『朝鮮労働党第4回大会でおこなった中央委員会の活動報告』 
 
1 輝かしい総括


 同志のみなさん!

 我が党の第3回大会は、戦後の人民経済復興が基本的に終わりつつあった時期に招集されました。当時、我が国の経済と文化はまだ立ち後れており、生産関係の社会主義的改造が進められている最中でした。

 戦後、勤労者の英雄的なたたかいによって工業と農業生産は戦前の水準に回復しましたが、我が国はまだ農業国の状態からぬけだすことができず、人民の生活は非常に困難でありました。農村では依然として個人農経営が相当な比重を占め、都市における私営商工業の改造ははじまったばかりでした。

 このような情勢のもとで、我々は全力を傾けて社会主義革命と社会主義建設を全面的に促進しなければなりませんでした。

 我が党は、すでに戦後の復興期に、北半部の社会経済発展の合法則的要求と朝鮮革命の基本的任務にもとづき、共和国北半部における社会主義基礎建設をめざす総体的な課題を示しました。それは、人民経済のすべての分野で、小商品経済と資本主義経済を社会主義的に改造して社会主義経済形態を拡大強化し、生産力を回復しさらに発展させて、国の自立的な経済土台を強固にきずきつつ人民生活を早急に改善することでありました。

 第3回党大会では、社会主義基礎建設にかんする党中央委員会の方針を確認し、それにもとづいて5か年計画の基本的な課題と方向を規定しました。

 大会は、5か年計画の期間に、都市と農村でひきつづき社会主義革命を強力におし進めて、農業の協同化と私営商工業の社会主義的改造を完成すべき課題を提起しました。

 5か年計画期間の社会主義建設分野における中心的な課題は、社会主義的工業化の基礎をきずき、人民の衣食住問題を基本的に解決することでした。党はこの課題を立派に遂行するために、重工業を優先的に発展させながら、同時に軽工業と農業を発展させるという経済建設の基本路線をひきつづきゆるぎなく実行しました。この路線は、すでに停戦直後に採択され、戦後の復興事業の実践を通じてその正しさと生命力が確証されたものです。

 重工業を優先的に発展させなければ、軽工業と農業を発展させることができず、およそ拡大再生産を実現することができません。重工業は、人民経済の最も大きな元手であり、すべての問題を成功裏に解決する中心の環でありました。我が党は、重工業の発展に力を注ぎ、それにもとづいて軽工業と農業を急速に発展させてこそ、5か年計画期間に社会主義的工業化の基礎をきずき、同時に人民の衣食住問題も基本的に解決できるとみなしました。

 実践は、第3回党大会で採択された我が党の路線と政策が全く正しかったことを明白に示しています。

 社会主義的改造においても社会主義建設においても、我々が提起した課題はすべて、予定の期限をはるかに繰り上げて遂行されました。我が国の勤労者は、我が党の洗練された指導のもとに、高度の革命的熱意と不屈の闘志、尽きることのない創造的才能を発揮して、あらゆる困難と障害にうちかち、都市と農村における社会主義革命の全面的な勝利をかちとり、経済、文化の発展において根本的な変革をもたらしました。

 きょう、我々はこの大会で、党と人民が一つにかたく団結し、困難な闘争を通じて達成した偉大な勝利と成果をこのうえない誇りをもって総括します。


 1 社会主義的改造の完成

 同志のみなさん!

 古い経済の社会主義的改造は、社会主義革命発展の会法則的過程であり、資本主義から社会主義への過渡期に解決すべき基本的な課題であります。

 解放後、我が国の北半部では、反帝反封建民主主義革命が成功裏に遂行された結果、北半部は漸次社会主義へ移行することになり、社会主義的改造もすでにそのときからはじめられました。

 しかし、戦前には必要な社会経済的条件と物質的条件が十分に成熟していなかったため、社会主義的改造は部分的にしかおこなわれず、主として、そのための準備が進められました。我が国において農業、手工業および資本主義的商工業の社会主義的改造は、すべて戦後に全面的に進められ、1958年にいたってほとんど同時に完成しました。

 社会主義的改造で最も重要なのは農業の協同化でありますが、特に農民が人口の過半数を占めていた我が国ではなおさらそうでした。

 停戦直後、農村では個人農経営が支配的で、社会主義的経営は微々たるものでした。周知のように農村で小商品生産が支配している限り、搾取と貧困の根源を一掃し農民の生活を根本的に改善することはできません。小規模で分散的な個人農経営は、計画的に発展することも、進んだ技術を広く取り入れることもできず、そのほとんどは拡大再生産を実現することができません。

 我が国において個人農経営のもつあらゆる制約は戦後に最もはっきりあらわれ、もはや、そのままにしておくことができないものとなりました。戦争によって農業の物質的土台は甚だしく破壊され、農家経営はいっそう零細化し、農村で労働力と蓄力が非常に足りなくなりました。このような状況のもとで個人農経営をそのままにしておいては、破壊された農業生産力を速やかに回復することができず、なによりもまず住民の食糧問題を解決することができませんでした。社会主義的国営工業と個人農経営との矛盾は、戦後急速に復興し発展する工業と、極めて緩慢に回復する農業との不均衡となってあらわれるおそれがありました。また小農経営を基礎にしては、零落した農民の生活を速やかに改善することができず、特に、戦争中さらに増えた貧農の問題を解決することができませんでした。

 農業生産力を古い生産関係の束縛から完全に解放し、農民を搾取と貧困から最終的に解放する唯一の道は、農業の社会主義的協同化であります。戦後の我が国の状況では、農業の協同化はこれ以上おくらせることのできない機の熟した要求となり、農民自身が従来の方法では暮らしていけないことを、その苦しい境遇から悟るようになりました。そこで、我が党は停戦直後に農業協同化の課題をうちだし、農民の熱意が高まるにつれてこの運動を積極的におし進めました。

 農業協同化運動の指導で最も重要なのは、レーニン的自発性の原則を厳守し、実践的模範を通じて農民に協同経営の優位性を認識させ、それにもとづいて協同化運動を発展させることです。

 停戦直後、農村で最も積極的に農業協同化を支持したのは貧農でした。我が党は経験的に、まず貧農と農村の党の中核分子をもって各郡にいくつかの農業協同組合を組織し、それを強化することからはじめました。我々はこの事業を通じて、我が国の実情に適した協同化の具体的な方法と速度を正確に定めることができたし、幹部に協同化運動を指導する経験をつませ自信をもたせました。また、我々自身の経験にもとづき、実物をもって協同経営の優位性を示すことによって、広範な農民大衆、特に中農を説得して自発的に協同組合に加入させることができました。

 農業協同化における自発性の原則は、中農だけでなく農村のすべての階層、富農にも適用されました。富農経営が極めて微弱であった我が国農村の具体的な実情にもとづいて、我が党は富農の搾取行為を厳しく制限しながら、協同化運動の発展につれて漸次かれらを改造する方針をとりました。我々は、社会主義的改造に賛成し、誠実に働こうとする富農はみな協同経営に受け入れ、協同化運動を妨害しようとするごく少数の分子にたいしては、しかるべき制裁を加えました。農村で協同経営が成長し強化されて、搾取の対象がなくなった協同化運動の終わりごろには、大部分の富農がみずから進んで協同組合に入るようになりました。

 このように、実物教育と自発性の原則にもとづき、さまざまな階層の農民を協同経営に受け入れるにあたって、我が党は貧農にしっかり依拠して中農との同盟を強化し、富農を制限し、しだいに改造するという正しい階級政策を一貫して堅持しました。我々は、貧農にすべての農業協同組合の中核的な役割を果たさせ、比較的豊かな農民だけで協同経営を組織したり、協同組合の事業に富農の影響が及ぶことのないようにしました。また、他方では中農を強制的に協同経営に加入させたり、その利益をおかしたりして中農との同盟を弱める偏向を厳しく警戒しました。

 これらの方針は、農村における深刻な変化と関連して起こりうる損失を未然にふせぎ、協同化運動を堅実な土台のうえに発展させ、農業生産のたえまない成長を可能にしました。

 農業協同化運動で自発性の原則を守るということは、この運動を自然成長性にまかせることを決して意味するものではありません。一般に社会主義制度がそうであるように、農村における協同経営制度は自然に発生するものでもなく、強化発展するものでもありません。これには、党と国家の強力な指導と援助が要求されます。

 我が党は農業協同化運動を発展させるために、農民のあいだでねばりづよい組織・政治活動をおこない、組織された協同経営を政治的、経済的に強化することに大きな力をふり向けました。

 我々は、農村の党組織を強め、多数の管理幹部を育成して協同組合に配置し、組合内に社会主義的な制度と秩序を確立し、組合員の社会主義的意識を高めるために強力な指導をおこないました。

 レーニンは、いかなる社会制度も一定の階級の財政的支援のもとでのみ発生するものであり、社会主義国家が普通程度以上に支援すべき制度は協同組合制度である、と指摘しています。我々は、このレーニンの言葉どおり、全力を尽くして協同組合に国家の援助を与えました。急速に発展している社会主義的工業に依拠して国家が農民に与えた強力な物質的支援は、貧農だけで組織された初期の貧弱な農業協同組合をもりたて個人経営にたいするその優位性を示すうえでも、また、短期間に量的に急速に成長した協同経営を経済的に強化するうえでも決定的な役割を果たしました。

 我々は、党と労働者階級の確固たる指導と社会主義的国営工業の強力な支援に依拠してはじめて、戦後のはかり知れない幾多の困難をのりこえ、数百万の農民を社会主義的集団化の道に導くことができたのであり、農村における社会主義的協同経営制度のゆるぎない勝利を保障することができたのであります。

 農業協同化が完成した後にも、協同経営制度はその場で足ぶみしているわけにはいかず、それはひきつづき発展し完成されなければなりません。

 我が国の農業協同組合は、比較的小さな規模で組織されました。我が党は、協同化運動の過程で40〜100戸の農家をまとめて一つの協同組合に組織させ、協同組合の規模をあまり大きく組織したり、統合したりすることを禁じました。これは、農業技術がおくれており、管理幹部の水準が低く、経験の浅かった当時の条件に全くかなったものでした。

