金 日 成

幹部の党性、階級性、人民性を高め、
人民経済の管理運営を改善することについて
 朝鮮労働党中央委員会第4期第10回総会での結語
−1964年12月19日− 


 我々は今回の党中央委員会総会で、およそ1週間にわたって人民経済の管理運営を改善する問題について討議しました。

 多くの同志が発言しましたが、一致して経済管理にあらわれている欠陥を指摘しました。

 人民経済の管理運営を改善する問題は、このたびはじめて提起されたものではありません。本総会の報告や発言で提起された問題は、すでに党大会や党中央委員会政治委員会、総会、その他の会議でなん回となく提起された問題です。この問題については久しい以前に正しく提起されていたのですが、省、管理局で、その活動にたいする徹底した批判と検討がおこなわれませんでした。

 このたび、多くの批判が加えられたのは非常によいことです。批判と自己批判をおこなう過程で多くの人が教育されたことと思います。

 みなさんの発言を聞いていると、自己批判を誠実におこなった人もいれば、そうでない人もいます。このことから、我々はなにを知ることができるでしょうか。自己批判を誠実におこなった人は、党性鍛練が比較的よくできており、党と他の同志たちを、さらにはこの会議を尊重する態度を示したものといえます。自己批判を誠実におこなわなかった人のなかには、まだ自分の欠陥をよく知らない人もいれば、自分の誤りを党に率直に話さず、なんとかしてそれをつつみ隠そうとしている人もいます。このような人は、党に忠実でないのはもちろん、まだ批判というものがどういうものであるかをよく理解していないようです。

 それでは、批判と自己批判とはなんでしょうか。批判が、革命活動をおし進める強力な武器であることは周知のとおりです。批判がなくては、革命運動を前進させることができません。自己批判とは、人々の前で自分の欠陥をつつみ隠さず率直に話し、それを改めようと決意することにとどまらず、他の人にもそうした誤りをおかすことのないように教訓を与えるものです。人を批判するのは、本人の気づかない欠陥を他の人が悟らせることであり、一人を批判することによって多くの人を教育し、救いだそうとすることです。

 大衆の面前で自分のことを批判するのは、あたかも鏡の前に立って自分の顔をのぞきこむのと同じことだといえます。鏡に映る自分の顔の欠点を隠せないように、大衆の前で自分の欠陥を隠すことはできません。大衆は極めて聡明であり、なんでも見ぬくことができます。

 自分の欠点を知っていながら、それを隠そうとつとめる人は、なんとしてでも体面をつくろおうとする一種の小ブルジョア思想から、そのように行動するのだといえます。しかしそのような人は、自分の欠陥を隠そうとすればするほど、実は体面をいっそう傷つけていることを知らないのです。

 自分の誤りをみずからすすんで批判してこそ、同志から信頼され、仕事のうえでも援助を受けることができます。自分の欠陥を認めようとせず、あくまでもそれを隠そうとする人は、実際上、信頼のおけない人です。またかりに、自分の欠陥に気がつかないとすれば、他人から批判を受けて、それをはっきりと知るのはなんとよいことではありませんか。

 もちろん、多くの人の前でみずからすすんで自己批判をするとか、他人から批判を受けるのが愉快なことでないのは確かです。しかし、批判はどうしても必要です。人間は誰でも欠陥をもっています。欠陥のない人間などいません。問題は、自分の欠陥を知り、それをなおすかどうかにあります。会議で批判をするのがよいというのは、自分ではわからない欠陥を他人からの批判をとおして知るようになり、また、他人が批判されることから刺激を受けて、いうなればあおりを食って欠陥をなおすことができるからです。

 一部の人がいまだに批判を正しくおこなえないのをみると、これまで我々が会議で批判をそれほどおこなわず、批判による教育を十分におこなわなかったことがわかります。
 我々は、批判と自己批判を強化しなければなりません。党会議では、できるだけ多く批判をおこなうべきです。もちろん、これは批判のための批判となってはなりません。批判は、あくまでも同志を教育し助力するための批判、活動を前進させるための批判とならなければなりません。

 この総会でおこなわれた数日間の批判によって、人民経済の管理運営における幹部たちの自己検討がすべて終わったわけではありません。これからも、ひきつづき、さらに検討し批判することが必要です。いま、一部の人は総会をもっとつづけようといっています。しかし、年末も近づいており、早く終えなければならない仕事もあり、また新年度の事業の準備もしなければならないので、会議ばかり長く開いていることもできません。私の意見としては、党中央委員会総会はこれで終えることとし、省党委員会、工場党委員会、道党委員会、その他の各級党委員会で、この問題についてひきつづき討議し、活動の総括を深めるのがよいと思います。

 このたびの総会で批判する機会がなかったとか、十分に批判のできなかった人は、省党委員会や工場党委員会で批判するのがよいでしょう。郡党委員会では、我々が以前に江西(カンソ)郡党の活動にたいしておこなった批判と結びつけてこの問題を討議し、農村の里党委員会では毎年おこなう青山里(チョンサンリ)総括とあわせてこの問題を討議するのがよいでしょう。このように、各級の党会議で討議し批判するからといって、あらゆる問題がすべて解決され、あらゆる欠陥が一度になくなるとは、もちろん考えられません。しかし、活動を総括し、討論し、批判をおこなえば、我々の活動がさらに一歩前進することだけは間違いありません。

