金 日 成

社会主義経済のいくつかの理論的問題について
 科学・教育部門の活動家の質問にたいする回答
−1969年3月1日− 


 私は、1968年4月に党中央委員会の科学教育部をつうじて、学者たちから社会主義経済理論の諸問題について質問をうけました。しかし昨年は、国の情勢も緊張していたし、共和国創建20周年記念行事もあったりして時間をさくことができず、提起された質問にすぐ回答を与えることができませんでした。最近までも、一部の経済部門の幹部や学者たちは、この問題について正しい認識をもたずに論争をしているとのことです。それできょう、これにたいする私の意見を述べようと思います。


 1 社会主義社会における経済の規模と生産発展のテンポとの相互関係の問題

 ちかごろ一部の経済学者のあいだに、社会主義社会では経済がたえまなく成長するけれども、一定の発展段階に達すればそのテンポが年に4〜5%、もしくは6〜7%をこえることはできないという「理論」があらわれています。いま国家経済機関の幹部のなかにも、資本主義諸国では一年間に生産がわずか2〜3%ずつしか伸びないのに、我が国が毎年工業生産を6〜7%ずつ伸ばすだけでも高いものだという人がいるとのことです。

 かれらはその論拠として、復興期に比べて改造期には生産成長の潜在力が少なくなり、したがって、経済が発展しその規模が大きくなるにつれて、生産増大の可能性は少なくなるということをあげています。いわば、工業が発展するにつれて潜在力はしだいに少なくなり、生産成長のテンポが落ちるというのです。我が国でも戦後の復興期には潜在力が多かったが、社会主義的工業化の基礎がきずかれ、人民経済の全面的技術改造期に入ったこんにちでは、潜在力がいくらもないため生産をひきつづき速いテンポで発展させることはできないと言っています。

 こう考える人たちは、社会主義経済制度の真の優位性を認識できないか、あるいはそれに目を向けようとしない人たちです。

 社会主義社会は、資本主義社会では想像もおよばないほどの速いテンポで経済をたえまなく発展させる無限の可能性をもっており、社会主義建設が進み、経済的土台が強化されるにつれて、この可能性はますます大きくなります。

 資本主義社会では、過剰生産恐慌によって再生産過程が周期的に中断され、多くの社会的労働が浪費されるため、生産がたえまなく発展することはできないが、社会主義社会では、国のあらゆる労働力資源と天然資源を最も合理的に利用することができ、生産を計画的にひきつづき増大させることができます。こうした生産成長の可能性は、プロレタリアート独裁国家の経済組織者的機能が強まり、働き手の経済管理運営の水準が高まって、人民経済各部門間の均衡が合理的に保たれ、国の経済がいっそう組織化されるにつれて、それはさらに増大します。社会主義国家は、生産と分配、蓄積と消費を統一的に掌握して計画的に実現するので、蓄積に多額の資金をふり向けることができ、また、それを最も合理的に利用することによって、社会主義的拡大再生産をたえまなく大きな規模で進めることができます。

 そして、社会主義的生産関係は生産力をたえまなく発展させうる広い道を開き、社会主義国家はこうした可能性を利用して、技術を計画的に、速やかに発展させることができます。古い技術が新しい技術にかえられ、新しい技術がさらにより新しい技術にかえられ、手労働が機械化され、機械化が半オートメ化に発展し、半オートメ化がたえずオートメ化に発展するのは、社会主義・共産主義建設の合法則的過程です。

 社会主義社会で技術が速やかに発展するにつれて、労働生産性がたえず向上し、生産が速いテンポで発展するということは明白な真理であります。

 社会主義社会で生産力の発展を力強く推進する決定的な要因は、人々の高い革命的熱意であります。社会主義制度の本質的な優位性は、搾取と抑圧から解放された勤労者が祖国と人民のため、社会と集団のため、自分自身の幸福のために自発的熱意と創意性を発揮して働くところにあります。資本主義社会では、勤労者が失業と飢餓の脅威にかてずやむなく働くため、生産の発展と技術の発展になんの利害関係ももたないが、社会主義社会では、勤労者は労働の結果が自分自身と人民と祖国のためにふり向けられることをよく認識しているため、生産を発展させるために熱意をもって働くようになるのです。プロレタリアートの党と国家が自己の本来の機能に従って、勤労者のあいだで思想革命を強化し、かれらの頭にある古い思想の残りかすを徐々になくせばなくすだけ、かれらは社会主義的生産の発展のためにすべての才能とエネルギーをそそいで働くようになるでしょう。こうして、経済管理、生産の組織、労働力の組織、そして技術発展のすべての分野にたえず改善と革新がもたらされるでしょう。

 これらは、社会主義社会で経済が発展しその規模が大きくなるにつれて、増産の潜在力がだんだん少なくなり、生産をひきつづき速いテンポで増大させることができないという「理論」が、全く正しくないことを証明しています。

 この「理論」が正しくないということはまた、我が国における社会主義建設の実践的経験がはっきり示しています。

 まず、5か年計画遂行中にあった事実について話しましょう。当時、党員と勤労者は、3か年人民経済計画を成功裏に遂行して、破壊された経済を基本的に復興し、人民生活も安定させたが、我が国の全般的経済状態は極めて困難でした。それに内外の敵は、朝鮮革命の獲得物を侵害し、人民の建設事業を破綻させようと狂奔していました。こうした環境のなかで、我々には、国の経済を発展させ、人民生活を向上させるために、速やかに工業化の土台をきずくべき切迫した課題が提起され、これにともなって大量の鋼材が必要となりました。