 しかし、比較的小さな規模の協同経営では、農業生産力のいっそうの発展、とりわけ農村の技術的改造の要求に漸次適応できなくなりました。農業協同組合を適切に統合し、その規模を大きくすることが必要になりました。協同経営が、政治的、経済的に強化され、管理幹部の水準も高まった状況のもとで、これは機の熟した要求となり、農民自身が統合の必要性を認識するようになりました。

 そこで1958年末に、里を単位として協同組合を統合し、里人民委員長が協同組合の管理委員長を兼任するようにしました。

 農業協同組合の規模の拡大によって、土地その他の生産手段をいっそう合理的に利用し、近代的農業機械と先進的営農技術を広く取り入れ、水利化と治山治水のための自然改造事業を強力におし進め、労働の組織を改善し、協同経営をさらに多角的に発展させることができるようになりました。

 また、農業の生産的単位と里の行政的単位が一つになり、人民委員長が管理委員長を兼任することになったので、里人民委員会が農業協同組合の強化と農業生産の発展に力を注げるようになり、全般的に経済建設と文化建設における地方人民委員会の役割と機能がいっそう高まりました。

 農業協同組合を統合するとともに、消費協同組合と信用協同組合を農業協同組合の管理下に移しました。これによって農業協同組合は、生産ばかりでなく流通と信用をも統一的に計画し、管理することができるようになり、したがって、共同経営の発展と組合員の福祉増進のために、独自性と創意性をいっそう高めることができるようになりました。特に、農業協同組合が直接農村の商業を運営するようになったので、都市と農村間の商品の交流はいつそう順調におこなわれ、工業と農業間の経済的なつながりが強められました。

 こうして、我が国の農業協同組合はいちだんと発展した強固な社会主義的経営となりました。いまや、すべての事実と経験にもとづいて、農村に創設された協同経営がその組織形態においても、規模においても、こんにちの我が国の具体的な実情に適した最も合理的ですぐれた社会主義的経営であるということができます。

 社会主義的生産関係のみが全社会を支配するようにするためには、農村の個人農経営を協同化するだけでなく、都市の手工業と資本主義的商工業を社会主義的に改造しなければなりませんでした。

 我が国における手工業の社会主義的改造は、モデルケースとして戦前からすでに実施されてきました。

 日本帝国主義の支配当時に破産し、おちぶれた我が国の手工業者は、解放後、人民政権の援助のもとにその経営をたてなおし、いっそう発展させ、生活を著しく改善しました。しかし、零細で技術的に立ち後れた手工業経営は堅固でなく、発展の見通しがありませんでした。分散している手工業経営を協同化することによってのみ、生産と技術をいちだんと発展させ、手工業者の生活を改善することが可能でした。

 我が党は、過渡期の初期である1947年に、手工業者の生産協同組合を組織して、その個人経営を社会主義的協同経営に改造する方針をうちだしました。そして戦前、すでに手工業の社会主義的改造で初歩的な成果をおさめ、ある程度の経験をつみました。

 戦時中に大規模の国営工場がほとんど破壊された状況のもとで、我が党は人民生活の安定をはかるため、国営の地方工業とともに協同組合工業の拡大と発展に深い注意を払い、戦後には手工業の協同化運動をいちだんと積極的におし進めました。戦争によって手工業経営は破壊され、いっそう零細化しました。手工業者は、その経営を統合し、国家の積極的な援助にたよらなければ、生活を改善することができなくなりました。このような状況のもとで、手工業者は我が党の協同化方針を積極的に支持し、手工業の協同化運動は急速に発展して戦後数年のあいだに成功裏に完了しました。

 我が国では、資本主義的商工業の社会主義的改造も比較的順調におこなわれました。

 かつて、我が国の民族資本は長いあいだの日本帝国主義の植民地支配下で、その発展が極度に抑制されました。人民経済の重要な部門は日本帝国主義の資本に独占され、ごく少数の買弁資本をのぞけば、民族資本家の経営はとるに足らない状態におかれていました。

 解放後、日本帝国主義と買弁資本家の所有に属していた産業、運輸、逓信、銀行などが国有化された結果、社会主義的国営経済が人民経済の指導的な地位を占めるようになり、資本主義的商工業は過渡期の初期から極めて微々たるものでした。我が国のこのような実情は、資本主義的商工業者を社会主義建設に引き入れ、その経営を平和的に改造しうる有利な条件となりました。

 過渡期における資本主義的商工業にたいする我が党の政策は、その良い面を利用し、悪い面に制限を加えながら、それを漸次社会主義的経営に改造することでありました。

 戦後に、資本主義的商工業の社会主義的改造は機の熟した問題として提起されました。戦争によって資本主義的商工業は大きな被害をこうむりました。少なからぬ企業家や商人が零落し、国営部門に入って労働者や事務員となり、残りの資本主義的商工業者も、大部分が手工業者や小商人とほとんど変わらない状態に陥りました。このような状況にあって、資本主義的商工業者は、国家と社会主義経済の支援にたよらなくては、また自分たちの生産手段と資金を合わせて共同で仕事をしなくては、零落した経営をたてなおすことができませんでした。そのうえ、農業と手工業が協同化されるにつれて、原料や資材も従前のように私的市場を通じて仕入れることができなくなりました。人民経済のすべての部門で社会主義経済形態が圧倒的に支配している条件のもとで、ほんのわずかな企業家や商人だけが私的経営をそのまま維持することはできなかったのです。

 企業家、商人は、社会主義経済体系に包括されなければ、その状態を改善し前途を切り開き、国家と社会のためによりよく奉仕することができませんでした。

 我が国の具体的な実情に即して、我が党はいろいろな形態の協同経営を通じて資本主義的商工業を改造する方針をうちだしました。企業家や商人は、これが自分たちの利益にかない、また正しい道であることを悟って、党の協同化方針を支持しました。こうして、資本主義的商工業の社会主義的改造は短期間に完成しました。

 手工業と資本主義的商工業の社会主義的改造は、我が党の正しい指導と国家の積極的な援助によって成功裏になし遂げられました。党は自発性の原則をかたく守りつつ、業種別に手工業者と中小工業企業家を生産協同組合に受け入れました。まず、手工業者で組織された生産協同組合をかためつつ、それを基礎にして漸次企業家を協同経営に受け入れ、この際、特に協同経営の半社会主義的形態を広く利用しました。商人の社会主義的改造では、まず、かれらで販売協同組合あるいは生産・販売協同組合を組織させ、そこでの生産の比重をしだいに高めて、これを生産協同組合に改編しました。

 私営商工業の社会主義的改造にあたって、党は経営形態の改造と人間の改造とを密接に結びつけて進めました。企業家や商人は、生産協同組合に加わることによって、他人を搾取していたかつての生活から完全にぬけだし、自分自身の労働によって物質的富を生産する社会主義的勤労者に改造され、それはまた、かれらの意識を急速に改造するのに役立ちました。

 我々は、手工業と資本主義的商工業の社会主義的改造を力強くおし進めると同時に、組織された生産協同組合を強化するために大きな国家的援助を与えました。社会主義的協同経営の優位性、国家の積極的な援助、そして組合員の熱意に燃えた労働によって、生産協同組合の経済的土台は急速に強まり、組合員の生活はいちだんと向上しました。こんにち、協同経営工業は人民経済の発展で重要な役割を果たしており、生産協同組合員は栄えある社会主義的勤労者として、大きな誇りと高度の熱意をもって社会主義建設に参加しています。

 同志のみなさん!

 農業、手工業および資本主義的商工業の社会主義的改造が完成した結果、都市と農村において社会主義的生産関係が全一的に支配するようになりました。生産力は古い生産関係の束縛から解放され、人間による人間の搾取が一掃されました。

 我々は長年のあいだ、我が国の勤労者が念願し多くの朝鮮の共産主義者がまさしくそのために血を流してたたかった、搾取と抑圧のない社会制度を我が国の北半部にうち立てました。これは、我が党の指導のもとに朝鮮人民がかちとった最も偉大な勝利であります。

 我が国における社会主義的改造の重要な特徴は、それが生産力の発展水準が比較的低く技術が立ち後れている状況のもとで、戦後4、5年という短い期間に完成したところにあります。

 ひところ、一部の教条主義者は、「社会主義的工業化を実現しなくては、生産関係の改造は不可能である」とか、「近代的な農業機械なしに農業の協同化はできない」とか、あるいは「社会主義的改造の速度が早すぎる」などといって、我が党の社会主義的改造の政策に疑問をいだき動揺しました。このような人たちは戦後の社会主義的改造の急速な発展が、我が国の具体的な実情を反映した合法則的な現象であることを知らなかったのです。

 解放後、土地改革や産業国有化をはじめとする民主改革が実施された結果、社会主義的国営経済は急速な発展を遂げ、工業と商業で圧倒的な優位を占めるようになりました。鉄道運輸、逓信、銀行および対外貿易機関は、過渡期のはじめから国家の手中におさめられていました。人民経済で支配的な地位を占めた社会主義経済形態は、小商品経営と資本主義経営に決定的な影響を及ぼし、これらを必然的に社会主義の道へ進ませました。特に国営工業の急速な発展は、農業、手工業および資本主義的商工業の社会主義的改造を強力に支援しうる物質的基礎をつくりだしました。

 国内の階級的な力関係も社会主義的改造に決定的に有利でした。戦後、我が国の都市や農村で社会主義的改造に反対する勢力は微々たるものでした。農民大衆は、日本帝国主義と地主に反対する長期の革命闘争と解放後の新しい生活を創造するたたかいを通じて、特に祖国解放戦争の厳しい試練を通じて政治的にめざめ、党のまわりにかたく結集しました。大多数の企業家や商人は、解放後全人民とともに民主革命の遂行に参加したばかりでなく、社会主義建設においても、我が党と人民政権の施策を支持しました。人民大衆のあいだで党の威信が高まり、各階層の人民が党のまわりに結集し、大衆の政治的自覚が高まったことは、社会主義的改造を成功裏に進めるうえで最も重要な裏付けとなりました。

