『金日成主席革命活動史』

第2節 第6回党大会の決定貫徹をめざす総進軍、
「80年代の速度」の創造
 

 金日成主席は、朝鮮労働党第6回大会の決定を貫徹するための総進軍へと全党と全人民を奮い立たせた。

 第6回党大会が提示した膨大な課題を遂行するためには、社会主義建設の各部門で新たな革命的高揚を起こす必要があった。

 そのため、主席は1981年の新年の辞で、「朝鮮労働党第6回大会の決定貫徹をめざして総進軍しよう!」という戦闘的なスローガンを打ち出した。

 主席は、総進軍の最初の年である1981年度の経済建設における基本的方向を示し、それを実現するためのたたかいを指導した。

 金日成主席は、次のように述べている。

 「今年の社会主義経済建設の基本方向は、第2次7か年計画を繰り上げて完遂するたたかいを力強く繰り広げる一方、社会主義経済建設の10大展望目標実現の準備を十分にととのえることです」(『新年の辞』1981年1月1日)

 主席は1981年の一年間、現地指導の道を歩み続け、全党、全国、全人民を総進軍へと力強く奮い起こした。

 1981年5月下旬から6月上旬にかけて、17日間も咸鏡(ハムギョン)北道の羅津(ラジン)市、先鋒(ソンボン)郡、慶興(キョンフン)郡、穏城(オンソン)郡、会寧(ヘリョン)郡、清津(チョンジン)市を現地指導し、その道程は100余里に上った。

 そして、同年6月には、朝鮮労働党咸鏡北道委員会および清津市委員会合同拡大総会を指導し、自分は人民により豊かな生活をさせるために、骨が折れる仕事であっても現地指導を続けていると述べ、幹部は人民のために誠実に働くべきであると強調した。

 主席は現地指導の過程で、第2次7か年計画を繰り上げて完遂し、10大展望目標達成のための準備をととのえるうえで各道と人民経済の各部門に提起される課題を具体的に示した。

 主席は、社会主義経済に対する指導と管理を改善し、生産と建設において新たな高揚を起こすよう導いた。

 1980年12月朝鮮労働党中央委員会第6期第2回総会での結語『社会主義経済建設に対する指導を改善、強化するために』で、経済幹部が経済組織活動を綿密におこなうことを重要な課題として提起し、技術指導、設備管理、資材供給、労働の組織を合理的におこない、連携生産と輸送を手ぎわよく手配するよう強調した。また、1981年4月の朝鮮労働党中央委員会第6期第3回総会での結語『テアンの事業体系を立派に貫徹して工場の管理運営を改善しよう』で、テアン(大安)の事業体系を貫徹するうえで提起される課題を示し、同年8月下旬の朝鮮労働党中央委員会政治局会議では、発展する現実の要請に即して工業指導体系を改善、完備し、経済指導を現地に近づけるための実際的な措置として道経済指導委員会を設けるようにした。

 主席は、第6回党大会の決定を実行するため、大自然改造という壮大な構想を示した。

 1981年10月上旬におこなわれた朝鮮労働党中央委員会第6期第4回総会で、30万ヘクタールの海面干拓と20万ヘクタールの新しい土地の開墾、西海(ソヘ)閘門と泰川(テチョン)発電所の建設を大自然改造の4大建設課題として提示し、それを実行するために、全党、全国、全人民がこぞって立ち上がるよう呼びかけた。

 主席は、第6回党大会が示した社会主義経済建設の10大展望目標を達成するためのたたかいを陣頭指揮した。

 10大展望目標のうち穀物生産目標の達成を第一の主要課題に位置づけ、その突破口を開くため力を集中するようにした。

 主席は、営農工程の時期ごとに深い関心をもって農業を指導した。こうして同年、農業部門では、不順な自然・気候条件のなかでもチュチェ農法の要求どおり農業に取り組んで大豊作をおさめた。

