金 日 成

朝鮮語の民族的特性を正しく生かすことについて
言語学者たちとの談話
-1966年5月14日-


 私はきょう、みなさんに、我々の民族語をいっそう発展させることについて少し話したいと思います。この問題については、既に以前にも話したことがありますが、いま一度強調したいと思います。

 私がいつも言っていることですが、我が国は中国、日本、ソ連のような大きな国や科学・技術のわりに発達した国々のあいだに位置しています。それゆえかつて我が国の人々のあいだには、これらの国に対する事大主義が生まれ、これらの国との政治的接触と経済的・文化的交流のなかで、その国々の言葉が少なからず我が国に入ってきたのでした。

 李朝封建時代には中国に対する事大主義が甚だしかったために、その国の言葉がたくさん入ってきました。それで、今も朝鮮人は中国式の漢語をかなり使っています。いつだったか塩田に行ってみると、そこで使っている言葉はほとんど全部が中国式の言葉でした。科学・技術用語ばかりでなく、日常つかっている言葉にも中国式の表現がかなりあります。今、人々が「イルハヌンシガン(仕事の時間)」という言葉を「サオプシガン(事業時間)」「コンジャクシガン(工作時間)」といい、「ナッチャム(昼寝)」を「オチム(午寝)」などといっているのは、その典型的な実例となるでしょう。

 私は以前、中国の広東に行って演劇を見たことがありますが、俳優たちのせりふが朝鮮人の使う漢字音に似かよっていました。これからおして、我々の使っている漢字音の多くが中国広東地方の漢字音のようなものからきているといえます。

 かつて、日本帝国主義者が我が国を占領してからは、日本語もたくさん入ってきました。それで、現在我々の使っている言葉のなかには改めなければならない日本式の言葉が少なくないのです。りんごの名も日本語で呼んでいるのが少なくありません。今、我が国で「クッコワン(国光)」と呼んでいるりんごの名は日本人がつけたものです。そのりんごは日本が原産でもないはずなのに、このように日本の名がついています。「クッコワン」ばかりでなく「ウク(旭)」や「チュク(祝)」のようなりんごの名も日本人のつけたものです。

 実情は稲の名称の場合も同様であります。今、人々は「リュグ132号(陸羽132)」だの、「チュンセンウンバンジュ(中生銀坊主)」だのといって日本人のつけた名で呼んでいます。

 甚だしくは、日本帝国主義支配当時には生まれてもいなかった我が国の子供たちまでが、「洋服チョゴリ」を「うわぎ」といっており、「チャ(茶)」を「おちゃ」といい、茶わんをのせる「チャバン(茶盤)」を「おぼん」といっています。

 解放後は、ロシア語が入ってきて朝鮮語と入りまじろうとするのを防ぎました。

 ところが、今日また、我が国に純粋な朝鮮語でない、中国の間島地方に住む朝鮮人の使っている中国式の朝鮮語も入ってき、解放後には南朝鮮の人たちが使う、朝鮮語に英語と日本語と漢語が入りまじった混合語も入ってきており、帰国同胞をつうじて日本に住む朝鮮人の使う日本式の朝鮮語も入ってきています。

 今、中国の延辺とか北間島に住む朝鮮人は「チョンゴジャン(停車場)」を「ホワチャチャム(火車站)」、「ロドンゲグプ(労働者階級)」を「コンインゲグプ(工人階級)」といったり、その他我々のわからない中国式朝鮮語をつくって使っています。間島には朝鮮人が約100万いますが、かれらの使用する言葉が入ってくるのはそれほどの問題ではありません。

 帰国同胞をつうじて日本語が入ってくるのもそれほど問題になりません。

 問題は南朝鮮で使っている言葉にあります。今、南朝鮮の新聞などをみると、英語や日本語を混ぜて使っているのは言うまでもなく、漢語は中国人でさえ使わないものまでみだりに使っています。実際上、南朝鮮で使っている言葉から漢語や日本語、英語を除いてしまえば、朝鮮語は「ウル(을)」、「ルル(를)」のような助詞だけが残るありさまです。言語は民族の重要な表徴のひとつであるのに、南朝鮮で使っている言葉がこのように西洋化、日本化、漢字化したために朝鮮語らしくなくなり、朝鮮語の民族的特性がしだいに失われつつあります。これは実に危険なことです。これを放任しておいたのでは、我々の民族語が失われる恐れさえあります。

