『金日成主席革命活動史』

第1節 社会主義経済建設の基本路線提示。
戦後人民経済の復興建設を指導


 金日成主席は祖国解放戦争が終わると、直ちに全党と全人民を戦後の復興建設に奮い起こした。

 戦後の復興建設には多くの障害が横たわっていた。

 停戦後、朝鮮の情勢はいぜんとして緊張していた。アメリカ帝国主義者は、敗戦による教訓をくみとるかわりに停戦協定を踏みにじって共和国北半部を再び侵略するための戦争を準備し、かいらい李承晩一味をそそのかして「北進」騒ぎを起こした。こうした情勢のもとで、党と人民は動員態勢を堅持し、国防力の強化に力を注ぎながら、戦後の復興建設の膨大な課題を遂行しなければならなかった。

 朝鮮は、戦争によって想像を絶する被害を受けていた。都商と農村は廃墟と化し、人民経済の各部門はことごとく破壊され、人民の生活基盤もほとんど失われていた。なにからはじめ、どのように復興し建設すべきか、状況はいとぐちのつかみようがないほど困難で、難関はおり重なっていた。アメリカ帝国主義者は、朝鮮は100年かかっても立ちあがれまいとうそぶき、朝鮮人民に同情をよせる友人たちも朝鮮人民の前に立ちはだかる難関を憂慮した。

 しかし主席は、人民があり、領土があり、党があり、人民政権がある以上、いかに戦禍がひどく、国情がひっ迫していても、再び新しい生活をきずくことができるという確信をもって、少しの動揺もなく復興建設に取り組んだ。

 主席は、「すべてを民主基地の強化をめざす戦後の人民経済復興発展のために」という戦闘的スローガンを示し、全党と全人民を復興建設に決起させた。

 祖国解放戦争の勝利を慶祝する平壌市民大会が終わると、主席はその足で江南レンガ工場を訪ね、戦後の復興建設に欠くことのできないレンガを早急に生産する課題を与え、ついで黄海製鉄所、平壌紡織工場、鳳山(ポンサン)郡清渓(チョンゲ)里など多くの工場、企業所や農村を回って国の実情と人民の生活を具体的に調べ、労働者や農民に自力更生の革命精神と不屈の闘志をいだかせた。降仙製鋼所を訪ねた主席は、焼け残ったポプラの木の下の、爆撃で崩れ落ちた壁に腰をおろして、労働者たちと膝を交えて語り合い、製鋼所を我々の力、我々の設備、我々の資材、我々の技術で短時日に立派に復旧し、英雄的な朝鮮労働者階級の気概をいま一度内外に誇示しようと励ました。

 主席の現地指導とその教えは、人民に確固とした信念と勇気を与え、復興建設で世人を驚嘆させた飛躍の力の源となった。

 主席は1953年8月の党中央委員会第6回総会で、『すべてを戦後の人民経済復興発展のために』と題する歴史的な報告をおこなった。

 主席はここでまず、停戦と祖国統一の問題にかんする党の立場を明らかにし、停戦は完全な平和ではないといって平和建設に取り組めないと考える傾向と、停戦の成立で完全な平和がもたらされたものと考え、自己満足のあげく緊張をゆるめる傾向をともに批判した。そして、全力をあげて戦後の人民経済復興建設を進め、北半部の革命基地を政治的、経済的、軍事的にうちかため、祖国統一のためにねばり強くたたかわなければならないと強調した。

 主席はついで、戦後の人民経済復興発展の基本的方向とその遂行方途を示した。そして、人民経済復興建設を3つの基本的段階に分けて、半年ないし1年の第1段階では破壊された人民経済の全般的復興建設の準備と整理事業をおこない、第2段階では3か年計画を遂行して人民経済の各部門にわたって戦前の水準を取り戻し、第3段階では5か年計画を遂行して社会主義工業化の基礎をきずくべきであると指摘した。

 金日成主席は、戦後の経済建設の基本路線について次のように述べている。

 「我々は、戦後の経済建設において、重工業の優先的な復興発展を保障しながら、同時に軽工業と農業を発展させる方向へ進まなければなりません。そうすることによって、我が国の経済の土台を強化し、人民生活か速やかに改善することができるのであります」(『すべてを戦後の人民経済復興発展のために』1953年8月5日)

 この経済建設の基本路線は、不滅のチュチェ思想を具現した独創的な路線であった。それまで、軽工業を先に発展させて資金を蓄積し、その後、重工業を建設するか、一定のあいだ重工業を先に建設し、そのうえで軽工業を発展させるのが、経済建設の一般通念となっていた。しかし、主席は既存の理論や経験にとらわれることなく、チュチェ思想と戦後の具体的な国情にもとづいて新たな経済建設の基本路線を提起し、独創的な経済建設の方途を明らかにした。

