金 日 成

日本の政治理論雑誌『世界』編集長との談話
-1972年10月6日-


 私は、あなたが我が国を訪問してくれたことをありがたく思っています。また、あなたの社長が私に手紙をよこされたことにたいして謝意を表します。帰国されたら、社長によろしくお伝えください。

 あなたはいろいろな問題を提起しましたが、それについてお話しましょう。

 あなたは、チュチェ思想がいつ創始され、いつ確立されたかということを質問しました。

 この問題については『毎日新聞』の記者たちに話したように、あなたにも概括してお話しましょう。

 あなたは、チュチェ思想の歴史は朝鮮民主主義人民共和国の歴史そのものだというべきではないだろうか、といわれましたが、私はその見解に同意します。

 我が国でチュチェ思想を全面的に実現できるようになったのは、人民が主権をにぎってからのことです。そのときから我が国で、各方面にわたってチュチェ思想を実現するための闘争が進められてきたといえます。

 しかし、チュチェ思想が生まれるようになった根源についていうならば、我々は幾多の紆余曲折をへながら、長期の革命闘争を行う過程で、チュチェ思想をもつようになりました。

 チュチェ思想をもつようになった原因を説明するためには、私の成長過程にぶつかった2つの問題について話さないわけにはいきません。私の成長期、特に、学生時代に目撃し感じたことのうちで、最も正しくないと思った事柄が2つあります。

 その1つは、朝鮮の民族解放運動を行うという共産主義者や民族主義者が、大衆から浮きあがり、上層部のものが何人かそれぞれ寄り集まっては空理空論といい争いをするばかりで、実際の革命運動に大衆をふるいたたせようとしなかったことです。全人民大衆を組織し動員してこそ、革命運動は成功するはずなのに、その人たちは大衆と離れ、自分たち同士寄り集まってヘゲモニー争いばかりし、互いに自分の方が偉いのだといって「理論」闘争ばかりしていました。その「理論」たるや革命を発展させるための理論ではなく、革命活動とは何のかかわりもない詭弁でしかありませんでした。それで私は、かれらのようにしじゅう向かいあって論争ばかりし、大衆運動を展開しないのでは、どうして革命を成功させることができようかと考えるようになり、そういう現象を批判的な目で見はじめました。

 革命闘争の主人は人民大衆であり、人民大衆が立ち上がってこそ、革命闘争で勝利を勝ち取ることができるのです。ところが、上層部の少数の人たちが人民大衆からかけはなれて空理空論にふけっていたのでは、それがいったい何の役に立つだろうか、ということを我々は慎重に考えずにはいられませんでした。大衆のなかに入りかれらを目覚めさせて、大衆自身が主人となって革命闘争を行うようにすべきであって、幾人かの上層部の人たちが寄り集まって議論ばかりしていたのでは、問題が解決されるはずがありません。それで我々は、主体性について、すべての問題を解決する基本は人民大衆自身にあるということについて、強調するようになりました。

 次に私がぶつかったもう1つの問題は、共産主義運動を神秘視するところから生まれたものか、それとも、ヘゲモニー争いから生じたものか、あるいは事大主義に根ざすものなのか、当時、朝鮮共産主義運動内部に派閥が多かったということです。当時、我が国には、M・L派、火曜派、北風会派など派閥がたくさんありました。これらの派閥は、コミンテルンの承認をうけようとして、めいめいがコミンテルンもうでをしました。自分自身さえ共産主義運動を立派に行えば、おのずと認められるはずなのに、かれらは革命運動は行わずに、三人一党、五人一派といったふうに、それぞれ党派をつくつてコミンテルンの承認をえようと歩きまわりました。かれらは、それぞれ自分たちこそ「正統派」であり、真のマルクス主義派であるといいました。こういうわけで、朝鮮共産党は1928年にコミンテルンから除名され、結局党は解散を余儀なくされました。我々は、これを朝鮮民族の恥だと思いました。自分で革命運動を立派に行えば、わざわざ他人の承認をうけに行かなくても、おのずと認められるはずではありませんか。必ず他人の承認をえなければ、共産党といえないのでしょうか。だれかの承認をうけてから革命運動を行う必要はないのです。革命運動をしたければ、自分でするものです。自分でしっかりやりさえすれば、だれが承認しようとしまいとかまわないではありませんか。自分で革命を立派に行いさえすれば、おのずと他人が認めるはずなのに、何のために他人の承認をうけようと仰々しく立ちまわらなければならないのでしょうか。