 以前、日本共産党のある幹部と話し合ってみると、今、日本語も外国語とごっちゃになっているというのです。かれの話によると、日本は科学は発展しているが、自民族のものはほとんどなくてアメリカ化しており、科学それ自体が商人の金もうけに利用されているということです。いわば、今日の日本の科学は真の科学ではないというのです。

 日本人が科学の発展でこのようにアメリカの真似ばかりしているので、英語がたくさん入ってきてまじり、日本語が英語化しているとのことです。

 真の愛国者は共産主義者です。ひとり共産主義者のみが自国の言語を真に愛し、それを発展させるために努力するのです。

 共産主義者である我々は、朝鮮語の民族的特性を生かし、それをさらに発展させなければなりません。共産主義者でなくても民族的な良心をもっている朝鮮人であるなら、朝鮮語の民族的特性が失われるのを喜ぶ人はひとりもいないはずです。南朝鮮でも地主、買弁資本家、反動官僚を除く絶対多数の人民大衆は、我が民族を愛し、祖国を愛する愛国主義思想をもった人たちです。それゆえ、かれらはひとしく我が民族語の発展を望むでしょう。

 我々は漢語と外来語を固有な朝鮮語になおし、朝鮮語を体系的に発展させていかなければなりません。

 固有語と漢語の意味が全く同じときは固有語を使って、漢語は使わないようにし、辞典からもそうした漢語をとりさるべきであります。例えば、「サンジョン(桑田)」「ソッキョ(石橋)」のような漢語は捨てて「ポンバッ(くわばたけ)」「トルダリ(いしばし)」といった朝鮮語を使うべきです。人民のあいだで比較的多く使われている漢語であっても、それに当てはまる固有語がある場合は、辞典からもそれをとり除いて固有語を使うようにしなければなりません。一例として「ハボク(夏服)」という言葉は比較的多く使われていますが、「ヨルムオッ(なつふく)」という固有語を使えるのですから辞典から除くべきです。こんなものまで整理するとなると改める言葉があまり多すぎるという意見がでるかも知れませんが、そうしないことには漢語をしだいに減らすことができず、固有語を発展させることができません。もしも将来、辞典から除いた言葉のなかで人民がひきつづき使うものがあるなら、それはそのときになってまた辞典に載せればよいでしょう。

 方言のなかからもよい言葉は探しだして使うべきです。我々がかつてパルチザン闘争をやっていたころ、安吉同志は、一般的に咸鏡道の文化はソウルの文化より劣るといわれているが、咸鏡道には朝鮮語がもっと多いとし、咸鏡道では「キチャ(汽車)」を「プルスルギ(火車)」といっているが、なかなかよいではないかといったものです。それで私は、咸鏡道にはそのかわり「ピジケ」だの「コルマン」だのといった外来語があるではないかと、かれに冗談をいったこともあります。

 「プルスルギ」とはなんといい言葉ではありませんか。もっとも、いまさら「キチャ」を「プルスルギ」と改める必要はありません。方言をよく調べるなら、現在でも使える立派な朝鮮語があるはずです。

 固有語を極力探しだして、地名も朝鮮語で呼ぶようにすべきです。漢語で呼ぶより朝鮮語で呼んだ方がずっと品があります。例えば、「プルグンバイ(あかい岩)」を「チョクアム(赤岩)」というふうに漢語で呼び変えれば、もっとよくなるのではなく、とても貧弱な感じがします。今、地名を漢語と固有語のふたとおりに呼んでいるところが少なくありません。「トルダリコル(いしばしの谷)」を「ソッキョドン(石橋洞)」といっているのは、まさにそうした実例です。固有語からなる地名をみな調べて、できるだけ漢語を使わないようにすべきです。私は既に社会科学院に、地名を調べてみるよう指示しましたが、その仕事がどうなっているのかわかりません。社会科学院だけの力でその仕事をやり遂げるには力にあまるようです。それで、この仕事を保障するために、内閣の決定なり命令を一つ下達した方がよいでしょう。これからは、固有語からなっている地名をみな調べ終えたらそれをそのまま使わせ、地図は再印刷すればよいのです。行政区域の名称も内閣決定でなおすようにすればよいでしょう。

