金 日 成

チョンリマの時代にふさわしい文学・芸術を創造しよう
作家、作曲家、映画人との談話 
1960年11月27日

 私は今日、皆さんにわが文学・芸術の発展問題について若干述べようと思います。

 わが国の文学・芸術は、長い歴史的な伝統をもっています。昔からわが国の歌と踊りは美しいものでした。解放後、文学・芸術は急速な発展を遂げ、いま燦然と開花しています。こんにちのわが国の芸術は真に「黄金の芸術」として称賛されるに値します。

 これまで、作家、芸術家は、党の文芸政策に従って多くの仕事をしました。私は、長いあいだ侵略者によって踏みにじられてきた民族芸術を、こんにちのように発展させるため献身的に闘ってきた皆さんの努力を高く評価します。

 しかし、これまでの成果に満足することはできません。我々の生活は急速に前進しており、人民はより美しく力強い芸術を求めています。

 こんにち、わが国の文学・芸術は、発展しつつある人民の生活に比べて立ち後れており、人民の要求に追いつけないでいます。

 人々は、いみじくも、我々の時代をチョンリマ(千里馬)の時代と呼んでおり、この偉大な時代に生き、働くことをこのうえない幸せと考えています。

 我々は、社会主義建設のあらゆる分野で他人が十歩進めば百歩進み、他人が一里走れば十里を走る意気込みで闘っています。実に、チョンリマの精神は朝鮮人民の生活の信条となっています。

 我々はこの数年間、チョンリマの大進軍をつづけて社会主義的工業化の基礎をきずき、富強な社会主義祖国建設の強固な土台をきずきあげました。生活はまだ豊かであるとは言えませんが、人民は衣食住の問題については何の心配もしなくなり、誰もが希望に満ちた幸福な生活を営んでいます。我々がいま一度勇気を奮い起こして7か年計画を遂行すれば、わが国は発達した社会主義工業国となり、人民生活は画期的に向上することになります。我々の積み上げた業績は偉大であり、未来は輝かしいものであります。

 わが国の文学と芸術は、当然、チョンリマの勢いで前進している人民の、この偉大な創造的生活を力強く形象化しなければなりません。文学と芸術は、チョンリマ時代の人々の生きがいのある生活と英雄的な闘争を描くべきであり、彼らの希望と念願を明確に表現しなければなりません。

 しかし、残念ながら、わが国の文学と芸術は、我々の時代の精神を十分に反映しておらず、社会主義建設者の生活情緒と志向を生き生きと形象化していません。

 まず、人民の躍動する実生活をテーマにした作品がいくらもありません。唱劇「春香伝」も立派であり、演劇「李舜臣将軍」も結構です。過去のこともよく知らなければなりません。しかし、我々にいっそう切実に必要なのは、過去より現在です。過去のものを取り扱う場合にも、こんにちの人民の革命闘争と直接関連のある問題からとりあげなければなりません。

 我々は、革命伝統教育と階級的教育のために、抗日武装闘争期の革命家の不屈の闘争と、民主主義革命期、祖国解放戦争期および戦後復興建設期の人民の英雄的な闘争を描いた作品をひきつづき多く創作すべきです。このような問題を扱った作品のなかには成功作が少なくありません。これらの作品は、勤労者を共産主義的な革命精神で教育するうえに大きく寄与しています。

 ところで、いま一番少ないのは、こんにちの現実を描いた作品です。チョンリマ時代が生んだ新しい英雄を描いた芸術作品はごくわずかしかありません。作家、芸術家は、過去の英雄はあがめるけれども、偉大な新しい生活を創造している我々の時代の英雄を評価することを知りません。これが、こんにちにおける作家の大きな弱点です。

 もちろん、こんにちの生活と英雄を描くことが、過去の生活と英雄を描くことよりはるかに難しいことは確かです。こんにちの生活は、過去の生活に比べてその内容がより複雑であり多様であります。現代の英雄の複雑で豊富な生活の内容を立派に形象化するためには、多くの研究と努力が必要です。しかしながら、我々がこんにちの現実を描いた作品を一つでも立派に創作すれば、それは勤労者を教育するうえで、過去のものを描いた作品よりもはるかに大きな影響力をもつことでしょう。

