「朝鮮民主主義人民共和国における社会主義建設と南朝鮮革命について」

3 社会主義経済建設について


 権力を握ったマルクス・レーニン主義党にとって、経済建設は極めて重要な課題となる。

 マルクス・レーニン主義党がいったん政権を握った以上は、人民の生活にたいして責任を負い、その物質的・文化的福祉を系統的に増進させる義務がある。経済建設を立派におこなってこそ、人民の生活問題を解決することができるのである。また経済建設は、国の威力を強め、革命で既に達成した勝利をかため、それをさらに拡大発展させるための物質的条件をつくりだす。特に、我が国の北半部における経済建設は、北半部の人民の幸福な生活のためだけでなく、祖国統一の保障である我々の革命基地を強化し、南朝鮮人民の革命闘争を支援するうえで決定的な意義をもつ。それゆえ我が党は、解放直後から国の経済的土台をかため、人民の生活をたえず向上させるために全力をつくしてきた。

 かつて、帝国主義の植民地支配下にあった我が国において、近代的な工業を創設し発展させることは、社会主義経済を建設するうえで最も重要な問題であった。

 日本帝国主義支配下の我が国の工業は貧弱なものであった。日本帝国主義資本の独占的支配によって民族工業の発展は極度に抑えられ、祖先伝来の手工業までもすべて破産した。日本帝国主義者は、ただ朝鮮の資源を略奪し、朝鮮人民の膏血を搾り取るために、我が国に原料と半製品を生産する若干の工業を建設したにすぎない。加工工業はとるに足りず、特に機械製作工業はほとんどなかった。工業の技術装備は非常に立ち後れていた。

 我々が旧社会から受け継いだものは、このような植民地的工業であったが、それさえも戦争によって残らず破壊されてしまった。

 このような状況のもとで、単にこれまでの工業を復興し発展させるだけでは、近代的工業を創設することはできなかった。我々は工業生産の高い成長速度を保障しながら、同時に、我が国工業の植民地的跛行性を一掃し、その技術装備を根本的に改善しなければならなかった。

 解放直後、我が党は重要産業の国有化にもとづいて工業建設を力強くおし進め、特に戦後にこれを大々的にくりひろげた。こうして我々は、近代的な工業を創設するうえで大きな成果をおさめた。

 戦後の1954年から1963年までの10年間に、工業生産の年平均成長率は34.8%に達した。1964年に我が国の工業生産は、戦前の1949年に比べておよそ11倍、解放前の1944年に比べて13倍以上に増大した。

 工業生産が急速に増大したため、工業および農業総生産額のうち工業のしめる割合は、1946年の28%から、1964年には75%に高まった。

 重工業は、人民経済発展の基礎である。重工業を発展させなければ、軽工業と農業を発展させることも、人民経済のすべての部門を現代技術で装備することもできない。特に、重工業は国の政治的・経済的独立の物質的な基礎であり、これがなくては自立的民族経済とはいえず、国防力を強化することもできない。

 重工業建設における我が党の路線は、新しい技術で装備され、主として国内の天然資源と原料源にもとづいて発展し、そして、我が国の人民経済に必要な資材、原料、燃料、動力および機械設備を基本的に国内で生産し供給しうるみずからの重工業基地をつくりあげることであった。これはすなわち、自立的で近代的な重工業を創設する路線である。

 我が党のこのような路線を貫くうえで最も重要な問題は、重工業工場の復旧と改造および新設を合理的に組み合わせ、重工業の発展と軽工業および農業の発展を正しく結びつけることであった。

 我が国にあった重工業というのは、技術装備が旧式で奇形的なものであり、ひどく破壊されたものであったが、だからといって、我々はこれを捨てるわけにはいかなかった。我が党は既存の重工業の土台を最大限に利用するために、それを復旧し、新しい技術にもとづいて改造、拡張すると同時に、我が国になかった工業部門や企業所などを新設する方針をとった。

 党はまた、重工業の優先的な発展を確固と保障しながらも、重工業のための重工業ではなく、軽工業と農業の発展、人民生活の向上に最も効果的に奉仕できる重工業を建設するために努力した。

 こうして我々は、歴史的短期間に比較的少ない資金で強力な重工業基地を建設し、これにもとづいて軽工業と農業も速やかに発展させることができた。

 我が国の重工業は、基幹部門をすべて備え、新しい技術で装備され、みずからの強固な原料基地をもつようになった。1964年に我が国の重工業は、電力125億KWh、石炭1440万トン、銑鉄と粒鉄134万トン、鋼鉄113万トン、化学肥料75万トン以上、セメント260万トンをはじめ、各種の生産手段と機械設備を大量に生産した。