 我々は、このように朝鮮の民族解放運動と共産主義運動の内部に派閥争いが激しく、また上層部の人たちが人民大衆から浮きあがっていた、こうした2つの現象をみて、革命をそのように行うべきではないという強い刺激をうけました。我々は、人民大衆のなかに入り、かれらに依拠してたたかわなければならないということ、また、自己の問題はみずからが解決すべきであり、自分自身が立派にたたかいさえすれば、他人の承認をうけるうけないが問題ではないということを痛感するようになりました。

 こうした2つの側面が、私の革命思想の発展に大きな衝撃を与えました。このときから、我々は人民大衆が革命の主人であり、したがって人民大衆のなかに入らなければならないということ、だれが承認しようとしまいと、自国の革命をみずから責任をもって自主的に進めてゆくならば、他の国々からおのずと同情され、認められ、援助をうけることもできるということを強調するようになりました。これが、我々のチュチェ思想の出発点であるといえます。

 さきごろ『毎日新聞』の記者たちに話したように、我々は長期にわたる革命闘争を行う過程で、人民大衆の力があらゆる問題解決の基本であるという強い確信をもつようになりました。我々は、すべての問題は人民大衆の力をよりどころにして解決しなければならず、革命は人民大衆が自分自身を解放する闘争であるだけに、人民大衆自体が団結して立ち上がらなければならない、ということから出発して革命闘争を展開しました。

 同時に我々は、大衆の自覚の程度に応じて、すべての問題を提起しなければならないということも考えました。

 我々は、1936年に祖国光復会を組織し、祖国光復会の十大綱領をうちだしました。十大綱領の内容についてはふれないことにします。我々はこのとき、全民族が統一団結し、全人民大衆が団結しなければならないという、大衆的団結をめざす綱領をうちだし、帝国主義者と民族反逆者に反対する反帝反封建統一戦線を結成するという綱領を提示しました。これは、当時朝鮮人民にとって最も適切なスローガンでした。我々は、解放後にもやはりこの路線に基づいて一連の政策を実施してきました。

 我々は、どうすればより多くの大衆を革命運動と祖国の建設に参加させることができるか、ということを基本問題として提起しました。我々は、解放後の初期に共産党と共青を組織しました。しかし、解放直後、我が国には労働者階級が多くなかったし、また、いるにしても、共産主義思想で武装した人は、かれらのうちにいくらもいませんでした。こうした状況のもとで、我々が、共産党や共産主義青年同盟といったスローガンをかかげるならば、大衆や青年を幾派にも分裂させるおそれがありました。それで、我々は、最初共産党を組織してから情勢を判断し、それが当時の大衆の自覚の程度に合致しないものであったので、すぐに共産党を労働党に改組しました。また、我々は、共産主義青年同盟を主動的に改組し、各階層の青年を結集する民主青年同盟を組織しました。

 革命運動と祖国建設は、何人かの共産主義者の力だけでできるものではありません。これには多くの青年や多くの進歩的な人士が参加しなければなりません。それで我々は、偏狭な立場をすて、現実の要求に即して組織を改組することにしました。

 我々は、朝鮮民主主義人民共和国を創建したのち、すべての問題を自主的に解決していくべきであることを、いっそう重要な問題としてうちだしました。

 我が国の事情は、他の国の事情とは全く異なっていました。第2次世界大戦直後、アジアで人民が政権を握った国は我が国しかありませんでした。当時、中国はまだ革命闘争の過程にありました。また、我が国の状態は、ヨーロッパ諸国と比べてみてもそれらの国とは完全に異なっていました。我々には東方人としての特質、朝鮮民族としての特質もあります。したがって、我々はヨーロッパのものを機械的に真似るわけにいきませんでした。もちろん、ヨーロッパ諸国の経験をある程度参考にするために学ぶ必要はありますが、それを機械的に真似るわけにはいきませんでした。我が国は封建支配層の腐敗した政策が長いあいだつづき、その後には36年間植民地となっていた立ち後れた国でした。我が国が立ち後れた状態からぬけだすためには、朝鮮の現実に即した路線と政策を実施しなければなりませんでした。それゆえ我々は、すべての問題を創造的に解決しなければなりませんでした。客観的現実がそうすることを必要としました。すなわち、現実は我々に自主性と創造性を発揮することを要求しました。こうしたことから我々は、我が国の状態と人民の要求に即応してすべての政策を実施しなければならない、という考えをいっそうかためるようになりました。

 あなたの質問のなかに、チュチェ思想の形成過程で何が最も大きな障害であったかという問題があります。これは、たいへん興味のある問題です。私の考えでは、ここにも2つの問題があると思います。

 チュチェ思想を確立するうえで最も重要なのは、対人活動を立派に行うことです。なぜなら、人間がすべての問題を決定するからです。社会を改造し自然を改造するたたかいでの成果いかんは、結局、対人活動をどう行うかに大きくかかっています。