 私は、本総会でおこなわれた批判が、人民経済の管理運営を改善するうえで大きな助けとなり、全般的に我が国の社会主義建設で強力な推進力になるものと信じています。

 私はここで、報告と発言のなかで提起されたいくつかの問題について述べようと思います。


 1 経済幹部の党性鍛練を強化し、活動方法を改善することについて

 人民経済の管理運営における欠陥の主要な原因は、省、管理局の幹部、道級機関の幹部に、党性、階級性、人民性が欠けているところにあります。

 幹部が自己に課された任務を立派に遂行するか否かは、結局、その党性と階級性、人民性にかかっています。口先では誰でも党と人民のために働くといいますが、言行が一致しないところに問題があります。真の党員となり、国家・経済機関の真の幹部となるためには、実際の行動によって党の政策を擁護、実行し、人民の利益のために献身的にたたかわなければなりません。幹部の党性は、党の政策を実行するための実際の闘争に、また労働者、農民、勤労インテリのための実際の活動の成果にあらわれなければなりません。

 経済機関や政権機関で働く人は、すべて党から派遣され、人民によって選挙された人民の代表者であります。党がみなさんを経済機関に派遣し、人民がみなさんを選出して政権機関に送ったのは、党のため、人民の利益のために、党の政策を実行することを期待してのことです。経済機関や政権機関の幹部は、党と人民から与えられた任務を立派に実行してこそ、真の党員、真の人民の代表であるといえます。口先だけで党を擁護し、党の政策を支持したのではなんの役にも立ちません。党にたいする幹部の忠実さは、党と労働者階級のため、人民のためにどれほど仕事をしたかによって評価されなければなりません。

 街でバスを待つ人が長い列をつくっているのを見ても見ぬふりをし、なんの対策も立てようとせず、商店に副食物があろうがなかろうがいっこうにかまわず、商品の品質が悪くても品物が不足していてもなんの関心も払おうとしません。こうしたことがどうして、人民のために働く人の態度であるといえるでしょうか。

 もちろん、こんにち我々は、それほど貧しい暮らしをしているわけではありません。しかし、我々が外国に劣らずよい暮らしをするにはまだまだです。我々が苦労してたたかっている目的はなんでしょうか。我々の目的は、人民によい暮らしをさせることであり、我が国を富強な国につくりあげようということであり、すべての人が幸せに暮らせる社会主義・共産主義を建設しようということであります。

 これは、最も光栄ある革命活動であります。そうだとすれば、我々共産主義者は、革命活動で自己に課された任務をどのように遂行したか、人民のためにどれだけつくしたかを、常にかえりみなければなりません。

 幹部のなかには、党性どころか人間性さえも非常に乏しい人がいます。幹部の活動作風にも多くの欠陥があります。我々はすでに何年も前からたたかっていますが、いまだに官僚主義が多く残っています。党中央委員会委員や内閣のメンバーといえば、責任の重い、高い地位にある人たちです。これらの人たちにたいする党の信任は非常に大きいものがあります。党や国家の責任ある地位にある人は、それだけ多くの仕事をしなければならず、他の人よりいっそう謙虚で、人民により忠実に奉仕しなければなりません。ところが一部の人は、下部の人や大衆に接する場合、「党中央委員会委員で内閣のメンバーであるこの私を知らんのか」といったように声をはりあげています。これがどうして指導的地位にある人の態度だといえましょうか。

 党中央委員会委員や内閣のメンバーの地位をかさにきたりせず、謙虚に行動し、人民にいっそう立派に奉仕し、党の政策を忠実に実行するならば、おのずと下部の人や人民がみなさんを尊敬するようになるでしょう。我々が若い幹部を多く登用したのは、かれらに仕事をいっそう立派にやってもらうためであって、威張ってもらうためではありません。ところが一部の若い幹部は 謙虚でなく、党の信頼にこたえようとはせず、登用されるや否や、それをかさにきて威張ろうとします。このような人は、もっと教育を受け、さらに修養をつむのがよいと思います。

 幹部の党性が弱い主な原因は、かれらが細胞生活をまじめにおこなわないところにあります。この問題についてはすでに繰り返し述べてきました。

 閣僚が細胞生活を誠実におこなっていないようです。党員は地位の高低にかかわりなく、誰でもみな細胞生活を忠実におこなわなければなりません。これは、党員の最も初歩的な義務です。閣僚は、細胞会議に参加するだけでなく、細胞の学習にも必ず参加しなければなりません。地位の高い人だからといって、すべて学習をよくおこなっているわけでもありません。学習をよくおこなっているのなら、党の政策をはっきり知らないはずがありません。

 幹部が細胞会議や細胞の学習に誠実に参加してこそ、刺激を受け、他の人たちに学び、活動で援助を受けることができます。幹部が細胞の統制から離れるようになれば、生活が不健全になり、誤りをおかすようになります。

 もしも、細胞の学習で学ぶことはなにもないと考える人がいるとすれば、それこそ自分がまだ未熟な学生にすぎないということを知らない無学な人間だといわなければなりません。『政治知識』というパンフレットから学ぶものはないと考えるならば、それは誤りです。そこには深遠な真理がもられています。率直に言って、閣僚のうち、『政治知識』に書いてある内容を全部知っていると自信をもっていえる人が、果たして何人いるでしょうか。そのような人は多くないと思います。技術知識には高低の格差がありますが、政治知識にはそういう格差はありません。我々の幹部は、身のほど知らずに大家ぶりをせず、細胞会議はもちろん、細胞の学習にも必ず参加し、謙虚に学ぶべきであります。

 閣僚や局長になると、自分を特殊な人間のように考え、党会議や党の学習に参加しようとしませんが、これは根本から間違っています。党員であれば、誰もが党の細胞生活に忠実に参加して党組織の統制を受ける義務があり、またそうしてこそ党性を鍛え、課された仕事を立派に遂行することができます。