 重工業の建設で我々がおさめた最も大きな成果の一つは、みずからの機械製作工業を創設したことである。

 修正主義者は「国際分業」を云々しながら、我が党の重工業建設方針に反対し、特に我が国では機械製作工業を発展させる必要がなく、鉱石その他の原料のみを生産すればよいといった。もちろん我々は、このような意見に従うわけにはいかなかった。

 我が党は、既に戦争中から地下に機械工場を建設しはじめ、戦後に機械工業を速やかに拡大した。

 5か年計画期間に入って、我々は、我が国の人民経済に必要な中小機械設備や部品ばかりでなく、大型機械設備もできるだけ自力で生産するために、機械製作工業を大々的に発展させた。

 経験がなく、技術も未熟な我々にとって、これは極めて困難なことであった。我が国の機械製作工業の発展を快く思わない人たちが、我々に力をかすはずのないのはいうまでもない。我々は、トラクターや自動車など近代的機械設備をはじめて生産するとき、設計から組立てにいたるまで、すべてを自力でおこなわなければならなかった。我が国の労働者と技術者は、失敗に失敗を重ねながらも歯をくいしばってたたかい、ついにこれらの機械設備をつくることに成功し、それを量産するようになった。我々はまた、工作機械をもっているすべてのところで、工作機械をつくりだす大衆的な「工作機械の子生み運動」をくりひろげて、機械製作工業の土台を速やかに拡大するとともに、我が国の勤労者に、どんな機械でもすべて自力でつくれるという確信をいだかせた。

 我が国の機械製作工業は、このような苦難にみちたたたかいをつうじて創設された。しかしこの過程で、我が国の勤労者は、貴重な経験を積み、自分の力と才能にますます確信をもち、あらゆる苦労を重ねて自力でつくりあげた機械設備をいっそう大切にするようになった。

 こうして、かつて我が国には機械製作工業がなかったが、いま我々は発電設備、化学設備、冶金設備、自動車、トラクター、掘削機などの大型機械設備をはじめ、我が国の人民経済に必要な機械設備を基本的に国内で生産している。1964年に、工業生産のうちで機械製作工業のしめる比重は25.8%であり、機械設備の国内自給率は94.3%に達した。

 現在、機械製作工業を中核とする我が国の重工業は、人民経済の各部門を現代技術で装備し、国の政治的・経済的独立を確固と裏付ける頼もしい物質的土台となっている。

 軽工業は、我が国で最も立ち後れた部門の一つであった。我々は、人民の需要をみたすみずからの軽工業基地をきずきあげるために大きな力をそそいだ。

 一般消費物資の生産にたいする我が党の政策は、大規模の中央直轄工業と中小規模の地方経営工業を並行して発展させることである。

 我々は、軽工業の骨幹をなす大規模な中央直轄工業に属する工場を少なからず建設し、その技術装備をたえず強化していろいろな消費物資の生産を極力増大させた。

 しかし国の経済事情からして、大規模な軽工業工場を一度にたくさん建設するわけにはいかず、それにばかり頼っていたのでは、軽工業の立ち後れを速やかに一掃することもできず、急速に増大する人民の需要をみたすこともとうていできなかった。一般消費物資の生産で革新を起こすには、決定的な対策が必要であった。

 そこで我が党は、消費物資の生産を全人民の運動として発展させることを決定し、各市、郡に一つ以上の地方産業工場を建設する方針をうちだした。全国各地の勤労者は、党の方針を貫くためにこぞって立ち上がり、わずか数か月のあいだに、国家資金はそれほど使わずに、地方の遊休資材、遊休労働力を利用して1000余の地方産業工場を建設し、各種の消費物資を大量に生産するようになった。いま我が国には2000以上の地方産業工場があり、その技術装備も著しく改善された。我が国の地方経営工業は、全国で生産される消費物資の半分以上を受け持っている。

 我々の経験は、軽工業部門ではその経済的・技術的特性からして、一般的に大規模の工場と中小規模の工場を並行して発展させるのが合理的であり、特に技術が比較的単純で規模の小さい地方経営工場を多く建設することは、立ち後れた国で消費物資の生産を増大させ、工業全般を速やかに発展させる効果的な方法であることを示している。地方経営工業を建設することはまた、国のすべての地方をひとしく発展させ、特に工業を農業に接近させ、都市と農村の差をしだいになくすうえで、極めて重要な意義をもっている。

