『金日成主席革命活動史』

第4節 戦時生産と戦後復興建設の準備を推進。アメリカ帝国主義を
国際的に孤立させ世界の革命的人民との連帯を強化するたたかい


 金日成主席は、戦争を勝利へと導くなかで全人民を戦時生産に奮起させた。

 戦争の運命を決する戦時生産を円滑におこなってこそ、軍用物資を前線へ十分に補給し、また、後方の物質的需要をみたして、戦争の最終的勝利をかちとることができるのである。

 主席は農業生産を高めるため、なによりも農村に大きな力を入れた。

 金日成主席は、次のように述べている。

 「戦時中に、アメリカ帝国主義者の野蛮な爆撃によって工業施設が破壊された条件のもとで、我が党は農村問題に関心を集中しました」(『すべてを戦後の人民経済復興発展のために』1953年8月5日)

  農村に力を集中して農業生産を高めることは、前線に食糧を供給し、戦時の人民生活を安定させるうえで第一に解決すべき問題であった。農村活動に大きな力をふり向けるのは、特に、敵の無差別爆撃によって工場、企業所が破壊され、農業生産力が低下している状況にあって特に重要な問題であった。

 主席は食糧の増産をはかって、党の農村陣地の強化に努めた。主席は、「党のすぐれた力量を農村へ!」というスローガンのもとに、党、政権機関の有能な活動家、模範的な労働者や事務員を数多く派遣する一方、農村に専従の民主宣伝室長を配置し、農民にたいする思想教育を強化してその思想意識水準を高め、食糧増産に励むように導いた。

 また、労働力と役畜力の不足を解消し、戦時食糧増産を保障する革命的な対策として労力互助班や役牛共同利用班を広く組織し、婦人の犂取り運動を活発にくりひろげる一方、労働者、事務員、学生、軍人による労働支援隊を組んで農村に派遣した。さらに、肥料問題を解決するため大衆的運動を起こして自家肥料の生産を進め、党と政権機関の活動家を派遣してその指導にあたらせた。それとならんで、食糧や種子のない農家には貸与穀や種子用穀物を供給し、罹災農民、貧農、人民軍留守家族には現物税の免除措置をとった。

 主席は戦時の厳しい状況のもとでも、江西郡、大同郡、粛川(スクチョン)郡など多くの農村を現地指導し、「食糧のための闘争は、祖国のための闘争であり、前線の勝利を保障するための闘争である」という戦闘的スローガンを示し、農民を食糧増産へと励ました。また、1952年1月には全国多収穫農民活動者大会と畜産部門活動者会議を招集して戦時の農業増産闘争の成果を総括し、その経験を普及するようはかった。

 全国の農民は、主席の細心の指導と深い配慮に励まされて重なる障害を乗り越え、農業生産に全力を尽くした。かれらは、間断なくつづく爆撃や艦砲射撃にもひるまず、畑のそばに待避壕を掘り、役牛に偽装をほどこして田畑を耕し、種をまいた。特に、前線地区の農民は、「前線共同作業隊」を組織して苛烈な戦闘がつづく状況のもとでも営農作業をつづけ、海岸地帯の農民は、「武装作業隊」を組織して、海上から潜入するスパイ、破壊・謀略分子を摘発、掃討しながら農作業をおこなった。かれらはまた、すべてが破壊された困難な状況下にあっても、自力更生の革命精神と相互援助の美風を発揮して重なる障害を自力で解決しながら大衆的多収穫運動を展開し、農村婦人は犂取り運動を展開して戦時農業生産に大きく寄与した。

 その結果、1951年と1952年の農作業はすべて期限前に完遂され、穀物と畜産物をはじめ、農業各部門の指標別生産計画が達成された。

 主席は、戦時工業生産も力強くおし進めた。

 金日成主席は、次のように述べている。

 「長期戦に対処する準備において重要な問題は、より多くの兵器と弾薬を生産することです。この瞬間にも前線で戦っている人民軍の勇士は、より多くの兵器と弾薬を求めています」(『より多くの兵器を生産して前線に送ろう』1951年2月17日)

 主席は、工業生産を保障する措置として、破壊された生産施設を急速に復旧整備し、同時に工場、企業所を安全地帯に疎開し、重要な生産設備は地下に移設あるいは新設して生産をつづけるようにした。また、生産能力のあるすべての工場を最大限に稼動させ、あらゆる条件と可能性を利用して各地に小規模の工場を建設させた。これとならんで、さまざまな増産競争運動をくりひろげ、先進技術を導入して労働生産性を最大限に高めるようはかった。

