「朝鮮民主主義人民共和国における社会主義建設と南朝鮮革命について」

1 共和国北半部における社会主義経済建設の
発展過程について


 我が党は権力を握ったその日から、社会発展の合法則的要請に従って、既に解放された北半部で革命と建設を最大限に促進するとともに、ここに強力な主体的革命力量をきずきあげ、北半部を朝鮮革命の強固な基地とするためにたたかってきた。我々が北半部でくりひろげてきたすべての革命闘争と建設事業は、我が党のこのような一貫した方針を貫くためのものであった。

 我が国の北半部では解放直後の1、2年のあいだに、反帝反封建民主主義革命が成功裏に遂行された。こうして北半部は、民主主義革命の勝利を踏まえて漸次社会主義へ移行する過渡期に入った。共和国北半部における社会主義革命と社会主義建設は、戦後、主体的および客観的条件がいっそう成熟するにともない、本格的にくりひろげられた。

 我が党と人民は旧社会から立ち後れた経済と文化を受け継ぎ、国が南北に二分されアメリカ帝国主義侵略勢力と直接対峙している状況のもとで、新しい社会を建設することになった。我々はまた、アメリカ帝国主義とその手先の武力侵略に抗する3年間の激しい戦争をへてきた。これらすべては、我々の革命闘争と建設事業にはかりしれない困難と複雑さをもたらした。

 朝鮮で停戦が実現した後、我々には、社会主義革命を積極的におし進めながら破壊された人民経済を速やかに復興し、零落した人民生活を短時日のうちに安定させなければならない国難な課題が提起された。

 我が国での戦争の被害は言いつくせないほどひどいものであった。アメリカ帝国主義者は、北朝鮮に1平方キロメートル当たり平均18個の爆弾を投下し、我が国の都市と農村を廃墟にしてしまった。工業、農業、鉄道運輸はもとより、人民経済のすべての部門と教育・文化・保健医療施設などが余すところなく破壊された。人民は、住宅と家財道具をほとんどなくし、食糧や衣服も非常に足りなかった。

 実際のところ、当時、我々はなにから手をつけてよいのかわからないほど困難な状態におかれ、我々には多くの複雑な問題が提起された。

 ここで、最も重要なのは、復興建設の方向とその順序をはっきり定め、中心の環を正しくとらえ、それに力を集中することであった。

 我が党は、重工業を戦後の復興建設のすべての問題を成功裏に解決する中心的な環と認め、重工業の優先的な発展を保障しながら、同時に軽工業と農業を発展させる路線をうちだした。党は、工業、特に重工業を発展させるうえでも、当時、我が国の人民経済と人民生活に切実に必要とされ、しかも、速やかに経済的効果をあげることのできる部門から先に復興することにした。農業では個人農経営の社会主義的協同化を実施し、戦後、もっともさし迫った問題の一つであった食糧問題を一日も早く解決するため、穀物生産に力をそそいだ。

 まさに、この路線と方針に従って、戦後人民経済復興発展3か年計画(1954〜1956)が立てられ、その遂行に全党と全人民が立ち上がった。

 重工業の優先的な発展を保障しつつ、同時に軽工業と農業を発展させるという路線にたいして、党内にひそんでいた反党分子、内外の修正主義者と教条主義者はしきりに中傷した。かれらは、「人民の生活が苦しいのに重工業の建設にかたよっている」「機械からご飯はでてこない」などといって、我が党の路線を非難した。かれらの主張は、将来はどうなろうとも、すべてのものを当面の消費にまわさなければならないというものであり、結局、我が国自体の経済土台をきずけないようにしようとするものであった。

 我が党は、このような主張を断固退けて、みずから選んだ路線を堅持した。ここで、党の意図は、零落した人民生活を速やかに回復させるとともに、どうあっても短時日のうちに独り立ちのできる経済的基礎をきずくことにあった。

 言うまでもなく、すべてのものが破壊され、あらゆるものが不足している状況のもとで、経済の土台をきずきながら、同時に人民の生活問題を解決するというのは、極めて難しいことであった。しかし、難しいからといって革命の要求にそむくわけにはいかず、一時的な安逸のために国家と人民の根本的な利益を犠牲にすることはできない。