 我々は、既存の固有語を探して使うばかりでなく、固有語で新しい言葉をつくつて使うようにすべきです。

 もちろん、新しい言葉をはじめて使うときはいくぶん不自然な気がするものです。しかし、それもしじゅう使い慣れるとなんでもなくなります。漢語ではあっても「最高人民会議」という言葉を例にあげてみましょう。我々が最初この言葉をつくるとき、一部の人は外国では「国会」といっているのに、常設機関の名称を「会議」にしてはならないと言いました。しかし、我々はそれを無視して「最高人民会議」という言葉を使いはじめました。初めのうちはそう呼ぶのがおかしいような気がしないでもなかったのですが、すっかり使い慣れた今ではなんともないではありませんか。ほかの言葉も必要なときは、こういうふうに新しくつくつて使えばよいのです。

 私の考えでは「クッコワン」だとか「ウク」「チュク」のようなりんごの名も、その産地の名をとってつけなおしたほうがよさそうです。そのりんごがどこで一番たくさんとれ、どこのものが一番おいしいかを参酌して「北青(プクチョン)」とか「松禾(ソンホワ)」と名づけるなり、あるいは「南浦(ナムポ)」とか「籠岡(リョンガン)」と名づけてもよいでしょう。

 我々は稲の名称もみな朝鮮語に改めるべきです。

 今、一部の同志は、りんごや稲のようなものはこれまでの呼び名に慣れているので、それをほかの名に変えるのは難しいと言っていますが、ためらうことなく大胆に改めるべきです。そうしたものまで日本語式の名称をそのままにしておいたのでは、ゆくさき次の世代になんと説明することができましょうか。現在、南朝鮮で日本式の漢語を全部そのまま使っている状況のもとで、我々まで腕をこまぬいているなら、朝鮮語はほんとうになくなってしまうでしょう。我々は日本式の漢語をためらうことなく改めなければなりません。

 かつて我々の先祖は、事大主義病にかかって、人の名前も漢語でつけたものです。今後は、子供の名前はなるべく固有語でつけた方がよいでしょう。

 外国との科学・文化の交流をつうじて新しく入ってくる外来語は、そのつど朝鮮語になおすようにすべきです。どの国にせよ科学・技術が先に発達した国についていくものです。それで発達した国の言葉が入ってきて外来語が生まれるのです。しかし、外来語も最初入ってくるとき自国語になおせばよいのです。我が国で「テベク(大白)種」と「シベリア北部種」というソ連の種豚が入ってきたので、「中和(チュンホワ)在来種」とかけあわせて新しい種豚をつくったとき、我々はそれを「平壌(ピョンヤン)種」と名づけたのですが、これはなんと呼びよいではありませんか。ほかのものもこのように朝鮮語になおせばよいのです。

 しかし、学術用語はあまりくずして使わない方がよいでしょう。新造語については国語査定委員会でしっかり統制しなければなりません。

 漢語や外来語をなおすからといって、一律になおしてはなりません。漢語といっても人々に確固と認識され、朝鮮語として完全に固定したものは、そのままにしておくべきです。例えば、「ハッキョ(学校)」「パン(房)」などは漢語とみなさなくてもよく、したがってそういった言葉はなおす必要がありません。現在多く使われている「ポプチク(法則)」という言葉を例にとってみても、今、直ちになおして使える適当な言葉がありません。「ケンド(坑道)」という言葉も同じことです。社会科学や自然科学にはこうした言葉が多いのですが、これらをなおすのが問題です。