 結局、すべての文学・芸術作品は、こんにちの人民に、どのように生き、働き、闘うべきかを教えることに奉仕しなければなりません。それゆえ、作家、芸術家は、過去よりも現実に対してより多くの関心を払うべきであります。現実の生活に近いものを描けば描くほど、その作品はいっそう価値のあるものとなるでしょう。

 ある外国の作家は我々に、朝鮮では演劇『李舜臣将軍』をしばしば上演しているが、朝鮮人民の祖国解放戦争の時期には数多くの李舜臣が出たではないかと言いました。私はこの作家の言葉が正しいと思います。こんにち、我々の時代には、李舜臣よりもさらに英知に富み勇敢な愛国者が数多く存在しています。

 文学と芸術が描くべき新しい人間は至るところにいます。機械製作工場、金属工場、紡織工場などの工場、企業所や農村、漁村に多くのチョンリマの騎手がいます。いま、チョンリマ作業班だけでも850余に達し、模範農業協同組合は1000余に達しています。チョンリマの騎手はすべて、我々の時代の立派な英雄であります。問題は、作家、芸術家が、こんにちの真の英雄をよく知らないことにあります。

 文学・芸術分野において、特に立ち後れているのは映画芸術であります。映画は、大衆教育の手段として極めて重要な位置を占めています。ところが、わが国の映画は低い水準にあります。わが国の英雄的な労働者階級を描いたものもなければ、農民を描いたものも見るべきものがありません。

 我々は、わずか4、5年という短期間に、農村で個人農経営を協同化し、搾取と貧困の根源を永久に取り除く革命事業をなし遂げました。ところが、この偉大な変革をテーマにした映画が一本もありません。黄海製鉄所の機械設備を製作するための龍城機械工場の労働者の生産闘争を描いた映画が一本制作されましたが、満足すべきものではありません。この映画の欠点について述べるつもりはありません。多少欠点があっても構わないから、現実をテーマにした作品をたくさんつくり出さなければなりません。

 私は最近、どうすれば映画芸術が、我々の時代の新しい人間、勤労者のなかから生まれた英雄、チョンリマ騎手の生きがいのある生活と闘争の姿を描き出すことができるだろうかと、いろいろ考えてみました。我々がそのような映画を一つでも立派に制作するならば、それは勤労者を大いに励ますことになり、数千数万の新しい人間を教育する力強い武器となるでしょう。

 我々の時代の要求にふさわしい映画をつくるうえで最も重要なのは、新しいものと古いものとの闘いを正しく反映し、人々に限りなく広大な前途を切り開く社会主義制度の優位性を生き生きと描き出すことであります。

 映画では、生産で決定的な役割を果たすのは機械ではなく人間であるという思想が強調されなければならず、偉大な生活は一人や二人のすぐれた人間の力によってではなく、自己の歴史的使命を自覚した幾百万勤労大衆の闘争によって創造されるという、マルクス・レーニン主義的観点が明確に表現されなければなりません、このような映画の主人公は、快活で楽天的であり、困難にひるむことなく前進しようとする意志の非常に強い、典型的な新しい人間として描かれなければなりません。そして、かつては、さげすまれ、抑圧されていた人がたゆみない努力と修養によって、また、献身的な労働の試練をへてついに成功するという、そのような生活の過程を立派に描くべきであります。

 いまわが国には、このような主人公になりうる人がいくらでもいます。数千数万のチョンリマの騎手は、すべてその英雄的な闘争と創造的労働によって、いっさいの立ち後れたものを打破し、立派な新しい社会を創造している我々の時代の英雄であります。それにもかかわらず、チョンリマの騎手を形象化した映画が一本もないというのは、極めて遺憾なことであります。

