金 日 成

資本主義から社会主義への過渡期と
   プロレタリアート独裁の問題について
党の思想活動部門の活動家に行った演説
-1967年5月25日-


 最近、党代表者会議の文献を研究する過程で、一部の学者および思想活動にたずさわっている活動家たちのあいだで、過渡期とプロレタリアート独裁の問題についてさまざまな意見がだされています。特に、この問題をとりあつかった論文が発表されるや、さらに多くの意見が入り乱れるようになりました。そこで私は、この問題に関連する資料を研究し、また学者たちと意見の交換もして簡単な結論を与えたのですが、話を聞いた人たちがそれぞれ自分なりに解釈して伝えたために、多くの点がゆがめられるようになりました。論議されている問題が、党代表者会議の文献と関連している非常に重要な問題であり、これを決しておろそかにすることはできないので、きょう、私はこの問題について少し詳しく述べようと思います。

 過渡期とプロレタリアート独裁の問題も、他のすべての科学理論上の問題と同じく、必ず我が党のチュチェ思想に基づいて解明しなければなりません。決して、古典の命題にとらわれて教条主義的にこの問題を解こうとしてもならず、事大主義思想にとらわれて他人のするとおりに解釈してもなりません。ところが、多くの学者の意見書をみても、また一部の人の論文を読んでみてもそうですが、すべての人がほとんど古典の命題を教条的に解釈するか、そうでなければ事大主義的偏向に陥り、外国の人たちが考えるそのままに解釈しようとするために、結局は我が党の考えとは全くことなる方向で問題を設定しています。これでは、決して問題を正しく研究し、解明することはできません。事大主義にとらわれず教条主義に陥ることなく、ただ自分の頭で問題を解決してこそ、正しい結論に到達することができます。

 まず過度期の問題について述べてみましょう。

 過渡期の問題を正しく解明するためには、マルクス・レーニン主義創始者たち、特にマルクスがどのような歴史的環境や前提のもとで、この問題を設定したかを、まず考察する必要があります。

 我々のみるところでは、第1に、マルクスが社会主義に関する定義をくだし、資本主義から共産主義への過度期、または資本主義から社会主義への過渡期の問題を設定したとき、明らかに発達した資本主義国を念頭においていたことであります。何よりもまず、このような事実を明確に認識してこそ、過過度期の問題を正しく解明することができると思います。

 それでは、我々が問題としている発達した資本主義国とはどのようなものでしょうか。それは、都市ばかりでなく、農村までも完全に資本主義化され、資本主義的関係が全社会を支配するようになって、農村には農民は、既に存在せず、工業労働者とともに農業労働者が存在するようになった、そのような資本主義国をさしています。

 マルクスがその学説を展開する際、念頭においた発達した資本主義国とは、このような資本主義国であったのであり、かれが常に目撃し、生活し活動してきたイギリスのような国が、まさにそういう国でありました。したがって、資本主義から社会主義への過渡期の問題を設定するにあたって、マルクスはまず、労働者階級と農民との階級的差異のない、そのような条件を前提としたのであります。

 こんにち、我々が現代の最も発達した資本主義諸国をみても、それらの国では生産力が高度に発展し、農村まで完全に資本主義化され、したがって都市と農村ではひとしく労働者階級が唯一の勤労者階級となっています。ある資本主義国には数万の農場があるが、それらは極めて高度に機械化されています。そればかりか農村の電化、化学化、水利化も極めて高い水準に達しています。そして、この国では、一人の農業労働者が30ヘクタールの土地を耕しているといいます。これは何を意味するのでしょうか。それは事実上、労働者階級と農民の階級的差異がないばかりか、農業生産力が工業生産力とほとんど同じ水準に達していることを意味します。差異があるとすれば、ただ工業労働者は工場で働き、農業労働者は田野で働くという労働条件の差異があるだけです。