 主席は、水産物生産目標を達成するためのたたかいを精力的に指導した。

 咸鏡南道内の水産事業所を現地指導しながら実態をつぶさに把握し、それにもとづいて1980年12月中旬、現地で朝鮮労働党中央委員会政治局拡大会議を開いて水産業を発展させるための方向と方法を示し、1981年3月中旬には朝鮮労働党中央委員会政治局・中央人民委員会・政務院合同会議を開き、水産業をさらに発展させる問題をとりあげて討議するようにした。そして、同年5月中旬の水産・養魚部門の幹部協議会や、6月初めの東海地区水産部門幹部協議会などを指導し、冬季の漁労準備を周到におこなうよう指示した。

 主席は、10大展望目標で示された織物生産目標を達成するため、軽工業部門で革新を起こすよう指導した。

 1982年1月初め、朝鮮労働党中央委員会政治局会議でその年を軽工業の年と定め、全国に軽工業発展の炎を燃え上がらせた。そして、同年2月9日に化学工業部門の幹部協議会を開き、化学工業を発展させてビナロンとモビロンをはじめ、化学繊維と合成樹脂、合成ゴムなど軽工業の原料と資材の生産で革命を起こすための対策を講じた。

 社会主義建設の各部門で一大高揚が起こっていた時期、金日成主席は誕生70周年を迎えた。

 金正日同志は、主席の革命的生涯と不滅の革命業績を末永く伝えるため、チュチェ思想塔と凱旋門、金日成競技場などの大記念碑的建造物を立派に建設するよう指導した。

 主席は、1982年4月の最高人民会議第7期第1回会議で朝鮮民主主義人民共和国主席に再選された。

 そして4月14日、朝鮮労働党中央委員会・朝鮮民主主義人民共和国最高人民会議合同会議で『全社会のチュチェ思想化をめざす人民政権の任務』と題する施政演説をおこなった。

 主席は施政演説で、共産主義は人民政権に3大革命をプラスしたものであるという有名な命題を提示し、人民政権を強化し、その機能と役割を高め、思想、技術、文化の3大革命を強力に推進することを社会主義建設の総路線として規定し、その貫徹において提起される原則的な問題を明らかにした。

 主席は4月15日、誕生70周年にさいして朝鮮労働党中央委員会と朝鮮民主主義人民共和国政府が催した宴会で『革命家の一生は、たたかいに始まり、たたかいに終わらなくてはならない』という意味深い演説をおこない、革命家の人生行路を示した。

 主席の誕生70周年を祝って多彩な行事がおこなわれた。万寿台芸術劇場では主席を迎えて、我が国の芸術家と世界各国の芸術家の合同公演がおこなわれ、主席に対する頌歌が高らかに響き渡った。こうして、幕を上げた各国の芸術家によるこの公演は、その後に「4月の春親善芸術祭」として恒例の催しとなった。

 主席の誕生70周年は、朝鮮労働党と領袖のまわりに一心団結して第6回党大会の決定を貫徹していく朝鮮人民の総進軍を促す契機となった。

 主席は高揚した大衆の革命的熱意と創造的積極性をさらに強く発揚させ、「80年代の速度」を創造する運動を導いた。

 金日成主席は、次のように述べている。

 「…我々に提起されている社会主義経済建設の膨大な課題を立派に遂行するためには、『80年代の速度』を創造する運動を力強く展開しなければなりません」

 主席は「80年代の速度」を創造する運動を強力に推し進めるため、1982年10月に全国青年熱誠者会議を、11月にはチョンリマ運動先駆者大会を開催させた。

 主席は「80年代の速度」を創造する運動を指導しながら、非鉄金属の生産目標を達成することに第一義的な関心を払った。

 非鉄金属の生産目標を達成せずには、他の展望目標を達成するための財源を確保し、経済全般の発展を力強く推し進め、人民の生活を速やかに向上させることができなかった。

 主席は1982年6月下旬、鉱業部門幹部協議会を開き、端川(タンチョン)地区で非鉄金属鉱物の生産を増やすための対策を講じた。主席は、非鉄金属の生産目標を達成するための突破口を剣徳(コムドク)鉱業総合企業所の第3選鉱場の建設に見いだし、突撃戦を展開して選鉱場の建設を翌年の上半期に完了するという大胆な作戦を示した。