 ところが当時、我が国には分塊圧延機が一台しかなく、その通常能力は6万トンにすぎませんでした。都市と農村を建設し、工場を建て、機械を多く生産するには、6万トンの鋼材ではどうすることもできませんでした。

 我が党は、これまでのあらゆる困難な革命闘争で労働者階級を信頼し、その力に依拠して障害と難関にうちかったように、この時も労働者階級のなかに入って、かれらと相談して当面した難局を切りぬけることにしました。

 私は党中央委員会政治委員会の委任により、降仙(カンソン)製鋼所に行きました。現地でこの製鋼所の幹部たちに、鋼材の生産を9万トンまで高めることはできないだろうかと聞いたところ、一部の人たちは頭をかしげながら難しいと答えました。それで労働者たちに集まってもらい、我々はいまやっと破壊された経済を復興したという状態なのに、分派分子が党に反対して頭をもたげ、大国主義者は我々に圧力をかけ、アメリカ帝国主義者と李承晩かいらい一味は気違いじみた「北侵」騒ぎをくりひろげている、だからといって、我々が力を落として、革命と建設の偉業に横たわる重大な難局を前に尻ごみしていていいだろうか、そういうわけにはいかない、我々は朝鮮革命の主力部隊である労働者階級を信じており、みなさんのほかに頼るところはない、だとしたら我が党の当面するこの重大な難局を切りぬけるために、みなさんが気勢をあげ、奮起して、生産を大いにもりあげ、建設にも力をそそいで経済建設をさらに力強くおし進めてゆくべきではないか、と話しました。

 このように政治活動をおこなったところ、降仙の労働者は、9万トンの鋼材を生産すると決議して立ち上がりました。かれらが積極的にふるいたって既存の機械設備を補強し、懸案を解決しながらたたかった結果、その年に9万トンではなく12万トンの鋼材を生産しました。現在この製鋼所では、分塊圧延職場の生産能力を45万トンの水準に、つまり通常能力のほぼ8倍に高めました。

 降仙製鋼所だけでなく、人民経済のあらゆる部門、あらゆる工場、企業所で、古い通常能力がうちやぶられて偉大な革新が起こり、世人を驚嘆させる奇跡的な成果があいついで達成され、我が国の経済は非常に速いテンポで発展しました。こうして、工業生産総額を2.6倍に高めることを予定した5か年計画を2年半でなし遂げ、主要工業製品の現物指標別生産計画も、全般的に4年間で完遂または超過完遂しました。

 5か年計画の遂行後、こんにちにいたる7〜8年間に、我が国では全面的な技術革命の課題が力強く進められて多くの新しい工業部門が創設され、工業の技術的装備が根本的に改善され、生産の規模が数倍も大きくなりました。もし、生産の規模が大きくなるにつれて生産成長のテンポが落ちるという一部の人たちの「理論」が正しいとすれば、5か年計画が終わった以後の時期に、我が国ではそれ以上生産の高い成長テンポを保つことはできなかったでしょう。しかし我が国では、アメリカ帝国主義の侵略策動がいっそう激しくなるにつれて、追加的に国防建設に蓄積の多くの部分をふり向けたにもかかわらず、7か年計画期間にも経済はひきつづき高いテンポで発展しています。特に1967年度人民経済計画は、経済建設と国防建設を並進させるという、党代表者会議の決定を実現する最初の年の計画であって、工業生産総額を前年に比べて12.8%高めることを予定した緊張した計画でした。しかし、1967年に実際には、計画をはるかに上回って遂行したし、そうして1年間に工業生産を17%も増大させたのです。もしも、その年に例年にない洪水の被害さえなかったなら、工業生産を20%以上増大させたことでしょう。これは、我が党が勤労者のあいだで思想革命を強化して、かれらの自発的熱意を呼び起こし、前進運動を阻む消極性と保守主義など、あらゆる古い思想に反対して断固たたかった結果であります。

 成興(ソンフン)鉱山を例にとってみましょう。

 1967年に成興鉱山の幹部たちがたいへん低めの計画を立てて持ってきたので、内閣で説得して計画を少し増やしました。しかし、それも党の要求に比べれば低いものでした。それで党中央委員会は、成興鉱山の働き手たちにはたらきかけるために、この鉱山の小隊長(作業班長)以上の幹部を呼んで会議を開きました。その席上で私は、党代表者会議がうちだした経済建設と国防建設の並進路線を立派に貫くためには、成興鉱山で非鉄金属をさらに多く掘りださをければならないと話しました。するとかれらは、内閣で決めたものより多くの非鉄金属を掘りだすことを決議して立ち上がりました。結局、かれらは最初に生産するといった量のほぼ2倍もの非鉄金属を生産しました。

 別の例をあげてみましょう。

 機械工業部門の幹部たちがこの部門には余力がないというので、1967年に私は龍城(リョンソン)機械工場に行き、革新を起こすよう呼びかけました。そうしたところ、そこの労働者たちは奮起して、増産計画を含む緊張した年間計画を2か月と20日間も繰りあげて、10月10日までになし遂げました。

 昨年度の人民経済計画を実行する闘争過程でも大きな潜在力を見つけだしました。

 党中央は、アメリカ帝国主義者がプエブロ号事件を契機として気違いじみた戦争挑発をおこなっている状況のもとで、人民経済各部門の工場・企業所が、昨年度の生産と建設の課題を期限前にすべてなし遂げ、節約した労働力と資材、設備で増産するよう呼びかけました。