 もちろん、映画には俳優の演技にも欠点はありますが、それが大きな問題ではなさそうです。一部の人は、よい映画がつくれないのは映画撮影所が仕事をしっかりしないからだと言っていますが、そういうわけでもありません。映画撮影所の仕事は主として映画制作上の技術的な側面であって、映画の思想的内容ではありません。

 問題は、思想的内容にあります。映画の思想的内容が極めて貧弱です。

 例えば、映画で恋愛問題を扱ったのを見ると、思想的な内容が何もなく、つまらないことこのうえありません。恋愛のための恋愛を描いてはなりません。恋愛のための恋愛は、単なるあるがままの現象にすぎません。それは、我々にとって何の教育的価値もないばかりか、かえって有害でさえあります。

 新しい型の人間の恋愛は、必ず革命偉業の崇高な目的に服従し、革命の勝利のための闘争と密接に結びつかなければなりません。したがって、わが国の映画は、革命事業を忘れさり個人的な享楽にふける退廃的な恋愛を批判すべきであり、社会主義建設の偉大な目標に向かって互いに助け、導き合いながら英雄的に闘う、新しい型の青年男女の気高く美しい愛を模範として描き出さなければなりません。

 思想的内容の問題は、誰よりもまずシナリオ作家によって解決されなければなりません。シナリオ作家に立派な作品が書けないため、よい映画があらわれないのです。彼らがよい作品を出しさえすれば、例え、映画撮影所に若干の欠陥や弱点があるにしても、立派な映画がつくれないはずはありません。問題はシナリオにあります。

 映画の質が落ちるのは、作曲にも大きく起因しています。勇気を奮い起こす場面では、雄々しく希望に満ちた歌が流れてこなければならないのに、そのようになっていません。映画の場面にふさわしくない歌をいい加減に集めて流すので、人々に感銘を与えることができません。

 音楽も現実から遠くかけ離れています。それは、疾風のように駆ける人民の偉大な前進運動を十分に反映していません。チョンリマの騎手たちが勇ましく、楽しく歌えるようなすばらしい新しい歌がつくられていません。青い用水が山を越え、川を渡って田畑をうるおし、トラクターやトラックが人間にかわって畑を耕し、運搬作業をしているのに、我々は、まだ農村でのこのような天地開闢をうたいあげた力強く美しい歌を聞くことができません。

 音楽舞踊叙事詩『栄えあるわが祖国』はもちろん大作ではありますが、あれこれ寄せ集めてつくったもので、一つの統一的な大作とは言えません。これを一つつくったからといって自己満足すべき根拠は何もありません。

 歌は、必ず人民の生活情緒に合うようにつくらなければなりません。戦うときには戦いにふさわしい歌が必要であり、労働するときには労働にふさわしい歌が必要です。労働しながら歌う歌にしても、田植えをするときに歌う歌と、もっこをかつぐときに歌う歌とは違います、このようにその状況にあう歌を歌ってこそ、兵士たちは勇敢に戦い、労働者、農民は生産を高めることができます。いつ、いかなる場所にも合うよい歌などというものはありえず、時代の精神を反映し、情況にふさわしい歌であってこそ、人々を感動させることができるのです。

 いまは、梨花タリョン(打鈴)ばかり歌っているときではありません。こんにち、我々には、人々を創造的な労働へと奮起させる楽しく力強い歌が必要です。人々の勇気を奮い立たせる力強い歌を歌えば、つらさも忘れ、疲れも忘れるようになります。

 人々が『チョンリマ行進曲』を好むのは、それが我々の時代の精神を反映しており、人民の情緒に合うからです。西道唱で歌う『川向こうの村から新しい歌が聞こえる』もよい歌です。これは朝鮮的な味があり、それを聞くと勇気も出ます。

 紡織工の歌、泉のほとりなどもよい歌です。しかし、このいくつかの歌ばかりいつも歌っているわけにはいきません。新しい歌をたくさんつくるべきです。ところで、このごろ作曲された炉まわり工の歌、機械工の歌といった多くの新しい歌を聞いてみると、どれも古い曲をあれこれ寄せ集めてつくったもので、その調子が似たりよったりでさっぱり新味がありません。

