金 日 成

アルジェリア民主人民共和国政府代表団との談話
-1974年3月2~3日-


 私は朝鮮労働党中央委員会と共和国政府と全朝鮮人民を代表して、我々の最も親しい友人であり同志であり兄弟である、フアリ・ブーメジエン議長閣下を団長とするアルジェリア民主人民共和国政府代表団の我が国訪問を熱烈に歓迎します。

 朝鮮人民は、あなたがたが我々の招請を快諾して我が国を訪問されたことをたいへんうれしく思っています。

 我々とあなたがたとは、久しい前から帝国主義に反対する共同戦線で、最も親しい同志的関係を結んでいます。これまで帝国主義に反対する共同闘争で互いに支持し緊密に協力しあってきた兄弟ときようこうして直接合えて、いっそううれしく思います。あなたがたとは初対面ですが、旧友に合ったような気持です。

 我々は、あなたがたが我々の招請をうけて1万キロもの遠路をいとわず、我が国を訪問されたことにたいし、改めて謝意を表するものです。

 あなたがたのこのたびの我が国訪問は、朝鮮とアルジェリア両国人民間の友好・団結の強化に寄与するのみでなく、全世界の平和愛好人民の共同闘争にも大いに寄与することでしょう。

 朝鮮に来てみるとすべてが目新しいということですが、朝鮮には朝鮮としての味わいがあります。東方で古い歴史と文化をもった国といえば朝鮮、中国、日本をあげることができます。歴史をたどってみれば、日本は朝鮮にくらべて遅く発展した国です。

 最近、日本で古墳が一つ発掘されて、多くの人の興味を引いています。その古墳は、我が国の高句麗(コグリヨ)時代の古墳と酷似しているそうです。それで、その古墳の現地調査と学術討論会には、我が国の学者や中国、南朝鮮の学者も参加しました。我が国の学者は、高句麗時代の古墳にかんする記録映画をはじめ、いろいろな資料を持って行きました。いまその古墳は、高句麗文化の影響を多分にうけたものとされています。

 アジアで最初にブルジョア革命を遂行した国は日本です。日本は19世紀中葉、「明治維新」をおこなって資本主義を受け入れました。日本がブルジョア革命を遂行しているとき、我が国と中国はそれを遂行できませんでした。もちろん当時、我が国にもブルジョア革命を試みた人たちはいました。しかし、かれらは封建支配層におさえられ、ブルジョア革命を遂行することができませんでした。

 朝鮮とアルジェリアは強大国の統制に反対し、自主性を固守する側面で多くの共通性をもっているというお言葉でしたが、ねばり強く自主性を固守するのは極めて重要なことです。我々は大国主義者の指揮と圧力を許さず、それと断固たたかっています。

 私は、議長閣下が新しい社会の建設をめざすアルジェリア人民の勇敢な闘争と、あなたがたの対内外政策について詳細に説明してくださったことに謝意を表します。

 朝鮮人民は、アルジェリア人民のかちとった勝利を自分のことのように喜んでいます。

 我々は議長閣下のお話をうかがって、あなたがたの実施している諸政策にたいする理解をさらに深めることができました。あなたがたの政策は、我々の政策と類似しているというより、ほとんど同じだといえます。

 私は、あなたがたが自主性を堅持していることは非常に大きな意義のあることであり、あなたがたの活動で達成された勝利の基本的要因もまさにそこにあると思います。

 私はこの機会をかりて、昨年アルジェリアでおこなわれた第4回非同盟諸国首脳会議で、議長閣下をはじめ、みなさんが我々を積極的に支持し、国連と国際舞台において祖国統一をめざす朝鮮人民の闘争に有利な環境をつくりだすため極力努力していることにたいし、深い謝意を表します。

 では、我が国の状況について簡単にお話したいと思います。

 我が党の総体的目標は我が国に自主独立国家を建設し、ひいては社会主義・共産主義社会を建設することであります。国が分断されている状況のもとでこの目標を全国的範囲で達成するためには、まず祖国の自主的平和統一を実現しなければなりません。

