「朝鮮民主主義人民共和国における社会主義建設と南朝鮮革命について」

2 社会主義制度の樹立について


 私的所有にもとづく古い生産関係を一掃するか、または改造して、社会主義的生産関係の全一的支配を確立するのかは、社会主義革命の基本的な内容をなしている。我が国における社会主義的生産関係の樹立は、帝国主義者とその手先の所有を奪い、封建的土地所有関係をなくしたうえで個人農経営を協同化し、私営商工業を社会主義的に改造するなど、一連の革命的変革をつうじて実現した。

 我が国のように、かつて立ち後れた植民地農業国であり、農民が人口の絶対多数をしめていた国々で、農村の社会経済的関係を変革することは、新しい社会の建設にとって特に重要な意義を有する。

 解放直後、我々にとって最も緊急な革命課題は、農村で支配的であった封建的関係をなくすことであった。

 我々は、地主の土地を無償で没収して農民に無償で分与するという原則に立って土地改革を徹底的におこない、農業生産力を封建的なくびきから解放し、農民を地主の搾取と従属から解放した。これは、農業を速やかに発展させ、農民の生活を改善するだけでなく、労農同盟を強化し、国の全般的な政治・経済・文化生活を民主化するうえでも、大きな意義をもつ革命的変革であった。

 しかし、封建的関係をなくすことは、農村問題解決の第一歩にすぎない。土地改革が実施された結果、我が国の農村では、小商品生産的な個人農経営が支配的なものとなった。周知のように、農村で小農経営が支配しているかぎり、生産力の発展は一定の限界につきあたらざるをえず、搾取と貧困は完全にはなくならない。農業生産力を古い生産関係の束縛から完全に解放し、農民をいっさいの搾取と抑圧から永久に解放するためには、農業の社会主義的協同化をおこなわなければならない。

 我が国における農業協同化は、戦後において最も機の熟した要求となった。戦争によって農業がひどく破壊され、労働力と畜力が非常に少なくなった状況のもとで、個人農経営をそのままにしておいたのでは、農業生産力を速やかに復旧することも、農民の生活を改善することもできず、特に、戦争中にいっそう増加した貧農の問題を解決することもできなかった。当時は、農民のほとんどがなんらかの形で互いに協力しなければ、とうてい農業を営むことができないほど、さし迫った状態におかれていた。他方、我が国の人民経済で指導的な地位をしめる社会主義的国営経済は個人農経営に大きな影響を与えていたし、特に我々は、社会主義工業の速やかな発展にもとづいて、農民の協同化運動に物質的援助を与える可能性をもっていた。農村の階級的力関係からしても、戦争で富農の経済的土台が破壊され、その影響力は極めて弱く、その反面、勤労農民は長期にわたる革命闘争と厳しい戦争をつうじて政治的にめざめ、党のまわりにますますかたく団結していた。

 これらすべてのことから、我が党は停戦直後、農業協同化を当面の課題としてうちだし、農民の熱意が高まるに従ってこの運動を積極的におし進めた。

 我が国における農業協同化は、厳格に実物教育と自発性の原則にもとづき、また党と国家の強力な指導と援助によって、戦後4、5年という短い期間に成功裏に完成した。

 最初我々は、協同化を最も積極的に支持する貧農と農村の党の中核分子で、テストケースとして各郡にいくつかの協同経営を組織し、それを強化する仕事から始めた。これは、我が国における農業協同化運動の経験的段階であった。いかなる革命闘争や建設事業においても、他国の経験を研究し取り入れることももちろん必要であるが、最も重要なのは、あくまでもみずからの経験である。まして、農業協同化のような深刻で複雑な社会経済的変革を、みずからの一定の経験を積むこともなしに、他国の経験だけに頼ったり、または、単なる主観的な願望にもとづいてはじめから大々的におこなうことはできない。

 我々は経験的段階をつうじて、我が国の実情に適する協同化の形態と方法、速度を正しく定めることができたし、幹部にこの運動を指導する経験を積ませ、自信をもたせることができた。また、我々自身の経験にもとづいて、農民に協同経営の優位性を実物をもって示し、これによってかれらが進んで大衆的に協同経営に入るようにすることができた。