 そして、第3選鉱場の建設において重要な問題の一つである大型コーンクラッシャーをはじめ、選鉱設備の製作問題に深い関心を向け、1982年8月に龍城機械連合企業所を訪ね、労働者たちに第3選鉱場に設置する大型コーンクラッシャーを製作する課題を与えた。

 また、同年8月末に咸興(ハムフン)で朝鮮労働党中央委員会第6期第6回総会を開き、剣徳と端川地区の労働者を励ますとともに、咸鏡南道内の党・行政・経済幹部に課された任務の重要性をはっきりと認識させ、彼らを奮起させた。

 主席は会議で、鋼材とセメントをはじめ、設備と資材を適時に供給して「80年代の速度」を創造する運動を強力に展開するならば、剣徳鉱業総合企業所の拡張工事は早期に完了することができるとし、その具体的な対策を講じた。

 こうして、選鉱場の建設は本格化し、1983年6月には全般的な機械設備の試運転がおこなわれた。建設者たちは一年足らずの間に海抜1200メートルの山地に第3選鉱場を立派に建設し、新たな社会主義建設速度、「80年代の速度」創造先駆者としての模範を示した。

 8月下旬、竣工間近の剣徳鉱業総合企業所第3選鉱場を訪れた主席は、一年間で建設したのは奇跡であり、これは「80年代の速度」創造運動の偉大な建造物であり、人民経済の各部門が第3選鉱場建設の速度で前進すれば、社会主義経済建設の10大展望目標を繰り上げて達成することができると確信したと強調した。

 剣徳鉱業総合企業所第3選鉱場は.共和国創建35周年を迎えて完成し、9月に操業を開始した。

 第3選鉱場が建設されたことで、非鉄金属の生産目標を達成できるという確固たる展望が開かれ、10大展望目標の他の目標を達成するためのたたかいも強力に推し進められ、「80年代の速度」創造運動の炎は全国各地により激しく燃え上がるようになった。

 主席は、西海閘門の建設を精力的に指導した。

 まず、閘門建設の位置を正しく定めることに第一義的な関心を払った。

 主席は水利学者と相談し、いろいろ思索をめぐらしたうえで、1981年5月下旬にみずから船で現地に出向き、泥の堆積が少ないクッサルプリ−枇島(ピド)−広梁(クァンリャン)湾の区間に西海閘門を建設することを決めた。

 そして、船から降りると閘門建設関連者との協議会を開き、西海閘門建設の着工を告げるとともに、建設がいかに大規模かつ困難であっても、人民軍の軍人が取り組むならゆうになし遂げることができる、と厚い信頼を寄せた。

 多くの外国人は、朝鮮が8キロの外海をせき止めて閘門を建設するという話を聞き、果たしてそんな小さな国が、それも専門家でもない銃を扱う軍人がなし遂げることができるのだろうかと耳を疑った。外国のある海洋建築家は、朝鮮がこれほど困難な仮締切り工事を完成すれば、世界各地の空に花火を打ち上げる、とまで言い切った。

 1984年4月中旬、建設現場を訪れた主席は、朝鮮式の土堰堤工法、仮締切り工法、止水工法といった新たな工法を示し、水深数十メートルの外海に大規模な閘門を建設する複雑かつ膨大な工事を急ピッチで進められるようにした。

 主席は、祖国から遠く離れた東欧の社会主義諸国を訪問していたときですら西海閘門の建設が気にかかり、雨期に入る前に閘室と越流ダムの基礎工事を終えるよう指示した。そして1985年9月、金正日同志とともに建設現場を訪れ、力を集中して閘室と越流ダムの工事を終わらせ、堤防の最終締切り工事を完成させるための科学的な方途を示した。

