『金日成主席革命活動史』

第10節 祖国統一の基本綱領を提示。
祖国の自主的平和統一のたたかい


 1970年代初めの内外の情勢は、朝鮮人民の祖国統一偉業に有利に変化した。

 金日成主席の指導のもとに当時朝鮮では、主体的な革命勢力が日ましに強化され、朝鮮人民の革命闘争への国際的支持も非常に高まった。

 共和国北半部の人民は、思想、技術、文化の3大革命をおし進めて全社会の政治的・思想的統一を強化し、経済建設と国防建設でも新たな飛躍を達成して、祖国統一の保障である革命基地を政治的、経済的、軍事的に鉄壁にかためた。

 南朝鮮人民は、共和国北半部の社会主義建設の成果に励まされ、アメリカ帝国主義とかいらい一味に反対し、祖国の自主的平和統一のために力強くたたかった。

 朝鮮労働党の自主的な対外政策によって、共和国の国際的権威が高まり、朝鮮革命と祖国統一にたいする支持者、共鳴者が急増した。

 アメリカ帝国主義者と南朝鮮かいらい一味は、ますます窮地に追いつめられた。

 アメリカ帝国主義の侵略と戦争政策は、世界の革命的人民の強力な抵抗にあって全面的に破綻し、国内でも反戦・反政府運動の高まりと破局的な経済危機が重なって、ぬきさしならない窮地に陥った。アメリカ帝国主義は、そこからの出口を求めて、見せかけの「平和戦略」をもちだし、「冷戦」から「平和」へ、「対決」から「対話」と「共存」への政策切り替えを騒々しく唱えはじめ、1971年7月にはアメリカ大統領の中華人民共和国訪問計画が発表されるまでにいたった。

 人民の強力な反ファッショ民主抗争によって、その支配体制が危機にさらされ、国際的にも孤立を深めていた南朝鮮のかいらい一味は、アメリカに見捨てられた台湾かいらいのみじめな運命にみずからの明日の姿を見出し、極度の不安にかられていた。かれらは、内外情勢の変化に逆行するか、でなければ「平和」と「協商」の時流に便乗して「政策切り替え」に踏みきるかの二者択一の岐路に立たされた。

 急変する内外の情勢を見きわめた主席は、祖国の自主的平和統一の道を主動的に切り開くため、1971年8月6日、『アメリカ帝国主義に反対するアジアの革命的人民の共同闘争は必ず勝利するであろう』と題する歴史的な演説で、北と南の新たな幅広い協商方針を提起し、南朝鮮の民主共和党を含むすべての政党、大衆団体および個別的な人士といつでも接触する用意があることを明らかにした。

 この協商方針は、民族大団結の雰囲気をつくりだし、祖国統一の歴史的偉業を一日も早く達成するための画期的な措置であって、全朝鮮人民はもとより世界の革命的人民の積極的な支持を得た。

 それまで、北と南のどのような接触も拒んでいたかいらい一味は、この提案を受け入れることを要求する南朝鮮人民の圧力と世界各国人民の世論におされて、しぶしぶながら対話の場に臨まざるをえなかった。

 こうして、南北赤十字団体予備会談が開かれ、これとは別途に北と南の高位クラス会談が進められて、1972年7月4日には主席が示した祖国統一の3大原則を基本的内容とする歴史的な南北共同声明が発表された。

 金日成主席は、次のように述べている。

 「我が党のうちだした祖国統一の3大原則は、第1に、国の統一を外部勢力に依存したり外部勢力の干渉を受けることなく自主的に実現しようということであり、第2に、国の統一を武力行使によらず平和的に実現しようということであり、第3に、思想と理念、制度の相違を越えて民族の大団結をはかろうということです」(参照:『祖国統一の3大原則について』1972年5月3日)

 自主、平和統一、民族大団結の祖国統一の3大原則は、全朝鮮人民の意思と念願を反映して、北と南が共同で確認し、これを履行することを内外に向かって厳かに宣言した唯一の民族共同の統一綱領であった。

