『金日成主席革命活動史』

第2節 社会主義の思想的基盤を強化し、社会主義的文化と
民族文化遺産をいっそう輝かせるための活動
 

 金日成主席は社会主義を固守し輝かせるため、社会主義の思想的基盤を強化する活動に第一義的な力を入れた。

 金日成主席は、次のように述べている。

 「我々はここ数年来、国際舞台における思いもよらぬ事態を見て、社会主義社会の生命は思想であり、革命と建設において人民大衆の思想・意識を高めること以上に重要な問題はないということをいっそう切実に感じるようになりました」

 1990年代に入り、各国における社会主義崩壊の過程は、社会主義は思想を捉えれば勝利し、思想を失えば滅ぶということ、社会主義の変質は思想の変質から始まり、思想的基盤が崩壊すれば社会主義の基盤はすべて瓦解し、最終的に社会主義をあとかたもなく壊滅させてしまうということを、重大な教訓として示している。まして、朝鮮に対する帝国主義反動派の反社会主義的策動が悪辣になっている状況下にあって、思想を生命として捉えていくかどうかは、社会主義をあくまで守るか否かという死活の問題となっていた。

 主席は、朝鮮労働党を強化することに第一義的な関心を払った。

 主席は、1990年10月10日、朝鮮労働党創立45周年祝賀宴でおこなった演説『党を強化し、その指導的役割を高めるのは革命勝利の基本的保障』で、党をいっそう強化し、その指導的役割を絶えず高めるための課題を示した。

 主席は、党を強化し、その指導的役割を高めるうえで、党細胞を強化しその戦闘力を高めることに特に大きな力を注いだ。

 主席は1992年9月、咸鏡北道党委員会拡大総会で、党を強化するため各級党委員会をしっかりとかため、その役割を高めることも重要であるが、より重要なのは細胞を強化することであると指摘した。

 そして1994年3月末、全党細胞書記大会の参加者たちに送った祝賀文『党細胞の5大任務』で、党細胞の任務について、第1に、党中央委員会の唯一的指導に忠実に従う、第2に、党生活の組織と指導を正しくおこなってすべての党員をチュチェ型の革命家に育てる、第3に、大衆との活動を強化して党と大衆との血縁的つながりを強める、第4に、思想、技術、文化の3大革命を強力に展開して社会主義建設を推し進める、第5に、祖国の安全と社会主義の獲得物をかたく守ることであると強調した。

 主席は、社会主義思想・理論を深化、発展させ、社会主義の思想的基盤を強めるための指導的指針を示した。

 主席は、1994年4月に発表した古典的著作『我が国の社会主義はチュチェの社会主義である』をはじめとする諸著作で、社会主義社会の本質的特性と優越性、その発生・発展の合法則性、社会主義の主体と社会主義社会の基本的政治方式、人民民主主義独裁の問題など、社会主義を守り成功裏に前進させるうえで提起される原則的問題を全面的に明らかにした。

 特に、朝鮮労働党の実践的経験と国際共産主義運動の重大な教訓からして、指導の継承問題は、社会主義偉業の最終的勝利のための決定的保証となるということを示し、領袖の後継者を中心とする党と革命隊伍の一心団結を強化するという思想を明らかにすることで、社会主義の思想・理論をさらに発展させ完璧なものにした。

 主席は、人民大衆を社会主義思想で武装させるための教育活動を力強く推し進めた。

 主席は、チュチェの革命偉業を切り開き、比類なく困難かつ厳しかった朝鮮革命を成功裏に前進させてきたことを次世代に伝えることを崇高な義務とみなし、回顧録『世紀とともに』を執筆した。回顧録に貫かれている基本思想は「以民為天」(人民を天のごとくみなす)である。

 主席は、チュチェ思想の原理教育を忠実性教育、党政策教育と緊密に結びつけ、深く掘り下げておこなうよう導いた。

 主席は、党員と勤労者がチュチェの革命的世界観を確立し、朝鮮式社会主義の優越性を深く体得するとともに、社会主義は守れば勝利であり、放棄すれば死滅であるという信念をかたく持し、いかなる風が吹き荒れようとも動揺することなく、社会主義を守り、輝かせるためにたたかうよう教育することに深い関心を払った。特に、全人民が金正日同志がいれば我々は必ず勝利するという信念を持し、金正日同志の構想と意図を体して社会主義偉業を達成するため献身的にたたかい、「我々の方式で生きよう!」というスローガンのもとに、自力更生のみが生きる道であるということを確信して、あらゆる難関と試練を自力で克服し、自信と楽観に満ちて社会主義建設を力強く前進させていくようにするための教育活動を強力に展開するようにした。

