金 日 成

我が国における農村問題解決の経験について
国家・経済機関の幹部との談話
−1978年7月28日−

1 土地改革について
2 農業協同化について
3 農村における思想革命、技術革命、文化革命について
4 社会主義農村建設における郡の位置と役割について


 私はきょう、みなさんに我が党が農村問題の解決をめざすたたかいで得た経験について述べようと思います。

 農村問題とは、一言でいって農民問題と農業問題を意味します。農民問題は、農民をあらゆる搾取と従属から永久に解放し、さらにはかれらを労働者階級化する問題であり、農業問題は、農業生産力を古い生産関係の束縛から完全に解放し、農業を工業化する問題であります。

 農村問題の正しい解決は、革命と建設における最も重要な課題の一つです。農村問題は特に、農民が人口の圧倒的多数をしめ、農業生産が民族経済の基本をなしている国においていっそう重要な問題として提起されます。

 我が党は、革命と建設を導く全期間にわたって、農村問題に深い関心を払ってきました。我々は、革命発展の各段階に農村問題解決の正しい路線と方針を示して、それを貫徹し、農民問題、農業問題を立派に解決し、その過程で多くの貴い経験を得ました。

 革命と建設における我が党の経験を掘りさげて研究し学習することは、幹部の政治的・実務的資質の向上にとって大きな意義をもちます。幹部は、これまでの我が党の農村問題解決における貴い経験を深く学習して、チュチェの革命理論で武装し、政治・実務水準をさらに高めなければなりません。


 1 土地改革について

 反帝反封建民主主義革命段階における農村問題解決の基本課題は、土地問題を解決することです。

 土地問題が解決されれば、農村における封建的土地所有関係を一掃して、農民を地主の搾取と抑圧から解放し、農業生産力を急速に発展させることができます。土地問題を解決することなしには、農村における反動勢力の経済的基盤をなくし、社会の民主的発展を保障することができません。

 解放後、我が党と人民政権には、土地問題の解決が最も切実な革命課題として提起されました。

 過去の我が国は立ち後れた植民地半封建社会で、農民が人口のおよそ80%をしめていました。解放後も、農村には封建的土地所有関係と小作制度が存続し、日本帝国主義者と結託して農民を過酷に略奪した地主が、依然として多くの土地を所有し、農民を搾取していました。解放直後、北半部の総農家の4%にしかならない地主が耕地総面積の58.2%をしめ、農家の56.7%におよぶ貧農は、耕地面積のわずか5.4%しかもっていませんでした。このような状況にあって、土地改革をおこなって土地問題を解決しないことには、農民を地主の搾取と従属から解放し、新しい祖国の建設に奮起させることは不可能でした。

 また土地改革を実施することなしには、立ち後れた農業をすみやかに発展させ、全般的な民族経済の発展を力強く促進することができませんでした。特に国が分断され、アメリカ帝国主義者が南半部を占領している状況下で、地主階級を一掃せずにそのまま存続させたのでは、反動分子がそれを足場にして民主的自主独立国家の建設を妨害するおそれがありました。

 したがって我が党は、解放後、反帝反封建民主主義革命の遂行において土地改革を第一義的な課題として示し、その遂行のため積極的にたたかいました。

 土地改革を成功裏に実施するためには、なによりもまず、その準備を綿密におこない、前提条件を十分にととのえることが大切でした。

 土地改革は、幾世紀にもわたって農村を支配してきた封建的搾取関係と地主階級を一掃する深刻な社会的・経済的変革であるだけに、鋭い階級闘争をともないます。したがって、十分な準備のない、主観的欲求だけでは土地改革を成功裏におこなうことができません。

 我が党はまず、階級敵の反抗を鎮圧し、革命の獲得物を守れるように人民政権をかため、その独裁機能の強化に大きな力をそそぎました。地主と反動層がある程度の勢力をもっている状況のもとで、土地改革法令の発布だけでは地主の土地を没収することも、反抗者を鎮圧することも不可能でした。それゆえ、我々は、地主をはじめとする反動勢力の反抗を抑えることのできる革命武力と保安機関、司法・検察機関などの独裁機関をかためることに第一義的な力をそそぎました。

