『金日成主席革命活動史』

第3節 積極的な陣地防御戦を展開。
党勢拡大と党と大衆との連係の強化


 1951年6月にいたって前線は、38度線界線で膠着状態に入った。

 戦争で甚大な軍事的・政治的・道徳的敗北をこうむったアメリカ帝国主義侵略者は、38度線界線で足踏みせざるをえなかった。しかし、依然として侵略の野望を捨てず、新手の兵力と航空隊、砲兵火力など最新戦闘技術機材を大々的に増強して、戦線東部と中部の山岳地帯で攻撃を強行する一方、東西海岸からの上陸作戦を企図した。

 主席は当面した軍事・政治情勢に対処して、戦争の最終的勝利を保障する新たな戦略的方針を示した。

 金日成主席は、次のように述べている。

 「当面する人民軍の第1の任務は、前線を堅固にすることです。アメリカ帝国主義のおおがかりな兵力増強によって祖国解放戦争は長期戦の様相をおびるようになったため、頑強な陣地防御戦をおこなうべきです」(『1211高地を死守しよう』1951年9月23日)

 主席の示した戦争第4段階の戦略的方針は、積極的な陣地防御戦を展開してすでに占めている界線を堅持し、たえまなく敵を打撃、掃滅する一方、時間をかせいで人民軍の戦闘力を強化し、後方をさらに強固にして戦争の最終的勝利の条件を全面的にととのえることであった。

 陣地防御戦を展開するという主席の戦略的方針は、たんなる防御戦ではなく戦争の主導権を堅持して敵を守勢に追いこみ、より多くの敵兵を掃滅することによって、戦争の最終的勝利を保障する独創的な方針であった。

 主席は、積極的な陣地防御戦をくりひろげるため前線の陣地を坑道化し、それに依拠して軍事活動を展開する新たな戦法を示した。それは、当時の情勢と朝鮮の地形、彼我の力関係を正しく分析した独創的な戦法であり、坑道陣地に依拠して人民軍の兵員と戦闘技術機材を最大限に保護しながらも、多くの敵を掃滅する積極的な戦法であった。

 主席は、積極的な陣地防御戦を巧みに指揮した。

 まず、「機動戦」や「運動戦」を主張して防御陣地の構築を怠る反党反革命分派分子の策動に打撃を加え、人民軍部隊に前線と海岸防御地帯で間断なくつづく敵の攻撃を撃退しながら陣地の坑道化をおし進めるよう指揮した。そして、現代戦の要請と山岳地帯の多い朝鮮の実情に即して人民軍の技術装備を強化し、砲兵火力、特に曲射砲火力を増強する決定的な対策を講じた。これとならんで敵の「技術的優位」を粉砕するさまざまな独創的戦法を創始し、特に襲撃組活動、移動砲兵中隊活動、狙撃兵組活動、戦車狩り組活動、飛行機狩り組活動、機動高射砲兵中隊活動、独立重機組活動を強化する措置をとった。

 人民軍部隊は、この戦略的方針にもとづいて前線と東西両海岸で要塞化された坑道陣地に依拠し、歩兵と砲兵の緊密な協同作戦と主体的で独創的な戦法にもとづく積極的な軍事活動によって敵に連続的に甚大な打撃を与えた。

 人民軍の積極的な攻勢によってあいつぐ惨敗をこうむったアメリカ帝国主義侵略者は、1951年6月末、停戦会談を申し入れた。かれらは、停戦会談によって息つぎをし、深刻化する政治的・軍事的窮地からぬけだすとともに、あたかも朝鮮戦争の終結と平和を望んでいるかのように見せて、国際世論をなだめようとした。かれらはまた、停戦会談を通じて戦争で達成できなかった目的を実現しようと画策しながら、その舞台裏では兵力を増強し、新たな攻撃を準備した。