 それゆえマルクスは、このような発達した資本主義国ではプロレタリアートが権力を握ったのち、社会主義に移ってゆく過渡的段階を比較的短い期間とみなしたのです。言いかえれば、社会には資本家階級と労働省階級の2つの階級しかないので、社会主義革命において資資本家階級を打倒し、その所有を収奪して全人民的所有制にしさえすれば、過度期の任務を比較的短い期間に遂行し、共産主義の高い段階へ速やかに進むことができると考えたのであります。だからといって、決してマルクスは、資本主義から社会主義段階を経ることなく直接共産主義へ進むことができるとしたわけではありません。いかに生産力が高度に発展し、労働者階級と農民との階級的差異がないとしても、搾取階級の残存勢力を一掃し、人々の意識のなかにある古い思想の残りかすをなくす過度期の任務は必ず解決してから移行しなければならないのです。我々は第1に、必ずこの点を考慮しなければなりません。

 我々が過渡期に関するマルクスの学説を考察し、この問題を正しく解明するうえで、第2に考慮しなければならない点は、継続革命に関するマルクスの見解であります。

 周知のようにマルクスは、前独占資本主義時代に生活していたために、資本主義の政治および経済の不均等発展をはっきりとみることができず、したがって彼は、ヨーロッパの主要資本主義諸国ではほとんど同時に連続的にプロレタリア革命が起こるものとし、世界革命が比較的速やかに勝利するものと考えました。このような前提に基づいて、マルクスは資本主義から社会主義への過度期を比較的短い歴史的期間と考えたばかりでなく、過度期にプロレタリアート独裁が時間的に照応するもの、言いかえれば過度期とプロレタリアート独裁を分かちがたいものと規定したのであります。我々はまた、必ずこの点を考慮しなければなりません。

 レーニンもやはり、過渡期とプロレタリアート独裁の問題を提起したとき、基本的にはマルクスの立場を継承したとみることができます。もちろん、レーニンが生活し活動したロシアは、マルクスが生活し活動したイギリスやドイツとは異なって、資本主義は資本主義であっても発達した資本主義国ではなく、立ち後れた資本主義国であったので、マルクスのように過渡期段階である社会主義段階を短くみることなく、比較的長い期間とみたのでした。

 しかし、レーニンもマルクスの見解に従って、労働者階級が資本主義制度を打倒し権力を握りはしたが、今なお労働者と農民の階級的差異が残っている、そのような社会はもちろん共産主義社会ではなく、完全な社会主義社会でもない過渡的社会であるとしました。そして、社会主義が完全に実現するためには、階級としての資本家を打倒することだけでは足りず、労働者と農民との差異をなくさなければならないとしました。このようにレーニンは結局、労働者階級が資本家階級を打倒したのち、労働者階級と農民の差異がない無階級社会を実現するときまでを、資本主義から社会主義への過渡期、または共産主義への過渡期とみたのであります。過渡期についての、このような定義は根本的に正しいものと考えます。

 しかしながら問題は、活動家たちがマルクスとレーニンの命題を、それが生まれるにいたった事大と歴史的環境を考慮することなく教条主義的に解釈するところにあり、特に過度期とプロレタリアート独裁とが照応し、互いに分かちがたいものとみなすところにあります。

 もちろん、資本家階級を打倒したのち、労働者階級と農民の差異がなくなった無階級社会を実現してこそ、資本主義から社会主義、または共産主義への過度期が終わることだけは確かであります。また、すべての国で社会主義革命が連続的に起こり、全世界的規模で革命が勝利する場合には、過渡期とプロレタリアート独裁が照応するようになり、過渡期が終わればプロレタリアート独裁もなくなり、国家が凋落するにいたると考えることができます。

 しかし、一国または一部の地域で社会主義が建設されて無階級社会か実現されれば、全世界的規模で革命が勝利できないとしても、過渡期は終わるものとみなければなりません。だからといって、世界に資本主義が残っている限り、プロレタリアート独裁はなくなりえないし、まして国家の凋落について語ることもできないでしょう。したがって、我々が過度期とプロレタリアート独裁に関する問題を正しく解明するためには、マルクスやレーニンの命題に教条主義的にとらわれることなく、我が国の社会主義建設の実践的経験に基づいて、この問題を解釈しなければなりません。