 土地改革を順調におこなうためにはまた、雇農、貧農をはじめ、広範な農民大衆を政治的にめざめさせ、組織的に結集して地主との闘争に積極的に参加させることが重要でした。

 土地改革に死活的な利害関係をもっているのは、雇農、貧農をはじめとする農民大衆です。土地改革は、農民を封建的搾取と従属から解放するための革命であり、農民が直接担当して遂行すべき農民自身の仕事です。したがって、農民大衆を積極的に参加させなくては、地主階級との闘争で勝利をおさめることも、封建的土地所有制を廃止することも不可能です。

 ところが解放直後、農民の政治的準備程度はそれほど高くありませんでした。長いあいだの日本帝国主義のひどい植民地支配と愚民政策の結果、多くの農民は階級的立場を自覚せず、地主を打倒して土地を収奪しようとする革命的決意に欠けていました。農民のなかには、地主に過酷に搾取され飢餓と貧困に苦しむ境遇を宿命だとあきらめる人も少なくありませんでした。かれらはまた、組織的な教育や鍛練もへていませんでした。

 我が党は解放後、すべての農村に農民組合を組織して農民をそれに結集し、組織をつうじてかれらを革命的に教育し鍛えるようにしました。

 我々は、農民の階級意識を高める思想教育活動を強化するとともに、地主に反対する実際の闘争をつうじて農民を階級的に自覚させ、鍛練しました。

 3・7制実施のための闘争は、農民をめざめさせ、鍛練するのに大きな働きをしました。我が党は、小作料の引き下げを望む農民の要求をいれて、1945年10月に、収穫の30%だけを地主に小作料としておさめ、残りの70%は小作人が所有し、従来小作人が払っていた土地関係の税金は地主に負担させる決定を採択しました。

 3・7制実施にかんする我が党の決定が発表されると、農民はそれを積極的に支持歓迎し、その実現をめざすたたかいに大衆的に決起しました。農民が3・7制を要求すると、最初、地主はそれを素直に受け入れようとしませんでした。一部の地方では、地主が狡猾な手口で自覚の足りない農民をだましたり、おどかしたりして、従来どおりの小作料をとりたてようとしました。我が党は、農民を決起させ、全国各地で大衆集会を開いて地主の搾取行為を暴露し、3・7制の実施にかんする決議を採択するようにしました。

 当時、平安(ピョンアン)南道の一部の郡では、農民が弾劾集会を開いて地主の悪らつな行為を暴露したばかりでなく、一部の地主が従来の比率でとりあげた小作料を集団的に奪還するたたかいを展開しました。農民の大衆的闘争と高まった気勢におされて地主は、3・7制を受け入れざるをえませんでした。

 3・7制実施の闘争は、解放後、農民が地主階級に反対しておこなった最初のたたかいであり、その過程で多くの農民が階級的にめざめはじめました。農民は地主の悪らつさと狡猾さを明白に知るようになり、地主の搾取と従属からぬけだすためには、団結した力で地主に抗してたたかわなければならず、たたかえば勝利するという確信をもつようになりました。

 我々は、3・7制実施闘争をつうじて高まった農民の革命的気勢を、地主の土地を没収する闘争にひきつづき発展させました。

 3・7制実施闘争で勝利をおさめ、意気高揚した農民は、全国各地で大衆集会を開き、土地改革を要求しました。大衆集会では、春耕期以前に地主の土地を没収して耕作する農民に分与することを求める手紙と決議文、請願書を採択し、それを党中央組織委員会と北朝鮮臨時人民委員会に送ってきました。土地改革を要求する農民の請願運動はこれにとどまりませんでした。1946年2月末には、北朝鮮各地の農民代表300余名が土地を要求する農民の意思を伝えるため、北朝鮮臨時人民委員会を訪ね、3.1運動記念日には、北半部各地で200余万の農民が、「土地は耕作する農民に!」というスローガンをかかげて大衆的なデモをおこないました。こうして、土地改革は完全に機の熟した課題として提起されました。