 社会主義的工業化と近代的農業機械について述べるならば、もちろん工業をいっそう発展させ農業をふくむ人民経済のあらゆる部門を新しい技術で装備しなければ、社会主義の完全な勝利を保障することはできません。しかし、生産力と技術の発達水準が比較的低くても、生活が古い生産関係の改造を切実に求め、またこれを担当しうる革命勢力が準備されている場合には、社会主義的改造をおくらせるわけにはいきません。

 我が党の方針は、人民経済の技術的改造を実現しうるまでに工業が発展するのを待つべきではなく、社会発展の機の熟した要求に即して、まず生産関係の社会主義的改造をなし遂げて生産力を急速に発展させ、特に技術革命への大道を切り開くことでありました。我々は生産関係を改造してはじめて、戦争のため甚だしく破壊された生産力を急速に回復し、さらに発展させることができたのであり、工業の発展につれて、いちはやく技術革命を強力に進めることができるようになりました。

 停戦後、我が党が社会主義的改造を全面的に実施する課題をうちだしたとき、一部の人は南北が統一されて全国的に反帝反封建民主主義革命が勝利するまでは、北半部で革命をこれ以上進めるべきではないとし、社会主義的改造の「時期尚早論」をもちだしました。かれらは北半部での社会主義革命が、あたかも祖国統一の大業と矛盾し、特に南朝鮮のすべての愛国的民主勢力を反帝反封建闘争に立ち上がらせるのに支障を与えるかのように考えました。もちろん、これは正しくない見解でした。

 南朝鮮が解放されておらず、南朝鮮で民主主義革命が勝利していないからといって、北朝鮮がひとところに足ぶみしていなければならない理由はありません。共和国北半部における社会主義革命と社会主義建設は、北半部の社会発展の抑えることのできない要求であるばかりでなく、北半部の民主基地を政治的、経済的に強化すべき朝鮮革命のさし迫った要求として提起されました。北半部で資本主義的要素を根絶し、反革命の基盤を最終的に一掃し、都市と農村に社会主義の陣地をしっかりきずきあげることは、朝鮮革命を勝利へ導く最も重要な裏付けとなります。

 我が党は、人民大衆をふるいたたせて北半部に社会主義制度を樹立し、これをあらゆる面から強化することにより北半部を朝鮮革命のゆるぎない基地につくりあげ、祖国の平和的統一を促す決定的な力に変えました。こんにち、共和国北半部における社会主義勢力の成長と社会主義制度のもとでの北半部人民の自由で幸せな生活は、南朝鮮の労働者、農民はもとより民族ブルジョアジーをもふくむすべての愛国的勢力に大きな革命的影響を及ぼしており、アメリカ帝国主義とその手先に反対する南朝鮮人民の闘争を限りなく勇気づけています。

 以上述べたように、我が党はマルクス・レーニン主義の一般的な真理を我が国の具体的実情に即して創造的に適用することによって、社会発展の成熟した要求に応じて適時に社会主義的改造の課題をうちだし、その実現のための正しい政策を立て、いっさいの左右の偏向を克服し人民大衆をふるいたたせて、いささかも動揺することなく党の政策を貫きました。党の社会主義的改造の政策が正しく、大衆がそれを熱烈に受け入れ、その実現のために高度の革命的熱意をもってふるいたったがゆえに、我々は農業、手工業、資本主義的商工業を社会主義的に改造するという最も複雑で困難な革命の課題を、短い期間に極めて順調に遂行し、我が国の北半部に先進的な社会主義制度を樹立することができたのであります。


 2 社会主義建設

 同志のみなさん!

 戦後3か年計画が立派に遂行された結果、我が国は人民経済の復興期から技術的改造期に入りました。生産関係の社会主義的改造が完成されていくにつれ、人民経済の技術的改造のための社会主義的工業化の必要性は、いっそう切実なものとなりました。

 我が党は、5か年計画の期間を技術的改造の第一段階と定め、この期間に社会主義的工業化の基礎をきずきあげて、民族経済の自立的土台をさらに強めると同時に、将来、人民経済のあらゆる部門を近代技術で装備しうる物質的・技術的条件をととのえることを工業部門の中心的な課題としてうちだしました。そのためには、重工業の優先的な発展にもとづいて工業生産を全般的に、急速に発展させるだけでなく、我が国工業の植民地的跛行性を完全になくし、立ち後れた技術装備を決定的に改造しなければなりませんでした。

 工業部門での5か年計画の課題は非常に膨大で困難なものであったにもかかわらず、期限前に成功裏に遂行されました。我々は、工業総生産高を2.6倍に増大させることを見こしていた5か年計画の課題を2年半で完遂し、重要工業製品の現物指標別生産計画も全般的に4年間で完遂または超過完遂しました。1957年から1960年までの4年間に工業総生産高は3.5倍に増大し、そのうち生産手段生産は3.6倍、消費財生産は3.3倍に増大しました。この期間に工業生産の増大速度は、年平均36.6%に達しました。こうして、解放後の15年間に、10年以上の歳月が戦争と破壊された経済の復興事業に費やされたにもかかわらず、1960年の工業生産は解放前の1944年に比べて7.6倍に増大しました。これはすべて、我が国の工業が空前の高い速度で発展したことを示しています。

 重工業は、人民経済全体の発展の基礎であります。強力な重工業を創設せずには、人民経済の技術的改造を実現し国の自立的な経済土台を強固にすることができません。

 我が党は、国内の豊富な天然資源に依拠して、人民経済の発展に必要な資材、原料、燃料、動力および機械設備を基本的に国内で生産、供給できる自己の重工業基地を創設することに全力を集中しました。ここで重要な問題は、既存の重工業の土台を最大限に利用しながら、それを技術的に改造し拡張すると同時に、一連の新たな工業部門を起こすことでした。そこで、我が党は重工業を建設するにあたって、復旧中の企業所を完全に復旧し、既存の企業所を完備し、改造、拡張することに重点をおきながら、従来、我が国になかった工業部門と企業所の建設をこれに組み合わせる方針をとりました。この方針は第1に、比較的少額の資金で強力な重工業を建設できるようにし、これによって、軽工業と農業をも同時に急速に発展させることのできる有利な条件をつくりだし、第2には、生産の高い発展速度を保障しながら、工業の技術的改造を強力におし進めることができるようにしました。

 1957年から1960年までの4年間に、電力工業は1.8倍、燃料工業は2.8倍、鉱業は2.6倍、金属工業は3倍、化学工業は4.5倍、機械製作工業は4.7倍にそれぞれ増大しました。今年、我が国の重工業は、電力97億KWh、石炭約1200万トン、銑鉄および粒鉄96万トン、鋼鉄79万トン、化学肥料70万トン以上、セメント約240万トンを生産することになるでしょう。

 重工業部門のすべての企業所で、技術装備が根本的に改善され、先進的な生産方法と技術工程が広く取り入れられ、新しい職場が増設されて新たな製品が生産されるようになりました。これとともに近代技術で装備された工場が少なからず新設されました。

 鉄鋼業では、銑鉄生産にのみかたよっていた現象がなくなり、各種規格の型鋼、丸鋼、鋼板、特殊鋼材などを大量生産できるようになり、基本建設と機械製作工業の増大する鋼材需要を基本的にみたせるようになりました。また鉱業をいっそう発展させると同時に、精錬加工施設を新設して、我が国に豊富に埋蔵されているいろいろな非鉄金属や希金属を採掘し加工して、人民経済の発展により効果的に利用することができるようになりました。

 化学工業の発展でも大きな成果が達成されました。これまでは、我が国の化学工業といえば窒素肥料の生産を主とする無機化学工業だけでした。しかし、いまではビナロン工場、塩化ビニール工場をはじめ、一連の化学工場が新設され、有機合成化学工業が創設されました。我々は、完全に自国の原料源にもとづいて各種の化学肥料、農薬、医薬品はもちろん、合成樹脂、合成繊維、合成ゴムの生産をはじめ。化学工業のすべての部門を大々的に発展させうる強固な土台をきずきあげました。

 水豊(スプン)発電所、長津江(チャンジンガン)発電所をはじめ、既存の発電所が新しい技術にもとづいて復旧され、禿魯江(トンロガン)発電所をはじめ、大規模な発電所が新設されたうえに、炭鉱が増え、その技術装備が補強された結果、我が国の燃料・動力基地はいっそう強化されました。

 総括期間に、工業部門で達成された最も大きな成果の一つは、機械製作工業を創設したことであります。我が党は、すでに戦時中から機械製作工業を発展させるために努力し、戦後の復興期には少なからぬ機械製作工場を新設しました。5か年計画期間に、我が国に必要な機械設備を基本的に国内で生産、供給するため、既存の機械工場をさらに完備し、その生産能力を高めるとともに、新しい工場を建設して機械製作工業を大々的に拡張しました。工業総生産高のうち、機械製作工業の占める比重は、1956年の17.3%から1960年には21.3%に増大し、機械設備の国内自給率は46.5%から90.6%に達しました。かつては、我が国に機械製作工業はありませんでしたが、いまでは中小型の機械設備にとどまらず、冶金設備、発電設備、自動車、トラクター、掘削機など大型の機械設備も十分国内で生産できるようになり、我が国の技術革命を全面的におし進めることのできる自己の機械製作工業をもつようになりました。

 軽工業は、我が国で最も立ち後れた部門の一つでありました。我々は5か年計画の期間に、紡織工業をいっそう拡大し、食品加工業と日用品生産を急速に発展させて、強固な軽工業基地をつくりあげました。

