金 日 成

我が党の司法政策を貫くために
 全国司法・検察部門活動家会議でおこなった演説
 −1958年4月29日−


 このたび開かれた司法部門の活動家会議は、極めて重要な意義をもっていると考えます。みなさんは、数日間にわたって自己の活動を検討し、今後それを改善するためによい経験を交換し合いました。私は、今度の会議がみなさんの欠陥を是正し、ひきつづき長所を発展させることによって、司法分野の仕事をさらに改善する契機となったことを非常に満足に思っています。

 今度の会議における司法相の報告や検事総長の発言をはじめ、多くの発言と講習会を通じて、こんにち、党中央委員会が司法部門の活動家になにを要求しているかを明確に理解したことと思います。

 私は先に、内務員たちに一度話をしたこともあり、また、みなさんも講習期間中にそれを研究したということなので、重複は避け、さらに強調したい問題に限って簡単に述べたいと思います。

 司法分野に潜んでいた反党分派分子らは、「国際思潮」といわれる「反ソ・反共」キャンペーンをきっかけにして修正主義思想をひろめ、思想的に不健実な連中に悪い影響を与え、我々の事業に大きな害悪を及ぼしました。反党分派分子らは、「法は万人に公平でなければならない」「人権を擁護しなければならない」などのスローガンをもちだして、党の司法政策に攻撃を加えてきました。

 党生活の期間が長く、我が党に忠実な党員にとっては、このようなスローガンが決して目新しいものでないことは明らかなはずです。我が党は常に、法はすべての公民にたいして公正でなければならず、また法は、人権を擁護しなければならないということを強調してきました。このことがどうして目新しいものと言えるでしょうか。

 ところが、1956年に「反ソ・反共」キャンペーンが起きたとき、なぜ反党分子らは、ことさらにこのようなスローガンをもちだしたのでしょうか。

 党の規約に指摘してあるように、我が党は創立当初から全勤労大衆の利益を守るためにたたかっています。広範な人民大衆が我が党のまわりに結集しているのはなぜでしょうか。それは、我が党が広範な人民大衆の利益のためにたたかっているからです。人民大衆の利益を守ることは単独でできるものではありません。必ず人民大衆とともにたたかわなければなりません。我が党は常に、人民大衆の自由と幸福のために広範な人民大衆を立ち上がらせ、かれらとともにたたかっています。我が党が全人民から支持され、かれらと団結してたたかっているという事実は、すでに我が党が人民の利益のためにたたかっていることを物語っているのであります。

 人民の利益と権利を守ることは、革命家の第一の義務です。革命に身をささげる共産主義者にとって、人民の権利を守るのは初歩的で基本的な任務であります。

 我が党がいつ人民の権利を侵したことがあり、また人民の権利を守らなかったことがあるでしょうか。そして、我が党が勤労大衆に不公平であったためしがあるでしょうか。そのようなことはありえません。

 「法は万人に公平でなければならない」というスローガンは、もともとブルジョアジーが自己の法の階級的本質をおおい隠し、勤労人民を欺いてブルジョアの法に従順に従わせるためのごまかしの宣伝にすぎません。反党分派分子らが、このようなブルジョアジーのごまかしのスローガンをかかげたのは、勤労人民大衆のためではなく、勤労人民大衆の利益を侵す者のために我々の法を利用しようとしたからです。反党分派分子のこのような、主張は、完全に我々の法の階級的立場から離れたものであり、人民政権のプロレタリアート独裁の機能を無視して、地主や資本家を擁護しようとするものです。これは、我が党の要求と全く相反するものであります。

 このような反党分派分子らの主張にたいし、司法分野の一部の活動家が警戒心を高めず、かえってかれらに盲従したのは残念なことです。

 我々は地主やブルジョアジーの利益を擁護しようとする、このような反動理論を徹底的に退けないわけにはいきません。

 みなさんもよく知っているように、我が党が主張し要求しているのは、地主や資本家にたいしては独裁をおこない、労働者と農民をはじめ、勤労人民にたいしては、その権利を積極的に守ることであります。