 幹部のなかには、党の統制をさらう人が少なくありません。いま一部の経済幹部は、党委員長の干渉がゆきすぎであるとか、会議が多すぎるとかいって、仕事が立派にできなかったことを弁明し、すべてをそのせいにしようとしています。こうした言い訳を真に受けることはできません。どうして、食事をする時間や遊覧客のように歩きまわる時間はあるのに、会議をする時間はないというのでしょうか。会議が多すぎて仕事がよくできないという人は、党の統制を快く思わない人であり、組織生活を避けようとする小ブルジョア思想の持ち主であります。仕事がうまくいかなかった原因を会議が多すぎるということから求めようとするのは正しくないし、そのような考え方は批判しなければなりません。

 党会議というのは、重要な政治生活であります。人間は食事をしなければ肉体的生命を維持できないように、党員は党生活をしなければ政治的生命を維持することができません。党会議にも参加せず、党生活もおこなわず、ただ、食事をして生きていたのでは、いったいなんの生きがいがあり、またそのような生き方をする人をどうして党員ということができましょうか。党の党制をきらうのなら、初めから入党しなければよいのであって、いったん党員となったからには、自分の初歩的な義務を拒むべきではありません。

 誰であれ、党生活を誠実におこなわなければなりません。ここには例外はありません。党中央委員会の政治委員も、自分の属する細胞会議に必ず参加しなければなりません。

 そして、細胞会議から党中央委員会政治委員会にいたるまで、各級の党会議では批判の武器を十分活用しなければなりません。党会議では、批判をする人とされる人とがそれぞれ決まっている、というようなことはありえません。誰でも誤りや欠点があれば批判を受けるべきです。地位の高い党員であればあるほど、すすんで党の統制を受けるために努力しなければなりません。そうしてこそ、同志たちの援助を受け、誤りを未然に防ぐことができるのです。

 次に、経済幹部の活動で重要なのは、政治活動を優先させ、大衆路線を貫くことであります。

 発言を聞いてみると、多くの人が、経済部門の管理幹部はあたかも政治活動とは関係がなく、経済的、技術的な実務だけをおこなえばよいと思っているようです。これは全く間違った考えです。もちろん、技術は重要です。技術を離れた経済管理などは考えられないし、生産工程それ自体がすなわち技術工程であることは議論の余地がありません。しかし、機械と技術を扱うのは人間であり、それをつくりだすのも、また人間であります。生産で決定的な役割を果たすのは、一定の技術熟練と思想・意識をそなえた人間であります。いくら立派な機械設備があっても、それを操作する人の能力と熱意が高くなければ生産を発展させることはできません。それゆえ、経済管理と生産指導においてなによりも重要なことは対人活動であります。

 周知のように、対人活動はすなわち政治活動であります。政治活動をおこなわずに、経済的、技術的な実務だけにとらわれていては、決して人民経済の指導・管理を立派におこなうことはできません。政治活動を正しくおこなって勤労者の政治的自覚を高めれば高めるほど、少ない人員でより多くの機械を動かし、同じ原料、資材でよりよい製品をいっそう多く生産することができます。人民経済の指導・管理で、技術管理も重要ですが、政治活動がより重要であることは極めて明白であります。

 資本主義社会では、少数の資本家が生産手段を所有して生産物を独占するので、労働者は生産で熱意を発揮することができず、ただ飢え死にしないために、自分の労働力を資本家に売るだけであります。資本家は、ただ金と鞭によって労働者を酷使します。

 しかし、我々の社会では、すべての生産手段が人民の所有となっており、生産物は全面的に人民の福祉増進と生産の拡大に利用されます。我が国の勤労者は、祖国の繁栄と全人民の福祉のために、自分自身の幸福のために、自発的な熱意と創意を発揮して働きます。まさに、ここに社会主義制度の本質的な優位性があります。それゆえ、社会主義制度の優位性を最大限に発揮させ、我が国の経済建設を促進するためには、必ず勤労者の自覚を高め、その熱意と創意をふるい起こす政治活動を立派におこなわなければなりません。  
 元来、人民大衆を教育改造して団結させ、大衆の力を引き出して革命課題を遂行するのは、共産主義者の基本的な活動方法であります。我々共産主義者は、常に人民の利益を擁護し、人民の幸せのためにたたかわなければならず、そのためには広範な人民大衆をめざめさせ、ふるい立たせなければなりません。少なからぬ経済幹部が政治活動を怠っているのは、かれらが共産主義者の基本的な活動方法を忘れているためだといえます。

 大衆路線にもとづいた活動方法、すなわち政治活動を優先させて大衆を立ち上がらせる活動方法は、革命闘争でも、経済建設でも、ひとしく必要なものです。我々が社会主義建設で大きな成果を達成したのも、我が党が政治活動を優先させる原則を堅持してきたからです。ところが、経済幹部は、経済的、技術的な実務にのみとらわれて政治活動をおこなおうとはしません。工業経営学の教科書をつくるときにも、最初につくった要綱をみると、政治活動にかんする項目がぬけていました。これは、要綱の執筆者が経済管理における政治活動の重要性を知らないところに起因しています。

 経済幹部は技術にも明るく、実務能力も身につけていなければなりませんが、これとともに政治活動ができるようでなければなりません。いま、多くの経済幹部は、政治活動は党活動家だけがおこなうものと考えているようです。それでは、経済幹部は党員ではないとでもいうのでしょうか。おそらく、経済幹部のなかに党員でない人はいないでしょう。党員であれば、党の専従活動家であれ、経済幹部であれ、誰もが我が党の活動方法によって仕事をしなければなりません。もちろん、我が党は政権党であり、あらゆる活動を指導しているので、専従活動家がいなければならないのは確かです。しかし、これは決して、党活動が党活動家だけの仕事であることを意味するものではありません。すべての幹部が、党活動をおこない、政治活動をおこなわなければなりません。石炭工業部門の幹部であれば、今年我々は何万トンの石炭を掘り、どうすればその課題を遂行することができるか、雨期の対策はどのように立てるべきか、といったような問題を、経済建設にかんする我が党の路線や石炭工業にたいする我が党の政策と結びつけて大衆に解説すべきであり、労働者、技術者が、各自に課された任務の重要性とその遂行方法を明確に認識して仕事に取り組めるようにしなければなりません。ところが、石炭工業部門の幹部はこのような活動をしませんでした。そのため、石炭の生産が思うようにいかないのは当然のことです。