 すべての工場、企業所が、党のこの革命的な呼びかけに応じ、多くの工場、企業所が祖国の領土からアメリカ帝国主義者を追い出して一日も早く祖国を統一しようという燃えるような念願から、さらに多くの課題を与えてくれるよう提起し、その決議をみごとに達成しました。

 これは、我が党が示した方針どおり政治活動を十分におこなって、大衆の政治的自覚を高め、かれらの革命的熱意を呼び起こし、技術を不断に改造していくならば、経済の規模がいかに大きくとも、経済をいくらでも早く発展させていくことができることを示しています。

 工業が一定の発展段階に達すれば潜在力が少なくなり、工業生産の高い成長テンポを保障することができないという「理論」は、マルクス・レーニン主義の経済理論とは全く緑のないものであります。大規模の経済は早い発展することができないという「理論」は、一部の人が「自由化」だの「民主主義的発展」だのといって勤労者を教育しないために、かれらが思想的にだらけて遊びほうけ、まじめに仕事をしないところから、技術が早く発展せず、経済が伸びなやんでいるのを合理化するための詭弁にすぎません。

 レーニンは十月社会主義革命が勝利したのち、ソビエト政権の当面の課題について述べながら、ソビエト政権プラス全国の電化、これが共産主義である、という有名な命題を提起しました。レーニンのこの命題は簡単なものではありますが、ここには深い意味が含まれています。この命題を正しく理解し、実践することは、社会主義・共産主義建設のために極めて重要な意義をもつと考えます。レーニンの言ったソビエト政権とは、なにを意味するでしょうか。それは、ほかならぬプロレタリアート独裁を意味するものです。したがって労働者階級の国家は、階級闘争をつづけ思想革命と文化革命をおこなって、人々の意識を改造し、技術・文化水準を高め、全社会を労働者階級化、革命化する任務を果たさなければならないということです。電化という言葉は、すべての生産工程をオートメ化しうるほど技術を高度に発展させ、社会の物質的・生産的土台を著しく強化しなければならないということをさしています。結論的に言って、レーニンのこの命題は、プロレタリアートの独裁を強化して思想革命と文化革命をなし遂げ全社会を革命化、労働者階級化するとともに、技術革命をなし遂げて非常に高い生産力を達成しうる強固な物質的・技術的土台をきずいてこそ、共産主義が実現するということを教えています。

 レーニンのいった、プロレタリアート独裁と技術革命、この二つのうちどの一つを落としても社会主義経済をたえまなく高いテンポで発展させることはできず、ひいては共産主義社会を建設することができません。したがって、共産主義社会を建設するためには、プロレタリアート独裁を強化し、技術革命を力強くおし進めなければなりません。レーニンは、直接共産主義を建設してみることができずに世を去ったので、我々がその命題を正しく理解して実行すべきであります。ところが一部の人は、レーニンのこの命題を正しく理解して実行しようとしません。我々は、今後さらに高いテンポで社会主義建設をおし進めるために、経済理論の分野における右傾日和見主義に徹底的に反対すべきです。経済分野で右傾的偏向に反対せずに、プロレタリアート独裁を弱め、政治活動をおこなわず、人々のあいだで個人主義・利己主義を助長させ、もっぱら金銭で人々を動かそうとしたのでは、かれらの集団的英雄主義と創造的積極性を呼び起こすことはできず、したがって、技術革命の課題も、経済建設の課題も成功裏になし遂げることはできません。右傾日和見主義の理論に追随して経済を速いテンポで発展させることができなければ、すべての人に職を与え、かれらの生活を保障することも難しくなるでしょう。そうなれば、旧社会から非常に立ち後れた生産力を引きついだ我々が、いつになったら発達した国々に追いつき、また能力に応じて働き、必要に応じて分配を受ける共産主義社会を建設することができるでしょうか。我々は、右傾日和見主義の理論を排撃すべきであり、我が党の革命思想、我が党の経済建設の理論を徹底的に擁護し、それをあくまで貫くことによって、社会主義建設でチョンリマ(千里馬)の大進軍をつづけなければなりません。


 2 社会主義社会における生産手段の商品的形態と価値法則の利用の問題

 一部の経済学者のあいだでは、社会主義社会において生産手段が商品であるか否か、また、その生産と流通の分野で価値法則が作用するかしないか、という問題について論争がおこなわれているということです。

 この問題を一律にとらえてはならないと考えます。社会主義社会では、生産手段が場合によって商品になることもあれば、商品にならないこともあり、したがって、それが商品である場合には価値法則が作用し、商品でない場合には価値法則が作用しないはずです。なぜなら、価値法則は商品生産の法則だからです。

 では、生産手段がどのような場合に商品であり、どのような場合に商品でないのでしょうか。この問題を正しく解明するためには、なによりもまず商品の本質と商品生産の由来を明確に知っておく必要があると思います。

 商品とは、自分が直接消費するためにではなく、売るためにつくった品物のことです。言いかえれば、すべての生産物が商品になるのではなく、交換を目的として生産した品物が商品なのです。このことから明らかなように、生産された品物が商品になるためには、第1に、互いに異なった品物を生産する社会的分業がなければならず、第2に、一定の品物を売る人と買う人、品物を売ることによってその品物にたいする所有権を失う人と、品物を買うことによって所有権を得る人とがいなければなりません。すなわち、商品生産がおこなわれるためには社会的分業がなければならず、生産物にたいする所有関係が分化されていなければなりません。したがって、社会的分業がない場合、または所有が分化されておらず所有形態が単一な場合には、商品生産はありえません。