 主席は、かれらのこうした企図を見抜き、停戦会談にたいする共和国側の原則的な立場と態度を明らかにした。

 金日成主席は、次のように述べている。

 「公明正大かつ合理的な停戦のみを支持するものです。(略)我々は停戦してもよいし、戦争がつづいてもかまいません。長期戦になっても、少しも恐れることはありません」(『有能な技術者を多く養成しよう』1962年6月17日)

 主席は、朝鮮人民の利益に反する不公正な停戦は、絶対に受け入れることができないという断固たる態度を表明し、停戦は我々の力量を強化して、敵に大きな軍事的打撃を与え、その侵略行為を決定的に粉砕するときに実現できると指摘した。

 1951年7月にはじまった停戦会談で、狡猾なアメリカ帝国主義は、その侵略的本性を公然とさらけだした。かれらは、空軍と海軍の「優位」を理由に、軍事境界線を地上対峙線のはるか北方に設定する不当な主張をおこなった。

 しかし、共和国側の断固たる態度によってその企図が粉砕されると、かれらは停戦会談を一方的に破綻させ、戦線東部と中部の重要な山岳地帯を占領し「軍事的圧力」を加えて「名誉ある停戦」を達成しようと、1951年8月中旬から大規模な「夏期および秋期攻勢」を強行した。

 かれらは、戦線西部で大攻勢に出ると見せかけながら秘かに戦線東部と中部に大兵力を投入し、また東海岸の元山、通川(トンチョン)一帯での上陸作戦を準備した。

 主席は、その狡猾な企図を見抜き、敵にせん減的な打撃を加える作戦を展開した。

 金日成主席は、次のように述べている。

 「敵が主な攻撃方向を戦線東部に定めていることは確定的です。敵は1211高地と文登(ムンドゥン)里、カチ峰、月飛(オルビ)山界線を掌握すると同時に、ひいては戦線を元山以北地域に押し上げようと妄想しています。したがって、敵は1211高地界線の突破を執拗に試みるはずです」(『1211高地を死守しよう』1951年9月23日)

 主席は、敵の主攻撃方向が戦線東部であることを見抜いて、そこへ兵力を集結する一方、主な高地に坑道化された強固な防御地帯を形成し、また敵の上陸に対処して強力な予備部隊を編成し、東海岸の防御に備えた。同時に、軍隊内での政治活動を強化して兵士の士気を高め、部隊の戦闘準備をととのえた。特に、1211高地の重要性にかんがみ、それを難攻不落の要塞に変えるよう命令した。

 1211高地は、戦略的に極めて重要な高地であった。もしも、1211高地を敵に渡せば、さらに広い地域を失い、また海岸からの上陸を狙う敵の企図を破綻させることもまず不可能であった。

 主席の適切な措置によって1211高地をはじめ、主な高地に強力な坑道陣地が設けられ、戦線東部はいかなる強敵も撃滅しうる不敗の要塞に変わった。

 1951年9月、アメリカ帝国主義侵略者は、ついに戦線東部で大規模な攻撃を開始し、1211高地の突破に主力を注いだ。

 1211高地の防御戦を指揮した主席は、1951年9月、砲火をおかして前線を視察し、1211高地を防御する具体的な方途を明らかにした。主席は、高地を守るためには防御陣地の坑道化を完成するとともに、襲撃組活動と飛行機狩り組活動を強化し、朝鮮の実情に合わせて砲兵火力を巧みに展開すること、そして、特に指揮官は、兵士にたいする政治活動に力を入れてその士気を高め、かれらの生活に関心を払わなければならないと強調した。9月のある日の深夜、主席は現地の軍団長に電話をかけ、戦闘員はすべてかけがえのない貴重な宝である、夜はもう冷え込み始めたようだから温かいご飯と汁を給食し、寝床もよくととのえて風邪をひかないように心を配らなければならないと語った。

 主席の細心の指導と深い配慮に励まされた人民軍将兵は、「寸土たりとも敵にわたすな!」という主席の命令に従って1211高地の死守を決意し、敵にせん減的打撃を加えた。後方の人民も弾雨をおかして1211高地に弾丸や食糧を運び、兵士と一体となって戦った。

