『金日成主席革命活動史』

第8節 高麗民主連邦共和国創立方案を実現するために
 

 金日成主席は、高麗民主連邦共和国創立方案を実現するために心血をそそいだ。
主席が朝鮮労働党第6回大会で示した高麗民主連邦共和国創立方案は、北と南に現実的に相異なる思想と体制が存在する状況のもと、併呑したり併呑されたりすることなく、一方が他方を圧倒したり圧倒されたりしない共存の原則で2つの体制をそのまま存続させ、2つの自治政府を連合する方法で一つの統一国家を形成するというものである。

 主席はこの方案の実現のため、全民族の大団結をなし遂げることに第一義的な力を入れた。

 金日成主席は、次のように述べている。
 
 「高麗民主連邦共和国創立方案を一日も早く実現するためには、全民族の大団結を図らなければなりません」

 主席は、全民族を祖国統一の旗のもとにかたく結集させるための合理的な提案を打ち出して、民族団結への志向を高揚させた。

 主席は1980年11月、共和国の諸政党、社会団体が連席会議を開き、国内外の各界の代表で高麗民主連邦共和国創立準備委員会のような民族共同の協議機構を設置することを提議するようにした。そして1981年8月に、連邦国家創立の方途を共同で模索するため、北と南の政党、団体の代表と海外同胞代表からなる民族統一促進大会を招集することを提案する共和国の諸政党、社会団体の合同声明を発表するようにした。翌年2月には、北と南、海外の著名な政治家を含む100人合同会議の招集を祖国平和統一委員会の声明を通して提案するようにした。また1987年11月に、祖国統一民主主義戦線中央委員会・祖国平和統一委員会の合同会議で民族団結のための5つの方案を打ち出すようにし、1989年1月には民族の意思を込めて、統一の方途に対する民族的合意を見るための北南の指導的人士の政治協商会議の開催を提案するようにした。

 これらの提案は、北と南、海外の広範な人民の一致した支持と賛同を得、彼らの統一への熱望と民族団結の志向を大いに高揚させた。

 主席は、アメリカ帝国主義と南朝鮮支配層の分裂策動によって北と南の愛国勢力が直ちに団結を実現するのは難しい状況のもとで、まず、北と海外の勢力が連合してやがて大連合を実現する土台を築くようにし、それにもとづいて北と海外同胞間の対話を実現していくようにした。

 こうして、北と海外の同胞は数回にわたって一堂に会し、祖国統一問題について論議し、特に1989年7月に平壌で開かれた国内外同胞の祖国統一促進大会では、祖国統一問題を討議し、祖国解放45周年に当たる1990年8月15日に、板門店(パンムンジョム)で北と南、海外同胞の代表が参加する祖国統一のための汎民族大会を招集することにした。

 主席は、朝鮮半島の緊張を緩和し、祖国統一の平和的な環境をつくりだすための闘争を強力に展開するよう導いた。

 主席は、緊張を緩和し、軍事的対峙状態を解消し、祖国統一に有利な前提をもたらすため、1984年1月の中央人民委員会・最高人民会議常設会議合同会議で、朝米会談に朝鮮の緊張激化に責任がある南朝鮮当局も参加させ、3者会談を行うという新たな提案を示した。

 そして、この提案を実現するため忍耐強い努力をかたむけるとともに、平和統一の前提条件をととのえるため、さまざまの合理的な協商提案と措置を相次いで講じた。

 主席は1986年、北南高位級政治・軍事会談の開催を提案する一方、共和国政府が軍事当局者会談を開く提案と朝鮮半島を非核地帯、平和地帯にする提案などを示すようにし、15万余の軍人を平和的建設に振り向ける措置を取った。また、1987年に段階的な軍縮提案を示し、その実行措置として10万人の人民軍兵士を一方的に縮小した。そして1988年には、双方の当局者を含む諸政党、社会団体の代表と各界人士が参加する北南連席会議の招集を提案し、共和国政府が、北南国会連席会議、朝米議会会談などを提案して朝鮮半島の緊張を緩和し、恒久平和を保障するための実際的措置を講ずるようにした。

 主席は、熱い同胞愛、民族愛をもって民族の和解と団結の気運を高め、凍結された北南対話の道を開くためできる限りのことをした。

 1984年9月、南朝鮮で水害のため数十万の被災民が生じたとき、彼らに真心のこもった救援物資を送るよう同胞愛的な措置を講じた。

 この措置により、分断されてほぼ40年ぶりに始めて救援物資として5万石の米と10万トンのセメント、50万メートルの織物と多量の医薬品が南朝鮮の水害被災民に届けられた。

 これを契機に、民族の和解と団結、北南間の接触と対話の雰囲気が醸成されていった。

 主席は、こうした有利な情勢に即して、赤十字会談と経済会談、スポーツ会談など多岐にわたる対話を主動的に発起した。

 こうして、12前に中断された北南赤十字会談をはじめ、さまざまの対話の扉が再び開かれるようになった。祖国解放40周年を契機に、北南の赤十字芸術団と故郷訪問団の相互訪問が実現し、平壌とソウルを行き来しながら同胞同士の血脈をつなぎ、肉親の情を分かち合った。これは、民族の和解と団結の気運をいっそう高め、全民族的な規模で統一への熱望を一段と高揚させた。