 解放直後、我々は、親日派から選挙権と被選挙権をはく奪し、地主から土地を没収して農民に分与しました。我々は、人民政権を否認し、これに反対する悪質な反動分子からすべての権利を奪いました。これは正しかったでしょうか。もちろん正しいことでした。それにもかかわらず、反党分派分子らはなぜ、これらの反革命分子に再び権利を与えるべきだと主張するのでしょうか。これは結局、かれらが地主と資本家の制度を再び復活させようとする意図をもっていると見るよりほかはありません。これは、我が国での修正主義のあらわれであると言えます。これは、我が国に再び資本主義制度を復活させようとする地主と資本家の代弁人の主張であると言えます。それにもかかわらず、どうして党員がこのような主張に従うことができるでしょうか。

 私はきょうこの機会に、司法機関はプロレタリアート独裁の機能を果たす武器であることを、いま一度強調しないわけにはいきません。

 こんにち、我々の時代には2つの独裁が存在しています。一つはブルジョアジーの独裁であり、他の一つはプロレタリアートの独裁であります。

 ブルジョア独裁は、地主および資本家階級の利益を守るために、労働者、農民をはじめとする勤労人民の利益をおさえつけ、その自由を奪う機能を果たします。したがってブルジョア独裁は、労働者、農民には独裁を実施し、地主、資本家には民主主義を実施します。このようなブルジョア独裁とは正反対に、十月革命以後、ソ連をはじめ多くの国にうち立てられたプロレタリアート独裁は、労働者、農民の利益を守り、地主、資本家の利益を否定します。プロレタリアート独裁は、地主、資本家にたいしては独裁を実施し、労働者、農民をはじめ、広範な勤労人民にたいしては民主主義を実施します。資本主義制度のためにはブルジョア独裁が必要であり、社会主義制度のためにはプロレタリアート独裁が必要です。

 一部の人は、共和国の人民民主主義独裁は、プロレタリアート独裁ではなく、プロレタリアート独裁とブルジョア独裁の中間の、ある種の中間独裁であるかのように考えており、またあるいは、共和国政府が統一戦線に基礎をおいているということから、あたかも人民政権がプロレタリアート独裁の範ちゅうには属さないかのように誤解しています。これは正しくありません。現在の共和国の人民民主主義政権は、プロレタリアート独裁政権の範ちゅうに属します。我々はいま、社会主義を建設しています。社会主義を建設する政権は、本質的にプロレタリアート独裁とならざるをえません。

 人民政権は、我が国の労働者階級を中核とする広範な勤労人民の利益を守っており、かれらの社会主義建設の強力な武器となっています。人民政権には、資本家階級出身の人も参加しており、かれらのうち個別的な幹部が重要な指導的地位についている場合もあります。しかし、かれらはみな社会主義革命を承認し、社会主義建設のために労働者階級とともにたたかっています。過去にはブルジョアジーに奉仕したとしても、現在では労働者階級に奉仕し、勤労人民のために闘争しようとする人だけが、この政権に参加できるのです。

 人民政権が、労働者、農民をはじめ、広範な人民大衆の統一戦線にもとづいているのは確かです。しかし、この統一戦線は、本質上、社会主義を支持する人民大衆の統一戦線であります。現在我々は、青友党や民主党をはじめとする友党と統一戦線を結んでいます。それは、これらの友党がひとしく社会主義を支持しているからです。我々はいま北半部で社会主義を建設しているので、社会主義に反対しこれを妨害するものとは絶対に統一戦線を結ぶわけにはいきません。

 現在、南半部では、反帝反封建民主主義革命の課題を遂行しています。したがってそこでは、まだ社会主義革命の課題は提起されていません。祖国の平和的統一のためには、南半部では社会主義を支持する人々とのみ統一戦線を結ぶのではなく、アメリカ帝国主義者と李承晩一味に反対し、国の独立と民主的改革を支持するすべての愛国的な人士および大衆団体とも統一戦線を結ばなければなりません。しかし、これは決して、我々が北半部で進めている社会主義建設をやめて、統一戦線を結ぼうということではありません。もしも、南朝鮮の民族ブルジョアジーが、我々が社会主義建設をやめなければ統一戦線を結べないと主張するなら、我々はかれらと統一戦線を結ぶことはできません。こんにち、我々が南半部の各階層の人民と統一戦線を結ぶのは、社会主義革命をやめるということではなく、祖国の統一を達成することによって、我々のめざす社会主義建設を全国的に実現する道を開くためであります。

