『金日成主席革命活動史』

第3節 経済建設と国防建設の並進


 金日成主席の正しい指導によって、共和国北半部では、7か年計画の最初の2年間に経済がめざましい伸展を遂げ、社会主義工業化と人民生活の画期的向上のための基盤がきずかれ、第4回党大会の諸課題を完遂する展望が開かれた。

 しかし、アメリカ帝国主義者の侵略策動によって内外の情勢は急転した。かれらは1962年10月、キューバ共和国に反対してカリブ危機をつくり出し、ついでベトナム侵略戦争を大々的に拡大して国際緊張をあおった。また南朝鮮では、新戦争の準備に拍車をかけ、共和国北半部にたいする侵略策動を強行する一方、日本軍国主義を再武装させて南朝鮮の軍事ファシスト一味と結託させようとしていた。

 アメリカ帝国主義者の戦争策動に備えて国防力を強化することが、焦眉の急務となった。

 主席は1962年12月、党中央委員会第4期第5回総会を開き、経済建設と国防建設を並進させる戦略的方針を示した。

 金日成主席は、次のように述べている。

 「我が党は、(略)すでに1962年に開かれた党中央委員会第4期第5回総会で経済建設と国防建設を並進させる方針をうちだし、経済建設をくみかえるとともに、国防力をいちだんと強化する一連の重要な対策を立てました」(『現情勢と我が党の任務』1966年10月5日)

 経済建設と国防建設の並進は、両者のいずれをも弱めず、ほとんど同じ比重で発展させることを意味する。

 権力を握った労働者階級の党が経済建設と国防建設をいかに結びつけるかは、社会主義・共産主義建設の運命にかかわる根本問題の一つである。帝国主義が残っている限り、戦争の危険は存在する。したがって国防力を強化しないでは、社会主義・共産主義建設はもとより、革命の獲得物さえ帝国主義の侵略から守ることができなくなる。しかし、国防建設にのみ偏り、経済建設をおろそかにするならば、国力の強化も人民生活の向上も望めず、帝国主義が滅亡しない限り社会主義・共産主義の建設は不可能となる。労働者階級の党は、政権の獲得後は各時期の情勢に即応して経済建設と国防建設を正しく組み合わせ、ともに強くおし進めるべきである。

 帝国主義者の侵略と戦争策動が激化していた朝鮮の場合、これは、特に重要な問題であった。

 主席は、世界反動の元凶であるアメリカ帝国主義と対峙して国づくりに着手したときから経済建設と国防建設を正しく組み合わせてきたが、1962年末、重大化する情勢にてらして両者を並進させる措置をとった。この経済建設と国防建設の並進路線は、帝国主義の侵略と戦争策動が激化するなかでも、自力で強大な経済力と国防力をきずき、国の自主的発展と社会主義・共産主義建設を促す正しい路線であり、主体的な革命力量をととのえて祖国の統一を主動的に迎える革命的な路線である。

 主席は「片手に武器を 片手に鎌とバンマーを!」の戦闘的スローガンをかかげて経済建設と国防建設の並進路線をおし進めた。

 主席はまず全党、全人民の力を国防力の強化にふり向けた。

 ここでは、なによりも人民軍軍人と人民を政治的、思想的に鍛える政治・思想教育に力が入れられた。主席は1963年2月、人民軍部隊の政治担当副連隊長以上の幹部および現地の党、政権機関の活動家におこなった演説『我が人民軍は、労働者階級の軍隊、革命の軍隊である。階級的政治教育をひきつづき強化しなければならない』で、軍隊と人民を政治的、思想的に鍛える課題を示し、その実現に力を傾けた。そして、人民軍と全人民を不滅のチュチェ思想で武装し、高度の階級意識と社会主義的愛国心、不屈の闘士と軍民一致の精神を養い、平和な気分にとらわれず敵の侵略と戦争策動に警戒心を高め、緊張した態勢を堅持するよう教育した。特に、アメリカ帝国主義の侵略策動が激化し、朝鮮革命が長期性をおびている実状にてらして、新しい世代の階級的思想教育と反修正主義教育に力が入れられた。