 党は戦火のなかで鍛えられ、党のまわりにかたく団結した人民を信頼し、人民大衆の力と国のすべての資源を余すところなく動員し、兄弟諸国の援助を効果的に利用するならば、この課題を十分に遂行できると認めた。党の指導のもとに、我が国の勤労者は歯をくいしばって悪戦苦闘し、おり重なる難関をのりこえて、戦後3か年計画を期限前に超過完遂した。

 こうして、人民の生活は著しく改善され、工業と農業生産は戦前の水準に達したばかりでなく、それをはるかに上回るようになった。古い生産関係の社会主義的改造、特に、農業協同化においても大きな前進が遂げられた。

 もちろん、当時の我々の成果は初歩的なものであり、国の経済状態もまだ困難ではあったが、それでも我々は戦後の復興事業を終えてからは、みずからつくりあげた元手によって生活できるようになり、社会主義建設をさらに力強くおし進められるようになった。

 3か年計画を遂行した後、我々は1957年から5か年計画を遂行することになった。この5か年計画は、我が国における社会主義の基礎建設を完成するための計画であった。

 我が党は、既に社会主義的改造で達成した成果と経験にもとづいて、5か年計画の期間に、農業協同化と私営商工業の社会主義的改造を完成する課題をうちだした。

 社会主義建設分野での5か年計画の中心的課題は、社会主義的工業化の基礎をきずき、人民の衣食住問題を基本的に解決することであった。戦後3か年計画が立派になし遂げられた結果、我が国は人民経済の復興期から技術的改造期に入った。党は5か年計画を技術的改造の第1段階と定め、この時期に社会主義的工業化の基礎をきずいて民族経済の自立的土台をさらにかため、ゆくゆくは人民経済のすべての部門を現代技術で装備しうる物質的・技術的条件を準備することに決定した。これとともに我々は、人民生活の基本となる衣食住の問題を解決するために、穀物生産、紡織工業、住宅建設に大きな力をそそぐことにした。

 5か年計画の遂行にとりかかるや、我々は新たな困難と試練に直面した。

 周知のように、1956〜1957年は、国際共産主義運動において現代修正主義が広く台頭し、これを契機に世界の帝国主義者と国際反動が大がかりな「反共」キャンペーンをくりひろげた時期である。このとき我が国では、南朝鮮を占領しているアメリカ帝国主義者とその手先が、国際的な「反共」キャンペーンに歩調を合わせて、共和国北半部にたいする反動攻勢をいつになく強化した。党内ではまた、反党修正主義分子が複雑な情勢のすきに乗じ、外部勢力を後ろ盾にして党を攻撃しはじめた。党内の反党分子と外国におけるその支持者である修正主義者、大国主義者は、ぐるになって我が党に反対し、我が党と政府の指導部をくつがえす陰謀活動を強行した。

 そのうえ、我が国の経済建設にも多くの難関があった。膨大な5か年計画を遂行するにも、資材と資金が足りず、人民生活も当時はまだ困難であった。

 なにをよりどころにして、いかなる方法でこの複雑な情勢を切りぬけていくかということは、我々にとって最も深刻な問題であった。

 我々はただ、我が党員と人民をよりどころにするほかに道はなかった。我が党は党員と人民大衆を信頼し、かれらの力を引き出して当面する難関と試練をのりこえていくことを決心した。

 こうして、党は隊伍をさらにかため、全人民を党のまわりにいっそうかたく団結させて、内外のあらゆる敵の攻勢に決定的な反撃を加える一方、主力を社会主義経済の建設に向けた。我が党の意図は、このような情勢のなかで、全党と全人民がふるいたって、我が国の革命陣地をいっそう鉄壁のようにかため、社会主義建設で一大高揚を起こすことによって、内外の敵のあらゆる攻撃を徹底的に粉砕し、我が国の革命と建設にいっそうひろびろとした道を切り開くことにあった。

 我が国で歴史的な総会として知られている党中央委員会1956年12月総会は、このような党の方針に従って、5か年計画の第1年目の課題とその遂行方途を討議し決定した。この総会の後、党中央委員会常務委員をはじめ、すべての幹部が工場や農村に行き、我々の当面している厳しい状況を勤労者にありのままに知らせ、かれらを困難と試練をのりきる英雄的な闘争へとふるいたたせた。