 我々は、中央直轄工業と地方経営工業からなるみずからの軽工業基地をきずきあげ、国産の消費物資で人民の生活を保障することができるようになった。紡織工業をみても、織物の生産は解放前に比べて195倍に増大し、人口一人当たり25メートルの各種の織物がゆきわたるようになった。食品工業と日用品の生産も急速に発展した。

 我が国の消音物資はまだ品質がよいとはいえず、その品目も需要を充足させるほど多様ではない。しかし、我が国の勤労者は、自分たちの使うすべての消費物資がみずからの手でつくったものであることに誇りを感じており、それを非常に愛用している。我々は、消費物資の品質を全般的に世界的水準に高め、品目をさらに多様にする問題を近いうちに解決するであろう。

 農村問題は、社会主義建設で非常に重要な位置をしめている。

 農村問題は、労働者階級の同盟者としての農民の社会的・経済的地位にかんする問題であり、人民経済の2大部門の1つである農業の生産力の発展にかんする問題である。社会主義的農業協同化の完成は、この問題を解決するうえで歴史的な転換となる。しかし、これはまだ、農村問題の最終的な解決を意味するものではない。

 農村で社会主義制度がうち立てられた後には、この制度をたえず強化し、それにもとづいて農業生産力を高度に発展させ、農民の生活を豊かにし、搾取社会が残した農村の立ち後れをなくして都市と農村の差を徐々になくさなければならない。

 社会主義社会でも、農業は工業に比べて物質的・技術的土台が弱く、農村住民の文化水準は都市住民のそれより低く、農民は労働者より思想・意識が立ち後れている。また、都市にたいする農村のこのような立ち後れのため、全人民的所有の支配する工業とは違って、農業では協同的所有が支配的な形態として残るようになり、したがって、労働者階級と農民の階級的差も残るようになる。ただ、都市と農村の差、労働者階級と農民の階級的差をなくしてのみ、農村問題は最終的に解決される。

 社会主義社会で農村問題を成功裏に解決するためには、農村で技術革命と文化革命、思想革命を徹に遂行しなければならず、農村にたいする支援を全面的に強め、農業にたいして協同的所有を全人民的所有にたえず接近させなければならない。我々は農業協同化を実現した後、このような原則に従って農村活動を進めてきた。

 過去の我が国の農業は、中世的な後れた技術にもとづいていた。我が国ではまた、農業の技術的改造がほとんどおこなわれないまま協同化が実現された。こうして、農村の技術革命は、協同化された社会主義的農業の発展にとって最も切実な問題として提起された。

 我が党は、農業協同化が完成に近づき、工業が発展するにともない、直ちに農村の技術革命の遂行にとりかかった。

 党は水利化、機械化、電化、化学化を農村技術革命の基本的課題として規定し、まず水利化から始めた。

 農業は工業と異なり、自然地理的条件、特に気候条件に大きく左右されるため、水利化は農業において高い安定した収穫をもたらす基本的な裏付けとなる。戦後、我々は莫大な国家資金を投じ、全人民的運動で水利化をめざす大自然改造事業を進めた。こうして我々は、農業で日照りや大雨の被害を基本的に克服し、凶作を知らない強固な生産の土台をきずきあげた。

 機械化、電化、化学化でも少なからぬ成果がおさめられた。現在、我が国の農村のトラクター保有台数は2万台(15馬力換算)で、耕地面積100ヘクタール当たり1台ずつゆきわたり、化学肥料の施肥量は1ヘクタール当たり300キログラム程度である。解放前には、我が国の農村には電気が入っていなかったが、いまでは全農村の里の95.5%、全農家戸数の81%に電気が引かれている。

 我々は水利化、機械化、電化、化学化を強力におし進めながら、農業科学の成果と先進的な営農技術を広く取り入れ、特に集約農法を発展させるためにたゆみなく努力した。

 これらすべてのことによって、我が国の農業生産はひきつづき急速に発展した。穀物生産は解放前に比べて2倍に伸びた。畜産業をはじめ、農業の他の部門も大きく発展した。我が国で歴史的に最も困難な問題の一つであった食糧問題が基本的に解決され、我々は既に数年前から食糧を自給自足している。

 農業生産力が発展し、農村で文化革命と思想革命が力強くおし進められた結果、農村の姿は変わり、農民の生活は改善され、かれらの政治的な自覚と意識水準はますます高まった。我が国の社会主義的農業協同経営制度はいっそう発展し、農業にたいする指導と管理においても合理的な体系がうち立てられた。