 朝鮮の統一に反対するのは、アメリカ帝国主義者とその手先である地主、買弁資本家であります。したがって、我々はまず、祖国の統一のためにアメリカ帝国主義者とその手先である売国奴一味に反対し、統一を支持するすべての勢力を結集する広範な統一戦線を結ぼうと、主張するのであります。

 我々は、民主主義にもとづいて祖国を平和的に統一することを一貫して主張しています。民主主義にもとづくということは、共産主義者もその主張を自由に唱えることができることを意味します。南朝鮮の人民に我々が自由に話しかける条件がつくられれば、我々はかれらにたいして、まず8時間労働制を実施し、土地を農民に分配することを主張すべきです。また、朝鮮から帝国主義者の撤退を要求し、侵略資本と地主、買弁資本家の横暴を排して民族産業を保護し、労働者、農民をはじめ、広範な人民大衆に最大限の民主的権利を保障することを主張しなければなりません。一言でいえば、我々は、南半部から帝国主義勢力を追い出し、地主や買弁資本家の搾取と抑圧から勤労人民を解放し、かれらに民主的諸権利を与えることによってのみ、南半部人民の利益にかなった平和的統一が実現できる、ということをかれらに十分認識させる必要があります。

 平和的統一も結局は、労働者、農民をはじめ、広範な勤労人民大衆の利益にかなう原則にもとづいてのみ可能であります。したがって、我々が平和的に統一するからといって、すでに建設した社会主義を放棄したり、または、今後統一されたのち、南半部で社会主義を建設しようとする目的を捨てたりすることはできません。

 将来は、南半部も北半部と同じく、社会主義に向かって進むでありましょう。これは、社会発展の必然的な道程であります。しかし、いま我々が解決しなければならないさし迫った問題は祖国統一の問題であるので、南半部の民族資本家をもふくむ広範な民主的勢力との統一戦線を形成することが重要であります。

 北半部では、すでに反帝反封建民主主義革命の課題を遂行して社会主義建設をおし進めています。我々は、北半部で反帝反封建民主主義革命の任務を遂行するときにも統一戦線を結び、社会主義を建設しているいまでも統一戦線を結んでいます。我々の統一戦線は、常に人民の利益にもとづいた統一戦線であります。

 北半部における社会主義革命のための統一戦線には、労働者、農民だけでなく、広範な人民大衆が参加しています。それは、社会主義が最も愛国的で、最も広範な人民の利益にかなうものだからであります。それは、社会主義制度のもとでのみ、すべての人が豊かに暮らし、自由と幸福を享受することができるからであります。

 我々は、ともに社会主義を建設しようとするすべての政党、大衆団体と統一戦線を結んでいます。それゆえ、人民政権は統一戦線政権だということができます。ところで問題は、この統一戦線をどの階級が指導するかということにあります。もし、統一戦線をブルジョアジーが指導するときには、その統一戦線にもとづく政権はブルジョア独裁政権となります。

 いま、人民政権が統一戦線にもとづいているからといって、プロレタリアート独裁政権にはなりえないと考えるのは誤りです。人民政権は、労働者階級の指導のもとに、社会主義を支持する各階層の統一戦線を基礎としているため、本質的にプロレタリアート独裁政権とならざるをえません。

 私がなぜこのことをいうのかと言えば、我々が統一戦線を進めるからといって、みなさんは統一戦線が破壊されることを恐れ、当然、処罰すべき罪人までも放免してしまう傾向があるからです。もともと、統一戦線は社会主義を実現するために必要なものであるのに、それが破壊されることを恐れて、社会主義に反対する者も処罰できないようでは、どうして仕事が正しくおこなわれたと言えるでしょうか。我々は、社会主義に反対する者とまで統一戦線を結んだり、かれらを公平に扱ったりしてはなりません。また、地主や資本家だからといって、無条件に反対せよというのでもありません。我々は、かれらが社会主義に反対するから抑えるのです。