 我が党員と勤労者は、党中央委員会を断固として支持、擁護し、党の呼びかけにこたえてめざましいたたかいをくりひろげ、社会主義建設のすべての戦線で一大変革をもたらした。かれらは、いたるところで多くの予備と可能性を見つけだし、かつては想像もできなかった労働の偉勲を立て、奇跡を生んだ。工業生産は年に40〜50%ずつ増大し、農業では豊作がつづいた。我が国の都市と農村は日ごとにその姿を変え、人民の生活は急速に向上した。

 こうして、敵の「反共」攻勢も、反党分子の攻撃もすべてうちやぶられ、我々を中傷していた人々も首をうなだれるようになった。一方、大衆のあいだで我が党の威信はかつてなく高まり、我々の内部はいちだんとかたく団結し、我が国の社会主義建設は極めて速いテンポで前進するようになった。言うなれば、我々はたたかいをつうじて禍を転じて福となしたのである。

 我が国における社会主義建設の大高揚とチョンリマ(千里馬)運動は、まさにこのようにして始まったのである。

 我々は社会主義建設の高まりとチョンリマ運動をひきつづき発展させ、膨大な5か年計画を期限を著しく繰り上げて完遂した。農業協同化と私営商工業の社会主義的改造は、既に1958年に、ほとんど同時に順調に完了した。生産分野では、5か年計画を工業総生産額ではわずか2年半で完遂し、現物指標別でも4年で完遂、または超過完遂した。

 5か年計画が遂行された結果、我が国は、自立的民族経済のゆるぎない基礎をもつ社会主義工業・農業国に変わった。都市と農村では社会主義的生産関係の全一的な支配が確立し、機械製作工業を中核とする重工業基地と軽工業基地がきずかれ、農業も強固な生産土台をもつようになった。人民生活が向上し、すべての人が衣食住の心配をしないですむようになった。こうして、我が国の北半部で社会主義基礎建設の歴史的な課題は勝利のうちに実現した。

 我が党第4回大会は、5か年計画の遂行でおさめた成果を総括し、社会主義建設の雄大な綱領である7か年計画(1961〜1967年)をうちだした。7か年計画の期間は、我が国の北半部における社会主義建設の決定的な段階であるといえる。

 7か年計画の基本的課題は、勝利した社会主義制度に依拠して技術革命と文化革命を全面的に遂行し、社会主義の物質的・技術的土台をしっかりときずき、人民の物質・文化生活を大きく向上させることである。

 我が国のように、過去に産業革命がおこなわれず、資本主義的発展段階を正常にへていない国では、社会主義建設の時期に技術革命が特に重要な課題として提起される。我々は、社会発展の成熟した要求に従い、人民経済の技術的改造に先だって生産関係の社会主義的改造を終え、生産力の発展、特に技術革命を遂行するためのひろびろとした道を切り開いた。我々はまた、5か年計画期間に社会主義的工業化の基礎をきずいて、人民経済の全面的な技術改造のための物質的・技術的土台をきずきあげた。こうして7か年計画では、社会主義的工業化を完全に実現し、人民経済のすべての部門を現代技術で装備することが中心的問題として提起されることになった。

 7か年計画が完遂されれば、我が国は社会主義的工業国に発展し、我が国には多面的に発達した自立的民族経済の体系がうち立てられるであろう。人民生活では、衣食住問題がいっそう円滑に解決されるであろう。

 我が国の勤労者は、既にこの4年間に、7か年計画の遂行で大きな成果をおさめ、その完遂のためにひきつづき力強くたたかっている。

 もちろん、我が国の7か年計画は極めて膨大なものであり、また、我々が国際的にも国内的にも複雑な情勢のもとで経済建設をおこなっているため、この計画を完遂するのは決して容易なことではない。特にこの2、3年のあいだ、我々は当面の情勢に対処して、国防力をいっそう強化することに大きな力をそそがなければならなかったので、我が国の経済発展は予定よりもある程度遅れるようになった。

 しかし朝鮮人民は、党の指導のもとにいっそう奮起してたたかい、必ずや7か年計画を完遂するであろう。



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