 土地改革の前提条件が十分にととのい、土地改革が機の熟した要求となったとき、我々は土地改革法令を発布しました。

 我が党は、土地改革の実施において「土地は耕作する農民に!」というスローガンのもとに、農民を土地の主人にすることを土地改革の基本原則にしました。

 もともと土地をはじめ、すべての農業生産手段は、農民の血と汗によってつくられたものです。したがって、耕作する農民が土地の主人となるのは当然のことです。土地を耕作する農民の所有とする原則にもとづいて土地改革をおこなってこそ、土地問題を正しく解決し、勤労農民を封建的搾取と抑圧から解放することができます。

 我が党は、耕作する農民を土地の真の主人にするため無償没収、無償分配の原則にもとづいて土地改革をおこない、没収した土地は国有にせず、農民の個人所有にする方針を示しました。

 土地改革の準備段階で、一部の人たちは土地を有償没収、有償分配しようと主張し、また他の人たちは、没収した土地をすべて国有化しようと主張しました。しかし、それは、いずれも我が国の実情にうとい人たちの主観的な意見でした。

 土地を有償で没収して有償で分配するならば、地主はその代金で富農または資本家にかわって農民や労働者を搾取しつづけるであろうし、農民は土地代金に縛られて再び富農や高利貸業者の搾取の対象となったでしょう。こうなれば、土地改革のかいがなく、封建的搾取関係を資本主義的搾取関係におきかえる結果をもたらすおそれがありました。したがって我々は、徹底した無償没収、無償分配の原則にもとづいて土地改革を実施しました。

 地主から没収した土地を国有化するか、農民の個人所有にするかは、土地改革において極めて重要な問題でした。当時、さきに革命をおこなった国の経験をみると、地主の土地を収奪して国有化していました。

 しかし、我々はそのようにはできませんでした。封建的土地所有制が長いあいだ存続してきた我が国では、土地にたいする所有観念が極めて強く、農民は土地をもたなかったがゆえに地主の過酷な搾取にさいなまれ、悲惨な生活をしてきました。それゆえ、自分の土地を耕してみたいというのが農民の一生の願いでした。

 農民のこうした宿望を無視して没収した土地を国有化するならば、農民の革命的熱意を高めることも、土地改革の成果を保障することもできなかったでしょう。それで我が党は、地主の土地を没収して国有化したのではなく、農民の個人所有にしたのです。これは、農民を大いに喜ばせ、かれらの革命的熱意と積極性を呼び起こす大きなはたらきをしました。

 土地改革の実施における最も重要な問題は、土地没収対象と基本闘争対象を正確に規定することでした。これをあやまれば、封建的搾取関係を一掃できない結果をもたらし、また敵対勢力を増やして土地改革の遂行に難関をつくりだすおそれもありました。

 我が党は土地没収対象の規定にあたって、土地をみずから耕しているか、他人に小作に出しているかを基準にしました。みずから耕さず他人に小作に出している土地は、面積の大小にかかわりなくすべて没収するようにしました。こうして、農村における封建的搾取関係と小作制度を完全に廃止し、最も徹底した土地改革を遂行することができたのです。

 かつて、我が国で土地を多く所有し、農民を過酷に搾取したのは日本帝国主義者と親日派、民族反逆者、地主でした。祖国の解放とともに日本帝国主義者は追い出され、その手先の親日派、民族反逆者は、南朝鮮に逃走するか、人民によって粛清されました。その結果、多くの土地を所有し、農民の膏血をしぼっていた者のうちで残ったのは、地主だけでした。したがって、土地改革で清算すべき基本闘争対象は地主でした。