 1957〜1960年のあいだに、紡織工業は3.5倍、食料品および嗜好品工業は4.2倍、文化用品および家庭用品の生産は6.8倍にそれぞれ増大しました。1960年に、各種織物の生産高は約1億9000万メートルに達しました。これは1949年の15倍、1944年に比べると138倍に相当します。各種の工業製品と食料品の生産高が急速に増加し、品目も増え製品の品質も著しく向上しました。

 我々は、一般消費物資の生産の根幹となる近代的で大規模な軽工業工場の発展にひきつづき大きな力をふり向けました。総括期間に、既存の工場の大部分は改造拡張され、近代技術で装備された新しい軽工業工場が少なからず建設されました。

 我々の経験は、消費物資の生産では、大規模の工場とともに中小規模の地方経営工場を並行して発展させるのが合理的であることを示しています。軽工業は、大体、全国各地に分散している各種の原料を加工し、各地の勤労者の多様な需要をみたさなければなりません。大規模の工場だけでは、このような生産を合理的に組織することはできません。特に、我が国では大規模の中央直轄工業だけに依存していては、立ち後れている一般消費物資の生産を速やかにもりたてることは望めず、増大する人民の需要をみたすことはとうていできませんでした。大規模の中央直轄工業とともに中小規模の地方経営工業を大々的に発展させなければならず、近代技術とともに手工業的技術も利用しなければなりませんでした。

 そこで、党中央委員会1958年6月総会は、あらゆる源泉を動員し、全人民の運動として消費物資の生産を発展させ、その重要な方法として各市、郡に一つ以上の地方産業工場を建設する課題をうちだしました。この決定は、地方に潜んでいる大きな潜在力を動員し、一般消費物資の生産の発展に一大革新をもたらしました。6月総会以後、数か月のあいだに、全国各地では国家資金をそれほど使わずに、遊休資材や遊休労働力を利用して、1000以上の地方産業工場を建設し、各種の消費物資を大量に生産するようになりました。現在、我が国の国営ならびに協同経営の地方工業は、消費物資生産全体の半分を占めており、人民の需要をみたすうえで重要な役割を果たしています。

 地方経営工業が創設された結果、経済建設における地方の創意性と積極性が高まり、地元の原料源をいっそう広範に利用するようになりました。また、多くの家庭婦人が地方産業工場にでて働くようになったので、勤労者の所帯当たり収入が増え、婦人の政治的・文化的水準が急速に高まっています。

 勤労者の生活向上に重要な意義をもつ水産業の発展でも大きな成果が達成されました。水産業の物質的・技術的土台が強まり、漁労、養殖ならびに水産物加工業がいっそう発展しました。現在、我が国では毎年50万〜60万トンの魚を水揚げしており、さらに良質の水産物加工品を勤労者に供給できるようになりました。

 以上述べたように、我が国の工業は極めて速いテンポで発展したばかりでなく、部門別構成や技術装備のうえでも根本的な変化を遂げました。

 我々が建設し発展させた工業は、対外市場を対象にするものではなく、主に国内市場を対象として工業製品の国内需要をみたし、我が国の経済土台を強化するためのものです。かつて、原料や半製品の生産にばかりかたより、機械設備や消費財商品のほとんど全部を外国に依存していた我が国工業の跛行性は取り除かれました。また、我が国の工業は、外国の原料にたよっているのではなく、基本的に国内の天然資源と原料源をよりどころにしています。これは、我が国の工業が強固な自立的工業であることを示しています。

 もちろん、我が国の工業生産はまだ需要をみたせず、一部の工業製品はその品質が高いとはいえません。しかし、ともかく我々は現在、国産の資材と機械設備で発電所、金属工場、化学工場をはじめ、近代的で大規模な工業企業所を建設しており、基本的に自己の重工業に依拠して人民経済の技術的改造を急速におし進めており、国産の消費財商品で人民生活をまかなっています。

 我々は、立ち後れた植民地工業、それさえも戦争ですっかり破壊されたものを短期間で自立的な近代的工業に発展させ、これによって今後、人民経済の各部門を近代技術で装備し、人民生活をさらに向上させる物質的・技術的土台をきずきあげました。

 総括期間における農業部門の基本的な課題は、農業の物質的・技術的土台を強化し、農業生産を急速に増大させることでした。

 我が国の農業協同組合は、立ち後れた技術をもとにして組織されたにもかかわらず、個人農経営に比べて大きな優位性を示しました。しかし、立ち後れた農業技術を改造せずには、協同経営の優位性を全面的に発揮させることも、農業生産力をさらに発展させることもできません。

 我が党は、農業協同化が完成されるにつれていささかも遅滞することなく、ただちに農業の技術的改造にとりかかりました。党は、水利化、電化・機械化を農村の技術革命の基本的な内容として定め、まず水利化の実現に全力を傾けました。

 水利化は、我が国農業の技術的改造における最も重要で第一義的な課題でした。我々は、すでに停戦直後から農業の協同化とならんで広く灌漑工事を進め、特に5か年計画の期間に、協同化の完成とあいまって水利化のための自然改造事業を全人民的運動として力強くおし進めました。1957〜1960年のあいだに、国家は水利化のために9750万ウォンの資金を投じ、揚水機、モーターなどの機械設備と建設材料を大量に農村に供給しました。国家資金で大規模の灌漑工事と河川の堤防工事を進めるとともに、国家の技術的援助のもとに農業協同組合自体の資金によって中小規模の工事を広範に進行させました。こうしてこんにち、灌漑面積は解放前の7倍に相当する80万ヘクタールに達し、水田はすべて水利完全田となり、畑にも灌漑システムが新たに取り入れられました。これは、我が国における水利化の課題が基本的に解決されたことを意味し、数千年来、干害と水害に苦しめられてきた農民の長いあいだの宿願がかなえられたことを意味します。

 水利化とともに、農村の電化でも大きな成果が達成されました。大規模の発電所とともに農村に中小規模の発電所が広く建設され、農村の電化がいっそう促進されました。現在我が国は、全農村の里の92.1%、農家数の62%に電気がひかれています。農村で電力は、照明用だけでなく、揚水、脱穀・飼料加工などいろいろな作業の機械動力としてますます広く利用されています。

 我が国農業の技術的改造で、機械化は最も難しい課題であります。機械工業が立ち後れていた状態のもとで、我々は初めから農村に近代的な農業機械を大量に供給することができなかったので、とりあえず在来の農具を改良し、蓄力農業機械を広く普及することに力を注ぎました。この対策は、労働生産性の向上と農業生産の増大に重要な役割を果たしました。

 これとともに、我々はしだいに近代的農業機械も増やし、特に我が国の機械製作工業がトラクターの量産に入った1960年から本格的な農業の機械化にとりかかり、すでに少なからぬ成果をあげています。1960年に、農業機械作業所の数は1956年のほぼ2倍に増え、同じ期間に農村のトラクター総台数(15馬力に換算)は4.2倍に、その作業面積は10倍に増大しました。現在農村には、1万3000余台のトラクターをはじめ、各種の多くの農業機械があり、農業労働の機械化水準は著しく高まりました。

 農業が協同化され、その物質的・技術的土台が強化された結果、農業生産は急速に成長しました。

 かつての我が国の農業は穀物生産にのみかたより、それも住民の基本的な食糧の需要すらみたせなかった非常に立ち後れた経営でした。我々に提起された課題は、穀物問題を解決しながら農業を多角的に発展させて、農村を強固な食糧基地にするばかりでなく軽工業の原料基地に変えることでした。それで、我が党は穀物の生産を主としながら、同時に工芸作物の生産、畜産業、養蚕業、果樹栽培業などをも発展させる方針をとりました。

 穀物問題は農業の基本的な問題であり、食糧事情の困難であった我が国ではなおさらそうでした。我々は穀物の生産を増やすために、農業の物質的・技術的土台をかためると同時に、土地の利用度を高め、作物の配置を改善し、化学肥料や自給肥料の施肥量を増やし、先進的な営農法を広く取り入れるなど、いろいろな技術的・経済的対策をとりました。1960年には、1956年に比べて土地利用度が138%から174%に高まり、多収穫作物である水稲とトウモロコシの作付面積は、110万1000ヘクタールから128万4000千ヘクタールに増えました。同じ期間に化学肥料の施肥量は142%に増え、自給肥料の施肥量はさらに増加しました。その他いろいろな先進的営農技術が広く取り入れられて、全般的に営農法はいちだんと改善されました。こうして、この数年間に穀物の生産は著しく増大し、1960年には380万3000トンという高い水準に達しました。これは1956年に比べて32%の増加を意味します。

 今年我が党は、これまでの成果にもとづいて、昨年よりも100万トンの穀物を増産する膨大な目標をかかげて、その達成のために全力をあげました。現在、秋の取り入れをひかえた全国の田野は空前の大豊作で、100万トンの穀物増産目標は十分達成される見通しです。

  我々は、我が国の経済建設で最も困難な問題の一つであった食糧問題をすでに基本的に解決したということができます。

 穀物とともに、綿花、葉たばこなど工芸作物の生産も著しく増大し、野菜の生産が急激に増えました。

 畜産業は、我が国の農業で最も立ち後れた部門でありました。我が党は、協同組合の共同畜産を基本としなから、これに組合員の自家畜産を組み合わせることによって、畜産業をいっそう発展させうる基礎をきずきました。1960年には1956年に比べて、牛の頭数は139%に、綿羊およびヤギは2倍以上に、豚は158%に、兎はほぼ18倍にそれぞれ増大しました。

 果樹栽培業では10万ヘクタールの果樹園造成が完成して、樹園地面積は6倍に拡張し、果物の総収量は3.6倍に増えました。

  養蚕、養蜂など農業のいろいろな副業がますます発展しており、特に山間部の農業協同組合では山を適切に利用して収入を増やしています。

 こんにち、我が国の社会主義的農業は、水害や干害をまぬがれるようになり、遅れた技術を速やかに一掃して、ますます新しい技術で装備され、発展した多角経営になっています。