 甚だしいことに、経済幹部のなかには、自分が政治活動をおこなわないばかりか、他人が政治活動をおこなうことまで妨害する人もいます。ある幹部は、下部の人が講演会を開いている最中にドアの外から、「講演会をやってご飯がでてくるのか、粥がでてくるのか!」とどなりました。いまどき、党員である幹部がこんなことをいっているのです。これは非常に恥ずべきことです。

 大衆に党の政策をたゆみなく宣伝し解説するのは、党員の規約上の義務であります。党員はいつどこにあっても、この任務を忠実に果たさなければなりません。

 技術革命と労働行政がうまくいかない主な原因は、経済幹部が政治活動をおこなわなかったところにあります。多くの人が、いまだにテアン(大安)体系の本質を明確に理解していません。テアン体系の本質が、参謀部だの業務部だのといった新しい管理機構にあるのでは決してありません。テアン体系の基本精神は、幹部と勤労者が一体となることであり、幹部が机に座って指示したり命令したりするのではなく、下部に出向いて生産者に働きかけ、直接かれらを援助するところにあります。一言でいって、テアン体系とは経済管理に大衆路線を具現したものです。いかに立派な管理機構をつくったとしても、幹部がこの基本精神を忘れ、上部にあぐらをかいて指示をくだし、号令ばかりかけていたのでは、この体系はなんの役にも立ちません。

 幹部は、伝票を手渡すことで資材の供給にかえるべきではなく、資材倉庫に出かけていって資材があるかどうかを確かめ、実際に必要なところに資材を運んでやるべきです。いま閣僚は、資材倉庫の実情をよく知っていません。閣僚のうちで資材倉庫に行ってみたことのある人がいるでしょうか。一家の暮らしを立てていくにも、主婦が、米びつにはどれほどの米があるのか、薪のたくわえがあるのかどうかをいつも知っていなければならないのに、まして一国の経済を指導する閣僚が、倉庫に資材があるかどうかも知らないようでは、どうして国の経済を正しく運営していくことができるでしょうか。

 機構を改めるだけでは問題は解決されません。問題は、幹部が大衆路線を貫くか否かにかかっています。閣僚、局長をはじめ幹部は、必ず下部に出向いて党の政策を解説し、直接、資材を解決し、技術上の問題も解決しなければなりません。幹部は下部に出向いてこそ、問題点を見出し、大衆の意見を聞き、また、懸案の問題を解決する対策も立てることができます。

 このように、大衆のなかに入って党の政策が正しく実行されるように手配し、問題点を見出し、大衆の意見を聞き、それをもち帰って分析した後、党の新しい方針と新しい対策をたずさえて再び大衆のなかに入っていくこと、これが大衆路線であります。

 現在、下部ではテアン体系にもとづいて活動しようとしているのに、省がこれをおこなっていません。まず、省からテアン体系を貫徹しなければなりません。

 すべての経済幹部が、テアン体系の要求どおり、チョンサンリ(青山里)方法の要求どおりに政治活動を優先させ、大衆をふるい立たせて革命課題を遂行し、現地に行って下部の人たちを実質的に援助する活動方法を具現しなければなりません。


 2 人民経済の管理運営を改善するためのいくつかの問題について


 1 計画化の水準をいっそう高めるために

 計画化を正しくおこなわなければ、人民経済をひきつづき速いテンポで発展させることはできません。計画化が非常に難しく複雑な仕事であることは確かです。すでに、我々はほぼ20年ものあいだ計画経済を運営してきましたが、いまだにこの仕事を円滑におこなっていません。

 生産手段が私的所有である資本主義社会では、経済の計画的発展など想像すらできません。しかし、社会主義社会では、すべての生産手段が社会的所有であるため、人民経済が計画的に、均衡を保って発展するのが法則となっています。しかし、社会主義社会における経済の計画化が難しく複雑なのには理由があります。

 社会主義社会では、国の経済生活がすべて計画的におこなわれます。あらゆる物資と資源が計画的に利用され、すべての工場、企業所が計画によって動き、すべての人が計画に従って働きます。それゆえ、計画は極めて綿密に、科学的に立てなければなりません。設備能力や国の資源と資材、資金、労働力など、すべてのものを具体的に検討して計画を立てなければなりません。さらには計画の作成にあたって、測定しがたい人間の思想・意識水準までも考慮にいれなければなりません。設備能力は少し劣っていても、人間の思想・意識水準が高ければ、同じ設備をもってもそれをより効果的に利用し、生産を増大させることができます。1957年に、降仙(カンソン)製鋼所の労働者が高度の愛国的熱意を発揮し、通常能力6万トンの分塊圧延機から12万トンの鋼材を生産した事実は、そのよい実例であります。

 このように、計画化においては生産のあらゆる要素を考慮しなければならず、また、工業と農業、重工業と軽工業、人民経済の各部門と企業所相互間、さらに生産的建設と非生産的建設、蓄積と消費との均衡をそれぞれ正しく保つようにしなければなりません。また、生産と消費のあいだにも正しい均衡を保たなければなりません。我々の社会では、必ず需要を正しく見積もって生産をおこなわなければなりません。資本家は国の経済発展や人民生活にたいして責任を負いませんが、我々の社会主義制度のもとでは、党と国家がこれにたいして責任を負わなければなりません。これらのことが決して容易なことでないのはことさらにいうまでもありません。