 我々は土地改革のときに地主の土地を没収しましたが、かれらを移住させて土地も少し与えました。地主がかつてのように小作料をとるのではなく、自分で働いて生活するならば、かれらも共和国の公民となることができます。土地を手放した地主がひきつづき共和国の法令を支持し、革命に反対しないならば、公平に扱わなければなりません。しかし、かれらが、もし「お前たちはおれの土地を奪い取った。おぼえておれ。いつかは、ひっくりかえしてやるから」と言って、地主、資本家の制度を復活するために策動するならば、我々はかれらを鎮圧しないわけにはいきません。我々の社会には、このような反革命分子に分配する分け前はありません。

 商人にたいしても同じことが言えます。我々は、商人が商売をすることを禁止したり、商人を無条件に排撃しようとするものではありません。我々が主張するのは、商売をするにしても国家の法を犯したり、人をだまして暴利をむさぼるような悪徳商人になってはいけないということです。国家が禁止している米の売買などはやめるべきであり、国家で制定した価格に違反してはなりません。これに違反する者は、国家の法にもとづいて処罰し、かれらにたいしては独裁を実施しなければなりません。しかし、もしかれらが、協同組合に入って社会主義的に改造されるか、あるいは国家の法を犯すことなく正当に商売を営むならば、かれらはすべて共和国の公民とみなされるでしょう。我々はこのような人々にたいしては公平に扱い、かれらを保護しなければなりません。

 人民政権に青友党、民主党をはじめ、他の党が参加しているからといって、人民政権が地主や資本家と妥協する政権であると考えてはなりません。実際上、青友党や民主党に属している人たちが地主や資本家であるかというとそうでもありません。かれらはかつて、地主または資本家階級に属したことがあるかも知れません。しかしかれらは、現在では小作料をとったり、工場を持って労働者を搾取したりしてはいません。これは、すでに過去のことです。いま、かれらはみな搾取に反対し社会主義の建設を支持している人たちです。したがって、我々がかれらと手をたずさえて社会主義を建設しているということで、人民政権が地主や資本家と妥協したことにはなりません。

 人民政権には、過去の経歴がどうであろうと、社会主義を支持する人だけが参加できるのであり、また社会主義に賛成する人だけを参加させています。

 人民政権は、社会主義革命のためには、いささかの譲歩もしません。人民政権は、ただ社会主義革命の勝利のために社会主義の獲得物を守っており、社会主義革命に反対し、それを妨害するさまざまな反革命的要素や不健全な思想にたいして妥協のない闘争をくりひろげています。特に、資本主義を復活させようとするあらゆる反革命的要素にたいしては強力な独裁を実施します。

 それゆえに、人民政権は、統一戦線に基礎をおいているが、社会主義革命の利益のために断固としてたたかうものであるから、本質上プロレタリアート独裁政権であることは極めて明白であります。

 次に、法について話しましょう。一部の人は、法律だけに従うと主張したことがありますが、問題はその法がどの階級の利益にもとづいた法であり、我々がどのような立場でその法を解釈し、実施するかにあります。

 法は、固定不変のものではありません。どんな法でも変わることなく万能薬のように、いつ、どんなところにも適用され、効力をもつものではありません。法を社会・経済制度や政治制度から切り離し、あたかも天から降ってきたもののように考えたり、または、誰かによってそれがいったん作られれば、永久に不変のものとなるかのように考えたりするのは正しくありません。

 法は、社会・経済制度の反映であり、政治の表現形式の一つです。一定の社会・経済制度と階級闘争を離れた法はありえません。社会・経済制度が変わり、階級闘争の内容が変わるのに、その反映である法が変わらないはずはありません。それで我々は、日ごろ日本の法律を知っていると自慢している人に、その必要はないと忠告してきたのです。かつて日本の法律を学んだ人は、「この私が法律を研究して何年になると思うのだ」と、あたかも法律の「大家」であるかのように言っています。