 我々は祖国の自主的平和統一を実現するため、3つの課題をうちだしています。

 それは第1に、共和国北半部の社会主義建設を促進して国の革命基地を政治的、経済的、文化的、軍事的にさらに強化することであり、第2に、南朝鮮人民を政治的、思想的に自覚させかたく結集して南朝鮮の革命勢力を強化することであり、第3に、社会主義諸国および第三世界諸国との国際的連帯を強めることであります。

 言いかえれば、第1に共和国北半部の革命力量を強化することであり、第2に南朝鮮の革命勢力を強化することであり、第3に国際革命勢力との団結を強化することであります。

 この3つの課題のうち最も重要なのは、共和国北半部を政治的、経済的、文化的、軍事的にさらに強化することです。共和国北半部は祖国統一の基本根拠地であります。それで私は、共和国北半部の革命力量を強化するうえで現在提起されているいくつかの問題についてお話したいと思います。

 共和国北半部の革命力量を強化するうえでなによりも重要なのは、我が党の指導思想であるチュチェ思想を社会生活のすべての分野に具現することです。

 我が党のチュチェ思想は、政治における自主、経済における自立、国防における自衛の原則に具現されています。政治における自主、経済における自立、国防における自衛の原則を具現しよう、というのが、我が党のスローガンです。我が党はチュチェ思想にもとづいて政治、経済、文化、軍事をはじめ、各部門の政策をうち立て、それを徹底的に実行しています。

 それでは、我々がどうしてチュチェ思想を、特に強調するのでしょうか。それは我が国の地理的環境、歴史発展の特殊性と関連しています。

 我が国は地理的にみると、大国にとりかこまれている小さな国です。李朝時代、我が国は大国のいけにえとなり、大国は我が国をぎゅうじって意のままにしました。李朝末期に封建支配層のあいだには三大事大主義、すなわち親清、親露、親日の思想が濃厚でした。我が国が長いあいだ大国の影響下にあったため、人民のあいだにも事大主義思想が生まれました。解放後、南朝鮮の人たちのあいだには親米思想まで生じました。こうして朝鮮人の頭には、自分のものはすべて見くだし、外国のものはあたまから崇拝する事大主義思想が深く根をおろすようになりました。

 こんにち、我々の時代になってまで、事大主義に走ることはできません。事大主義を一掃して主体性を確立しないことには、自主独立国家を建設することはできません。それで我が党は、チュチェ思想を確固たる指導思想とし、それを特に強調しているのです。

 つぎに、我々がチュチェ思想を特に強調するのは、チュチェ思想が革命と建設の主人は人民大衆であり、自然と社会を改造する力も人民大衆にあるという原理を明示していることと関連しています。

 人民大衆はあらゆるものの主人であり、すべてを決定する基本的要因であります。革命と建設の主人は人民大衆であり、自然と社会を改造する担当者も人民大衆であります。しかし、かつて我が国の反動官僚層は人民大衆を社会の主人としてではなく、支配の対象としてのみみなしました。

 我が党は創立当初から、一貫してチュチェ思想にもとづいて革命闘争と建設事業を導いてきました。

 我が党は解放後、我が国の地理的条件と我が国発展の歴史的条件、そして国土が分断された条件を考慮して、我が国の実情に即して革命をいくつかの段階にわけておこないました。

 我々は日本帝国主義者を打倒したのち、ただちに北半部で民主主義革命を遂行しました。民主主義革命段階の基本的課題は、封建的残滓と日本帝国主義の植民地的残滓を一掃し、国の民主主義的発展を保障することでした。それで我々は土地改革を実施し、植民地支配者と買弁資本家の所有であったすべての産業施設を没収して国有化しました。我々は経済改革とともに、社会生活のすべての分野にわたって日本帝国主義の植民地支配の残りかすを一掃し、すべての勤労者に民主主義的自由と権利を全面的に保障するための民主改革も実施しました。民主主義革命が成功裏に遂行された結果、封建的残滓と日本帝国主義の植民地的残滓が一掃され、人民大衆の革命的熱意がいっそう高まり、広範な人民大衆が政権の主人として国家管理に広く参加できるようになりました。