 社会主義社会に商品・貨幣関係が存在するのも、やはり社会的分業があり、生産物にたいする相異なる所有があるということでもって説明されなければなりません。周知のように社会主義社会には、分業があるだけでなく、それが日を追ってますます発展しており、所有関係を見ても、社会主義革命の過程で私的所有がなくなり、過渡期の初期にあったいろいろな経済形態がしだいに一つの社会主義的経済形態になるが、生産手段にたいする国家的所有と協同的所有があり、消費物資にたいする個人的所有もあります。また、全世界的に共産主義が勝利しておらず国境が存在する条件のもとでは、社会主義国家は貿易をおこなわなければならないのです。

 これらのことが、社会主義社会で商品生産がおこなわれるようになる条件です。もちろん、社会主義社会での商品生産は、資本家のいない商品生産であり、したがって、価値法則も資本主義社会でのように盲目的に作用するのではなく、限られた範囲で作用し、国家は経済管理を立派におこなうための経済的なテコとしてこれを計画的に利用するのです。将来、過渡期が終わり、協同的所有が全人民的所有制に移って単一の所有形態が形成されるようになれば、そのときの社会的生産物は、貿易を考慮に入れないなら、商品ではなく、ただ生産手段、消費物資と呼ぶか、あるいは他の呼びかたをするようになるでしょう。そうなれば価値法則の作用もなくなるでしょう。もちろん、そのときになっても社会的分業はひきつづき発展するでしょうが、商品生産はなくなるはずです。

 いま学者にしても、経済部門の幹部にしてもそうですが、少なからぬ人たちが社会主義社会での生産手段が商品であるか否かという問題を正しく理解していないところから、理論分野と経済管理において右寄りまたは左寄りの誤りをおかしています。こうして、ある人たちは、修正主義的理論に追随して商品生産と価値法則の意義を過大評価し、経済管理を資本主義的におこなおうとする右傾的偏向をおかしており、またほかの人たちは、我々の社会の過渡的性格を無視して、商品生産と価値法則の役割を全然認めないところから、企業管理を合理化することができず、多くの生産手段と労働力の浪費をまねく極左的な誤りをおかしています。この問題を正しく理解し処理することは、社会主義経済建設において非常に重要な意義をもちます。つまり、商品・貨幣関係の利用の問題は、資本主義から社会主義への過渡期において、労働者階級の国家が正しく解決しなければならない重要な問題であります。この問題で左右の誤りをおかすならば、重大な損失をまねくことになります。

 社会主義社会において生産手段がどのような場合に商品で、どのような場合に商品でないかということも、やはり所有の分化にその根拠を求めるべきです。社会主義社会において生産手段は、その位置を移しても、所有者が変わらなければ商品ではなく、所有者が変われば商品であります。このことから次のような明白な結論がでます。

 第1に、国家的所有で生産された生産手段が協同的所有に移る場合、または、反対に協同的所有で生産された生産手段が国家的所有に移る場合はいずれも商品であり、したがって、ここでは価値法則も作用し、第2に、協同的所有において協同農場相互間、生産協同組合相互間、または、協同農場と生産協同組合とのあいだで交換される生産手段はすべて商品であり、ここでも価値法則が作用し、第3に、生産手段が外国に輸出される場合は商品であり、この場合の生産手段の取り引きは国際市場価格か社会主義市場価格によっておこなわれます。例えば、インドネシアもしくはカンボジアのような国が我が国に工作機械を注文してくる場合、これらの国に売る工作機械は商品であり、しかるべき代価を受け取らなければなりません。また、現在はまだ実施されていないが、我が党の祖国統一案にもとづいて我が国で南北のあいだに連邦制が実現し、南朝鮮の実業家が我々に機械設備を求めてくれは、かれらに機械設備を売らなければならないが、そのときに売り渡す機械設備は商品であり、この場合には価値法則が問題にならざるをえません。

 それでは、国営企業所のあいだで流通する設備や資材、原料はなんでしょうか。それは、商品ではありません。なぜなら、そのような生産手段は、社会主義的連帯生産にもとづいて生産されており、たとえある企業所から他の企業所に移されたとしても、社会主義国家は依然としてその生産手段にたいする所有権を有し、また、そのような生産手段は、自由売買によってではなく、機材供給計画にしたがって国家から計画的に供給されるからです。そのような生産手段は、軍隊に送る兵器のように、国が必要と認める場合は企業所のほうで要求しなくても供給します。したがって、国営企業所相互間で流通する機械設備や資材、原料などは、価値法則の作用のもとで実現する商品とは言えません。

 では、国営企業所相互のあいだでやりとりされるこのような生産手段は、商品と言わずになんと呼ぶベきであり、それらを互いにやりとりするさいに計算される価格や、それを生産するさいに計算する原価などは、価値法則の作用を利用せず、なにを利用するというべきでしょうか。機材供給計画と連帯生産計画にもとづいて、国営企業所のあいだでやりとりされる生産手段は、商品ではなく商品的形態をとるのであり、したがって、ここでは価値法則も商品生産におけるように内容的にではなく、形態的に作用するといったほうが正しいでしょう。

 いわば、このような生産手段は、固有の意味での商品ではなく、商品の形態だけをとっており、したがって、ここでは、固有の意味での価値法則の作用を利用するのではなく、価値法則を形態的に利用するのであり、生産手段の生産および交換においては、価値でなく、ただ価値形態を経済計算の道具として利用するのです。

