金 日 成

朝鮮人民軍は抗日武装闘争の継承者である
 朝鮮人民軍第324軍部隊管下の将兵におこなった演説
−1958年2月8日− 


 朝鮮人民軍創建10周年を迎えて、私は朝鮮労働党中央委員会常務委員会の委任により、第324軍部隊の諸君を訪ねることになりました。

 私はまず、第324軍部隊の軍人と、また諸君を通じて朝鮮人民のすぐれた息子と娘たちで組織され、人民主権と人民民主主義制度と社会主義の獲得物を守っている英雄的朝鮮人民軍の全将兵に、朝鮮労働党中央委員会と朝鮮民主主義人民共和国政府の名で熱烈な祝賀のあいさつを送ります。

 この機会をかりて、諸君にいくつかの問題について述べようと思います。




 朝鮮人民軍は、栄えある抗日武装闘争の継承者であります。

 朝鮮人民軍は、1948年2月8日に正規軍として創建されました。しかし、朝鮮人民は8.15解放後はじめて自己の軍隊をもったのではありません。朝鮮人民軍は創建されてからは10年ですが、朝鮮人民が帝国主義と封建勢力に反対する人民の武力をもったのは、すでに1932年からであります。

 日本帝国主義支配の最も暗たんたる時期に、我が国の堅実な共産主義者はマルクス・レーニン主義理論を指針として、朝鮮人民の民族独立と社会的解放をめざし、日本帝国主義に反対する先進的な労働者、農民および愛国的青年をもって、我が国の革命的人民武力の最初の隊伍である抗日遊撃隊を組織しました。

 朝鮮人民軍はまさにこの抗日武装闘争の愛国闘士を根幹とし、その革命的愛国伝統と貴い経験を土台にして創建されました。それゆえ、朝鮮人民軍は、抗日遊撃闘争の継承者であります。

 ところが、抗日遊撃闘争の参加者が軍隊内にいるから、人民軍を抗日遊撃闘争の継承者だと考える人もいるようです。抗日遊撃闘争の参加者がいるいないにかかわりなく、人民軍は抗日遊撃闘争の継承者であります。

 なぜ我々は、人民軍を抗日遊撃闘争の栄えある継承者だと言うのでしょうか。それは、抗日遊撃闘争の時期から、朝鮮人民は、地主や資本家の利益を守るのではなく、労働者、農民をはじめ、広範な人民大衆の利益を守り、帝国主義に反対する人民の軍隊をもつようになったからであります。一言でいって、そのときから、朝鮮人民はマルクス・レーニン主義の軍隊をもつようになりました。

 マルクス・レーニン主義の軍隊は、なにをめざして戦うのでしょうか。マルクス・レーニン主義の軍隊は、帝国主義に反対し、勤労人民の利益のために戦います。したがって、人民軍を抗日遊撃闘争の継承者とする理由は、たんに正規軍を組織した当時、抗日遊撃闘争の参加者たちが主導的な役割を果たしたということにだけあるのではなく、より重要なのは、抗日遊撃隊がマルクス・レーニン主義の旗のもとに日本帝国主義に反対し、労働者、農民をはじめ、勤労者の利益を守るために戦った、そのような伝統を人民軍が受け継いだことにあります。

 もちろん、日本帝国主義に反対した軍隊のなかには、「義兵隊」や「朝鮮独立軍」「義烈団」などもありましたが、これらはいずれも純然たる民族主義の軍隊であり、資産家階級の利益を守る軍隊でした。

 しかし、朝鮮人民がそのような軍隊ではなく、マルクス・レーニン主義で武装し、勤労人民の利益を守り、帝国主義に断固反対して戦う軍隊をもつようになったのは、まさに抗日武装闘争を展開したそのときからであります。

 人民軍は、地主、資本家の利益のために戦った軍隊の後継者ではありません。人民軍はマルクス・レーニン主義思想を指針とし、帝国主義に反対し、労働者、農民をはじめ、勤労人民の利益のために戦った抗日遊撃隊の革命伝統を受け継いだ軍隊であります。人民軍が抗日遊撃隊の後継者であることは極めて光栄なことであります。

 抗日遊撃隊の革命伝統を継承するということは、なにを意味するのでしょうか。それは、抗日遊撃隊の思想体系を継承し、そのすぐれた活動方法と活動作風を継承することを意味します。

 抗日パルチザンは、地主や資本家のためではなく、勤労人民の利益のために戦い、常に人民とともに生き、人民とともに戦うという闘争精神の伝統をうち立てました。抗日遊撃隊の思想は、マルクス・レーニン主義思想であり、その目的は、帝国主義に反対し、勤労人民の利益を守る人民政権の樹立をめざして戦うことでした。

 当時、パルチザンは「魚が水を離れては生きていけないように、遊撃隊は人民を離れては生きていけない」というスローガンのもとに、常に人民を愛し、尊敬し、祖国の解放のために献身的に戦いました。

 パルチザンは、たんに敵と戦う戦士であったのではなく、人民を教育し扇動する宣伝者であり、人民を組織し立ち上がらせる組織者でありました。かれらは、行く先ざきで祖国光復会、反日会、反日同盟、婦女同盟、反日青年同盟、解放闘争同盟など、各種の地方団体を組織しました。これらの組織は、抗日遊撃隊のまわりに結集し、パルチザンと人民は、混然一体となっていました。

 抗日パルチザンは、人民のために戦い、人民から積極的に支援されたために、権力をもたなくても、15年も遊撃闘争を展開することができたのです。

 抗日パルチザン部隊では、上部と下部がかたく団結していました。すなわち、遊撃隊は資産家階級の軍隊のように、上官が部下をおさえつけ侮辱する傭兵制度の軍隊ではありませんでした。

 抗日遊撃隊では、指揮官と兵士の利益およびかれらの意志が完全に一致していました。当時、指揮官は、すべて兵士のなかから、人民の子弟のなかから出ました。したがって、指揮官と兵士のあいだには、少しのへだたりもあるはずがなく、人民の利益のために一致団結してともに戦い、ともに生活し、互いに尊敬し、いたわり合う美しい伝統がきずかれました。

 抗日遊撃隊員は、誰かにこわれて遊撃隊に入ったのではなく、すべて人民の利益のため人民の主権のために、帝国主義に反対して自発的に入隊したのであり、かれらのうち、立派に戦った人が隊長に推されたのであります。したがって、パルチザン部隊では、同志相互間の団結と、尊重し愛しあう精神が非常に強かったのでした。

 日本軍と戦った軍隊は、他にも少なくありませんでした。南満州には「独立軍」もありました。しかし、この軍隊は失敗に終わりました。「独立軍」は、指揮官と兵士とのあいだ、部隊と人民のあいだで利害が一致しなかったので、かれらは長期にわたって戦いつづけることができませんでした。

 しかし、抗日遊撃隊内の指揮官と兵士との関係は、肉親よりむつまじく、上下が一心同体にかたく団結していました。

 かつてのパルチザン闘争時代の話を一つしようと思います。1941年当時、抗日武装闘争の最も困難な時期に、我々は闘争方針を変えました。一方では、革命の前途を見通してソ連一帯で多くの幹部を養成し、他方では、力量を保存するため大部隊活動を小部隊活動にきりかえ、地下闘争を強化しました。当時、日本帝国主義者の「討伐」がひどかったために、大部隊活動や公然闘争は極めて困難でした。

 ある日、3名からなる1グループが、地方に地下組織をつくる任務をおびて工作に出かけたことがありました。このグループは、食糧やその他の問題で困難に陥りました。グループの責任者は困難にうちかてず動揺し、ある朝、隊員たちが洗面しようとしてはずしておいた拳銃を奪って、「ソ連と帝国主義とのあいだに矛盾があり、植民地と帝国主義とのあいだに矛盾があるからやがて大きな事変が起こる、だから抗日武装力を保存し、幹部を訓練し、地方工作を広範にくりひろげて、きたるべき革命的大事変を迎える準備をしなければならないとパルチザンでは宣伝しているが、これは信じられない将来の話だ。ソ連が日本と中立条約を結んだというのに、革命が勝利するまで何十年かかるか誰がわかるものか。おれは10年間もパルチザンについて歩いたが、希望がもてなくなった。まぬけな人間ならここに残りもしようが、おれはこれ以上我慢できない」といって、日本軍に投降しようと言い出しました。当時、日本帝国主義者は、投降せよという反動的なビラを抗日パルチザン部隊に大量にまき散らしていました。また崔南善(チェナムソン)のような者も、長春に来て、「帰順」しろというビラをいたるところにばらまいたことがあります。