 今、一部の人たちは資本主義から社会主義への過度期という概念を使っていますが、彼らは資本主義から共産主義への過度期、言いかえれば共産主義への高い段階への過度期という概念をどのような意味でも使おうとしません。彼らは社会主義から共産主義への漸次的移行という言葉は使っています。

 右傾日和見主義的偏向は、過度期を労働者階級が権力をたたかいとったときから社会主義制度の勝利までとみて、過度期とプロレタリアート独裁の期間を一致させることから、過度期が終わればプロレタリアート独裁の歴史的使命が終わるものとみるところにあります。それゆえ、このような立場に立つ人たちは、共産主義の第一段階である社会主義の完全な、そして最終的な勝利が達成され、共産主義の全面的建設へと移るようになることによって、プロレタリアート独裁はその歴史的使命を終え、プロレタリアート独裁はもはや不要になったとみなします。これは、完全にマルクス・レーニン主義に反する右傾日和見主義的な見解であります。

 それでは、極左日和見主義的見解はどのようなものでしょうか。極左的見解をもつ人たちは、過度期の問題を、以前には右傾日和見主義的見解をもった人たちと全く同様にみてきたのですが、最近では共産主義は何世代か後に至って実現することができるという立場から、過度期を資本主義から共産主義の高い段階への過度期とみなければならない主張しています。彼らがこのように主張する目的は、右傾日和見主義を批判しようとするところにあると思われます。右傾的変更を批判するのはよいが、過度期の問題に対するこのような見解を、我々は正しいと認めることはできません。

 以上、述べたようにこのような人たちは、いずれも過渡期とプロレタリアート独裁の問題について偏向をおかしていることかわかります。

 我々は、過渡期を資本主義から社会主義への過渡期と呼んでもよく、資本主義から共産主義への過渡期といってもさしつかえないと思います。なぜならば、社会主義とは共産主義の段階であるからです。しかし問題は、我が国の一部の人たちが、事大主義にとらわれ極左日和見主義的見解に追従して過渡期を資本主義から共産主義の高い段階までとみたり、右傾日和見主義的見解に追従して社会主義の勝利までとみるところにあります。

 それゆえ、過渡期の問題についての論争の重点は、社会主義への過度期であるのか、共産主義への過渡であるのかといった熟語であるのではなく、過度期の界線をどこに引くかということに帰着します。今、少なからぬ人たちがこの界線を引き誤って、混乱に陥り、いろいろな問題を生んでいます。右傾的見解をもつ人が引く界線も、極左的見解をもつ人が引く界線も、いずれも問題があります。

 共産主義の高い段階とは、労働者と農民の差異がない無階級社会であるばかりでなく、精神労働と肉体労働との差異もなく、社会の全構成員が能力に応じて働き必要に応じて分配を受ける、高度に発達した社会であります。したがって、過渡期をこのような共産主義の高い段階までとみるのは、事実上界線を引かないのと変わりありません。ある人たちは過渡期を共産主義の高い段階までとみるばかりか、一国では共産主義が実現できないと言っています。かれらは、世界革命がすべて達成されてはじめて共産主義に入ることができるとしています。このような見解によれば、世界革命が完全に達成されるまでは、過度期は終わらないことになります。右傾的立場に立つ人たちが過渡期を社会主義の勝利までとみて、過渡期とプロレタリアート独裁を一致させたとすれば、前者は共産主義の高い段階までとみて、過渡期とプロレタリアート独裁が照応するものと解釈しています。我々の考えでは、かれらのこのような見解は行きすぎたものであります。

 また右傾的見解をもつ人たちが、過渡期を社会主義革命の勝利するときまでとみるのも問題があります。過渡期を社会主義制度の勝利までとみるのは、国内的には転覆された搾取階級の残存分子との階級闘争をやめ、国際的には帝国主義と平和に暮らしながら世界革命を遂行しようとしない思想観点からくるものです。まして、過渡期が終わればプロレタリアート独裁がなくなると主張しているが、どうしてそのようになると言えましょうか。これは根本的に正しくありません。