 人民軍兵士と人民は、一日平均3万〜4万発の敵の砲弾と爆弾が炸裂して岩が砕け山が火の海と化した苛烈な状況のもとで毎日数十回に及ぶ敵の攻撃をしりぞけ、高地を英雄的に守り抜いた。人民軍兵士は、1211高地戦闘で多数の敵を掃滅し、莫大な戦闘技術機材を破壊した。敵は、味方の屍が山をなし、血が河をなした1211高地を見あげるだけでも心が痛むというので、この高地を「傷心嶺」と呼び、高地の下の谷間に入ったら生きて帰れないというので、そこを「陥穽谷」と名づけた。

 主席のすぐれた戦略・戦術と巧みな指揮によってアメリカ帝国主義侵略者は、「夏期および秋期攻勢」で惨敗した。「夏期および秋期攻勢」を粉砕した朝鮮人民軍の勝利は、坑道陣地に依拠して積極的な軍事活動を展開する主体的な戦法の正しさを確認し、主席の革命思想で武装した朝鮮人民軍は必勝不敗であることを内外に誇示した。

 前線であいつぐ惨敗をこうむったアメリカ帝国主義は、1951年10月停戦会談の再開を申し入れ、軍事境界線の確定と非武装地帯の設置にかんする共和国側の合理的な提案を受け入れた。しかし、かれらは狡猾にも、捕虜送還問題で我が方の捕虜を強制的に抑留する「自願送還」の不当な主張を固執して会談を引き伸ばし、再び新たな軍事的冒険に走った。

 主席は、戦争が長期化し、前線と後方での緊張した闘争がつづく状況のもとで、党勢拡大と、党と大衆との結びつきを強める活動を強くおし進めた。

 当時、一時的後退期の敵占領下でこうむった弊害を一掃し、党組織を復活し整理する過程で極左的な偏向が生じ、党勢拡大と党と大衆との結びつきを強化するうえに大きな障害をもたらしていた。

 ホ・カイら教条主義者や事大主義者は、労働者出身の比率が低下するという口実で勤労農民を入党させず、労働者にたいしても教育不足、勤務年限不足など不当な条件や口実をもうけて党の門を閉ざす関門主義的偏向をおかしていた。また、党規律の強化を規定した党中央委員会第3回総会の決定を実行するにあたって、多数の党員を処分し除名する無原則的な懲罰主義で臨んだ。さらに、党内民主主義を抑圧し、極端な官僚主義的・形式主義的活動作風をはびこらせた。これは、厳しい戦時に党を弱体化し、組織的に瓦解させる清算主義的傾向であり、党と大衆を切り離す害悪行為であった。

 主席は1951年11月、党中央委員会第4回総会を招集し、『党組織の組織活動におけるいくつかの欠陥について』と題する報告と『党の組織活動の改善について』と題する結語を述べた。

 主席はまず、党勢拡大活動に生じた関門主義的傾向を一掃し、党勢を速やかに拡大すべきであると強調した。

 金日成主席は、次のように述べている。

 「我々は、労働者階級を中核とし労働者階級の思想とその指導的役割をしっかりと保ちつつ、人民各階層の愛国的な先進分子を党に受け入れ、党を大衆的に拡大強化しなければなりません」(『党組織の組織活動におけるいくつかの欠陥について』1951年11月1日)

 党を大衆的政党に発展させることは、朝鮮労働党の一貫した組織路線であり、戦時の状況はその徹底した貫徹を求めていた。多くの党員が前線で戦っており、また一時的後退期にかなりの党員が犠牲になった反面、厳しい戦争のなかで多数の先進分子が成長している状況のもとで、かれらを適時に入党させ党勢をたえず拡大してはじめて、党の戦闘力を高め、党と大衆とのつながりを強化し、勤労大衆を戦争の勝利へと奮起させることができるのであった。