 主席の示した経済建設の基本路線はまた、戦後の復興建設を成功裏に進め、国の経済を社会主義・共産主義社会の要求に合わせて最も速く、最も立派に建設する唯一の正しい路線であった。

 社会主義経済建設の基本路線は、戦後人民生活を安定向上させ、社会主義経済建設を促すべき朝鮮における経済発展の合法則的要請と現実的可能性を見きわめた最も正しい路線であった。重工業を優先的に発展させることによって破壊された人民経済の各部門を急速に復興し、国家の経済を早急に発展させる強固な土台をきずくことができるのであった。しかし、軽工業と農業の発展をあとにまわすことはできなかった。

 軽工業と農業を発展させてはじめて、食糧や消費物資の生産を増大させ、人民の生活を速やかに安定向上させ、経済建設を強くおし進めることができるのであった。重工業の優先的発展を保障しながら、同時に軽工業と農業を発展させるのは極めて困難なことであった。しかし、主席の正しい指導とそのまわりにかたく団結した人民の無限の力があり、豊かな地下資源があり、戦禍はこうむったが重工業の一定の土台がある以上、これは十分に可能であった。

 この路線は、拡大再生産を実現して経済をたえず高いテンポで発展させる唯一の正しい路線であった。それは、重工業の優先的成長を保障しながら軽工業と農業を同時に発展させ、重工業の発展にあたっても、たんに重工業のための重工業ではなく、軽工業と農業の発展と、人民生活の向上に最も役立つ重工業の建設を根本原則にしていた。したがってそれは、生産手段生産と消費財生産間、人民経済各部門間、蓄積と消費間の積極的で合理的な均衡を保ち、たえず高いテンポで経済を発展させることを可能にした。この路線はまた、自立的民族経済を早急に建設し、社会主義の物質的・技術的土台を強固にきずく最も革命的な路線であった。それは、重工業を速やかに発展させ人民経済の各部門を近代技術で装備し、みずからの豊かな原料源を確保し、軽工業と農業にも同時に力を入れ、国の経済を多面的かつ総合的に発展させることを可能にした。

 主席は、農業を漸次、協同化する方針を示し、一部の地域でテストケースとして農業協同組合を組織する課題を示した。農業協同化の方針は、戦後農業の発展方向を科学的に示した指導指針であった。また、人民経済各部門の復興発展の方向を示し、その具体的な実現方途についても明らかにした。

 主席は次に、労働者階級のあいだで思想活動を強化し、新解放地区での活動を積極的に進めることについて指摘した。

 総会での主席の報告は、戦後復興建設の正しい方途を示した綱領的文書であり、党と人民に明るい展望と確信をいだかせ、全人民を人民経済復興発展のために力強く決起させた戦闘的旗印であった。

 総会後、主席は、戦後の復興建設を正しく導いた。

 主席は、なによりも党を組織的、思想的に強化し、人民大衆を党のまわりに結集するために力を注いだ。そのために、党中央委員会第5回総会の文書の再討議を全党的にくりひろげて朴憲永一味の反党反革命思想の余毒を一掃し、党隊列の純潔性を保障するとともに、党員の党性を強化して復興建設で前衛的役割を果たすようにした。そして、労働者をはじめ、勤労者にたいする政治思想活動、特に自力更生の革命精神を発揮させるための教育活動を強化して、かれらが復興建設に全力を傾けるようにはかった。これとならんで、1953年12月には党中央委員会第7回総会を開いて、戦後の新たな環境に即して統一戦線活動を改善するよう積極的な対策を立てた。こうして、各階層の広範な大衆は党のまわりにかたく結集し、復興建設にその力と知恵を惜しみなく発揮した。

 主席は、戦後復興建設の成功を期するため各種の措置を講じた。まず、戦時経済体制を戦後の新情勢に即して改編し、すべての工場、企業所で復興建設に必要な製品を優先的に生産するようはかり、党と国家の有能な活動家を経済建設分野に派遣し、多数の軍人を除隊させて人民経済各部門に送った。

 主席は復興建設全般を指導する多忙ななかにも、長津江(チャンジンガン)発電所、咸州郡朝陽(チョヤン)里、平原(ピョンウォン)郡三峰(サムボン)里、元山農業大学をはじめ、多くの工場、企業所、農村、教育文化機関を現地指導して、人民を復興建設へと励ました。