 ところが、清算すべき地主をどのように規定するかは、戦略的、戦術的に極めて重要な問題となりました。

 当時、我が国農村の土地所有関係は非常に複雑でした。わずかばかりの自分の土地を小作に出し、そのかわり他人の土地を借りて小作をおこなう人もいれば、自分の土地を耕しながら、その一部を小作に出している人もいました。また、5ヘクタール以上の比較的多くの土地をもっていた人のうちには、全部を小作に出して遊んで暮らす地主もいれば、一部の土地を小作に出し、大部分の土地はみずからも耕しながら雇農を採用して耕す富農もいました。それに、5ヘクタール以上の土地を全部みずから耕している富裕な中農もいました。このような実態にてらして、土地を小作に出しているとか、多くもっているということで一律に地主と規定することはできませんでした。土地所有関係を具体的に考慮せず、少しの土地でも小作に出した人や土地を多くもっている人を一律に地主と規定し、闘争対象にするならば、土地改革で獲得すべき対象と孤立させるべき対象をともに基本闘争対象にし、階級闘争を困難かつ複雑にするおそれがありました。

 こうした問題を正しく解決するため、我々は土地改革に先だち一か月以上も農村に出むいて、農民と寝食をともにしながら農村の実態を具体的に調べました。土地改革にあたって誰を清算し、誰を孤立させ、誰と手を結ぶべきかを最もよく知っているのは、直接搾取され抑圧されてきた農民でした。

 我々は、農村の土地所有関係と搾取関係をいろいろな面から調査、分析したうえで、5ヘクタール以上の土地をもち、それを小作に出して働かずに暮らしたものを地主と規定し、その所有地と役牛、農機具、住宅、潅漑施設などの全財産を没収することにしました。

 5ヘクタール以上の土地所有者であっても、一部をみずから耕し、一部を小作に出していた場合は、小作に出した土地だけを没収し、また5ヘクタール以上の土地を全部自力で耕す人のものは、いっさい没収しないことにしました。

 例えば、8ヘクタールの土地所有者が、4ヘクタールをみずから耕し、4ヘクタールを他人に小作に出していたとすれば、小作に出した4ヘクタールだけを没収し、4ヘクタールは従来どおり所有できるようにしました。しかし、7ヘクタールの土地所有者が、自分は全く働かず、4ヘクタールを小作に出し、3ヘクタールを雇農を採用して耕していた場合は、7ヘクタール全部を没収するようにしました。

 土地改革当時、5ヘクタール以上の土地を小作に出して遊んで暮らした地主は4万4千戸で、反面、土地を全くもたないか、少ししかもたない農民は72万戸を越えました。したがって、5ヘクタール以上の土地を小作に出していた者を地主と規定し、清算するという我が党の方針は、4万4千戸の地主を清算して72万余戸の農民を封建的搾取と従属から解放する最も人民的な方針であり、反革命勢力にたいする革命勢力の決定的優位を保障し、ごく少数の地主勢力に反対する闘争に攻撃を集中できるようにした、最も革命的な方針でした。

 我が党は、敵対勢力を分散、弱体化させ、土地改革をスムーズにおこなうため、もろもろの戦術的措置を講じ、正しい階級政策を実施しました。

 我々は地主を清算する闘争において、都市に住んでいる不在地主にたいしては土地だけを没収し、その他の財産には手をつけませんでした。当時、4万4千戸の地主のうち、およそ20%は都市に住みながら農村に土地を持つ不在地主でした。かれらは、都市で主として商工業を経営しながら小作に出した土地から小作料をとっていたので、農村には地盤も、大きな影響力ももっていませんでした。我々はこうした実情を考慮して、都市在住の地主からは土地だけを没収しました。我が党のこうした方針によって、不在地主は農村の何ヘクタールかの土地は奪われても、都市に持っている商店や工場などを没収されなかったことを幸いと思い、農村地主のように大きな抵抗は試みませんでした。