 このとき2人の隊員は、「行きたければお前ひとりで行け。どうして、我々までまき込もうとするのか。そのうえ、銃まで取り上げていく必要はないではないか。革命の前途はどうあれ、10余年ものあいだともに戦った同志たちを捨てて、自分だけ生きのびるために逃げ出そうというのか。我々は、義理にもそんなことはできない。行きたければひとりで行くがいい。銃はおいて行け。我々は最後まで戦う」と言いました。

 しかし、この裏切者は「お前たちが帰って報告すればおれの首がとぶ。だから、おれは帰らない。お前たちはおれを撃つにちがいないから、いますぐ銃を返すわけにはいかない。おれはどうしても行く。しかし、帰順はしてもパルチザン討伐には参加しないつもりだ。お前たちの銃は橋げたにかけておくからもって行け」といって逃げて行きました。

 その男は、帰順しても「討伐」には加わらないと言ったが、2人はパルチザン指揮部に早く報告しなければならないと考え、夜になって山からおりて見たところ、2梃の銃が橋げたにかけてありました。それで銃を持って指揮部に戻ったが、指揮部はすでに移動したあとでした。

 当時、パルチザンには一つの原則がありました。小部隊が出発したあと、指揮部は必ず場所を移し、そこをレポ地点とすることにしていました。そこで、この2人は、連絡が来るのを待っていたが、食糧が切れ飢え死に寸前にいたりました。やむをえず、かれらは木の幹に炭で、誰々は飢え死にし、誰は投降したと書きつけてその下に横たわりました。折しも指揮部から派遣された連絡兵が到着し、2人はかれに背負われて指揮部まで戻ることができました。

 この戦闘員たちは、同志的な友情を重んじ、革命的節操と信義をわきまえていたのです。
 他の軍隊では、兵士が自分の部隊長を射殺して逃走することもありましたが、我々のパルチザンではそのようなことは一度もありませんでした。

 このように抗日パルチザンは、人民とともに生き、人民のために戦い、指揮官と兵士は一つにかたく団結していました。これは、我々が必ず受け継ぐべき立派な伝統であります。

 次に、抗日遊撃闘争のすぐれた伝統の一つは、困難にうちかつ闘争精神であります。抗日パルチザンは、革命の勝利のために、祖国の解放のために困難な闘争をおこないました。

 古い社会制度をくつがえし、すべての人が幸福に暮らせる新しい社会を建設することが、どうして容易なことでしょうか。これはただ、困難な闘争を通じてのみ達成することができます。パルチザン闘争がいかに困難なものであったかは、そのすべてを口で言い表すことができません。

 いま、人民軍は正規軍として、党と政府から十分な給養を受けています。しかし、パルチザンはあらゆる困難を克服しながら、1年や2年ではなく、15年にわたる困難な闘争をくりひろげてきました。パルチザンは、敵の武器を奪って武装し、食糧や被服も敵のものを奪って使い、また人民の援助によって解決しました。

 情勢が有利なときも不利なときも、終始一貫して勇敢に戦うというのは容易なことではありません。日本帝国主義者は、その末期になってパルチザンにたいし「お前たちの力は大海に浮かぶ粟粒にすぎない。お前たちが大日本帝国に太刀うちできるはずはない」と書いたビラをばらまきました。いうまでもなく、さほど多くもない人数で日本帝国主義と戦うというのは、極めて難しいことでした。

 しかし、パルチザンはマルクス・レーニン主義の思想で武装していたので、資本主義は滅亡し社会主義・共産主義は必ず勝利するということを確信していました。こうして、あらゆる困難にうちかち厳しい闘争をつづけて、ついに最後の勝利を戦いとりました。

 マルクス・レーニン主義を体得できなかった者は、日本帝国主義の滅亡を見通すことができませんでした。そういう者は、革命の前途にたいする確信を失って日本帝国主義に投降しました。なかには、8.15解放の数日前に逃亡した者さえいました。だからこそ、思想・意識の問題がなによりも重要なのであります。

 人民軍は、革命の勝利のために、マルクス・レーニン主義の信念をもって、不屈の闘争を展開した抗日パルチザンの革命精神を受け継がなければなりません。

 抗日パルチザンはまた、資産家階級の民族主義的軍隊とは違い、勤労人民の革命軍隊としてソ連人民や中国人民との国際主義的団結を強めながら、特に、ソ連との緊密な連係のもとに闘争しました。抗日パルチザンは、最初から共産主義者たちの大家庭の一員でありました。パルチザンは、「全世界の労働者団結せよ!」というマルクスの思想を守りぬき、プロレタリア国際主義の思想で武装していました。これもやはり、人民軍が受け継ぐべき抗日遊撃隊のすぐれた伝統であります。

 どうして私がきよう、このようなことを強調するのかと言えば、戦争で勝利した人民軍が平和を守り、社会主義建設を防衛するために自己の戦闘力を強化するうえで、抗日遊撃闘争の伝統を受け継ぐことが、いかに大きな意義をもつものであるかを明確に認識する必要があるからです。

 反党分派分子らは、人民軍が抗日パルチザンの革命伝統を継承することに反対しました。なぜ反党分派分子らは、人民軍が抗日パルチザンの革命伝統を継承することに反対するのでしょうか。かれらの目的は、人民軍を抗日遊撃隊のような強い革命精神をもった軍隊にさせないことにありました。

 資産家階級の利益を擁護した「独立軍」や「義烈団」、あるいは日本軍と一度も戦うことができず、日本軍があらわれさえすれば逃げ出した金枓科奉(キムトゥボン)の「独立同盟」や「義勇軍」を、我々が継承すべきだとでも言うのでしょうか。我々は、このような反マルクス主義的軍隊を継承するわけにはいきません。

 我々が継承すべき唯一の伝統は、マルクス・レーニン主義の旗のもとに勤労人民の利益を守って戦った抗日遊撃隊の革命伝統であります。

 近ごろ、反党分派分子の金乙奎(キムウルギユ)は、人民軍が吉州(キルジュ)、明川(ミョンチョン)の農民運動を継承すべきだと言いました。もちろん、吉州、明川の農民運動は、他の地方で起こった農民運動とともに立派なものであり、革命的なものでした。しかしこれは、あくまでも、日本帝国主義と地主に反対する農民の幾日かつづいた単純な闘争であるか、または小作争議にすぎないものであって、武力闘争に発展することはできませんでした。吉州と明川の農民運動が、朝鮮人民の武力の発端になったとか、そのときから朝鮮人民が自己の武力をもつようになったとは誰も言えないでしょう。これらすべての農民の闘争は、いずれも抗日武装闘争の影響のもとに起きたものです。

 人民軍が抗日パルチザンの革命伝統を継承しているということは、朝鮮人民の誰もが認める事実であります。抗日パルチザン闘争の伝統を継承することは、我々にとって有益でこそあれ、有害なことはなにもありません。

 反党分派分子らは、どうしてこれに反対するのでしょうか。かれらの狙いは、これまでの我が国の歴史にはなんの闘争業績もなかったことにし、また、かりにあるとすれば自分たちも一口あずかろうということにあります。かれらの誹謗にはなんの根拠もありません。

 人民軍は、1948年に無から生じたものではなく、栄えある抗日遊撃隊の革命伝統を受け継いで創建され、朝鮮革命の頼もしい武装力に成長しました。

 我々は伝統を継承するからといって、なにもかもすべてを継承するわけにはいきません。

 中国でも多くの独立運動と武力闘争がありましたが、南昌暴動(1927年8月1日)ではじめて中国人民解放軍が創建されたものとみています。それは当時、中国共産党の指導のもとに、中国の共産主義者がはじめて武器をとって帝国主義の侵略に反対して暴動を起こし、人民の革命的武力を組織したからであります。