 主席は、人民軍と人民を政治的・思想的に鍛える一方、主体的な軍事路線の貫徹に力を傾けた。

 金日成主席は、次のように述べている。

 「(略)我が党は、軍隊の幹部化、軍隊の現代化、全人民の武装化、全国の要塞化を軍事路線の基本的な内容と規定し、これを実生活に具現するようたゆみなく努力し、この面で、すでに大きな成果をおさめました。我々は、今後も党の軍事路線をひきつづき堅持し、徹底してこれを貫かなければなりません」(同上)

 主席は、軍事路線を貫くうえでまず、人民軍を政治的、思想的に、軍事技術的に鍛えて、有事のさいは兵士から将官にいたる全員が1等級以上の軍務を遂行しうる幹部軍隊に育成し、また全軍を近代兵器と戦闘技術機材で装備して、すべての軍人がそれに熟達し、近代軍事科学と軍事技術を所有するようにした。主席は最前線の一部隊を訪ねて、一騎当千の軍人となるためには、自身をいかに政治的、軍事的に鍛えるべきかを兵士たちに教えた。

 こうして、全軍幹部化、全軍現代化の方針が貫かれ、人民軍は政治的、思想的に、軍事技術的に準備された一騎当千の幹部軍隊、強力な攻撃手段と防御手段をともに備えた無敵の革命武力に成長した。

 主席は全人民を武装させ、全官鉄壁の要塞に変える活動にも力を入れた。労農赤衛隊は、隊列をととのえて戦闘・政治訓練を強め、全人民は軍事知識を学び訓練に励んだ。また、前線と銃後を問わず全国各地に強固な防衛施設物が築かれ、敵を掃滅する万全の準備がととのえられた。全民武装化、全国要塞化がおし進められた結果、全人民が射撃術を習得し、全国が難攻不落の要塞となった。

 銃後の強化にも深い関心が払われて、軍事戦略上、重要な地帯を整備し、近代兵器と戦闘技術機材の需要を自力でみたすため軍需工業を発展させ、戦略物資の予備を十分に蓄える措置がとられた。

 また工場、企業所の分散をはかり、有事のさいには直ちに経済を戦時体制に切りかえる準備をととのえた。こうして、共和国北半部には、いかなる侵略策動もしりぞけて祖国の安全を守る強力な国防力が備わった。

 主席は国防力を強化する一方、歴史的な課題である社会主義工業化をはかって経済建設をおし進めた。そのため、重工業の拡大を準備しながら、既存の経済基盤を利用して生産を増大させることを当面の経済建設の基本課題とした。これは、工業の潜在力を最大限に利用し、少ない国家投資によって生産の急速な増大をはかり経済建設を促すとともに、将来、短時日で重工業を大々的に拡張し工業化を完成するための正しい措置であった。

 主席は経済建設を推進するうえで、まず重工業に力を入れた。そして、基幹重工業のうち、まだ完備されていない部門と生産工程が補充され、設備と生産面積の利用度が高まった結果、重工業の補強が進み、生産能力が向上した。また、重工業を全面的に拡充する準備として、その第一の工程である採掘工業への投資を増やして、石炭、鉱物、電力の生産を高め、原料および動力工業を強化するかたわら、重工業を拡大するための基本建設と技術改造が進められた。

 主席は、人民経済の他の部門の振興にも力を入れた。各地の機械工場を整備し、その設備と生産面積をフルに利用して軽工業、農業、水産業に必要な機械設備を十分に供給し、それらの部門の振興の基盤をととのえた。また、基本建設の正常化をはかって指導体系の改編などの対策がとられ、交通運輸部門も前進を遂げた。