 対人活動は非常に重要です。常々いっていることですが、党活動も対人活動であり大衆団体の活動もやはり対人活動です。経済活動も、対人活動を立派に行ってこそうまくいくものです。ところが、人々を教育し、かれらに忍耐強く解説を行い、対人活動を正しく行おうとせず、往々にしてこの活動を行政的なやり方で行う傾向がありましたが、我々にはこれが最も大きな障害でした。

 対人活動を行政的な方法で行うのは正しくありません。行政的な活動方法とは、官僚主義的活動方法であります。革命は決して行政的な方法で行ってはなりません。いまでも、我々はこれを完全に克服しきっていません。

 我々は党内で、ひきつづき党活動を対人活動に転換させるために努力していますが、いまなお一部では命令や決定を通達し、会議などを行うことで、対人活動にかえる傾向があります。我々が克服しなければならない主な問題の1つは、このことだと思います。いま、我々はこれを克服するために努力しています。

 チュチェ思想を確立するためには、人々の思想を改造することが最も重要です。行政的な方法では、人々の思想を改造することができません。行政的な方法で命令を通達すれば、うわべでは受け入れるようなふりをしますが、実際には受け入れません。命令を通達しても、人民は自分の気に入らなければ、うわのそらで答えるだけで心底からは受け入れようとしません。我々の主張は、行政的な方法を一掃しようということであります。我々は、経済活動であれ国家活動であれ、あらゆる活動で政治活動を先行させてから、それぞれの任務を与えることにしています。

 幹部事業を行ううえでも、幹部を配置した後にはかれを教育しなければなりません。そうしてこそ、かれが過ちをおかさないように予防することができます。幹部を配置した後、何の教育も行わずにいて、かれが過ちをおかすと解職してしまうのは正しくありません。このようにするのは、対人活動の仕方を知らず、対人活動に無能だということを意味します。

 次に、チュチェ思想を確立するうえで主な障害の1つは、事大主義思想であります。事大主義は、我が国で久しい前から伝わってきた古い思想です。事大主義者は、自分のものは何でも悪く、自分にはよいものは何もないといい、ひとのものは何でもよいといいます。このように、かれらは自分のものにたいして虚無主義的な態度をとっています。

 いうまでもなく、他人のものにはよいものもあり悪いものもあるだけに、よいものを学びとることもできます。我々が事大主義に反対するからといって、排外主義に走ろうとするものではありません。

 他人のもののうちからよいものは学び、悪いものはすてさるべきであり、また、よいものであっても自分の好みにあわせて取り入れなければなりません。自分の好みにあわないものを無理に取り入れようとしてはいけません。かつて一部の朝鮮人の頭のなかには、事大主義思想が極めて根深かったため、それを根絶することは困難な闘争でした。

 ひところ、我が国には事大主義がひどくあらわれました。文学・芸術分野にあらわれた事大主義について、一つお話しましょう。

 我が国に事大主義、教条主義がひどくあらわれたときのことです。戦時中、私は負傷兵を慰問するため地方のある軍病院に行ってみたことがあります。その病院の壁に絵が一つかかっていたのですが、それは、大きな松の下に雪が積もっており、そこを熊が歩いているのを描いたシベリアの風景画でした。兵士たちに、それはどこの絵かと聞いてみたところ、かれらは森のなかを熊が歩いているのを描いた絵だが、どこの絵かは知らないと答えました。それで、私はかれらに、我が国の山林には熊が多いかとたずねました。するとかれらは、我が国に熊が少しいるにはいるが、それは我が国の典型的な動物ではないと答えました。

 私は兵士たちに、この絵がよいか、それとも我が国の金剛山をすばらしく描いた絵がよいかと聞いてみました。かれらは、我が国の金剛山を描いた絵の方がよいと答えました。そこで、その部隊の政治部長に、兵士たちはこの絵が金剛山の絵より劣るといっているのに、どうして我が国の金剛山を描いてかけずに、こんな絵をかけたのかとたずねました。政治部長の返答はもっとひどいものでした。かれは、絵を売っているところに行ってみたところ、そんな桧しかないので、しかたなくそれを買ってきたというのでした。

 このことから、私は大きな刺激をうけ、それがみな事大主義からきたものだと考えました。それで、そのとき芸術分野を検討しはじめました。検討してみると、当時、美術家のほとんどが洋画を描いていました。