 歌の場合も重要なのは、思想的内容です。

 歌のための歌は、何の役にも立たず、ただ自然を賛美するだけの歌も、これといった価値がありません。もちろん、美しい自然をたたえる歌も人の心を楽しませます。しかし、もっと価値のあるのは、人間の真の生活と偉大な目的を達成するための彼らの闘争を歌ったものです。社会生活からかけ離れて自然のみを歌おうとする態度は、自然主義や芸術至上主義のあらわれであり、これは勤労者を闘争から退かせる有害な作用をします。

 人民は、思想性の高い歌を好みます。人民が受け入れ、人民が愛し、好んで歌う歌であってこそ価値があるのであって、少数の専門家だけが理解し、好む歌などは役に立ちません。芸術は、専門家でなければわからないという思想観点そのものが間違っています。

 芸術の真の評論家は人民です。人民よりも聡明な評論家はありません。人民の判定に合格した作品はよい作品であり、人民の判定に合格できなかった作品はよくない作品だとみなさなければなりません。小説、詩、音楽、映画その他すべての芸術は、人民大衆の理解しうるものでなければならず、人民大衆のために奉仕しなければなりません。

 こんにち、文学・芸術分野の仕事には明らかに欠陥があります。すべての人がチョンリマを駆る勢いで前進しているのに、ひとりシナリオ作家や作曲家だけが立ち後れていなければならない理由はありません。作家、芸術家も必ずチョンリマを駆って偉大な作品を創作すべきであり、またそれは可能なことであります。問題は、この分野の活動にあらわれている欠陥を一日も早くなくすことであります。

 文学・芸術分野の活動における主な欠陥は、第1に作家、芸術家が、いまだに党の政策を深く体得していないことであり、第2には、作家、芸術家が、人民の生活のなかに深く入っていないことであり、第3には、この分野に対する組織・指導活動が正しくおこなわれていないことです。

 作家、芸術家はみな、人民が社会主義をより早く、より立派に建設し、さらに幸せな暮しができるようになることを望んでおり、人民のチョンリマ運動を支持しています。しかし、作家たちの創作活動にはチョンリマの精神が十分に具現されていません。これは結局、作家たちがいまだにチョンリマ精神を完全には受け入れておらず、人民大衆と呼吸をともにしていないことを示すものです。もし、皆さんがチョンリマ精神を受け入れているならば、当然そのような精神を反映した作品を創作しなければならないはずです。

 私はまず、作家、芸術家が時代の精神を正しく体得できない思想的な根源がどこにあるかを慎重に考えてみる必要があると思います。病根はやはり、作家たちが党の政策を深く把握していないところにあるようです。

 人民の先頭には、わが党が立っています。党の意図をよく知らずには、人民の偉大な前進運動を正しく理解することはできません。党の政策を深く研究もせず、むやみに工場や農村に出かけていっても、わが国の現実をよく把握できるものでありません。ただ、わが党の政策でしっかりと武装した人であってこそ、複雑な現実のなかで新しいものと古いものを識別し、本質的なものを正確に見極めることができるのです。したがって、作家、芸術家は、何よりも、まずわが党の政策を深く研究し、現実に対する党の革命的立場とマルクス・レーニン主義的な科学的態度と方法を身につけなければなりません。

 文学・芸術は、絶対に革命の利益と党の路線から離れてはならず、搾取階級の趣味や気分に合うような要素を許してはなりません。ただ、党の路線と政策にしっかり依拠した革命的な文学・芸術のみが真に人民大衆に愛され、勤労大衆を共産主義的革命精神で教育する党の強力な武器となることができます。

 わが党の路線と政策は、すべてわが国の現実から出発したものであり、わが人民の利益を反映したものであります。党の政策は、勤労大衆の実践闘争によって実生活に具現されます。