 自主独立国家の建設のため我々は、力のある人は力を、技術のある人は技術を、金のある人は金を出すようにさせました。こうして労働者、農民はいうまでもなく、旧社会のインテリや中小企業家まで自主独立国家の建設に総動員されるようになりました。

 我々は、民主主義革命の課題を遂行したのち、つづいて社会主義革命の課題を遂行しました。しかし、当時我々は社会主義革命について公然とは唱えませんでした。なぜなら、民族資本家や中小企業家が民族的利益のためにある程度貢献できるという点を考慮に入れたからです。また政治的に目覚めていない南朝鮮人民、特に南朝鮮の民族資本家を驚かせかねないということを考慮したからです。一言でいって、我々は南北各階層の民主勢力まで最大限に革命に引き入れるため、民主主義革命を遂行した直後、社会主義革命のスローガンを公然とはかかげなかったのです。

 我々は戦後になってはじめて、社会主義革命のスローガンを前面にかかげました。

 戦後、共和国北半部の社会・経済状況は困難を極めていました。アメリカ帝国主義侵略者に反対する3年間の祖国解放戦争によって、我が国の都市と農村は廃墟と化し、人民経済のすべての部門がことごとく破壊されました。

 戦争によって都市の中小企業家と商人もほとんど破産、没落しました。アメリカ帝国主義者の爆撃によって、大部分の商工業者が経済的土台を失って無一文の失業者の状態になり、一部残った商工業者の境遇も非常にみじめなものになりました。戦争前には平壌市だけでも数万の商工業者がいましたが、戦後はいくらも残りませんでした。平壌市だけでなく、咸興(ハムフン)、元山(ウォンサン)など主要都市にも商工業者はいくらも残りませんでした。私営商工業者が破産、没落した状況のもとで、国家がかれらを援助して復活させる必要はありませんでした。

 戦争によって農村の中農と富農も極度に零細化しました。我々は土地改革のさい地主を粛清しただけで、富農と中農には手を出しませんでした。しかし、戦争時のアメリカ帝国主義者の爆撃によって、中農や富農の境遇にしても貧農と変わりないものになってしまいました。

 アメリカ帝国主義者の爆撃によって、教会もことごとく破壊されてしまいました。

 こうして、戦争によって都市の商工業者はほとんど破産、没落し、農村の中農と富農は極度に零細化し、宗教もなくなりました。結局、富農や商工業者の経済的土台は、我が党と共和国政府によってではなく、アメリカ帝国主義者によって収奪されたも同然でした。富農や商工業者の経済的土台が崩れさり、その勢力が非常に弱くなったことは、社会主義革命の遂行に有利な条件となりました。

 一言でいって、戦後の我が国の状況は、社会主義革命をそれ以上遅らせることのできない機の熟した要求として提起しました。我々は戦後の我が国の情勢を科学的に分析し、1955年4月テーゼで、社会主義革命を本格的におし進める方針をうちだしました。

 共和国北半部における社会主義革命には、独創的な解決を要する新しい問題が数多く提起されました。我々は前人未踏の新しい道を歩み、だれもうちだしたことのない新しい路線を創造しなければなりませんでした。

 農業協同化の問題を一つとってみてもそういえます。他の国では農業を機械化できる程度に工業化を実現してから、個人農経営を社会主義的に改造しました。しかし戦後、貧農とともに富農までも国家の救済対象となった我が国の状況下では、そうすることができませんでした。我々は工業化の実現をまたずに個人農経営を社会主義的に改造することによって、農業生産力発展の道を切り開かなければなりませんでした。