 ところで、日本の法とは一体どんな法であったでしょうか。それは、日本の天皇と日本帝国主義、日本軍国主義のための法であり、日本の地主や資本家の利益を守り、日本の勤労人民を抑圧し、搾取するための法でした。またその法は、帝国主義の植民地従属化政策を擁護し、弱小民族の抑圧と略奪に奉仕する法でした。日本の法は、朝鮮民族を抑圧し、搾取する日本帝国主義の道具でした。朝鮮の自由と独立のためにたたかった多くの愛国者が、日本の法に違反したかどで銃殺され、獄中生活を強いられたというのが事実でなかったでしょうか。ここにも日本帝国主義の支配当時、獄中生活をした人がたくさんいますが、日本の法律は、甚だしくは、地主や資本家の悪口を言っただけでも、法に違反したという口実で投獄したものです。こうして見ると、この法は一体誰を擁護する法であったでしょうか。階級的に見れば、勤労人民を抑圧し、地主や資本家の利益を守るための法であり、民族的に見れば、日本軍国主義を擁護し、朝鮮民族を抑圧するための法でした。

 また、昔の李王朝時代の法を知っているとしましょう。その法もやはり、李朝の封建支配層を擁護する法であって、決して勤労人民の利益を守る法ではありませんでした。

 社会・経済制度が変わり、諸階級の政治闘争の内容が変われば、法も変わらざるを得ません。

 こんにち、我々に必要な法はどういう法でしょうか。いま我々は、社会主義制度のもとで暮らしており、労働者、農民をはじめ、広範な勤労人民が社会主義の建設をめざし、地主や資本家の反革命的反抗を鎮圧する人民政権のもとで暮らしています。したがって、我々の法は、社会主義制度と社会主義の獲得物を守る武器となるべきであり、プロレタリアート独裁の武器とならなければならないことは明らかです。

 ところが、崔容達(チェヨンダル)は、以前、司法局長の職にあったとき、履歴書にどこそこの法政専門学校を卒業したとか、なになに大学の法科を卒業したとかいうたぐいのことを書きならべて、自分の経歴を自慢していました。そこで我々は、君の知っているというその法はつまらないもので、いくつかの用語はあるいはそのまま使えるかも知れないし、また、日本の法制史でも研究するのには役立つかも知れないが、人民民主主義政権のもとでの我々の法にはなに一つ役に立たないと言ってやりました。我々の法規のなかには、この連中の影響で、日本の法律を機械的に翻訳して写した文句がないとも限りません。みなさんは一度、このような側面から法規を再検討してみる必要があると思います。もちろん、だからといって私が言っているのは、日本帝国主義の支配当時に法律を学んだ人が、こんにち司法界で働いてはいけないということを意味するものではありません。人間はたえず変わるものですから、そのように考えてはなりません。私が強調したいのは、我々の社会・経済制度と階級的立場に合わない法をそのまま適用してはいけないということです。

 我々の法は、社会主義社会の法であり、プロレタリアート独裁の機能を遂行する国家権力の法であります。したがって我々の法は、朝鮮民族を抑圧し、労働者、農民を搾取した日本帝国主義の植民地支配機構の法である8.15解放以前の日本帝国主義者の法とは根本的に違っており、それとは正反対のものであります。

 司法部門の活動家にとって重要なのは、古い法律観念の残りかす、言いかえれば日本帝国主義の法律観念の残りかすを一掃することであります。司法相の報告によると、反党分派分子らは、「人道主義」だの「民主主義」だのと言いながら、日本帝国主義支配当時に朝鮮の勤労人民を欺くために唱えられたスローガンをそのまま繰り返したようですが、このような古い思想の影響を速やかに一掃しなければなりません。

 もし、日本の判事が涙もろい人道主義者であったなら、なぜ朝鮮にやって来て多くの朝鮮人を殺し、莫大な財産を略奪したのでしょうか。そのような考え方は、法律の階級的本質を見抜くことのできない古いブルジョア法律観念のあらわれです。法を階級的基礎から切り離し、社会・政治制度から分離させることは極めて愚かで、しかも危険な傾向であります。