 現実のなかから生まれ、大衆の実践活動と密接に結びついた文学・芸術であってこそ、真に党的で革命的な文学・芸術になれるのです。実生活を生き生きと深く掘り下げて描いたリアリズムの文芸作品であってこそ、人々の心をとらえることができます。

 それゆえ、作家は現実をよく知らなければならず、人民大衆の生活のなかに深く入っていかなければなりません。

 作家、芸術家が、平壌にだけとどまっていたのでは、何も生まれてきません。人々を奮い立たせる生活と闘争は、工場や農村に出向かなければ、見ることも体験することもできません。労働者、農民と常に接触し、彼らの生活のなかに深く入っていけば、現実を正しく把握することができます。

 労働者、農民の生活を細心に観察しなければなりません。しかし、観察するだけでは足りません。作家、芸術家は、労働者、農民の闘争の烈火のなかに勇敢にとび込まなければならず、闘う労働者、農民と同じ心情をもって現実の生活を見るようにならなければなりません。このようにしてこそ、人民の生活を体験した作家、芸術家だと言うことができ、人民大衆から愛され、人民大衆に奉仕する作品を創作することができます。

 人民の生活を十分に知らずには現実を正しく描くことはできず、こんにちの新しい人間の思想と生活感情と風格を正しく表現することはできません。

 こんにちの青年は以前の青年とは違うし、こんにちの年寄りも以前の年寄りと同じではありません。俳優も現実のなかに入っていかなければ、たえず変化し発展していく新しい人間を演技で正しく表現することはできません。

 こんにち、作家、芸術家たちが工場や農村に出かけていって特に関心を向けなければならないのは、新しい型の人間を見つけ出し、その生活を具体的によく研究することです。作家たちが、あるチョンリマ騎手の幸福で生きがいのある生活を立派に描き出すならば、それは数千数万の勤労者の立派な教育資料となるでしょう。

 現在、わが党は大衆の教育と改造に大きな力を注いでいます。大衆の教育と改造は学校教育のみではできず、宣伝扇動だけでもできません。大衆教育の立派な手段である小説、詩、演劇、映画、音楽など文学・芸術のあらゆるジャンルを動員しなければ、大衆の教育、改造を効果的におこなうことができません。

 特に、チョンリマの騎手を描いた作品は、人々を模範的な事実によって教育するというわが党の方針を実現するうえで、非常にすぐれた手段となります。

 最近、わが党は人々の教育方法を少々改めました。以前には否定的な事実に対する批判を主にして人々を教育したとすれば、いまでは模範的な事実を強調することに重点をおいています。

 我々は、新聞に風刺寸評を書くのもやめました。これは外国から持ち込んだものであって、もともと、朝鮮人の性格には合いません。我々は、人々の欠陥のみをあばきだすこのような教育方法を教条主義のごみ箱に投げ捨てました。わが国の新聞は、風刺寸評を書くのではなく、模範的な事実、感動的な美談を載せており、それによって人々を教育しています。

 党中央委員会1958年3月総会以後、人民軍では営倉制度を廃止し、内務規定も改めました、この営倉制度もやはりわが国の人々には合わないものです。強制の方法ではなく、ねばり強い説得と模範的な事実によって人々を教育しなければなりません。

 営倉制度を廃止した結果はどうなったでしょうか。先日、私は人民軍部隊に行って軍人たちと話し合ったことがあります。そのとき、ある特務長に営倉制度を廃止したのち規律に違反した事件があったかと尋ねたところ、彼は一件もないと答えました。それで私は、2年間に一件の規律違反もないということがあるだろうかと言うと、彼はこういうことがあったと語りました。ある兵士が会議のたびによく居眠りをしたそうです。そこで特務長は、自分が隊員に十分な休息を与えなかったためだと考え、隊員を早く寝かせるようにしてからは会議で居眠りをするものがいなくなったということです。