 そして漢語と固有語の意味は同じであっても、その意味の幅が完全に一致しないものは十分に考慮しなければなりません。例をあげると「チハ(地下)」と「タンソク(土の中)」、「シムジャン(心臓)」と「ヨムトン(心臓)」は、意味は同じでもその意味の幅が同じでないので、漢語と固有語をそれぞれそのままおいておく以外にありません。もしも「チハトゥジェン(地下闘争)」という言葉を「タンソクトゥジェン(土のなかの闘争)」となおすとか、「ピョンヤンは、我がシムジャン」という言葉を「ピョンヤンは、我がヨムトン」となおそうとしてはならないはずです。こういった漢語まで全部なくしてしまうならば、我々の言語生活に一大混乱が生じることでしょう。したがって固有語と漢語の意味が同じであっても、具体的な場合に応じてそれぞれ処理を異にしなければなりません。

 軍事用語はなおすことができます。解放後我々は、幾つかの軍事用語をなおしました。「チャリョッ(気をつけ)」も我々がつくった言葉です。それ以前に使っていた「キチョク(気をつけ)」というのは日本語ですが、独立軍も中国の東北地方でこの言葉を使いました。洪範図もそうだったし、李範奭にしても軍官学校でこの言葉で学生を教育しました。それで我々は「キチョク」を「チャリョッ」に改めたのです。元来号令というものは、最後の音が力づよく響かなければなりません。解放後我々は、旧韓国時代や日本帝国主義支配当時に使っていた号令を全部なおすつもりだったのですが、ついそのままになってしまいました。現在、軍隊で使っている言葉には漢語が少なくありません。

 「バンドクミョン(防毒面)」も漢語であり、採点に用いる「ウ(優)」、「リャン(良)」もすべて漢語であります。世界的に共通した軍事用語ならいざしらず、そうでないものは朝鮮語を使うのがよいでしょう。軍事技術用語も世界的に共通なものを除いては朝鮮語を使うべきです。

 言葉の整理にあたっては、単語の結合関係を考慮すべきものもあります。「イルギ(天気)」という言葉を例にとってみましょう。我々が単に「イルギ」というときは「ナルシ(ひより)」と言えるからそれをなくすことができますが、「イルギイェボ(天気予報)」といった単語の結合を念頭におくときは、「イルギ」という言葉もそのままおいておかなければなりません。

 朝鮮語を発展させるためには、土台をしっかり築かなければなりません。我々は、朝鮮革命の参謀部があり、政治、経済、文化、軍事の各分野にわたる朝鮮革命の全般的な戦略と戦術が立てられる革命の首都であり揺籃の地である平壌を中心地とし、平壌の言葉を基準にして、言語の民族的特性を保存し発展させなければなりません。ところで「標準語」という言葉は、ほかの言葉にかえなければならないと思います。「標準語」というと、ソウル語を標準とするかのように思い違いするおそれがあるので、そのまま使う必要はありません。社会主義を建設している我々が、革命の首都である平壌の言葉を基準にして発展させた朝鮮語を「標準語」だというよりは、他の名称で呼ぶ方が正しいでしょう。

 「文化語」という言葉もそれほどよいとはいえませんが、それでもそのように改めて使う方がましです。

 つぎに朝鮮語を立派に整理するためには、新聞に出して紙上討論にかけなければなりません。言語学も大衆の評価を受ける必要があります。学術用語のようなものも1週間に2、3回程度新聞に出し、整理すべき言葉は一度に15個ずつ新聞に載せて、大衆に評論を書かせたり、質問を提出させたりすべきです。整理すべき言葉は中央紙や地方紙にも出し、反対意見も全部知らせなければなりません。紙上討論では、提起された意見もすべて公表して多くの人の知恵を集めることが大切です。紙上討論をさかんにすれば朝鮮語が立派整理されるばかりでなく、それが大衆に広く知られるようになります。こういうやり方で、用語に対して大衆が評論するようにし、よい意見を集めて最後に標準とすべき言葉をきめて使うようにすればよいでしょう。