 それでは、国営企業所のあいだで取り引きされる生産手段が商品ではなくて商品の形態だけをとるということは、なにをもって説明すべきでしょうか。それは、たとえ国営企業所がひとしく単一の国家所有の企業所ではあっても、それらは、生産手段を利用し、管理し、経済を運営するうえで、あたかも互いに異なる所有の企業所のように、それぞれ相対的な独自性をもつからです。国営部門の個々の独立採算制企業所は、ひとしく国家所有の企業所ではあるが、それらはおのおの国家の唯一的計画に従って、他の企業所から生産手段を受け取って利用し、自分の生産した生産物に支出された費用を自分で補償し、国家に一定の利益を与えなければならないのです。

 このような国営部門における個々の独立採算制企業所の経営上の独自性は、同じ所有の企業所ではあっても、それらのあいだで取り引きされる生産手段は、他の所有に引き渡す生産手段と同様、商品であるかのような印象を与えます。こうして、同じ国営部門の独立採算制企業所であっても、ある企業所から他の企業所に生産手段を引き渡すさいには、やたらに無償で与えたり、安値で譲り渡したりするのではなく、等価補償の原則から、社会的必要労働の支出にもとづいて国家が唯一的に定めた価格で引き渡すのです。いくら同じ国営企業所のあいだではあっても、自分のものと他人のものとを区別するようになり、厳格な計算にもとづいて、生産手段の取り引きがおこなわれるのです。

 それではなぜ、国営部門の内部で企業所に経営上の独自性を与え、各企業所のあいだで交換される生産手段が商品でないのに、等価性の原則にもとづき厳格な計算に従って、それをやりとりしなければならないのでしょうか。それは、過渡的社会である社会主義社会の特性と関連しています。社会主義社会では、まだ能力に応じて働き、必要に応じて分配できるほど生産力が発展していません。また、すべての人が国家の財産を自分のもののように責任をもって愛護し、管理する気高い集団主義精神をもってはいません。機関本位主義や地方本位主義が甚だしく、自分の機関や自分の地方の狭い利益を前面にかかげて国家やほかの機関、企業所の利益を侵す古い思想の残りかすをもっている人は論外としても、相当の教育を受けた人でさえ、ほかの国家機関や企業所の仕事を自分の仕事と全く同じようには考えず、そのために献身的に働こうとしない場合が少なくありません。また、社会主義のもとでの労働はもちろん栄誉あり、張り合いのあるものになっているが、それはまだ共産主義社会でのように、生活の第一義的な欲求とはなっていません。まさに、これらのことが社会主義のもとで、たとえ同じ国家所有の企業所ではあっても、それらのあいだでの取り引きにおいては厳格な等価計算を必要とするのです。もし、我が国に品物が非常に豊富で、すべての企業所の管理幹部や勤労者に個人主義・利己主義がなく、あらゆる国家財産を自分のものと同じように考え、国のすべての仕事を自分の仕事とみなして身をささげて働くならば、等価計算は不必要になるでしょう。

 生産手段の生産とその流通分野において、商品的形態と商業的形態を正しく利用することは、社会的労働の浪費をなくし、節約制度を強めて企業所の収益と国家の蓄積を系統的に増大させるうえで一定の意義をもちます。したがって、人民経済のすべての部門、すべての企業所では、これを正しく利用する必要があります。

 なによりもまず、生産手段の生産部門で価値形態を正しく利用し、厳格な計算制度と原料、資材、労働力の利用にたいするウォンによる統制を強め、物資の原単位消費基準を系統的に引き下げるよう努力しなければなりません。

 流通分野でも機械設備と原料、資材の浪費をなくし、それを合理的に利用するようにするため、機材供給計画を正しく立てるとともに、商業的形態を十分に利用しなければなりません。我々が、資材商社を設け、商社をつうじて資材や原料を売買するようにしたのも、その供給活動を円滑におこなうためであります。

 ところが、経済活動家たちは、これを正しくおこなっていません。政治経済学教科書にも、生産手段は商品流通分野から除外され、企業所に計画的に供給されるとしか書かれておらず、それが具体的にどのような形態をつうじて、どのように供給されるかについてはなに一つ書かれていません。政治経済学教科書には、生産手段の供給問題がほとんどとりあげられておらず、なかでも国営企業所のあいだで資材や原料を売買する問題については言及すらしていません。

 そのため、資材供給のうえで多くの欠陥があらわれています。企業所では、資材や原料を確保するうえで、安ければ安いなりに、高ければ高いなりに引き取り、その価格については別段関心を払っていません。そればかりか、ある企業所には大切な資材が使い道もなく積まれているのに、他の企業所ではそれがなくて生産に支障をうけるということもしばしばあります。

 これはもちろん、国家計画委員会が資材供給計画を正しく立てないところにも原因があるが、それよりも資材や原料の供給も商業的形態によって実現されるということを見落としているところに問題があります。いわば、国営企業所のあいだでも互いに売買する形式をとる以上、資材や原料は商品流通の形態で実現するのに、これを無視しました。こうして、計画機関で資材供給計画の作成を誤れば、資材を死蔵させたり、浪費したりしても責任を負わないし、また、それがどこかでチェックされるところもありません。

 この問題を正すためには、なによりもまず資材商社の役割を高めなければなりません。資材商社が仕事を立派におこなえば、資材を得るために多くの人が集まってくるようなこともなくなり、少ない資材でも必要な企業所にほどよく供給して、効果的に使えるようになるであろうし、また、企業所でも検討もせず、必要、不必要の区別もせずにもらってきて、寝かしておいたり浪費したりすることはなくなるでしょう。