 その後、私は東海岸のある旅団を視察して同じようなことを尋ねてみました。ある将校が、規律違反が一件あったと答えました。彼の話によると、一人の兵士が恋人に会うだめに夜中ひそかに外出したことがあったということです。それで私は、そのような規律違反も、政治幹部たちが兵士の生活に深く浸透して彼らの悩みを適時に解決してやるために努力していたならば、未然に防ぐことができたはずだと言いました。

 人は誰でも古い思想の残りかすを持っているために、誤りを犯すこともあれば欠陥をあらわすこともあります。古い思想を持っている人や誤りを犯した人を見捨てるのは、わが党の方針ではありません。わが党は、一貫して、古い思想を持っている人たちをたゆみなく教育して新しい人間に改造する方針を堅持しています。

 一人や二人の抜きんでた人の力によっては共産主義社会を建設することはできません。すべての勤労者が幸せに暮らすことのできる社会を建設するためには、彼らがすべて奮起しなければなりません。我々は、すべての勤労者が社会主義・共産主義の偉業を自分自身の仕事として受け入れ、自発的に闘っていくよう、ひきつづき彼らを教育、改造しなければなりません。

 こんにち、わが国社会制度のもとでは、誰もが共産主義的な新しい人間になることができます。我々の制度のもとでは悪い道にそれるものは例外であり、絶対多数は正しい道を進んでいます。それゆえ、少し援助すれば、彼らはすべて立派な共産主義者になることができます。また、このようにすべての人を共産主義的に改造しなければ、社会主義の完全な勝利を達成することはできず、共産主義社会を建設することもできません。

 こんにち、わが国では、人間を教育、改造する仕事が大衆的運動としてくりひろげられています。年若い女性たちまでが、階級の敵を除いてはすべての人を改造することができると自信をもって語りながら、人々を教育、改造する仕事に取り組んでいます。

 こうしてわが国では、なかなか改造しにくいならず者も改造しています。商人の妻が改造されて教化所に入れられている夫を改造した事実さえあります。彼女が週に1回ずつ面会に行って夫を教育した結果、その商人は自分の誤りを反省するようになり、ついに自分の妻にどこそこに金の指輪や金製品を埋めておいたからそれを掘り出して国に納めてくれと言うまでになりました。

 このように、重い罪を犯した人でも改造できるのですから、少々手をやかせる人を教育、改造することができるのは言うまでもありません。

 党は、越南者家族のなかでもごく少数の悪質分子を除いては、すべて包容して教育、改造する方針をとっています。党はまた、帰還兵をいわれもなく疑う態度を厳しく批判し、彼らにあたたかく接するよう指導しています。降仙製鋼所の炉まわり工として働いている陳応源は帰還兵です。チョンリマ作業班運動を最初に発議したのは、ほかならぬこの人です。党は彼の立派な発議を積極的に支持しました。こんにち、チョンリマ作業班運動は燎原の火のように燃えひろがり、ひきつづき全国に拡大しており、人民の社会主義建設を力強く推進しています。

 人間を教育、改造することは、作家、芸術家の担っている光栄ある任務であります。作家、芸術家は、その隊列のなかの立ち後れた人々を教育、改造して、すべてがわが党の立派な文芸戦士となるようにしなければなりません。そして、すべての作家、芸術家が一心同体となり、人々を教育、改造する人民の偉大な大衆運動を描き出すことによって、この運動をいっそう力強くおし進めなければなりません。人々を教育、改造する仕事が成功裏に進めば進むほど、人民は社会主義建設のすべての分野でますます偉大な力を発揮するようになるでしょう。

 いま世界の人々は、チョンリマの速度で社会主義を建設している朝鮮人民の闘争を驚嘆の目で見守っており、朝鮮人民の勝利の秘訣がどこにあるのかを知りたがっています。作家、芸術家は、その芸術作品を通じて、人民の力の源泉がどこにあるのかをはっきりと示さなければなりません。