 主席は、党の革命伝統を固守し継承、発展させるための教育に格別の関心を払った。

 革命伝統を固守し輝せることは、社会主義の運命にかかわる重大な問題である。革命伝統を放棄すれば、革命の獲得物を守ることはできず、革命の代が断たれ、革命と建設を無にしてしまうということは国際共産主義運動が残した重大な教訓である。

 主席は1990年8月、新たに発掘して復原された間白山(カンペクサン)密営を訪れ、次いで翌年8月には両江(リャンガン)道を訪れ、両江道は、革命の聖山−白頭山があり、白頭山密常と普天堡(ポチョンボ)をはじめ、数多くの革命戦跡がある朝鮮革命の聖地であるとしたうえで、恵山(ヘサン)、三池淵(サムジヨン)、普天、新坡(シンパ−金正淑郡)、葡坪(ポピョン)地区など、道内の革命戦跡、革命史跡を立派に整備し、それを通じて革命伝統の教育を強化すべきであると述べた。そして、1993年7月末には朝鮮革命博物館を見て回り、博物館の展示で提起される問題を細やかに指摘しながら、参観の手配を綿密におこなって、革命伝統をしっかり体得させるための大衆教育活動を強化しなければならないと強調した。

 主席は、革命伝統を体得させる教育活動を革命戦跡と革命史跡、革命事績館と革命博物館に対する踏査と参観などさまざまな形式と方法でおこなうようにした。

 そして、階級的教育をさらに強化して、党員と勤労者、特に、新しい世代が労働者階級の階級意識と革命精神をしっかり体得し、常に階級的原則を守り、帝国主義とあらゆる階級の敵と容赦なくたたかうようにさせた。

 主席は、党員と勤労者を集団主義精神で武装させ、社会主義的道徳教育を強化して、社会全体に互いに助け導き合う美風が強く発揚されるようにし、全国を一心団結したむつまじい社会主義的大家庭にした。

 主席はまた、あらゆる非社会主義的傾向を克服し、帝国主義の思想・文化に浸透されないように強固な思想的防御陣を敷くようにした。

 1992年9月、咸鏡北道党委員会拡大総会でおこなった演説をはじめ多くの機会に、あらゆる非社会主義的傾向を克服し、外部から資本主義思想が浸透してこないよう思想的防御陣を敷かなければならないと述べた。

 そのために、党員と勤労者の間で、個人主義、利己主義に反対し、社会主義思想で武装させるための思想教育を強化して、資本主義思想をはじめ、あらゆる反動的な思想とブルジョア生活様式が我々の内部に浸透できないようにした。

 主席は、社会主義文化の建設をいっそう力強く推し進めるよう導いた。

 特に、教育事業の発展に深い関心を払った。

 主席は1992年、社会主義教育に関するテーゼ発表15周年に際し、教育部門において現実発展の要請に即して教育の内容と方法をさらに改善し、質を高めて次世代の教育と民族幹部養成事業で大きな前進を遂げるようにした。

 金策(キムチェク)工業総合大学を近代的な教育設備を備えた総合的な科学技術人材養成基地にした。

 主席は1989年5月、金策工業総合大学の新校舎を近代的なものにするための措置を講じて、建設集団と資材、莫大な資金を投じ、建設が終わった1993年1月には、みずから大学名「金策工業総合大学」の扁額まで揮毫した。そして同年5月には、建設された新校舎を見て回り、整えられた立派な教育条件に即して実験・実習設備を近代化し、教育内容と方法を絶えず改善して民族技術幹部の養成に新たな転換をもたらさなければならないと述べた。

 また、1994年7月には、金亨稷(キムヒョンジク)師範大学の事業に関心を払って「金亨稷師範大学」の扁額を揮毫し、大学が教員養成機関としての使命と任務を立派に果たすよう細やかな配慮をめぐらした。同時に、すべての大学を近代化し、民族幹部養成事業において大きな前進を遂げるよう深い関心を払った。