 主席は広範な人民大衆を工業生産に奮起させるため、各地の工場、企業所を現地指導し、人民経済の部門別会議を開催した。1951年のはじめ、ある兵器工場を訪ねた主席は、労働者に、兵器と弾薬の生産は祖国解放戦争の最終的勝利を早めるたたかいであると述べ、工場の運営や軍用物資の生産で難渋している問題の解決をはかった。また、1952年3月には、鉄道部門の活動者大会を開き、戦時輸送を円滑に保障する具体的な対策を立てた。

 全国の労働者は、主席の指導に励まされて、あらゆる障害を克服し、増産闘争を活発にくりひろげた。かれらは、敵機の爆撃で送電が止まったときには手でベルトを回して砲弾や織物を生産し、原料や資材を自力で解決するため谷間に小型溶鉱炉をつくって鉄を生産し、砲煙弾雨をくぐって物資の輸送を保障した。また、「前線作業班運動」「前線青年作業班運動」「二人分、三人分担当超過生産運動」「前線倍加生産運動」などさまざまな増産競争運動を展開し、戦前の数倍に達する生産計画を完遂あるいは超過完遂した。

 その結果1951年度の産業総生産計画は109.6%に超過遂行され、1952年の国営・協同団体工業総生産額は前年に比べて19%伸びた。

 主席は、戦時生産の指導とともに、戦後復興建設の準備をおし進めた。

 金日成主席は、次のように述べている。

 「各省と政権機関は戦争による被害を調べ、人民経済計画作成の準備を進めなければなりません。復旧して直ちに操業できる工場や企業所はすべて復旧し、動員できる物資と生産手段をすべて利用して前線への補給を保障するとともに、戦後、直ちに人民経済復興建設に着手できるよう必要な準備をととのえるべきです」(『現情勢と当面の任務』1950年12月21日)

 主席は、厳しい戦争のさなかにも勝利した祖国の将来を展望し、戦時生産を戦後復興建設の準備と密接に結びつけて進める方針を示し、戦争の最終的勝利が近づくにつれて、それを積極的におし進めた。この方針は、アメリカ帝国主義侵略者によって人民経済が残らず破壊されても、人民と領土、党と政権があるかぎり、敵が破壊した以上に立派な新生活を建設するという不動の信念にもとづくものであった。

 戦争が長びき、日を追って激しさを増していた1952年6月のある日、楽元(ラクウォン)機械製作所鋳物職場の党細胞総会に参加した主席は、労働者たちと戦後復興建設について相談して、戦後に破壊された経済を復興するためには、多くの困難を克服しなければならないと述べた。主席の言葉を一言一句、胸に深く刻みながら聞いていたひとりの婦人党員が、復興建設についてあまり心配するには及ばないと自分の決意を披瀝した。

 金日成主席は彼女の話を聞いて、次のように述べた。

 「さきほど婦人の党員が、戦争に勝利すれば復興建設は問題ない、日本帝国主義者があれほど破壊したのも2、3年で復旧して立派な暮らしができたのだし、戦争が終わればまた復旧して立派な暮らしができるからあまり心配しないようにと言いましたが、私もこれに同感であり、非常に勇気づけられました。この婦人の言葉は、労働者階級の不抜の意志の表現であります」(『楽元機械製作所鋳鉄職場党細胞の党員におこなった談話』1952年6月21日)

 婦人党員の実直な言葉に英知にあふれた勇敢な朝鮮人民の強じんな意志を見た主席は、このような労働者階級、このような人民がいるかぎり、戦争は必ず勝利し、戦後の復興建設も立派に遂行できるという信念をかたくし、復興建設の準備を力強くおし進めた。

 主席は、まず工業部門における戦後復興建設の準備をおし進め、戦争で破壊された工業を復興するためには、工場、企業所の実態調査を正確におこない、復興建設計画を正しく立て、急を要さない部門はあとに回し、緊急な部門から先に復興し、復興建設におけるあらゆる問題を自力で解決すべきであると強調した。

 そして、基幹工業部門の復興に大きな意義を与え、なによりも機械製作工業の創設に力を入れた。1951年8月党中央委員会政治委員会で主席は、近代的機械製作工業創設の方途と対象地を明らかにし、その後、煕川(ヒチョン)機械製作所を訪ねて、この工場を朝鮮の機械工場の「母体工場」に、新たな技術装備をととのえた近代的工場に発展させる具体的な方途を示した。こうして1951年から煕川、亀城(クソン)、徳川(トクチョン)など各地に大機械工場の建設がはじまった。