 それでは、このように難しく複雑な計画化を正しくおこなうためにはどうすべきでしょうか。第1に重要なのは、幾人かの活動家の主観的欲求によって計画を立てるのではなく、大衆的な討議をおこなって客観性をもった計画を立てるようにすることです。計画に客観性をもたせるためには、計画委員会委員長や閣僚、企業所の支配人などが一人で計画を立ててはなりません。いかに聡明な人でも、一人で設備能力や資材、資金、労働力、その他すべての要素を知りつくすことはできません。机のうえで、機械が何台だから人員は何名必要だ、設備が何台で従業員は何人だからいくら生産することができるというようにして立てた計画は、計画とはいえません。

 現在、我が国における計画化の基本的な欠陥は、主観的欲求によって官僚主義的に計画を立てるため、それが客観性に欠け、人民経済に埋もれている潜在力をすべて反映できないことであります。

 机に座って一人で生産の潜在力を探しだすというのは不可能なことです。一企業所の生産能力や一地域の商品需要だけでも非常に多様であるのに、まして一国の経済とかかわりのある膨大で複雑な要因を、幾人かの活動家があて推量で見積もってつくった計画が、はたして実情を正しく反映できるでしょうか。客観性に欠けたこのような計画が実現できないのは目に見えています。これとは反対に、大衆的な討議にもとづいて立てられた計画は、生産の諸要素を科学的に検討し、あらゆる潜在力と可能性を十分考慮にいれた、客観性をもった計画なので、生産者にたいする政治活動を十分おこないさえすれば、必ず完遂されます。

 計画化ではまた、国家の要求と生産者の意見を正しくとり合わせ、国家計画機関の主観主義だけでなく、生産者の機関本位主義や地方本位主義を徹底的になくすことが重要です。計画を大衆的に討議して立てるというのは、上級機関が計画の作成を積極的に指導せず、下部で立てて提出した計画をそのまままとめさえすればよいということを意味するものではありません。下部で立てた計画だからといって、それがすべて正しく客観性をもったものだとはいえません。下部の活動家の知識が浅く、視野が狭いため、現にある潜在力すら十分見出せない場合もあります。また、生産者にはいまだに古いブルジョア思想の影響が残っているため、国の全般的な経済管理よりも自分自身と自分の機関、地元の小さな利益を先に考える傾向が少なくありません。このような人たちは、計画を低くし、賞金をもらおうと考えることはあっても、少しでも多く生産して国に利益を与えようとは考えません。一部の省では、できるだけ生産計画を低くして仕事を楽にしようとばかり考え、下部から提出された計画数字を削って送り返した事実さえあります。例えば今年、甲山(カプサン)鉱山の労働者は、銅を大量に生産することを決議しましたが、鉱業総局の幹部は現地に出向いて、それよりずっと少なめにするよう指示しました。これは、管理局の幹部が労働者にも劣ることを示しています。

 このように、計画を立てるさい、生産者はできるだけ計画数字を下げようとし、動員できる潜在力も動員せず、当然もっと生産できるものまで、できなくする場合が少なくありません。こうして、生産者の立てた計画はおおむね消極的であり、一部の省では計画数字を低めにして国家計画委員会に提出しています。

 これに反し国家計画機関では、計画を立てるさい、常に高い要求をかかげる傾向があります。これは一つの矛盾であります。

 したがって、最も合理的、現実的で、動員的な計画を立てるためには、国家計画機関の主観主義をなくすばかりでなく、生産者の機関本位主義と地方本位主義をなくして、全般的な国家的利益の見地からこの矛盾を正しく解決し、国家の要求と生産者の意見を適切に結合しなければなりません。この問題を正しく解決するためにこそ、我々は計画化システムを一元化することにしたのです。

 計画の一元化システムとは、国家計画委員会のもとに、どの地方機関にも属さない道・市・郡計画委員会を組織して、中央から地方にいたるまで計画事業を統一的におこなうことをいいます。道・市・郡計画委員会は、道農業経営委員会や郡協同農場経営委員会、地方工業委員会その他道、市、郡の政権機関や企業所の計画部署と同じものではありません。このような生産機関の計画部署と地方機関の計画部署は存続させ、新しく地区別に計画委員会を組織して国家計画委員会に直属させて計画事業をおこなうようにしたのが、計画の一元化システムであります。

 一元化システムに属する各級計画委員会は、当該の地方と部門で計画を正しく立てているかどうかを常に調べ、あらゆる潜在力を探しだして客観性をもった科学的な計画を立てるよう生産機関を援助し、生産組織に不手際があったり、労働力や資材を浪費したりするいっさいの傾向にたいしては、そのつど上級機関と内閣に通報して対策を立てるようにしなければなりません。国家計画委員会の活動家も事務室に座って計画をまとめるのではなく、省、局の活動家とともに国家の要求する計画数字をもって現地に出向き、生産者と討議しなければなりません。

 計画化におけるこのような一元化システムは、我々がはじめて試みるものです。これを立派に発展させればよい結果がもたらされると思います。

 すべての幹部は、計画の一元化システムの意義をはっきりと認識し、このシステムを発展させるため、積極的に努力しなければなりません。

 新しく創設された計画の一元化システムの優位性を十分に発揮させるためには、なによりもまず、各級計画委員会、特に地区計画委員会を、党の政策で武装し、経済・技術知識を有し、国の経済管理を立派におこなえるすぐれた人でかためなければなりません。これとともに新設された地区計画委員会が、少しでも地方主義的傾向に陥ることのないように、警戒することが必要であります。