 当時、音楽部門には、我が国の民族楽器がわずかしかありませんでした。民族楽器が何か所かにあるにはありましたが、それは全く昔のままのものでした。一部の芸術家は、民族音楽とは古典のことであり、現代音楽とは洋楽のことであるといいました。呼びかた自体からしてそのように呼びました。それで私は、芸術家たちを集めて、昔、我々の祖先は自分の音楽をつくったのに、なぜ現代人であるあなたがたは自分の音楽がつくれないのか、なぜ洋楽だけが現代音楽になるのか、現代的な民族音楽はないだろうか、現代音楽イコール洋楽だという理由がどこにあるのかと問いました。なぜ朝鮮の民族音楽イコール古典とならなければならず、現代音楽イコール洋楽とならなければならないのか、なぜ我々朝鮮人が、自分の民族的な趣味にあう現代音楽をつくれないというのか、とただしたところ、かれらは答えることができませんでした。

 また、私は芸術家たちに、あなたがたは「リアリズム」という言葉をさかんに使っているが、それはどういうものかと聞いてみました。実際のところかれらは「リアリズム」の内容は知らず、ただ言葉を知っているだけでした。そこで私は、そのようにうのみにしてはいけないといいました。このとき私は、我が国で社会主義リアリズムといえば、それは民族的形式に社会主義的内容をもりこんだものであるという定義を与えました。

 私はかれらに、何でもみな社会主義リアリズムといえばすむのではない、朝鮮人に理解できない音楽が何の意義があるのかといいました。私はまた芸術家たちに、あなたがたは、やれイタリア曲だの何だのといって、ヨーロッパの曲ばかりうたっているが、もちろん私はそれに反対しない、しかし、それを好む朝鮮人がどれほどいるのか、あなたがたは人民大衆のための芸術を創作していない、芸術のための芸術をつくって何の意義があるだろうか、芸術は当然人民に奉仕しなければならない、人民がそれを聞いて好み、喜び、理解し、共鳴するようでなければならないのに、人民はみなそれを理解できないといっている、だからといって、民族音楽にかこつけて昔の音楽ばかりやっていたのでは、いまの青年たちが喜ばない、復古主義にはしってもいけない、そういうやりかたでいけばおのずと西洋崇拝主義が生まれるようになる、我々は絶対にそういうふうにする必要はないと話しました。

 自民族と自国人民に奉仕することは考えようとせず、外国のものがよいからそれを無条件受け入れさえすればこと足りると考えるのが大きな問題でした。

 我が国において、事大主義は建設分野にも、また工業管理分野や教育分野にもありました。

 このように、かつて我が国で事大主義は各分野にわたって多くあらわれ、それを克服するのは非常にむずかしい問題でした。我々は、事大主義に反対して長いあいだたたかってきました。

 以上、述べたように、我が国でチュチェ思想を確立するうえで克服しなければならない困難は、基本的にいって2つあります。その1つは事大主義であり、他の1つは対人活動を行政的な方法で行うことであります。これは長期にわたる闘争をつうじてのみ克服されるものと思います。

 我々は、いまもこれを克服するために努力しており、今後もまたそうすべきであると考えます。我々は、いまこうした問題がすべて克服されたとはみていません。それゆえ、いま我々は、党活動や勤労者団体の活動を行政的な方法で行うべきではなく、対人活動に転換するよう、ひきつづき強調しているわけです。これとともに我々は、みなが自分の国のため、自国人民のために奉仕しなければならないということ、自分にはよいものが何もなく、他人のものはみな賛成し崇拝するというふうに、自分のものに虚無主義的な態度をとってはならないということを強調しています。一口にいって、自分の力を信じようとせず、他人を頼りにする思想を一掃しようというのであります。これは民族共産主義ではありません。それぞれの民族単位に革命と建設が順調に進むならば、国際的にも革命と建設がうまく進むはずではありませんか。マルクス、エンゲルス、レーニンも、マルクス主義はドグマではなく、創造的に適用しなければならないといっています。

 次に、あなたは、チュチェ思想が民族的任務と国際主義的連帯の任務との関連についての新たな哲学の創始ではないかといいましたが、それはあまりにも過分な言葉です。

 元々、真のマルクス主義者であれば、自主性と創造性をもつべきであると考えます。私は、この問題を強調しただけであります。

 私は、この問題について長々と語ろうと思いません。チュチェ思想の内容と関連した問題については、既に、しばしば述べてきました。こうした問題については、日本の『毎日新聞』と『読売新聞』の記者の質問にたいする回答のなかでも多く述べているので、あなたも理解しているものと思います。それで重複を避けるためこれ以上述べないことにします。

 チュチェ思想を実現する過程で提起された問題について話しました。もちろん、このほかにもいろんな問題がありますが、きょうは、重点的に基本的なことを話しました。チュチェ思想の問題については、これくらいにしておきましょう。


 金日成主席の「談話」は、教育問題、経済問題、アジア情勢(日本との関係)に関する質問への回答を行っている。

出典:「金日成著作集」第27巻

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