 したがって、右傾的見解をもつ人たちの定義に機械的に追従してもならないし、極左的見解をもつ人たちの定義を基準にしてもなりません。

 我々は、あくまで主体性を確立し、我が国の革命と建設の実践的経験に基づいて問題を解明しなければなりません。

 以上、既に述べたように、過渡期とプロレタリアート独裁の問題に関するマルクス・レーニン主義創始者たちの規定は、当時の歴史的条件とかれらが出発した前提のもとでは完全に正しいものであります。

 しかし、こんにち我々の現実は、それを機械的に適用するのではなく、創造的に発展させることを要求しています。我々は、植民地農業国の非常に立ち後れた生産力をうけついだ条件のもとで社会主義革命を行い、世界に資本主義がいまだ相当な力として残っている環境のもとで社会主義を建設しています。

 過渡期とプロレタリアート独裁の問題を正しく解明するためには、必ず我々のこのような具体的な現実を考慮しなければなりません。このような点を念頭におくとき、我が国で過渡期を共産主義の高い段階までとみるのは、あまりに行きすぎであり、社会主義までとみるのが正しいと思います。しかし、社会主義革命が勝利し、社会主義制度が樹立されればただちに過渡期が終わるとみるのは誤りであります。マルクス・レーニン主義創始者たちの主張に基づいて問題をみても、我々の実際の闘争経験にてらしてみても、労働者階級が政権を握ったのちに資本家階級を打倒し社会主義革命を行ったからといって、完全な社会主義社会が建設されるものではありません。したがって我々は、いまだかつて社会主義制度の樹立を社会主義の完全な勝利であると言ったことはありません。

 それでは完全な社会主義社会は、いつになったら実現するのでしょうか。社会主義の完全な勝利は、労働者階級と農民との階級的差異がなくなり、中産階層、特に農民大衆が我々を積極的に支持するようになってはじめて達成されます。農民が労働者階級化されるまでは、かれらが我々を支持するとしても、それは確固としたものではなく、ある程度の動揺性は免れないでしょう。

 労働者階級が政権を握るのは社会主義革命の始まりにすぎず、完全な社会主義社会を建設するためには革命をひきつづき前進させ、社会主義の物質的土台をしっかりときずかなければなりません。このことについて私は、既に報告や演説などでたびたび強調してきました。それにもかかわらず、一部の人には事大主義思想があるために、我が党の文献はよく研究もせず、他人がどういっているかということに多くの関心を払ってきました。これは極めて正しくありません。

 必ず、我々の現実にしっかりと立脚して、そこからすべての問題を正しくみなければなりません。我が国はブルジョア革命を経ていないために生産力が極めて立ち後れており、労働者階級と農民との差異は、社会主義革命を行ったのちにも相当長い期間残ることになります。実際上、現在世界には高度に発達した資本主義国はもなく、大多数の国々は、我が国や、または我が国に類似した国のように、かつて植民地または半植民地であった立ち後れた国であるか、現在も従属状態にある国であります。このような国々では、社会主義革命を遂行したのちにも比較的長期間にわたり生産力を発展させてはじめて、無階級社会を建設し、社会主義を強固なものにすることができるのであります。

 我々は、資本主義発展段階を正常に経なかったために、資本主義のもとで当然解決しておくべきであった生産力発展の課題を、こんにちの我が社会主義時代になって実現しなければなりません。我々が資本主義段階に解決すべき任務を解決できなかったからといって、わざわざ社会を資本主義化し、資本家を育て、それを打倒したのち再び社会主義を建設するなどという必要は決してありません。政権を握った労働者階級は、資本主義社会を復活させるべきではなく、無階級社会を建設するために、ブルジョア革命の段階に解決しえなかったこの任務を社会主義制度のもとで遂行しなければなりません。

 我々は、必ず社会主義の物質的基礎をひきつづき強固にきずきあげ、生産力を少なくとも発達した資本主義諸国の水準にまで引上げ、労働者階級と農民との差異を完全になくさなければなりません。そのためには発達した資本主義諸国で農村を資本主義化した程度に技術革命を行い、農作業も機械化し、化学化と水利化も行い、8時間労働制も実施しなければなりません。