 祖国統一の3大原則にもとづく南北共同声明の発表は、主席の協商方針の輝かしい勝利であった。これを契機に全民族的に統一気運が急激に高揚し、祖国統一の有利な局面が開かれた。

 主席は共同声明の発表、北と南の対話の開始とあいまって祖国統一の3大原則を貫徹する活動を積極的に展開した。そして、1972年7月の党中央委員会第5期第4回総会では、北と南の接触と対話で堅持すべき原則的問題を明らかにし、同時にアメリカ帝国主義とかいらい一味の二面戦術を警戒し、予想される敵の挑発に主動的に対処する万全の態勢をととのえるべきであると強調した。また、南北共同声明によって開かれた南北調節委員会の共和国側代表を通じて、南北の緊張緩和と軍事的対峙状態の解消、北と南の各政党、大衆団体、各階層人士の政治協商会議の招集、多面的な合作と交流の実現などの問題をはじめ、祖国統一の3大原則を履行するための合理的で現実的な方案を再三にわたって提起した。

 しかし、アメリカ帝国主義者と南朝鮮かいらい一味は、朝鮮分断固定化の企図を捨てず悪らつに策動した。かれらは、南北共同声明が発表された当初から「頼りにならない紙切れ」だなどと言って、北と南の会談の幅を狭め、遅延戦術によって人民を欺き、会談を破綻させようとはかった。これとならんで、南朝鮮人民の統一気運をおさえるためファッショ的な「維新体制」をつくりあげ、祖国統一と民主的権利と自由を求める南朝鮮の愛国的人民や民主人士を弾圧、虐殺する蛮行をはたらいた。

 主席はこれに対処して、共和国側が対話において主導権を握り、かれらの悪らつな策動を厳しく追及するようにした。こうして、罪状が白日のもとに暴露されたかいらい一味は、朝鮮人民と世界の革命的人民から完全に孤立した。

 あわてたかいらい朴正煕一味は、1973年6月、ついに仮面をかなぐり捨てて南北の「国連同時加盟」を骨子とする「特別声明」を発表し、祖国分断の永久化を「政策」として公然と宣言した。

 アメリカ帝国主義とかいらい一味の「2つの朝鮮」策動によって、せっかくの統一対話は決裂状態に入り、数千年来、単一民族として生きてきた朝鮮民族は永久に2つに分裂される危険に直面した。

 主席は、民族永久分裂の危険を打開するため1973年6月23日、『民族の分裂を防ぎ祖国を統一しよう』と題する歴史的な演説で、祖国統一の5大方針を示した。

 金日成主席は、次のように述べている。

 「我々が提起した祖国統一の5大方針は、北と南の軍事的対峙状態の解消と緊張の緩和、北と南の多面的な合作と交流の実現、北と南の各階層人民と諸政党、大衆団体の代表からなる大民族会議の招集、高麗(コリョ)連邦共和国の単一国号による南北連邦制の実施、単一の高麗連邦共和国の国号による国連加盟をその内容としています」(『祖国統一の5大方針について』1973年6月25日)

 祖国統一の5大方針は、祖国統一の3大原則を全面的に具現した公明正大で合理的な方針であり、アメリカ帝国主義と南朝鮮かいらい一味の「2つの朝鮮」策動を粉砕し、朝鮮人民の団結した力で国を統一する正しい道を示した統一綱領であった。

 主席は、この5大方針の貫徹のために大きな力を傾けた。

 主席は、なによりも民族大団結の原則に立って、祖国と民族を愛する内外の同胞をすべて統一偉業に決起させるため全力をつくした。

 1973年7月、祖国統一民主主義戦線中央委員会第59回拡大会議では、祖国統一5大方針の貫徹と大民族会議の早期開催のために、南朝鮮各階層人民と各政党、大衆団体および海外同胞団体と海外同胞に送るアピールが採択され、同年11月には、朝鮮労働党と朝鮮民主党、天道教青友党の共同の名義で、北と南の各階層人民と各政党、大衆団体の代表からなる大民族会議の招集を提案し、南朝鮮の各政党に書簡が送られた。また1975年10月、朝鮮労働党創立30周年記念大会でおこなった歴史的な報告で、主席は北と南の全人民に思想と理念、制度と信教の相違を越えて祖国統一の旗のもとに全国的な民族統一戦線を形成するために決起するよう呼びかけた。