 人民経済の急速な発展にともない、輸送の需要を解決することが焦眉の課題となりました。

 激増する輸送の需要をみたすためには、まず鉄道運輸を決定的に強化しなければなりませんでした。総括期間に、海州(ヘジュ)−下聖(ハソン)間、平山(ピョンサン)−支下里(チハリ)間、輸城(スソン)−古茂山(コムサン)間の鉄道が新たに敷設、または複線化され、100余キロメートルの鉄道が電化されました。鉄道の技術装備は著しく改善され、輸送機材の利用度はいっそう高まりました。これとともに鉄道運輸における規律と秩序が強化され、輸送組織がいちだんと改善されました。

 1960年に、鉄道の貨物総循環は1956年の2倍以上に増大し、貨物輸送や旅客輸送での鉄道の文化性とサービスが全般的に向上しました。

 自動車運輸と海上および河川運輸も急速な発展を遂げました。1957〜1960年のあいだに、自動車の台数は約2倍に、その貨物循環は4.3倍に増加し、船舶輸送は4.4倍に伸びました。

 逓信部門では電信電話網が拡張され、全農村の里の88%に有線放送が設けられ、無線放送施設もいっそう強化されました。

 生産の拡大と人民生活の改善のために、基本建設は極めて重要な意義をもっています。とりわけ過去、我が国が立ち後れていたうえに、戦争のため甚だしく破壊された状況のもとで、我々は5か年計画期間に膨大な建設を進めなければなりませんでした。

 1957〜1960年のあいだに、人民経済と文化建設のために、国家は基本建設に20億ウォン以上の投資をおこないました。これは3か年計画期間に比べて年平均1.4倍増加したことになります。

 膨大な建設を成功裏に進めるうえで重要な問題は、より速く、より立派に、そして少ない費用で建設することでした。古い手工業的な建設方法を決定的に改め、建設を組立て式方法、工業的な方法で進めなければ、この問題を解決することができませんでした。基本建設の工業化、これは建設分野で我が党の堅持した基本方針でありました。

 我々は、あらゆる困難と障害をのりこえてあくまで党の方針を貫き、基本建設に大きな転換をもたらしました。1960年の組立て式建設の比重は、産業建設では20%以上、住宅建設では約60%に達しました。建設の機械化水準は、土工作業では53%、積みおろし作業で50%、垂直運搬作業で約90%、コンクリート打込み作業では70%に高まりました。建材生産が著しく増大し、その質が向上し、設計事業も大いに改善されました。

 これとともに我々は、全人民的運動で都市と農村の建設を進め、特に地方では地元の建設資材を広く活用して、住宅や文化・厚生施設などをたくさん建設しました。

 基本建設が成功裏に進められた結果、多くの工場、企業所と生産施設が復旧、拡張あるいは新設され、都市と農村の姿は一新しました。民主首都平壌市は、うるわしく雄大な近代的都市となり、我が国のすべての都市が廃墟のなかから立派な新しい都市に建設されました。農村も昔のあばら屋はとりはらわれ、美しく暮らしよい文化的な農村に建設されています。

 建設事業でおさめた重要な成果の一つは、建設の物質的・技術的土台が強まり、建設部門の幹部が養成され、豊かな建設経験をつんだことです。主要な都市と産業中心地に新しい技術で装備された建設企業所が設けられ、しっかりした建材工業の基地がきずかれました。設計家、建設技術者、労働者は、近代的な工場や企業所、文化施設を自力で立派に設計し建設できるようになりました。これは、今後いっそう大規模の建設を進めることのできる元手であります。

 同志のみなさん!

 文化革命は、社会主義建設の重要な構成部分であります。総括期間に、我々は人民教育事業を改善し、勤労者の文化・技術水準を高め、民族文化と芸術を発展させるうえで大きな成果をおさめました。

 教育分野では、1956年から初等義務教育制が実施され、1958年からは中等義務教育制が実施されており、いまでは9年制技術義務教育制を実施するための準備が成功裏に進められています。各級学校網が大々的に拡張され、学生・生徒数はいっそう増加しました。現在、我が国では、8000千余の各級学校で人口のほぼ4分の1にあたる253万の学生・生徒が学んでいます。

 社会主義・共産主義を建設するためには、新しい世代を一般的な基礎知識とともに近代技術を身につけた教養のある、全面的に発達した働き手に育てなければなりません。社会主義建設のこのような実践的要求にもとづいて、我が党は1959年に人民教育体系を改編し、各級学校の事業を根本的に改善する重要な措置をとりました。我々は、実生活から離れて生徒にほとんど技術教育をおこなわなかったこれまでの高級中学制度を廃止し、中等および高等技術学校体系を設けることによって、若い世代がみな科学の基礎についての一般知識ばかりでなく、一定の分野の技術知識を習得できるようにしました。同時に、すべての学校で教育と生産、理論と実践を結びつける原則で教育の内容と方法を改善しました。人民教育体系のこのような改編は、教育分野における旧社会の残りかすを最終的になくし、マルクス・レーニン主義の教育理論を徹底的に具現したものであり、我が国の社会主義建設の要求に全く合致するものです。

 かつて、立ち後れた植民地であった我が国で民族技術幹部を養成することは、極めて重要な問題として提起されました。我が党は、解放直後から民族幹部の養成に大きな関心を払い、この事業で少なからぬ成果をあげました。総括期間に、中等および高等技術教育がいちだんと発展し、技術幹部が急激に増大しました。現在、人民経済の各部門では、1956年に比べて2倍にも増えた13万3000人の技師、技手および専門家が働いています。こんにち我が国では、すべての近代的な工場、企業所が、我々の技術者、専門家の手で管理、運営されています。これは、新しい社会の建設で我が党と人民がおさめた最も大きな成果の一つであります。

 しかし、社会主義建設をさらに促進するためには、より多くの技術幹部が必要です。我が党は増大する技術幹部の需要をみたすため、高等教育機関をふやし、幹部養成の質を高めるために大きな力を注ぎました。5か年計画期間に大学は19校から78校に増え、大学生数は5倍に増えて9万7000人に達しました。特に我々は、勤労者が生産から遊離せずに高等教育を受けられるよう夜間および通信教育網を大いに拡張するとともに、新しい形態の大学である工場大学と共産大学を創設しました。現在20余の重要な工場、企業所に工場大学がつくられ、各道都には共産大学が設立されており、そこでは数多くの現職の労働者と地方政権機関および経済機関の活動家が学んでいます。こうしてこんにち、一般の大学だけでなく生産現場でも幹部を養成できるようになり、我が国の工場や企業所は生産基地であるばかりでなく、幹部養成基地ともなっています。

 工場大学と共産大学が創設されて以来1年間の経験は、工場で大学を十分運営できるばかりでなく、これらの大学が多くのすぐれた点をもっていることを示しています。これらの大学は、労働者階級のなかから新しいインテリを大量に養成することを可能にし、教育と生産、理論と実践を最も密接に結びつけることができるようにします。また、多くの中核的な労働者が生産から遊離せずに高等教育を受けられるので、生産と技術をいっそう急速に発展させることができるようになりました。

 勤労者の文化・技術水準が全般的に向上したことは、文化革命でおさめた重要な成果であります。勤労者の文化・技術水準を向上させるために党がかかげた基本的なスローガンは、すべての労働者、農民に初級中学卒業程度以上の一般知識と一つ以上の技術を身につけさせよう、というものです。この目標を達成するために、我々は生産単位を基本にして、労働者、農民にたいする一般教育と技術教育を強力におし進めました。いま都市と農村では、多くの初等および中等成人学校が運営されており、そこではほぼ100万の労働者、農民が学んでいます。これとともに工場、企業所での技術学習と技術伝習の制度が強化され、勤労者の技術熟練度は急速に向上しています。

 総括期間に、科学の発展でも少なからぬ成果が達成されました。1960年には1956年に比べて科学研究機関が2.6倍に増え、科学部門の働き手は2.8倍に増えました。我が党は、社会主義経済建設で提起される実践的な諸問題、とりわけ国内の原料源にもとづいて工業をいっそう発展させるために提起されるさし迫った技術的問題の解決に科学部門の主力を注ぎました。科学者、技術者は、党の方針にもとづいて、生産と密接に結びつけて科学研究活動を進め、ビナロン研究の完成、無煙炭ガス化問題の解決、半導体の研究など多くの研究で成果をおさめ、人民経済の発展に大いに貢献しました。

 我が国の文学と芸術は、全面的な開花期に入っています。我が党の一貫した文芸政策は、朝鮮人民の悠久な文化遺産を批判的に受け継ぎ、外国の先進的な文化の成果を批判的に取り入れながら、社会主義制度のもとでの人民の生活と感情を反映した新しい民族文化を発展させることにあります。我々は、文学・芸術分野で一切のブルジョア反動思想のあらわれと外部からのその侵入に反対して断固たたかい、徹底して勤労人民に奉仕する革命的な文学と芸術を発展させるために努力しました。

 作家、芸術家は、党の文芸政策を貫いて、朝鮮人民の輝かしい闘争の歴史とこんにちの勤労者の壮大な闘争の姿を描いた多くのすぐれた文学・芸術作品を創作しました。文学と芸術は、労働者、農民のものとなり、広範な大衆のあいだでいっそう美しく開花しています。

 こうして我が国の文学と芸術は、勤労者の共産主義教育の強力な手段となっており、新しい社会の建設をめざすかれらのたたかいを励ましています。

 工業と農業をはじめ、人民経済の各部門が急速に発展し、あらゆる形の搾取が一掃された結果、人民の物質・文化生活はいっそう改善されました。

 1960年の国民所得は、1956年の2.1倍に増加しました。我が国の国民所得は全人民のものであり、社会主義的生産の拡大と勤労者の福祉増進のために利用されています。ここで重要なのは、蓄積と消費を正しく組み合わせ、労働者と農民の生活水準に大きなひらきがないよう両者を適切に調節することです。