 主席は、金属・電気・石炭・化学・建材工業などの基幹工業部門の復興準備も力強くおし進めた。

 また、軽工業企業所の強化がはかられる一方、1951年8月と1953年2月には、生産協同組合の組織と経営活動を積極化するための内閣決定が採択され、それを強化するさまざまな対策が講じられた。これは、戦後、軽工業を速やかに復興発展させ、私営商工業の社会主義的改造を促進するうえで大きな意義があった。

 主席は、破壊された都市と農村を戦後に復興する準備にも力を入れた。都市と農村の実態調査にもとづいて復興建設計画と設計を完成させ各地に建材工業工場を創設する措置を講じた。特に、平壌市復興建設に深い関心を払い、1951年のはじめに、アメリカ帝国主義の猛爆によって廃墟と化した平壌市を壮麗な近代都市に建設する設計図を完成させ、翌年5月には平壌市復興建設にかんする内閣決定を採択するようにした。こうして、戦争勝利後、平壌をはじめ、すべての都市と農村を新たに建設する雄大な設計図がすでに戦時中に作成され、江南(カンナム)レンガ工場などの建材工場が建設された。

 主席は、農業の社会主義的改造を戦後の農村問題解決と農業発展の根本問題として提起し、その準備をおし進めた。戦時農業生産を増大させて、戦後の農業を急速に復興させ、大規模農業経営と機械化の優位性を農民に実地に認識させるため、戦時に国営農牧場は5.7倍以上に、農業機械賃耕所は3倍に増設され、各地に多くの牛馬賃耕所が新設された。

 主席は、1952年5月平安南道大同郡元和(ウォンホワ)里を現地指導し、地元農民の組織した役牛共同利用班と労力互助班を発展させ、それらを全国に広く普及するようはかった。1952年12月には、党中央委員会政治委員会の決定によって農村におけるこの新しい芽を積極的に育て、農業協同化の実現条件をととのえ、副業協同組合を組織して貧農と零細農の生活改善に努めた。その結果、戦時中に共和国の農村には、労力互助班、役牛共同利用班が多数組織され、その組織形態も季節的な臨時労力組織形態から年間を通じた固定的な労力組織形態に発展した。

 これらの措置は、戦後に生産関係の社会主義的改造を速やかに遂行する強固な基盤となった。

 主席は戦後の大自然改造事業を構想し、その実現のための準備を綿密におし進めた。主席の北部高原地帯開発にかんする長年の構想にもとづいて、1951年現地に派遣された調査団は、6万余へタタールの耕作および放牧適地を発見した。こうして、何世紀も見捨てられてきたこの地帯に5号農場と長津牧場が創設された。

 主席はまた、平南灌漑施設を復旧拡張する準備と西海岸の海面干拓、東海と西海を結ぶ運河建設の準備をおし進めた。

 主席は、戦後の復興建設のため民族幹部の養成と科学・技術の発展にも力を入れ、厳しい戦時下にも、前線で戦う教員と大学生を呼び戻して、教育事業をつづけるよう大きな配慮をめぐらした。そして、砲煙をかいくぐつて金日成総合大学や中央党学校など多くの大学と幹部養成機関を訪ね、民族幹部の養成方向を明らかにし、教授・教育活動で提起される問題の解決をはかった。

 主席は、戦争のさなかにも科学研究活動に支障がないよう必要なあらゆる条件を保障した。そして1952年4月には、科学者大会を招集して科学発展の方向を明らかにし、同年12月には科学院を創設した。

 主席は、戦争の勝利が近づくにつれて戦後復興建設の準備に拍車をかけ、1953年6月には、党中央委員会政治委員会で戦後の人民経済復興建設方向を示し、ついで国家建設委員会を組織して復興建設の積極的な対策を講じた。そして、戦争を最後の勝利に導く多忙な時間をさいて、戦後の人民経済復奥発展問題を討議する党中央委員会総会の報告を作成した。鋭い展望力と革命的な展開力に富む主席の指導と深い配慮によって、朝鮮人民と人民軍はアメリカ帝国主義と決戦をくりひろげていた厳しい戦時にも、必勝の信念をもって勇敢に戦い、戦後には戦争の痛手を速やかに癒して、社会主義革命と社会主義建設を成功裏に遂行することができたのである。