 工場、企業所で生産される機械設備や原料、資材などの生産手段が国家的所有のままで、企業所のあいだでやりとりされるときには、それが商品流通の形態をとるということを知らなければなりません。すると、ここでは価格が問題になるので、ときたま計画に誤りがあっても、実際の供給過程でそれを正すことができるのです。

 もちろん、我が国の社会では、すべてのものが計画的に生産され、計画的に供給され、計画的に消費されます。とりわけ、全人民的所有においては、生産、供拾、消費が完全に計画化されます。しかし、すべてのものをもれなく正確に計画化するというのは、決して容易なことではありません。我々は、すでに20年以上も計画経済を実施してきたし、計画を客観的に立てるよう、ひきつづき強調していますが、いまだに計画化はうまくいっていません。

 資材、原料の供給計画もやはりそうです。あるものは計画から抜かしたり、またあるものは、不必要であるにもかかわらず供給計画に入れたりしています。それでは、これらの問題がどこでチェックされるべきでしょうか。商社へいってチェックされなければなりません。言いかえれば、商社をつうじて資材、原料の売買がおこなわれる過程で、これらの問題が補充され、正されなければならないのです。

 また、たとえ資材供給計画がすべて正しく立てられたとしても、実際の供給を正確におこなわなければ、その計画は実行されないのです。もし、資材、原料の供給において商業的形態、言いかえると売買する形態を無視して、ただ計画にもとづいて供給するだけであれば、企業所で資材をやたらに使って浪費するおそれがあります。活動家や勤労者がすべて共産主義者になっていない以上、このようなことは十分ありうることです。

 したがって、資材、原料の供給において商社の役割を高め、商品流通の形態を正しく利用するようにすべきです。そうして、ある資材をあまり多く買ってくれば、他の資材を買ってこられなくなり、また、資材を浪費すれば、企業所の経営活動に大きな影響が及ぶようにしなければなりません。原料、資材の供給にこのような条件をつくっておけば、企業所の活動家たちが資材の価格を調べ、輸送費を検討するようになり、資材を大切にしていっそうよく保管、管理するようになり、資材の利用において原単位消費基準を引き下げるために努力するようになるでしょう。

 次に、商品生産とその流通分野において価値法則を正しく利用する問題について、若干の意見を述べようと思います。

 価値法則の利用においてなによりも重要なのは、商品の価格を正しく制定することであります。社会主義の基本的経済法則と価値法則の要求をよく検討して、価格を定めなければなりません。

 まず価格の制定にあたって、商品に含まれている社会的必要労働に正確に依拠しなければなりません。もし、価格を社会的必要労働の支出にもとづいて定めないならば、価格相互間のつりあいを保つことができず、社会主義的分配を正しくおこなうこともできず、社会的生産の発展によくない影響を与えるおそれがあります。

 実例をあげてみましょう。かつて私は、平安北道昌城(チャンソン)郡の商店に立ち寄ったことがありますが、そのとき商店では、200グラムの糸を使って織った撚糸織物の値段が1メートル3ウォンで、50グラムの糸1かせの価格は5ウォン40チョンでした。これは、4かせに相当する糸をよって織物を織り、染色したものよりも、1かせの糸の価格のほうが倍も高いということになります。もちろん、地方産業工場で糸つむぎ作業を十分機械化していないために手間も多くかかり、生産費も少し余分にかかったとは考えられますが、糸車で糸をつむがない以上、織物を織るよりも原価が高くつくはずはありません。また、たとえ生産費がそれほど高くついたとしても、社会的必要労働の支出を考慮に入れずに価格を定めるわけにはいかないはずですが、このように価格を高くするのは筋のとおらないことです。

 次に、価格の制定にあたって、一般消費物資の価格を低くすべきであります。もちろん、上でも述べたように、商品の価格は、価値を考慮に入れて制定しなければなりません。しかし、これは決して商品の価値と価格を乖離させることができないということを意味するのではありません。労働者階級の党と国家は、能動的に商品の価値と価格を乖離させ、一般消費物資の価格を低く定めなければなりません。いわば、米、織物、靴、かや、縫い糸、マッチ、学用品など、人民の物質・文化生活になくてはならない品物は安く売るべきです。これが、まさに価値法則を正しく利用することであり、すべての勤労者にひとしく衣食を保障し、豊かに暮らせるようにする社会主義制度の本質的要求に合致するものです。

 そうするかわりに、もし、一般消費物資の価格を高く制定するならば、社会主義制度の優位性を十分に発揮させることができず、人民の生活に不便を与えることになります。例えば、ビナロン混紡織のように、人民に需要の多い織物の価格を高くしておけば、すべての人がひとしく衣服を満足につくって着ることができません。また、教科書、鉛筆、ノート、カバンなどのような学用品の価格が高ければ、義務教育制を実施しておきながらも、子供たちを満足に勉強させることができなくなるでしょう。

 ところが活動家たちのなかには、織物をはじめ一般消費物資の価格を不当につりあげることによって、国家歳入を増やそうとする傾向があります。それで、人口一人当たり20メートルずつゆきわたる多くの織物を生産しているけれども、価格が高くて勤労者が十分に買えないため、子供にも思うように服をつくってやれないのです。もちろん、人民に織物が十分ゆきわたらない主な原因は、まだ我が国でいろいろな織物を安く生産できないところにあります。しかしまた、人民に織物が多くゆきわたらないのは、織物の価格をつりあげる方法で国家歳入を確保しようとする、活動家たちの間違った態度にも主な原因があるということを明確に知らなければなりません。活動家の誤ったやり方のために、ここ数年間織物の価格が不当にあがりつづけました。