 我々は、抗日遊撃闘争の栄えある革命伝統を継承した人民軍の歴史を、さらに輝かしいものにしていかなければなりません。

 人民軍は、朝鮮で反帝反封建的民主主義革命と社会主義革命の遂行をめざす党の革命的武装力として、朝鮮労働党によって組織された軍隊であります。

 以前の総政治局の責任幹部のなかには、人民軍は、労働党の軍隊ではなく、「統一戦線の軍隊」であると主張する者がいました。それでは、人民軍が青友党や民主党の軍隊にもなりうると言うのでしょうか。絶対にそうなることはできません。

 朝鮮人民軍は、我が党が提起する革命の課題を遂行する我が党の武力であります。

 一部の人は、人民軍が創建された当時、軍隊内に党組織をおかず、戦時中はじめて党組織をおいたといって問題を混同しています。我々が人民軍を創建する当時、軍隊内に党組織をおかなかったからといって、人民軍を「統一戦線の軍隊」だと言えるでしょうか。そうは言えません。

 こんにちの社会には、2つの軍隊しか存在しません。その1つは資産家階級の軍隊であり、他の1つは労働者階級の軍隊であります。こんにちの社会では、2つの階級、すなわち資産家階級と労働者階級とが互いにたたかっています。資産家階級がその権力を維持するために武力を用いている以上、労働者階級には資産家階級の権力をくつがえして新しい社会を建設する革命を遂行するための武力が必要です。

 資産家階級の軍隊でもなく労働者階級の軍隊でもない、ある種の中間的な軍隊などというものはありえません。

 朝鮮で、誰が資本主義をくつがえして、社会主義を建設し、共産主義まで進もうとしているのでしょうか。それは、朝鮮労働党であり、朝鮮の労働者階級であります。したがって、マルクス・レーニン主義的軍隊である朝鮮人民軍は朝鮮労働党の軍隊であります。

 人民軍のなかには、ただ労働党の組織があるのみです。もちろん、軍隊内には党の指導する大衆団体である民青組織があります。しかし、我々は軍隊内に他の政党の組織が存在することを絶対に許しません。ここにはいかなるあいまいさもないのです。あいまいだという者は、その本心が別のところにあるのです。それは、人民軍をマルクス・レーニン主義から離脱させ、資産家階級の軍隊に変えようとする企み以外のなにものでもありません。

 人民軍は、ただ朝鮮労働党によってのみ指導されます。朝鮮人民軍は、党が提起する革命課題の遂行を武力をもって擁護します。党は、マルクス・レーニン主義の原則にもとづいて民主主義革命を実現し、社会主義革命を遂行するために人民軍を組織しました。この問題にかんしては、いかなる雑音や雑念も介在しえません。

 朝鮮人民軍は、ただ朝鮮労働党にのみ忠実であり、朝鮮労働党の指導のもとでのみ革命の道を前進し、党がたたかいとった革命の成果を防衛し、革命的方法によって古い社会をくつがえし、新しい社会を建設するマルクス・レーニン主義的革命軍隊であります。ここには、いささかの動揺もありえず、この道からは一歩も退くことはできません。

 それゆえ朝鮮人民軍は、我が党が示す革命課題の遂行のために党のまわりにかたく団結し、思想的準備と戦闘的・技術的準備を強化しなければなりません。

 軍隊内の一部に不健全な思想があるので、いま、このことを強調する必要があると思います。

 朝鮮人民軍は、栄えある10年の歴史をもっています。人民軍は、かつての抗日遊撃闘争の革命伝統を継承し、世界「最強」を誇るアメリカ帝国主義の軍隊と戦って勝利した栄えある歴史をもっています。

 こんにち、朝鮮人民軍は、すべての面で強力な軍隊となりました。かつての抗日武装闘争の時期には、小さなパルチザン部隊にすぎず、正規軍を創建した初期にも、いくつかの連合部隊にすぎませんでした。しかし、こんにち、人民軍は、量的にも、技術的にも、また政治的準備程度から見ても、すべての面で党と朝鮮人民の頼もしい革命力量に、強大な武力に成長しました。

 もちろん李承晩かいらい軍は、我々より数の上では優勢です。しかし、我々は李承晩軍を打ち破ることができます。抗日パルチザンが戦った当時、日本帝国主義者とパルチザンとの対比は、日本人が言ったように、文字どおり「大海の一粟」でした。

 こんにち、敵と我々との力の対比は、これとは全く異なります。人民軍は、輝かしい戦闘の歴史と豊富な戦闘経験をもつ強大な軍隊であります。人民軍は、数のうえでは敵より少ないが、敵とは比較できない優位性をもっています。人民軍は、先進的なマルクス・レーニン主義の思想で武装した軍隊であり、技術的にも立派に装備された不敗の軍隊であります。人民軍は、労働党によって指導される不敗の軍隊であります。まさにここに、人民軍の優位性があります。

 6.25以前には、人民軍将校のうち正規軍をもって大きな戦闘を経験した人はほとんどいなかったと言っても過言ではありません。いたとすれば、パルチザン闘争当時、日本軍と戦った経験のある幹部がいたにすぎません。日本軍と戦ったパルチザンの戦闘経験と大規模な現代戦の経験とを比較することはできません。また、戦前の平和的建設の時期には、人民軍は戦闘訓練をしただけであって、実地に戦闘をしたことはありませんでした。そのころは、砲弾がどのように炸裂し、銃弾がどのように飛んでゆくのかを実戦で経験したことのない軍人がほとんどであったと言えます。

 しかし、いまでは事情が全く違います。こんにち、人民軍は、強大な敵と戦って勝利した、経験豊かな強力な軍隊であります。将校と兵士の大部分が、戦闘経験をもつ人たちです。人民軍は、長期のパルチザン闘争の経験をもつ幹部と、祖国解放戦争で鍛えられた数多くの幹部をもっています。おそらく、ここに集まった諸君もみな洛東(ラクトン)江の戦線まで進撃した人たちであると思います。これは、人民軍の最も貴い力の源泉であります。

 運転手たちも李承晩軍やアメリカ軍の運転手よりはるかにすぐれています。万一、祖国解放戦争のとき、航空力の対比において我々と敵との立場がいれかわっていたなら、李承晩軍は耐えられなかったでしょう。李承晩かいらい軍の運転手は、夜間、航空機が上空を飛んでいるときにライトを消して車を走らせろと言われても、走れないでしょう。しかし、人民軍の運転手たちは十分に走ることができます。

 人民軍の運転手と李承晩かいらい軍の運転手とでは、思想・意識が全く違います。李承晩かいらい軍は雇い兵なので、なんのために戦うのかを知りません。しかし、人民軍は、労働者、農民のために、祖国と人民のために戦うのだということを知っているがゆえに強いのです。李承晩軍は、アメリカ軍のあとについて回り、あるいは、かれらに強制されて前に立って戦う軍隊であるが、人民軍は、自主的に戦闘を組織し、自覚をもって戦う軍隊であります。

 人民軍は、政治的、思想的に成長し、豊富な戦闘経験を蓄積しました。祖国解放戦争の時期、敵が仁川(インチョン)に上陸したときは非常に困難でした。部隊を組織しようとしても小隊長がいませんでした。銃声を聞いたこともない学生を1か月間訓練して前線に出動させたのですから、かれらが十分に戦えるわけがありません。いまは、当時とは違います。いまでは、下士官に30名をつけて防御に当たらせれば、立派にやれます。あの当時でさえ、敵は三日目にやっと仁川に上陸できたくらいですから、いまのように戦闘経験の豊富な幹部をもっている状況のもとでは、我々は敵のいかなる侵攻をも十分撃退することができます。

 それにもかかわらず、我々はなぜ、ひきつづき幹部軍隊化のスローガンをかかげるのでしょうか。それは、戦闘経験のない新入兵士たちに戦闘経験を教えて、かれらをどのような戦闘でも指揮できる幹部に育てあげるためです。

 人民軍の過ぐる10年間の歴史は、最も光栄あるものであります。こんにち、人民軍は、祖国の独立と平和と社会主義を立派に守ることのできる軍隊に成長しました。人民軍は、数量からも、技術や意識の面からも、また、戦闘経験から見ても比べようもなく強大になりました。

 我々は、朝鮮革命を立派になし遂げえる力をもっています。我々は、北半部に強力な革命的民主基地をもっており、1000万の人口と、100万の党員、数100万の民青員をもっており、戦闘経験に富む強力な軍隊をもっています。敵が我々を「大海の一粟」と言った抗日武装闘争の時期でさえも、我々は日本帝国主義者を打ち破ったのに、こんにち、この強大な力をもって革命を完遂できない理由があるでしょうか。我々には、いささかの悲観もありえず、ただ楽観があるのみであります。