 こうした措置によって、北と南の全人民はもとより、在日同胞をはじめ、海外同胞も祖国統一のたたかいに決起し、アメリカ帝国主義とかいらい朴正煕一味は日を追って孤立を深めた。

 主席はまた、アメリカ帝国主義者とかいらい一味の「国連同時加盟」策動を粉砕し、祖国統一に有利な条件をもたらすために努力を傾けた。

 主席は、「国連同時加盟」論の不当な目的を全面的に暴露し、朝鮮民族は帝国主義の植民地支配から闘争によって解放をかちとった民族であり、全朝鮮人民が一致して民族の分裂に反対している状況にあって、「国連同時加盟」は民族の利益と意思に反する反革命行為であると指摘した。一方、主席は1974年3月、最高人民会議第5期第3回会議を招集し、1953年の朝鮮停戦協定に代わって、その実際の当事者であり朝鮮の平和を保障する実権者である朝鮮民主主義人民共和国とアメリカのあいだで平和協定を締結することについての問題を審議にかけ、その旨を提案する書簡をアメリカ国会に送った。

 主席の積極的な活動によって「国連同時加盟」策動の本質が全世界に暴露され、分裂主義者の陰謀は破綻し、朝鮮の緊張を激化させ分裂の永久化を企んだアメリカ帝国主義侵略者は大きな打撃を受けた。

 主席は祖国の統一に有利な国際的環境をつくりだすため、対外活動を積極的に展開し、世界革命勢力との団結の強化に力を入れる一方、朝鮮労働党の祖国統一方針を海外に広く紹介し、内外の分裂主義者による「2つの朝鮮」策動を暴露した。

 その結果、朝鮮労働党と共和国政府の国際的地位はいちだんと高まり、朝鮮革命への国際的連帯が強化された。1973年9月と1976年8月の第4回および第5回非同盟諸国首脳会議は、朝鮮労働党の祖国統一方針に全幅の支持を寄せる決議を採択した。また、世界の多数の国と地域に「朝鮮人民との連帯委員会」「朝鮮統一支持委員会」が組織され、1977年には、国際組織として「朝鮮の自主的平和統一のための国際連絡委員会」が創設され、朝鮮人民の祖国統一偉業を支持する世界会議が相ついで開かれた。朝鮮人民の統一偉業を支持する国際的署名運動も活発に進められ、10億8千万の署名を集めた。

 こうした動きは、国連にも影響を及ぼした。1973年の第28回国連総会は、主席の提起した祖国統一3大原則を支持して、アメリカ帝国主義の侵略と内政干渉の道具である「国連朝鮮統一復興委員団」を即時解散する決議を可決し、1975年の第30回国連総会は、「国連軍司令部」を解散し、南朝鮮を占領しているすべての外国軍隊を撤退させ、停戦協定を平和協定にきりかえることを要求する朝鮮問題にかんする朝鮮民主主義人民共和国側の決議案を可決した。これは、アメリカが国連を独占して朝鮮侵略の道具に利用してきた30年の歴史をくつがえした重大な出来事であった。

 アメリカ帝国主義のテコ入れで、南朝鮮かいらい一味が共和国北半部にたいする新たな戦争の挑発に熱をあげる一方、北と南の対話を破綻させ、「クロス承認」を主張するなど「2つの朝鮮」策動に狂奔していたときにも、主席は、祖国統一の新しい局面を開くため、誠意ある努力を傾けた。共和国創建30周年記念慶祝大会の報告で、主席は、我々はアメリカとの対話の扉も開け放っており、南朝鮮の当局者、諸政党との対話の扉も開け放っていると述べ、より幅広い対話と合作を実現するという方針を示した。