 活動家たちの、このような正しくない考えや活動態度を改めなければ、人民の生活を速やかに向上させることはできません。実際は価格が高すぎるために、織物が売れなくて長いあいだ寝かせておいたあげく、その価格を引き下げて売らなければならない場合がしばしばあります。こうなれば結局、人民生活にも損失を及ぼし、国家歳入も保障することができません。

 したがって我が党と政府では、国家歳入を増やせなくても、一定の取引収入金賦課率をきめて、一般消費物資だけは価格を低く定め、特に子供用の商品にたいしては生産費を最低限に補償する程度の極めて低い価格を設定するようにしています。この原則は、今後もひきつづき守っていくべきです。

 しかし、これとは反対に、嗜好品や奢侈品、高級服地をはじめ、まだその供給量がかぎられている品物は、需要を調節するために一般消費物資より価格を高く定めるべきです。商品ばかりでなく、住宅と厚生施設にたいしても同じ原則で料金を定めるべきです。例えば、一般施設の1、2間の住宅は使用料を低めに定め、施設のよい3間以上の住宅は多くないので、使用料を高くするべきです。もちろん、我が国の生産力が発展して、人民の要求するすべての商品や施設を十分あてがえるようになれば、わざわざ、このような措置をとる必要はなくなるでしょう。

 商品の価格を正しく制定するためには、価格を一元化しなければなりません。これまで部分的に価格制定に誤りがあったのを見ると、国家計画委員会、財務省をはじめ、一部の経済機関の幹部が、地方産業企業所で生産される製品は地方的な意義をもつものだとして、その価格の制定を掌握せず、道人民委員会委員長に任せきりにしたことに原因があります。したがって、地区計画委員会を設けて計画化事業を一元化したように、地区価格委員会を設けて地方産業企業所で生産される製品にいたるまで価格の制定を一元化し、国家計画委員会、財務省、価格制定委員会などの経済機関が価格制定にたいする統制を強めるようにすべきであります。


 3 社会主義社会における農民市場とそれをなくす方途について

 農民市場とは、協同農場の共同経営と協同農民の個人副業で生産される農産物や畜産物の一部を、農民が一定の場所をつうじて、直接住民に売る商業の一形態であります。農民市場は、社会主義社会における商業の一形態ではありますが、これには資本主義の残りかすが多分にあります。それでは、農民市場の資本主義的な残りかすとはなんでしょうか!

 それは、農民市場では、価格が需要と供給によって自然成長的に定められ、したがって、価値法則がある程度、盲目的に作用することです。国家は、農民市場の需要と供給および価格を計画化しません。もちろん国営商業が発展し、農民市場にたいする国家の調節的作用が強まるにつれて、農民市場の自然成長性はある程度制限されるが、社会主義の段階では農民市場を完全になくすことはできません。

 もともと、チャン(市)という言葉は、社会主義制度のもとで生まれた術語でもなければ、資本主義制度のもとで生まれたものでもなく、封建社会のときから使われてきた術語です。封建時代に手工業が発達しはじめたときから、チャンというものが生まれました。朝鮮人は、昔から商人をチャンサタンと言ってきたが、これはチャンで仕事をする人という意味です。このように、チャンは、封建社会で発生した、立ち後れた商業形態であります。それゆえ、原則的には先進的な社会主義制度のもとで、立ち後れた商業形態である農民市場はないほうがよいのです。

 しかし、社会主義のもとで協同経営が存在し、個人副業生産がおこなわれている以上、農民市場の存在は避けられないことであり、また、それが残っているのは決して悪いことではありません。一部の人は、副業生産物まで国家が買い付けて、計画的に供給すべきだと考えているようですが、それは間違いであり、また実際にそうすることもできません。個人副業生産物はそれを生産した人自身が消費し、残ったものは市場にだして自由に売ったり、ほかの品物と交換できるようにすべきです。協同農場の共同経営で生産した畜産物や工芸作物も、その大部分は国家が買い付けるべきですが、一部は農民に分け与えるべきです。農民は、これを自家消費することもできれば、買付け係に売ることも、農民市場にだして売ることもできるでしょう。必ず買付け係に売れと言うべきではなく、農民が誰にでも自由に売れるようにすべきです。こうすれば、人民の生活上の便宜もはかることができます。

 政治経済学教科書にも、農民市場について正しく書かれていません。どう書いてあるかというと、農民市場は、共同経営の発展に悪い影響を与え、農民の小ブルジョア思想、利己主義を助長するとしか書いていません。そして、社会主義社会において農民市場がなぜ必要であり、それがどんな役割を果たし、いつになったらなくなるのかということについては、明確に書かれていません。

 社会主義社会に副業生産や農民市場が残っているのは悪いことではなく、むしろよいことです。我々が、まだ人民生活に必要なすべての品物、特にほうきとかパガジ(ふくべ)のようなこまごました日用品や、食肉、卵、ゴマ、エゴマのような副食物などをすべて国家で十分に供給できない条件のもとで、そういったものを個人が副業で生産し、市場にだして売るのがどうして悪いのでしょうか。それが立ち後れた方法ではあっても、すべてを先進的な方法でできないときには、後れた方法も利用しなければなりません。