 我々は法にだけ従うと言いながら、党も無用であり政権も不必要であるというような考え方をしている人たちとはたたかわなければなりません。以前、最高裁判所の所長だった黄世煥(ホワンセホン)などは、のちには党には顔も出さず、最高人民会議常任委員会の金枓奉(キムトウボン)だけを尋ねて行きました。かれは、最高裁判所は、人民会議で選挙されたから人民会議にのみ属するものと思ったらしいのです。だが、誰が人民を指導し、誰が人民会議を指導しているのでしょうか。すべて、我が党が指導しているのです。

 法律家が遵法性を強化しようと主張したのは、すべて正しいことです。我が党は、常に遵法性を強めることを主張してきました。法にのみ服従しようと主張するのもよいことです。判事や検事は法にもとづいて活動しているのだから、法にのみ服従するというのは悪いことではありません。しかし、法に服従するということが、決して、党の指導を拒否するということであってはなりません。事実上、法に服従する人は結局、党に服従する人です。法にだけ服従して党に服従しない者は、実際は法にも服従しない者です。

 先に私は、法は政治の表現形式の一つであると言いました。政治を離れては法を理解することも、執行することもできません。

 共和国の法は、国家の政策を実現するための重要な武器であります。国家の政策は、我が党の政策です。党の政治路線と政策を知らずには、法を執行することができません。法律を執行する人は、我が党の政策と国家のすべての方針を実行する一種の政治活動家であることを知らなければなりません。法は、宙に浮いているものではありません。法は、政治の表現であるため政治に服従しなければならず、政治と切り離すことはできません。それではこんにち、我が国の革命と建設のすべての政策をうちだしたのは誰でしょうか。それは言うまでもなく我が党であります。我が党が、朝鮮革命を指導し、我が国の政治を指導しています。それゆえ我が党は、朝鮮人民の政治的指導者であります。我が党は、我が国の労働者階級のすべての組織のなかで最高形態の組織であります。したがって、すべての組織が党の指導を受けなければならないということは、動かすことのできない原則であります。

 党の指導を離れて法にのみ服従するということは、実は法に服従するのではなく、法を歪曲しようとするものです。一部の人は、「これからは法律の条文だけを問題にするなというが、それでは一体どのように仕事をせよというのか」と、頭をかしげているようです。これは、我々の意図を正しく理解していないからです。我々が言うのは、法律の条文を問題にするなということではなく、政治と切り離して法の基本精神を歪曲してはならないということであります。

 我々はただ、我が党の求める階級的な立場から、言いかえればプロレタリアート独裁の立場から法を正しく解釈し、適用するように強調しているだけです。我々の法そのものが、党の政策を擁護し、実現するためのものであるため、法を正確に実施するということは党の政策を正しく実行するということであり、したがって、党の指導を受けるということを意味します。

 みなさんも知っているように、法とは、刑事訴訟法とか民事訴訟法のようなものだけではありません。人民経済計画も法であり、国家の財政予算も法であります。これらは、すべて国家の政策や施策を法令により表現したものです。訴訟法も共和国の政治制度を守るために必要なものです。このように、法はもっぱら党の政策を実現し、擁護するために制定されたものであるため、党の指導を受けることなしには法を正しく執行することはできません。

 また、党の組織原則から見ても、みなさんが党員として党組織に服従するのは当然のことであります。法を執行するためには、必ず高い政治思想性が要求されます。法を執行する人は、常に党の思想で武装しなければなりません。法が正しく執行されるか否かは、法を執行する人の立場と思想性いかんにかかっています。

 みなさん! 考えてみましょう。法律の条文には、我が党と国家に反対した李萬華(リマンホワ)をどのように処罰せよとは書いてありません。それぞれの犯罪行為の形態が異なり条件が違うため個々の犯罪者にたいし、ある者には必ずこれこれの処罰が適当であると書き記しておくことはできません。法というものは、事件の処理に必要な規準を定めるひとつの物差しのようなものです。人によっては、物差しを正しく使う人もあれば、そうでない人もいます。司法部門の活動家の思想的観点の相違によって法を正しく適用する場合もあり、誤って適用する場合もあります。思想のしっかりしていない判事であったから、李萬華のようなものを釈放したのです。かれは、この問題をどのように説いたかというと、「この人は幼いときから間違った教育を受け、社会の発展法則を学ぶことができなかったためにこのような犯罪を犯したのであるから、釈放してやらなければならない」と説いたのです。これは法の適用を誤ったのです。