 軍人たちは、主席の教えどおり工事を進め、わずか5年で8キロの外海をせき止めて西海閘門を完成させた。そうして、世界を驚嘆させる「80年代の速度」、新たな「西海閘門建設速度」を創造するという英雄的偉勲を立てたのである。

 主席は1983年8月の経済部門の幹部協議会で、翌年度に社会主義経済建設で力を集中すべき地区として順川(スンチョン)地区、清津地区、咸興地区、安州(アンジュ)地区、南浦(ナンポ)地区の5カ所を指定した。そして、11月末から12月初にかけておこなわれた朝鮮労働党中央委員会第6期第8回総会で、5地区における建設を翌年度の人民経済計画の中心的課題とし、その遂行のための具体的な対策を提示した。

 主席の指導により、1984年に第2次7か年計画は立派に遂行され、新たな展望目標を達成できる土台が築かれた。この間、工業総生産高は2.2倍に、そのうち生産手段の生産は2.2倍、消費財の生産は2.1倍に高まり、国民所得は1.8倍に増大した。

 新たな展望計画の高い目標を達成するには、人民経済の均衡をより円滑に保ち、工業の技術装備水準をいっそう高め、展望計画期間中に高まった鉄鋼材と燃料、動力の需要を満たさなければならなかった。

 そのため主席は、1985年と1986年を調整期と定め、新たな展望計画の高い目標を実現するための準備をととのえるようにした。

 主席は、楽元(ラクウォン)の労働者を、酸素分離機工場を建設し6000立方メートルの酸素分離機を製作するたたかいへと奮い立たせた。

 酸素分離機生産の必要性と、機械工業と科学技術発展の熟成した要求を深く洞察した主席は、1981年10月下旬、平安(ピョンアン)北道の採掘設備生産部門の活動家協議会で楽元機械工場に酸素分離機職場を設置する課題を示し、党中央委員会第6期第8回総会では、楽元の労働者が大型酸素分離機の生産課題を必ず遂行するに違いない、という大いなる信頼と期待を表明した。

 楽元の労働者と技術者は、主席の信頼と期待にこたえて大型酸素分離機の製作にこぞって立ち上がり、ついに朝鮮で初めての酸素分離機第1号を完成させた。しかも、大型酸素分離機をロット生産できる工場も立派に建設した。

 1985年5月上旬、楽元機械連合企業所の楽元酸素分離機工場を訪ねた主席は、労働者たちの労働の成果を高く評価するとともに、深い感謝の意を表した。

 主席は調整期の期間、機械工業を速やかに発展させることに大きな力を注ぎ、工作機械の子生み運動を強力に展開するよう導いた。

 主席は1985年6月下旬、強力な採掘設備生産基地の一つである5.10工場を現地指導した際、国に1、2台しかない貴重な特殊工作機械をはじめ、機械設備の利用率が高くないことを知った。

 これを機に全国を沸き立たせるような新たな大衆運動を繰り広げようと構想を練った主席は、6月25日、政務院常務会議、咸鏡北道・清津市党委員会執行委員会、咸鏡北道・清津市行政および経済指導委員会合同会議を開き、工作機械の子生み運動を全国的規模で展開する方針を示し、この運動を「1985年6月工作機械の子生み運動」と命名した。そして、その指導グループも組織した。

 その後、工作機械の子生み運動を大衆運動として繰り広げるべく党中央委員会政治局の決定書も下達した。

 こうして、全国至るところで工作機械の子生み運動は活発に展開されるようになり、その過程で龍城機械連合企業所で初めて1万トンプレスが製作された。

 「1985年6月工作機械の子生み運動」の炎のなか、「80年代の速度」の要請に即して奇跡が起こり、調整期の経済課題が立派に遂行されたことで、社会主義経済建設でより高い目標を達成するための物質的・技術的基盤が強固にきずかれたのである。





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