 言葉の整理に大衆の知恵を集めればよいものが出てくるはずです。特に、社会科学や技術科学用語のようななおしにくい言葉は広範な討論をへて整理すべきです。

 朝鮮語を整理する仕事は、急がずに長い時日をかけて一つ一つやっていかなければなりません。すべての単語を一日や二日で急に朝鮮語に改めることは決してできません。何十、何百年のあいだ伝わってきた言葉を一朝一夕に全部改めてしまうとすれば、人々が受け入れないのはもちろん、それをなおした人自身もみな記憶できず、全部は使えないでしょう。この仕事は全人民の日常の言語生活と関係があるだけに、主観的な欲求だけで一時的運動としておこなっては絶対になりません。漢語や外来語をいっペんにたくさんなおそうとせず、一つ一つなおしていく、せん滅戦の方法でしだいになおしていかなければなりません。

 まず、我々が日常よく使う言葉から先になおさなければなりません。今、普通教育部門の学校で使用している単語が5000~6000個ぐらいだそうですが、その程度のものを先に整理して普及し、その後のものは整理しておいてから、先のものが全部普及されたのちに発表しなければなりません。みなさんの草案を見ると、一度に2万の単語をなおして出すことにしていますが、それはあまり多すぎます。人民が日常使用する単語が5000なら5000、1万なら1万にきめておいて、それから先になおしていった方がよいでしょう。蚕が桑の葉を食べるように、徐々にやっていくべきであって、そうでないと大きな混乱をひき起こしかねません。したがって、我々が日常よく使う言葉から先になおしていかなければなりません。

 そして、先ほど述べたように、軍事用語はいずれなおさなければなりませんが、今すぐなおすのは少々早いようです。軍事用語は、今後状況を考慮してなおさなければなりません。それをなおす場合も、辞典には載せずに別途になおすべきです。

 言葉を幾つかずつ計画的になおしたあと、すべての人が必ずそれを使うようにしなければなりません。そのためには言葉を十分に整理し、確実性のある用語を世に出さなければなりません。そうしないで確実性のないものを出せば、人々はそれを受け入れず従来の言葉をそのまま使うことになるでしょう。だからこの仕事は慎重を期さなければなりません。

 人々に固有朝鮮語を使わせるためには、単語集をつくらなければなりません。7000-8000語あるいは1万語程度の単語を収録した辞典をつくつて標準にするようにすれば、人々がいちいち学者を訪ねて回らなくてもすむでしょう。しかし、こうした単語集は出版部数を多くする必要がありません。

 それから学術用語集を出版したいというみなさんの意見ですが、それはまだ確実性がないだけに、出版して書店で販売せず、草案をつくつて機関だけに配布すべきです。そうして党および国家機関でそれを当分のあいだ標準にするようにし、学術用語が機関からしだいに下部に普及していくようにしなければなりません。学術用語は下部でつくりだすものではなく、中央で、内閣や省でつくって下部におろすものです。したがって、学術用語の草案を各機関でまず5~6年あるいは10年ぐらい使用しながら、その間にひきつづき整理して出すようにしなければなりません。

 つぎに、固有朝鮮語を大衆のなかに速やかに普及するためには、それを教育部門、特に初等学校から先に取り入れるようにし、新聞や放送でもすぐ取り入れるようにしなければなりません。

 今、年をとった人は漢語を使っていた習慣から、普通の言葉も漢語をたくさん使っています。「イルサンヨンオ(日常用語)」という言葉も「ヌルスヌンマル(いつも使う言葉)」と言えばいいものを、漢語に慣れているためにそのまま使っています。年寄りは、文章を書くときも古い綴字法のくせがついて書き違えます。

 それゆえ朝鮮語をよく普及させようとすれば、学校から始めなければなりません。学校では人民学校の1年生から、新しく整理した朝鮮語を教えるべきです。固有朝鮮語を全部生かして子供たちに教え、かれらが大人の間違った言葉を正してやるようにしなければなりません。例えば、年寄りが「オチム(午寝)」と言えば、子供たちがその場で「ナッチャム(ひる寝)」だと正してやれるようにしなければなりません。そして年をとった人たちは過去に言葉を習い間違え、漢語のくせがついてしまったことを自覚し、朝鮮語を習って極力新しいものを生かすために努力すべきです。こうして我々は古いものを捨て、新しいものを取り入れる方法で朝鮮語をよみがえらせていかなければなりません。