 我が党の指導のもとに、朝鮮人民は戦後数年間に、人民経済の復興発展で驚くべき成果をおさめました。

 我々は、3か年計画を完遂し、第1次5か年計画の実行に着手しました。第1次5か年計画はまだ発表されていませんが、第3回党大会の決定にもとづいて1957年度の計画を完遂し、現在、1958年度の計画を遂行しつつあります。

 我々は、今年中に党代表者会議を開いて5か年計画を討議し、上半期に最高人民会議でそれを採択する準備を進めています。

 こんにち、工業と農業は、5か年計画の草案で予定していたよりもはるかに速いテンポで発展しています。特に、党中央委員会1956年12月総会決定の精神にそって、勤労者が比類のない生産の熱意を発揮した結果、1957年度の人民経済計画は立派に超過遂行されました。

 1957年度の工業生産は、1956年度に比べて44%増大し、戦前の水準を2.8倍も上回りました。農業部門では、戦前に267七万トンの穀物を生産しましたが、1957年度には320万トン生産しました。これは、我が国の史上かつてない高い収穫であります。我々はこれまでの期間に、農業で穀物の問題を基本的に解決しました。北半部では、現在、人口一人当たり350キログラム余りの穀物がゆきわたっています。このように、こんにち、我が国の工業と農業は、世界でも例のない速いテンポで発展しています。

 工業および農業総生産高のうち、工業は約63%、農業は37%で、工業の比重がすでに農業よりはるかに高くなっています。こうして我が国は、立ち後れた農業国から自立的な工業・農業国に急速に変わりつつあります。

 戦後の我が党の経済政策の基本は、重工業を優先的に発展させながら、同時に軽工業と農業を発展させることでありました。戦後経済建設のこの路線は、1953年の党中央委員会第6回総会で決定されました。

 重工業を優先的に発展させながら、同時に軽工業と農業を発展させる党の路線は、極めて正しいものであります。もし、我々がこのような路線を実行しなかったならば、戦争のために零落した人民生活を速やかに向上させると同時に、国の経済的基盤を強化するという困難な課題を解決することはできなかったでありましょう。

 重工業を優先させることなしには、軽工業と農業を発展させることができません。潅漑施設を増やし、農村に肥料と農業機械を大量に供給せずには穀物の収量を高めることも、農業を全面的に発展させることもできません。耕地の少ない我が国で穀物収量を高めるためには、農村に大量の肥料を送り、潅漑施設を増やし、大量の農業機械を生産、供給して単位面積当たりの収量を高めなければなりません。

 潅漑工事をおこなうには、変圧器、モーター、鉄筋、セメント、電力などが必要ですが、これはすべて重工業で生産されます。重工業を発展させなければ、セメント、鉄筋、銅線、変圧器、モーターなどを作ることはできません。重工業を優先的に発展させ、セメント工場、肥料工場、機械製作工場などを復旧建設し、ポンプ、モーター、変圧器、電線、揚水機、セメント、肥料、農業機械などを大量に生産して農村に送るとともに、平南港漑工事と黄海南北道一帯をはじめ、各地域で大胆に多くの潅漑工事をおこなったために、農業で大きな成果をおさめることができました。

 我々は今後、潅漑工事をさらに広げ、畑潅漑までもおこなう考えです。国家では、この部門にたいし、ひきつづき多額の投資をおこなっています。

 もし、肥料工場を復旧せずに肥料を外国から買い入れるとすれば多額の資金を使わなければならず、また、外国で我々の要望どおり売ってくれないこともあるでしょう。また、大量に買い入れる資金もありません。しかし、肥料工場を復旧建設したために、こんにち我々は、年に40万トン以上の肥料を生産し、農村に供給できるようになりました。
このように、我々は重工業を優先的に復興建設することによって、農業を発展させて単位面積当たりの収量を高めることができました。このことから重工業を発展させなければ農業を発展させることができないという結論が引き出されます。

 軽工業もやはりそうです。軽工業は、衣食の問題を解決する食品加工業、繊維紡織工業を指すのですが、これはすべて重工業と農業の発展に依存します。戦後、軽工業も大きく発展しました。解放前、日本帝国主義者は、我が国で植民地的略奪政策を実施し、軽工業を発展させませんでした。日本帝国主義者は、朝鮮から原料を略奪してゆき、日本の商品を朝鮮に持ち込んで高い価格で売りつけました。

 解放前、我が国に軽工業工場があったとすれば、南朝鮮にいくつかの紡織工場があったにすぎません。祖国が分断された状況のもとで、我々は南半部の軽工業基地を利用することができません。北半部には軽工業がほとんどありませんでした。沙里院(サリウォン)と新義州(シンイジュ)に小規模の紡織工場が一つずつあっただけです。

 しかし、戦後我々は、新しく平壌に大きな紡織工場を建設しました。戦前、北朝鮮では織物を900万メートル生産しましたが、当時は人口一人当たり1メートルもゆきわたりませんでした。いまでは、1億メートル以上も生産していますから、人口一人当たり9〜10メートル、今年の末には、約10〜11メートルずつゆきわたることになるでしょう。

 もし、我々が重工業を優先的に発展させないならば、軽工業に繊維原料を供給することはできません。人造繊維、合成繊維を生産するためには化学工業を発展させなければなりません。化学工業を発展させるにはまた、電力工業と石炭工業を発展させなければなりません。石炭と電力がなくては工場を動かすことができません。このように、軽工業の原料である化学繊維なども、やはり重工業を発展させなければ解決できないことは明らかです。紡織工業では多くの苛性ソーダを使いますが、これも化学工業で生産されます。

 豊かな海に囲まれていても、重工業がなければ水産業を発展させることはできません。海で魚を獲るためには船を造らなければならず、そのためには造船所が必要です。戦時中に多くの船が破壊されましたが、現在、数10万トンの魚が獲れるようになったのも、やはり清津(チョンジン)造船所、南浦(ナムポ)造船所、羅津(ラジン)造船所など我が国の造船所で多くの漁船を建造したからです。

 住宅を建てるには、セメント、鉄材、木材が必要ですが、これもすべて重工業なしには解決できません。セメント、鉄筋、電気資材がなく、衛生資材やパイプもなしに、なにをもって立派な住宅を建てることができるでしょうか。

 しかし、我々は重工業を優先的に発展させ、黄海製鉄所、金策製鉄所、清津製鋼所、降仙製鋼所、城津(ソンジン)製鋼所を復旧したために、銑鉄、鉄筋、パイプ、その他の鋼材を生産し、近代的な住宅を建てることもできるようになりました。我々は、これまでに多くの近代的な文化住宅を建設しました。すでに建設の基礎をきずいたので、これからは、さらに多くの住宅を建設できます。3か年計画の期間に建設の基礎をかためなかったならば、新しい文化をきずく時代に我々は掘っ立て小屋しか建てることができなかったでしょう。

 我が党の経済政策が正しかったことは、論議の余地がありません。

 それにもかかわらず、反党分派分子らは、我が党の経済政策を誹謗し、それに反対しました。かれらの主張には、なんの理論的根拠もありません。かれらは、我が国の経済を研究もせず、党のすることはすべて誹謗し、重工業を優先的に発展させるべきではないと主張しました。

 我が国には、もともと大規模の発電所、化学工場、製鉄所、製鋼所などがあるのに、これらを復旧発展させず、そのまま放置するわけにはいきません。我々に一定の土台と条件がある以上、重工業に重点をおき、同時に農業と軽工業を発展させることができない理由はありません。

 反党分派分子らは、不可能だと言いました。かれらの主張は、工業や農業を復興発展させるのではなく、外国からの援助、つまりソ連の10億ルーブル、中国の8兆元、その他の社会主義諸国からの援助で、米や織物などの消費物資を買い入れ、数年間、これを使い果たそうというのです。

 党中央は、これに反対しました。もし、我々が外国の援助をこういうふうに使い果たしていたならば、その後は、一体どうなったでしょうか。当座は多少困難があっても、将来のよりよい生活条件をつくるために工場を建設し、工業と農業の生産を高める準備をととのえるのが正しいのであって、援助を残らず食いつぶし、なくなれば物ごいして回るのが正しいと言えるでしょうか。こういう人には、援助を与えようとする人もいません。