 主席の方針に従って1979年1月、祖国統一民主主義戦線中央委員会は声明を発表し、祖国の自主的平和統一を促進するための4項目の提案をおこなった。そして、それを実現するため予備的協議機構として従来の調節委員会に代わる民族統一準備委員会の構成を提起した。

 しかし南朝鮮かいらい一味は、民族統一準備委員会を発足させようという我が方の公明正大な協商方案に終始反対し、せっかく再開された北と南の対話を再び決裂させた。

 これは、南朝鮮かいらい一味をますます窮地に追い込んだ。

 かいらい一味は、世界の人民からごうごうたる非難を浴びて国際孤児となり、人民からも孤立して政治、経済、外交上最大の危機にさらされた。

 アメリカ帝国主義とかいらい一味は、危機からの出口を侵略と戦争政策に求め、北と南の関係を極度に緊張させるとともに、南朝鮮の革命勢力にたいする反革命的攻撃をさらに強めた。

 南朝鮮の革命家と人民は、これに対処して、反ファッショ民主化闘争を強くくりひろげ、「朴政権を打倒せよ」「中央情報部を解散せよ」「米軍は即時撤退せよ」「外勢をしりぞけて自主統一を達成しよう」などのスローガンをかかげて勇敢にたたかった。これには、労働者、農民、青年学生を中心に、一部の右翼人士も加わった。

 1979年10月から釜山、馬山、ソウル、光州など南朝鮮各地で激しく展開された人民の闘争は、売国奴、「維新」独裁の元凶を破滅に追い込み、その残党に厳しい警告を与えた。

 主席は、売国奴朴正煕の被殺を契機に、南朝鮮で自主的平和統一の気運が急激に高まっていた状況のもとで、合作、団結、統一によって民族の活路を開くという新たな方案を示した。これにもとづいて1980年1月、共和国政府は、南朝鮮と海外在住の責任ある政治家と各界人士に書簡を送り、多角的な接触を提案した。これによって、北と南の多角的な接触の一環として、双方総理の接触を準備するための実務者の接触が成立した。

 しかし、売国奴朴正煕が除かれたのち、陰謀的方法で権力を奪取した軍事ファシスト全斗煥一味は、社会の民主化と祖国の統一を妨害するため、南朝鮮全域に「非常戒厳令」をしき、政治活動をいっさい禁止し、歴代の独裁者たちをしのぐ暴圧政策を実施した。

 憤激した南朝鮮人民は、1980年に入って反ファッショ民主化闘争をいっそうもりあげた。1980年3月、青年学生は、南朝鮮全域にわたって大衆的な反米・反かいらい闘争を展開し、4月には江原道旌善(チョンソン)地区炭鉱労働者が暴動を起こした。特に5月17日、「維新」残党が「非常戒厳令」を発布し、ファッショ的弾圧を強行するや、光州では大衆的な人民蜂起が勃発した。この蜂起には、30余万の青年学生と市民が参加し、闘争は全羅(チョンラ)南道17市郡に広がった。光州市を完全に掌握して約10日間、武器を手に勇敢にたたかった光州人民の英雄的な蜂起は、南朝鮮のファッショ支配基盤を大きくゆるがし、南朝鮮人民の不屈の英雄的気概を示威した。

 これに、ろうばいしたアメリカ帝国主義者と南朝鮮軍事ファシスト一味は、重武装したかいらい軍部隊をさし向けて、光州の愛国的人民と青年学生数千名を虐殺し、著名な民主人士や政治活動家を残らず逮捕し、各種罪名を着せて処刑した。

 しかし、アメリカ帝国主義侵略者とファシスト全斗煥一味にたいする憤りと敵がい心に燃える南朝鮮の革命家と人民は、これにひるむことなく、社会の民主化の実現をうたった統一革命党の呼びかけにこたえて反ファッショ民主化闘争をねばりづよく展開した。

 主席は当面した情勢に対処して、南朝鮮革命と祖国統一を早める新たな闘争方針を提起し、その実現に向けて大きな力を傾けた。





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