 我が党は清算する農村地主にも、生活の道を開いてやりました。反抗せず土地の没収に従順に従う地主は他の地方に移住させ、みずから農業を営めるようにしました。地主を移住させたのは、地主の勢力を分散、弱体化させるだけでなく、立ち後れた一部の農民が地主に同情をよせたり、その悪い影響を受けることのないようにするためにも必要なことでした。もちろん、地主を他の地方に移住させたのちも、悪巧みができないように厳しく取り締まるようにしました。

 我々は、土地改革をおこなう過程で地主と反動分子の破壊策動を防ぐため、土地改革法令とともに、「土地改革の実施にかんする臨時措置法」を制定し公布しました。

 土地改革法令が発布されれば、清算される地主とそれと結託した反動分子、悪徳商人が土地改革を破綻させるためにいろいろと策動するおそれがありました。こうした策動を防止するため、土地改革法令の発布と同時に、役牛、馬、農機具、住宅、倉庫などを売却または破壊する地主は人民の敵として厳しい制裁を加え、地主からそれらを買い入れる悪徳商人も法律で罰するようにしました。そして、地方政権機関と農村委員会が、地主の役牛や馬、農機具、住宅、種子、潅漑施設などいっさいの財産を登録したのち、保管証明をとって地主に臨時保管の責任を負わせました。こうした厳しい措置を講ずることによって、農民の血と汗による多くの財産を地主と反動分子の破壊策動から保護し、土地改革を成功裏におこなうことができました。

 土地改革のさい、富農は闘争対象と規定しませんでした。富農が雇農、貧農を搾取するという点では地主とかわらない搾取階級ですが、反帝反封建民主主義革命の段階では闘争対象になりませんでした。ところが我が国の富農のうちには、雇農を採用して農業を営む一方、一部の土地を小作に出していた人が少なくありませんでした。土地改革のとき、富農の土地のうち小作に出していたものはみな没収したので、富農も土地改革によってある程度の打撃をうけました。したがってかれらにも、土地改革に反対する要素はありました。しかし、我が党は富農が小作に出さずにみずから耕していた土地の所有を認めることによって、富農が土地改革にまっこうから反対しないようにし、また地主の側につかないよう孤立させる政策をとりました。

 中農は、土地改革によって少しも利益を侵されることがなかったので、それに悪意をいだく条件はありませんでした。地主に抑圧され没落の脅威にさらされていた中農はかえって、地主の土地を没収して雇農や貧農に分与し、封建的搾取制度を廃止することを支持しました。したがって中農は、土地改革で我々が手を結ぶべき同盟者でした。

 我が党は、土地改革に最も切実な利害をもっている雇農と貧農にしっかりと依拠し、中農と同盟を結び、富農を孤立させる階級政策を実施して、地主を清算するたたかいを成功裏に遂行することができました。

 次に土地改革で重要な問題は、没収した土地を正しく分配することでした。

 我々は地主から没収した土地を、雇農と、土地をもたないか少ししかもっていない農民に分配するよう規定し、過去に土地がなくて虐待、蔑視され貧困にさいなまれてきた雇農と小作農に、かれらの耕作していた土地のうち、最も肥沃な土地を分与するようにしました。

 また、土地は家族数と人手の数にしたがって均等に分配するようにしました。土地を均等に分配するため、分配をうける農民の家族数と人手の教にしたがって点数を計算し、その点数にもとづいて土地面積を割り当てるようにしました。土地の点数は、18〜60歳の男子と18〜50歳の女子はそれぞれ1点、15〜17歳の青年は0.7点、10〜14歳の子供は0.4点、9歳以下の子供は0.1点、61歳以上の男子と51歳以上の女子はそれぞれ0.3点とし、これを基礎にして各農家の家族数と人手数による点数を計算して土地を分与するようにしました。

 土地の分配にあたっては、土地の肥沃度も考慮に入れるようにしました。こうして、土地の不公平な分配がおこなわれないまうにしました。家族数と人手の数に応じて土地を均等に分配したのは、農民の生活をひとしく向上させるうえで重要な意義をもちました。