 まさにこれを実現するために、我々は社会主義農村問題に関するテーゼをうちだしたのであります。ところが、活動家たちはテーゼもよく研究していません。我々はあくまでも我が党の文献に基づいて、自分の頭で問題を解明していかなければなりません。『我が国における社会主義農村問題に関するテーゼ』の中心思想はなんでしょうか。テーゼの基本思想は、農村で技術革命を行い、農業生産力を高度に発展させるとともに、思想革命と文化革命を行い、技術、思想、文化の領域で労働者階級と農民との差異をしだいになくし、協同的所有を全人民的所有の水準にまで引き上げようというものであります。

 しかし、このような課題は、農民に対する労働者階級の指導と援助なしには解決されません。我が党の方針は、工業の確固とした土台に依拠して農民を物質的、技術的に援助し、農村において技術革命を実現しようというものであります。そのためには農村にトラクターを多く送り、肥料や農薬も多く与え、化学化や水利化も行わなければなりません。これとともに労働者階級は農民の思想改造を助け、文化的影響も与えなければなりません。こうしてこそ、農民を完全に労働者階級化することができます。

 事実、社会主義・共産主義の建設で農民を労働者階級化する問題は、最も重要な問題の一つであります。我々は、まさにこのような方途によって農民を労働者階級化し、労働者階級と農民の差異をなくそうというのです。

 我々は事大主義に陥ることなく、我が党の主体的立場にしっかりと立って、農民の労働者階級化問題も解決していかなければなりません。我々はテーゼの精神を貫徹し、社会主義の物質的土台をしっかりときずき、生産力を高い水準に引き上げるべきであり、都市と農村の差異をなくし、人民生活を豊かなものにしなければなりません。

 こうしてこそ、我々はかつての中産階層を完全にかちとることができます。中産階層が動揺しなくなり、かれらが我々を完全に支持するようになるまでは、社会主義が強固になったと言えず、社会主義が完全に勝利したとみることもできません。中産階層が我々を積極的に支持するときにのみ、我々は社会主義を完全に実現したと言うことができます。我々が社会主義建設を前進させて中産階層を我々の側に完全にかちとったとき、労働者階級と農民との差異をなくして無階級社会を建設したときに、資本主義から社会主義への過渡期の任務が実現したと言うことができるでしょう。

 このように、左右の偏向をもつ人たちとは異なり、過渡期の界線を無階級社会までとするのが正しいと思います。

 それでは、社会主義革命が勝利して社会主義的改造が実現したのち、労働者階級と農民との階級的差異がなくなるときまでを、どのような社会と呼ぶべきでしょうか。それはもちろん過渡期に属するものではあるが、搾取のない社会であるから、社会主義社会と呼ぶべきであって、他に呼びようはありません。

 いうまでもなく過渡期が終わったからといって、直ちに共産主義の高い段階に移行するものではありません。過渡期が終わっても共産主義の高い段階に移行するためには、革命と建設を継続し、各人は能力に応じて働き、必要に応じて分配を受ける水準にまで生産力を発展させなければなりません。

 過渡期の問題をこのようにとらえるのは、マルクスとレーニンの規定に合致するものであり、新しい歴史的条件と我が国での革命と建設の実践的経験に基づくものと考えます。これは、我々の完全な結論ではなく、初歩的な結論であります。みなさんはこの方向でさらに研究するのがよいでしょう。

 過渡期をこのように規定すべきであるとすれば、プロレタリアート独裁の問題はどのようにみるべきでしょうか。既に述べたように、マルクス・レーニン主義創始者たちは、過渡期とプロレタリアート独裁が照応するものと考えました。そうだとするならば、我が国において無階級社会が実現し、社会主義の完全な勝利が達成されれば、換言すれば過渡期の任務が完遂されれば、プロレタリアート独裁はもはや必要でなくなるでしょうか。絶対にそうは言えません。プロレタリアート独裁が過渡期の全期間に存在すべきことはいうまでもなく、過渡期が終わったのちも、それは共産主義の高い段階にいたるまで必ず継続されなければなりません。