 こうして、教育部門では、国情が厳しいなかにあっても無料義務教育制が実施され、有能な科学技術人材が数多く養成された結果、1994年には170余万のインテリ大集団を擁し、全社会のインテリ化が強力に推進されるようになった。

 主席は、科学技術を最短期間で新たな高い段階へと発展させることに深い関心を払った。

 主席は科学技術の発展のために、80の高齢の身で人民経済各分野の技術書や各種の科学雑誌、経済科学通信、科学技術通報資料を精読したり、録音を聞いては、必要な資料を当該幹部に知らせて生産に導入させた。

 そして、科学者、技術者が高い革命的熱意と創造的積極性を発揮して、科学技術発展3か年計画を遂行するため奮闘するようにした。

 1990年10月下旬、竣工した朝鮮コンピュータセンターを訪ねてテープカットした主席は、展示場で作業状況も見、研究成果の説明も聞き、コンピュータ技術を発展させるための諸問題についても貴重な教えを与えた。

 主席は1992年8月、農業科学院鏡城(キョンソン)分院のある田圃に出向き、農業部門の科学者、技術者は我が国の気候風土に合った多収穫の新種を開発しなければならないと指摘した。

 また1993年には、国家が科学研究機関に対する統一的指導機能をより立派に遂行できるよう新たな措置を講じた。

 主席は、科学者、技術者の小さな科学的発見の芽も大事にし、それを実用へと導いた。

 1992年8月上旬、科学院のある研究所が窒素細菌肥料を数年間研究しているという事実を知った主席は、早く完成するよう対策を講じた。

 こうして、あれほど困難かつ複雑であった1990年代にも科学技術は急速な発展を遂げ、社会主義朝鮮の繁栄は科学技術によってしっかり保証されるようになった。

 主席は、社会主義的文学・芸術を発展させることにも深い関心を払った。

 1991年2月11日、万寿台(マンスデ)創作社を訪れた主席は、大型の朝鮮画作品をはじめ多くの作品を一つ一つ見て、国宝的価値のある傑作であると高く評価し、人民的な美術作品をより多く創作する課題を示した。また、1993年2月12日には、文学・芸術部門に長年にわたり従事し、多くの功労を立てた創作家、芸術家と席をともにして彼らに恩情を施し、党の文芸方針をより立派に貫徹するため惜しむことなく努力するよう励ました。

 主席は、保健医療、スポーツの発展にも大きな力を注いだ。

 主席は、国情が厳しいなかでも保健医療部門で無料治療制を引き続き実施して、党の予防医療の方針がしっかり貫徹されるようにした。そしてスポーツ部門では、体育とともに国防スポーツと大衆スポーツを強化し、国際競技で優勝して共和国旗を翻した選手を大いに称揚した。

 主席は、民族文化遺産を主体的立場に立って保存、管理し、正しく継承していくようにした。

 主席は、朝鮮民族の始祖を探し出し、檀君陵を民族の始祖の陵墓にふさわしく立派に改築するようはからった。

 日本帝国主義の檀君抹殺策動により、朝鮮民族の始祖である檀君は当時は神話の人物とされ、檀君朝鮮の歴史は科学的に解明されていなかった。歴史学者も檀君が神話の人物であるという既成観念から脱皮できずにいた。

 主席は1993年1月、愛国愛族の崇高な理念と千里眼の英知をもって、江東(カンドン)郡にある檀君陵を発掘する課題を示した。

 檀君陵の発掘事業が進められ、1993年2月には檀君陵から檀君の遺骨と遺物が出土した。最新機器で年代を測定した結果、発掘された遺骨は5011年前のものと判定され、檀君は神話の人物ではなく実在した人物であり、平壌を都に定めて初の古朝鮮国家を建てた始祖であることが科学的に解明された。

 主席は1993年9月、檀君が実在した人物であることが明らかになった以上、檀君陵を始祖の陵墓にふさわしく立派に修復しなければならないと指摘したうえで、現地に出向いて敷地を定め、檀君陵の建設に関して数十回にわたり指導した。そして1994年7月に、檀君陵の最終形成案を検討し、早急に改築して南朝鮮人民と海外同胞にも見せるべきであると述べた。