 主席は、祖国解放戦争の勝利を早め、世界的に反帝反米闘争をもりあげるため、アメリカ帝国主義を国際的に孤立させ、世界の革命的人民との連帯を強めることに深い関心を払った。

 主席は、アメリカ帝国主義を国際的に孤立させる闘争を積極的におし進めた。

 金日成主席は、次のように述べている。

 「(略)アメリカ帝国主義者が、朝鮮侵略戦争で犯したすべての罪悪を全世界に暴露すべきです。史上比類のない野獣のごとき蛮行を人類のまえにことごとく暴露して、アメリカ帝国主義者を徹底的に孤立させるべきであります」(『現情勢と当面の任務』1950年12月21日)

 主席は、アメリカ帝国主義を孤立させるためにその悪宣伝を粉砕し、かれらこそ朝鮮戦争の放火者であることを世界に暴露した。

 かれらは、朝鮮戦争を起こしたのち、その犯罪行為を隠すため、ソ連と中国の代表が参加していない国連安全保障理事会で「北からの武力攻撃」という根拠のない口実を設け、朝鮮民主主義人民共和国を「侵略者」と規定する不当な「決議」を採択した。さらに、みずからの侵略行為を「国連の警察行動」として正当化し、共和国北半部にたいする悪意にみちた宣伝を大々的にくりひろげた。

 朝鮮労働党と共和国政府は、アメリカ帝国主義の侵略行為を暴露し、国連安全保障理事会の「決議」を排撃する活動を積極的にくりひろげた。共和国政府は、数回にわたって声明と証拠文書を発表し、アメリカ帝国主義が長いあいだ朝鮮戦争を計画し、挑発した張本人であることを暴露し、朝鮮問題にかんする国連の「決議」は全く不当であり無効であると宣言した。朝鮮労働党と各大衆団体もさまざまな方法でアメリカ帝国主義の犯罪行為を暴露した。その結果、国連の名で戦争放火の罪過を隠そうとしたアメリカ帝国主義の狡猾な策動は粉砕され、かれらは世界の人民から朝鮮侵略戦争を起こした最も凶悪な戦争犯罪人として糾弾された。

 主席はまた、アメリカ帝国主義の蛮行を世界各国人民に暴露し、かれらが国際法と人道の初歩的な規範をも踏みにじって老若男女の別なく罪のない人民を大量虐殺し、平和な住民と住宅地区に無差別爆撃を加え細菌弾を投下するなど戦争史上前例のない暴虐な犯罪を犯していることを糾弾した。特に、その蛮行を調査するために組織された「祖国統一民主主義戦線調査委員会」は、アメリカ帝国主義の蛮行にかんする調査資料を体系的に、全面的に調査して世界に公表した。共和国政府は、国連の名によるアメリカ帝国主義の犯罪行為を厳しく糾弾し、その即時中止を強く要求した。アメリカ帝国主義の蛮行が世界に知られると、国際民主団体は朝鮮に多くの代表団を派遣して、その蛮行を具体的に調査し、その結果を報告書、広報、アピール、抗議書簡の形で世界各国の政府と国際機構、各階層人士に通告した。こうして、崇米事大主義にとらわれていた世界各国の人民もアメリカ帝国主義侵略者にたいする憎悪と報復心をかきたて、反米闘争に奮起した。

 主席はまた、平和の名のもとに新たな世界大戦の挑発をはかるアメリカ帝国主義の陰険な戦争拡大策動を全面的に暴露し、それを粉砕する闘争を進めた。アメリカ帝国主義は、危機からの活路を第3次世界大戦の挑発に求め、朝鮮戦争の拡大に狂奔し、世界の各地で侵略行為を強行した。かれらは、戦争を拡大するため朝鮮戦線に兵力を増強し、世界各地に戦略基地を設け、日本と西ドイツの軍国主義勢力を再武装させ、新たな世界大戦の突撃隊に仕立てようと企てた。こうした情勢を見とおした主席は、前線で強力な軍事的打撃を加えてアメリカ帝国主義の戦争拡大政策を挫折させる一方、朝鮮停戦会談で国際世論を欺き、「平和」を隠れみのに新たな世界大戦の挑発をはかるアメリカ帝国主義の狡猾な二面戦術を全面的に暴露した。朝鮮労働党と共和国政府と各大衆団体は、朝鮮戦争に日本軍国主義者を引き入れ、日本、西ドイツと不法に条約を結んでこれらの国を新戦争の発源地に、軍事補給基地に変えようとするアメリカ帝国主義の犯罪行為を厳しく糾弾した。アメリカ帝国主義とその追随者が台湾、フィリピン、ベトナムなど世界各地で強行している侵略行為を阻止する世界進歩的人民の闘争は急激に高まり、朝鮮戦線での惨敗を挽回し、世界大戦を起こそうとしたアメリカ帝国主義の軍事的・外交的策動は出鼻をくじかれ、かれらは国際的な孤立を深めた。