 我々は農業が甚だしく破壊された状況下でも、一人で働くより力を合わせて働くほうが幾倍も能率的だと認め、技術改造に先立って経営形態を社会主義的に改造する方針を示しました。

 我々が農業を協同化するということを聞いて、ある国の人たちはあざ笑いました。当時、東ヨーロッパの社会主義諸国では、個人農経営の社会主義的改造に本格的に取り組んでいませんでした。我々は他人はどうしようと、党のうちだした方針に従って農業協同化運動を力強くおし進めました。これとともに、私営商工業者で生産協同組合、販売協同組合を組織するようにさせました。我々は農業協同化と私営商工業者の社会主義的改造を、1954年からはじめて4、5年という極めて短い期間に成功裏に完了しました。その結果、共和国北半部の経済関係は根本的に変わりました。

 民主主義革命が遂行されたのち、我が国には三つの経済形態、すなわち国家経営と協同経営からなる社会主義的経済形態と、農村の個人経営と都市の手工業経営からなる小商品経済形態、都市の資本主義的商工業と農村の富農経営からなる資本主義的経済形態がありました。ここで主導的なのは社会主義的経済形態でした。社会主義的経済形態のうちでも基本をなしたのは全人民的所有である国家経営であり、協同経営はわずかなものにすぎませんでした。国家経営は重要産業の国有化によって生まれたものです。古い生産関係の社会主義的改造の完成によって、都市と農村では社会主義的経済形態が全一的に支配するようになりました。

 我々が極めて短い期間になんの偏向もなく、古い生産関係の社会主義的改造を成功裏に完成することができたのは、我が党の政策が正しかったからです。

 我々は農業協同化運動において強制的な方法を断固排撃し、自発性の原則を厳守するとともに、さまざまな正しい政策を実施しました。貧農で組織された協同組合の経済的土台を強化するため、国家では協同農民に長期貸付を与えて農機具や役牛などを購入できるようにし、現物税の納入率も協同組合の場合は個人農より低くしました。また国家では、肥料も協同組合には個人農より廉価でより多く提供し、水利化をおこなって用水も協同組合に優先的に送りました。

 国家のこのような措置によって、協同農民の生活水準は短期間のうちに向上しました。協同経営の優位性が目に見えてあらわれるようになると、個人農は農業を独自に営むよりは力を合わせて営むほうがまさっていることを知り、自発的に協同組合に加入するようになりました。

 国家では都市の私営商工業者で生産協同組合または販売協同組合を組織し、それを運営できるよう貸付をしました。

 我々は、当時我が党と共和国政府の実施した諸政策が極めて正しいものであったと考えます。

 社会主義経済建設は、我が党と共和国政府に提起されている最も重要な革命課題の一つです。

 我々は、これまで社会主義経済建設を数段階にわけて進めてきました。最初は戦後復興建設のための3か年計画を遂行し、そのつぎは社会主義的工業化の基礎をきずくための5か年計画を遂行しました。3か年計画が成功裏に遂行された結果、工業および農業生産は戦争前の水準を回復したばかりでなく、はるかに上まわりました。5か年計画が遂行されて、我が国は工業・農業国となりました。

 我々は、5か年計画の遂行でおさめた成果にもとづいて7か年計画を遂行しました。我々が展望計画を7か年計画にしたのは、国の工業化を実現することに目的がありました。7か年計画の重要課題は国の工業化を実現することでした。

 朝鮮人民は、党のうちだした7か年計画の雄大な綱領を実現するため積極的にたたかいました。しかし、アメリカ帝国主義者の侵略策動が露骨化するにつれ、人民の闘争の前途には大きな難関が生じました。

 アメリカ帝国主義者は1962年にカリブ海の危機をつくりだし、その後にはベトナム情勢をさらに激化させました。その影響は我が国にも及ぶおそれがありました。当時の情勢は、我々に国防力の強化により大きな力を入れることを切実に求めました。