 反党分子らの本来の意図は、我が国を困難な状態に陥れ、革命を破綻させようとするものです。かれらの主張は、反革命的「理論」です。反党分子らが、党の正しい政策に反対したばかりでなく、一部の友党も我が党の経済政策に疑いを抱きました。3か年計画が発表された当時、友党内の一部の動揺分子は、我々が実現不可能な夢を見ていると中傷しました。しかしそれは、夢ではなく現実的に可能なことでした。

 我々は、重工業に重点をおきながら同時に軽工業と農業を急速に発展させる政策を一貫して堅持してきました。すべての成果は、国内資源と兄弟諸国の援助をむだに使い果たすことなく、重工業の基地をきずくために主力を注ぎ、これと同時に軽工業と農業を発展させた結果達成されたものであります。現実は、党の経済政策が全面的に正しかったことをはっきりと示しています。

 それでは、第1次5か年計画における党の経済政策の基本はなんでしょうか。第1次5か年計画の中心課題は、北半部で社会主義の経済的基盤をさらに強化し、人民の衣食住の問題を基本的に解決することであります。この課題を解決するために、重工業に重点をおき、同時に軽工業と農業を発展させる路線をひきつづき堅持しなければなりません。

 重工業では、電力工業、石炭工業、金属工業、化学工業、特に機械工業を急速に発展させるべきであります。

 農業では、穀物の生産に重点をおきながら、畜産業、工芸作物の生産、果樹栽培業や養蚕業などを同時に発展させなければなりません。

 朝鮮人がみな白米を食べるためには、少なくとも300万トンの米を生産しなければなりません。我々は、第1次5か年計画の終わりまでには50万ヘクタールの水田をすべて水利完全田に変え、水田の面積を約60万ヘクタールに拡張し、単位面積当たりの収量を高めて、米を現在よりもはるかに多く生産するために努力しなければなりません。

 我々はまた、畜産業の発展に必要な基礎をきずきあげました。こうして、最近食肉の価格を大幅に引き下げました。今後20万〜30万トンの食肉を生産するようになれば、人口一人当たり20〜30キログラムずつゆきわたるようになります。魚を60万トン獲ってこれに合わせれば、我々の生活水準はかなり高まるでしょう。党が正しく組織し指導さえすれば、これは十分に可能なことであります。

 農業で重要なのは、工芸作物の生産を増やすことです。衣料問題を解決するためには、綿花の栽培と養蚕業を発展させて、繊維原料を解決しなければなりません。これと同時に、ヒマ、ヒマワリ、ゴマなどの油脂作物を大々的に栽培し、食用油や石けんなどを増産すべきであります。

 次に、果樹栽培業をさらに発展させなければなりません。我々は、果樹園開墾運動を展開し、昨年1年のあいだに、すでに3万ヘクタールを開墾しました。5か年計画期間に、10万ヘクタールは問題なく開墾できます。

 いま、全国の農村では、潅漑施設を拡張し、堆肥を増産し、種子を改良し、先進的営農方法を導入するための大衆的運動が展開されています。

 農業部門で大きな成果をおさめることのできた最も重要な条件は、農業の社会主義的改造でおさめた大きな勝利であります。我々は紆余曲折もなしに、戦後3、4年のあいだに農業協同化を成功裏に実現しました。我々は農業協同化運動を展開するに当たって、実験的段階をへてしだいに経験をつみ、幹部を養成しながらこの運動を積極的に、大衆的にくりひろげる方針をとりました。その結果、現在では、全農家戸数の95.6%が協同経営に加わりました。こうして、農村での社会主義的協同化はほとんど完成しました。

 まだ一部には、協同組合に加入していない農民がいます。それは山奥に1軒、2軒と散在している農民か、あるいは市・郡機関の所在地に住んでいる半農半商の投機的な思想の持ち主たちです。さらに一部は、富裕な農民、あるいは協同化に反対する者です。党は、かれらを強制的にではなく解説と説得の方法で、協同経営の優位性を実際に示す方法で改造する政策を実施しています。

 我々は、すべての協同組合員の生活を富裕な中農の水準に到達させなければなりません。農家一戸当たり平均、米2.5トン、現金2万5000〜3万円(ウォン)ずつ分配を受けるようになれば、そのときには富裕な中農の水準に達したとみることができます。いまでは、だいたい中農の水準に到達したと言えます。しかし、これではまだ足りません。我々の当面の目標は、協同組合員の収入を富裕な中農の水準にまで引き上げることにあります。

 農業協同組合の重要な課題は、ひきつづき農業生産を高めて組合員の収入を増やし、組合の共同財産をさらに多く蓄積することです。これとともに、農村の社会主義的改造での成果を強固にするために、農民を社会主義の思想で教育する活動を強化しなければなりません。

 農村で経営形態が改造された状況のもとで、農民の意識を社会主義的に改造ししだいに農業の技術的改造を実現することは当面の重要な課題であります。

 軽工業発展の見通しも極めて大きいものがあります。重要なことは、化学工業をひきつづき発展させ、合成繊維と人造繊維を大量に生産する問題であります。耕地面積の少ない我が国では、綿花だけでは繊維問題を解決することができません。したがって、合成繊維と人造繊維を大量に生産し、織物の生産を増やさなければなりません。第1次5か年計画の終わりには、人口一人当たり18メートルの織物がゆきわたるようになりますが、これは非常に大きな数字であり、飛躍的な発展であります。

 軽工業部門の労働者、技術者は、今年度に100億円に達する商品を計画よりも多く生産することを国家に誓いました。

 また、食品加工業を発展させなければなりません。現在我が国で、食品加工業は最も立ち後れている部門です。

 社会主義建設を促進するためには生活水準を高めるだけでなく、生活を便利にして多くの婦人を職場に受け入れるべきであります。そのためには、食品加工業を発展させ、食肉、野菜、果物などを加工して住民に供給しなければなりません。果樹栽培面積を10万ヘクタールに増やして果物を取り入れるようになれば、収穫の季節にすべて消費することはできません。果物や野菜を乾物にしたり、かんづめにして住民に供給しなければなりません。

 日用品の生産を増やすこともまた重要です。我々はまだ、日用品のすべてを国内で生産するまでにはいたっていません。さらに多くの日用品を生産し、その品目を増やし、品質を高めるべきであります。

 住宅問題は、衣食住の問題のなかでも極めて重要な位置を占めています。戦後、多くの住宅を建設しましたが、まだまだ住宅が不足しています。

 いま建設部門の従事者たちは、党の建設政策を貫くために努力しています。少ない資材で安く、実用的で、堅牢な住宅を早く、たくさん建てることが重要です。これが、建設部門での党の基本方針であります。

 一部の人は、安く、実用的で、堅牢な住宅を、しかも早く、たくさん建てるという難しい条件がついているが、そんなことができるだろうかと言っています。しかし、熱意と創意を発揮すればできることであり、やればできるものです。

 かつて反党分派分子らは、建設・建材部門の党政策を誹謗し、それに極力反対しました。党中央委員会1957年10月総会は、建設部門における反党分派分子らの害悪行為を暴露、糾弾しました。党は建設部門の従事者に、党の建設政策を十分に浸透させ、建設部門で反党分派分子らの余毒を一掃する政治・思想闘争を進めました。

 党中央委員会常務委員会は、建設部門の仕事を点検し、建設原価を1平方メートル当たり1800円にまで引き下げることを決定しました。これは、党が労働者、技術者、事務員の創造的な熱意を十分に発揮させた結果であります。かれらが、反党分派分子らの余毒を一掃し、党の呼びかけにこたえた結果、一所帯当たり35平方メートルで2部屋の立派な住宅を、5万〜6万円で建てられるようになりました。軍隊で兵舎を建てる際にも、常務委員会の決定に即して潜在力を引き出す必要があります。

 第3回党大会は、5か年計画の期間に720万平方メートルの住宅を建設することに決定しましたが、設計関係者と労働者の決意によれば、都市と労働者地区に同額の資金で1000万平方メートルの住宅を建てることができます。平壌市では、今年1万7000所帯の高層アパートを建てる運動が展開されています。

