略者も撃退して祖国を死守する覚悟ができている人民がおり、人民大衆を勝利の道に導く強力な党があるので、アメリカ帝国主義者はあえて共和国北半部に対し戦争をしかけることができないのであり、万一彼らが戦争をしかけるなら、敗北するのは必定です。

 委員長先生は、ラテンアメリカ諸国においても革命と建設を主体的に進めるべきだといわれましたが、ごもっともな話です。

 すべての国と民族は、革命と建設を自国の実情に即して、自国のやり方で進めなければなりません。それは、おのおのの国と民族がすべて固有な特性をもっているためです。

 おのおのの国と民族は、自己の長所をすててはならず、他国の経験を受け入れる場合も自国の実情に即して受け入れなければなりません。おのおのの国が自国の方式で生きていってこそ、自主性を堅持し、経済を早く発展させることができるのです。

 我々は、革命闘争と建設事業で提起されるすべての問題を、わが国の実情にあわせて我々の方式で解決しています。

 我々の経験によれば、他国のものをうのみにしてはいけません。他国の経験をうのみにすると消化不良になります。

 朝鮮人は、朝鮮人の好む朝鮮舞踊を踊らなければなりません。朝鮮舞踊は朝鮮の拍子にあわせて踊るべきであって、他の国の拍子にあわせて踊ってはだめです。朝鮮舞踊を他の国の拍子にあわせて踊ったのでは、しっくりいかないばかりか、踊りの調子と拍子があうはずもありません。

 洋裁師が、衣服の裁断をする場合にしても事情は同じです。洋裁師が朝鮮人の体にあう衣服を裁断するには、まず朝鮮人の体格を研究しなければなりません。もし、洋裁師が朝鮮人の体格を研究せず、外国の衣装の見本に真似て衣服を裁断するなら、そういう衣服は朝鮮人にあうはずがありません。どのようなことにおいても、自己の定見がなく他人のするとおりにするなら、よい結果は期待できず、結局はことを台無しにしてしまいます。

 私は機会あるごとに、人が事大主義に陥れば愚か者になり、民族が事大主義に陥れば国が滅びる、何ごとも、わが国の実情に即して、我々の方式でおこなうべきだと強調しています。

 我々は、他の国の立派な経験や技術も、わが国の実情にあわないものは導入しません。

 停戦直後、平壌市を復旧建設するさい、私は平壌市復旧委員会委員長の職務を兼任していました。

 我々が戦後、廃墟のなかから復旧建設をおこなうさい、留学帰りの人がたくさんいました。彼らのうちには、設計士や機械技術者をはじめ、各部門の技術者がいました。ところが彼らは、外国で学んだことをそのままわが国に適用しようとしました。

 いつか、平壌市のある建設現場を見てまわったときのことです。そこでは労働者が、送水管のみぞを5〜6メートルも掘っていました。それで私が労働者に、送水管のみぞをどうしてそんなに深く掘るのかと尋ねると、彼らは、技師長からそうするよう指示されたというのでした。その技師長は、外国に留学した人なので、送水管のみぞは他の国でのように5〜6メートルに深く掘らねばならないものと思っていたのです。私は技師長に、その国では土地の凍結深度が5〜6メートルになるが、わが国では0.8〜1.5メートルしかならないのに、どうしてみぞをそんなに深く掘って仕事の手間をかけるのか、みぞを一つ掘るにしてもわが国の実情に即して掘らねばならない、とたしなめました。

 我々は、技術も経済もみな、わが国の実情にあうように、我々の方式で発展させています。

 我々は、文学・芸術も我々の方式で発展させています。解放後、わが国の文学・芸術部門の活動家のあいだには、二つの傾向があらわれました。その一つは、外国の歌劇や舞踊、歌であってこそ有名だといって、それをあたまから受け入れようとする教条主義的傾向でした。外国の有名な歌劇だとか舞踊や歌などは、芸術を専業とする人には理解できても、人民にはよく理解できず、またそうしたものを好みもしません。もう一つの傾向は、民族の古典をそのまま生かすべきだという復古主義的傾向でした。文学・芸術部門で民族古典をそのまま生かしてもいけません。青年は、1000年前、1500年前の文学・芸術を好みません。もちろん、民族古典もよいものは生かすべきです。しかし、民族古典を生かすからといって復古主義に走ってはなりません。

 我々は、文学・芸術部門で教条主義的傾向と復古主義的傾向のいずれにも反対する一方、文学・芸術を現代的美感に即して発展させるようにしました。現代的美感とは、こんにちの朝鮮人民の感情にあうことを意味します。我々は、文学・芸術を民族的形式に社会主義的内容をもりこんだものに発展させました。

 我々は、工業もわが国の実情に即して、我々のやり方で発展させています。

 以前、わが国の一部の学者は、わが国の経済を早く発展させるためには、外国のように石油化学工場や原油発電所を建設する方向に進むべきだと提起しました。私はそのとき、彼らの提案を受け入れませんでした。私は彼らに、まだ原油が産出されていないわが国の現状下で石油化学工場や原油発電所を建設すれば、原料を外国に依存せざるをえなくなる、これは危険なことだ。我々はわが国に豊富な資源を利用して化学工業を発展させるべきであり、水力と石炭を利用する水力発電所と火力発電所を建設すべきだ、といいました。

 いま世界的に燃料危機に見舞われていますが、我々はその影響をうけていません。わが国に石油化学工場と原油発電所を建設しようと提起した学者たちは、世界中が燃料危機に見舞われている現状を見て、我々のとった措置が全く正しかったことを悟りました。

 我々は、久しい前から火力発電所と水力発電所を建設してきたので、この方面の技術者をたくさんもっています。

 わが国では、ビナロン工業が有名です。我々は現在、わが国に豊富な石灰石と無煙炭で立派なビナロンを生産しています。

 我々は農業も、わが国の実情に即して、我々のやり方で発展させています。

 外国では、農村において水利化よりも機械化を先におこないました。我々の一部の幹部も、わが国で農業の機械化を先に進めるべきだ、と主張しました。しかし我々は、機械化よりも水利化を先におこなうことにしました。現在、寒冷前線の影響で多くの国が農業に失敗していますが、わが国では水利化をおこなったため、寒冷前線の影響にうちかち、農業生産を順調に発展させています。我々はいま、水利化の成果を強固にする一方、農業の機械化を積極的におし進めています。

 我々は、革命と建設を我々の方式で進めるからといって、他国の進んだ経験や技術を研究しないとか、それを導入しないというのではありません。我々は他国のものを研究し、他国の進んだ経験や技術をわが国の実情に即して受け入れます。

 我々は、革命と建設において主体性を確立し、すべてのことをわが国の実情に即して、我々の方式でおこなってきたので、強固な自立的民族経済をもつ自主的な社会主義国家を建設することができたのです。我々は、政治的にも経済的にも誰の支配もうけておらず、自主性を堅持しています。

 私は、あなたがたがラテンアメリカに自主的で進歩的な国家を建設する闘争で新たな成果をおさめるよう願っています。

 今後、ふたたびわが国を訪問してください。我々はいつでも、あなたがたを熱烈に歓迎するでしょう。
出典:『金日成著作集』34巻 

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