 主席は、世界の革命的人民との国際的連帯を強める活動を正しく導いた。

 金日成主席は、次のように述べている。

 「我々の勝利の裏付けの一つは、世界各国人民との国際的連帯を強めることであります」(『我々は必ず勝利するであろう』1952年8月14日)

 主席は、社会主義諸国との戦闘的連帯を線化するため、これらの国との親善・協力関係を政治、経済、文化の各分野にわたって発展させた。そして、世界の広範を革命的人民との国際的連係の強化をはかって、植民地従属国人民の民族解放闘争と資本主義諸国の労働者階級の革命闘争をあらゆる可能性を利用して支援し、国際民主団体との連帯をたえず発展させた。こうして、戦時の厳しい状況下でも平和擁護世界大会、世界平和評議会会議、アジア・太平洋地域平和擁護大会、世界青年学生平和友好祭など多くの国際会議と国際的な行事に朝鮮の代表団が派遣され、世界の進歩的人民との戦闘的連帯を強化する対外活動が展開された。主席は、多忙な日々にも朝鮮を訪問した多くの外国代表団と国際民主団体代表団、平和人士、ジャーナリストを接見し、アメリカ帝国主義の侵略と戦争の策動を阻止、破綻させ、世界の平和と安全を守るかれらのたたかいを励ました。

 その結果、世界の革命的人民との国際的連帯が強化され、朝鮮人民の正義の祖国解放戦争にたいする世界各国人民の支援が強まった。

 社会主義諸国の人民は、朝鮮人民の闘争を物心両面から極力支援した。社会主義諸国は、アメリカ帝国主義の犯罪的な朝鮮侵略に抗議するアピールや声明をあいついで発表し、連日、大衆集会を開き、放送、出版物など各種の宣伝手段と国際会議をとおして朝鮮におけるアメリカ帝国主義の蛮行を糾弾し、侵略戦争の即時中止を強く要求した。それと同時に、朝鮮人民の英雄的闘争を広く宣伝し、人民代表団、人民慰問団を送って朝鮮人民の戦いを励ました。社会主義諸国人民はまた、「朝鮮援助委員会」「朝鮮戦災民救護委員会」「金日成作業班」「朝鮮作業粧」を組織して、朝鮮人民にたいする支援運動を活発にくりひろげた。特に、兄弟的中国人民は、「抗米援朝保家衛国」のスローガンのもとに、中国人民志願軍を朝鮮戦線に派遣して朝鮮人民の正義の戦いを血潮を流して援助した。

 世界の進歩的人民も反帝反米闘争を強化して朝鮮人民の戦いを支援した。ラオス、カンボジア、フィリピン、マラヤ、タイなどアジア諸国人民は、反帝武装闘争を強化し、朝鮮戦線に向かう軍用列車や多くの軍事機資材を破壊した。ラテンアメリカでもキューバ、アルゼンチンなど多くの国の人民が、アメリカ帝国主義に軍隊を提供しようとする自国反動支配層の策動に反対して断固とたたかい、それを破綻させた。

 資本主義諸国でも、広範な勤労者が自国の反動支配層の戦争策動に反対して「アメリカ帝国主義は朝鮮から手を引け!」というスローガンのもとに、デモやストライキを断行して戦う朝鮮人民を支援した。このような闘争は、アメリカでも力強く展開された。

 国際民主団体もアメリカ帝国主義の朝鮮侵略に反対し、朝鮮人民の正義の戦いを支持する活動を活発にくりひろげ、アメリカ帝国主義の朝鮮侵略の即時中止と侵略軍の即時撤退を強く要求し、多くの国際会議と国際的行事で朝鮮人民との戦闘的連帯を強化した。

 主席の正しい指導によって、アメリカ帝国主義が国際的にいっそう孤立し、世界の革命的人民との戦闘的連帯が強化された結果、世界的に反米反戦闘争が空前のもりあがりをみせ、世界革命が急速に促進され、祖国解放戦争の最終的勝利をかちとる有利な国際的環境がつくられた。





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