 主席の指導と大きな配慮に励まされた人民は、血を流して守った祖国を汗を流して建設しようという合言葉で、戦時にアメリカ帝国主義を撃滅したその意気込みで復興建設に取り組んだ。鉄道部門の労働者は、停戦後1週間目に鉄道と鉄橋を復旧して全幹線の列車を運行させる大きな成果をおさめ、降仙製鋼所、勝湖(スンホリ)里セメント工場など多くの工場、企業所の労働者は、戦後わずか数週間で生産施設を復旧して生産を開始し、また、大衆的運動で各地に多くの建材工場を建設する革新を起こした。農民も農耕地と潅漑施設を復旧整理し、農作業に励んだ。その結果、戦後復興建設の準備段階の課題は、予定をくりあげ極めて短期間に完遂された。

 ついで主席は、1954年から3か年人民経済計画の遂行へと全党と全人民を呼び起こした。

 金日成主席は3か年人民経済計画の基本課題について、次のように述べている。

 「3か年計画には、戦争のために極度に疲弊した人民生活を安定、向上させ、国の経済基盤を強化するため人民経済を戦前の水準に引き上げ、工業の植民地的跛行性を取り除くことによって、将来、社会主義的工業化を実現するための条件をととのえることが予定されました」(『8.15解放10周年慶祝大会でおこなった報告』1955年8月14日)

  3か年計画は、人民経済の自立的土台をきずく展望的課題と人民生活を安定、向上させる当面の課題が密接に結びついた計画であった。計画期間に工業総生産額は1949年に比べ約1.5倍に高まり、穀物生産は戦前の水準に達することが予定された。

 主席は、3か年計画を完遂する諸対策を講じた。

 1954年3月の党中央委員会総会で人民経済各部門、特に産業運輸部門にたいする党の指導を強化し、幹部の指導水準を高める画期的な措置がとられた。主席は総会で、人民経済にたいする指導と管理を戦後の新しい環境に即して改善し、経済機関の幹部が事務室的・官僚主義的活動作風を捨て、実務的、具体的で、分析的な生きた指導をおこない、活動において責任感を高め、実行にたいする系統的な点検を強め、法令や決定に違反する行為と仮借なくたたかうべきであるとし、党組織が農村に多くの力をふり向けた戦時中とは異なり、人民経済の主導的部門である産業部門に深い関心を払い経済建設にたいする党の指導を強化し、勤労者のあいだで経済建設のための組織・政治活動を活発にくりひろげるべきであると強調した。

 主席は総会につづいて、人民経済部門別活動者会議を招集し、それらの会議に参加して、それぞれの部門の事業を改善する具体的な課題と方途を示した。

 主席はまた、勤労者が先進技術と先進作業方法を受け入れ、多くの創意工夫と合理化案を提起し、難問題を自力で解決する気風を発揮させるため、大衆的増産競争運動を組織し、それを集団的技術革新運動と緊密に結びつけておし進めるようはかった。特に、人民生活の安定、向上に深い関心を払い、人民は人民経済の復興に力を注ぎ、幹部は人民生活の安定のために努力すべきであると強調し、学校と住宅建設に力を集中し、労働者、事務員の生活給金を大幅に引きあげ、数回にわたって物価を引き下げ、商品供給の改善をはかった。

 これらの措置によって、経済活動にたいする指導が改善され、勤労大衆の革命的熱意と創意はさらに高まった。

 主席は、3か年計画の遂行に力を入れた。戦後、社会主義経済建設の基本路線を貫き、3か年計画を遂行する活動は、分派分子との深刻な闘争をともなった。事大主義、教条主義に染まった反党反革命分派分子は「人民生活が苦しいのに重工業建設にかたよりすぎる」とか「機械からは、飯はでない」とか「どの国でもこのような政策を実施したことがない」と言って、党の経済建設の基本路線に反対し、すべてを当面の消費にあてることを主張した。これは、人民経済の自立的発展を阻み、人民生活の向上にも支障を与え、ひいては国の経済発展と革命を破滅に導く反革命的策動であった。

 主席は、反党分派分子の詭弁と妨害を断固としりぞけ、経済建設の基本路線を貫いた。まず、強力な重工業の創設に重点がすえられ、現存の重工業工場の復旧、改造、拡張と新しい重工業工場の建設、特に機械工場の建設に力が注がれた。また、軽工業の創設をはかって、各地に紡織工場や日用品工場など近代的な軽工業工場の建設が進められた。重工業と軽工業の創設にあたっては、新設の工場、企業所を原料源と消費地に接近させ、国内全地域のつりあいを保つことを原則とし、また国防も考慮して各地に分散配置された。

 破壊された農業の復興にも大きな力が傾けられ、農耕地の整理、農機具の大量生産、農業機械賃耕所と牛馬賃耕所の増設、農業協同化などが積極的に進められた。

 主席の指導によって、戦後、短時日に重工業と軽工業、農業が急速に復興し、過去の工業配置の植民地的跛行性が漸次克服され、3か年計画は成功裏におし進められた。         





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