 現在、我が国では国民所得の4分の1が蓄積に向けられており、約4分の3は勤労者の個人的な消費にあてられています。

 1960年に労働者、事務員の実質賃金は1956年の2.1倍に増えました。労働者、事務員の実質賃金水準は、かれらに安定した生活を十分保障できるほどになりました。

 同じ期間に、農民の実質所得も著しく増加しました。山間部の農民も平野部の農民に劣らず生活が改善され、我が国で長いあいだ解決できなかった貧農問題は完全に解決されました。こうして、農民の生活は全般的に中農または裕福な中農の水準に達しています。

 都市と農村で多くの住宅を建設した結果、勤労者の住宅事情もいちだんと改善されました。1957〜1960年の期間だけでも、都市に622万平方メートル、農村には506万平方メートルに達する住宅が新たに建設されました。

 こんにち我が国の勤労者は、裕福に暮らしているとはいえないまでも、衣食住について心配するようなことはなくなりました。

 衣食住の問題が基本的に解決されたばかりでなく、全般的に勤労者にたいする商品供給がいちだんと改善されました。1960年には1956年に比べて、小売商品の流通額が3.1倍に増加し、そのうち食料品は2.5倍に、その他の商品は3.7倍に増えました。同じ期間に商業網は1.9倍に拡大されました。こうして都市と農村、山間僻地にいたるまで、勤労者は必要な商品をどこでも単一の価格で買えるようになりました。

 我が国の勤労者は、労働による収入のほかに大きな国家的および社会的な恩恵を受けています。1960年に国家予算支出のうち、社会・文化施策費は1956年のほぼ4倍に増えました。

 すべての学校の授業料が廃止され、若い世代は無料で教育を受けており、大学および専門学校では学生のほとんどが国家から奨学金の支給まで受けています。

 我が国では、すでに全般的な無料治療制が実施されています。1960年に、保健医療部門の医師数は1956年の2倍に、病院および診療所の数は2.9倍に増加し、勤労者にたいする医療奉仕がいちだんと改善されました。1960年には、日本帝国主義の支配当時に比べて人口の死亡率が半分にへり、人口の自然増加率は2.7倍に高まりました。

 労働者、事務員は、有給休暇制の恩恵を受けており、毎年数十万の勤労者が国家の費用で休養所または静養所で楽しく休息しています。国家および社会の費用で運営される多くの託児所と幼稚園が設けられて子供を立派に育てており、婦人たちが社会的労働に参加できる条件を保障しています。1960年には、1956年に比べて託児所および幼稚園の数が31倍に増加し、そこでは約70万の子供をあずかっています。

 これらはすべて、勤労者の福祉にたいする我が党と国家の大きな配慮の明白なあらわれであり、我が国に発生、発展している共産主義の芽であるといえます。

 同志のみなさん!

 我々は社会主義建設で偉大な成果をおさめました。我が国の経済と文化はかつてない速いテンポで発展し、我が社会のすべての様相は根本的に変わりました。

 かつては遅れた植民地農業国であり、戦争で廃墟と化した我が国が、いまは自立的な経済土台をもつ社会主義工業・農業国となりました。過去の我が国の勤労者は衣食にもことかき、文明の世界からとりのこされて無知と蒙昧のなかで暮らしてきました。しかしこんにち、我が国の勤労者はなんの心配もなく、幸福と希望にみちた生活をおくっており、科学と技術の主人となり、知識と教養のある社会の建設者となりました。

 いまや我々は、我が国と人民が幾世紀にもわたる立ち後れと貧困から完全にぬけだしたと、確信をもっていうことができます。


 3 チョンリマ運動

 同志のみなさん!

 我が国における社会主義建設の大きな成果は、社会主義建設の大高揚のなかで、チョンリマ運動の発展の過程で達成されたものであります。

 チョンリマ運動は、我が党のまわりにかたく団結した人民の偉大な創造力のあらわれであり、社会主義建設を最大限に早めるための全人民的な運動であります。

 我が国は、旧社会から立ち後れた経済と文化を受け継いだうえに、また3年間の激しい戦争を体験しました。我々は国が南北に分断されている状況のもとで、アメリカ帝国主義者と直接対峙して社会主義を建設しており、同時に祖国の平和的統一をめざしてたたかっています。このような状況のもとで、我々は非常に緊張した闘争を進めなければなりませんでした。歴史的に受け継いだ立ち後れから早くぬけだすために、また最大の民族的な課題である祖国の統一を早めるために、我々は人一倍早い速度で前進しなければなりませんでした。

 まさにこのような朝鮮革命の要求から、我が党は共和国北半部の社会主義建設を決定的に促進する方針を立て、これにもとづいて全勤労者を社会主義建設の英雄的なたたかいに立ち上がらせました。

 我が党によって教育され育成された勤労者は、革命の当面の要求と自己に課せられた歴史的な使命を深く自覚し、社会主義建設を促進する党の方針をこぞって支持しました。

 勤労者は、「チョンリマを駆る勢いで前進しょう!」という党の呼びかけに熱烈にこたえて、党の示す課題を遂行するため水火もいとわずたたかい、あらゆる困難と障害を勇敢にのりこえ、互いに先をあらそって前進につぐ前進をつづけました。

 こうして、社会主義建設のすべての部門では連日革新が起こり、世人を驚かす奇跡的成果が生みだされました。

 英雄的な労働者階級は、1年足らずのあいだに30万〜40万トン能力の溶鉱炉を建設し、80キロメートル余りの広軌鉄道の敷設工事を75日間で完成し、なにもなかった荒地のうえに1年余りのあいだに近代的な大ビナロン工場を建設しました。勤労者は「工作機械の子生み運動」をくりひろげて、1年間に国家計画以外に1万3000台余りの工作機械を生産し、地方の遊休資材と遊休労働力で3、4か月間に1000余りの地方産業工場を建設し、37万ヘクタールの田畑を水利化する大自然改造事業を6か月間で遂行しました。このような実例は無数にあげることができます。

 これらはすべて、党の指導のもとに、チョンリマの速度で前進する朝鮮人民の英雄的な気概と創造的な才能を象徴するものです。

 我々はひきつづきチョンリマ運動を発展させることによって、工業生産で毎年30〜40%、またはそれ以上の成長速度を保ち、短期間に立ち後れた農業をもりたて建設を進めて廃墟と化した都市と農村の面目を一新しました。

 我が国における社会主義建設の大高揚とチョンリマ運動は、戦後の偉大な社会的・経済的変革にもとづいて、また我が党と人民が長いあいだの苦難にみちたたたかいを通じて蓄積したすべての物質的、精神的な力にもとづいて生まれた合法則的な現象であります。

 社会主義革命の決定的な勝利と国の自立的経済土台の構築は、経済・文化建設に一大高揚をもたらす社会経済的・物質的条件をつくりだし、チョンリマ運動を起こす客観的な要因となりました。

 しかし、客観的条件と可能性だけで、いつでも社会主義建設の大高揚がもたらされるものではありません。そのためには、また主体的な力、すなわち、党が大衆を革命の高揚へと導く力をもっていなければならず、党の意図を貫こうとする大衆のゆるぎない決意がなければなりません。

 我が党は、困難なたたかいを通じて大衆のなかで確固たる権威と信頼をかちとり、自己のまわりに大衆をかたく団結させました。党隊列の鉄のような統一、党内におけるマルクス・レーニン主義的指導体系の全面的な確立は、党の戦闘力を強め、大衆のなかで党の権威と影響力を決定的に高めました。こうして党の意志と思想は、常に大衆のなかに深く浸透して大衆自身の意志となり思想となりました。

 人民は、党の政策と路線を自分自身の死活にかかわるものとして受け入れ、革命の大業と祖国の隆盛発展のためにすべてをささげてたたかってきました。特に、かつて権力を掌握したことのない人民が自己の手中に権力をおさめ血をもってそれを守りとおし、また、かつて抑圧されさげすまれていた人民がいっさいの搾取と抑圧から解放されたことからして、かれらが立ち後れた祖国を一日も早く先進国に追いつかせ、自分たちの困難な生活状態を速やかに改善するために、並々ならぬ革命的熱意を発揮するのは当然のことであります。

 我が党は、勤労者の高まった政治的熱意と尽きることのない創造力に依拠して、社会主義建設のあらゆる分野にわたって大胆に事業にとりくみ、精力的にそれを展開していきました。

 革命の各段階における政策の規定にあたって、我が党は現在と近い将来だけを考えたのではなく、常に国の遠い将来の発展展望を科学的に見通し、大衆の進むべき正しい方向と明確な闘争目標を示しました。我が党はいったん政策を立てた後は、どんなに複雑で困難な環境にあっても、そこから一歩も後へひかず、不抜の強靭性をもってその政策と路線をあくまでも貫きとおしました。

 我が党は大衆の高まった革命的意気込みを力強く励まし、一つの問題を解決すればつづけて他の問題をうちだし、社会主義建設のすべての分野にわたって継続前進、継続革新の火の手を上げました。これとともに党は、社会主義建設の各時期に中心の環を正しくとらえてこれに力を集中し、問題を一つ一つ徹底的に解決しながら、社会主義建設の全般的な連鎖をしっかりとつかんで進みました。

 政策樹立における我が党の科学的な見通しと、その実行における確固たるマルクス・レーニン主義的原則性とすぐれた革命的展開力は、常に勤労者が自分の仕事に確信をもち、党の示す道をいささかも動揺することなく、社会主義の大業の勝利をめざして前進するようにしました。

 党の賢明な指導、党と人民とのゆるぎない統一、早く前進しようとする人民のかたい決意と革命的な熱意−これが社会主義建設の大高揚とチョンリマ運動の根底に脈打っており、我々のすべての勝利の決定的な裏付けとなっています。

 同志のみなさん!