 固有朝鮮語を速やかに普及するためには、標準とすべき朝鮮語草案を、教科書をつくるときも使うようにし、草案が決定版になるにともなって教科書の用語も数年ごとに改めていくようにすべきです。標準とすべき朝鮮語草案は、大学にも提供して標準にするようにさせるのがよいでしょう。また、新聞社や放送局にも標準とすべき朝鮮語の草案を提供して使わせなければなりません。数年間このようにしていけば、かつて封建支配層が事大主義に陥って取り入れた外来語や漢語がいくらか整理されることでしょう。

 かつて朝鮮人に事大主義が大きく作用したところから、言語学に限らず、他の部門にもその影響が少なからず及んでいます。

 以前平壌には「箕子廟」というのがありましたが、これも結局は事大主義の産物です。我々が「箕子廟」を取り払ってその跡に楼閣を建てたので、今はだれも「箕子」を訪ねる人がいません。こうした伝説のなかでも、事大主義のためにゆがめられたものはすべて正さなければなりません。

 今でも一部の人は事大主義を捨てきっていません。一部の学者は、国内の資源を研究して我が国の工業を発展させようとはせず、外国に頼って生きようとしています。我々は経済建設の分野で事大主義に反対し、主体性を確立して我が国の資源で自立的経済を建設する方向に進まなければなりません。

 言語学でも主体性を確立して朝鮮語を系統的に発展させ、人々がそれを使うことに民族的な自負と誇りをもつようにしなければなりません。

 全世界が共産主義社会になるまでは、人々がそれぞれ民族別に暮らす以外になく、朝鮮人は朝鮮の国土で暮らすはずであるから、朝鮮語はひきつづき使うことになるでしょう。したがって我々は、なんとしてでも朝鮮語を立派に生かし発展させなければなりません。

 事実、我が国の言葉は抑揚がはっきりしており、聞いても美しいものです。朝鮮語の発音法をおばえれば、どの国の言葉でもみな自由自在にこなせます。ある人たちは、漢語と外来語を使ってこそ知識があって威信があるかのように考えていますが、そうした考え方は捨てるべきです。

 我々は、すべての人が、漢語や外来語を使うのは民族的誇りのない人であって、自国の言葉を立派に使ってこそ、知識があり民族的自負の高い人だと考えるようにしむけなければなりません。そうしてだれもが「シプクセ(19歳の漢字音)」といわないで「ヨルアホプサル(19歳の固有朝鮮語)」といったふうに、自国の言葉を生かすのが文明度が高いのだという観点にしっかり立つようにしなければなりません。それでこそ、朝鮮語を生かし発展させることができるのであり、次の世代にも朝鮮語を失わないようにその土台をしっかり固めてやることができます。

 特に、古書を翻訳する学者のあいだに、朝鮮語を生かして使ってこそ文明度が高いのだという観点を確立しなければなりません。

 学者たちが古書を翻訳したのをみると、おびただしい漢語をそのままにしています。むろん、それも朝鮮の文字で表記してはいますが、漢文式の言葉そのままなのです。このように漢語をそのままにしておくので、読者が古書の翻訳本を読んでもよく理解できないのです。我が国には古書がたくさんありますが、それをみな漢文式に翻訳したために、固有朝鮮語で翻訳しなおさなければならないありさまです。そういうわけで、青少年たちも昔の本を読みたがりません。青少年が昔の本を読めないので民族的な風俗も知らなければ、礼儀もよく守れないのです。我々は必ずこの問題を解決しなければなりません。