 我々は1966年に党代表者合議を開き、新たな情勢の要請に即して経済建設と国防建設を並進させるという新たな革命的路線をうちだしました。そして全軍幹部化、全軍現代化、全人民武装化、全国土要塞化を基本内容とする我が党の軍事路線を貫徹し、国防力の強化に多くの資金と資材を追加的にふりむけるため、7か年計画の遂行を3年間延期することにしました。

 我が国の勤労者は、党のうちだした新しい革命的路線を徹底的に貫きました。7か年計画は十年にわたって遂行されはしましたが、我が国の経済は非常に速いテンポで発展しました。

 7か年計画遂行の全期間、工業は毎年平均12.8%の成長をとげました。7か年計画を作成するさい、毎年平均18%の工業生産成長を見こみましたが、国防建設に追加的に大きな力をふり向けたのでそれはなりませんでしたが、12.8%の成長も他の国の工業発展テンポにくらべてけっして低い水準ではないと思います。

 7か年計画の遂行でおさめたすべての成果は、朝鮮人民が悪戦苦闘し、増産と節約運動を強力に展開した結果もたらされたものです。

 我々は1970年、第5回党大会を開いて6か年計画の雄大な綱領を採択し、1971年からはその遂行に着手しました。

 我々はこのように戦後20年間、社会主義革命と社会主義建設を進めてきました。しかし、社会主義・共産主義をめざす朝鮮人民のたたかいはまだ終わっていません。我々が社会主義・共産主義を建設するには、まだ相当な時日を要するでしょう。なぜなら、我が国はいまだに統一されておらず、またこんにちの国際情勢に極めて複雑な変化が生じているからです。それは特に、かつて我が国が非常に立ち後れた植民地半封建社会であった事情と関連しています。

 社会主義革命は、マルクスが革命理論を展開するうえで念頭においたヨーロッパの発達した資本主義諸国で先に起こったのではなく、立ち後れた資本主義諸国や植民地または半植民地諸国で先に起こって勝利しました。これらの国では社会主義制度が樹立されたのちにも、社会主義建設の期間が長びかざるをえません。

 共産主義を成功裏に建設するためには2つの要塞、すなわち思想的要塞と物質的要塞を占領しなければなりません。物質的要塞を占領しようとするだけでは共産主義を建設することはできません。

 共産主義の思想的要塞と物質的要塞をともに占領するためには、思想革命、技術革命、文化革命を徹底的に遂行しなければなりません。思想革命、技術革命、文化革命をともに遂行しようとせず、技術革命にのみかたよってはなりません。それでは共産主義の思想的要塞と物質的要塞を占領することができません。したがって、我々は思想、技術、文化の三大革命のスローガンをかかげ、都市と農村で思想革命、技術革命、文化革命を力強くおし進めています。

 まず文化革命についてお話しましょう。

 我々の進めている文化革命は、他の国での文化革命と同じものではありません。我々のうちだした文化革命の重要な課題は、すべての勤労者の一般知識水準と技術知識水準をすみやかに高めることです。

 現在、我々は、すべての勤労者の一般知識水準を中学卒業程度以上に高めるよう努力しています。我々は勤労者が、どんな技術であれ好きな技術を一つ以上修得するようにさせています。いま我が国のすべての勤労者は、党の方針を高くかかげて一つ以上の技術を修得するため積極的に努力しています。

 勤労者の一般知識水準と技術知識水準を高めるためには、かれらのあいだで学習を強化することが重要です。いま我が党は、我が国を全人民が勉強する国にするよう努力しています。

 全般的十年制高等中学義務教育の実施は、すべての勤労者の技術・文化水準の全般的な向上において極めて重要な意義をもちます。したがって我々は、全般的十年制高等中学義務教育を立派に実施するため努力しているのです。