 一部の活動家は、副業生産や農民市場がいまにも資本主義を復活させるかのように恐れているが、その必要はありません。かりに協同農場員に自留地をあまりたくさん与えるとすれば、かれらが共同労働にはまじめに参加せず、個人経営にしがみつくようになり、資本主義的要素も助長しかねません。しかし、我が国では、農民の自留地といっても、せいぜい数十坪にすぎないし、個人副業の畜産といっても、豚の1、2匹や鶏の10数羽を飼っている程度のものです。だから、農民が自留地にいく株かのタバコを栽培するからといって、それが資本主義的経営になるのでもなく、かれらが何羽かの鶏を農民市場にだして少し高く売ったからといって資本家になるわけでもありません。

 それにもかかわらず、副業生産や農民市場が共同経営に悪影響を与え、利己主義を助長するからと、法令をもって農民市場を廃止するならば、どういう結果になるでしょうか。もちろん、市場はなくなるけれども、闇取引は依然として残るようになるでしょう。農民たちは、副業で生産した鶏や卵をもってよその家の勝手口を訪ね、裏通りを売り歩くことでしょう。そうしているうちに取り締まりを受けて罰金を払わされるか、法の追及をうけることになるでしょう。だから、農民市場を強制的になくして、解決されることはなに一つなく、かえって人民の生活に不便を与え、不必要に多くの人を罪人にしてしまうおそれがあります。

 したがって、国家的に人民生活に必要なすべてのものを十分に生産、供給できない条件のもとでは、性急に農民市場を廃止しようとする極左的偏向を厳しく警戒しなければなりません。

 それでは、いつになったら個人副業生産と農民市場がなくなるでしょうか。

 第1に、国の工業化が実現し、技術が高度に発展して、人民の要求するあらゆる消費物資が豊富になったとき、はじめてそれがなくなるのです。どんな品物でも国営商店で買えるようになれば、誰も、しいてそれを農民市場へ行って買おうとはしないはずであり、また、そのような品物が農民市場で売買されることもないでしょう。例えば、工場で安くて品質のよい化学繊維が多く生産されるならば、人々はわざわざ市場に行って高い綿花を買おうとはしないだろうし、また、一部の農民がそれを高く売ろうとしても、売ることができないでしょう。現在の条件のもとでも、人民の需要をみたしている商品は、農民市場では売買されないし、咸興市のような大都市でも、白頭山のふもとにある胞胎(ポテ)里のような山間の僻地でも、我が国のすべての地域で、同じ価格で実現されます。このように品物が豊富で、同じ価格で実現されるとき、それは供給制と変わりありません。

 しかし、人民の需要をみたせない商品は、たとえ国家が唯一的に価格を制定したとしても、闇取引されたり、農民市場で又売りされるということを忘れてはなりません。商店の品物を買いだめしておいて、他人が急に必要になって求めるときに高値で売りつけるような現象があらわれるようになるのです。卵の販売の問題を例にとってみましょう。現在、平壌をはじめ、各地に養鶏工場を建設して卵を生産していますが、まだ人民に十分供給できるほどではありません。そういうわけで、卵も国定価格と農民市場価格とのあいだに差が生ずることになるのですが、これを悪用して又売りする現象があらわれています。

 もちろん、だからといって、卵をいくつか又売りした人を罪人扱いにして教化所に送るわけにもいかず、ほかの方法で統制するとしても、販売量を調節するといったようないくつかの実務的対策を立てること以外に方法はありません。もちろん、こうした対策もとらなければなりませんが、そんな対策では商品が一部の人たちに集中する現象をある程度調整できるだけで、それが農民市場で又売りされたり、闇取引される現象を根本的になくすことは決してできません。

 この問題を解決するためには、品物を多く生産しなければなりません。産卵養鶏工場をより多く建設し、人民の需要をみたすほど大量に生産するならば、卵の闇取引はなくなるであろうし、農民市場で売買されることもおのずとなくなるようになるでしょう。こうした方法で国家的に人民の需要をみたし、農民市場で売買される商品を一つ一つなくしていくならば、最後には農民市場が不必要になるでしょう。

 第2に、個人副業生産と農民市場は、協同的所有が全人民的所有に移行してこそなくなるものです。

 社会主義農村問題にかんするテーゼでも指摘しているように、協同的所有にたいする全人民的所有の指導的役割をたえず高めながら二つの所有形態を有機的に結びつけ、協同的所有を全人民的所有に転化させるならば、そのときは農民市場で売買する現象がなくなるでしょう。

 現在、農民市場が存在する主な原因の一つは、国営とともに協同経営や個人副業が存在しているところにあります。

 それゆえ、2つの所有が単一の全人民的所有になるときには生産力が発展して個人副業がなくなり、したがって農民市場もなくなり、商品流通一般が不必要になるはずです。そのときには生産物が供給制によって分配されるでしょう。いま我々は、米をはじめ、いくつかの緊要な物資を供給制によって労働者、事務員に分配していますが、これはもちろん、品物が豊富なためにおこなう供給制ではなく、単一の全人民的所有の条件のもとでの供給制でもありません。それは、品物が豊富でない条件のもとで、人々がすべてひとしく生活していけるよう統制するために実施しているものです。生産力が高度に発展し、2つの所有形態が単一の全人民的所有となったときに実施する生産物の供給制は、こんにち、統制のために実施している供給制とは異なり、大量に生産される消費物資を人民の多様な需要に応じられるよう、より円滑に保障するための供給制を意味します。

 結論的に言えば、国家的に人民の要求するすべての品物を豊富に生産し、供給できるほどに生産力が発展し、協同的所有が全人民的所有になるとき、はじめて農民市場と闇取引はなくなり、商業は完全に供給制に移行するようになるでしょう。

出典:『金日成著作集』23巻 


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