 我々は昔の小説を現代人に読めるよう現代化しなければなりません。古書を現代化せずに、人々に漢字を教えてそれを理解させるのは難しいことです。以前『春香伝』を平易に書きなおすようにと言ったところ、今では少しましになりましたが、他のものも全部わかりやすく直さなければなりません。昔の小説に限らず、伝説集や史話集も現代人に理解できるように現代化しなければなりません。ここで昔の作品の話がでたついでにもう一つ話したいのは、古書をもとにして映画や演劇などをつくるときは卑俗化してはならないということです。映画『両班伝』あまり卑俗化されて味わいがありません。元来この作品は、当時の階級闘争を描いたものであるのに、卑俗化したため子供たちは単なる喜劇として見ています。

 古書の翻訳は漢文に造詣の深い人にやらせなければなりません。今後、金大(金日成総合大学)に古典文学科のようなものを別に設けて、すぐれた人を数十名受け入れて漢文を教え、また文学も教えるのがよいでしょう。かれらの修業年限は4年が短いようだったら6年にしてもかまいません。

 我々はなるべく漢語を使わないようにしながらも、学生に必要な漢字は教え、その書き方も教えなければなりません。南朝鮮の出版物や過去の文献には漢字が少なくないので、人々がそれを読んで理解できるようにするには、ある程度の漢字は教えなければなりません。

 我々が学生に漢字を教えるからといって、いかなる形式であるにせよ漢字を教科書に入れてはなりません。漢字は使わないことにしているのに、どうして教科書にそれを入れることができるでしょうか。教科書に漢字を入れれば、南朝鮮と同じ状態になってしまいます。日本人のように自国の文字と漢字をどうしても混用しないわけにはいかないというならいざしらず、そうでない限り教科書に漢字を使う必要はありません。

 朝鮮語を生かして普及するとともに、我が国の文字をいっそう発展させるために大いに研究しなければなりません。

 今の我が国の文字は四角ばった音節文字であるため、書くのに多少不便です。我が国の文字は、主に音韻を標準にしているため発音には便利であっても、単語形態にはなっていません。それで文字がいく分読みづらく、書くとき少しでも画を書き違えてはいけないようになっています。それに我が国の文字は印刷の機械化にも不利です。我が国の文字ではタイプをうつにも不便です。

 文字を読みやすくするためには、単語を形態化してひと目ではっきりとわかるようにしなければなりません。もちろん漢字には欠点もありますが、個々の字が意味をもって目に映ってくるという長所があります。だからといって我が国の文字を漢字の形にかえようというのではありません。我々は、あくまでも我が国の文字をもって我々の方式でつくるべきです。文字を読みやすくつくりかえるからといって、ラテン文字を取り入れようとしてもなりません。ラテン文字では朝鮮語の発音を全部あらわすことができません。できるだけ我が国の文字を音素文字で横つづりにしタイプにも便利で、単語も見やすくするのがよいでしょう。昔、我々の祖先も文字を改めようとたいへん努力しました。『周時経遺稿集』で、朝鮮文字を音素文字で横つづりにした例をみると、それも悪くありません。それに、さらに手を加えて洗練させてみるのもよさそうです。そして文字を改めたのちには、文字の原形はどうで、それをどう改めたかを知らせて、新しい文字をおばえさせるとともに、本来の文字も捨て去ることのないように心がけるべきです。

 しかし、我々が文字を改めて今すぐ使おうというのではありません。朝鮮人民は単一民族です。それゆえ、祖国が統一されるまえには文字の改革をおこなってはなりません。

 かつてある人は、功名心にかられて文字改革を直ちに実施しようといいました。南北が統一されていないのに、文字改革をおこなうならばどうなるでしょうか。同じ民族同士が手紙をやりとりしても読めなくなり、結局我が民族は分裂してしまうことでしょう。また文字を改革すれば、科学・文化の発達にも大きな支障をきたすおそれがあります。にわかに文字を改めてしまえば、文字を知っていた人もみないっペんに文盲になってしまうでしょう。それで我々は、文字をにわかに改革するのに反対しました。