 また、国家計画の立案で重要なのは、燃料と原料の生産を加工工業に優先させる原則を守ることであります。加工工業部門の工場が生産計画を遂行できない主な原因の一つは、必要な原料の備蓄がないため、生産を正常化できないところにあります。それゆえ、採掘工業に力をそそぎ、年間使用量の8〜10%、言いかえれば、1か月分以上の原料を備蓄するようにしなければなりません。建設部門でも資材を8%程度備蓄しておくのがよいと思います。これぐらいの備蓄があれば、一時的な事故で燃料や原料が正常に供給されなくても生産に変動をきたす心配がなく、作業の中断による労働力の浪費もなくなるはずです。

 もちろん、採掘工業を優先させ、燃料と原料を備蓄する問題は、今日はじめて提起された問題ではありません。これはすでに以前から強調してきたことですが、いまだによく実行されていません。それゆえ、本総会の決定書に1か月分以上の備蓄をととのえる課題をとくに強調して書き加え、必ず実行しなければなりません。

 これとともに、計画を立てるうえで、各部門と各企業所間の連係がよくかみ合うよう、連帯生産を綿密に組織しなければなりません。連帯生産の組織は、省と省とのあいだに関係のあるものは国家計画委員会がおこない、そのほかのものはすべて省が責任をもっておこなわなければなりません。こうして、連帯生産に参加するすべての企業所が、自分の企業所でつくっている部品や付属品を必ず半月あるいは、1か月前に供給できるようにしなければなりません。


 2 技術革命を力強くおし進めるために

 技術革命は、社会主義建設の現段階において、我々の当面した基本的な革命課題であります。産業革命をおこない、資本主義の発展段階を正常にへてきた国は別ですが、我が国のように立ち後れた技術をもったまま社会主義の道に入った国々では、社会主義建設の段階で必ず技術革命をおこなわなければなりません。

 技術革命をおこなって勤労者を骨の折れる労働から解放するのは、我々の時代の共産主義者に課せられた気高い革命の任務であります。技術革命をおこなってこそ、緊張した労働力の問題を解決することができ、従業員一人当たりの生産額をいっそう高めることができます。我々共産主義者は、かつては、地主、資本家の搾取と抑圧から勤労者を解放するためにたたかったとすれば、こんにちでは、かれらを骨の折れる労働から解放してより多くの物質的富をつくりだし、すべての人に裕福で幸せな暮らしをさせるためにたたかわなければなりません。こんにち、少なからぬ幹部が技術革命を軽視していますが、これは、かれらが最も重要な革命の任務を忘れていることを物語っています。

 もちろん、技術革命は困難な課題です。農村での技術革命をとってみても、問題は簡単ではありません。

 我が国の農村には、小区画の畑が多く、土地の傾斜が甚だしいので、機械化するにはさまざまな困難があります。我々の祖先が昔からそのような土地を耕してきたのですから、我々はその立派な利用法について研究すべきであり、ほかに方法はありません。機械で畑を耕し草を取ることができないなら、化学的方法か、ほかのなんらかの方法で必ず技術革命をおこなわなければなりません。つとめて研究すれば道は開けるものであって、開かれないはずはありません。現代は科学の時代です。科学の力で解決できない問題などありえません。

 我々は、祖先の残した事大主義思想を根こそぎにするためにも、技術革命をおこなわなければなりません。

 我が国は、地理的にソ連、中国、日本など3つの大きな国のあいだに位置しています。

 我が国で事大主義が長い歴史的な根源をもっているのは、我が国が昔から近隣の中国やロシア、日本より国力が弱かったためです。

 もし、我々が技術革命をおこなわず、ひきつづき立ち後れた状態にとどまっているならば、事大主義の根源を一掃することができないだけでなく、それが復活しないとも限りません。我々は、事大主義に反対し、主体性を確立して我が国の革命を立派に遂行するためにも、必ず技術革命をおこなわなければなりません。こうして、我が国の発展水準があらゆる面で外国に劣らないようにしなければなりません。こうなれば、事大主義はなくなるはずです。

 それでは、技術革命をどんな方法でおこなうべきでしょうか。手工業的な方法で生産しているところでは半機械化をおこない、半機械化されているものは機械化し、機械化されているものは半オートメ化し、半オートメ化されているものはオートメ化するというように、すべての部門で技術を発展させなければなりません。特に機械化は、荷物の運搬や積みおろしなど、骨がおれ手間のかかる労働からはじめて、順を追っておこなうべきです。

 そして、我々には立ち後れた機械設備が少なくありませんが、新しい技術を導入するからといってそれを捨てることはできず、また、一度に古い技術を新しい技術に全部かえることもできません。それゆえ、古い機械や設備を一つ一つ改造していかなければなりません。不可能であるのに一度に全部現代技術に改造しようとせず、20年代のものは40年代のものに改造してもよいし、50年代のものに改造してもよいから、つとめて学び、知恵をしぼって、古い技術を一歩一歩改造していかなければなりません。

 技術革命をおこなうからといって、できもしないのに大きなことばかりに目を奪われ、小さなことをないがしろにするやり方を一掃しなくてはなりません。生産を増大させ、製品の品質を向上させる技術進歩のわずかな可能性でもすべて利用しなければなりません。まさにここに、労働力を節約し、従業員一人当たりの生産額を高める大きな潜在力があることを銘記すべきです。

 技術革命を成功裏におし進めるためには、先進国の技術も大々的に取り入れなければなりません。我々は、最新科学・技術の成果をたゆみなく学び、堅実な人を選抜して外国にも留学させなければなりません。