 我が党は分配した土地の所有権を農民に与えましたが、その土地を売却、抵当または小作に出すことを禁じ、本人が耕作しない場合はそれを国に返還させるようにしました。こうして、土地が再び個人に集中したり、搾取の手段として利用されることのないようにしました。

 我が党は土地改革をおこなうにあたって、農民が主動的役割を果たすようにしました。

 農村で土地問題の解決に最も切実な利害をもっているのは雇農と貧農であり、かれらは土地の所有関係をはじめ、農村の実情を誰よりもよく知っていました。したがって、かれらが主動的役割を果たすことによって、地主との闘争を成功裏に進め、土地改革とかかわりのあるすべての問題を正しく処理することができました。

 我々は、土地改革において農民自身が主動的役割を果たすようにするため雇農、貧農からなる農村委員会を組織し、この委員会が土地改革の直接的な執行者となるようにしました。

 土地改革法令が発布されるや、各地の農村で農民大会が開かれ、農村委員会が組織されましたが、その数はじつに1万1500余に及びました。農村委員会は土地改革を直接担当し遂行する執行機関として、土地没収対象と清算対象を規定し、没収した土地を農民に分与する活動をはじめ、土地改革法令の執行において提起されるいっさいの問題を担当し処理しました。こうして、土地改革を徹底的に農民大衆の利益に即しておこない、その過程をつうじて多くの農村中核分子が育成されました。

 我が党は土地改革を順調におこなうため、労働者階級をはじめ、全人民を動員して農民のたたかいを積極的に支援しました。特に、労働者からなる土地改革支援隊を農村に派遣し、農民のたたかいを積極的に援助させました。当時、興南(フンナム)肥料工場、平壌の寺洞(サドン)炭鉱をはじめ、全国の多くの工場、鉱山、炭鉱、鉄道の優秀な労働者が多数選抜されて農村に派遣されました。かれらは農民のなかにはいって、土地改革の意義とその遂行方途を広く知らせ、農村委員会の活動を積極的に援助しました。特に労働者は、保安機関と農村に組織された自衛隊と協力して、土地改革に反抗する地主や反動分子の陰謀を暴露粉砕する闘争を積極的に展開しました。労働者階級の支援は、地主とのたたかいに決起した農民を大いに励まし、労働者と農民の階級的同盟をいちだんと強めました。

 我が党はまた、土地改革の実施にあたってすべての政党、大衆団体との統一戦線を強化し、土地改革の勝利をめざす闘争にかれらを動員するため積極的に努力しました。その結果、各政党、大衆団体に加入している各階層の広範な大衆が土地改革を支持し、その遂行を積極的に援助しました。これは、我が国における土地改革を1か月にもみたない短期間のうちに、成功裏に遂行できるようにした重要な要因の一つでした。

 我が党は土地改革の実施についで、その成果をかためる活動を進めました。地主の土地を没収して農民に分与することにとどまり、必要な仕事の手配をしないならば、土地改革の成果を強固にすることはできません。

 我々は土地改革の成果を強固にするため、党の農村基盤を強化する活動を積極的に進めました。土地改革がおこなわれたのち、くつがえされた一部の地主と反動分子は、土地改革の成果をきりくずそうとして各種のデマをふりまき、破壊・謀略策動を執拗にくりひろげました。こうした状況のもとで、農村基盤を階級的に強化しなくては、地主や反動分子の破壊・謀略策動を徹底的に粉砕し、土地改革の勝利を強固にすることができませんでした。

 我が党は、農村委員会の委員をはじめ、土地改革の過程で鍛えられ点検された雇農や貧農を大々的に入党させ、農村細胞を拡大しました。また、農村委員会を農民組合に統合し、農民組合の幹部陣容を農村の中核分子でかためました。農民の階級的自覚を高めるための思想教育にもいっそう力を入れました。これと同時に、保安機関と自衛隊を強化し、その役割を高めるようにしました。我が党のこうした措置によって、党の農村基盤はさらに強化されました。これは、農村であらゆる敵対分子の破壊策動を成功裏に粉砕し、土地改革の成果をかためる重要な保障となりました。