 主席はまた、科学技術の発展にも深い関心を払った。1963年3月科学者・技術者大会での演説と同年12月党中央委員会科学・教育部門活動家とおこなった談話その他の演説で、工業化と技術革命に役立つ科学技術幹部の大量養成、機械工学、無線工学、電子工学など経済発展に緊要な科学技術全般を新たな段階に発展させる明確な方途を示した。

 主席は、人民生活の向上にも大きな力を傾け、社会主義建設の成果は工場の煙突の煙にあるのでなく、人民の豊かな生活によって評価されるべきであり、したがって、全党、全国家の力を人民生活の改善にふり向けなければならないと指摘した。

 ここでは、なによりも日用品の生産に力が入れられ、中央直轄軽工業工場の増設と技術装備の強化、地方産業工場の大々的な建設によって、日用品生産が急速に伸び、製品の価格が大幅に引き下げられた。同時に、中央直轄の各工場、企業所に生活必需品職場を新設し、少ない投資で短時日に良質の日用品を大量生産する措置が講じられた。

 主席は特に、人民の食生活の改善に関心を払い、畜産業の発展に力を入れた。1963年6月の全国国営農牧場幹部協議会で、自分が50歳になったいまも人民に食肉を十分に供給できないのが残念だと言って、畜産業の発展方向と方法を示し、また同年9月には党中央委員会総会を開いて、畜産業と家禽業振興の画期的な措置をとった。

 主席はその後、家禽総局の設置を提起し、家禽業の振興を陣頭で指揮した。そして、党中央委員会政治委員会の決議による休養期間にも全国の畜産業と家禽業の指導にあたり、ある年の元旦には新設の養鶏工場を訪ねて、その運営状態と飼育工の生活に心を配った。

 主席の、このようなたゆみない指導と配慮の結果、養鶏工場をはじめ、近代的な牧場が各地に続々と設けられ、畜産業は、専門化、現代化、工業化されていった。

 主席はまた、水産業の発展にも力を入れ、1962年2月の全国水産部門活動者大会では漁獲高を飛躍的に高める戦闘的な課題を示した。

 その後、機械工業および造船業部門で高性能の漁船が建造されて水産部門に大量に送られ、年間300日の出漁、水産物加工業改善の条件もととのった結果、水産業は新たな発展段階に入り、人民に年中魚類を供給できるようになった。

 主席は、果樹栽培業の振興にも心血を注いだ。たび重なる現地指導を通じて咸鏡南道北青郡竜田(リョンジョン)里の文化(ムンホ)協同農場にモデルをつくった主席は、1961年4月、党中央委員会常務委員会北青拡大会議を開いてその経験を一般化し、7か年計画期間に20万ヘクタールの果樹園をつくって果樹栽培面積を30万ヘクタールに拡張する課題を示した。会議後、全人民的運動によって、わずか数年間に数10万ヘクタールの果樹園がつくられ、北青郡、コワイル郡その他各地に近代的な果実加工工場、果実貯蔵場、果樹栽培技術者養成機関が設けられた。こうして、朝鮮の果樹栽培業は近代技術で装備され、多面的な発展を遂げた。

 主席は人民生活を均等に向上させるため、山間部人民の生活向上に大きな関心を払った。主席は、地味のやせた山奥の昌城(チャンソン)郡をたびたび現地指導して生活改善の手本をつくり、それを全国に一般化するため1962年8月、地方の党および経済活動家昌城連席会議を招集して、『郡の役割を強化し、地方経営工業と農業をいっそう発展させて人民生活を著しく向上させよう』と題する演説をおこなった。演説では、都市と農村を結ぶ地域的拠点としての郡の位置と役割が新たに解明され、山間部人民の生活水準を平野部なみに引きあげる方途が示された。

 会議後主席は、各地の山間部を回り、昌城の手本にならって早急に生活を向上させる対策を講じた。こうして、過去、不毛の地とされた山間部が、地方経営工業と農業の発達した住みよい地帯となった。こうして、国防力の強化に大きな力がふり向けられた困難な状況のもとでも社会主義工業化は着々と進捗し、人民生活も日ましに向上した。





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