 今日、我が国の科学・文化は著しい発展を遂げています。我々は技術義務教育制をすぐ実施する予定ですが、そうなれば、今後我が国勤労者の全般的な技術・文化水準はいっそう高まるでしょう。だが、勤労者の技術・文化水準がいくら高まっても、祖国が統一されるまでは絶対に我が国の文字を改革するわけにはいきません。

 だからといって文字改革についての研究をやめようというのではありません。今から文字改革案を準備して成熟させ、祖国が統一されるまえに、それを完成しなければなりません。うまくいけば改めた文字を学校で少しずつ教えてもいいでしょう。このように準備しておいて、人民の技術・文化水準がさらに高まり、祖国が統一されれば、現在の四角ばった音節文字を廃止し、直ちに新しい改良文字を使えるようにしなければなりません。祖国の統一はそう長びきはしないでしょう。それゆえ、文字改革の準備も今からやらなければなりません。

 言語学者たちは文字改革案を研究するかたわら、現在の四角ばった音節文字をもっても、読みやすくするため大いに工夫しなければなりません。元々、四角ばった音節文字は、横読みより縦読みの方が便利にできているのですが、よく研究さえすれば横読みにもさほど不便がないようにすることができます。

 朝鮮語の文章を読みやすくするためには、単語の分かち書きを正しく規定することが大事です。今のように、あまりたくさん離して書くと読みずらいものです。分かち書きがよくできていないと、文章を上手に読めない人はいうまでもなく、そうでない人でも文章がよく読めません。新聞なども分かち書きがよくできていないと読みにくいものです。例えば、「人類文化」のような言葉を「人類」と書いてから離して「文」と書き、行をかえてまた「化」と書いておくと「人類、文、化」と読むようになるので問題です。報告書もこういうふうに書けばだれにでも読みにくいでしょう。

 我々は、今後分かち書きの規定を合理的に改め、人々の読書力を高めるようにしなければなりません。以前にも何度か話しましたが、分かち書きでは、字を少し接着させる方向に進むべきです。かりに「社会主義建設」と書くとき、「社会主義建設」とつづけて書かずに「社会主義 建設」と離して書くと読書能率があがりません。分かち書きを正しく規定するのは、朝鮮語の文章を早く読み、容易に理解できるようにするうえで非常に重要な意義があります。したがって、分かち書きを正しく規定し、それを人々によく教え、出版物でも分かち書きを正しくしなければなりません。タイピストにも分かち書きをよく教えるべきです。そうしないと自分勝手にめいめい違った離し方で打ちます。漢字を混ぜてタイプを打つなら別ですが、そうでない以上は規定どおりに読みやすく、正しい離し方で打つようにしなければなりません。

 分かち書きは、新しく決めようとしている規定の方が、現在使用しているものより多少まさっているようです。もちろん、新しい規定にも部分的な欠点はありましょう。しかし、それなりに使用しながら、不備な点はなおしてさらに完成していくようにすべきです。

 学者がつくった「朝鮮語規範集」草案はそのまま出してもよさそうです。字母の数を24字にしようという意見と40字にしようという意見とがありますが、文字を改革するまではこれまで通り40字にするのがよいでしょう。

 朝鮮語をよく整理し、それをさらに発展させるためには、より多くの言語学者を育成しなければなりません。師範大学や教員大学では、カリキュラムに朝鮮語の時間をもっとたくさん割り当て、学生たちが朝鮮語を十分に学べるようにすべきです。以前、姜健軍官学校に行ってみたところ、学生の学習に必要な資料を壁に張り付けて教えていました。師範大学や教員大学などでも、朝鮮語に関する資料を書いて掲示する必要があります。

 党は、みなさんに大きな期待をかけています。みなさんは、朝鮮語を生かし、我が国の文字を発展させるために積極的に努力して、党の期待に立派にこたえなければなりません。


 (注)『周時経遺稿集』 朝鮮近代初期の言語学者、教育者である周時経(チュシギョン・1876~1914年)の著作をまとめて1957年に科学院言語文学研究所で編さんした遺稿集。

 本書に編さんされている彼の著作は、朝鮮の言葉と文字に対する科学的研究において価値あるものが多い。

出典:金日成著作集 20巻

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