 文学・芸術分野の仕事がうまくいかないのは、組織・指導上の欠陥にもよります。この分野で党の指導が弱く、大衆路線が十分に貫かれていないようです。

 教育文化省では行政的な統轄はおこなっていますが、文学・芸術活動家に対する政治活動は十分におこなっていません。教育文化相が直接シナリオを見ているということを聞きましたが、そういう方法では問題が解決されません。教育文化相もときにはシナリオを見ることもあるでしょうが、それは主として作家のすることです。教育文化省では、個別的な問題をとらえて行政的に指導するのではなく、政治活動を正しくおこなって作家、芸術家の集団的知恵を引き出すようにしなければなりません。

 文学・芸術分野の指導体系を若干改める必要があると思います。文学・芸術のすべての部門を包括する連合組織をつくり、党で直接指導するのかよいと思います。作家や作曲家、舞踊家などの集団を以前のように再び文芸総に結集し、党の指導のもとに集団的に活動するようにする必要があると思います。

 いま各部門が、互いに教育し批判し合うことをせず、勝手に動いています。文学・芸術のどの部門であれ、単独で動けば自分の欠陥を知ることができません。他人が見れば誤りを知ることができます。作曲家は自分の作品が一番よいと考えますが、他人がその曲を聞けば本人の気づかない欠陥を見つけ出し、適切な助言を与えることができます。

 合評会を多くもつことが必要です。合評会には、労働者、農民、学生も招くのがよいと思います。作家たちはこのような会合を比較的多くもっているようですが、作曲家たちはそうしていません。労働者や農民は歌についてもよい意見を出すことができます。

 文学・芸術も大衆の力に依拠すれば速やかに発展させることができます。何人かの専門家の力だけではだめです。

 至るところに通信員を多くおく必要があります。通信員は常に大衆のなかで生活しているので、事務室にばかり閉じこもっている専門の作家よりむしろよい作品を書くことができます。工場では多くの中学卒業生や大学卒業生が働いています。多少援助すれば、彼らも作品を書くことができるでしょう。シナリオは、専門の作家でなければ書けないという間違った考え方を捨てなければなりません。

 作曲は専門家でなければできないという観点も、やはり正しくありません。労働者や農民もみな作曲することができます。音楽の素養が足りない労働者や農民の作曲には、音楽の規範に合わない欠陥もあるでしょう。そういう点は専門家が直してやればよいわけです。

 皆さんも知っているように、いま地方の芸術サークルなどで創作された寸劇やその他の作品には、中央でつくったものよりすぐれたものがあります。農村学校の先生がつくった作品のなかにも非常にすぐれたものがあります。それは、これらの作品が実生活のなかから生まれたものであるからです。

 抗日パルチザンの歌も、その多くはパルチザン自身が創作したものです。彼らはもちろん芸術家でもなければ、音楽大学に通ったこともない人たちです。多くの人がせいぜい中学修了程度の知識を身につけた勤労青年であり、大学を出た人は何人もいませんでした。彼らが自分の生活と闘争のなかで感じとったものを自然に、ありのままに歌ったのが、こんにち我々の歌っている革命歌謡であります。

 これらすべてのことは、シナリオを書いたり作曲をしたりすることは、何も神秘的なことではないし、労働者や農民が文芸創作に参加できるばかりでなく、彼らの積極的な参加がなければ、真に人民的な芸術の開花をもたらすことはできないということを物語っています。

 わが国には、多くの才能ある作家、芸術家がいます。すべての作家、芸術家が党の指導に従って真剣に努力するならば、文学・芸術を我々の時代にふさわしく、速やかに発展させることができるはずです。

 文芸活動で多くの経験を積んだ作家が、みずから先頭に立ち、若い人たちを導いていかなければなりません。もちろん、若い人たちの意見も大いに聞かなければなりません。日常的に活発な集団的討議をおこない、すべての人の建設的な意見を積極的に支持すべきです。

 党は全力を尽くして皆さんの仕事を援助するでしょう。私は、皆さんが党の文芸政策を貫くためにいっそう精力的に闘い、文学・芸術の発展に画期的な転換をもたらすよう心から願うものであります。

出典:『金日成著作集』14巻


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