 主席が心血を注いで探し出した始祖陵は、金正日同志の精力的な指導によって後世に輝く国宝、大記念碑的建造物として立派に改装・拡張され、平壌は朝鮮民族の悠久の歴史と燦然たる文化の源となる聖地となった。

 主席は、高句麗(コグリョ)の建国始祖の墳墓である東明(トンミョン)王陵と高麗(コリョ)太祖の墳墓である王建(ワンゴン)王陵も立派に改築するよう導いた。

 主席は、ずいぶん前から平壌市力浦(リョクポ)区域にある東明王陵とその周辺の遺跡を全面的に発掘、考証し、それを立派に改築するよう導き、完成したときには、「東明王陵改建記念碑」と漢字の碑文まで揮毫した。1993年5月中旬には、新たに改築された東明王陵を訪ね、歴史主義の原則に沿って改築され、高句麗の時代感がよく反映されていると大きな満足の意を表した。

 1992年5月5日、開城市にある王建王陵を見て回った主席は、王建は朝鮮の初めての統一国家を建てた人であるから、墳墓は立派にすべきであると指摘するとともに、改築方向と方途を具体的に示し、完成したときには漢字で「高麗太祖王建王陵改建碑」と碑文を揮毫した。

 主席は、朝鮮民族の悠久の歴史を主体的立場に立って正しく位置づけ、体系化するよう導いた。

 1993年10月20日、檀君陵改築関係部門活動家協議会でおこなった演説をはじめ、多くの機会に、檀君と古朝鮮の歴史研究を深める課題を示し、これまで歪曲されたり間違っていた内容は主体的立場からすべて是正すべきであると述べた。

 こうして、朝鮮の原始社会史の全貌は解明され、古朝鮮中心の古代史と高句麗中心の中世史の体系が確立され、朝鮮民族の正統性にもとづく5000余年の悠久の民族史が位置づけられたのである。

 主席は、教育・文化遺産を、より立派に保存、管理し、輝かせるよう導いた。

 国の悠久の民族教育史をいっそう輝かせるため、1992年5月、開城市を訪ねた主席は、高麗博物館になった成均(ソンギュン)館を見て回り、成均館とは人材を育てるという意味であり、その意味にふさわしく大学にすべきであると指摘した。そして、成均館をいまのように高麗博物館にして、この建物が高麗時代の最高教育機関であったと説明するだけでは意味はなく、我が国にこの成均館を継承した大学があるということを実物をもって示すのがふさわしいとして、成均館を大学として生かすため高麗成均館と名づけ、軽工業総合大学にするよう指示した。

 主席はその後、高麗成均館を設けるための実務上の対策を講じ、「高麗成均館」と扁額まで揮毫した。そして創立年度は、成均館の前身である国子監が創立された992年に、創立日は9月1日に定めた。

 こうして、朝鮮に1000余年の長い歴史を有する大学として高麗成均館が設けられたのである。

 主席は、国の貴重な文化遺産として保存されていた膨大な量の『李朝実録』と『八万大蔵経』を朝鮮語に翻訳して出版し、朝鮮人民固有の民族的風習と生活様式もこんにちの時代の要請に即して継承、発展させていくようにした。

 主席は、民族文化遺産を継承、発展させるための事業でおさめられた成果を法律の面で固定化し、さらに輝かせるための措置も講じた。

 主席は、1993年12月9日から11日にかけておこなわれた最高人民会議第9期第6回会議で、民族文化遺産を正しく継承、発展させるための事業をさらに強化する問題を討議にかけ、1994年4月上旬に開かれた最高人民会議第9期第7回会議で「朝鮮民主主義人民共和国文化遺物保護法」を採択するようにして、民族文化遺産を保存、管理し、正しく継承、発展させるための法的保証をもたらした。

 1992年4月、主席は生誕80周年を迎えた。

 主席は4月13日、すべての人民軍将兵と人民の一致した念願により、朝鮮民主主義人民共和国大元帥の称号を受けた。4月15日、主席は共和国政府が催した宴会でおこなった演説『人民大衆の役割を高めるのは自主偉業の勝利の保障』で、人民の息子として人民に尽くしてきた80年の生涯を総括し、革命家にとって人民のために一生をささげること以上に誇りあり光栄なことはない、今後も人民の愛と信頼のなかで人民に最後まで奉仕するであろうと述べた。





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