 我々は、第1次5か年計画の期間に農村で20万戸の住宅を建設する予定です。しかしこれだけで、農村の住宅問題が完全に解決されるわけではありません。全農家戸数は100万戸ですが、そのうち60%の住宅は新築しなければなりません。我々がひきつづき、第2次5か年計画の期間に20万戸を建設し、第3次5か年計画の期間にさらに20万戸を建設すれば、農村の住宅は、ほとんどかわらぶきの住宅に変わることになるでしょう。

 以上が、工業と農業の発展と住宅建設にたいする党の方針であります。

 5か年計画についての具体的な問題は、党代表者会議で討議されることになります。第1次5か年計画を完遂すれば、我が国の社会主義建設は大きく前進するでありましょう。




 共和国北半部における社会主義建設は、祖国統一のゆるぎない裏付けであります。祖国の平和的統一を達成するためには、北半部における社会主義制度の優位性を示すことがなによりも重要です。そして、南半部のすべての人民が、北半部にうち立てられた制度がすぐれていることを明確に理解するようにならなければなりません。こうなれば、祖国の統一は促進されるでしょう。

 金九(キムグ)や金奎植(キムギュシク)が、かつては徹底して共産主義に反対していた頑固な民族主義者であったことは広く知られている事実であります。しかし、かれらは1948年に我々と妥協するまでにいたりました。金九は、北朝鮮にきて見て「真の共産主義者がここにいることを知った。共産主義者こそ真の愛国者だ。我々はアメリカに反対する。我々は、愛国者であるあなたがたを全面的に支持する」と述べ、南朝鮮に帰るとき「北朝鮮にとどまりたいが、私がここに残れば、かれらは私が北朝鮮に抑留されたというに違いない。だから、私はやむをえず南朝鮮に帰らなければならない。しかし、私は決してアメリカのために働きはしない。北朝鮮では正しい政治がおこなわれ、人々が幸福に暮らしていることを人民に宣伝するつもりである。どうしても南朝鮮で暮らせなくなったらまた来るから、そのときには私に果樹園でも一つ与えてほしい」と語りました。

 共産主義にあれほど反対していた金九は、南朝鮮に帰ってからアメリカ帝国主義に反対し、青年に我々の政策の正しさを宣伝しました。その結果、共産主義をきらっていた人々もしだいに認識を改めるようになったので、アメリカ人はついに金九を暗殺しました。金九は過去に血誤りを犯しましたが、最後には正しいことをして死んだことだけは確かであります。

 金九のような人でさえ、北半部の建設ぶりを見て我々を支持したのですから、南朝鮮の広範な人民大衆が北半部の実情を知るようになれば、我々を支持し、李承晩の制度に反対して立ち上がるであろうことは言うまでもありません。南朝鮮の絶対多数の労働者、農民は、我々と利害関係を同じくしており、我々を支持しています。反対する者がいるとすれば、それは一部の反動分子か、悪宣伝や欺まんに乗せられた人たちだけです。

 もしも、南北の交流がはじまって互いに行き来ができるようになり、南朝鮮の人々が北半部に来て我々の建設したものを見れば、ここには外国に従属していない自主的な経済があるということを知るようになるでしょう。

 我々は現在、初等義務教育制を実施しており、第1次5か年計画の終わりには青少年がすべて中等義務教育を受けることになるでしょう。これは、民族文化を発展させる道であり、我が国を文明国にする道であります。

 北半部の労働者、農民は、よく働き、十分に食べ、衣服にこと欠かず、よい家に住み、失業の心配もなく、誰もが幸福に暮らしています。南朝鮮では、失業者が113万に達し、半失業者まで合わせれば300万余りになります。

 南朝鮮の水田の面積は110万ヘクタールですが、これは我々より2倍も多いものです。ところが、昨年米を10%増収したとはいうものの、それは1500万石にすぎません。これは、トンに換算すれば220万トンです。雑穀や麦類などを全部合わせても300万トンにしかなりません。南朝鮮の人口は我々より2倍も多いのに、これだけでどうして生きていけるでしょうか。我々は食糧を自給自足できますが、南朝鮮ではそれができません。そのため南朝鮮では、アメリカ人が食べ残した腐ったトウモロコシや大麦、小麦などを買い入れて食べています。しかし、農民はそれさえも思うように食べることができません。離農家や食糧を切らした農家の数は年を追って増えています。

 日増しに発展する北半部の社会主義農村と南半部の農村とを比べて見るとき、南半部の農民はどの道を選ぶでしょうか。かれらが、我々の進む道について来るであろうことは疑う余地がありません。

 南朝鮮の労働者の生活状態も農民に劣らず悲惨であります。日本帝国主義支配当時の労働者の惨めな生活を思い起こせば、現在の南朝鮮労働者の状態を十分おしはかることができるでしょう。南朝鮮の労働者は、日本帝国主義支配当時よりもさらにひどい搾取と抑圧を受けています。自由と権利はおろか、生命を保つことさえ難しいほどです。

 このような状況のもとで、南北間の障壁が取り除かれて南朝鮮の労働者が我々と一堂に会するようになれば、かれらはどの制度、どの路線を支持するでしょうか。かれらは決して、李承晩の腐敗した独裁政治を支持せず、一致して社会主義制度を支持するでありましょう。したがって、我々の社会主義建設が勝利すればするほど、祖国の統一は促進されることになるのです。

 去る2月5日の閣議では、再び祖国の平和的統一にかんする方案をうちだしました。一部の人は、これまでの主張をなぜまた繰り返すのかと言っていますが、我々の統一方案は唯一の正しい方案なのですから、それをねばりづよく提案しつづけなければなりません。

 朝鮮停戦協定には、南北朝鮮の代表と関係諸国の代表が参加する高位級の政治会議を開き、平和的統一の問題を討議することが規定されていますが、これはアメリカ帝国主義者の策動のために実現しませんでした。その後、1954年のジュネーブ会議には我が国の政府代表が参加しましたが、そのとき我が方の代表団は、このたび発表した共和国政府の声明で提案した内容と同じ提案をおこないました。しかし、ダレスと朝鮮侵略戦争に参加した「国連軍構成国の代表」と李承晩一味の反対によって、会議は破綻しました。

 その後の数年のあいだに南朝鮮の状態はさらに悪化しました。アメリカ帝国主義者は、日本にあった「国連軍司令部」を南朝鮮に移して南朝鮮かいらい軍を増強し、最近では核兵器を持ち込み、核攻撃戦の演習をおこなっています。アメリカ人は、朝鮮人を毎日のように射殺し、南朝鮮の経済を破壊し、労働者、農民を極度の貧困においやっています。

 我々は、このような事態をこれ以上我慢することはできません。それで、我々は祖国の平和的統一を達成し、塗炭の苦しみにあえぐ南朝鮮の人民を救うために再び声明を発表したのです。

 我々は、すべての外国軍隊を撤退させ、朝鮮問題を朝鮮人自身の手で解決することを主張しています。すなわち、中国人民志願軍もアメリカ軍も撤退させて、南北朝鮮が協商によって問題を解決しようというのであります。アメリカ軍が出て行けば、南朝鮮当局は人民の圧力におされて、我々と協商せざるをえなくなるでしょう。

 我々の目的は、話し合いをおこなおうということであります。我々は、南北朝鮮における各政党・大衆団体の活動の自由の保障と選挙の実施を主張しています。李承晩の自由党も北朝鮮に来て自由に活動し、そのかわり南朝鮮で労働党が活動するのも妨害してはならないということです。おそらく、李承晩が北半部に来て自由党を組織するとしても、土地を没収されたもとの地主ならいざ知らず、正常な精神の持ち主であれば自由党に入るような人はいないでしょう。そのようが自由党に入ろうとする者をすべて集めたところで、数千人にもならないでしょう。

 しかし、我が労働党は、南朝鮮で伸展することでしょう。我が党は、農民に土地を与え、潅漑工事をおこない、労働者には8時間労働制と社会保険制を実施し、多くの休養所をもうけると主張するでしょう。人民は我々の主張を積極的に支持するでしょう。だから、我々が選挙を恐れる理由はなにもないのです。