 マルクス・レーニン主義が教えているとおり、歴史の創造者は人民大衆であり、社会主義と共産主義は、幾百万勤労者の自発的で創造的な労働によってのみ建設することができます。それゆえ社会主義建設で最も重要なのは、人民大衆の創造力を最大限に引き出し、その熱意と創意と才能を全面的に発揮させることであります。我が国におけるチョンリマ運動の偉大な力は、それがまさしく人民の革命的熱意と創造的才能を高度に発揮させた大衆的運動であるという点にあります。

 あらゆる大衆的な革新運動がそうであるように、チョンリマ運動は古いものとのたたかいを通じて、困難と障害を克服する過程で発生し発展しました。我が国の社会主義建設が高揚期に入ったとき、勤労者の革命的熱意と創造的な積極性を高めるうえで主な障害となったのは、消極性と保守主義、技術にたいする神秘主義でした。社会主義建設における消極性と保守主義は、英雄的な労働者階級の威力を信じないところから、人民の尽きることのない創造力と才能を信じないところから生まれました。消極分子や保守主義者は、古い通常能力や基準にこだわり、科学と技術を神秘祝して大衆の創意を抑えようとし、困難に屈服し革新を恐れて、大衆の壮大な前進運動を阻もうとしました。消極性と保守主義、技術にたいする神秘主義を打ち破らずには、社会主義建設の大高揚をもたらすことも、チョンリマ運動を発展させることもできませんでした。

 我が党は、幹部と勤労者のあいだで消極性と保守主義に反対する強力な思想闘争をくりひろげ、大胆に着想して大胆に実行し、継続前進し継続革新する革命的な精神でかれらを武装させるためにたゆみなく努力しました。党は、常に大衆の偉大な創造力を信じ、その大胆な提案と創意を積極的に支持し、それを実生活に生かすようあらゆる援助を与えました。党の正しい指導に限りなく勇気づけられた勤労者は、消極性と保守主義を打ち破り、あらゆる困難を勇敢にのりこえ進むことによって、かつては想像すらできなかった数多くの労働の偉勲を立てました。

 社会主義建設で、人民大衆の生産意欲と創造的な積極性を高度に発揮させるうえで重要な意義をもつのは、たえず大衆の政治・思想意識を高めながら、それに物質的関心の原則を正しく結合することであります。

 広範な勤労者が、党と革命のために忠実に奉仕する精神で、祖国と人民のために献身的にたたかう精神でしっかり武装してはじめて、社会主義建設で真に大衆的な生産の高揚が起こり、真に集団的な英雄主義が発揮されるのであります。また、大衆のこのような政治的自覚と意識水準をたえず高めなくては、かれらに労働にたいする真の共産主義的態度をつちかうことはできません。

 社会主義のもとで、労働にたいする政治的・道徳的刺激は、必ず物質的な刺激によって裏打ちされなければなりません。労働の質と量による分配は、社会主義社会の客観的な法則であり、それは働かずに他人におぶさって生きようとする者に反対し、勤労者の生産意欲を物質的に刺激する強力な手段です。

 我が党は、すべての事業において政治活動を優先させ勤労者の共産主義教育を強めて、労働で自発的熱意と献身性を発揮させるとともに、社会主義的分配の原則を正しく実行して、勤労者の物質的関心を刺激する方針を一貫して堅持しました。

 こうした我が党の方針の正しさは、勤労者のかつてない生産の高揚に明白にあらわれています。こんにち勤労者は、国家と社会のため自分の幸せのために、すべての力と才能を尽くして働いており、かれらのなかで労働を好み労働を最も栄誉あるものと考え、互いに助けあい、ともに働き、幸せに暮らそうという共産主義的道徳の美風が急速に発揚されています。

 大衆の生産意欲と創意は科学および技術と結びついてはじめて、真の威力を発揮することができます。科学の発達と技術の進歩なしに、大衆の熱意だけでは大きな前進は望めず、たえまない革新を起こすことはできません。

 科学・技術の急速な進歩をなし遂げるためには広範な勤労大衆をこの仕事に積極的に引き入れ、労働者、農民と科学者、技術者との創造的な協力を強めなければなりません。我々は、科学・技術の進歩は特定の人によってのみなされるという誤った考えを打破して、勤労者のあいだで新しい技術を身につける大衆的な運動をくりひろげ、かれらをたえまない技術革新へとふるいたたせました。我々は技術の進歩において、労働者、農民の創案や発案を過小評価する傾向に断固反対するとともに、科学の意義と科学者の役割を軽視する傾向を厳しく警戒し、たえず労働と科学を結びつけるために、労働者、農民と科学者、技術者との緊密な協力をはかるために力を尽くしました。科学と技術が勤労大衆のものとなり、労働者、農民と科学者、技術者との協力が強まった結果、我が国の科学・技術はいっそう急速な進歩を遂げるようになり、人民経済のあらゆる部門で集団的な技術革新運動が広範にくりひろげられるようになりました。

 こうして、かつては抑圧され、踏みにじられ、埋もれていた人民のあらゆる英知と才能、熱意と創造力がチョンリマ運動によって見事に開花し、それは経済建設と文化建設にたえまない革新をもたらしました。

 チョンリマ運動の大きな政治的・経済的意義はなによりも、それが社会主義建設の速いテンポを保障したことにあります。

 経済発展の速いテンポは社会主義社会の合法則性であり、それは人民経済の計画的でつりあいのとれた発展を前提とします。もしも、経済の発展で計画性と均衡が保障されなければ、莫大な資材、資金、労働力の浪費をまねくことになり、個々の部門で一時は速い発展テンポを達成することができても、結局は全般的な経済の発展が遅れざるをえなくなります。

 我が国の社会主義建設の速いテンポは、人民経済の計画的でつりあいのとれた発展にもとづいて実現されました。だからこそ戦後の復興期はもとより、5か年計画の全期間にわたってひきつづき速い発展テンポを堅持し、全般的な社会主義建設をよりいっそう促進することができたのです。

 経済発展のテンポがいかに速くても、それが厳密に現実的な可能性に根ざしている場合には、決して不均衡をもたらすようなことはありません。もちろん、非常に速いテンポを保ちながら均衡を維持するのは極めて難しいことです。しかし、均衡を保つために発展テンポをゆるめるわけにはいきません。計画性と均衡はそれ自体に目的があるのではなく、速い発展テンポを達成するための手段であります。したがって、最も重要なのは社会主義制度の優位性と大衆の創造力に依拠して、人民経済に潜んでいる潜在力と可能性を最大限に引き出し、あらゆる部門をひとしく速いテンポで発展させることです。我々は、社会主義建設で常に物質的条件と可能性を綿密に検討するとともに、苦難にみちた闘争のなかで鍛えられた人民の革命的熱意と創造力を信じ、いつも積極的で大胆な計画を立て、それを遂行するために大衆をふるいたたせました。

 同時に我が党は、人民経済各部門の発展を正しく結びつけ適切に調節することによって、遅れる部門をそのつど引き上げ、生じうる不均衡を未然に防ぎました。我が党が1960年を緩衝期としたのは、人民経済の正しい均衡を保ち、速い発展テンポを維持するための最も適切で賢明な措置でした。我々は1960年に、人民経済の急速な発展過程で一部にあらわれた緊張を解消し、立ち後れた個々の部門を引き上げ、人民の物質・文化生活水準をいっそう向上させて、各部門で5か年計画の課題を完遂あるいは超過完遂し、その成果をさらにかため、新たな展望計画を成功裏になし遂げるための万全の準備をととのえました。このようにして、社会主義建設の高揚を堅持し、それをいっそう発展させ、さらに高い水準でチョンリマの進軍をつづけられるようになりました。

 同志のみなさん!

 我が党は、我が国で社会主義を成功裏に建設する決定的な裏付けをチョンリマ運動にみいだし、この運動をしっかりと掌握し、ひきつづきそれを深化、発展させてきました。

 生産関係の社会主義的改造が完成し、消極性と保守主義、神秘主義などいっさいの古い思想の残りかすに反対する全党的な闘争がおこなわれる過程で、特に共産主義教育が大衆のなかでいっそう強化され、党活動が創造的な生きた対人活動に徹底的に切り換えられる過程で、チョンリマ運動はいっそうの発展を遂げました。

 我が党は、すべての人を教育、改造して党のまわりにかたく団結させることを党活動の第一義的な任務とみなして、対人活動を極力強化し、特に大衆の共産主義教育を革命伝統教育と結びつけて強くおし進めました。すべての人を教育、改造する党の方針が大衆に受け入れられ、人間改造の仕事が大衆自身の仕事となり、かれらの生産活動といっそう密接に結びつくようになりました。

 現在、勤労者のあいだで広範にくりひろげられているチョンリマ作業班運動の重要な特徴は、まさに生産における集団的な革新運動と勤労者を教育、改造する活動とを有機的に結びつけたところにあります。

 チョンリマ作業班運動はチョンリマ運動の深化、発展したものであり、それは人民経済発展の強力な推進力となり、勤労者の大衆的な経済管理の立派な方法となったばかりでなく、すべての人々を新しい共産主義的な人間に改造するすぐれた大衆的教育の方法となりました。チョンリマの騎手たちは、たんなる生産革新者であるばかりでなく、有能な管理者、巧みな組織者、真の共産主義教育者であります。

 こんにち、我が国でチョンリマ作業班運動は、工業、農業、運輸、建設、科学、教育、文化、保健医療などのあらゆる分野を包括しており、我々の時代の英雄であるチョンリマの騎手の隊列は日増しに拡大しています。今年の8月末現在で、200万以上の勤労者がこの運動に参加しています。このうち12万5028人を擁する4958の作業班と職場がチョンリマの称号を受け、1459人を擁する55の作業班は二重チョンリマの称号を受けました。

 こうしてチョンリマ運動は、経済と文化、思想と道徳のあらゆる分野でいっさいの立ち後れを一掃してたえず革新を起こし、社会主義建設をめざましく促進する我が国の数百万勤労者の一大事命運動となり、社会主義建設における我が党の総路線となりました。

 この路線の本質は、全勤労者を共産主義思想で教育、改造して党のまわりにさらにかたく団結させ、かれらの革命的な熱意と創造的な才能を高度に発揮させて、社会主義をより立派に、より早く建設することにあります。この路線の不敗の生命力は、それが人民大衆によって創造され、党が大衆の意志を反映し、かれらの実際の闘争経験を一般化してうちだした路線であり、したがって、大衆がこれを熱烈に受け入れたところにあります。

 我が党は、この路線にもとづいて社会主義建設で偉大な勝利をおさめ、今後もこの路線にそってさらに大きな勝利をかちとるでありましょう。


 4 国家社会制度の強化

 同志のみなさん!