 国では土地改革の成果を強固にするため、農民が分与された土地で初年度の農業を立派に営めるよう積極的に援助しました。これは、土地改革の成果を物質的にはっきり示すための重要なたたかいでした。土地改革ののち、分与された土地を休耕させたり、収穫をおとすようなことがあっては、農民の生活は改善できず、土地改革のかいがなくなるおそれがありました。我々は「ひとうねの土地も残さずたがやそう!」というスローガンをかかげて、土地改革後の初年度の農業を立派に営むたたかいに農民を決起させました。

 当時、農民は、土地改革によって土地は分与されたが、役牛や農機具、種子などがなくて初年度の農作を自力で営むことが極めて困難な状態にありました。こうした機会に乗じて、清算された地主や反動分子は、土地を分与されたからといって喜ぶなとか、地主なしには農業は営めないなどと、さまざまなデマを流して農民を動揺させようと狡猾に策動しました。

 国家は、土地を分与された農民が、役牛や農機具、種子などを購入できるようにするため、農民銀行を設立し、農民に営農資金の長期貸し付けをおこないました。特に、役牛問題を解決するため、国の経済状態が困難を極めていたにもかかわらず、資金を支出し、山間部から数万頭の役牛を買い入れて平野部の農民に分け与えました。国家は、種子の問題を解決するため、土地改革のとき地主から没収したものを農民に分与すると同時に、中農を説得して、かれらの保有している種子を雇農や貧農に融通するようにしました。また、土地を分与された農民に化学肥料を供給し、その代金を秋に穀物で返済させる措置をとりました。

 これと同時に、多数の労働者、事務員、学生・生徒が、種まき協力隊、田植え協力隊を組織して農村に出むき、農民の仕事を積極的に援助するようにさせました。

 国家の積極的な援助により、土地改革後の初年度の農作業は、種まきからはじまって、すべての営農作業が適期に成功裏におこなわれました。

 我が党は土地改革の成果をかためるため、かつて、農民に課されていた供出制と土地税、所得税をはじめ、過重な雑税を廃止し、農業現物税制を実施しました。

 長い年月にわたって強制供出と高率の小作料のため、収穫の大部分を日本帝国主義者と地主に奪われてきた農民は、土地の無償分配をうけて喜びながらも、日本帝国主義支配下でのように収穫した穀物を国にとりあげられるのではないだろうかという一抹の不安が心の片隅から消えませんでした。収穫後に国がどんな政策をとるだろうかと農民が杞憂していたとき、農業現物税制実施にかんする法令を発布しました。

 農業現物税制によって、農民は収穫の25%だけ国家に納入し、残りの75%は自家所有できるようになりました。この法令が発布されると、農民は土地改革のときに劣らず喜び、農業現物税制を熱烈に歓迎しました。

 土地改革についで農業現物税制が実施されることによって、土地改革の成果はさらに強固なものとなりました。

 土地改革の順調を実施とその成果の強化によって、我が国の反帝反封建民主主義革命段階における土地問題は立派に解決されました。これは、朝鮮革命の発展と新しい社会の建設において大きな歴史的意義をもつ革命的変革でした。

 土地改革の実施は、我が国人口の絶対多数をしめる農民を封建的搾取と従属から解放し、その物質・文化生活を向上させる有利な条件をつくり、新しい社会の建設において農民大衆の革命的熱意と創造的積極性をかつてなく高めました。

 土地改革はまた、農業生産力を封建的束縛から解放して農業生産を急速に発展させる基礎をつくりました。土地改革は、農業を発展させて工業原料と住民の食糧を円滑に供給できるようにし、民族工業と全般的人民経済の復興発展を力強く促進しました。

 土地改革により、社会の進歩を阻んでいた封建的生産関係と、最も反動的な階級である地主階級が一掃された結果、我が国の農村はその姿を一新し、国の民主的発展を保障する有利な社会的・経済的条件がつくられました。



ページのトップ


inserted by FC2 system