 我々が社会主義の物質的・技術的土台をしっかりときずき、社会主義農村問題に関するテーゼを実現することによって、農村の技術革命を遂行し、協同的所有を全人民的所有の水準にまで引き上げ、農民を労働者階級化し、労働者階級と農民との差異をなくすことができるようになったとしても、まだ生産力の水準は、各人が能力に応じて働き、必要に応じて報酬を得るという共産主義の原則を実現しうるまでにはいたりません。それゆえ、そのときになってもひきつづき社会主義を建設しなければならず、共産主義を実現するためにひきつづき闘争しなければなりません。プロレタリアート独裁なくしてこの任務を遂行しえないことは明白であります。言いかえれば、過渡期が終わっても共産主義の高い段階までプロレタリアート独裁は継続されなければなりません。

 しかし、ここにいま一つ問題があります。世界に資本主義がまだ残っており、一国あるいは一部の地域で共産主義を実現したとき、プロレタリアート独裁はどうなるのかという問題であります。世界革命がまだ完遂されず、資本主義と帝国主義が残存する条件のもとでは、一国あるいは一部の地域で共産主義を実現したとしても、このような社会は帝国主義からの脅威を免れることができず、外部の敵と結託した内部の敵の抵抗も免れることはできません。このような条件のもとでは、共産主義の高い段階に移っても国家の凋落は考えられず、プロレタリアート独裁は依然として存続しなければなりません。一国あるいは一部の地域で共産主義を建設することが可能であるという理論を我々が承認するかぎり、過渡期とプロレタリアート独裁をこのように切り離してとらえるのが全面的に正しいのであります。

 我々が過渡期とプロレタリアート独裁問題をこのようにとらえるのは、決してマルクス・レーニン主義を修正するものではありません。我々の立場は、マルクスやレーニンが述べた命題を新たな歴史的条件と、我が国の具体的実践に創造的に適用しようというものであります。こうすることが教条主義と事大主義に反対し、マルクス・レーニン主義の純潔を守りぬく道であると考えます。

 プロレタリアト独裁と関連して、階級闘争の問題について幾つか簡単に述べようと思います。階級闘争が存在するかぎり、プロレタリアート独裁は存在するのであり、プロレタリアート独裁は階級闘争を行うために必要なものであります。しかし階級闘争の形式はいろいろあります。資本主義を打倒するときの階級闘争と、資本主義を打倒したのちの階級闘争とはその形態が異なります。このことは我が党の文献で、既に明白に解明されています。ところが少なからぬ人々が、これをはっきり理解していないために、極左的あるいは右傾的な誤りをおかしています。

 社会主義革命を行うときの階級闘争は、ブルジョアジーを階級として一掃するための闘争であり、社会主義社会での階級闘争は、統一団結を目的とする闘争であって、それは決して社会の構成員を互いに反目し、憎みあうようにするための階級闘争ではありません。社会主義社会でも階級闘争を行うが、統一と団結を目的とし、協力の方法で階級闘争を行うのであります。こんにち、我々の行っている思想革命が階級闘争であるのはいうまでもないことであり、農民を労働者階級化するために農村を助けるのも階級闘争の一つの形式であります。なぜならば、労働者階級の国家が農民に機械をつくつて与え、化学肥料も供給し、水利化も行う目的は結局、農民を階級としてなくして完全に労働者階級化しようとするものであるからです。我々が階級闘争を行う目的は、農民を労働者階級化して階級としての農民をなくすだけではなく、かつてのインテリや都市小ブルジョアジーをはじめとする中産階層を革命化して労働者階級の姿に改造しようとするものであります。これが、我々の進めている階級闘争の主要な形式であります。

 また、我々の制度のもとでは、外部から反革命勢力の破壊的影響が入りこみ、内部では転覆された搾取階級の残存分子が策動するために、かれらの反革命的策動を鎮圧するための階級闘争が存在します。