 李承晩はもちろん、我々の主張を聞き入れようとはしないでしょう。李承晩は、南朝鮮ですでに実施した「選挙」は正当なものであるから、北半部でだけ「国連」監視下で「選挙」をおこなうべきであると言っています。我々がどうしてこれを受け入れることができるでしょうか。

 我々が民主的な基礎のうえで選挙を実施しようというのは、各政党、大衆団体の活動の自由が保障される条件のもとで、選挙をおこなおうということであります。互いに大衆のまえで自由に演説をおこない、自由に活動し、自由選挙を実施しようということです。李承晩は、この言葉を恐れています。かれは、民主主義、自由、平和、統一など、人民の歓迎する言葉をことごとく恐れています。人民は、我々に賛成するでしょう。アメリカ軍さえ出て行けば、李承晩は人民の圧力におされて我々と話し合わないわけにはいかなくなるでしょう。

 我々は人民軍武力のうち、8万の兵力を縮小しました。李承晩も70万の軍隊を維持すべきではなく、軍隊を縮小すべきであります。

 李承晩の軍隊はとるに足りないものです。その内部には多くの矛盾があります。李承晩の軍隊では、上部と下部との関係が我々とは違います。というのは、将校は、地主、資本家の子弟であり、兵士は労働者、農民の子弟であるからです。

 南北が軍隊を全く同じように縮小し、軍隊をもふくめて人民が互いに平和的に行き来できるようになれば、南朝鮮の多くの人々は李承晩を支持せず、我々についてくるでありましょう。

 我々の主張は、正しいものです。我々の提案には、南朝鮮の人民も賛成しており、世界の人民も支持しています。

 共和国政府の声明が発表されたのち、きのう中国政府は声明を発表しましたが、そのなかで中国政府は、中国人民志願軍の撤退問題を朝鮮政府と協議する用意がある、アメリカ軍も南朝鮮から撤退すべきであると述べています。近い将来、周恩来総理を団長とする中華人民共和国政府代表団が朝鮮を訪問することになっています。その際、我々は、中国人民志願軍の撤退問題を討議することになるでしょう。アメリカ軍が撤退しなくても、中国人民志願軍は自国に帰ることを予定しています。

 中国人民志願軍が撤退するからといって、我々自身の力で社会主義制度を防衛できないことはありません。我々は、十分祖国防衛の任務をまっとうすることができます。人民軍は、技術的にも敵に劣るところはなく、思想的にも強い革命軍隊であります。マルクス・レーニン主義思想で武装した人民軍は、少ない兵力で多くの敵を十分防ぐことができます。李承晩かいらい軍は数のうえでは多いとはいえ、それは、烏合の衆にすぎず、技術面や戦闘経験から見ても我々よりまさる点はなに一つありません。李承晩の軍隊は、政治的、思想的に蒙昧な雇い兵であります。

 中国人民志願軍が撤退しても問題はありません。我々は、自力で敵のいかなる侵略をも十分防ぐことができます。

 中国人民志願軍が撤退することは、朝鮮問題の平和的解決において敵に大きな打撃となるでしょう。

 アメリカ軍は、南朝鮮に踏みとどまるなんの口実もありません。アメリカ軍は直ちに撤退すべきであります。我々は、中国人民志願軍が撤退したのちには、「アメリカ軍は朝鮮から出て行け!」というスローガンをいっそう声高く叫ぶでありましょう。




 今後、朝中両国政府の会談によって中国人民志願軍は撤収することになるでしょうから、我々はこれを前提として思想的な準備をおこない、万端の準備をととのえなければなりません。

 人民軍が、自力で社会主義の獲得物を防衛し、人民政権を守り、敵の侵略を撃退して我々の防御線を鉄壁のように守るためには、なによりもまず、軍人のあいだで政治・思想教育を強化しなければなりません。大砲や飛行機で装備するのも重要ですが、軍人にたいする政治・思想教育を強化することはさらに重要であります。

 まず、祖国の平和的統一にたいする正しい認識をもつようにすべきです。人民軍が強化される条件のもとでのみ、平和を維持し平和的統一を達成することができます。一部の人は平和的統一ということで軍人は失業者にでもなるかのように考えていますが、これは大きな誤りです。

 党と政府が平和的統一のスローガンを高くかかげればかかげるほど、人民軍はその戦闘力をさらに強化し、思想的準備を強化しなければなりません。もしも、人民軍の戦闘力が弱まれば、平和的な話し合いは考えることすらできなくなり、敵は我々を餌食にしようとするでしょう。

 我々が強大であれば敵も攻めて来られず、平和的統一も達成することができます。また、かりに敵が攻めて来たとしても、我々はかれらを打ち破ることができます。したがって、我々が平和的統一を主張するからといって、戦闘訓練を弱める根拠はなにもありません。決して安逸に流れ、油断してはなりません。人民軍の全将兵はこのことを銘記すべきであります。

 思想活動で重要なのは、社会主義的愛国主義の教育を強めることであります。この問題について私は幾度も強調しました。これは、停戦直後に党がうちだしたスローガンであります。

 すべての兵士、将校、将官が、誰に服務し、なんのために戦うのかを明確に認識しなければなりません。李承晩も「愛国主義」について宣伝しています。しかし、我々の言う愛国主義は、資本家、地主のための「愛国主義」ではなく、社会主義的愛国主義であります。我々には、労働者、農民およびすべての勤労人民の利益を擁護し、社会主義の獲得物を守る愛国主義が必要なのです。

 李承晩は、国をアメリカに売り渡しながら、かいらい軍に乙支文徳(ウルチムンドク)のような忠臣になれと叫んでいます。かれらは、我々を「アカ」だと言い、ソ連の「手先」だと欺瞞的な宣伝をしています。

 我々は、ソ連人民と共通の思想をもっており、ソ連のように人間による人間の搾取がなく、労働者、農民が、主人となる社会制度を建設しています。我々がソ連を支持し擁護するのは、このような思想にもとづくものです。

 我々は、誰のために、なんのために戦うのでしょうか。労働者、農民、勤労人民のために、社会主義のために、社会主義の獲得物を守りぬくために戦うのです。それゆえ、我々の愛国主義は、ブルジョア愛国主義ではなく、労働者、農民が権力を握った社会主義国家にたいする愛国主義であることを軍人にはっきり認識させなければなりません。

 すべての将校、兵士が、社会主義的愛国主義で武装すれば、誰のために、なんのために血を流すのかを十分に知り、敵と勇敢に戦うようになるでしょう。

 軍人を党にたいする忠誠心で教育しなければなりません。朝鮮人民軍は、朝鮮労働党の軍隊であります。

 朝鮮労働党は、アメリカ帝国主義と封建勢力の抑圧から南半部の人民を解放する反帝反封建民主主義革命の課題を遂行し、北半部で社会主義革命を遂行する道へと人民を導いています。したがって、労働党の軍隊である人民軍は、朝鮮で反帝反封建民主主義革命を遂行し、祖国の統一独立を達成し、社会主義革命と社会主義の獲得物を守りぬく革命的武装力であることを明確に認識しなければなりません。

 人民軍を党に限りなく忠実な精神で教育するためには、人民軍内の党活動を強化しなければなりません。党中央委員会の点検によって判明したように、軍隊内での党活動には多くの欠陥があります。

 まず、軍隊内で党員と軍人を党の革命任務と党政策で教育する活動を十分おこなっていません。特に、反党分派分子の金乙奎、崔曰鐘(チェワルジョン)らは、総政治局内で地方主義とセクト主義の根をはらせ、政治活動に多くの混乱をもたらすような誤った「理論」をふりまき、党の思想を麻痺させようと企みました。

 反党分派分子らは、抗日パルチザンの革命的な愛国伝統を無視し、人民軍は党の軍隊ではなく「祖国戦線の軍隊」であると主張しました。かれらは、党が人民軍を創建する当時、各細胞から選抜して派遣した中核分子や洛東江の戦線まで進出し、険しい山を越え悪戦苦闘して帰って来た最も党性の強い党の中核分子から党にたいする忠誠心を取り除き、党と軍を切り離そうとはかりました。

 今度の反党分派分子の中心人物は新民党出身であります。金枓奉、崔昌益(チェチャンイク)らは、いずれも新民党の出身であります。反党分派分子らの意図は、共産党出身の中核分子を排除し、党内で新民党出身、言いかえれば、小ブルジョア出身が支配権を握ろうということでありました。だからといって、もちろん新民党出身の人がすべてそうだと言うのではありません。