 我が国で起こった大きな社会的・経済的変革によって、人民政権はいちだんと強化され、国家社会制度はかつてなく強固になりました。

 人民政権は、社会主義革命と社会主義建設の強力な武器としての機能を立派に果たし、その不敗の生命力を証明しました。こんにち我々の国家は、都市と農村で全面的に勝利した社会主義経済体制にもとづいており、民族経済の自立的土台をよりどころとしています。人民政権は、自己の確固たる経済的土台をもち、国のすべての資源を人民の幸せな生活のため、祖国の繁栄のためにより有効に活用できるようになりました。

 社会の階級的構成においても根本的な変化が起こりました。

 労働者階級は、社会の指導的勢力としてゆるぎない地位を占めるようになりました。総括期間に労働者階級が急激に増加し、その組織性と政治・意識水準、技術・文化水準がさらに向上しました。

 現在、我が国で労働者、事務員は全人口の52%を占めています。権力を自己の手中におさめている労働者階級は、たくましい闘志と革命的気概を発揮して、すべての勤労者と非勤労者層までも社会主義の道へ導き、あらゆる搾取制度を最終的に一掃する自己の歴史的使命を立派に遂行しました。労働者階級は、尽きることのない創造力と才能を発揮して社会主義建設で奇跡的な成果をおさめ、こんにち全人民的なチョンリマ運動の先頭に立って進んでいます。

 農民は社会主義的な集団経営に参加することによって、長いあいだの搾取と貧困から完全に解放されました。農民の社会的・経済的地位が変わったばかりでなく、その思想・意識にも大きな変化が起こり、文化水準も急速に向上しています。こんにち、農民は、労働者階級の頼もしい同盟者として社会主義建設の強力な勢力となっており、政治・経済・文化生活のあらゆる分野で高度の愛国的熱意を発揮しています。

 インテリも根本的に変わりました。古くからのインテリは、我が党のたゆみない教育によって、また革命と建設のたたかいを通じて社会主義的インテリに改造され、これとあいまって新しいインテリが勤労人民のなかから大量に育成されました。こんにち我が国のインテリは、党と労働者階級の大業のために忠実に奉仕しており、社会主義建設で大きな役割を果たしています。

 我が国には、すでに搾取階級も被搾取階級もなくなりました。すべての人が、社会主義経済体制のもとで、共同の利益と共同の繁栄のため、ともに働き緊密に協力しあう同志的な関係を結ぶようになりました。社会主義の土台のもとに労農同盟はいっそう強化され、この同盟にもとづいて全人民のゆるぎない政治的・道徳的統一が実現しました。

 こうして人民政権は、いつにもまして強固な政治的基盤をもつようになりました。

 人民政権にその機能を十分果たさせるためには、各級の国家機関をたえず強化し、国家活動をひきつづき改善しなければなりません。総括期間、我々は、変化した新しい現実に即応して国家機関の事業を改編し、社会主義建設におけるその役割と機能を高めるため一連の重要な措置をとりました。

 社会主義的生産関係が全面的に勝利し、人民経済のすべての部門が国家の計画化体系に包括されたため、国家機関、とりわけ地方人民委員会の経済管理機能を強め、計画化の水準を向上させることがなによりも重要な課題として提起されました。かつては、人民委員会が主として個人経営を対象にして活動し、その発展を統制し調節する役割を果たしたにすぎませんでした。しかし、社会主義経営は、このような方法で指導することはできません。新しい情勢のもとでは、人民委員会が地方経営工業と農業を計画的に指導し、勤労者にたいする供給活動、教育・文化活動、都市経営事業などを直接組織し管理することが必要となりました。我々は、人民委員会がこのような経済組織者、文化教育者としての機能を十分に果たせるようにするため、人民委員会の活動を、かつての個人経営を指導していた体系から社会主義経営を指導する体系に改め、地方人民委員会の計画委員会をいちだんと強化しました。

 また、工業が膨大な規模に拡大され、特に地方経営工業が大々的に発展したため、以前の工業管理体系は現実にそぐわなくなりました。工業にたいする国家機関の指導を現地に接近させ、具体的で機動的な指導をおこなうためには、中央の省、局の負担をずっとへらし、地方の工業管理機構を決定的に強化しなくてはなりませんでした。そのため、我が党は以前に中央の省、局が直接管理していた少なからぬ工業企業所を地方に移管し、道経済委員会を創設して地方経営工業と地方建設を管理させることにしました。同時に中央の省、局を統合してその機構を大幅に縮小し、多くの管理・技術幹部を地方に派遣しました。工業管理体系のこのような改編は、工業管理において中央集権的な単一指導を強化するとともに、地方の役割を向上させ民主主義をいっそう発揚させました。それは、一方では、中央機関を雑多な事務から解放して省、局が全国家的な意義をもつ工業企業所の管理に力を集中できるようにし、他方では地方経営工業の管理機構を強化して地方経営工業のより急速な発展をはかることができるようにしました。道経済委員会が創設された結果、地方の独自性と創意性が高まり、地方の原料源とすべての潜在力をより有効に利用できるようになりました。

 国家機関を強化するうえで、幹部の指導水準を向上させ活動作風を改善することは重要な意義をもっています。

 我々は、経済の発展に比べた幹部の指導水準の立ち後れをなくすため、幹部の養成と教育に力を入れるとともに、下級機関にたいする上級機関の指導と援助をさらに強化しました。同時に各級の国家機関において、官僚主義をなくし人民的活動方法を確立するたたかいをひきつづき強力にくりひろげました。いま各級の国家機関では、幹部が事務室で繁雑な統計にばかりしがみつき雑多な指令ばかりくだすような官僚主義的、事務室的な活動方法は基本的になくなり、下級機関や工場、企業所に出向いて現地で実情を調べ、下級機関の活動家を実質的に援助する活動方法が確立されています。また、国家・経済機関の幹部のなかには、大衆のなかに入ってともに働きながら党の路線と政策を解説し、すべての問題を大衆と直接討議し、かれらの熱意と創意を発揮させて解決する真に人民的な活動作風が確立されつつあります。

 こうして、社会主義建設において各級国家機関の役割と機能はさらに高まり、政権機関が人民のなかに深く入るようになり、広範な勤労者が国家活動に積極的に参加するようになりました。

 同志のみなさん!

 朝鮮民主主義人民共和国は、全朝鮮人民から絶対的に支持され愛される真の祖国であります。我々の国家は、人民に政治的自由と権利を保障しているばかりでなく、幸福な物質・文化生活を保障している真の人民の国家であります。我々の国家は、人民によってうち立てられ、労働者階級によって指導され、労農同盟にもとづく全人民の統一と団結の力をよりどころにしており、広範な人民大衆を国家活動に参加させる、最も民主的で最も強力な国家であります。

 朝鮮人民は、共和国の隆盛発展にみずからの自由と幸福の源を見いだし、共和国の不敗の威力をかたく信じています。我が国の勤労者は、祖国の大地に社会主義・共産主義の楽園を建設できるという信念にみちており、祖国の限りない繁栄のためにすべての力と才能をささげてたたかっています。人民は、共和国の政治的・経済的・軍事的威力をいっそう強化して、いかなる帝国主義者の侵略をも断固はねのけ、祖国の独立と栄誉を守り、分断された国を統一するかたい決意にみちています。

 共和国の隆盛発展は、アメリカ帝国主義者とその手先のひどい弾圧と搾取のもとに苦しんでいる南朝鮮人民に強力な革命的作用を及ぼしています。南朝鮮人民は、南北朝鮮の相反する情勢にてらして、ただ帝国主義の従属から完全にぬけだし、人民が権力を握ってのみ、真の自由と幸福を享受することができるという認識をいっそう深めています。南朝鮮人民は、共和国の隆盛発展にみずからの明るい未来を見いだしており、共和国の威力の成長に限りない力と勇気をえています。かれらは、共和国を祖国統一の強力な砦として仰ぎながら、アメリカ帝国主義者とその手先に反対していっそう力強くたたかっています。

 朝鮮民主主義人民共和国は、海外に在住するすべての朝鮮公民に大きな影響を与えています。かつて、多くの朝鮮人が異国の地で亡国の民として民族的差別とありとあらゆる蔑視を受けながら、無権利とひどい生活苦にあえいできました。しかしこんにち、かれらは堂々たる独立国の公民としてその権利を要求することができるようになったばかりでなく、祖国に帰って幸福な生活を送れるようになりました。すでに、数万の在日同胞が共和国に帰って、なんの不便も心配もなく安定した生活をしており、ひきつづきより多くの人々が祖国に帰ってきています。

 これらの事実は、朝鮮民主主義人民共和国が全朝鮮人民の光栄ある祖国として、かれらの自由と幸福の旗印となっており、その影響力がますます増大していることを示しています。

 朝鮮人民は、半世紀近くも祖国を失っていました。こんにち、朝鮮人民は強力な祖国をもっており、祖国はかってない繁栄期にあります。朝鮮人民は、祖国朝鮮民主主義人民共和国をこのうえなく誇り、その公民としての栄誉をいっそう高めています。

 いかなる力も共和国の旗のもとに団結した朝鮮人民の力をくじくことはできず、その前進を阻むことはできません。



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