 主席は、関門主義的傾向は労働党の建設原則に根本的に反するものであると指摘し、労働者、農民、軍人、勤労インテリの先進分子をためらうことなく党に受け入れ、労働党を大衆的政党として発展させていかなければならないと強調した。特に、勤労農民を多数入党させれば党が農民の党になるという教条主義的見解を批判し、農民出身が多くなっても、党の性格は変わらないと強調した。

 党の性格はなによりも、党の指導思想と闘争目的、組織原則によって規定される。主席の革命思想、チュチェ思想を指導思想とし、主席の正しい指導があり、主席によって育成されたチュチェ型の革命家が党の中核となっている限り、農民出身が多くなっても党の性格が変わることはありえなかった。特に、農民が革命の主力として住民の圧倒的多数を占める朝鮮の社会経済的条件を考慮せず、労働者の比率の低下を恐れて勤労農民を入党させないならば、労働党は真の大衆的政党に発展することも、大衆のあいだで指導的役割を十分に果たすことも望めなかった。したがって、朝鮮労働党の特性と朝鮮の社会・階級関係を考慮することなく、外国の党の出身階級の比率を機械的に模倣する教条主義的・事大主義的見解は、党と革命の発展に極めて有害であった。

 主席は、党勢拡大に力を入れると言って、これを突貫式におこなうとか、誰でも党に受け入れるのではなく、党の規約にもとづき、個別的入党の手続きを厳守すべきであると強調した。

 主席はまた、懲罰主義的傾向を一掃し、党内に自発的な規律を確立すべきであると指摘した。

 主席は、党の処分の目的は党員を教育し、二度と誤りをおかさないようにすることにあるとし、不当な処分や過重な処分は取り消すか是正し、処分を受けたのち熱心に活動している党員にたいしては速やかに処分を解くべきであると指摘した。そして、党の規律を確立するためには、党員の政治意識水準を高め、党の規律を自発的に守るようにしなければならないと強調した。

 主席は次に、多くの中核的党員が前線で戦っており、一部のアクチブ党員が一時的後退の時期に犠牲となり、今後、党勢が急速に拡大する状況下にあって、党細胞の中核分子を育成する活動に特別な関心を払わなければならないと指摘した。また、細胞の中核分子を育てるためには、党中央委員会と道党委員会の幹部が初級党組織に出向いて、委員やアクチブ党員を助け、かれらの政治理論水準と実務能力を高めなければならないと強調した。

 主席は、祖国統一民主主義戦線を強化する課題を示し、そのためには、極左的偏向を克服し、友党の党員、特にその下層大衆および各階層大衆との緊密な連係を保ち、かれらを政治・経済・文化活動に極力参加させて労働党の影響力を強め、広範な大衆が戦争の勝利のために積極的にたたかうようにすべきであると指摘した。

 主席は、党の組織活動と統一戦線運動における欠陥の主な原因の一つが一部の活動家の官僚主義的・形式主義的活動作風にあるとし、これを一掃するための全党的闘争を展開すべきであると強調した。

 主席の報告と結語は、党の隊列を組織的に瓦解させようとした清算主義的傾向を克服し、党を組織的、思想的に強化し、党の大衆指導活動で画期的な転機をもたらした綱領的指針であった。

 主席は党中央委員会第四回総会後、党の組織活動における極左的偏向を克服し、党の隊列を強化し、広範な人民大衆を党のまわりに結集する活動を力強くおし進めた。

 主席は、前線と後方で愛国的熱意と献身性を発揮し、英雄的にたたかった数十万の先進的な労働者、農民、軍人、勤労インテリを党に受け入れて、党を一年間に百万の大部隊に成長させた。そして間違った党処分は是正するか、取り消すか、解除して党員の積極性と創意性を高め、党の思想教育を強化し細胞の中核分子を育成する活動を強く進めて、党を組織的、思想的に強化する措置を講じた。