 主席は、統一の意志を抱いて平壌を訪れる南朝鮮の人士と同胞を肉親の情をもって温かく迎え、統一の使節として押し立て、民族の和解と統一の熱気を高めていった。

 1989年3月に平壌を訪れた南朝鮮の「全国民族民主運動連合」(「全民連」)顧問の文益煥(ムンイクファン)牧師を統一の使節として温かく引見し、第13回世界青年学生祭典に参加するため平壌を訪れた「全国大学生代表者協議会」(「全大協」)代表に接見し、彼女の愛国的壮挙を高く評価し、民族の立派な娘として押し立てた。

 統一使節の平壌訪問を機に、全同胞の民族的和解と団結の気運はさらに高まり、全民族的規模で祖国統一への熱望がいっそう高揚した。

 南朝鮮人民と海外同胞は、主席が示した高麗民主連邦共和国創立方案を絶対的に支持し、祖国統一をめざす闘争を強力に展開した。

 南朝鮮人民は、自主、民主、統一をめざすたたかいを果敢に繰り広げた。

 1980年5月の光州(クァンジュ)人民蜂起を契機に、南朝鮮の青年学生と人民はアメリカ帝国主義に「侵略者」「略奪者」「殺人者」の烙印を押し、相次いで反米闘争に立ち上がった。

 南朝鮮の青年学生は、釜山と大邱、ソウルと光州で「米国文化院」に対する放火、爆破、占拠を断行した。彼らは、反米・自主化闘争を漸次発展させてアメリカ帝国主義侵略軍と核兵器の撤去、非核軍縮の実現をはじめ、高い要求を提起し、その実現をめざしてより広範な大衆闘争を強力に繰り広げた。

 南朝鮮人民の闘争は1987年6月に至って、ついに反米・反ファッショ人民抗争に発展した。6月人民抗争は、ソウルをはじめ、南朝鮮全域で延べ300余万の各階層の人民が参加した大衆闘争であり、アメリカ帝国主義と南朝鮮の親米支配層に致命的な打撃を与え、南朝鮮人民の反米・反ファッショ民主化闘争を盛り上げる転換の契機となった。

 南朝鮮の大学総学生会の連合組織である「全大協」は1988年、6.10、8.15南北学生会談と国土縦断大行進を実現するためのたたかいへと南朝鮮の青年学生を立ち上がらせた。

 南朝鮮民主勢力の連合戦線組織である「全民連」は、団体の総体的目標は、労働者、農民、進歩的な知識人が中心となって、民主化、自主化、民族の統一を志向してたたかうことであるとし、汎民族大会を開くための闘争を推進していった。

 南朝鮮人民の自主、民主、統一をめざすたたかいにおいて、統一革命党は、その指導的役割を高めていった。

 統一革命党中央委員会は、発展する現実の要請に即して南朝鮮の各政党、各派、各階層の広範な愛国的人民を結集して民族挙げての反米民族解放運動へと立ち上がらせるため、1985年7月に党の名称を「韓国民族民主戦線」(「韓民戦」)に変え、民族自主の偉業を達成するための闘争綱領である「韓国民族自主宣言」を発表した。

 「韓民戦」は、平壌と日本、キューバ、シリアなどに代表部を置き、南朝鮮人民と世界の進歩的人民との連帯を強めた。また、「救国の声」放送と新聞「救国戦線」などさまざまの宣伝手段を利用して、広範な人民大衆を不滅のチュチェ思想で武装させるための政治宣伝活動を力強く繰り広げ、民族の太陽である金日成主席と民族の導きの星である金正日同志を祖国統一の救いの星として高く仰ぎ、チュチェ思想の光のもと、南朝鮮人民のたたかいを新たな段階へと発展させていった。

 海外同胞と世界の平和愛好人民も朝鮮の統一をめざすたたかいを力強く繰り広げた。

 総聯と在日同胞をはじめ、海外の朝鮮同胞は、崇高な民族的使命感を抱いて外部勢力の侵略と戦争策動に反対し、朝鮮を非核地帯、平和地帯にし、内外の分裂主義者の策動を粉砕して高麗民主連邦共和国創立方案を実現するためねばり強くたたかった。

 世界の平和愛好人民は、1981年3月から1982年3月にかけて高麗民主連邦共和国創立方案と統一国家の10大施政方針を支持する国際的な署名運動を展開し、朝鮮の自主的平和統一を求める国際的連帯運動を広範な大衆運動に急速に発展させていった。

 高麗民主連邦共和国創立方案を実現するための闘争は、北と南、海外の同胞、そして、世界的規模で強力に展開され、祖国統一の早期実現に有利な局面が開かれるようになった。





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