 もちろん、社会主義農村建設の膨大な任務に比べると、農村事業でおさめた成果はまだ初歩的なものである。しかし、我々は社会主義農村建設の強固な土台をきずきあげた。我々はまた、みずからの成果と経験にもとづいて、社会主義農村問題解決の正しい方向を見いだし、これから先、農村事業においてなすべきことをはっきり知っている。我が党と人民は、既におさめた成果にもとづき、そして定められた方向と課題に従って、農村問題をひきつづき立派に解決していくであろう。

 立ち後れた国での社会主義建設における最も重要な問題の一つは、民族幹部の養成である。

 解放直後、我々には民族幹部、なかでも技術幹部が非常に少なかったが、これは国家の管理と経済、文化の建設で最も大きな難関の一つであった。それゆえ民族幹部の問題は、我々にとって常にさし追った問題となっていた。

 民族技術幹部の隊列をととのえるうえで、古くからのインテリの問題は重要な意義を有する。古くからのインテリを新しい社会の建設に引き入れるか否かは、国の経済、文化の発展に大きな影響を及ぼす。特に革命の初期にはなおそうである。

 もちろん、我が国の古くからのインテリは、その大部分が有産階級の出身であり、過去には帝国主義者や搾取階級に奉仕した。しかしかれらは、植民地国のインテリとして、外国帝国主義の抑圧と民族的な差別待遇を受けてきたため、かれらには、もともと革命性がそなわっていた。

 我が党は、新しい社会の建設でインテリが果たす重要な役割と我が国におけるインテリのこのような特質を十分に考慮し、解放直後からかれらを包容し、勤労人民に奉仕するインテリに改造する方針をとった。

 古くからのインテリの圧倒的多数は党のこの方針に励まされ、解放後、人民の側に立って革命闘争と建設事業に積極的に参加した。こうしてかれらは、国の経済、文化の建設に貴重な貢献をなし、いまもひきつづき大きく寄与している。

 我が国の古くからのインテリは、党のたゆみない教育と革命闘争の試練をつうじて、特にアメリカ帝国主義の武力侵略に反対する祖国解放戦争の試練をつうじて、こんにちでは立派な社会主義的インテリに改造され、重要な民族幹部に成長した。

 我が党は古くからのインテリを改造するとともに、勤労人民出身の新しい民族幹部を養成することに最大の関心を払った。党は民族幹部の隊列を早急に拡大するため、幹部養成事業と教育事業を、他のすべての事業に優先させる方針をとった。

 我々には経験もなく、すべての条件が十分にととのっていなかったが、解放直後、総合大学をはじめ少なからぬ大学を設立し、各級の教育網を大々的に拡大した。苛烈な戦争の最中にも民族幹部の養成をつづけ、戦後にはこの事業にさらに大きな力をそそいだ。

 我が国では既に、1956年に初等義務教育制が実施され、1958年からは中等義務教育制が実施されている。我々はここ数年のうちに、9年制技術義務教育を実施するであろう。

 現在我が国では、9000余の各級学校で全人口の約4分1にあたる学生が勉強しており、そのうち大学生だけでも15万6000名に達している。

 我が党が教育事業と幹部養成事業で堅持しているいま一つの重要な方針は、一般教育と技術教育、教育と生産労働を密接に結びつけることである。

 我々は以前の中等教育体系を改めて技術教育体系を樹立し、教育の内容もさらに改善して、若い世代がすべて、科学の基礎にたいする一般知識とともに、一定の技術知識を身につけるようにした。我が国ではまた、夜間および通信教育網、工場大学、共産大学をはじめ、働きながら学ぶ教育体系が広く取り入れられ、数多くの勤労者が生産から離れることなく中等および高等技術教育を受けている。

 我々は、国の経済状態が困難であったにもかかわらず、立ち後れた状態から早急に脱するために、我々の前進テンポをいっそう速めるために、すべての困難と障害をのりこえて幹部養成事業と教育事業にこのように大きな力をそそいだ。その結果、我々は比較的短い期間にみずからの民族幹部の隊列をととのえ、今後新しい幹部をさらに多く育成できるようになった。1964年10月現在、我が国人民経済の各部門で働いている技術者、専門家の数は29万以上にのぼっている。我が国では大規模の近代的工場をはじめ、すべての工場、企業所が、もっぱら我々の民族技術幹部によって管理運営されている。

 このように、我々は共和国北半部に先進的な社会主義制度をうち立てたばかりでなく、国の経済を自力で運営しうる経済的・文化的基礎をきずきあげた。これは、我が国人民の幸せな生活と我が社会の将来の繁栄のための下地となる。これはまた、我々の革命基地を政治的、経済的、文化的にかためたことを意味し、祖国の統一と朝鮮革命の最終的な勝利をかちとる強固な裏付けとなるものである。



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