 反党分派分子らは、我が党を小ブルジョア的な党に変え、ソ連とアメリカにたいし中立政策をとることを主張して、我が国を宙に浮いた危険な道に引きずり込もうとしました。

 総政治局長の地位にあった崔鐘学(チェジョンハク)は、反党分派分子らの犯罪的行為を徹底的に暴露し、党員と軍人のなかで反党分派分子らにたいする憎しみを呼び起こそうとせず、あいまいな態度をとってきました。

 軍隊内の党活動には、多くの欠陥があります。しかし、人民軍は党の信頼すべき中核分子でかためられているため、ごく一部の者が動揺したとはいえ大きな影響はありませんでした。

 さらに重大なことは、党中央の決定と党中央が人民軍に与える指示を軍隊内に十分伝達しなかったことです。総政治局は、党中央に仕事がすべてうまくいっていると虚偽の報告をしました。

 軍隊内の党の組織体系もしっかりしていません。そのため、多くの将校が党生活から遊離し、党の統制を受けませんでした。こうして、一部の将校は高慢になり、かれらのなかから軍閥思想が芽生えるようになりました。

 軍隊では唯一管理制が実施されていますが、しかし、党の統制からはずれた指揮官はありえません。党の統制を受けなかったために、一部の者は安逸に流れ堕落して、部下に薪わりなどをさせ、規律に違反して、いろいろな事故を起こし、少し批判を受けるとそれを根にもって不満をいだく現象が見受けられます。

 戦争中、敵と立派に戦った人を教育もせずに放っておいて、過ちを犯せばすぐ処罰して放り出します。自分の血と生命とすべてをささげて戦った貴重な同志が、こうなることにたいして、党中央は非常に遺憾に思っています。

 立派に戦った人を日常的に指導も教育もしないで、一度過ちを犯すと、どうしてすぐ処分するのでしょうか。このような方法で中核分子を教育してはなりません。

 これらすべては、党生活を強化しなかったところに原因があります。

 我が党の規約には、各党員は党生活に忠実でなければならないと明記されており、第3回党大会の文献には、レーニン的な党生活の規範を遵守することが重要な課題としてうちだされています。にもかかわらず、軍隊内ではこの課題を十分実行していません。1年間に一度しか党会議に参加しなかった党員もいます。軍団長や軍団政治部長や参謀長は、民族保衛省の階級別講習会にいってはじめて、ふた言、三言、批判を受けるありさまです。このほかには、かれらを指導し教育し統制する機関はどこにもありません。

 我々は、党中央委員会が適時に、正しい点検をおこなったものと考えています。今後、人民軍内に民族保衛省から師団、連隊にいたるまで党委員会制を設けるべきであります。

 党員は誰でも党生活に参加しなければならず、党の教育を受け、党に忠誠をつくすことを最大の栄誉とし、義務と考えなければなりません。

 軍隊内の党委員会は、党中央の決定をそれぞれの実情に即して具体化するためにそれを討議し、実行対策を立てなければなりません。党生活を正常化し、党生活の規範を完全にたて直すことは、軍隊内の党組織に提起されている最も重要な課題であります。この課題が実行されれば、将官から兵士党員にいたるまで、党への忠誠の精神で教育し、非党員の軍勤務者までも朝鮮労働党のために戦うようにすることができます。

 すべての軍人が、こぞって党中央委員会のまわりに団結し、反党分子や地方主義者に反対して断固たたかわなければなりません。

 地方主義は、分派を生み出す温床であります。金乙奎は、総政治局で吉州、明川出身者を糾合して分派活動をおこないました。

 国内で革命闘争をした人は、人一倍党生活を立派におこなわなければなりません。かれらは農民の小作争議を起こし万歳を唱えて監獄に入りはしても、党生活をしたことはありません。監獄生活で意志は鍛えられたかも知れませんが、政治教育を受けることはできませんでした。なにも知らないのに学習も怠り、親しい者同士が寄り集まって高い地位を得ようとする家族主義や地方主義は分派の温床であります。地方主義と分派を許してはなりません。

 党の政策と路線に反することはなんであれ、徹底して反対しなければなりません。人民軍は武力をもって党を擁護するだけに、ここにはわずかの異分子がいてもなりません。それゆえ、軍隊内では常に強力な思想闘争を展開すべきであります。

 軍人にたいするマルクス・レーニン主義思想の教育を強化しなければなりません。軍人を弁証法的唯物論の世界観で武装させることが重要です。すべての人が、新しいものは勝利し古いものは必ず滅亡するという弁証法的唯物論の世界観で武装すれば、あらゆる困難を克服して最後まで勇敢に戦い、複雑な情勢のもとでも事態の推移を明確に見きわめることができます。

 各国共産党・労働者党代表者のモスクワ会議の宣言に指摘されているように、こんにち、社会主義の威力はかつてなく強化され、資本主義はますます没落しつつあります。社会主義陣営は人口から見ても、科学・技術の発展から見ても、帝国主義勢力に比べて決定的に優勢であります。すべての軍人と党員は、社会主義の最終的勝利にたいする確信をもたなければなりません。

 モスクワ会議の宣言を研究してみれば、教条主義と修正主義に反対する問題や、ソ連を擁護する問題、帝国主義にたいする評価の問題でも、我が党の政策が正しかったことがわかります。それゆえ、モスクワ会議の宣言と党中央委員会1957年12月拡大総会の文献を研究する際には、それを我が党の政策と必ず結びつけて研究すべきであります。

 常に、我が党が歩んできた道をふりかえって見る必要があります。そうすれば、党中央にたいする信頼が深まり、労働党員としての自負がいっそう高まり、また我が党の指導したすべてのことが、人民を勝利に導いていることをますます確信するようになるでしょう。

 次に、軍隊で訓練を強化すべきであります。こんにち、我々の時代は、驚くべき技術的進歩が遂げられている時代であります。時代の発展に歩調を合わせて、近代的な武装をととのえなければなりません。党中央は、人民軍のために財貨を惜しみません。いかに意識の程度が高くても、技術が立ち後れていては敵と十分に戦うことができません。それゆえ、人民軍は新しい軍事技術で武装しなければなりません。マルクス、レーニン主義思想とともに、近代的な軍事技術をもつべきであります。

 砲兵をはじめ、各兵種の技術水準を高め、軍人が自己の武器に精通しなければなりません。

 少ない兵力で多くの敵を防ぐには、防御工事をしっかりとおこなうことが重要であります。特に、現代戦では防御工事が重要です。

 さきの戦争でアメリカは惨敗を喫して、「近代技術が、立ち後れた封建時代の技術に敗れた」と言いました。我々が堅固な防御陣地を築いて戦い勝利したので、かれらはそう言っているのです。

 我々が防御工事をしっかりとおこなうならば、3対1ではなく、5対1、6対1でも敵を防ぐことができます。堅固な防御陣地を構築しなければなりません。

 終わりに、軍隊の規律を強化し、不健全な行為を排撃し、警戒心を高めて反革命分子とたたかい、防諜闘争を強化しなければなりません。敵は、人民軍を内部から切り崩そうと策動しています。党は、常に革命的な警戒心を高めることを要求しています。南朝鮮から聞こえてくる砲声にのみ耳をそばだてるべきではなく、隊列内に敵対分子がもぐり込めないようにしなければなりません。

 規律が厳格で秩序が確立し、軍人の思想・意識が高ければ、スパイがもぐり込むことはできません。規律がなく、秩序が乱れ、自由主義的な行動が許されるところでは、スパイが活動してもあばきだすことができません。それゆえ、規律と秩序を確立して、警戒・警備勤務を厳しくおこなわなければなりません。スパイは顔にスパイのレッテルをはって歩くわけでもなく、スパイは誰だと大声でどなっても答えるものではありません。

 規律と秩序が整然としており、思想体系が確立していれば、あらゆる不正要素をいち早く摘発することができます。したがって、党の規律を強め、党の統一を強化し、警戒心を高めなければなりません。

 我々の革命基地を強化し、人民軍を強化することは、平和的祖国統一の決定的な裏付けであります。私は、人民軍の戦闘力をあらゆる面で強化するため諸君が全力をつくすものと確信します。
 出典:『金日成著作集』12巻


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