 労働者階級の党と国家の指導と援助は、農村における社会主義制度の発生と強化発展にとって不可欠の条件である。我々は農民を社会主義的集団化の道へ導くために、かれらにたいしねばり強い政治活動をおこない、組織された協同経営を政治的、経済的に強化するために全力をつくした。協同化運動にたいする我が党の精力的な指導と国家の強力な物質的援助は、戦後のあらゆる難関にうちかち、社会主義的農業協同経営制度のゆるぎない勝利を保障するうえで決定的な役割を果たした。

 外国の修正主義者、大国主義者とそれに追随する我が国の反党分派分子らは、我が党の農業協同化政策にたいしても、あれこれと中傷した。かれらは、社会主義的工業化が実現せず、近代的な農業機械がない条件のもとでは、農業の協同化は不可能だとか、我が国での農業協同化のテンポはあまりにも速すぎるといった。こうした主張をするのは、我が国の具体的な実情を知らず、また知ろうともしない連中であった。

 もしも我々が、農業協同化に必要な諸条件が最も成熟した時機を逸し、近代的な農業機械を大量に生産しうるほど工業が発展するのを待ちながら農業協同化を適時に実現しなかったならば、農業を速やかに復興することはできなかったであろうし、これは結局、工業そのものと人民経済全般の発展をも著しく遅らせたであろうことは、極めて明白である。

 我々の経験は、近代的な農業機械がほとんどない場合でも、生活が古い生産関係の改造を切実に求め、またそれをなし遂げるだけの革命力量が準備されたときは、農業協同化を十分におこなうことができるし、そうして組織された協同経営も、個人経営に比べればはるかにすぐれていることを示している。

 都市における社会主義的生産関係の樹立は、農村とは異なる方法で進められた。

 かつて我が国の経済は、工業をはじめ、主要部門を日本帝国主義の資本が独占し、民族資本の発展は極度に抑止されていた。そこで解放直後、我々には土地改革とともに、産業の国有化が反帝反封建民主主義革命の重要な課題として提起された。我々は、日本帝国主義と民族反逆者の所有となっていた産業、運輸、逓信、銀行などを国有化して、国の基本的な生産手段を全人民の所有に変えた。これは、外国帝国主義の経済的基盤を一掃し、我が国にはじめて社会主義的国営経済をうち立てる歴史的な変革であった。

 産業国有化をおこなった結果、我が国人民経済では社会主義的国営経済が指導的地位をしめるようになり、もともと弱体であった資本主義的商工業は、ますます付随的な役割しか果たせなくなった。このような状況から我が党は、社会主義的国営経済の速やかな拡大と発展にもとづいて、資本主義的商工業者を社会主義建設に引き入れ、その経営を徐々に改造する方針をとった。

 戦後、資本主義的商工業の社会主義的改造はますます機の熟した要求となった。戦争の被害のため資本主義的商工業はいくらも残らず、それさえもほとんどが手工業や小商業とほとんど変わらない零細経営に転落していた。停戦直後、我が国の企業家、商人は、社会主義経済に依拠しなくては、また、かれら自身の力と資金を合わせなくては、経営を復旧することも、生活を改善することもできない状態にあった。

 このような情勢から、我が党は、資本主義的商工業者を手工業者および小商人とともに、さまざまな形態の協同経営をつうじて社会主義的経済に改造する方針をうちだした。これは、社会主義建設の要請にかなうばかりでなく、企業家や商人自身の利益にも合致するものであった。こうして、ほとんどの企業家や商人が、我が党の協同化方針を受け入れ、私営商工業の社会主義的改造は、戦後、短期間のうちに完成された。

 農業協同化と私営商工業の社会主義的改造が終わった結果、我が国の北半部には搾取と抑圧のない社会主義制度が確立された。これは、国の生産力を速やかに発展させ、人民の物質・文化生活を根本的に改善しうる大路を開いた。社会主義制度の勝利はまた、労働者階級の指導のもとに、労農同盟を基礎とする全人民の政治的・道徳的統一のための社会経済的条件をつくりだした。



ページのトップ


inserted by FC2 system