 我々はまた、民族インテリの大集団を養成するために努力しています。我々の民族インテリとは、朝鮮人の技術者、専門家を意味します。現在我が国には60万以上の民族インテリがいますが、近い将来にそれを100万以上にふやす計画です。

 我々はこのようにして、すべての勤労者の文化水準と技術水準をすみやかに高める考えです。我が国人民の文化水準と技術水準が他の国の人より高くなってこそ、事大主義を完全になくすことができます。いま、我が国の人たちに事大主義があるわけではありませんが、人間の思想は環境によって不断に変わるため、我が国の人たちの文化水準と技術水準が他の国の人より劣るなら、事大主義が生じかねません。したがって、我々は、すべての勤労者の文化水準と技術水準の向上に文化革命の重点をおいています。

 我々はまた、文化革命の遂行において、歴史的に形成された民族文化遺産のうちすぐれたものは生かし、それを現代化、社会主義化することに深い関心を払っています。

 民族文化遺産のうちよいものを批判的に継承発展させるのは、社会主義的民族文化と社会主義的生活様式の創造において極めて重要な意義をもちます。我々は、民族的なものを奨励するからといって、昔の古くて反動的なものまですべて復活させ賛美する復古主義的傾向に反対するとともに、民族的なものはあたまから否定し、外国のものばかり肯定する虚無主義的傾向にも反対します。我々は、民族文化遺産のうち進歩的で人民的なものは、朝鮮人民の思想・感情に合うように継承発展させています。

 特に、我々は、芸術分野で復古主義的傾向に断固反対しています。芸術分野で昔のものをそのまま引きうつしては、こんにちの青年が好みません。それで我々は、芸術を人民に愛されるものにするためには民族的な形式に社会主義的内容をもりこみ、社会主義リアリズムにもとづいて創作しなければならないと強調しています。

 社会主義的民族文化を健全な土台のうえに発展させるためには、帝国主義の文化的浸透に断固反対しなければなりません。

 つぎに、思想革命についてお話しましょう。

 人々の思想・意識を改造するには長期間のたたかいを要します。したがって、思想革命は長期性をおびる革命です。

 我々は思想革命を強化してすべての勤労者を革命化、労働者階級化する方針をうちだし、その実現をめざして積極的にたたかっています。労働者階級化の主要対象はインテリです。インテリを労働者階級化するということは、かれらを労働者のように生産労働に参加させることを意味するのでなく、労働者階級の思想で武装させることを意味します。

 思想革命は古い思想をもっている人々を粛清するたたかいではなく、かれらの思想を改造するたたかいです。人々の思想・意識を改造する重要な方途は、組織生活を強化し、学習を強化することです。我々は主として、教育する方法と組織生活を強化する方法で思想革命をおこなっています。

 我々は、党員は党生活に、職業同盟員は職業同盟の組織生活に、農業勤労者同盟員は農業勤労者同盟の組織生活に、社労青員は社労青の組織生活に、女性同盟員は女性同盟の組織生活に積極的に参加するようにさせています。我々は組織生活をつうじて、すべての党員と勤労者を不断に鍛えています。

 現在、我が国には、すべての人が学習する気風が確立されています。幹部は毎週土曜日に半日ずつ学習し、すべての人が毎日2時間以上学習しています。そして幹部は、年に1か月ずつ正規の学校へ行って勉強します。

 我が国の幹部と党員は、学習をつうじてマルクス・レーニン主義の原理を学び、我が党の唯一思想、チュチェ思想で武装します。

 党員を自覚の唯一思想で武装させるのは、極めて重要なことです。もし、朝鮮労働党員が朝鮮労働党の思想で武装せず、他国の党の思想をもつならば、そのような人は朝鮮労働党員とはいえません。