 これとともに、外国から近代的な工場や試験工場も輸入しなければなりません。工場も大きなものばかりに目を向けず、小さなものでも、我が国の技術改造のために役立つものは、見本として多く買い入れるべきです。朝鮮人は聡明なので、すべてのものをいちいち他人から教わらなくても、見ただけでいくらでもつくれます。

 次に、技術革新運動を大衆的に広くくりひろげなければなりません。技術革命は技術者や専門家がおこない、ほかの人は生産だけにたずさわればよいと考えるのは正しくありません。すべての幹部と技術者と労働者が力を合わせ、ねばりづよく取り組んで技術革命を積極的におし進めなければなりません。そして、技術革命は、党委員長や支配人などの責任ある幹部が直接掌握して進めなければなりません。ある同志が、技術革命の遂行で主人がいないと発言しましたが、主人はほかならぬ企業所の党委員長や支配人です。

 我々が「工作機械の子生み運動」をくりひろげた当時は、ほとんどゼロの状態からありとあらゆるものをつくりだしました。こんにち、我が国の経済状態は当時とは比べようもなく好転しています。科学者、技術者、党活動家、経済幹部を問わず、すべての幹部と勤労者がふるい立って「工作機械の子生み運動」を展開したときの革命的な意気ごみで、大胆に着想し、大胆に実践して、我が国の技術発展で新たな革新を起こさなければなりません。


 3 労働行政を改善するために

 労働力を合理的に配置することは、労働行政において最も重要な仕事であります。ここ数年来、労働力の配置には少なからぬ欠陥が生じました。なかでも基本的な欠陥は、非生産部門の労働力が生産部門の労働力よりも急速に増大し、この両者のあいだに不均衡が生じたことです。言いかえれば、機構定員労働力と商業部門の従業員が必要以上に増え、学生と教員があまりにも多く、医療従事者も急速に増大しすぎました。芸能人やスポーツマンも多すぎます。このように、非生産部門の労働力が大幅に増加したため、労働力が足りず、もっと生産できるものもできないでいます。

 我々が一日も早く国を富強にし、外国に劣らない裕福な暮らしをするためには、鉱石もより多く掘り出し、海へ出て魚ももっと多く捕り、家ももっと建てなければなりません。しかしいま、我々には労働力が不足しています。農村でもまだ労働力が不足している状態です。

 労働力の問題を解決するためには、いま必要以上に増えている非生産部門の労働力を思いきって減らし、生産部門にまわすべきです。省をはじめ、行政・経済機関の機構定員労働力と商業、教育、文化、保健医療などの非生産部門の労働力を大幅に減らすべきであります。

 商業部門の従署員数を減らすためには、商業網と各種のサービス施設網を調整しなければなりません。我が国の社会主義制度のもとでは、資本主義制度でのようにサービス施設をあまり多くつくる必要はありません。商店でも、壮健な人だけを採用しようとせず、社会保障を受けている人たちも採用すべきです。そのような人たちに、支店の運営や、商品の移動販売をさせたりするのも悪くないと思います。

 学生数や教員数も適切に定めるべきです。昼間学生数よりも、働きながら学ぶ人の数を増やさなければなりません。また、教員の数を減らし、科学者や技術者に大学講師を兼任させるべきです。科学者が、大学で講義をすれば資質を高めるうえにも役立ちます。科学者や技術者にも大学で講義をさせるようにして教員数を減らし、生産部門にまわさなければなりません。

 省やその他の事務機関にいる技術者や一部の教員を生産現場に送り、工場に技術グループを組織して研究活動をさせたり、直接機械の前で労働者に技術援助を与えたりして、技術革命に貢献するようにすべきであります。

 このように、工場で技術の研究にたずさわる人や生産を指導する人は、非生産的労働力と見るべきではなく、いずれも生産的労働力とみなさなければなりません。

 芸能人やスポーツマンもあまり多くおかないようにすべきです。専門の芸能人やスポーツマンをあまり多くもつ必要はありません。スポーツと芸術は、大衆的に発展させるべきです。スポーツは、労働と国防のために、すべての勤労者が日常的におこなわなければなりません。芸術も大衆化してこそ、勤労者を共産主義思想で教育し、かれらの労働と生活を楽しいものにすることができます。

 専門のスポーツマンや芸能人は学校からある程度でてくるので、専門家を別に養成する必要はありません。みなさんも知っているように、有名なスポーツマンがすべて体育大学をでたわけでもなく、専門団体で育ったわけでもありません。すぐれた俳優も同じことです。かれらのうちで特別に専門教育を受けた人は幾人もいません。それゆえ、芸術専門団体の必要以上の人員も調整すべきです。

 労働力の配置を改善するために、農村の労働力問題の解決にひきつづき関心を払わなければなりません。都市と農村を比べてみると、まだ農村には労働力が少し足りません。しかし、来年は農村の労働力を定着させる対策を講じ、農村出身の除隊軍人を農村に帰すほかに、それ以上の労働力を農村に送ることは困難です。したがって、農村では、労働力の管理を正しくおこない、労働の組織を立派におこなって、労働力を合理的に利用しなければなりません。

 緊張した労働力の問題を解決するためには、非生産部門の労働力を大幅に縮小して生産部門にまわすとともに、女性労働力を多く採用しなければなりません。女性を社会的労働に参加させることは、遊休労働力を合理的に利用するためにだけ必要なのではありません。女性を労働に参加させる目的はまた、女性をあらゆる束縛から完全に解放し、実質的に平等な社会的地位を女性に保障することにあります。したがって、女性を社会主義建設に参加させることを単なる行政実務上の措置とみるべきではなく、一つの大きな政治活動とみなさなければなりません。