 法にだけ服従するためにも思想性は必要です。思想的観点が正しくなければ尺度も狂ってきます。思想が正しくない者は、法にだけ服従すると言いながら、かえって法に違反し、反革命を擁護することさえあります。口先だけで「遵法性」を唱えてもなんの役にも立ちません。事実、我々が遵法性に違反したのでなく、反党分派分子らが、遵法性に違反し反革命分子を擁護したのであります。

 それは、かれらが、党の立場を離れ、法の精神を根本的に歪曲したからです。司法部門の活動家にとっては、法の精神を正しく実現するための思想性が極めて切実に要求されます。党的な思想を鍛えることは、ただ党組織を通じ、党生活を強化することによってのみ可能です。そして、常に党の指導を受ける過程で、自分の思想を正していくことができるのです。

 我々の社会には、古い思想の影響がまだ多く残っています。また、我々がアメリカ帝国主義者およびその手先と直接対峙している状況のもとで、反動思想が侵入してくる危険性も多いと言えます。したがって、かつては正しい思想をもっていた人でも、敵の思想に侵されて悪くなることもあり得るのです。

 一部の人は、「あの人は、ほんとうにしっかりしていた。昨年会ったときも堅実だったのに、いま見るとだめになっている。どうも不思議でならない」と言います。しかし、不思議でもなんでもありません。その人は昨年までは正しい思想をもっていたのに、今年に入ってブルジョア思想に侵され、思想が悪くなったのです。法律の条文をいつも暗唱している司法部門の活動家だからといって、思想が悪くならないという保障は絶対にありません。

 誰でも罪を犯せば法によって処罰されるということを知っていながら、罪を犯すものです。司法部門の活動家が、どんな罪を犯すと刑法第何条によって教化期間が何年になるということを知らないはずはありません。知っていながら、司法部門の活動家もやはり罪を犯すのです。司法部門の活動家は罪を犯すばかりでなく、法の執行を誤ることもあり得るのです。

 我々の寛大な政策を悪用して、敵階級に属する反革命分子にまで無限の寛大さを示し、かれらを擁護し、または、社会主義建設に支障を与える重罪人を軽く処分するのは、すべて正しい思想的観点に立った司法活動家のとるべき態度ではありません。社会主義革命のためにすべての人が奮い立っているのに、人を殺し、物を盗んで社会の秩序を乱すことが犯罪でなくてなんでしょうか。ところが、人を殺したのは認識錯誤によるものであり、盗みを働いたのは生活が苦しいからであるなどと、とんでもないこじつけをしようとするのは、いずれも法を誤って解釈することであり、結局は正しい思想的観点に立っていないことに起因するものであります。

 司法部門の活動家は、自分が党の政策を法によって擁護し執行する人であることを、明確に認識しなければなりません。一言でいえば、みなさんは党性の極めて強い人にならなければなりません。

 私は内務部門の活動家会議で、内務員と人民軍の軍人は党に最も忠実な人になるべきであると述べました。司法部門の活動家にたいしても、同じことを言わなければなりません。みなさんは、党に最も忠実な人にならなければなりません。

 それでは、司法機関にそれほど党性が要求されるのに、なぜ洪基疇(ホンギジュ)とか李承Y(リスンヨプ)のような連中を司法相の地位につかせたのかと、質問する人がいるかも知れません。我々は李承Yが悪者だということを知っていながら、司法相の地位につけたのではありません。また、洪基疇が悪者だと知っていたなら、我々は、かれに司法相をやらせはしなかったでしょう。もちろん、これはかれらを正しく見極めることができず、かれらがいずれも堅実な人だと考え、立派な仕事をしてもらうために司法相をやらせたのであって、悪いことをさせるためではありませんでした。