 このように社会主義社会では、労働者、農民、勤労インテリの統一と団結を目的とし協力の方法でかれらを革命化し、改造する階級闘争の基本形式とともに、外部と内部の敵に対し独裁を実施する階級闘争の形式があるのです。

 それゆえ、社会主義社会において階級闘争はなくなるのではなく、依然として継続されるのであり、ただその形式が変わるだけであります。社会主義社会における階級闘争の問題をこのようにみるのは、全く正しいことであります。

 階級闘争の問題と関連して、インテリの革命化問題について幾つか、さらに強調したいと思います。我々はまだ、インテリを革命化する方途を完全にうちたてたということはできません。我々はインテリを革命化するために、かれらを工場に送り、労働者とともに働かせてみましたが、それが必ずしもよい方法であるかどうかも問題であります。我々がインテリを養成したのは、かれらに文章を書かせ、科学と技術も研究させ、教員にもさせるためであるのに、工場に送って労働させるなら、最初から労働者に養成すべきであって、何のために多くの費用をかけてインテリを養成する必要がありましょうか。したがって、この方法も最適のものではありません。

 もちろん、インテリを労働者に接近させて、労働者の組織性、強靱性、そしてかれらが肉体労働によって人民に奉仕する献身性を学ばせるのはよいことです。しかし、それでインテリの革命化問題をすべて解決できるかといえば、そうではありません。作家が工場に少ししか出かけなかったわけではありません。しかしながら、一部の作家は工場に行って労働をしても、それほど大きな発展をみせませんでした。したがって、工場に送って労働させることだけでは、インテリを革命化することはできません。

 重要なのは、かれらに党生活をはじめ、それぞれの組織生活を強化するようにさせることであります。現在、一部のインテリは、党生活をはじめ、それぞれの組織生活の強化を好まず、組織生活に積極的に参加していません。かれらは党生活を強化し、組織生活をすれば、あたかも自由がないかのように考えます。

 幹部のなかでも党の政策から逸脱する人たちは、やはり党生活に積極的に参加せず、党学習をよく行わない人たちであります。現在、中央党学校でも学生の党生活を強化しないために、学校を卒業しても、学んだことを十分使いこなせず、革命的に働き生活することができません。

 したがって、インテリを革命化するためには、かれらに革命的な組織生活を正しくさせることが最も重要であります。何よりも党の細胞生活を強化し、わかっていると知ったかぶりをせず、党学習を熱心に行い、革命的思想で武装しなければなりません。また、批判されることをおそれたり、他人を批判することをいやがったりせず、批判と自己批判を強く行い、組織規律を厳格に守らなければなりません。そうしてこそ、自分自身の革命化に助けとなります。人々は、党、または大衆団体の組織生活をつうじて集団主義思想をつちかわなければならず、組織から革命課題についての厳格な任務の分担を受けて、それを必ず実践する革命的な気風をもたなければなりません。党員と同盟員たちは、党の政策で武装し、それを宣伝すべきであり、党の政策どおりに革命課題を必ず実践する革命家とならなければなりません。革命家とは、真の共産主義者のことであります。共産主義者は、自分のことだけを考える利己主義とは何のゆかりもありません。革命家は、「一人はみんなのために、みんなは一人のために」働き生活する共産主義的な気風をもたなければならず、労働者階級と全人民のために働く党性、階級性、人民性で鍛練されなければなりません。

 結局、インテリは党生活をはじめ、それぞれの組織生活を立派に行わなければ、役に立たない人間になってしまいます。このような例は多々あります。今、一度強調しますが、古くからのインテリであれ、新しいインテリであれ、だれもが自由主義と小ブルジョア思想をなくし、自分自身を革命家として鍛練するために、党生活をはじめ、それぞれの組織生活を強化しなければなりません。

 きょう、私はみなさんに過渡期とプロレタリアート独裁問題について比較的詳しく述べました。これで党代表者会議の文献を研究する過程で論議された問題は、おおよそ理解できるだろうと思います。

出典:「金日成著作集」21巻

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