 女性を可能なかぎり勉強させ、すべて社会に進出して男子と同じく働くようにしなければなりません。女性を労働に参加させる場合には、必ずその体質に適した仕事を与えるべきです。男子は楽な仕事をして、女性には骨の折れる仕事をさせるといったような正しくないやり方を徹底的になくし、現在楽な仕事をしている男子を骨の折れる部門にまわし、そこに女性を配置すべきです。

 また、たくさんの子供を養育している婦人の労働時間は短くすべきです。これと関連して、賃金はどのように支払うべきかという問題が提起されますが、これを一律に処理してはならないと思います。夫も働き、ほかの家族も働いていて所帯当たりの収入が多い婦人には、実際に働いた時間だけの貸金を与えるべきです。しかし、夫を亡くし、一人でたくさんの子供をかかえて生活している婦人には、たとえ6時間労働をしたとしても、8時間労働と同一の収入が得られるように、6時間に相当する賃金に補助金を追加して支給すべきです。こうしてこそ、婦人に社会的労働に参加できる条件を保障することになります。もちろん、このような特別な恩恵を受ける人をあまり多くしてもなりません。ともすれば、遊んで暮らす人が多くなるおそれがあります。それゆえに、これにかんする労働法規や賃金規定を別途につくり、偏向が生じないようにすべきです。

 女性労働力とともに、年寄りや体の弱い人も適当なところに配置し、社会主義建設に力添えできるようにしなければなりません。現在我が国には、高齢者や社会保障を受けている人が少なくありません。これらの人をただ遊ばせないで、適当な仕事を与えれば国に少なからず力添えをすることができます。工場で長いあいだ働いてきた高齢者には労働者に技術・技能を修得させる仕事をさせてもよいし、その他の人は商業部門や公共奉仕部門にまわしてもよいでしょう。年をとり体の弱い人だからといって、一概に社会保障を適用すべきではありません。

 労働行政を改善するためには、このように労働力の合理的な配置に主な関心を払いながら、労働基準量の再査定や技術者の技術資格の再検討なども正しくおこなうべきであります。


 4 国の経済管理を立派におこなうために

 我々の社会では、すべての勤労者が国の経済管理の真の主人であります。勤労者が国の経済管理を主人の立場に立って立派におこなうならば、国を富強にし、自分自身の生活を向上させることができます。しかし、国の経済管理を他人ごとのように適当におこなえば、国を富強にすることも、自分白身の生活を豊かにすることもできません。

 ところが、いまだに我々は、いたるところで国の経済管理をいい加減におこなっているのを目にします。多くの機関、工場、企業所、農村などで国家の財産と共同財産を愛護せず、共同経営をなおざりに運営しており、山に植樹もよくおこなわず、道路や河川、土地の整理もおこなわず、村や職場、学校などもきちんとととのえていません。

 経済管理を立派におこなうのに、多くの労働力や資金が要るわけでもありません。誠意があって勤勉で、手配さえ綿密におこなえばできることです。家の管理をルーズにして暮らしているのは、その家に人手が足りないからではないし、また、きちんと手入れして暮らしている家は人手が多くてそうしているのでもありません。問題は、生活習性と誠意にかかっています。国の経済管理もこれと同じことです。国の経済管理を立派におこなうかどうかは、幹部の思想観点と活動態度にかかっています。

 国の経済管理に関心をもたず、国の財産と共同財産を愛護しない立ち後れた思想と古い慣習に強く反対し、すべての勤労者が国の経済管理に責任を負う主人としての態度をもつように教育活動を強化しなければなりません。

 我々は、勤労者が個人の財産よりも共同財産をより大切にし、それをおかすあらゆる行為と強くたたかい、すべての生産施設や文化・保健医療施設を立派に保護管理し、祖国の山河を愛し、一木一草でも愛護するように、かれらをたゆみなく教育しなければなりません。

 すべての勤労者は、共同経営の発展に大きな関心を払うべきであり、国のあらゆる財貨を立派に管理、節約し、潜在力を積極的に見出して利用し、少ない労働力と物資でより多く、より立派に生産するようにしなければなりません。

 これと同時に、町や村、職場や学校、そして家庭をいつも清潔に文化的にととのえなければなりません。町や村、職場や家庭を立派にととのえるというのは、豪華な邸宅を構えたり、高価な家具を買い入れるということではありません。現在のものでもきれいに、きちんと管理すればよいのです。いま、少なからぬ勤労者は、なんでも国家にばかり頼り、立派な家を建ててくれることのみを期待して壁が落ちても塗り直そうとせず、屋根もふかず、障子紙さえ張りかえようとしません。我々は、このような間違った考えと立ち後れた生活慣習に反対しなければなりません。すべての人が、さっぱりした身なりをして出歩くようにすべきです。

 我々は、共同経営を立派に運営し、共同生活と個人生活を文化的にきずいていくとともに、国を富強にし、人民生活を向上させるために、積極的に仕事を探しださなければなりません。幹部と勤労者が少し頭を働かせば、生活をいっそう豊かにする方法はいくらでもあります。野菜畑に散水式潅漑システムを導入すれば野菜に不自由することはなく、油脂作物を植え油脂林を造成すれば、食用油もたくさんとれます。また、果樹園をつくってよく手入れすれば、年中欠かさずに果物が食べられます。

 この問題について、道党委員会をはじめ各級の党組織は、いっそう多くの関心を払い、すべての勤労者が経済管理を立派におこなう習慣を身につけるようたゆみなく教育するとともに、仕事の手配を綿密におこなわなければなりません。そして、この仕事に女性同盟、職業同盟、社会主義労働青年同盟が積極的に参加して、広範な大衆を動員しなければなりません。

出典:『金日成著作集』18巻 


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