 しかし、司法相が悪者であったから司法機関の仕事がすべて誤っていたと見るべきではありません。どんな人が司法相になろうと、その人が我が党の政策を正しく実行するときはその命令に従い、その実現のためにたたかうべきであり、その人がもし党の政策を正しく実行しないときには、司法相がおこなうことにたいしても意見を述べなければなりません。なぜ、誤りを見ていながら意見を述べなかったのでしょうか。これは、司法機関の党員たちの党性が弱かったことを物語っています。

 みなさんは、決してある閣僚に拘束されている人たちではありません。みなさんは、党に所属している人たちであり、党の利益に服従し、党の政策に服従する人たちです。みなさんは、党組織と国家組織に服従し、国家の政策と国家の法律に服従する人たちです。ところが、みなさんは、かれらの不正行為をよく知っていながら、なぜそれを傍観したのでしょうか。例えば、李萬華のような者を放免する決定がなされることになぜ反対せず、そのまま執行したのでしょうか。これは、すべて党性が弱かったためです。党の政策に背く行為にたいしては、誰にも譲らない強い党性をもたなければなりません。党は、みなさんが過去の自分の仕事にあらわれた欠陥を正し、各自の党性を強めるための闘争をたゆみなく展開するよう希望します。

 このたびの会議を通じて司法・検察部門の活動家の誤りを慎重に検討してみると、その誤りは、すべて労働者階級の立場から離れ、社会主義の原則から離れ、我が党の原則から離れたところに原因があります。つまり党性が弱いところに原因があります。

 党の政策を忠実に実行し、党の政策を断固として擁護する人だけが、党性の強い人であると言えます。口先だけで党に忠実であると言っても、党性の強い人になることはできません。ある人はしばしば、誰それは党に忠実ではあるが、能力がないということを言います。このような人は結局能なしであります。

 我々のいう党に忠実な人とは、決して、単なるお人よしのことではありません。ただ「はい、はい」と言うだけで、仕事のできない人をさすのではありません。我々のいう党に忠実な人とは、党の政策を断固として擁護し、党の政策を正しく実行することができ、階級の敵とあらゆる不正にたいして常に妥協のない闘争をくりひろげ、あくまで労働者階級の利益を守り、党の政策を実行するためには水火もいとわず、常に力強くたたかう人を言うのです。このような人こそ、党に忠実な戦士であり、党に忠実な党員であり、党性の強い人だと言えます。司法部門の活動家はすべて党中央委員会のまわりにかたく団結し、党中央がかかげた政策をしっかりと擁護し、その実現のためにねばりづよくたたかう党性の強い人にならなければなりません。

 我が国は南北が分断されている状況のもとで、極めて複雑な階級闘争を展開しています。したがって、敵と味方を正しく見分けることが重要です。社会主義に根本的に反対する敵階級とはいかなる妥協もしてはなりません。それゆえ、敵対分子であるか、それとも我々の階級に属している人が社会主義建設の道をともに進む過程で一時的に罪を犯したのかをよく見分けなければならず、また、意識的に我々に反対する者であるか、どうかを識別しなければなりません。このようなことを、すべてよく見分け、それに適切な法的制裁を加えるためには高度の政治性が要求されます。

 高い政治性を身につけて、すべての物事を正しく分析するためには、マルクス・レーニン主義の政治教育が必要です。したがって、我が党の代表者会議が全党に提起したように、第1には、党性の鍛練を強め党生活を強化しなければならず、次には、各党員がみなマルクス・レーニン主義の世界観で武装する活動を強力に進めなければならないと考えます。

 司法部門のすべての活動家は、党代表者会議の決定の精神にもとづいて党性を強め、その政治・意識水準を高めることによって反革命分子との闘争を成功裏に遂行し、党と国家の司法政策を徹底的に実行しなければなりません。

 私はすべての司法部門の活動家が、我が党の司法政策に依拠して反革命分子との闘争を強化し、敵のいかなる破壊・謀略策動からも社会主義の獲得物をゆるぎなく守り、我々の社会主義革命の勝利を保障するために、力強くたたかうことを期待するものであります。                  

 出典:『金日成著作集』12巻


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