 朝鮮人は、朝鮮における社会主義建設を成功裏に進めることによって世界革命に寄与しなければなりません。我々にかわって、他の国の人が朝鮮に社会主義を建設してくれるわけではありません。朝鮮労働党員と朝鮮人民は、あくまでも自力で朝鮮に社会主義を建設しなければなりません。そのためには、すべての党員と勤労者が学習を強化し、我が党の唯一思想で武装しなければなりません。いま、我が国のすべての党員と勤労者は、我が党の思想以外にはいかなる思想をも受け入れないという確固たる立場と見解のもとに、チュチェ思想で武装するためにねばり強く努力しています。

 思想革命、文化革命とともに、技術革命を立派におし進めることが非常に重要です。

 技術革命の基本目的は、人民経済各部門で勤労者を骨のおれる労働から解放することにあります。こんにち、我が国における三大技術革命は6か年計画の中心的課題であります。我が党は、6か年計画期間に三大技術革命を遂行する方針をうちだしました。

 三大技術革命課題の1つは、工業部門で重労働と軽労働の差を縮めることです。いまなお重工業部門、特に採取工業部門には骨のおれる労働がかなり残っています。我々は工業部門で技術革命を力強くくりひろげて、骨のおれる労働をなくす考えです。

 つぎに、農業労働と工業労働の差を縮めることが三大技術革命の重要な課題です。我々は農村での機械化、化学化を実現し、農業労働を工業労働と同じものにする考えです。

 三大技術革命のいま一つの課題は、女性を家事の重い負担から解放することです。託児所と幼稚園を多く建設し、クリーニング店をはじめ、各種の便益サービス施設を大々的に増設し、女性の家事の負担を大幅に軽減したいと考えています。

 我々は三大技術革命のキーポイントを工作機械の生産に求め、機械工業の発展に大きな力をそそいでいます。現在、機械工美都門では仕事がスムーズに運んでいます。我々はまた技術革命をひきつづき深化させるため、電子工業と自動化工業の発展に深い関心を払っています。電子工業と自動化工業の発展をはかるため、政務院にこの部門を担当する部署を新設しました。

 我が党の正しい指導によって、6か年計画の遂行では、既に少なからぬ成果が達成され、三大技術革命も成功裏に遂行されつつあります。

 工業部門で骨のおれる労働をなくす闘争を強力に展開した結果、骨のおれる労働がかなりなくなりました。

 農村技術革命の遂行でも大きな成果が達成されました。我々は6か年計画末には耕地面積100ヘクタール当たり6~7台のトラクターがゆきわたるようにする予定ですが、そうできる土台はきずかれています。耕地面積100ヘクタール当たり6~7台のトラクターがゆきわたるようになれば、ヨーロッパの先進国にくらべても低い水準ではありません。

 女性を家事の重い負担から解放する活動でも少なからぬ成果が達成されました。現在、託児所と幼稚園で国家と社会の負担によって養育されている子供だけでも数百万に達しています。

 我々はいま収入を得ては、軍隊の維持と子供の教育にあてています。800余万に達する子供と学生・生徒を国家の負担で養育し、勉強させています。

 結論的にいって、我が国での社会主義建設はすべての分野で順調に進められています。ことしにはいって、我々は2つの活動を総括しました。先日、全国農業大会を開いて農業部門の活動を総括しましたが、成果は上々です。いまは全国工業大会を開いて工業部門の活動を総括しています。

 我が国では人民大衆の統一団結がさらに強化され、党隊列も一つの思想、一つの意志でかたく団結しています。我が党内には分派や派閥がなく、すべての党員が党中央のまわりにかたく結集しています。

 こんにち我が国では、すべての人が健全な生活を営んでいます。だれもが学習しており、すべての人が労働に誠実に参加しています。我々の前途は明るいといえます。

 共和国北半部の状況についてはおよそこの程度にしておきます。

 祖国統一問題と対外関係の問題については他の機会にお話したいと思います。

 私の話を注意深く聞いてくださったことに感謝します。

出典:金日成著作集 29巻

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