 主席はまた、友党にたいする労働党の影響力を強化し、各階層大衆との活動をおし進めて労働党への人民の支持と信頼を深め、広範な大衆を党のまわりにかたく結集した。

 主席は、特に党と人民との結びつきを強めるために、反官僚主義闘争を力強く進めた。

 主席は1952年2月、道・市・郡人民委員会委員長および党幹部連席会議でおこなった『現段階における地方政権機関の任務と役割』と題する演説のなかで、人民政権の性格と任務を全面的に明らかにし、官僚主義に反対する闘争を力強くくりひろげるよう強調した。

 金日成主席は、次のように述べている。

 「(略)日本帝国主義思想および古い封建思想の残りかすとたたかい、そのあらわれである官僚主義的な活動作風とたたかわなければなりません」(『現段階における地方政権機関の任務と役割』1952年2月1日)

 官僚主義は、搾取社会において支配階級が絶対多数の人民大衆を抑圧するためにおこなう反人民的支配方法であり、人民が国家の主人となった共和国の制度のもとでは絶対に容認しえないものであった。特に、戦時下に活動家が、官僚的に行動するならば大衆の自発的熱意と創意性を抑制し、かれらを戦争勝利のたたかいに立ちあがらせることは望めなかった。

 主席は、活動家の官僚主義的な作風とその弊害を厳しく批判し、活動家は人民に依拠して活動し、その利益を重んじ、人民に命令すべきでなく、説得、教育し、常に人民に学び誠心誠意人民のために奉仕する人民の忠僕とならなければならないと強制した。

 主席の2月演説は、官僚主義に反対し、革命的大衆観点と人民的活動作風を確立するうえで活動家の指導指針となった。

 主席は連席会議後、活動家の官僚主義的活動作風を克服するため、思想教育と思想闘争を強くおし進めると同時に、活動家の政治・実務水準と指導能力を高める対策を講じた。その結果、活動家のあいだで革命的活動方法と人民的活動作風が確立し、党と大衆との結びつきが強まった。

 主席は、戦争の長期化にともなって人民軍の戦闘力を全面的に強化する革命的な対策を講じた。

 金日成主席は、次のように述べている。

 「将来、決定的局面にいたって完全な勝利を達成するためには、なによりも人民軍を軍事技術的に政治的、思想的に強化する問題が極めて重要です。これが、こんにちにおける我が党中央委員会と政府の基本的方針であります」(『人民軍空軍を強化しよう』1952年6月20日)

 主席は、人民軍の政治的・思想的強化に深い関心を払った。1952年7月、党中央委員会政治委員会で、人民軍内の党組織と政治機関の役割を高め、軍人のあいだで党生活を強化し、党性を鍛える重要な措置を講じた。そして、軍隊内の思想教育活動における教条主義的・事大主義的傾向を克服し、思想教育活動を朝鮮の実情に合わせて進めるようにはかった。

 主席は、人民軍の軍事技術的強化にも力を入れた。現代戦の要請にかなうよう指揮官の資質と指揮能力を高めるため各級軍事学校と講習所を新設拡張し、新しい指揮幹部と政治幹部を大量に養成し、現職活動家の再教育をおこなう措置がとられ、また人民軍の基本戦闘単位である中隊を強化するため、1952年初頭から模範中隊創造運動が展開された。

 そして、砲兵火力が増強され、歩兵の自動兵器火力の比重が高められて1952年には、各歩兵師団の火力は前年に比べ160%に高められた。それとならんで空軍の兵力が増強され、その装備は新鋭機で改善され、アメリカ帝国主義の「空の戦略」に対応する万全の準備がととのえられた。その結果、人民軍の戦闘力は非常に高まり、軍事活動をさらに積極的に展開することができるようになった。

 主席の指導のもとに、前線部隊は1952年の秋から堅固な坑道体系に依拠する大規模な作戦を次々に展開して、敵に大きな打撃を加え、ぬきさしならない窮地に追いこんだ。





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